常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2012年11月14日水曜日
常態行動心理学から見た行動原理の不思議について
行動心理学(behavior psychology) は行動からその人の心を読み取る方法と心からその人の行動を探る方法の二種類がある。
心の動きが行動に出て行動の変化が心の変化となって出る。
我が常態行動心理学はそれを常態行動心理学(日常生活における無意識行動)に求め研究し原因を特定し心の病を改善完治する学問である。
実は昨日面白い場面に出くわした、登場人物は二人。
私の市内のセラピールームとして使っている山口グランドホテルの受付嬢とクリスチャンで英語講師の『聞き屋』という所謂愚痴聞きを路上でやっておられるある某嬢。
前者は所謂”可愛い系キャラ”であり後者は”ボケキャラ”である。
だが前出の通りそれは”キャラ”であり御本人が演じておられる物。
実際の中身は”可愛い系キャラ”でも”ボケキャラ”でもない。
前者の方はセクシー艶女系で後者はハリウッド女優ばりのできる女系である。だがそれは彼女達の様相からはとても想像ができる物ではない。
だがそれを私は会ったその日に何れの方も見抜き度肝を抜かれた。
では彼女達の何処を見てそれを判断したのか?
それこそが”常態行動心理学”の妙であり醍醐味である。
意識は上層、中層、下層の三層に分かれている事は既出である。
この場合注目すべきは下層と上層意識の二つ。
”演じているキャラ”は上層意識の領域。
”実際の立ち居振る舞い”は下層意識の領域。
そしてこの”常態行動”には”下層意識”が反映されやすい性質を持っている。だがその表出方法は何も大きく異なる。
前出の受付嬢の場合それは”リップメイク”に現れていた。
他の受付嬢が業務の関係上からか割と大人しめであるに反して艶やかで鮮やかな発色が多くそこだけが”可愛い系キャラ”とは相反していた。
後出の英語講師の場合それは”トイレに立つ時の足の運び方”に現れていた。いつもは明るくオーバーリアクションの彼女だが歩く時の歩き方はとても落ち着きがあり下を向いて”素の自分”に戻っていた。尚且つ顔は下を向きその顔には笑顔がなかった。
本当に彼女達のキャラが”本物のキャラ”であるならば既出のような行動にはならぬ筈である。だがやはり”演じているキャラ”と”自らが求めるキャラ”の違いは必ず”立ち居振る舞い”に出る。
今回は”肉体的身体的行動”のお話だったが実は”表出方法”は”ボディーアクション”だけではない。
”書く文字”や”紡ぐ文章””選ぶアイテム”にもその人の立ち居振る舞い”求めるキャラ”のキャラクター性は思い切り現れている。
”常態行動心理学”はこうした”日常生活の裏に隠れた普段の日常生活では中々気づけない行動原理”から”心の中の真実”を見つけ出し其処から”心の病の根本原因”を探り除去する為の我が1000を超えるオリジナル理論の内のメイン心理学である。
『その物を欲せんとするなばらそれを欲せんとせぬ事である』
マリッジブルーという言葉がある結婚前鬱と略される事があるが環境が変わる花嫁がその不安を増大させ鬱病のような症状を訴える物。
翻り最近新たなブルーが発見された。
『クリスマスブルー』誤解なきよう申し上げておくが『ブルークリスマス』ではありませんw
正確には『イベントブルー』と呼ぶのであるが特にこの時期は『クリスマスブルー』と呼ばれる事の方が多い。
実は私も嘗てこの病?に罹患した事がある。
クリスマス時期になると何処も彼処もカップルや親子連れで一杯となりシングルである人は取り残され社会から隔絶されたように思われる。
既に二十年以上昔となるがカップルで一杯の歩道に軽トラが突っ込んで十数名が重軽傷を負った事件があった。
浪人中の受験生で彼女も無くカップルを見ていると無性に腹が立って軽トラを借りてきてカップルの輪の中に突っ込んだのだと言う。
既にこの頃から『クリスマスブルー』は存在していたがその頃はさして話題にもならなかった。
クリスマスやバレンタインデーは企業がその販売戦略の為に設けたイベントでありイベント自体にさしたる意味はない。
寧ろそんな企業が自らの売上を伸ばす為だけのイベントにまんまと載せられ売り上げに貢献する事は正直如何なものか?といつも思う。
我々は記念日が12・14である事も手伝いその日にクリスマスイベントも兼ねてお祝いをしている為にイブもクリスマスも大人しく過ごしている。
元々二人とも人ごみやイベント等お祭り騒ぎが苦手な方である。
人ごみに酔う体質なので余り人ごみが多い所は避けて通りたい。
そして昨今そういうカップルが急増しホームクリスマスなる屋内型イベントが増えてそういうイベントグッズも売れているそうな。
この時期飲食店や宝飾店は稼ぎ時なので随分とこの風潮に異議を唱え各社様々な方策を講じておられるらしい。
されどそれもこの不景気風に圧され気味で敗色濃厚とは当事者の弁。
今年はバレンタインデーも例年程には盛り上がらなかったという。
一常態行動心理学者としては喜ばしい傾向であると言わざるを得ない。
人が人たり得るのは互いに支え合い助け合う事にある。
其処にカップルであったり近距離であったりという要素は必要ない。
制度上の夫婦や形だけのカップルであるより遠距離で形式上そうでないとしても心が繋がっている方がより心の距離は近くに感じる物である。
翻れば幾ら息のかかる距離に居ても心が離れていたら地球の裏側に存在しているのと同義である。
まして人は一人で生まれ一人で死んで行く生き物である。
どんなに絆が強くとも同じ日に同じ様に死ねる訳ではない。
後追い自殺をしたとしても同じ場所にはいけぬ。
自殺者の霊は地縛霊となり現世を未来永劫彷徨い成仏は叶わぬ。
本当に結ばれたいと欲するならば来世での逢瀬を願うべきである。
今一度言う、『イベントブルー』に心を奪われてはなりません。
年中イベントに人が皆参加している訳ではありません。
あくまでも企業戦略の一貫であり金儲けの為の手段にすぎません。
決してそのような下世話な物に惑わされないようにしましょう。
何より貴方が貴方らしくある事が一番大事です。
どうか貴方らしさだけは失わないで下さい。
2012年11月12日月曜日
人は必ず自らがなりたい者になれる。
『変身願望』と言うと女性の専売特許のように思えるが実はその願望は女性より男性の方が強い。
生物学的に恒温動物たる人間は変温動物と比べ変化に弱い。
変化に弱いという事は逆を言えば変化に憧れる性質を持っている。
別項で述べた『意外性の心理学』のように人が人の意外性に惹かれ引くのと同義である。
肉体的、運動的に男性より劣る女性は自らの見た目を変える事でその能力を補っている。
実は此処にも常態行動の妙が隠されている。
メイクや衣装で女性の性格迄変わる人がいる。
先に述べた『変身願望』が表に出たケースだがそれが『願望』である限りその人の内に内包されている物であり普段表に出ないだけであってその人の内にはちゃんと存在している人格である。
それが鏡の前に立ち視覚的に自らの変化を捉える事で自らが憧れている存在と同期し言動や態度まで変わってしまうという訳である。
男性の場合これはアルコールが入った時によく現れる。
男性の場合女性のように服装やメイクで自らを変える事は社会的制度的に難しい。だがそれゆえに変身願望は女性のそれよりもかなり強い。
そういう時男性はお酒の力を借りてその自らの秘めたる願望を果たす。
酒に酔うと人が変わる人がいるがそう言う人程変身願望が強い。
裏を返せば今の主人格に不満を持ち自信を持てないで居る。
まだお酒に逃げられる内は良いがそれが段々逃げられなくなってくる。
そうなるとどんどん酒量が増え結果アルコール依存症へと発展する。
アルコール依存症が離人症や廃人になる理由は実は此処にも有る。
何も変身願望を満たすのはアルコールだけではない。
買い物依存症やギャンブル依存症、薬物依存も又同じ変身願望からその端を発している。現状に不満を持ち現状打開を望むも叶わず現実逃避し夢の中で変身願望を果たす為に酒やギャンブルや買物などに逃避する。
されど今一度思い出して欲しい。
人の夢が夢たり得るのはそれが実現可能だからである。
人の夢が実現たり得ない物は夢たり得ない。
夢たり得る時点でそれは実現可能な物である。
という事は夢を持てる時点で現実逃避せずともよいという事になる。
我が門を叩く人の多くはその事に気づかれずお心を煩われ悩み苦しむ。
されどそれが分かってくると今度はその方策に悩み苦しむ。
その手助けを差し上げ夢に実現へ向けそして依存症脱却へ向けて邁進させ実現させ見事変身させる事こそ我が使命である。
人は必ず自らがなりたい者になれる。
私は小さい頃正義の味方に憧れキン肉マンに憧れた。
時流れて現代私は悪と戦う正義の味方となる事ができた。
悪(心の闇)を倒す事が出来る正義の味方に…。
2012年11月11日日曜日
『手料理』の旨さはその腕ではなく方位性にありw
先の『八方美人』にも若干の関係があるのだが実は『手料理』には方向性がある。
この場合の『手料理』とは企業が不特定多数を対象とした商品的な『手料理』の事を指すのではなく母や妻や恋人等特定の人が特定の人を想定して作られた物を指す事を最初に明言しておきます。
所謂企業向けの『手料理』は実際には『手料理風』でありその実は機械が作っているのは既知の事。よしんばその工程内に手作業が含まれていたとしても『手料理』とはとても言える代物ではない。
『手料理』が『手料理』たるはその方位生が限定された物のみである。
つまり『食べて欲しい人』が限られている場合に限定される。
それは『愛情の方向性』に関係がある。
既に別項で述べているように『愛情』には『方向性』がある。
よく親が子供に対して『私がこんなに愛情を持って育てているのに何で貴方はそれが解らないの?!』と子を詰る親がいるが私から言わせれば愚の骨頂であり甚だ馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
『愛情』の方向が違っているのにそれを幾ら傾けた所で子供がいない方向に『愛情』を幾ら注いでもそれは雲散霧消し全くの無意味である。
殆どの場合『親の愛情を汲み取れない子供』のケースは親の『愛情を傾ける方向間違い』である事が大半である。
子供は未成熟であり自らが『親の愛情の方向』を見定められる訳ではないのでそこは年長者である親がきちんと『愛情の方向性』をしっかりと見定めて愛情を注いで行かねばならない。
それを怠るは親としての資質の問題であり親たりえない。
話を元に戻そう。
『手料理』の元は『愛する人に私の料理を食べて貰いたい』という思いからでありその『愛情』には方位性があり方位は定まっている。
当然方位が決まっていれば目標は定めやすい。
『愛情』の隠し味がこれに加われば不味い筈が無い。
双方向的でなく一方通行的偏愛でない限りそれを不味いとするのは味覚障害と言わざるを得ない。或いはお心に何か問題があるかである。
どんな一流シェフの最高級食材を使った料理にも負けない物。
それこそが方位性を正しくした『手料理』であると私は確信する。
私は母が作る、そして愛方が作る『手料理』は世界一だと断言できる。
きっと多くの『手料理』を戴いている方々もそうだと信じている。
『八方美人』が『八方美人』ではない常態行動心理学的根拠
『八方美人』が『八方美人』たるには実は条件がある。
先ず読んで字の如く『八方向』この場合正確には全方位的方向に人がいなければいけないという事。
更にその行為が『八方美人』だと認識されなくてはいけないという事。
この二点が揃って始めて『八方美人』は『八方美人』たりえるのである。
だが此処で実は最大矛盾が発生する。
『八方美人』が本当に『八方美人』なれば何故その人の周りに人が全方位的に存在するのか?
もし『八方美人』を否とするならば全方位的に人がいないのではないか?
全方位的に人が配置されている時点でその人は『八方美人』ではないのではないか?
よしんば敢えて人がいる場所を選んだとしてもその人を好まなければ人は移動しやはり『八方美人』は成立しなくなる。
今ひとつの矛盾。
それは『八方美人』を『八方美人』と認識する人の存在。
何故その人は『八方美人』だとその人の行為を認識したのか?
それはその人自身が『八方美人』ではないからではないか?
もしもそれを『八方美人』だと認識した人自身が『八方美人』であった場合その行為を『八方美人』とは認識できなかった筈である。
人間は生物学的生存欲求により自らよりも優れた能力を持つ者を攻撃しその能力を貶め自らの生存率をあげようとする本能が生まれ持って備わっている。
そう考えると『八方美人』も或いは生物学的生存欲求が成せる自己防衛本能でありそれは人が生物である限り当然の事とせねばならぬのではないかと考える。
翻り考えれば『八方美人』の周りにいる『八方美人』ではない人達は『八方美人』の人よりも増益を得ていない訳だから損益を蒙っている訳で当然『八方美人』を揶揄しそれを遠ざけなければいけない訳である。
そうなると『八方美人』も結構大変だという事になる。
案外『八方美人』も大変なのである。
2012年11月9日金曜日
『凶器』が『凶器』たり得るのはそれを持つ者が『狂気』である時のみである。
『凶器』が『凶器』たり得るのはそれを扱う者が『狂気』である場合であり『凶器』を扱う者が『正気』であるならばそれは『凶器』にはならない。
『凶器』とは『凶々しい器を持ちし者』の意だからである。
『凶器』を持つ者全てが『狂気』である訳ではない。
寧ろ『正気』の者が『凶器』を持った時それを見た者がそれを『狂気』だと認識する事によって『狂気』となった結果『凶器』となるケースは決して少なくない。
私も嘗て『凶器』を持つ『正気』の人間を説得し『凶器』を下ろさせ更生させた事がある。
どうか『凶器』を持つ者を『狂気』にはしないであげて欲しい。
それは本人のみならずそれにより傷つき奪われる命を持つ者にまで影響が波及するのを防ぐ為である。
人々の『凶器』に対する異常な恐怖心が人を『狂気』にする事もあるのだという事をどうか覚えておいて欲しい。
2012年11月7日水曜日
心理学は分析学であり堆積論である、統計学や集積論ではない。
心理学は統計学ではなく分析学である。
叉、集積論ではなく堆積論である。
最大公約数的視点ではなく最小公倍数的視点でもって物事を分析し決して統計的な見方をしない。
他と自を比べるのではなく自と自を比べるのである。
他と自を比べても元が違うので精緻なデータは取れない。
自を掘り下げる事が大事。
多くの精神科医は集積論でものを言われるがそれは間違い。
同胞一人一人バックボーンが違うのにそれを十把一絡げで纏め上げまともな結果が得られる訳がない。
一人の同胞の過去を探り堆積された物の中にこそ真実が眠る。
その眠っている真実を掘り起こす作業こそ大事である。
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