2012年12月10日月曜日

”迷い”には実は種類がある。

以前当ウォールで”迷う時点で結果は出ています”というお話を差し上げました。 自分が絶対的に正しいと思う事は人は迷いを生じさせません。 つまり”迷う”時点でそれは”正しくない”という事でそれを実行する際にかなりのデメリットが生じる可能性があるというお話。 されど実は迷いには二種類有ります。 肯定的迷いと否定的迷い。 肯定的迷いとは例えばイケメンがずらりと並びどれでも一人選んで良いといわれる時の迷い。 否定的迷いはその逆。 ブサメンばかりが並びどうしても選ばないといけないという状況。 選びたいと思うか選ばないといけないと思うか。 能動的か受動的か。 その違いが同じ”迷い”でも結果が出ているか出ていないかに分かれます。 ”肯定的迷い”ならばどんどん悩みましょう、その事で脳の皺はより深くシナプスの伝達速度も上がります。 されど”否定的迷い”なればそれは即刻止めるべきです。 それは血中に河豚毒と呼ばれるテトロドトキシンの何十倍もの毒素を垂れ流し生命力を貶める愚行です。 どうせ悩むなら楽しく悩みましょう。

強い自己否定は強い自己顕示欲の隠れ蓑である。

どんなに家族の事を自分が物心付いて以降嫌っていても人が家族の悪口を言ったり自分が言った家族の悪口に同意をされるとそれを否定したくなる時がある。 例えばそれが恋人関係や友人関係であっても同じ。 これは心理学的に『生存欲求』が働くからである。 例えば家族。 家族の否定はそのままその構成員たる自分の否定に繋がる。 例えば恋人。 恋人の否定はそのままその恋人を選んだ自分の否定につながる。 これが友人であったとしても得られる結果は同じである。 自己否定は容認できても他者否定は容認できないのが人間が人間たる所以。 何故なら自己否定の中にはその奥に強い自己顕示欲が隠れているからである。 本当に自己を否定しているならば人は自らの否定を表には出さない。 何故ならそれを出す必要性が無いからである。 本当に自殺を企てている人が自殺を仄めかす行動をしないのと同じである。 人間はその行動に整合性がある場合それを表に敢えて出そうとはしない。 自己否定を見せる人は実は自己肯定を望んでいる人である。 それは願望が潜在意識的否定である事の裏返しである。 こうなりたいと願う人はその裏でそれが叶わない事を知っている。 もしもそれが叶う物なれば人はそれを願う事はしない。 それを願うという行為自体がそれ自体の否定行為である。 故に強い願望は強い否定と同じなのでその願いは中々叶えられないのである。 閑話休題 故に家族や友人や恋人を悪くいう人の口車に乗せられて下手に同意をするのは気をつけましょう。下手すると同意をした貴方自体を今度は嫌悪する対象とされてしまいます。 そういう時は敢えて否定を示しましょう。 そうする事でその人の否定が肯定に変わり貴方自身の評価も肯定的となるでしょう。 我が実体験より得た学びです(笑)(敢えて誰から学んだかは伏せておきます(爆))

2012年12月8日土曜日

人間が地球上で生き残る為に必要な事。

『理解』とは『理を解する』事。 そして『理』とは『ことわり』と読み『心の向き、在り方』を指す。 つまり『理解』とは『人の心の向き、在り方を解する』事です。 そしてこの『理解』とは生物学的に『生来型遺伝子的理解』と『学習型経験的理解』に分かれます。 『生来型遺伝子的理解』とは生まれ持った両親の遺伝子を引継ぎ更に生育環境の中で得た経験や知識によって得られる理解の事。 『学習型経験的理解』とは生育環境を離れ親元から自立し様々な外界の刺激を受け色々と経験をした上で得られる理解の事。 人間はこの二つの理解をその場その場で使い分けながら生きている。 されどそのバランスはとても難しく時に著しい偏りを見せる。 それは人間が理性と欲望と言う二律背反な物を心に同梱させている事に起因している。 それ故に人は悩み苦しみその中で選択し学習し理解を深めそして進化進歩し現在に至る。 されどそれは人間がこの地球上で地上の覇者として生き残る為の物。 生物学的に動物的共栄主義は生来人間には備わって居ない。 集団で事に当たるのはそれをする事でより効率的にものを処理し個を維持できるから。 この場合大事なのは集団ではなくそれが個の集合体であるという所である。 元々が集団である物と元々が個である物が集団となった物とでは考え方は全く異なる。 動物や魚類は元々集団で移動し集落を持ちそれは食料的依存性の高い集落でありそれがなくなると移動しという生活を営んでいる。 今でも遊牧民族はその風習を残しているが現代人の殆どは居を構え其処から移動せず居は移動させず食物を求めて人間自身が移動しそれを得て居に持ち帰る。 移動型住居の場合大事なのは住居を移動させる労働力でありそれは人との繋がりである。 されど定住型住居の場合必要なのは、定住を維持させる収入であり労働力ではない。 これが人間が群れではなく個で生活を営む最大の理由である。 共同生活を送っていても同じ屋根の下に住んでいても現代人は”個”である事を好む。 これが人間と動物の違いである。 地球が誕生し46億年以上が経過。 されどその中で人間が生まれて今までの歴史はほんの星の瞬き程度でしかない。 それ以外の地球史を作ってきたのは人類以外の生物である。 謂わば地球上で一番の新参者が地球で虚勢を張っているのと同じである。 最近の天変地異を見ているとそれをガイヤがお怒りのように見えてならない。 新参者は新参者らしく大人しくしていなさいと叱責を受けている気がする。 このまま人間が傍若無人なる振る舞いを止めず地球環境を壊し生態系を壊し続けたら最終的には地球にとって寄生虫と判断され淘汰されるのはもう目前であろう。 その前にその事に現代人は気づき全ての生き物との共存共栄の道を模索すべきだろう。 そう考えた時原発が不要である理由は一番理解が叶う事ではないかと思う。 本当に人間が生きる方法は原発を活かす事ではなく地球と共存共栄していく道を探す事。 それ以外に人間がこの地球で生き残る道はないと考える。

2012年12月3日月曜日

時差ぼけが時差ぼけでない常態行動心理学的根拠

所謂『時差ぼけ』は実は『時差』が原因ではない。 その原因は『常態行動』にある。 仕事であれプライベートであれ日本と海外とでは行動様式が違い五感から得られる情報も全く国内のそれとは異なる。 それが長時間であればある程その印象は強く”常態化”しやすくなる。 又、短期間でもその体験が今迄の経験を遥かに超える衝撃を与えた場合”強印象”として残り、長期滞在者と同じ脳の働きを見せる。 されど帰国すれば又、何時もの変わらぬルーティンワークが待っていて雑事に追われる日々が続く。 例えそれが仕事で海外へ行ったとしても関係者以外は見ず知らずの他人である。 日本の場合はそうは行かない。 関係者以外でもやはり何らかのコネクションは必ず存在する。 その煩わしさからの解放が終り又、柵の中に長く身を置かねばならなくなる。 それらの拒否感等と常態行動が合わさって誤動作を起こす。 もしそれが本当に『時差ぼけ』であるならば一切時計を置かない生活を送ってみるといい。 それが『時差ぼけ』である限り時計を身の回りに置かねば『時差』は存在せず『ボケぬ』筈である。 だが実際は常態行動により五感から得られる情報の格差からそれは起こる。 もちろん寒暖差や天候の違い等もその範疇である。 それを解消する方法は一つ。 国内でのストレスを逃がす方法を模索し海外である認識を強く持つ事。 それにより『時差ぼけ』は随分と解消されるはずである。 お試しあれ。

やっと時代が俺に着いてきた(笑)

『季節性情動障害』については既に『季節性疲労』という別名で数年前より公表している。 心理学会や医学会がやっと我が持論に追いついたかという感じ。 やはり日本の医学会及び心理学会は欧米諸国と比べると30年以上遅れている。 その大きな原因の一つが専門性に対する間違った考え方にあると私は考えている。 私の専門は心理学である。 だがこれも既知の通り私はそれ以外の学問についても広く浅く研究を続けている。 最近は生物学者も名乗れるよね?と周りから揶揄される程生物学には精通するようになった。 されど私の専門は飽く迄心理学。 他はその心理学を別角度から実証する為のデータ的扱いでしかない。 専門が専門たりえるのは他の専門との相違点類似性を示てこそが持論。 相違点ばかりを述べるのではなく類似性を其処に加える事でより専門性を高める事ができる。 西瓜をより甘くする振り塩に同じである。 閑話休題 海外の研究者の場合自らの研究分野の色をより鮮明にする為に他分野の研究分野にも手を出しその色をより濃くする研究を多く発表している。 それ故にとても視野が広く見識も深い。 専門性に特化するとは深さだけでなく私は広さも必要だと思う。 人間が五感で感じる”広さ”も拡幅だけでなく其処に”深さ”が加わる事でよりその”広さ”をリアルに感じる事ができる。 それは人間が空間存在論的に2Dではなく3Dで生きているからである。 されどその認識は人間のみ。 3D的見方ではない別の見方をしている他の生物も地球上には多く存在する。 温度で感知する生物にとっては深さや広さは無関係であるのと同義である。 地球上には人間だけが住んでいるのではない。 寧ろ人間以外の存在の方が遥かに多く長く存在している。 又、人間の五感が知覚出来ない存在も又、多く存在している。 それらの存在を否定し無いとすれば簡単だがそれでは説明が付かない場面が余りにも昨今は多すぎる。 寧ろそれらの存在を素直に認め畏敬の念を持ちながら生活をした方が遥かに心豊かに過ごせると私は考える。 この地球は人間だけの星に非ず。 その事を失念するべきではないと思う今日この頃である。

2012年12月2日日曜日

泣いて馬謖を斬る

最近あちらこちらで友録間のトラブルを目にします。 年末も近くなると色々と不安が頭を擡げ御心の安定を欠きそれが態度に言葉に出る人が多い。 そうなると友録を続けて行く事に疑問を覚える人も出てくる。 そして大抵の人が悩むのが『共通友録数』の問題。 この数が多ければ多い程『この人を切って他の共通友録に罵詈雑言言われてもなぁ』とそれがネックとなり中々その人を切れないという人は少なくないようです。 されどそこでよく考えて欲しい。 共通友録数と非共通友録数はどちらが多いですか? 恐らく非共通友録数の方が多い筈。 そして其れこそがその人を切らねばならぬ理由です。 私が今回友録解除したH氏も100名以上友録が被ってます。 H氏を切れば或いはその100名を敵に回すかもしれません。 けどよく考えて欲しい。 その100名を守らんが為に残りの私でいう数千の人間を危険に晒す事は正しい事だと言えるでしょうか? 私はそうは思わない。 その人を怪しいとしその人から何らかの被害を蒙っている場合或いは自分以外の人も同様の被害に遭い同様の悩みを持っているかもしれません。 されどそこで貴方が躊躇し友録を切らねばその同様の悩みを持つ人も同じ様にその人を切れずにいるのです。 逆を言えば貴方が勇気を持ってその人を切ればその勇気に押されて別の人もその人を切れるかもしれない。 過日私は此処でこのように書きました。 『貴方の一言が世界を救うかもしれない、或いは世界を壊すかもしれない』と。 同じ事を此処でもう一度言います。 『貴方の勇気ある行動が貴方の大切な人を守るかもしれない。貴方の小さな恐怖心が貴方の大切な人を危険に晒すかもしれない』と。 是非貴方だけでなく貴方の大切な人を守る為に今迷っている人がいるなら勇気ある決断をして欲しい。そして先にある不安をどうか払拭して下さい。 新たな気持ちで新年を迎えようではないですかw

『霊波動』の学術的根拠のお話

『霊波動』と言うと超心理学的な物が駄目な人には目を背けたくなる言葉である。 だがこの『霊波動』は実は科学的根拠の有る言葉だとするとどうであろうか? 例えばこの言葉を二つの言葉に分解してみよう。 『霊』と『波動』 この場合『霊』は取り敢えずはけといて問題は『波動』の方。 超心理学的なものが苦手な人でも『波動』と言う言葉自体は受け入れられる筈である。 例えばこれに『音』が付けば『音波』となり『電気』が付けば『電波』となる。 『波動』とは字面通り『波の動き』である。 人間の体はこの『波の動き』に結構左右されている。 女性に月に一度訪れる物は『潮の満ち引き』に左右されそれは月からの引力に関係がある。 お酒を発酵させる際クラシックを聞かせると良いお酒になると一時期持て囃されたあれも『音の振動』により発酵速度を早めるのが原因である。 心臓も波形だし殆どの検査も波形で示される。 『霊波動』はこれが『気配』に変わるだけの話。 例えば『反りが合う』『反りが合わない』と言う言い方に言い換える事もできる。 『霊格』とは『人格』と言い換える事も可能である。 もし『目に見えない物は信じられない』とするならば『空気』は見えますか? 『細菌』は肉眼で見えますか? 『ガン細胞』を肉眼で捉えられますか? そしてお腹の中の『新たな生命』を肉眼で捉える事が出来ますか? 『機械を通して見る事が可能な物』であったとしてもその『機械』を作ったのは人間です。 『不完全である人間』が作った物に『完璧』を求めるのは酷と言うもの。 その『機械が写し出す映像』が『真実の物』である証を示ますか? それを『真実の物』だと示せない以上それらは『超心理学的存在』と何らその価値は変わりません。案外食わず嫌いならぬ知らぬ嫌いという物も世の中には結構存在しています。 我々超心理学者はその『目に見えない不確かな物』を『目に見える学術的説明がつく存在』としそれらの誤解を解く努力を常続けています。 そして全人類がその存在を『在る』とした時それらは『存在』を始めて許されます。