日本人程”縁”と言う物を重んじる種族も恐らく世界に類を見ないのではないかと思う。
神社へ行きお賽銭を上げる際、15円(十分ご縁が有ります様に)、45円(始終ご縁が有ります様に)を入れた人は少なくない筈。
又、縁結びや縁切りの神を奉る神社も日本各地に有り未だ盛況を極めているとは知人の或る縁結びの神様を祭る神主さんの弁。
『縁の下の力持ち』とか『縁側』とか『縁談』とか『縁』が付く言葉がとても多く日常会話の中に含まれている事からもそれが伺える。
私自身亡父が何より大切にしていた座右の銘『一期一会』を踏襲し私も又、座右の銘とし肝に銘じている。
私は一度縁を結びし人を裏切る事は決してしない、と同時に自ら縁を切ってきた者と再び縁を結ぶ事は無い。
過日我が同胞が”一時の迷い”で友録を解除、勿論その事は存じていたが一切それを口にする事はなかった。
再度申請を頂戴したがそれもシカト、同胞は”私が友録を解除したのも申請を出したのも先生は知らない”と私を罵った。
私はこう返した”私がそれを知らないとでも?冗談じゃない、毎日友録の数はチェック済、誰が抜けたかも直ぐ解るさ。されど私は自ら縁を切った者に声を掛けるような事はしない、同じく一度縁を切りし者を改めて”家族”とするつもりはない”と言い放ち関係を絶った。
私にとって”縁を結ぶ”とはとても重要な意味を持つ、それは亡父の昔経験せし苦い思い出が有る為だ。
亡父の親友が亡父を裏切り共同で仕事をした際の儲けを全て持ち逃げした。
当時会社はバブル崩壊の波をまともに食らいどこも下請け会社は生き残りを掛けて必死であった。
亡父の親友もその一人で社員を食わしていく為やむをえない措置であったであろう事は理解する。
だが親友である父を裏切り金を持ち逃げした挙句裁判を起こしても出廷せずは余りと言えば余りであった。
その後彼は病に倒れ父よりも早くこの世を去った、善因善果悪因悪果とは良く言った物だと当時の父は彼を見てそう言っていた。
今でこそ冷静にこうして記せるようになったが当時は傾きかけていた会社を何とか元に戻そうとした矢先の出来事故一家離散の危機に瀕していた。
一時は生活保護 を受けねばならなくなるかもという所まで追い込まれ生活は極貧となり食うや食わずの日々が続いた。
父の余りの人の良さに母は半ば呆れ父自身自分の甘さにほ とほと嫌気が差していたと思う。
されど私はそんな真直ぐな父を尊敬しそんな父の為懸命に家計をやりくりし支えた母を誇りに思う。
子供達三人も誰一人悪の道に走る事無く会社を支えんと一丸となりそれがより会社の結束力を高め難局を乗り切る事ができた。
残された従業員方々も給料を払えない月も有ったが今まで社長に受けたご恩を返したいと不平不満を言わず働いて下さった。
その時私は改めて父の子である事を誇りに思い何としても父の顔に泥を塗るような真似だけはすまいと心に決めた。
あれから既に20年以上が経過、既に父はこの世に無く父が残した会社も兄が代替わりとなり規模は随分と小さくなりしも、
未だ父の頃の御贔屓さんが仕事を持ってきてくれこの不況風が吹き荒れる中業績不振とならずに済んでいる。
それもこれも全ては父が”人と人との縁”を何よりも大切にし大事に思ってきたからであると思う。
地元では父の名を知らぬ者は無く又建築業界に於いても父の名を未だ覚えて下さっている方は少なくない。
皆、一様に”社長は素晴らしい人でした”と言って下さり何処へ行っても父の苦言を聞いた事は一度も無い。
社長職に有りながら誰に対しても頭を低くし礼を尽くし人に対する情けを誰よりも尊んだ人であった。
私のような未熟者が父の真似等出来る筈も無いが父の子としてこれからも人様に背を向けるような事だけはしたくないと思う。
何時か父の墓前に立った時、”成長したな”と言って貰える様これからも精進を重ねていく所存である。
神社へ行きお賽銭を上げる際、15円(十分ご縁が有ります様に)、45円(始終ご縁が有ります様に)を入れた人は少なくない筈。
又、縁結びや縁切りの神を奉る神社も日本各地に有り未だ盛況を極めているとは知人の或る縁結びの神様を祭る神主さんの弁。
『縁の下の力持ち』とか『縁側』とか『縁談』とか『縁』が付く言葉がとても多く日常会話の中に含まれている事からもそれが伺える。
私自身亡父が何より大切にしていた座右の銘『一期一会』を踏襲し私も又、座右の銘とし肝に銘じている。
私は一度縁を結びし人を裏切る事は決してしない、と同時に自ら縁を切ってきた者と再び縁を結ぶ事は無い。
過日我が同胞が”一時の迷い”で友録を解除、勿論その事は存じていたが一切それを口にする事はなかった。
再度申請を頂戴したがそれもシカト、同胞は”私が友録を解除したのも申請を出したのも先生は知らない”と私を罵った。
私はこう返した”私がそれを知らないとでも?冗談じゃない、毎日友録の数はチェック済、誰が抜けたかも直ぐ解るさ。されど私は自ら縁を切った者に声を掛けるような事はしない、同じく一度縁を切りし者を改めて”家族”とするつもりはない”と言い放ち関係を絶った。
私にとって”縁を結ぶ”とはとても重要な意味を持つ、それは亡父の昔経験せし苦い思い出が有る為だ。
亡父の親友が亡父を裏切り共同で仕事をした際の儲けを全て持ち逃げした。
当時会社はバブル崩壊の波をまともに食らいどこも下請け会社は生き残りを掛けて必死であった。
亡父の親友もその一人で社員を食わしていく為やむをえない措置であったであろう事は理解する。
だが親友である父を裏切り金を持ち逃げした挙句裁判を起こしても出廷せずは余りと言えば余りであった。
その後彼は病に倒れ父よりも早くこの世を去った、善因善果悪因悪果とは良く言った物だと当時の父は彼を見てそう言っていた。
今でこそ冷静にこうして記せるようになったが当時は傾きかけていた会社を何とか元に戻そうとした矢先の出来事故一家離散の危機に瀕していた。
一時は生活保護 を受けねばならなくなるかもという所まで追い込まれ生活は極貧となり食うや食わずの日々が続いた。
父の余りの人の良さに母は半ば呆れ父自身自分の甘さにほ とほと嫌気が差していたと思う。
されど私はそんな真直ぐな父を尊敬しそんな父の為懸命に家計をやりくりし支えた母を誇りに思う。
子供達三人も誰一人悪の道に走る事無く会社を支えんと一丸となりそれがより会社の結束力を高め難局を乗り切る事ができた。
残された従業員方々も給料を払えない月も有ったが今まで社長に受けたご恩を返したいと不平不満を言わず働いて下さった。
その時私は改めて父の子である事を誇りに思い何としても父の顔に泥を塗るような真似だけはすまいと心に決めた。
あれから既に20年以上が経過、既に父はこの世に無く父が残した会社も兄が代替わりとなり規模は随分と小さくなりしも、
未だ父の頃の御贔屓さんが仕事を持ってきてくれこの不況風が吹き荒れる中業績不振とならずに済んでいる。
それもこれも全ては父が”人と人との縁”を何よりも大切にし大事に思ってきたからであると思う。
地元では父の名を知らぬ者は無く又建築業界に於いても父の名を未だ覚えて下さっている方は少なくない。
皆、一様に”社長は素晴らしい人でした”と言って下さり何処へ行っても父の苦言を聞いた事は一度も無い。
社長職に有りながら誰に対しても頭を低くし礼を尽くし人に対する情けを誰よりも尊んだ人であった。
私のような未熟者が父の真似等出来る筈も無いが父の子としてこれからも人様に背を向けるような事だけはしたくないと思う。
何時か父の墓前に立った時、”成長したな”と言って貰える様これからも精進を重ねていく所存である。
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