2013年5月31日金曜日

常態行動自己選択喪失論について

『常態行動自己選択喪失論』とは我が2000を超えるオリジナル理論の内の一つ。

人が他人の不幸を喜ぶのはその人の幸が喪失されればその喪失された幸福が自分に与えられるチャンスを期待するからである。

されど人間が一生の内に得られる幸不幸は生前より決まっていて大体臨終の時には相殺されるようにできている。

人の不幸を喜ぶのは潜在意識学的には不幸自体を喜ぶ愚行である。
それはつまり自らに不幸を呼び込む事になるからである。

潜在意識は望む物をそれを望む者に与える以外に考える事をしない。
つまり人の不幸を喜ぶ人は潜在意識は不幸自体を喜ぶ人だと認識をします。

故に人の不幸を喜ぶ人は自らも又、不幸を呼び寄せているという事になります。

更に言えばお金持ちや有名人を妬む行為はお金や知名度自体を妬む事と同じ愚行。
されば潜在意識はお金や知名度をその人から遠ざけてしまいます。

本当にお金や知名度を望むのであるならば先ずそれらを得ている人を妬まない事。
その心の余裕が出来上がればその人に望む物は手に入っている筈です。

私は私が望む物を(人を)既に手に入れて居ます。
それはそれを持っている人の幸福を願い決して妬まなかったから。

されど経済的には一向に安定しません(笑)
やはりまだまだお金持ちに対する嫉妬心が止まないからでしょうw

まだまだ修行不足ですね。

選択の心理学〜或いはやりたい事をやれるようにする心理学〜


やりたい事ができない人の多くは躊躇型の人です。

資格があるのかとか、誰かに迷惑が掛かるんじゃないかとか余計な事を考えてしまう。

されど人間は生きているだけで迷惑を掛けています。

人の酸素を奪い人に二酸化炭素を撒き散らしている。

それだけで十分迷惑を周りに掛けているのですからそれ以上は無いんです。
でも同じ様に人から酸素を奪われ人から二酸化炭素を撒き散らされている。

選択も同じ。

自分が何かを選択した時、その瞬間からその選択はその人以外には使えない物になる。

自分が大根を買ったとしよう、その瞬間自分が買った大根は他の人は二度と買えない。
されど同じ瞬間、貴方が買う筈だった醤油は誰かに先に買われ買う事が叶わなかった。

結局それらは全て目に見えない何らかの相殺されているものなんです。

自分が幸福を得た瞬間誰かが不幸を蒙っている。
逆を言えば自分が不幸を得た時は誰かが幸福を得ている。

そういう微妙なバランスの上に人の一生は成り立っているのだと思います。
ならば”貴方自身”を思い切り生きた方が良いではありませんか。

貴方が貴方らしく生きる事で誰かが自分らしく生きられないかもしれない。
されど貴方が貴方らしく生きる事で貴方の側にいる人に幸せを与えているかもしれない。

だからこそ”今”を真剣に生きる必要があると思うのです。

そのお手伝いを我々はさせて貰っています。

演繹法的問題解決法

『自分が何をしたら良いか解らない』とする人がいる。

されど『自分が何をしたら良いか解らない』という事をちゃんと理解をしている。
本当に『自分が何をしたら良いか解らない』人はその発想すら湧いてこない。

『自分が何をしたら良いか解らない』とする人の多くはそれを頭で考えるからそれを理解できな人が多い。多くは理系人間や理詰めで物事を考える人に多い傾向にある。

そういう時はシンプルに”今自分が欲する所”に正直にフォーカスするとよい。
目を閉じて目の前に浮かぶ物、それが今貴方が”したい事”の一つです。

その”したい事”の一つが解ればあとは簡単。

それを軸にして其処から線を幾つも伸ばし関連が有る物を線で結んで行けばいい。
すると無限に”自分がしたい事”が浮かんできます。

心理学的演繹法です。

2013年5月29日水曜日

『労いの心理学〜或いはお疲れ様の心理学〜』


我が亡父は子供の教育にとても熱心な人で言葉ではなく態度で示す人であった。

今でもテーブルマナーは何処へ行っても恥ずかしくないマナーをできている。

これも亡父より厳しく幼少期より躾けられたお陰である。

多くの同胞と会食を共にする身となり又、セミナー等でも多くの来場者の方々とお食事を共にさせて戴く事もありその際にとても役立っている。

”礼には礼を以て接すべし”というのもそんな亡父が残した”知の財産”の一つである。

何処へ行っても誰に会っても必ず”お疲れ様”と声を掛け、年長者には”お疲れ様でございます”と一礼し帽子を脱ぐこれも又、亡父より教わった事である。

随分前となるが駅の売店の販売員さんよりこんな言葉を頂戴した事がある。

”先生、先生の駅での評判ご存知ですか?先生はとても立派な方なのにとても礼儀正しくて頭の低い人徳者だって評判なんですよ”と

私は顔から火が出て慌ててその場を退散その日一日赤面していたという(笑)

私にとっては幼少期より染み付いた言わば習慣化された行為であり無意識行動の一つ。

私流に言えば”常態行動”の一つである、故にそういう好評家を頂戴しても心の置き場所に困るw人から蔑まれるのは慣れているが褒められるのは何年経っても慣れないものw

だが”人を労う”と言うのは、これで中々体力と気力を必要とする物である。

既に数年前となるが生存率二割と言われたガス壊疽に罹患し二週間ICUで命の危険に晒されその後三ヶ月に渡る長い入院生活を余儀無くさせられる事と成った。

入院数ヶ月前はずっと寝たきりで高熱が続き体力がギリギリ迄落ちやせ衰えていた。

食も喉を通らず水ばかり欲しがり体重も今の半分以下に落ちていた

流石にその頃は人から声を掛けられても挨拶を返す気力は私には残されていなかった。

挨拶をした相手も私の容体を見てしまったという顔をされる方も数名居られる程だった。

高が挨拶、されど又、挨拶である。

毎日たった一言、”お疲れ様”と言うこの一言を言うのにはそれなりの体力と気力が要る。

勿論私も人間なので会う人全てに挨拶をする訳ではない。

嘗て私を陥れた人間、陰で悪口をいう人間、侮蔑の表情をくれる人間には挨拶はしない。

それは私の中で彼ら彼女らに挨拶をする行為が自らが下位に置かれている気がするから。

私も結構器の小さい普通の人間なのである。

実は大変面白いのだがこの”挨拶をするしない、相手の労を労う労わない”は夫婦、親子、兄弟間でも存在する。

つまり”此方から先に挨拶や労いの言葉を掛けたら負け”とする考えの人もいるのだ。

到底私には理解が及ばぬ話だが色々と話を聞いているとどうもそういう傾向が見える。

特に実家が男尊女卑で男社会で育った御主人で亭主関白な人はそういう傾向が強い。

女系家族で女性上位で育ったかかあ天下で育った妻も同じくそういう傾向がある。

家庭は戦場ではない、家庭は唯一心置きなく安らげる場である筈である、本来は。

されど何故か知らぬが”妻には負けたくない、夫には負けたくない”とする人が居る。

そして年々そういう家族が増えているように我が目には思う。

一つには格差社会で女性の収入が男性の収入を上回って来た事も一つである。

一つには女性の社会進出により旦那よりも社会階層が高い妻が増えてきた事も一つ。

されど私は思う、それは本当に理由の一つなんだろうか?と。

私事で恐縮だが何処へ行っても私は”今の先生があるのは奥様のお陰です”と言われる。

私も”仰る通りでございます”と笑顔で答える(大抵その後姫君の反論があるのだがw)

私は実際多くの事で愛方には手間を取らせているし母にも手間を大きく掛けている。

その分私も出来る事は出来る以上にやるし何よりメンタル面でのカバーに関しては私以上に出来る物は居ないと自負をしている。

だが私は母や愛方にとても感謝をしているしだから労いの言葉を忘れない。

どんなに疲れていても”お疲れ様”の一言を欠かした事は一度もない。

それ故に10年以上経っても潤沢な人間関係を続けていられるのだと思う。

私は精神的充足感が其処には大きく関係していると思う。

職業柄精神的安定と充足感は常、感じていないとお仕事ができない人である。

精神的に余裕がない精神的に落ち着きがない心理職に診て貰いたいと思う同胞は居ない。

”武士は食わねど高楊枝”ではないけれど心では余裕がなくともそれを見せる事はできる。

それを見せる事が私は”男の意地であり誇り”だと思っている。

”俺は働いているんだ、一家の大黒柱なんだ”と威張り散らして何になるというのか?

そんなの態度に示さなくても家族も周囲も皆がちゃんと知っている

本当に一家の主だと示したいのなら威張るのではなく余裕で以て示して欲しい。

さすれば家族もそれを認め礼を尽くしてくれる筈である。

一家の主だから礼を尽くすのではなく礼を尽くすに足る人物だから礼を尽くすのである。

その辺りを変に誤解をしている御主人が多くそれが元で我が門を潜る家族が増えている。

もう少し一家の主としての意地と誇りを持って欲しいと切に願う物である。

2013年5月27日月曜日

価値観の流動性と変容性について


『価値観』と言う物は実はとても可変的な物であり流動的な物です

不動的で普遍的な物ではありません。

良く芸能人の離婚原因の一つである『価値観の違い』について『価値が同じの人間なんていない結局ワガママじゃん』と言われる向きがありますがそれも否定はしませんが肯定もできません。

『価値観』と言う物は得られる五感情報によって呆気なく変わります。

それは脳における”強印象”が原因です。

例えば宝くじで一等前後賞が当たり一夜にして大金を手にし生活習慣が変わったとしましょう。

住まいから着る服食べる物が変わると当然付き合う人の種類も変わってきます。

すると其処から得られる五感情報も変わってくるので考え方や容姿まで変わります。

良く『飼い主にペットが似る』という話がありますが実は逆。

飼い主がペットに段々似てくるのです、これは長年連れ添った夫婦が似るのと同義です。

我が元にも”価値観の違い”が原因で夫婦や恋人関係が破綻したカップルが多数来ます。

一方的な価値観の変容に相手が付いてゆけず門を叩かれるケースが急増しています。

それは時の流れの早さに人間の脳がついていけていない事と同義です。

されど人間ですから昨日と今日いきなり価値観が真逆になるという事はあり得ません。

先の大金を手にした人間でも一夜にして生活は変わっても中身は直ぐに変わらない。

問題なのはその中身の変化に周りが何時気付くか?という事です。

嘗ての同胞に珠に街で会います、”上手く行ってるね”っていうと大抵驚きます。

大抵の医療従事者は質問系で尋ねるのに私は断定系で尋ねるからです。

されど同胞の様子を具に観察していれば今の状態がどうであるかは直ぐ解ります。

解る事を一々質問形式にする必要もありませんw

まどろっこしいのは嫌いなんでw

これは夫婦恋人関係でも同じです。

いきなり価値観は変わらない、その変わって行く価値観に配偶者が気づくべきなのです。

そして配偶者の変わって行く価値観に気づき変える努力をしたカップルは元に戻ります。

其処に気づかないカップルは大抵破綻しています。

日本人的な古い考え方に『釣った魚には餌をやらない』というのがあります。

配偶者や恋人に対してこう言う物言いをする事自体私には不愉快極まりない。

されど実際にそれを実行している愚か者が多いのも又事実で
す。

大切なのはその後です、どんどん餌をやって太らせて美しくして行く事が大事。

それをそのまま放置しておいて逃げようと思ったら捕まえるなんてのは愚の骨頂。

そういうカップルには早々に別れる事をお勧めしています。

本当に逃したくないならば意識変容は絶対に必要です。

それをしないで何とかしようなんてのは虫が良すぎます。

私は常、その意味において私の関係者に気配り目配りは欠かして居ません。

本当に潤沢な人間関係を構築しようと思えばそれはして然るべきです。

もっと人間関係について特に日本人は真剣に考えていくべきだと思います。

2013年5月26日日曜日

タブーがタブーではない常態行動心理学的根拠

世の中にはタブーとされている物が多く存在しています。
不倫、同性愛、近親愛等。

そしてそれが元でお心を病まれる方も少なくありません。
自分は反社会的行為をしていると自らを恥じて自らの存在を否定される方が多い。

その結果我が門を叩かれる方も年々増えています。
されど我が門を潜り我が門を去る頃には今までの後ろめたさなど微塵も感じない喜色満面で去っていかれます。

私は上記行動を反社会的行為とは思いません。

同性愛に関しては自分の肉体的性とは異なる性ホルモンが生物学的に内在しておりそれにより肉体的精神的バランスを保っています。その量が他とは少し違うだけでそれがおかしいという理由にはなりません。

不倫もそうです。

本当に夫婦関係に満足しお互いがお互いを思い合い具に相手を観察していれば不倫は絶対におきません。
仮にそれが起きたとしても決して長続きはしないでしょう。

不倫が不倫として成立するのは日常生活から離れ別世界で生活をする刺激を人間が欲する為です。

それは五感情報のアップデートが原因でそれにより新たな刺激を得られるからです。
それも日常生活の五感情報の入手方法を変えれば毎日が刺激的な物になります。

されど制度上の配偶者に愛を感じなくなったのならばお互いがその原因を精査し改善すべきでしょう。

その価値を配偶者に見出せなくなったのならばその関係を続けて行く価値は有りません。その関係を破棄し新たな関係を築くべきです。

近親愛も同じです。

人間は生まれ持って所有欲があります。
それは生物学的に生物が等しく持っている欲望です。
その欲望が強いか弱いかだけの話です。

所有欲が強く愛情が通常よりも遥かに強ければ近親愛に至ったとしても何ら問題は有りません。

最も問題なのはそれを異常とする社会でありそれを異常だと認めてしまう自分自身にあります。我々はそれらの行為の正当性を解きそれらを容認した上で社会的に如何にすれば軋轢が少ない生活が送れるかを御指導させて頂いております。一度きりの人生ですからつまらない制度や風潮に流されては楽しくないじゃないですか。我々は一度きりの人生を如何に謳歌出来るかを主眼に入れてご指導を差し上げています。

2013年5月25日土曜日

『衝動的行動が衝動的行動でない常態行動心理学的根拠』



精神障害の加害者を弁護する際弁護士側が述べる常套句に”被告は当時心神喪失状態に有り”と有りますがあれは真っ赤な嘘です。

”心神喪失状態”にはそれに至る”理由”が有ります。
つまり”衝動的犯行”と言うのは”理由付け”がちゃんと可能なのです。

生物学的、心理学的、生態学的に行動には”生命維持の為”と言う”理由”が必ずあります。

無差別殺人も同じく自分以外の存在が全て敵に見えそれを排除する為の犯行です。
幼児や身障者や女性を狙うのも自分よりも弱い者を標的とする”理由”が有ります。

それは生物学的な生存欲求の観点から強い者だと生命維持が叶わないからです。
自分が直感的に脳が勝てると思った存在を狙うのは自分が生き残りたいからです。

これは極めて生物学的な生存本能が成せる業であり心神喪失ではありえない行動です。
つまり”心神喪失”とは加害者の人権を守る為に作られた仮の処置だと言う事です。

司法が自らの息のかからない専門家を雇わない一番の理由がそこに有ります。

私なら司法の”心理学的矛盾”を全て指摘し改善点をお示し出来ます。
と申し上げても司法からの御依頼は皆無でしょうけどね。

されど本当に司法が司法としての立場や信頼を確立しようと思うならばそれも必要。
私は一心理学者としてそのように考える物であります。

私の友録方々には弁護士や検事方々も多く居られます。
その方々は皆さん気骨ある熱血漢で正義に厚い方々です。

そういう方々がもっと表舞台で活躍出来る場を私は提供したいと願っています。
その為にももっと心理職を司法の現場に投入すべきだと私は考えます。

それは犯罪抑止にも繋がる行為であると確信をしています。

加害者も法の網目を潜れないと分かれば犯罪を犯そうとは思わない筈です。
『天網恢恢疎にして漏らさず』ならば犯罪者は必ず減ります。

真に犯罪発生率を抑えたいならばそういう事も検討されるべきだと思います。

2013年5月24日金曜日

『沈黙は金』の常態行動心理学的根拠


大学時代教授の地雷を踏んだ事がある(笑)

場所は学部塔、登場人物は私と外国人男性と学部長であった。

私は学部長が余りにも流暢な英語を使われる事にウットリし思わずこう申し上げた。

”英語お上手ですね”と、しかし学部長は苦笑いをしてその場を退席された。

その場に偶々居合わせが国語学の准教授に”馬鹿!学部長は英文課程の教授だ!wと叱責。

大恥をかいた事を今でもはっきりと覚えている(⌒-⌒; )

知らぬ事とは申せ英米文学の専門家に”英語お上手ですね”は流石にヤバかった。

『先達は何れの事にもあらまほしき事なり』とは徒然草の中の『仁和寺の法師』の末節。

本当にその通りだと私も思う。

私は言わずもがなだが心理学の専門家である、それは自他共に認知を得ている。

と同時にパソコンも30年以上扱っているしFBも日本上陸と粗同時期に加入している。

パソコンの事もFBの事も大体の事は熟知している。

随分前になるがその私に知人が地雷を踏んだw

FBの事で偶々”お前そんな事も知らないの?”と揶揄されたのだ
人には皆固有のやり方がありやり方が違う事を揶揄するのは賢明な行動とは言えぬ。

私はその場で一瞥をくれた後以降一切の口を閉ざす事で自らの過ちに気づかせた。

こういう人間には一々反論するよりも自らの愚行を沈黙で持って示すのが一番である。

知人はFBに入ってまだ日が浅いPC歴も私とは到底及びがつかない。

その人間が曲がりなりにも先達に向かって暴言を吐く事は賢明な行動ではない。

されどそれを怒りで以て訴えても”器の小さい奴”で終わり氏は反省を示さない。

氏に己の間違いに気づかせる為には普段多弁たる私が沈黙を守る事が一番である。

人に物を教えると言う事は何も言葉を掛ける事だけではない。
時には”沈黙”でもってそれを教えると言う方法もあるのだ。

先人は弟子に一切の言葉を掛けず自らの行動のみで指導をしていた

私は先人程達観しては居らぬが私も先人の教えを見習いたいと思う

『愛情』の常態行動心理学的掛け方


『愛情』とは『情けを愛する』と書きます。

この場合の『情け』とは『心』の事を示します。
つまり『愛情』とは『心を愛する』事です。

されど何度も此処で触れていますが『心』には『方向性』が有ります。
しかもその『方向性』は一定せず常か変的に動いています。

『愛情』とはその常可変的に変化していく『心の方向性』を見定める事なく与える事も受け取る事も出来ません。

過日もそんな『愛情下手』な彼氏が来院されました。

『私はこんなにも彼女の事を思い行動しているのにちっとも彼女はそれに気づいてくれない』と嘆かれたのです。

勿論これには逆のパターンもあります。

『私が貴方の為にどれだけ苦労したと思ってるのよ。けど貴方はそれを全く解っていない』と激怒する女性も少なく有りません。

されど一寸待って下さい。

先ほども触れましたが愛情には『方向性』が有ります。
そしてそれは『互いが重ねた年月』に比例しません寧ろ反比例の関係にあります。

何故か?答えは至極簡単です。

付き合い始めの頃は誰も嫌われたくないので具に相手の事を観察します。
それこそ相手の一挙手一投足が気になって仕方ありません。

それが注意力を増し観察力を増し結果『心の方向性』を正確に見定めやすくします。

されど経年によりお互いの行動パターンが読めてくるとその『心の方向性』を先読みし行動をするようになります。大抵の場合それは当たるのですが偶に外れる事もある。

これがまだ偶なら良いのですが回数が増えてくると段々と不安が増してくる。
すると上記のように”私は(俺は)こんなに貴方(お前)の事を愛しているのに”という自己弁護に走ります。

されどこの”自己弁護”に走った段階で二人の関係性の終焉は見え始めています。
付き合い始めの頃は”自己弁護”よりも”相手擁護”に走ります、嫌われたくないから。

されど経年により”相手が自分の一部”になってくると今度は”自愛精神”が芽生えます。
それは”相手が自分の中に居る”事の証拠なのですが如何にせん相手には見えない。

結果、”独り善がりのワガママ”にしか相手の目には写らなくなります。

それを相手のせいにするのは簡単ですがそれでは事態打開にはなりません。
そういう時は今一度自分の足元をちゃんと見て見ましょう。

そして自分の行動が”相手の為”という大義名分による”独り善がりの行動”になっていないか精査してみましょう。

案外愛情が冷めるカップルのパターンに多いのがこの”経年による愛情の独り善がり行動”である事が多いのです。

思い当たる節がある方は今一度自らの行動を振り返られてみては如何でしょうか?
まぁかくいう我々もそれは否めないのですけどね(⌒-⌒; )

『無意識的洗脳』の恐ろしさと『脱洗脳』の凄さについて常態行動心理学的に解析す


『洗脳』に於いて最も怖い事は何だか解りますか?

それは『洗脳』している側に『洗脳意識』が無い事です。

つまり『無意識的洗脳』を行っている人間が一番怖いのです。

私が嘗て扱った事案を例に御説明差し上げましょう。

同胞は20代の女性、一見キュートなイメージですが内面から溢れ出る艶は相当な物。

それを知ってか知らずかご両親は幼少の頃から徹底的に”女性らしさ”を排除したそう。

男の子と手を繋ぐ事は愚か一緒に遊ぶ事も同じクラスで隣同士に座る事も禁止。

教育委員会に圧力を掛けて娘の四方には女生徒を配するよう指示を出したのだとか。

勿論高校大学も女子校、女子大学でミッションスクール系お嬢様校

されど逆にそれが仇となりました。

ミッションスクール系お嬢様校とは名ばかりで大抵裏では男と遊び捲っています。

全寮制ですので両親は娘を安心して学校に預けたと思い安堵しています。

されど娘の方はやっと親から解放された開放感と周りの女に影響され夜遊びデビュー。

所が此処からが”洗脳”の恐ろしさ。

”体”は男性を求めているのに”心”が男性を拒否るのです。

所謂美人系ですから寄ってくる男は五万と居ます。

されど”いざ!”という時になると何時も逃げ腰になり恋愛が成立しません。

学生生活も残り僅かとなりこのままでは処女のまま卒業してしまうと焦った彼女は知人に伝で我が門を叩きました。

”洗脳”には”逆洗脳”するのが一番、所謂”ブレインストーミング”です。

私は事の仔細を聞き先ず”見た目”から変える事にしました。

人間一番脳に刺激が行くのが”視覚”を変える事です。

それで私はまず”露出度満点のセクシー衣装”を纏わせるよう指示を出しました。

勿論そんな服着た事も買った事も無い人ですから知人の女性にチョイスして貰いました。

最初は戸惑い拒絶感を示していましたが”一生処女のままで良いの?”と脅し実行。

すると明らかに”男性の視線”を嫌という程浴びるようになります

最初は赤面し外に出る事も躊躇って居ましたがこれも知人女性に連れ出して貰いました。

嫌がっていたのは最初だけ徐々に”見られる快感”を五感が覚えて行きました。

恥ずかしさと気持ち良さは実は表裏一体です。

恥ずかしいと思えば思う程快感も徐々に増して行きます。

そのままメイクも大人しめから目鼻くっきりのセクシー系にシフトさせて行きました。

そして喋り方も変えて行きました、鈴を転がすような可愛い声でしたが腹に力をいれて声を出させるようにしたのです。

すると声質も徐々に変わり声にも艶が出るようになってきました。

先程”見られる快感”を五感が覚えると書きましたが五感が覚えるのはそれだけに非ず。

衣装やメイクや声を変える事で視覚、聴覚、嗅覚、触覚等を変えて行きます。

五感を変えるのですから当然それが刺激となり脳へ伝達され長年の”洗脳”が解けて行き”逆洗脳”が段々と浸透して行きます。

すると今度は今迄の”お嬢様系”の自分を拒否るようになっていきます。

”今の自分”に満足をすると”今迄の自分”を今度は否定し始めるようになります。

そして見事卒業間際で”脱処女”を果たしそのまま”始めての人”と結ばれたのでした。

2013年5月22日水曜日

常態行動個性心理学について


『毒を持って毒を制す』という言葉があります。
毒にはより強い毒を持って制する事が出来ます。

我が2000を超えるオリジナル心理学の一つ『常態行動個性心理学』は
個性の強さを逆利用して協調性を持たせる人間関係心理学です。

北風はコートを羽織るだけで無く風向きを変えれば追い風になります。

強すぎる個性がぶつかると其処に力ができて台風の目が出来ます。
その台風の目を逆利用すれば互いの個性を潰さずに絆作りが出来ます。

特に表現系、芸術系団体職は目立ってなんぼの世界です。
お互いの個性がぶつかり合い取り纏めるのは容易ではありません。

そういう方にお勧めのオリジナル心理学です。

学校の先生などもこの心理学で運動会や学芸会等の配役や配置決め問題を解決にお導きしています。

MP(モンスターペアレント)対策にもなります。

顔面神経麻痺と心理学の素敵な関係について


『お客さん私をからかっているんですか?』
彼女は明らかに不愉快そうな顔を私に向けた。
私は言った。
『初対面の貴女を何故私がからかわねばならないんですか?
生憎その根拠が私には見当たりませんが?』
『私が綺麗?貴方は何を根拠にそんな戯言を言っているんですか?
彼女は信じられないという表情で私を見た。
『私は余りオツムが高尚に出来ていないので見たままを述べたまでですが?』
私は笑顔で返した。
『貴方は目がおかしいんですか?私の顔を見てどこが綺麗だと言うんですか?』
明らかに彼女は苛つきながら半ば睨むような目で私を見た。
『生憎両目とも⒉0で眼科でも正常と言われたばかりですけどね?
私は笑顔で返した。
『なら頭がおかしいんじゃないですかね』
彼女はやれやれと言った感じで両手を上げて天を仰いだ。
『生憎人様から頭がおかしいと言われている人が可笑しくない事を証明する事を生業として二十年になります。もし私がおかしいとするならばその方々の立場が有りませんね』
私は微動だにせず言葉を返した。
『見ての通り私は顔面神経麻痺で顔が醜く変形しています。此処まではっきり言わなければ解りませんか?』
彼女はとても哀しそうな目で私を見た。
『それで?私の目にはちっとも醜い顔には見えません。私の目には心の美しさがお顔に現れていてとてもお美しいお顔立ちに見えますけどね。貴女を嘗て醜いとされた方々は心の目が曇っているか或いは目自体が空いていないんじゃないですかね?そんな屑共の戯言を耳にされる事自体汚らわしい事ですし生産性がないと思いますけどね』
私は真っ正面を向いて彼女にそう言い放った。
『この顔のお陰で私は虐めに遇い彼氏も出来ず就職だって叶わなかった。全てこの顔のせいなんです』
叫ぶように彼女は言い放った。
『本当にそうでしょうか?貴女はそれのせいにして全てを逃げてきただけじゃないですか?それは貴女の魅力の一部でありはしても決して欠点じゃない。それにメンタルアップを計ればそれの改善も可能です』
『嘘、何処の病院に行っても治らなかった。もう一生私のこの顔は元には戻らないんだわ』
彼女は遂に泣き出してしまった。
『では私が見事治して見せましょう。もしも治らなければ私を告訴しても構わない。それで如何ですか?』
私は更に食い下がった。
『治る筈がない、治る筈がない…』
彼女は呪文のように同じ言葉を言い続けその場へ崩れ落ちてしまった…。

それから数ヶ月後…。

満面の笑みを称えた絶世の美女が私の目の前に立っていた。
その顔は喜色満面となり微塵の暗さも無くなって居た。

『先生、私今の私が信じられない。何処の医者に診て貰っても治らないと言われたのに先生と一生懸命セラピーを続けていて本当にこんなになるなんて』
今や彼女の顔に悲壮感はなくあるのは希望に満ち溢れた笑顔だけだった。

『それが本来の貴女の姿です。私はそれを貴女に見せたかったんです。そして貴女の横にいる彼にもね』。

其処には長身のイケメン彼氏が恥ずかしそうに立っていた。

人は変われる、メンタルが変われば容姿も変わるのです。
それを彼女は自らの実体験で勝ち得たのです。

今彼女は同じ苦しみで苦しむ方々を救う仕事に就いて居ます。

2013年5月19日日曜日

常態行動心理学的小ネタ集




その一

小さい世界を知る人は大きな世界を知る人です。
何故なら大きな世界は小さな世界の集合体だからです。
されど大きな世界しか知らない人は細部を知らない。
だから大きな世界しか知らない人はその上にあるもっと大きな世界を知る事が出来ません。
小さな世界しか知らない事を嘆く人がいますが嘆く必要はないのです。

その二

理解が浅い事を嘆く人がいるが寧ろ私は理解は浅くて良いと考える
理解力が無駄にあると其処で理解が止まり深い理解ができません。
されど理解が浅いと認める人はもっと理解を深めようと努力をします。
結果深い理解を得る事ができるようになる。
深い理解をする為には浅くてもじっくり考えることが必要なのです

その三

醜形恐怖症とは本当は綺麗なのに人から嫉妬され醜いと言われ或いは幼少期苛めに遭いそれが元で自分の容姿が嫌いになり美に対して執拗な迄の欲求を持つ人のことを指す。

されど人はコンプレックスがあればこそ人は頑張れます。
コンプレックスがあればこそ奮起しその結果もっと美しくなれる。
コンプレックスが無い人は現状に満足し努力を怠ります。
結果どんどん劣化して行きます。

その差は歴然です。

私は醜形恐怖症の人には其れ迄にその人自身が頑張ってきた軌跡を示しそれを認め賞賛します。そしてもう醜形恐怖症になる必要がない事をお示しする事で醜形恐怖症を克服させています。

その四

人間マイナス面には目が行きますがプラス面には目が行きません。
それはプラス面は後ろにあるから気づかないんです。
マイナス面は前面にあるので見えますがプラス面は背面にあるので自分じゃ見えません。
されどそれを見える人を選ばないと時々嘘を教える人もいます。
其処に気付く事が大事だと思います。

その五

人に裏切られ続け人を信じられないという人が多く来訪されます。
されど人は人を信じたいから信じられないのであって本当に人を信じられない人は人を信じられないとは言いません。
信じられないの裏側にあるのは信じたいという強い思いです。
人を信じられない人は本当は人を信じたい人。
されど信じるに足る人間と足らない人間は残念ながら存在します。
その識別法をお教えし信じるに足る人を信じられる人にしています

2013年5月18日土曜日

常態行動心理学的家制度解釈と夫婦問題解決について

時期的な物もあるのだろうか?
不思議な事に今日だけで数件夫婦問題に対するご質問をお受けした。
しかも全員奥様側w
旦那の浮気だの暴力だの言葉の暴力だの訳わからん嫉妬だのそりゃあ様々。
まぁ殆どは旦那の愚痴や惚気等だが中には笑えない話の内容も幾つか有った。
その中でセラピーが必要な物にはそれをお与えし助言で解決出来る物はそれを為した。
彼女達が異口同音に述べるのは私は”現代に蘇る駆け込み寺”らしいw
だが生憎私は女性の味方でも男性の味方でもなく”正しい者の味方”である。
駆け込んできた女性全てに対して優しい言葉をかけるというような事はしない。
中には駆け込んできた御本人に問題があるケースも少なくない。
その場合は寧ろ駆け込んできた御本人を叱責する場合もある。
そして大抵の場合自らに降り掛かる火の粉を恐れ円満解決を望む人が多いが私は違う。
別れなさいと一喝しその後の生活の経済基盤安定の為の策を色々と練ります。
と、同時に我が”場の心理学”の応用で”場を変える事で場の構成員を変える”という”遠隔操作セラピー”を実行に移します。
これは奥さんを変える事で奥さんが構成員の一人として存在している”家庭”と言う場を変えその”家庭”の中にいる構成員(夫、子供等)を変えるというやり方です。
言うは易く行うは難しで一つ間違えば場全体を壊しかねない諸刃の剣。
されどそれを恐れていたら家庭は守れない、守るより攻めに転じる事も時に必要。
人間面白い物で”別れちゃ駄目、我慢しなさい”と言われると余計に別れたくなる。
されど”そんな糞男さっさと別れてしまえ!”と一喝すると急に旦那擁護に回る人もいる。
これは愛情の裏返しである、嫌よ嫌よも好きのうち”と申します。
愛していればこそ不満も愚痴も出ます、愛していなければ不満や愚痴は湧いてきません。
それを逆利用すれば夫婦間の愛情を取り戻す事も不可能ではありません。
私が”夫婦問題解決カウンセラー”もやっている理由の一つがここにあります。
されど大抵の夫婦問題解決カウンセラーは”別れろ!”と一喝はされないでしょうけどw
私の中で日本人的”家制度思考”は存在しません。
大学時代社会学で”家制度”については”民俗学”で嫌という程学ばせて戴きました。
それ故に余計日本人的家制度に対するアンチテーゼを感じています。
”家”を構成するのは”家族”です、つまり”人”です。
その”人”を蔑ろにして”家”を守る必要性を私は感じません。
”家”の為に”人”を犠牲にするのならば私にとって”家”は何の価値も有りません。
こういう事を平気で言えるから大学時代留学生だったブラジル人男性に”お前は日本じんらしくない日本人だ”と言われるのでしょうw
されど私はそれで結構ですしそう有りたいと思っています。
私にとって”日本人的思考”は余り良い物という印象は有りません。
それ故に私は私の尺度でこれからも行動をして行きたいと思っています。
そうでなければ心理職は務まらないというのが持論です。
日本で生まれ日本で育ったからこそ日本人的家制度に染まるべきではないと考えます。
これからの国際社会を生き抜く為にはそういう感覚も必要だと思います。
まぁ単なる自己弁護かもしれませんけどねw

2013年5月17日金曜日

不妊治療に対する常態行動心理学的アプローチについて


嘗て『女性は子供を生む機械』と女性を侮辱せし愚者は職を追われ唯の人となった。

女性が女性として存在している理由は子供を生む産まないではない

まして女性の価値は子供を産めるか産めないかで決まる物でもない

離婚理由の上位に未だ子供を産めない体だからと言うのがいる
事が私には理解が難しい。

男性と女性が性別が別れているのは生殖器があるやなしやだけではない。

確かに生物学的にはそうかもしれないが人類学及び心理学的にはそうではない。

男性と女性が性別が別れている理由は自と他の違いを認識し自己を高める為である。

もしも生殖活動の為だけであるならば雌雄同体でも構わない筈である。

雌雄同体ならば一々交尾をする必要もなく交尾の為の様々な苦労は軽減される。

男性と女性、雄と雌に敢えて別れているのはその違いを認識し進化する為である。

どちらが優れているとかどちらが劣っているというような低次元の話ではない。

男性にも女性にも性別的に得手不得手が有り同じ性別でも肉体的得手不得手は存在する。

更に言えば生産において大事なのは種ではなく畑である、つまり土壌が大事である。

幾ら男性が立派な種を持っていてもそれを育てる土壌が無ければ種は育たない。

そう考えた時何方に重きが置かれるかは言わずもがなである。

それを”子供を生む機械”だとか”子供を産めない女は女じゃない”とかとんでもない話。

女性が女性として存在しているのは男性との違いを認識し互いの能力を高める為。

決して”子孫を残す為だけ”に存在しているのではない。

我が元にも御子をその身に宿せない女性が多く来訪される。

されどその多くが心因性が原因である事を解く産婦人科医は少ない

だが多くが心因性である事実は決して少なくない。

事実心因性疾患を改善後御子を宿したケースを私は自分自身の経験で多く持っている。

子供が産めないという事がどれほどのストレスでそれがより子供を産みづらくしているか今の医学界はもっとその事を真剣に考えるべきである。

これからも我々は心理学の分野で不妊治療に全力を注ぎ冒頭のような生きる価値のない愚か者を排除して行く所存である。

瀬木マジックと幸せ効果について


私のセラピーには全て『幸せ効果』という付帯効果が付いてくる。

古くは知人の地元駅の駅員さんがそれまで全く無関心で四面楚歌だった物が私のボディーセラピーを受けた後、急に人気者になりモテ出したという物であった。

他にもずっと就職試験に落ちまくっていた大学生がセラピーを受けた後即採用が決まったり急に仕事が増えたり中にはメディアへの進出が叶った方も居られる。

ずっと夫婦関係が悪く破綻寸前だった夫婦関係が修復になったケースもある。

同胞方々はこれを『瀬木マジック』と呼びからかって遊ばれているw

だが生憎私はマジシャンではない、これは極めて科学的証明が叶う物である。

私のセラピーは潜在意識に直接働きかけるやり方をとっている。

多くの精神神経内科やカウンセラーが薬に頼る事を私は言葉でそれを行っている。

薬による処方よりも言葉による処方の方がより脳に与える刺激は多い。

それはその情報を受け取る器官が多い事が原因である。

薬は内臓に直接働きかけるがそれ以外の器官に働きかける事はできない。

されどフォンセッションは聴覚、対面セッションは聴覚、視覚、嗅覚他を刺激する。

更に個々人にしか効果がないオリジナルプログラムを組むので他の器官にも刺激が行く。

脳は受け取る刺激が多ければ多い程より克明に脳に情報を植え付ける事が出来る。

つまりその分土壌を豊かな物に作り変える事が出来るようになる。

するとその人にとってより行動がしやすい場を構築し易くなる。

それは自分自身が何者であるかが解ればどう言う場所を選べば良いかが解るから。

場所を変えられないなら自分自身を変えて場所や人を変えて行けば良い。

そうする事によって自分自身に適した環境を無意識的に自分自身で構築できる。

これが『瀬木マジック』の正体である。

つまり『瀬木マジック』とは私のセラピーによって変わった土壌により御自身が行動を起こしやすい場に自らの力で作り変える力をお与えする事である。

本来、心理職であるならば誰にでも叶うやり方である。

されどこれは時間と労力を要するので大抵の心理職は面倒臭がってやらないだけである。

私は例え手間暇を掛けても同胞第一主義を貫いているのでそれが叶うだけの話である。

後は一寸した隠し味をいれてある。

それは企業秘密であるw