2011年2月27日日曜日

社長の心理学~或いは『株式会社アークインターネット』代表取締役関口社長に見る究極の帝王学の心理学~


去る2/26名古屋で『株式会社アークインターネット』代表取締役社長の関口氏とお会いする幸運に恵まれた。

名古屋のソーシャルネットワーキングコンサルティングシェアNo.1を誇る関口社長とは如何なる人物か?
我が胸は嫌が上にも高まり昨日は寝不足、新幹線特別室でも大抵着くまで爆睡の私が一睡も出来なかった。
それが既に社長の”品格”を現しておられると自分の中で感じていた。

そして実際に名古屋駅で社長とお会いしてその”予感”は”確信”へと変わって言った。

名立たる会社の社長という職に就いておられる方とお会いする機会は決して少なくは無い。
職業柄そういう方々とお会いする機会は多いが私が心から『社長』と呼んで憚らない人、それが関口社長である。

先ず私はしょっぱなからポカをしてしまい『金の時計台』と『銀の時計台』を見間違えてしまった。
この時点で大抵の社長は眉根を多少寄せるが関口社長は破顔一笑、満面の笑みを称え威風堂々と現れられた。

一発で”会社経営者”然とした出で立ちで立ち居振る舞いも威風堂々としキリっとしたお顔は俳優?と見間違うほど。
このままドラマで社長役をやられたとしても或いは刑事部長の役でも全然イケそうな感じのイケメン社長であられた。

緊張する私を気遣って下さり常、後ろを振り返り進路を確保してくださる関口社長、そのお心遣い感涙の極みです。
そのまま『名古屋マリオットホテル』へ移動、社長御自らパンフレットを手に取り私に手渡して何を食べたいかをお聞き下さいました。

常、相手の立場に立てる方、経営者の中には中々こういう方は日本では稀です。
さっさと店へ行き注文を決め人の意見など一切無視、会社でのお立場を外でも適応なさる人が多いのが現実です。

されど社長は違いました、私を先に席に着かせ、メニューをお渡しして下さりあくまで私の意見を尊重して下さる。
決して御自身は前へ出ず相手先ず有りきの姿勢を示される、日本人的というより寧ろ英国紳士の雰囲気でした。

会食は『中国料理 梨杏』さんのランチディナー、次から次へと出される目にも鮮やか舌も喜ぶ料理に何度も鼓を打ちながら社長の有難いお話を拝聴する機会に恵まれました。

此処で今更社長の華々しい経歴のお話しをするなどという無粋な真似はいたしますまい。
社長を語る上でそれらは単なる参考資料にしかなりません、社長を語る上で大切な事はもっと別な所に有ります。

社長を語る5つのキーワードその1『傾聴力』
人の上に立つ者は我が亡父もそうですが兎に角人の話を『聞く耳』を持つことが大切です。
自分の話しばかりして相手の話を聞かない社長は多いですがそれでは社長としては二流三流です。
本当の一流の社長は自らは一歩下がって相手の話をしっかりと聞く、そして有無益を取捨選択し必要な物のみ選択
正に関口社長はそういう”聞く社長”であられました。

社長を語る5つのキーワードその2『表現力』
人の上に立つ者は自らの”商品”をしっかりと相手に売り込む力が必要である。その為には『表現力』は必要不可欠。
されど多くの方はこの『表現力』と言う言葉を見誤られておられる。
真の『表現力』とは聞き手のレベルに合わせて自らの話を可変的に変える事が出来る人。
関口社長は浅学菲才な無学者の私にも解る言葉解る表現で一つ一つを丁寧に且つご説明戴きました。

社長を語る5つのキーワードその3『発想力』
私は心理学者であり心理学畑の人間である、心理学畑の人間の研究対象は”心”である。
如何にして”病を治すか?”これはもう”発想力”に頼るしか方法は無い(薬に頼る者はそれこそ二流三流である)。
故に心理職にある人間は常、”発想力”を豊かに柔軟にしておかねばならない。
だがその専門職の私ですら社長の”発想力”の妙には頭が下がる。よくもここまで!と舌を巻くほどである。
私は”セラピスト”が本業だが実際この仕事は中々”儲け”に繋がらない。
其の現状も社長はご存知で”如何にして儲けるか?”のお知恵を色々とご伝授下された。
其の発想力たるや”舌を巻く”どころか”参りました”と投了レベルである(笑)

社長を語る5つのキーワードその4『サービス力』
今回社長へは地元の名産品を二品お持ちさせて戴いた(というかこれ以外に差し上げる物が無い程の田舎であるw)
社長からはお昼の中華ディナー代、そして母へのお土産も頂戴した。
お話の中でも”ケチらない”されど”無駄金は使わない”というきっちりとした経済観念をお持ちであった。
又、此処では割愛するが経営ノウハウなど”これ私に話しても大丈夫?”的な話も沢山拝聴させて戴いた。
その社長の”サービス力の旺盛さ”に私は”本物”を見た心持であった。
一部の経営者の中には”奢って貰って当然”というふんぞり返った者も居る、そういう会社の社長は所詮其の程度。
関口社長のような大物には慣れぬ小物レベル。こういう”度量の大きさ”も社長を語る上で重要なキーワードである。

社長を語る5つのキーワードその5『人間力』
や はり最後に出るのはやはり『人間力』である。社長が今の会社を興される迄にはそれこそ順風満帆では無かったようである。様々な紆余曲折を得て又、会社を興 されてからも名古屋No.1のシェアを獲得なさるまで又獲得なさった後も悪評等に随分悩まされた御様子。されど社長持ち前の『人間力』でそれらの難関を見 事クリアー、総勢200有余名の社員を抱え、年商10数億の社長となられた訳である。そして何より私が感動したのは社長の『夢』であった。
勿論それが最高到達点ではなく恐らく社長にとっては其処も又『通過点』の一つであられるであろうがこれこそ真の『国際貢献』であるという真の『人道支援』であるというお話を拝聴した。
中身は敢えて割愛するがそれは是非社長の口から直にお聞き願いたい。

最後は駅構内の改札で私がエレベーターに乗るまでずっと立ったまま笑顔で手を振って下さった。
此れほどまでに胸が熱くなる出会いと言う者を私は余り経験した事が無い。

”又会いたくなる人”それが関口社長その人であった。

余談だが社長は実は我が亡父に瓜二つであった、本当に兄弟ではないか?と思う程面影が亡父に似ていた。
それ故社長とお会いした時我が亡父と会っている心持にて目頭が熱くなるのを懸命に堪えた物である。

最後となりましたが今回の関口社長との会談に際し社長へ向け”私を頼む”とお口添え下された我が川村師匠に心よりの敬意を表し今回の話を結としたく存じ上げます。

2011年2月25日金曜日

職業人としての重さについて~或いは責任の心理学~

職業人(心理学者/セラピスト)としての自分という存在に最近”重さ”を感じている。

昨日何時もの様に仕事へ向かう途中通り道のセブンで缶コーヒーを買い、
入り口付近で葉巻を吹かせながら珈琲を飲んでいた。

そこで私より少しお若いかな?という感じの”美人のお姉さんが””お隣で煙草を吸わせても宜しいでしょうか?”とお尋ねに成られた。

今時珍しい礼儀正しい方だなと思いながら勿論快諾。
世間話をしながら”何時もの悪い癖”が出た。

我々職業人という物は相手の”目”で全てを判断します。
その時も其の方の”目”を見て”なるほど”と納得。

さりげなく話題を”心理学”へ移行、すると相手の”目”の輝きが変わり身を乗り出し最後は号泣しそして今から裁判所へ行かれるとの事。

何れ我が同胞となられる事は間違いないであろう。
恐らく旦那のDVか何かではないか?お母上様に連れられセブンを後にされた。

其の日の晩に我が”正当なる継承者”より電話を頂戴し30分近く話を頂戴する。
そして今日旧友で私と同じ”能力者”であるS氏が久しぶりに電話をくれた。

氏も東京から地元へ帰郷、メンタルを患い2年間程苦しんだ挙げ句今就活中。
我が”プラン”にとても興味関心を抱かれ助力を申し出て下された。

元々私は”軍師タイプ”で表には出ず誰かを”表に立て”裏で色々と画策するのが好きなタイプなのだが最近好むと好まざるとに関らず”表”に立つ事が増えてきた。

専門職を20年も続けていれば当然と言えば当然なのかもしれない。
されどどうも性格的に人の”前”に出る事は余り好む性格ではない。

我が愛方も同じ人で私を前面に出し自分は後方支援へ回る人であった。
されど我が愛方も又、多くの方々の”需要”に迫られ少しずつ”前”へ出てきた。

或いは二人とも”変革”の時期なのかもしれない^^;

超心理学者の心理学~或いは自死遺族の為に出来る事の心理学~

私は心理学者としての顔とは別にもう一つ、超心理学者(霊能力者)としての顔を持つ。
私が超心理学者となった一番の理由はお心を患っておられる原因が心理的な物か或いは霊的な物かを見極める為。

元 々幼少の頃より”見えざる者の姿を見””聞こえざる者の声を聞き””触れざる存在に触れる”事が出来て居た為、第一の師匠に”霊能力の開眼”をして貰った時も余り実感という物は沸かなかったがその後”霊障(霊的妨害)”に遭う様になり好むと好まざるとに関らず自らの持つ能力を知る事となる。

その後『類は友を呼ぶ』がの如く多くの霊能者と出会い、其の事により”霊能力の種類”を一つずつ増やして行き今が有る。愛方とであったのもある種”必然的で会い”であったのかも知れぬとは今は思う。

今はそれが”心理的病理”なのか”霊的病理”なのかを見極められるようになった。

こうやって見てみると案外”霊的病理”が多い事に驚かされる。

それを精神科医や一部の心理系の人々は”精神的病理”として扱おうとするのだから”治らなくて”当然(笑)
悪化こそすれそれが”治る”事は無い、だって”憑依”されている物を”除霊”せずして”治る”物ではないのだから^^;。

もう一つ、超心理学者として大事なお仕事が実は上記以外にも有る。
それは”自死遺族の方のメンタルケア”である、これは我々”超心理学者”でなければ絶対にできない事である。

何故か?”亡くなられた方の声”を届ける事ができるのは我々”超心理学者”だけだからである。
其のお陰で年間100件を越えるご依頼を頂戴し其の度に東奔西走する日々である。

だがこれでも私の目から見れば”氷山の一角のその又一角”そういう事を知らず日々を悶々と過ごしておられる方も多数居られるに違いない。

事実、お身内の自死に遭われて以後”過食や拒食”に走ったり、”燃え尽き症候群”になって育児放棄や家事放棄をして家庭が崩壊したり果ては”人の道に外れる行為(不倫)”に走る方も居られる。

見ていてとても胸が痛むし嘆かわしい限り、そういう方々の”メンタルケア”も又我々超心理学者のお仕事である。
霊界と現世を繋ぐメッセンジャーとして”霊界でのお身内のご活躍やお声”を届ける事で”生きる気力”をお与えする。
”生きる糧”をお与えし”亡くなられた方”へ恥かしくない生き方、堂々と胸を張れる生き方、安心して極楽浄土へ渡っていただける生き方を提唱している。

更に我々超心理学者にとって厄介なお仕事がもう一つ実は有る。

そ れは”自死された方は成仏できず地縛霊となり未来永劫成仏できない為、其の方々を浄霊し霊界へおつれする”という事である。言葉にすると簡単だが此れが中 々にして厄介。現世に当然”未練”を残して居られる訳だから素直に”はい、霊界へ上がります”とは中々ご同意戴けない。

そして尤も厄介なのはそういう”成仏できない霊”が集合体となり”悪霊”と成り果てるケースである。
まぁ俄に信じがたい話なのだが負と負を足しても負が増えるだけで負の感情を持つ魂同士は波長が合い”合体”しやすいので”負の情念”が具現化した時、それらは”悪霊”とか”怨霊”とか呼ばれる存在となる。

こうなってくるともう”浄霊”なんぞという暢気な事は言って居れない。
既に一つ一つの霊の意識は無く”現世に対する恨み”に完全に乗っ取られているのでもう”除霊”しか方法は無い。
こうなると”命と魂を賭けた生死を分ける戦い”となる訳で此方もそれなりの準備と覚悟が必要となる。

此方も死ねば同じ、あちらも負ければ”二度と”転生は出来ない訳ですから勿論あちらもこちらも正に”真剣勝負”。
何度”三途の川”を渡ったか解りませんよ^^;。それでも”遺して行く者の辛さ”を思った時、私は”負ける訳にはいかん”
と何時も自分を奮い立たせ今まで何とか勝利を収めてきました。

これからも私は心理学者としては勿論、超心理学者(霊能者)としても多くの”魂”と会話をしながら”ご遺族”と”天界に住まう魂”を繋ぐ役目を担いたいと思っています。

2011年2月23日水曜日

”口説く”と”惚れる”の心理学~或いは心理職に求められる本当のスキルとは?の心理学~

私は多くの人より”口説き上手“と言われる、大変光栄の至りであり私自身否定する物ではありません。
されど大変残念ながら”惚れさせ上手”ではない、誠に以て遺憾ではあるのだが(笑)

『口説き落す=惚れる』と多くの方は認識されておられるようであるが(所謂社会的認知という奴)実は違う。
私の中で『口説き落とす=心を開かせる』『惚れさせる=好きにさせる』と言う明確な違いが有る。

私は一心理職の人間として”口説き落とす=心を開かせる”事は得意だが”惚れさせる=好きにさせる”方のスキルは皆無と言っても過言ではない^^;。40年間で付き合った彼女が今の愛方を含め二人しかいないというのがその唯一の証拠である(笑)
もし私が『惚れさせ上手』なら今頃ウハウハな生活を送っている筈(笑)されど愛方が居ない時の侘しさなんざ人様には見せられないw

『口説き落とす=心を開かせる』には『心の琴線を響かせる』事が一番である。
その為に大事な事は”具にその人の事を観察する”という事であり、これは専門職の私でなくても出来る事である。

事実、我が愛方は専門職の人ではないが私以上に私の事に関しては精通しており恐らくその精通振りは唯一無二であろう。
40年片時も離れなかった我が母ですら愛方の私通には適わないと言うのだから本物である^^;。

”愛を以て接し愛を以て見る事”それが”心の琴線”を響かせる唯一の方法であると私は思っている。
老若男女を問わず”全ての存在に愛を以て接し愛を以て具に見る”その事により”見えざる心”が見えてくると私は考えている。

”見よう”とする事、”解ろう”と努力する事、そして何より”愛で以て接しようとする事”。
それが心理職にとってもっとも求められるスキルであると私は考えている。

小手先のテクや知識や難しい単語を幾ら並べた所で所詮は”付け焼刃”。
本当に”口説き落とす=心を開かせる”事は不可能だと考える。

私はこれからも”口説き上手”でありたいと願う。

2011年2月22日火曜日

クレーマーの心理学~或いは認知欲求の心理学~

以前Twitterで知り合いの美容師さんよりクレーマー対策についてのご質問を頂戴したときの話。
美容室のご近所さんで美容室に留めているお客さんのアイドリングの音が煩いと何時もクレームを言ってくるのだとか。
最初は謝っていたがそれ以降も止む事はなく益々クレームはエスカレートする一方。
お客さんにも協力は勿論求めたが相手はお客ゆえ当然強くも出られない、クレーマーさんもお客なので同様であった。
其処で私は一計を案じ、店長へこう進言申し上げた。
『何でもいい、例えば”今日は何時にもまして肌艶が良い”とか”化粧ノリが良い”と褒めてあげましょう。当然相手は”ふん!そんなおべっか使っても何もでない わよ”と当然言います。そこで敢えて憤怒の表情を浮かべ怒りを露にし噛み付きなさい。”失礼な!私は正直な意見を述べたまで、何故わざわざお世辞を言わねば成らないのですか!幾らお客さんとは言えお世辞まで言って来店して欲しい等とは思いません!失礼します!と言って退出するように』と言いました。

言われた通りにしてみた所、相手のクレームがぴたりと止んだとの事。
これは一体如何なる事か?答は至極当然の話なのです。

クレーマーの心理の裏には”自分を認めて貰いたい”という認知欲求があるのです。
それ故クレームをだし”私は偉いのよ、私は凄いのよ”と自己暗示を掛けている訳です。

なればその”自己顕示欲求”をどういう形であれ満たしてあげれば”クレーム”をしようという考えは段々と薄れます。
勿論直ぐに効果が現れる訳では有りませんがこれを繰り返す事により明らかに”クレーム頻度”は落ちてきます。

大抵クレームをする人は”気に食わない人”と思うのが人の情けという物。
されど案外クレームをしてくる人も”自らの寂しさ”をクレームを付ける事で紛らわせている場合も有るのです。

それを逆手に取ればクレーマーから宣伝マン(ウーマン)になってくれる場合も有ります。
”昨日の敵は今日の友、昨日のクレーマーは今日の味方”となる訳です。

伝搬性精神疾患の心理学~或いは目に見えない恐怖の心理学~

 ”心の病には伝搬性が有る”とは持論だが此れに賛同を示す人は余り居られないだろう。
だが、事実お身内や配偶者に”心を病まれた方”が居るご家庭のお身内の中には”伝播している方”が少なからず居る。
そして尤も恐い事は”御自身がお心を患われている事を理解できない方”が割りと多いという事で有る。

例えば10数年前の話。

東北ご出身の女性で小さい頃から両親が行商に出ておられ家には余り居られないご家庭の話。
余り行商が上手く行かない時は娘さんを虐待して憂さ晴らしをしておられたらしい(俄には信じられない話)。

その後その娘さんはご結婚なされ何とか虐待からは逃げられたかのように見えたが実際は然に非ず。
今度は嫁ぎ先の両親と配偶者たる夫がお心を病まれており虐待は日常的に行われていたとの事。

勿論娘さんは離婚を申し出るが世間体を気にする嫁ぎ先は断固それをお認めにはならなかった。
彼女のご両親も又、自らが虐待を過去していた関係でそれを認める事は出来ず見てみぬフリをされておられた。

偶々知人の紹介でその方とお会いしたのだが一発で”お心を病まれている事”が解った。
勿論元々は”正常なお心の持ち主”であられた筈、それは”目”を見れば解ります。

されど幼少期に受けたDVのトラウマと結婚後に再度受けたDVとで完璧にお心を病まれてしまわれたのでしょう。
氏御自身は自分の両親と配偶者そしてその両親が如何に異常な人々であるかを訥々と語って居られました。

勿論それその物に嘘偽りは無く恐らく事実でありましょう(彼女の体の見える部分にある痣や切傷等から推察)。
されどそれ以上に彼女自身、感情の起伏が激しく、泣いたり笑ったりを1時間の間何度も繰り返しておられました。

その後一寸した事で意見の食い違いが有りすると今度は鬼の形相で此方を詰り始めます。
まるで自らが過去されたDVを相手にしているかのように…その形相たるや私自身身の危険を覚える程でした。

結局その方はその後我が元へは来なくなりどうなったかまでは知り得る事は出来ませんでした。
されどこのケース又は他の幾つかのケースを鑑みて”お心を病んでいる方の傍に永く居るとその病が伝染する”という事が良く解りました。

”悪い芽は早めに摘まねばどんどん芽が広がり最終的には摘み取れない状態になってしまう”。
私は精神疾患の現状をこのように考えています。

我が同胞も元々は”まともなお心の持ち主”であった筈です。されど余りにも回りに”悪い芽”が有り過ぎた為、
無意識的にそれらが脳へ摺込まれ”正常”から”異常”へと状態変化を起こしてしまったのです。

心理職としてこれ以上”悪い土壌”を増やさない為、そして”不幸な人”を増やさない為出来る事を精一杯やっていこうと思っています。

2011年2月20日日曜日

常態性依存(甘え)の心理学~或いはDVの心理学~

常態性依存と言うと一寸厳つい感じがしますが『甘え』と書くと随分解り易いと思います。
例えば”子供が親に甘える”、”配偶者が配偶者に甘える”、”老人が子供に甘える”等の事。
この事自体は問題ではありません、されどこれが”常態化”つまり”当たり前”となってしまう事が一番恐いのです。
誰しも最初は甘えられて悪い気はしないでしょう。
”必要とされている””求められている””私しかこの人を救えない”というある種の英雄気分になれるのですから。
されどそれも最初だけ、それが段々と嵩じてくると”苛立ち”を覚えるようになります。
”何故私だけが何時も甘えられなくては成らないのか?私だって誰かに甘えたい”となります。
されど上記に挙げた方々にとって”甘えられる人”は大抵の場合”親族”でありその”親族”も大抵の場合自分の事乃至は家庭の事で精一杯であり”甘えさせてあげる”余裕が無いのが実情でしょう。

そうなると今度は甘えてくる人に対するある種の”憎しみ”が生まれてきます。
”この人さえ甘えてこなければこんな事にはならなかった”と…。

そうなってくるとつい、口調が荒くなり態度が冷たくなり果ては暴力を奮う結果となったりと結果は惨憺たる物に…。
そうなる前にやはり”常態性依存(甘え)”の兆候が出てきた段階で早めに”芽”を摘んでおく必要が有ります。

”常態性依存(甘え)”が起きた時、一番の対処法は”感謝の気持ちを言葉で態度で示す事”であると私は考えます。
何も”お金を払え”とか”物を買え”とかではなく”有難う””感謝しています”の一言がとても重要であるという事です。

例えば結構アップアップで心に余裕が無い時でもこの一言で随分と人は救われた気持ちになる物です。

”等価交換”とは同価値交換の事、常態性依存型DVの一番の原因は”等価交換”が充分に行われていない点。
”自分の努力が他者に認められていない事への欲求不満”が原因の一つに挙げられています。

故に”心からの感謝の意”を示す事、口先だけの”形だけの感謝”ではなく”心の篭った感謝の意”を示す事。
それが”等価交換”となり、萎み掛けた気持ちを又、再度”さぁ!もう一踏ん張りしてみるか!”に変えて行くのです。

”最近いきなり妻が(夫)がキレ始めまして…先生、妻は(夫は)心を病んでしまったのでしょうか?”と来訪される方に私は何時もこの話をして差し上げています。そして大抵の場合この”心の処方箋”で多くの方が現場復帰しています。

”心からの感謝”してますか?”言葉”で”態度”でちゃんと”愛”を伝えていますか?
それが”心の潤滑油”となる事、忘れないで下さいね^^V

2011年2月19日土曜日

依存の心理学~依存とは”モノ”だけに非ずの心理学~

我が元には年間を通して様々な依存症患者が来訪される。
アルコール、買い物、食べ物、薬物etc....されどその中で尤も厄介なのは”人”つまり”自分”依存症。

これは”ヒト依存症”言い換えると”栄光依存症”とも言い換える事が出来る。
つまり”自らの過去の栄光”にしがみ付きそれに依存し其処から前へ進もうとしない方々。

”歴戦の兵士”や”元・女優、モデル”そして”元・経営者”等人から注目を過去浴びし人にその傾向は顕著に出る。

そういう方は大抵こう言われる”昔、自分は○○だった、そりゃあ○○だった物”と延々と”自慢話”が始まる^^;。
そしてその”エンドレスな自慢話”こそが人が彼ら・彼女らを忌み嫌う一番の理由です。

彼ら・彼女らは口々に言う”当時は脚光を浴び自由が無かった、配偶者もそんな自分を得た事を誇りに思っていた”と。
それは確かな事であり間違いではないだろう、”有名人”を身内に迎えるは家の誉れ、鼻も高々出会ったに違いない。

されど花が枯れるように物が朽ちていくように人の歴史もその色を段々と色褪せさせていく。
更に時は常流動的に動いている、”過去の自分”にしがみつくは今の自分これからの自分にとってプラスとはならぬ。

故に一頻り話を聞いた後は一切その話をする事は禁止とすることからセラピーは開始される。
そういっても中にはセラピー途中でその話を持ち出そうとする者も居る(というかそういう人間が殆ど^^;)。

その時私は敢えて冷たく突き放す”だから?それは過去、そして貴方が生きるは今、過去の遺物は捨てなさい”と。
大抵は憤怒されるか泣き崩れられるかのどちらかだがそれでも私は”顔色一つ変えず”ポーカーフェイスを貫く。

それは”過去への依存”を断ち切る為、彼ら・彼女らが”過去”にしがみついている限り”依存症”は治りません。
そしてその依存が治らない限り”円滑な人間関係”を送る事も又不可能です。

”又自慢話かよ、鼻につく奴だな”で大抵は一笑に付されるか疎ましがられるかのどちらかであるからだ。
そういう方には”過去の栄光”を前面に出すのではなくその”栄光”により得た知識や経験を活かす事を勧めている。

歴戦の勇者も元・トップモデルも経年により”色”は褪せども”積み重ねし経験”は決して色褪せる事は有りません。
そしてその”経験から得た知恵”こそ人が欲する物であり彼ら・彼女らが唯一”自慢できる事”な訳です。

”自らの栄光の過去”を語るのではなくその栄光から得た”経験”や”知識”を現代に生きる人に活かして上げる。
それこそが”真の勇者”の証である事を私は説きそしてそれを実践させます。

すると今まで”揶揄”してきた方から”賞賛”を得るようになり人間関係も円滑に進むようになります。
”過去”に依存する事はやめましょう、そして”過去”から脱却しそして”末来”へ目を向けましょう。

貴方は”過去”を生きているのではない、貴方が生きるは”今”なのですから…。

『モテる』と『好かれる』の心理学~或いは究極のモテ学の心理学~

私が小学生時分、妙齢の女教師が居た(A氏)。

ナイスバディで小学生ながら彼女の体から発する”フェロモン”に男性教師は愚か男子生徒ですら”やられていた”。
体育の時間などは男子生徒がわざとぶつかって”おっぱいタッチ”をするほどの豊かな体つきであられた。

彼女は言う、”若い頃は相当『モテた』のよ~”と。だが私には当時から正直言って”気持ち悪い”としか思えなかった。

事実当時彼女は独身で離婚暦が数回有り男性教師とも不倫のうわさが飛び交っていた。
更衣室で着替える時は何時もわざと少し扉を開けまるで”ストリップ”でもするかのような脱ぎっぷりだったとは悪友の弁。

翻りもう一人の女教師が居られた(B氏)。
爽やかな艶と優しい瞳を讃え差別なく誰にでも優しく接し多くの人から”好かれている”人であった。
先の教師のような”フェロモン”がある方ではなかったが”教師然”としておられ威風堂々とした”大和撫子”であられた。

図らずもつい先日この二人の女教師と別々の場所でお会いする機会に恵まれた。
A氏はは”え!?あれが○○先生?!”と思わず我が目を疑う程の”老けぶり”であった。
B氏は”あ!○○先生だ!”と直ぐ判る程30年という経年を感じさせない若々しさであった。

勿論経年による老いには双方共勝てずであったがそれと”見た目の老け込み方”は又別物である。
まわりからちやほやされ自らの努力を怠っていたA氏、翻り自らを常律し”人”としての努力を怠らなかった”B氏”。

二人の”恩師”を前に私は”蟻とキリギリス”の童話をふと思い浮かべた。
共にどちらも”教え導く”立場の方である、されど一人は”模範”とし今一人は”反面”として生徒には受け取られている。

あの二人の女教師の姿を見た時、明日はわが身とわが身が竦む思いがした物である。
私が彼女達の年代となった時”老けたねぇ”と生徒や同胞に言われぬよう今から改めようと心に誓ったのである(笑)

2011年2月12日土曜日

『EcologyとEconomy』の心理学~或いは全ては地球の為にの心理学~

 『Ecology』と『Economy』…一見すると相反する存在のように思える両者だがどちらも接頭語『Eco』がついている。
つまりどちらも『根っこ』は同じという意味だと私は考える。では何故根っこが同じなのか?

『Ecology(生態)』を維持する事、つまり地球上に住む全ての生物が生き易い環境を整える事はその生物の一種である人間にとっても又生き易い環境であるという事。

今の地球環境は『人』には生き易い様に一見すると見えるが実は『生物』にはお世辞にも生き易い環境とは言い難い。
『自然環境』を破壊して人間が住みやすい『環境』を作ったとしてそれは一過性な物であり永続的な物に非ず。

どんな建物も経年により傷みそして廃退していく、これは避けられようも無い事実である。
刹那主義的に『今』だけを見ている人類は今や『地球』にとっては『寄生虫』は愚か『害虫』でしかない。

『寄生虫』レベルならまだ可愛げも有ろう物だがこれが『害虫』となると可愛げも何も有った物じゃない。
地球が『害虫駆除』するのも時間の問題、というか既にその予兆は始まっているといっても過言ではない。

昨今『アセンション』という言葉が結構あちらこちらの雑誌を賑わせている。
2012年へ向けての神による『ノアの箱舟計画』の為の『篩い分け作業』言わば人間の『事業仕分け』である。

だが2011年の今年、既に『アセンション』は始められているという。
数字の1並びの月が今年はとても多い、20110101、2011.1010、20111111等。

この『1』並びの数字は数秘術的には『再生』を意味している。
つまり『再生』が有るという事はその前に必ず『破壊』があるという事。

2012年のアセンションへ向け神による『破壊(作り変え作業)』派既に始まっていると言う訳である。
確かに今年に入ってからの異常気象は正に其れを裏付ける物であるだろう。

中には『私は神に篩い分けされるほど悪い事はしていない!』と声高に叫ぶ向きもあるだろう。
だが幼少期、水が入ったバケツの中に蟻を投入しかき混ぜて遊んだ記憶が有る方も少なくないだろう。

あれに同じ、神にとっては一人一人の存在ではなく、『人間』という一種のカテゴライズでしか我々は見られていない。
つまり人間にとっての『善と悪』等と言う物は神の側からすれば『取るに足らぬ事』に過ぎぬ、『大同小異』な訳だ。

神による『アセンション=篩い分け』から逃れる為には人類が一致団結して行動を起こさねば神の目には皆同じ。
その為に今一度『Ecology(生態)』を見直し人類だけでなく地球に住む全ての生物が生き易い環境づくりに人間がどれだけこれから寄与出来るかが『奮い残されるか否か』に掛かっているといっても過言ではない。

一心理学者として、又、一超心理学者(霊能者)として私自身これからも出来る事を精一杯やっていく所存。
その中で我が”家族”だけでも最低は守りたい、望むらくは地球上に住む全ての生物を救いたいと考えている。

2011年2月11日金曜日

『理解』と『共感』の心理学~或いは心のあり方の心理学~

『理解』とは『理を解する』と書く。

では『理』とは何だろう?『理学』?違う。それは療法士の世界、『理力』?スターウォーズの世界w勿論違います。
『理』とは『ことわり』と読みます。では『ことわり』とは何か?『ことわり』とは『その物の有り方、方向性』という意味です。

つまり『理解』とは『その人の物の考え方そして考え方の方向性を解する事』となります。
こう考えてくると『私は貴方を理解しています』なんて軽々しく口に出来ない事が『理解』出来ると思います。

翻り『共感』とは何でしょう、英語で書くと『Sympathy』これは『同調』とか比ゆ的に『同情』という解釈でもあります。
つまり『相手と共に心を重ね相手の感情をダイレクトに共に感じる事』これが『共感』であります。

セラピストに求められる物、それはこの『理解』と『共感』に有ります。
何故か?我が門を潜る方の多くが自らの発する言葉を『理解』されず又『共感』を得られない方々だからです。

良く『貴方の言葉を理解できない。それは貴方の表現の仕方が悪いからだ』と相手を責める人が居る。
勿論そういうケースも有りますし否定はしませんがそういう風に言っている方の何割かは間違いなく『理解を示そう』と
しておられない方々も決して少なくない。はなから『コイツの話はおかしいから理解できない』と決めて掛かっている。

『理 解できない話し方』をする人もその人の話し方一つ一つを丁寧に聞きこれが間違っている、それは○○だからだという事をちゃんと教えてあげる。何度か同じ間 違いをしてもその都度それを面倒くさがらずに直してあげる。この作業をする事により多くは『理解できる話し方』が出来る人になります。

勿論根気と努力と寛容さが求められますし誰でもできる事ではないかもしれない。
されど『本当にその人を愛し必要とする』ならば話は別、それが出来て『当たり前』です。

寧ろそれが出来ないという時点でその方に対する『愛』が足りないと私は判断します。

私と愛方が出会ったのは私32歳、愛方26歳の時。最初は『話が理解できない人』でした。
主語が抜ける、述語が抜ける、説明が長い、まどろっこしい等等そりゃあ大変でした^^;。

されど私は8年間、辛抱強く愛方の話を聞き一つ一つ訂正をしていきながら『理解』をしようと勤めました。
その結果今では私の方が時に『主語』や『述語』が抜け落ち愛方から注意を受ける始末に^^;;

今は『理解できない人』は『説明上手な人』となりました。
愛方は言います『殿(私の呼称)みたいに辛抱強く聞いてくれた人は他には居なかった』と。
そしてそれは同胞や生徒方々も異口同音に同じ事を申されます。

されど私は愛方や生徒、同胞方々にこう申し上げています。
『だって愛がある物、愛が有ればちゃんと相手の話を聞こうとするし理解し様と努める筈。其れができないのは愛が無い証拠。そういう人間に言っても無駄だし言う価値も無い』と。

愛方を初め多くの方々は笑いますがその後必ず笑顔となります。

心理職に求められる物、それは技術でも知識でもなく『理解』と『共感』である。
私はそう信じ20年以上このお仕事を続けて参りましたしこれからも続けていく所存でございます。

2011年2月9日水曜日

恐怖シリーズ~1.絶対零度~

”妻”が襲われた…その一報を聞いた時私の心に戦慄が走った。
幸い、偶然通りかかった我が配下の者に助けられ”獣の慰み者”にはならずに済んだ。

だが、当然”妻”は怯え私ですら恐れて近づけない程、”心”を傷つけられた。
”妻”を病院のベッドで寝かしつけ病室を出た時、私は”人”から”獣”に既に変わっていた。

我が配下の一人、N連合の初代総長、Mが恐る恐る進言した。
『敵の所在は既に掴めております、我々の手で…』
そういう彼の言葉を片手で遮り、私は病院を後にした。

彼は恭しく傅いたまま一礼し、そして一言ぽつりと言った。
”奴ら怒らせては行けない方を本気で怒らせてしまったな…”。

それから数時間後、私は敵のアジトの前に居た。
最初から”妻”を襲った奴らの居場所は知っている、彼らの”襲撃”により廃屋となった廃工場跡地である。

彼らのメンバーの中には所謂”地元のお偉方の馬鹿息子”も居た、故に地元の警察も容易には手が出せずに居た。
季節は8月、真夏の暑い盛りで虫達の音色がより蒸し暑さを増強させているように思えた。

中では”獣”どもがトランプに興じながら馬鹿騒ぎをしていた。

私の足元から”白い煙”が突如として現われ徐々に私の足元を見えなくし更に私自身の姿を見えなくした。
”白い煙”は尚も拡大しそれはまるで”意志を持った生き物”のように廃屋全体を包み始めた。

最初に異変に気づいたのはトランプに興じていたちょんまげ頭の若造だった。
”おい、何かこうゾクッとしねぇか?”
”お前馬鹿か?今何月だと思ってんだよ、そんな事…あれ?”
呼応した奴も周りの”変化”に気づき始めていた。

周りを見れば窓には”霜”が下り、完全に外の視界を奪っていた。
入り口付近に奴らが目をやった時…其処に”丸腰”の車椅子に乗った男が一人立っていた。

突然現われた”来訪者”に驚くも相手が”車椅子に乗ったおっさん”だと解ると薄ら笑いを浮かべていた。
”おっさん、こんな所に一人で何しにきたの?こんな所に一人で来ちゃあ危ないよ~”と卑下た笑いを浮かべていた。

”この辺りにゴミが有ると聞いたんでね、ゴミ掃除に来たのさ”俺はニコリとも笑わず応えた。
”あぁ?何だテメェ!俺達をゴミ扱いだぁ?いい度胸してんじゃねぇか!死にてぇのか!”

奴らが立ち上がろうとした瞬間、奴らの目が凍りついた。
足元が完全に”凍りつき”動けない状態になっていたのだ。

”お、おい!なんだよ、これ!どうなって…”その言葉が全て言い終らぬ内屋内は一瞬にして”凍りついた”。
屋内は一瞬で一面の”銀世界”となり全てが”白銀一色”となった。

くるりと方向転換し私は屋外へ出て、地面に転がっていた鉄パイプでトン!と地面を一突き。
その瞬間建物は一瞬にして崩れ去り其処は”更地”となった。

一夜明け周囲は勿論騒然となった。

”魔の巣窟”が一夜にしてなくなった事、其処にいた筈のメンバー全員の”所在”が掴めない事。
勿論地元警察も動いたが内心は”厄介払いが出来た”と喜んだ物も数名居たらしく事件はそのまま迷宮入りに…。

”馬鹿息子”の親らも自らの”保身”の為、事を大きくはせずこの事件は”未解決事件”として処理される事となった。
町の”ゴミ”が無くなった町は”平和”と”秩序”を取り戻し何時の間にか”事件”その物が人々の記憶から消え去った。

霊能力…それは”神”より与えられし力。”正しき事”にのみ神の”許可”を得て初めてその力の行使が可能となる。

2011年2月5日土曜日

マルチメディアの新しい可能性と末来展望

『マルチメディア=双方向メディア』というのは本来ユーザー間でのやりとりに於いて使われる用語であった。
古くは『ハイパーメディアパソコン(FM-TOWNS)』という物も有った(私は元・うんずユーザー^^;)。
TwitterやFacebook等のSNSの台頭によりこの『マルチメディア』という言葉の意味合いが今少しずつ変容してきているように思える。
此処最近Twitterでお知り合いになった方が数多くFacebookへ移行して居られる。
今日もTwitterで古く交流がある佐藤レゴ社長が此方へ来られお友達となった。
又、此方で深い交流がある某女史とTwitterの方でもお世話になる事になった。
SNSのシステムや運用面によりそのどちらとも突出した面をユーザーが選択出来、なおかつどちらも行き来できる、これも又新しい『マルチメディア』だと思う。
『選択の時代』と言われて久しいが実際は情報の海に飲まれているのが現状。
だが賢明なる一部のユーザーはその両方の特性を上手く使い分けているようだ。
これからはこういう巧い使い分が出来る方がこれからの日本を牽引していくと思う
私もその波に飲み込まれないよう巧く乗りこなしたい物である。

2011年2月4日金曜日

宿木の心理学~或いは依る事で得られる物の心理学~

彼女は言った『私の事何も知らない癖に全てを解ったような顔しないで』
そういう彼女の顔は紅潮し目に涙を浮かべそして足はがくがくと震えていた。

一番其れを知っているのは彼女自身されどどうしてもそれを認められなかった。
一人で生きてきた…早くに両親を亡くし幼い弟を連れ必死に生きてきた。

頼るべき『寄る辺』無く幼い兄弟を”自分が支えなくちゃ”と只それだけを頼りに生きてきた。
人に甘えるなんて事は出来なかった、そこで気を抜いて誰かに気を許せば其処で終わりだと思い込んでいたから。

だがどんな強い精神力を持った人間でも気を張り続ける事は不可能、何時かその緊張の糸は切れ心は拠り所を求めて彷徨う…そんな浮遊する心を何とか繋ぎとめようと必死にもがいている時我々は偶然であった。

ずっと”隠し続けていた物””目を背けていた物”を目の前に出され彼女は狼狽しそしてその存在自体を否定した。
だが彼女自身他の誰よりもその”存在の確かさ”に気づいていたしその存在を求めていた筈である。

私は一言…『それは悪かったな、じゃあ…』と片手を挙げて去ろうとした。
その刹那、後ろから発狂に近い声で彼女は泣き崩れた、夜の帳が降りる公園の噴水の一角で…。

『なんで!なんで!今まで一生懸命頑張って隠してきたのに、誰にも今まで悟られなかったのに。
 一生懸命頑張って来たのに…なんで、なんでアンタみたいな初めて会った人に全て判られないといけないのよ!
 親戚すら気づかなかった、兄弟ですら気づかなかったのに…何でよぉぉぉぉ!』

彼女は号泣し嗚咽しそしてその場で崩れた、一気に今まで張り詰めていた緊張の糸が切れ堰を切ったように止め処無く”感情の川”が怒涛の如く彼女の心を流れ去っていった。今までの全てを洗い流すかのように…。

一頻り泣いた後、やっと冷静さを取り戻した彼女の横に私は座り缶コーヒーを横に置いて一人飲み始めた。
彼女は下目使いでまるで子供が大人を覗き込むような顔をしながら缶を開け、そして一気に飲んだ。

お互い黙ったまま…暫くして口を開いたのは私の方。

『きっと解って居たさ、君の親族も君のご兄弟もね、でも余りの君の必死さで誰も其れを言い出せなかったのだろう。
 今のような君の状態になる事を皆が解っていたから。でもね何時かはそれを君自身が知らねばならぬ時は来る。
 その時今のように冷静で居られるかどうかは解らない、そしてその時一番不幸を招くのは君であり大切な家族だ』

彼女は黙って下を向いていた…そして一言絞るような声で言った。
『私はどうすればいいのよ…もう元の私には戻れない。もう前みたいな強い女では居られない…』
そういって又泣き始めた…今度は静かにそして本当に”子供のように”…。
私はその頭を抱え自分の胸に引き寄せた、そして頭をくしゃくしゃにして撫でてやった。
『俺が居るだろ、俺に甘えろ、俺を頼れ、俺を必要としろ、君の寄る辺に俺がなってやるよ。一人で悩むな、一人で泣くな、一人で苦しむな、俺と一緒に悩め、俺と一緒に泣こう、俺と一緒に苦しもう、そして一緒に喜び合おうや』と。

『あ~ん』…今度は本当に幼稚園児が泣くような顔で大声で彼女は又泣き始めた(涙全部体からなくなるぞ(笑))。

それから暫く私と彼女の交流は続いた、最初はまだ肩肘張っている部分も見られたが徐々に其れも解けていった。
彼女の顔から”ケン”が消え、”笑顔”が戻りそれと共に遠ざかっていた人達も又彼女の周りに集まり始めた。

それから暫くして…彼女が急に来なくなった。どうしたんだろう?と思いつつ私も忙しさに感けて連絡を控えていた。
更に暫く後、1枚の絵葉書が届いた、外国からで其処にはウエディングドレスに身を包む幸せそうな笑顔があった。

絵葉書にはこう書かれていた”先生、やっと私見つけたよ。自分の本当の”宿木”を。もう先生には迷惑掛けないから。
それとももう私が甘えてあげないから寂しいかな?(笑)先生、本当に有難う。私の大好きなおにいちゃんへ”。と…。

”こいつ…”と思いながら私は笑顔でその絵葉書をそっと机にしまった。

人は決して一人では生きられない、でも人は人と共に生きる事で新たな力を得る事が出来る。
その大切さを私はこれからも多くの人に説いて生きたいと思っている。

2011年2月1日火曜日

心理職の意地と誇り~或いはプロとしての資質について~

今日は本来対面セッション1件、メールセラピー2件、電話セラピー3件の予定であった。
だがこの内電話セラピー三件に関しては反故にされた(一件は連絡済)。

私は自分に厳しく人にもそれなりに厳しい姿勢で接してきた、それは”心理職としての意地と誇り”があるからである。
ご存知の通り、”心の病”は薬では治らない、一時的に症状を緩和乃至は軽減できたとしても完治には至らない。

”心を治すには心”私はこれを信条とし20年以上お仕事をさせて貰っている。
幸いというべきか不幸というべきかこの冬の異常気象は人の心も蝕み多くの同胞からセラピー依頼が舞い込んできた。
頼まれれば基本、嫌とはいえない性格の人、必要とされれば何処へでも参るしどんな事も厭わない。

だが、それは”同胞も又本気”である事が絶対条件である。
セラピストである私は本気されど同胞は生半可では片手落ちという物。

勿論そういう風に導くのも我が仕事であり私なりに精一杯お勤めをさせて頂いている。
だが幾ら此方が”本気”で接しても”本気”ならない人が居る、生来の物なのか病が成せる業なのか…。

私とて人間であり心も感情も持ち合わせている、我慢にも限界が有るし時間にも限りという物が有る。
幾ら此方が”本気”を見せても一向に”本気”を見せぬ同胞は申し訳ないが切る方向にさせて貰っている。

それで”本気”を見せてくれればまだマシな方、それでも尚、”本気”を見せない所か中には”悪態”をつく不心得者も…
自らの”御心”を病んだのをまるで私のせいだといわんばかりで噛み付いてこられては流石の私も我慢ならん。

中には大激論の末、袂を別つ者も居る、それはそれで断腸の思いなれどやむをえない事である。

閑話休題

日本に於ける心理の理解という物はまだまだ諸外国と較べるとかなり認知度は低いと言わねばならない。
確かに多くのお心を病まれておいでの方は家から出られず経済的困窮状態にある事は理解を示す。

経済的に苦しい方には分割や場合によって完全フリーも居る、中には私が自腹切って対面セッションに行く場合も。
それはそれで結構大変でありそれが毎回となると流石の私も経済的にも肉体的にも限界が来る。

そうなれば他の同胞へも影響が出てそれでは本末転倒故そういう事が長く続く方も又断腸の思いなれど切っている。
中には最初から全く”払う意思”の無い者も居る、最初から”お金が無い”事を言明しその上で助力を乞う不心得者も…

残念ながら私は”神”や”仏”ではない、一介の人間である。神や仏なら慈悲の心で接してくれるだろうが私は無理だ。
私とてこのスキルを得る為に割いた時間や労力やお金は相当な物、それらの対価を全く払う意思の無い者に我が業を行うつもりは無い。

閑話休題

何だか今日は愚痴ばかり書いている気がする(笑)見られる方には大変申し訳ないと心からお詫びを申し上げる。
只、”心理職”という職業がどういう職業でありどういう大変さがあるのか?その一端を少しでも御理解戴きたかった。

今日三件反故(一件は連絡有り)をした方はもう私は二度とその方を診ることは無いだろう。
その時その方々が自らの愚行を恥じるのか?それとも噛み付いてくるのか?それでその人の後の人生が決まる。

私はそう考えている。

私が常、同胞に言う言葉が有る。”心を患っている事を免罪符にするな”。

多くの方々は自らの病と懸命に戦っておられるが中には”私は心を病んでいるのだから”と全てに依頼心を持つ者も。
それは”単なる甘え”であり社会人として許されざる行為である、私はその”甘え”を決して許しはしない。

それを許してしまえば”社会復帰”は叶わない、敢えて心を鬼としそこを乗り越えさせるのも又心理職の仕事。
私はそう考えている。