2013年3月31日日曜日

『セミナーの心理学〜或いはこれから始めようとされる方へ役立つ心理学〜』



『セミナーの心理学〜或いはこれから始めようとされる方へ役立つ心理学〜』セミナーやセラピーを日本各地で行って十数年が経過しました。

フォンセッションを含めたらアメリカやハワイやドイツにも同胞は居ました。
勿論北海道や沖縄、離島の人も少なくありません。

色々な土地土地の人に会い色々な出会いを経験してきました。

その中で”又、是非会いたい”という人も居れば”出来れば視界に入れたくない”という人もw
勿論それは相手にも伝わる訳で”会いたい”と思ってくれる人も”二度とごめん”と思う人もw

私は会う人毎にキャラを変えているので私を知る人数名が集まって私の話をしていても誰もそれが私だとは気づけない時がありそれはそれでみていて面白い。

されどFBではキャラが固定されているらしく大抵何処へ言っても直ぐにバレるw
日本各地を転々としていると無駄に知名度だけは広くなり大抵何処へ行っても目撃証言があるので悪い事は本当に出来ないw

その中には”是非又、お会いしたいですね”と再会を熱望してくれる方も少なくない。
では何故又、会いたいと思ってくれるのか?実はそこには深い理由があります。

一つには今迄誰にも理解されなかった自分の考えを始めて認めて貰えた時。
結構こういうのが私の場合多く、私と有って始めて自分を認めて貰えたという人は多い。

一つには意外な一面を発見できましたという純粋な喜びからという時。
特にセミナーでは普段FB上では出さない見せない部分を出しています。
すると相手はその意外性に惹かれ又、会いたいと思ってくれます。

一つには特にセミナー等ですが”得をした”と思って下さるようにする事。
セミナー受講料分のお話をしたのでは次のご依頼を頂戴する事は出来ません。
しかも幾ら此方が有価値だと力説してもそれを聞く聴衆者が納得して貰わねば意味なし。
その意味においてその日の聴衆者をざっと見て話の構成や内容を微調整します。

特にセミナーは一発勝負なので此処でコケたら同じ会場でお仕事は出来なくなります。
そして何より主催者の人に恥をかかせる事になるのでそれだけは絶対に避けたい。

故に如何に”お得感”を出すかが勝負の分かれ目となります。

此処で大事なのは”地域性”や”集団性”を理解する事。
会場の立地上の”地域性”や集まって下さった方々の関係性や性別、年代等から”集団性”を理解する事。

更にセミナーの場合、主催者やその会の牽引役の人を納得させる喋りをすると得心して貰えその方の得心を見て他の方々も同じように得心を戴ける事が多いです。

100名を超える聴衆者の前では全員に納得して戴ける事はとても困難なのでその中で有力者を一人決めてその人に得心を貰えるよう話の展開を作って行きます。

理解というのは特に集団心理の中では漣に似ている部分があり一つ立てるとその周りに漣が立ちその漣が他の波も巻き込んで大きな波になります。

”漣効果”と呼ばれる心理効果の一つです。

それを利用するとより多くの理解者を募る事ができます。

更に質疑応答時間を必ず取り、お一人お一人とマンツーマンでお話をします。
大事なのは各々の質問の重要性を多くの方にご理解頂く事。

その人個人の質問が他の人へも有用であるという事を示す事。
人は自分の行動が誰かの役に立つ事で自分の優位性を得られます。

そしてそれを導いてくれた人に対して信頼と信用を置いてくれます
そうすると次も又、認めて欲しいと願いセミナーに参加をしてくれるようになります。

こういう感じで一度セミナーを開くと私の場合、二度三度と同じ人が足を運んでくれる。
されどこれ諸刃の剣、同じネタを流用できないので常、新ネタを用意せねばなりませんw

まぁその方がこちらもやる気が出るので嬉しいのですけれどね。

先の漣効果は会の中でのリーダーを見つける方法ととても独特の雰囲気を持っている人も同じ効果を期待出来ます。されどその独特の雰囲気がマイナス修正の人はアウトですがw

一寸したお茶菓子や飲み物も重要なアイテムの一つ。
特に甘い物はそれが苦手な人以外は理解力を増し集中力を高める効果が有ります。

これからセミナー開催を考えて居られる方は是非お試しあれ。

2013年3月30日土曜日

『温度差の心理学〜或いは場の移譲心理学〜』


人と話をしていて急に温度差を感じる事有りませんか?

最初は物凄く熱く語り熱く聞いていた人が急にトーンダウンしてしまう瞬間。

私は結構こういう場面に出くわします(笑)

最初は何気無い話から入るので間口は割と広い方です。

無駄に知識は広範にあるので大抵の話題には付いてゆけます。

と言うか人間がやる事なので必ず何処かしらに共通項は見出せます

その共通項さえ掴めれば後はそれを辿るだけでありそんなに難しい事ではありません。

されどそれと温度差という奴は全く別物です。

例えばある特定の人種に激しい嫌悪感を抱いていたとします。

大抵それは過去そういう人種に被害を蒙ったか或いは被害を蒙った人を知っているか。

されど何故かそういう人が自分の周りには多く余計にそういう方々を嫌悪する結果に。

それが嵩じてくるとそういう空気を漂わす人に出会っただけで嫌悪感を示します。

そして今迄熱く語り熱く聞いていたのに気持ちは冷め心は遠ざかり逃げ腰になります。

そういう人を職業柄沢山見てきたので逃げ腰になる人のパターンは大体見えてきます。

例えばお仕事の話をしていて次回の明確な日時や予定を出す人は興味を持っている人。

次回の話の明確な日時や予定を出さない人は興味関心が薄いか話自体を嫌悪する人。

前者の場合私は詳しいお話を差し上げ後者の場合は早々に立ち去ります。

職業柄此処で食い下がったらこの人の心の問題は解決しないのになとは思うのですが深追いは禁止。

それともう一つ、『セラピー』と言う言葉に過剰に反応する人もたまにいます。

私は心を患ってはいない、だからセラピーは不要ですって言う人が多い。

されど本当にお心を患っていない人は残念ながら『セラピー』という言葉に過剰に反応はしないんです。

これは経験上私も二十年以上お仕事をさせて貰っているのでわかります。

自分のお心が正常である事が解っている人は何を言われても動じる事はありません。

されどお心に何か漣が立っている人はセラピーという言葉に過剰に反応します。

過剰に反応する時点でその人にとってセラピーは必要な物です、少なくとも私の目には。

されどお心を患って居られる方はその事で過去お心を傷つけられ自尊心を奪われた事がある人が多いのでそういう言葉にとても敏感に反応し拒絶反応を示します。

逆を言えばその言葉に拒絶反応を示している事自体がそれが必要な証なのです。

されど先に述べた通り深追いは禁止、下手をすると守銭奴扱いをされ罵倒されます。

そして罵詈雑言を浴びせられあらぬ噂を立てられます、そういう被害にも遭ってます。

故に絶対に深追いはしません、
断腸の思いなれどそのまま見逃すしかありません。

そういう時自らの不甲斐なさを痛感するのですがこればかりはどうしようもない。

閑話休題

されどそんな場面だけではありません、時には逆のパターンもあります。

最初は余り気乗りしなかったけれど途中から身を乗り出して話に夢中になるケース。

そういう場合大抵そういう物をその人が欲していたけれど手に入らなかった場合が多い。

私の場合2000以上のセラピー理論を持っているのでどれか必ず一つはヒットします。

すると相手はそれに食いつき興味感心を示し目が蘭々と輝いてきます。

こうなればこちらの独壇場です、グイグイひっぱり見事釣り上げて見せますw

そういう時の快感は何とも言えず我が意を得たりという感じになります。

ではこの両者の違いは何か?それは先に示した共通項の数の違いにあります。

遺伝子工学的に言えば人間が人間に興味を示すのは違う染色体を持っている人間です。

これは実は生活環境及び生育環境に大きく絡んで居てそれらが違えば違う程染色体の違いは明確化されます。

されど全く異なっていたら特に日本人はそれを異質な物と認識し距離を保ちます。

ある程度の類似性を持ちながらそれでも自分に無い物を持っている人。

そういう人に人は惹かれ興味を持ちます。

そしてそれはその人を具に観察しその人の思考を読めばそれらを示す事が出来ます。

人間が経験する事にはそれが余程の突飛な事でない限り共通点は必ずあります。

其処に気づき其処をお示しする事、それがこの仕事には欠かせません。

それを示せれば興味感心を引き出せますしそれを示せねば或いは信用を失います。

正に生きるか死ぬかの大勝負です、されどそれを恐れていては心の病は治せない。

自らは病んでいないと自負する本当は病んでいる人にそれを気づかせ納得させる。

この事は並大抵の努力ではありませんがそれが出来てこそ一人前の心理職と言えます。

まだまだその意味においては私は未熟者ですがそれ故に伸び代はあると思います。

これからも自らの伸び代を伸ばし少しでも多くの方々のお役に立ちたいと願います。

2013年3月29日金曜日

ストレスの心理学〜或いは疲労の心理学〜


私自身もそうだが最近疲労が溜まり中々疲労が抜けきれない。
深夜のフォンセッション前に二時間程仮眠を取っているのだが時々それを超える時があり慌てて目を覚ます始末である^^;。
毎日同胞の相手で疲労を感じる暇すらないのが現状だが実際かなり疲労を体は感じているようである。
と、同時に最近マッサージへ通う回数が以前と比べて増えている気がする。
最近はセラピーと同時に執筆のお仕事も幾つか頂戴している為にセラピーとセラピーの間やセラピールーム移動時間は大抵iPadを起動して原稿執筆に勤しんでいる。
酷い時は昼食やティータイムの時間を削って(というより同時進行で)執筆をしている。
今日も昼食を摂ったのが午後五時(笑)且つキーボードを打ちながらお握りをかきこむという極めて胃には悪い昼食の採り方をしている。
現代はストレス社会と言われてもう久しくなる。
家を一歩出ればストレスの大安売りで下手をすると家の中ですらストレスを感じる事も有り起きている間はずっとストレスとの戦いだと言っても良いかもしれない。
と、同時に過剰労働による疲労感は半端なくこれもストレスを貯める原因となっている。
多くの人が勘違いをしているというより寧ろ商業主義に則った販売戦略に騙されていると言った方が正解だと思うがストレス=疲労と勘違いをしている人が多く居るように思う。
ストレスと疲労は実は似て非なる物でその元は大きく異なる。
先ずストレスは心が感じる物だが疲労は体が感じる物である。
更に先に疲労が来てそれが溜まってくるとストレスになるというのが普通である。
これを逆に捉えている或いは同じに捉えている人がとても多いように思える。
ストレスは血中にフグ毒と呼ばれるテトロドトキシンの数十倍の毒素を垂れ流す。
故に如何にストレスを貯めないようにするかが大きな鍵となる。
されど疲労の方は実は感じなくては行けない物でありそれを感じなくなる方がヤバイ。
自分が疲れている事を感じ、それを癒す事でストレスを貯めないように体は出来ている。
されどこの疲れという奴も常態化してくると所謂”慣れ”が生じ感じにくくなる。
耐性が出来てきたと言えばそれまでだがそれは決して良い意味ではない。
疲労を感じにくくなるとストレスの蓄積速度は倍加する。
すると体に毒素を垂れ流し体は強制的に休養をせざるを得なくなる。
これは人間の生態学的生命維持活動の一環である。
されど疲労が常態化し感じにくくなるとこのストレスを感じる感覚も鈍って来る。
すると脳内麻薬が分泌され人間はストレスを感知できない身体になっていく。
されど実際は体は思い切り疲労とストレスに蝕まれており結果過労死を招く結果となる。
そうなる前にまずやるべき事は疲労とストレスを自分の中で明確化する事である。
先に述べた通りストレスは心が感じ、疲労は体が感じる物である。
心に疲れを感じたらそれはストレスであり、体に疲れを感じたらそれは疲労である。
体の疲労は体を休める事で有る程度回復は可能だがストレスはそうはいかない。
発散する場所や方法を知らないとストレスの方はどんどん蓄積される一方である。
それを回避する一つの方法として自己の多面性を知る事をお勧めしたい。
ストレスを感じる一番の原因は自分自身の限界とそれを伸ばす方法を知らないから。
そしてそれは自己の多面性を知る事で限界を知りそれを伸ばす事ができる。
例えばストレスを入れる箱が一つである場合と複数個ある場合を想定して欲しい。
当然複数個ある方がストレスを多く収納できるので実際心が感じる領域は少なくなる。
されどこの箱の存在を知らずどんどんストレスを溜め込むととんでもない事になる。
それを回避する為に人間が本来持っているストレスをいれる箱=自己の多面性の存在を知る事でストレスを収納できる箱の存在を多く知る事ができる。
人間は不思議な生き物で箱の存在を知りその数の多さを知る事で安心し奮起できる。
逃げ場があると知るだけでも結構余力は出てくる物である。
されどこの箱の存在や個数は自分の側からは見えにくく発見しにくい。
又、箱の形状や容量を見誤っている人も多い、故に専門家の指導が必要となる。
その箱の存在を、個数を、形状をお教えするのが我々の仕事だと思っている。
これからも多くの方々のストレス除去の為に尽力をして行きたいと思っている。
と言う事で今日も最後のフォンセッションを終えそろそろ休ませて戴きます。
皆様方も良き夢をm(_ _)m

2013年3月26日火曜日

綺麗になりたい人必見!!


『綺麗になりたい』と真に願うなら『綺麗になりたい』と願わない事です。

『綺麗になりたい』と思う心の裏側にあるのは『綺麗じゃない』です。

自分を『綺麗じゃない』と認めている人が『綺麗になりたい』と幾ら願ってもそれは叶いません。

本当に『綺麗になりたい』と願うなら自分の中に眠る『綺麗』を目覚めさせる事です。

貴女の中には貴女しか持てない『綺麗』が眠っています。

誰かの『綺麗』じゃなく貴女にしかない『綺麗』を見つけましょう

私なら貴女の中に眠る貴女にしかない『綺麗』を目覚めさせる事ができます。

多くの方の『綺麗』を目覚めさせ多くの人から『綺麗』と言わせてきました。

次は貴女が『綺麗』と人から言われる番です。

私と一緒に貴女にしかない『綺麗』を見つけて見ませんか?

『信頼の心理学〜あるいは裏切りの心理学〜』


人から裏切られ易い人と裏切られ難い人が居ます。
私もどちらかといえば人から裏切られ易い人です。

では人から裏切られ易い人と裏切られ難い人の差は一体何処にあるのでしょう。
それを知る為には先ず、裏切りのメカニズムを知る必要があります。

人が人を信じるメカニズムはその人を信じるのではなくその人を信じる自分を信じているのです。

それ故に信じている人から裏切られると信じていた自分から裏切られた気持ちになり信じた自分をとても愚かに思うのです。

翻り人を平気で裏切る人は自分自身を信用出来ず結果そんな自分を信じてくれる相手も信頼出来ず裏切るのです。

更に裏切られる前に裏切ってしまえという考えを持つ人もいます。

私も愛方と付き合って三週間目でいきなりふられました(笑)
その理由は”絶対に私が彼女をフルからその前に自分からふった”のだそうで^^;

人は自分がされた事を鮮明に覚えそれを繰り返さない為に防御体制を取ります。
これも又、人間が何も生物学的な武器を持たないが故の生存本能なのです。

傷つきたくないから先ず、相手を傷つけて弱らせて自分を守る。
されどそれは自らが弱さを相手に見せている証拠でもあります。

わが同胞も我が門を叩いた頃は人から裏切られ傷つけられお心が弱り防御本能が働いています。傷つきたくないから人を傷つけ、人から離れられ易いから自らが離れる事でその辛さを回避しています。されど何度傷つけられても何度離れても私は前へ出てその人の側に居ます。

大学時代の後輩、U君もそんな一人でした。

高校時代から社交的ではなくその為に大学へ進学しても中々友達も出来ず挙句バイト先が潰れバイト代が得られないという不幸が続き疑心暗鬼となっていました。

そんな時大学近くの本屋で私と彼は出会いました。
最初の出会いは正に最悪でした。

同じ講義で偶々彼の鞄が席を塞いでいたので除けてくれるよう頼んだら黙って鞄を放り投げそのまま講義を受け続けたのです。

普通なら”先輩に対してなんて無礼な奴”と怒りを露わにする所ですが寧ろ私はそんな彼に興味を示しました。

それ以降バイト先に通い休み時間度に話し掛けました。
その後語学でも教室が隣同士となり朝の講義前に喫煙所で顔を合わすようになり言葉を交わすきっかけを掴みました。

最初の彼の私の印象”この人変!?”という物だったそうです(笑)

そりゃあそうでしょう、思い切り”寄って来るなオーラ”を出しているのに寄ってくるんだもの、そりゃあ’この人変!?”と思われても当然です(笑)

されどその中で彼の心の変化も又、ありました。

”これだけ来るなオーラを出しているのに何故あの人は近づいてくるのだろう”と。
そしてほんの少しだけ”心の扉”を開き始めました、そうなればこっちの物です。
足をドアに挟み強引にドアを開け中に踏み込む、私のお得意の戦法です(笑)

その後大学在学中私は彼の全ての恋愛指南役として彼のお世話をする羽目になりましたw
あれだけ非社交的だった彼は面倒見の良い先輩と変わり我が学部に氏ありという程の人物に成長を遂げました。

私が彼にした事は大した事ではありません。

唯、自分を深く知る事、それを教えたに過ぎません。
自分を深く知るきっかけを私は与えただけ、それで彼は大きく変わる事が出来たのです。

人から裏切られ易い人は先ず深く自分を知る事。
そうすれば裏切られ難い人になれます。

2013年3月25日月曜日

『慣れの心理学〜或いは常態化の心理学〜』


本日は防府へ参り、二年前新人だった駅員さんと乗車二度目のタクシー運転手さんのお世話となった。

駅員さんは新人の頃とてもおどおどとしていてその緊張感が此方にもビンビン伝わりそれがピリピリとした空気感に変わりとても違和感を感じていた。

二年後、その空気感は更にその度合いを増し、更に経年による慣れからくるだれも出てきていて余計に我々の神経を逆なでする結果となった。

一方の運転手さんも同じ。

対応は初回も二度目も此方が恐縮する程に丁寧であったが丁寧で有る事と学習意欲が有る事とは同義ではない。

私が利用しているタクシーは他のタクシーよりも僅かだが利用運賃が安い。
所謂リタイヤ組が多く他からの転職組がとても多い。
つまり経験年数から言えば他のタクシー運転手よりも豊富な人が多い。
実際車椅子の扱いに慣れておられる方もとても多く我々も助かっているが今日の御仁は1度目も二度目も扱いに全く慣れておられなかった。

我が街は高齢化住宅が多く所謂限界集落がとても多い街で限界集落の中で日本一高齢者が多い街として全国に知れ渡っている。

当然福祉にも県を上げて取り組んでおり老人福祉や身障者福祉は他県と比べても充実していると言って良いだろう。

その恩恵を受けてかタクシー利用客の多くは体の不自由な人か高齢者、次いで他県からの利用客が多い。

他県からの利用客が少ないというのも又、常態化しやすい原因の一つであろうと思う。
他県から来る方ならばどうせ次は合わないだろうと好きかってを言われるかもしれないが同郷人だと次も何処でお世話になるかわからないからとお茶を濁される方も少なく無いであろう。

実際、今日買い物途中も大学時代の先輩や行きつけのガストの店員さん等多くの同県人を店内で見た。

田舎故に行動パターンが同調化しやすくこいつストーカーしてるんじゃないか?と疑いを持ちたくなる程同じ場所で同じ人を見掛ける

何の事は無い行動様式に類似性が有りその類似性がとても高いというだけの話である。
そしてその類似性は選択肢が少なければ少ない程高くなる。それを回避させる為には一極集中させず人口を上手く分散させる必要がある。

特に防府はサティかロックタウンしか大きな商業施設がないので駅からのアクセスが良いサティか駅からのアクセスは悪いが選択肢が多いロックタウンを選ばざるを得ない。

こちらとしては電車で10分足らず、車での移動を考慮しても20分片道で移動できる利便性から防府へ行く回数の方が此処近年圧倒的に増えている。
そしてそれは我々だけでなく我々と居住区やワードローブを同じくする方々も同じ考え方のようである。

長時間移動や高い移動費を掛けずともある程度の買い物が出来ある程度の満足を得られる場所へ人は移動しやすい傾向にある。

されどそれは小さい満足であり常態化しやすく常習性が高い。
店側にして見れば有難い事のように思えるが常習性が高いという事はその分飽きられやすいという面もありウインドーショッピングはしても買い物は他県でという人も増えてくる。

実際休日だというのに人はまばらで行き交う人々の手元に買い物袋を見て取れる事は少ない。
時間潰しではないがそれなりに楽しい時間を過ごせればそれで良いとする人が増えている。
実際、愛方も地元でも買える商品ばかりで此処でしか手に入らない物は一つも買わなかった。

これは生産と消費のバランスシートからするととても悪い例である

それを改善するには商業施設を増やし選択肢をもっと増やし競争意識を高める事。
売り手の意識を高め買いたいという消費者の気持ちを奮い立たせる事。
安値で勝負するのではなく中身の充実度で安さを強調する事、その際にお得感を如何に演出するかが大事である。

量より質。

今迄は増量嗜好だったがこれからは良品嗜好にシフトすべき時に来ていると思う。

大量生産大量消費の時代は既に頭打ちに来ている。

これからはより良い物をお手頃価格よりも少し割高になるがその分ラグジュアリーな雰囲気を味わえる物がもっともっと流行るであろう。
というかそうしていかないと残り少ない資源を有効活用出来なくなる。
地方の商業施設もその意味において過渡期に来ているのかもしれない。

そう思いながら帰宅の途に着いた。

2013年3月23日土曜日

『成長の心理学〜或いは常態行動心理学的刺激の心理学〜』


数ヶ月ぶり、下手をしたら年単位で我が教え子と会食を共にした。
何度か行き帰りの電車ですれ違う程度の出会いは有ったがゆっくりと話す機会を得たのは久しぶりであった。
風貌は変わらず、真面目を絵に描いたような好青年。
されど中身はしっかりと成長の度合いを示していた。
契約社員から正社員となり仕事場も変わり暫くは居住区も移って居た。
結局諸々の理由で家から通いとはなったがその数ヶ月が彼を大きく変える転機となった。
彼自身はまだ気づいていないが彼の目の奥の輝きの違いを私は見逃さなかった。
先ずは契約社員から正社員への職業的ステータスの変化。
これには当然責任度が変わってくる。
契約社員の頃と比べて仕事の内容も仕事時間も当然保証もサラリーも違ってくる。
そうなれば当然契約の頃よりも”責任”の重さはかかってくる。
勤務時間も長くなり勤務内容も責任を問われる物が増えれば当然自己責任の重さは自らが感じざるを得ない。そうなれば無意識的に成長をしていかねば現行のままでいられない。
後輩の有無は契約社員の頃と同じでも様々な環境変化は責任を持たせるには十分。
次に転居に伴う五感情報の変化。
実はこれが一番大きい、今迄数十年慣れ親しんだ場所を離れまだ見ぬ土地へ移動する。
当然五感情報は全てアップデートされ脳内情報は全く異なる物となる。
日本人が海外出張で長期滞在し帰国の途に着くと別人となっているケースがある。
実はその正体がこの五感情報のアップデートが原因である。
彼の場合安穏とした場所から急に雑多な人がいる場所へ移動となった。
長閑な風景は一変し都会へ移る事となった。
当然その中で生きて行く為には自分自身を変えて行かざるを得ない。
何も持たず海外へ行き生きる為に必死に語学を覚えるのと同じ。
生きる為に人は五感情報をフル活用し今の生活に馴染める自分を作っていく。
その五感情報から受ける刺激が脳を活性化させ肌を活性化させる。
風貌を変え、考え方や物の見方を変えていく、それが成長に変わっていく。
彼が短期間で目覚しい成長を遂げた裏にあったもの、それは五感情報のアップデートにあった。
そして其れこそが”常態行動”の変化にあったのだ。
生まれてから転居する迄の年数よりも短い年数なれどその分五感から得られる情報は新鮮な物ばかり。
そうなると脳はその中で様々な刺激を受けていく。
それが”常態化”され刺激を受ける事で成長が叶う。
されど全ての人間がそうなるかといえばそうではない。
以前の生活に満足し今の生活に不満がある人はその成長の度合いが遅くなる。
それは今の生活が嫌で元に戻りたいという欲求が成長を阻害するからである。
最初は誰でも不安で一杯で出来るなら戻りたいと思う筈である。
されど逃げられないと諦めた瞬間から成長は始まる。
諦める事はそれ自体が悪い事ではなくそこから始まる成長が大事である。
されどその諦めがマイナスに作用し燃え尽き症候群になるケースもある。
所謂”五月病”の原因が其処にある。
されどそれも”常態化”が成功すれば徐々にそれらの症状は改善されていく。
実は花粉症もその一つ、確かに杉や檜の飛散量は変化するが全体的な花粉飛散量は変わらない。
されど鼻が花粉を取り入れる事を常態化させる事で症状の軽減が成るのである。
それと丁度杉や檜の飛散量が減る時期と重なるだけの話である。
更に彼のそういう成長が我が脳に刺激を与え明日からの私の変化にも繋がって行く。
人の成長はその人だけの成長ではなくその人と接する人をも成長させて行くのである。
子の成長ぶりを見て親が成長をして行くのと同義である。
望むらくはそういう成長の連鎖が世界中で起きて欲しいと願う。
さすれば無益な血が流れる事も何時か無くなると私は信じている。
それを信じてこれからも多くの人を少しでも良き方向へとお導き差し上げたい。
それが私がこの世に存在している存在意義だと確信をしているからである。

2013年3月20日水曜日

『困難の心理学〜或いは限界突破の心理学〜』


我が門を潜る者の多くは他者からお心を傷つけられそれ以上傷つけられたくなくて守りに入りそれ故に一歩を踏み出せず前へ進めない方がとても多い。

そういう方の常套句が”無理です””困難です””出来ません”である。

だが実は上記の言葉を発せられる人はそれを行う事が可能な人である。

例えば英語を話すのが”難しい”という人がいる。

されどそれが”難しい事である事を理解している”という事に気づく人は余り居ない。

例えばいきなり”スワヒリ語”を話せと言われて流暢に話せる人は極少数だろう。

されど”英語を話して下さい”と言われ片言でも話せる人は大多数で有る筈である。

それは日常生活の中に多くの”英語”があり五感でそれを常、感じ取っているからである。

翻り日常生活の中でスワヒリ語に五感で触れられる機会がある人は極少数である。

故に”英語を話す”事は”困難である事を理解している分だけ困難ではないという事になる。

本当にそれが”困難”である場合はそれが”困難である”という事すら理解できないからだ。

更に我が門を潜る多くの方々は私の事を賞賛してくれるが本当に凄いのは私ではない。

良く”先生の後押しがあればこそあの時私は立ち直れたんです、先生のお陰です”と言われるが大事なのは”後押しをして前へ進めた事実”である。

幾ら私が”後押し”をしても逆方向に進んでいれば力は相殺され前へは進めない筈である。

”前へ進めた”という事は既に本人が”前へ進む意思”を持っていたという事である。

ようは私は”前へ進もうと頑張っている人”に”推進力”を与えて差し上げたに過ぎない。

”推進力”をお与えするのは私でなくても出来るが”前へ進む”事が出来るのは御本人のみ。

我々心理職はその”如何に前へ進ませるか”その手解きをほんの少し差し上げるだけ。

それが凄いんですと言われればそれまでだが二十年も同じ仕事をしていてそれが出来ないのならばその仕事は辞めた方が良い(笑)二十年もやっていればそれが出来て”当たり前”である。

閑話休題

FBの世界に身をおいて結構な年数がすぎた。

友録も増え、世界中の人と交流を得る機会を与えられた。

お国柄、つまりナショナリズムは文章の表現に必ず現れる。

同じ英語を書いていても英語圏の人とそれ以外の国の人とでは表現方法が違う。

表現方法が違えばそれを受け取る人の受け取り方も当然違ってくる

そしてそれは何も言語の違いだけに留まらない。

例えば同じ日本国内であったとしても熱い地方の人と寒い地方の人では考え方に大きな隔たりがある。

同じ我慢を強いる環境下の人でも高温と低温とでは受ける刺激が違うから。

そうなればその生活環境に適応する考え方なり物の見方が当然出てくる。

そして心の変化はその日常生活における無意識行動の中に必ず現れる。

例えばFB内で言えばいいね!の数やいいね!を押してくれた内容の変化である。

それを具に見ていれば友録さんの”今”を知る事ができる。

その時その変化を見逃さず、すかさずお声掛けを差し上げる事が大事である。

それは常、その人に気を配っているというサインでもある。

そのサインを示すだけで悩みが解決したりその方向性が見えたりする物である。

我々心理職はそうやって少しでも御悩み解決へ向け尽力をしている

そういう事を色々と考えながら自身のウォールの構成も知らず知らずに作られている。

すると”瀬木ウォッチャー”なる方々も偶に登場される(笑)

私自身は有名人でもないのだが我が拙いウォールを毎日楽しみにしている方が居られる。

そう言う方々が居られるとこちらとしても奮起してウォールを充実したいと思う。

元々が求められるとその求めに応えちゃう人なのでそれが常態化されている(笑)

これからも硬軟取り混ぜて少しでも閲覧者方々が楽しんで戴けるウォール作りに勤しんで参りたいと思っています。

2013年3月14日木曜日

専売特許の心理学〜或いは専門の心理学〜



歴史学は歴史学者だけの専売特許ではない。

歴史の中で生きてきた”人々の心”は心理学の分野である。

地理学も同じ。

その土地に生きてきた人々の”思い”がその土地の形成に大きく関わっている。

つまり全ての学問は須らく”心理学的要素”が介在しているという事である。

広義的に言えば他の学問とマルチリンクしており学者の専門領域ではないという事だ。

専門でない者は須らく素人であるとは限らない。

専門で無い者でも専門家の目からは見えない部分をよく見ている場合もある。

『弘法も筆の誤り』

専門に溺れ専門に胡座をかいていれば素人に足元を掬われる事もあるのだ。

その意味で私は多くの方々の意見を聞く事を常としている。

先日も或る駅員とこんな話で盛り上がった。

駅員『先生は超賢いッスけど俺は超馬鹿ッスね』

私『君は超馬鹿ではないよ』

駅員『厭味っすか?俺先生見たいに学歴もないし知識も全然無いっすよ』

私『知識や学歴はそれを活かしてこそ意味がある。どれだけ高い学位を持っていてもどれだけ広範な知識を持っていてもそれを活かし社会で役立てねば何の意味も価値もない』

駅員『そうっすねぇ、言われてみれば確かにそうっすねぇ』

私『確かに私と比べて心理学的知識や経験は君は少ないかもしれない。されど君は駅の事、野球の事、その他多くの事を私よりも遥かに知っている。人には誰も得意分野がある。君は君の得意分野があり、私は私の得意分野がある。心理学的分野に関しては私は君よりも年長で経験も知識もある分先生と呼ばれるかもしれない。されど駅の事や野球の事等は寧ろ私よりも君の方が先生と呼ばれるに相応しい。つまりはそういう事さ』

駅員『やっぱ先生、超頭いいっすねぇ』

私『(^^;;』

彼から私は専門の何たるかを学ぶ事ができた。

専門家として胡座をかいていたつもりはないが彼との会話の中で改めて心理学という分野をもっともっと深めたいという気持ちになれた。

素人と馬鹿にする無かれ、素人なればこそ専門家とは違った視野や見解を持っている。

その視点や見解は専門家である我々には到底及びもつかず想像も出来ない物である。

小さい子供から発想のヒントを頂戴した事も一度や二度ではない。

彼ら彼女らのように色眼鏡を持たぬ者の方が遥かに専門家より斬新な発想を持っている。

その意味において私は常、謙虚さは持っていたいと思う。

専門家としてのプライドも意地も持ちつつ柔軟性だけは失いたくない。

多くの方々から学びを常、頂戴しながら日々成長をして行きたいと思っている。

そう思っている限りまだまだ専門家として成長が叶うと信じているから。

それが専門家である所以ではないかと私は考えている。

2013年3月13日水曜日

『嫌よ嫌よも好きの内』の常態行動心理学的解釈


 『嫌よ嫌よも好きの内』は他者を意識すればこそ嫌いにもなる、裏を返せば気になる位好きな証が一般的な解釈であるが常態行動心理学的にはちと違う。

これは他者ではなく実は自分へ向けられた言葉。

日本人は他者と自分を比較しどうしても人は自分を卑下してしまう傾向にある。
特に日本人は侘び寂び文化の中で質素倹約を尊び謙遜を尊ぶ傾向が昔から強い。
目立たない事で逆に目立とうとする、所謂『粋』の世界の話です。

されどそれは昔の話、まだ外国との国交もなく国内だけで事が済んでいた時代の話。
今は違う、街を一歩出れば必ず一人は異国人に会う時代です、大抵何処へ行っても。

そうなれば自と他の違いは、もっと端的にいえば異質性は嫌が上にも知る事になります。
それがナショナリズムでありパトリオティズムとなります。

異質性を知ればこそ自国の国際性を深く知り得る事ができますし愛する事もできます。
自国とは国という意味だけでなく国民性、つまり究極的には自分自身との対峙です。

自分の事が嫌いだと連呼する人は本当は自分大好きな人。
自分が大好きだからこそ故に一寸した自分が気に入らない。

他者と自分を比べるのじゃなく昨日の自分と、端的に言えば一秒前の自分と比べて見ましょう。今目の前にいる貴方は一秒前の貴方じゃない、その時点で貴方はもう別人です。

そう考えれば一日の内でどれだけの顔を持てるのか?
それが一週間になり、一ヶ月となり、一年、10年となればどうなるのか?

その数は天文学的数字となるでしょう。
それこそ全ての顔を把握できない程多くの顔を持つ人になれます。

裏を返せばそれが全て貴方の心の方向性を示しています。
360℃有るという事は少なくとも360個の顔を持てるという事です。
これは悪までも同時系列での話。

これに経年を加えればもう天文学的数字以上となるでしょう。

それが”貴方”という存在自身であり存在意義で有ります。
多くの”自分に自信が持てない”という人を”自信満々”にし、
多くの”自分が嫌い”という人を”自分大好き”にしてきました。

それは特別な方法や器具を使った訳じゃありません。
自己の持つ無限の多面性をお示しした、唯、それだけです。

されどその”自己の持つ多面性”をお示しする方法に関してはこれまた無限にあります。
一通りでも二通りでもなく無限の方法があります。

プロがプロたる所以はその無限に近い方法の中で如何にその人に合った方法を示し、結果をその人の目に映る、その人の心に響き、納得できる形をお示し出来るか?に尽きます。

それがプロとアマの大きな違いです。

私はプロです、自認できますし認知もされています。
逆を言えばそれ故に素人みたいに”失敗”は絶対に許されない。
”失敗”は即ちこの世界で飯を食えない事を意味します。

常、そういう危機感を自らに植え付けながら私はお仕事をさせて貰っています。

私は立派な学位も立派な学術論文も持っていません。
されど私が求めているのは机上の空論じゃなく実証理論であり実証結果です。

同胞の心を救う為に必要なのは知識だけじゃ駄目です、実証的データこそ全てです。
されどそれは入念な下調べによってそして経験によってのみ得られる物です。

時に自らの体を実験体とする時も有ります、されどそれも限度物です。
限度を越えれば廃人となりそれこそ人の心を治す騒ぎではなくなります。

我が元にはそういう研究者も多く来訪されます。
自らを実験体とし過ぎてお心を病んでしまった方々です。

中には著名人も含まれています、正に『ミイラ取りがミイラになる』の実証です。
そうならない為にも常、頭をフル回転させて心について研究し実証データを増やす。
それこそが心理職にとって大事な事であると私は考えています。

人の心を治すのは薬じゃない、器具じゃない、心です。
これからも私は”心の病は心で治す”をモットーに頑張って行きたいと思います。