2013年3月6日水曜日

常態行動心理学的日本人的救済論


例えば今目の前に困っている人がいる。
大変だろうなと手を差し伸べる。
日本人はその手を差し伸べられた方が手を払いのける国。

『武士は食わねど高楊枝』の精神が武士階級崩壊後も残る国。
それは助けられる事になれていないと言い換える事ができる。

島国且つ単一民族なので結束力は強いが余所者にはとても排他的な面がある。
『ムラ主義』がまだまだ都会も田舎も問わず残っていて異質な存在を受け入れらない。
社会学者バージェスの同心円理論を出すまでもなく空洞化現象が其処に起きる。

又、助け合いの精神に薄れ助けられる事を恥とする文化的背景もある。
例えば切腹がそう、例えば特攻隊がそうである。
死する事を尊しとする犠牲的精神文化だと生き残る事は寧ろ悪だとする風潮がある。

『楢山節考』の例を出すまでも無く先人の教えは生きる糧となる。
されど老いては子に従えとばかり老人は社会から隔絶され隅っこに追いやられる現実。
彼ら彼女らの奮闘努力の元に今の日本が成り立っている事を多くの人は失念している。

政府の無策もそれに拍車を掛ける。

『後期高齢者医療制度』等は年寄りは早く死ねと間接的に言っているような物である。
彼ら彼女らこそ未来の日本を生きるリヴィングシンクタンクである事を失念している。

誰かが誰かを助ける、その時助けて貰った人を助けずとも別の人を別の形で助ける。
するとそれが連鎖となり間接的に助けて貰った人を助ける結果となる事を知らない。

されど大震災等で自分以外の人も同じように助けを求めている場合声高に助けを求める。それはそれをしないと助けて貰えないと解っているから。

生命維持の観点からは至極当然なれど人の好意を素直に受けれない国。

私は職業柄目の前で困っている人をみれば何も考えず手を差し伸べる。
或いはそれは自殺行為かもしれないと解って居ても無意識に手が出る。

助けられた方は自分よりも社会的下位に位置付けられている者に助けられる恥辱に耐えられず殆どの場合それを激しく拒絶する。されど私は聞く耳持たずその手を休めない。

暫く押し問答が続くがその後相手も諦めて大抵素直に助けられてくれる。
一頻り処理が終わる頃、大抵の人が尋ねる『何故自分を助けてくれたのか?』と。

私は答える。
『理由なんてない、自分の目の前で誰かが困っていて誰かが助けを求めていたらそれをするのが人間じゃないの?其処に何か理由付をする方がおかしいんじゃないの?少なくとも俺は先に手が出る。生憎余り頭が高尚には出来てないんでね』と言って黙って立ち去る。

大抵の場合名前を尋ねられたりお金を払おうとするがそれを固辞しその場を立ち去る。
私がその人に何かをして差し上げた事でその人の中で何かが芽生えそれを別の人に別の形でしてさしあげればそれが巡り巡って何時か自分に戻ってくるかもしれない。

よしんばそれが戻らずともそれはそれで問題がない。

自分の中の衝動的な救済欲求が満たされただけでそれで満足である。

職業的にも私はお節介が過ぎると同胞や生徒に笑われる。
何の得にもならないのにと失笑されるが私は御構い無し。

得をしたければ別の方法を取る。

されど困っている人を助けるのに見返りを求める馬鹿も居ないだろうというのが持論。
それを例え仕事としていてもである。

究極のお人好しだのという余り有難くない称号を頂戴している。
されどそれも私という存在の一部分だと認め受け入れている。

偶にはこういう変わり者が居ても世の中面白いのではないかと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿