2013年3月13日水曜日

『嫌よ嫌よも好きの内』の常態行動心理学的解釈


 『嫌よ嫌よも好きの内』は他者を意識すればこそ嫌いにもなる、裏を返せば気になる位好きな証が一般的な解釈であるが常態行動心理学的にはちと違う。

これは他者ではなく実は自分へ向けられた言葉。

日本人は他者と自分を比較しどうしても人は自分を卑下してしまう傾向にある。
特に日本人は侘び寂び文化の中で質素倹約を尊び謙遜を尊ぶ傾向が昔から強い。
目立たない事で逆に目立とうとする、所謂『粋』の世界の話です。

されどそれは昔の話、まだ外国との国交もなく国内だけで事が済んでいた時代の話。
今は違う、街を一歩出れば必ず一人は異国人に会う時代です、大抵何処へ行っても。

そうなれば自と他の違いは、もっと端的にいえば異質性は嫌が上にも知る事になります。
それがナショナリズムでありパトリオティズムとなります。

異質性を知ればこそ自国の国際性を深く知り得る事ができますし愛する事もできます。
自国とは国という意味だけでなく国民性、つまり究極的には自分自身との対峙です。

自分の事が嫌いだと連呼する人は本当は自分大好きな人。
自分が大好きだからこそ故に一寸した自分が気に入らない。

他者と自分を比べるのじゃなく昨日の自分と、端的に言えば一秒前の自分と比べて見ましょう。今目の前にいる貴方は一秒前の貴方じゃない、その時点で貴方はもう別人です。

そう考えれば一日の内でどれだけの顔を持てるのか?
それが一週間になり、一ヶ月となり、一年、10年となればどうなるのか?

その数は天文学的数字となるでしょう。
それこそ全ての顔を把握できない程多くの顔を持つ人になれます。

裏を返せばそれが全て貴方の心の方向性を示しています。
360℃有るという事は少なくとも360個の顔を持てるという事です。
これは悪までも同時系列での話。

これに経年を加えればもう天文学的数字以上となるでしょう。

それが”貴方”という存在自身であり存在意義で有ります。
多くの”自分に自信が持てない”という人を”自信満々”にし、
多くの”自分が嫌い”という人を”自分大好き”にしてきました。

それは特別な方法や器具を使った訳じゃありません。
自己の持つ無限の多面性をお示しした、唯、それだけです。

されどその”自己の持つ多面性”をお示しする方法に関してはこれまた無限にあります。
一通りでも二通りでもなく無限の方法があります。

プロがプロたる所以はその無限に近い方法の中で如何にその人に合った方法を示し、結果をその人の目に映る、その人の心に響き、納得できる形をお示し出来るか?に尽きます。

それがプロとアマの大きな違いです。

私はプロです、自認できますし認知もされています。
逆を言えばそれ故に素人みたいに”失敗”は絶対に許されない。
”失敗”は即ちこの世界で飯を食えない事を意味します。

常、そういう危機感を自らに植え付けながら私はお仕事をさせて貰っています。

私は立派な学位も立派な学術論文も持っていません。
されど私が求めているのは机上の空論じゃなく実証理論であり実証結果です。

同胞の心を救う為に必要なのは知識だけじゃ駄目です、実証的データこそ全てです。
されどそれは入念な下調べによってそして経験によってのみ得られる物です。

時に自らの体を実験体とする時も有ります、されどそれも限度物です。
限度を越えれば廃人となりそれこそ人の心を治す騒ぎではなくなります。

我が元にはそういう研究者も多く来訪されます。
自らを実験体とし過ぎてお心を病んでしまった方々です。

中には著名人も含まれています、正に『ミイラ取りがミイラになる』の実証です。
そうならない為にも常、頭をフル回転させて心について研究し実証データを増やす。
それこそが心理職にとって大事な事であると私は考えています。

人の心を治すのは薬じゃない、器具じゃない、心です。
これからも私は”心の病は心で治す”をモットーに頑張って行きたいと思います。

1 件のコメント:

  1. はじめまして。吉田ともうします。
    楽しく読ませていただきました。

    自分が嫌いをやめるという事と
    仏教でいうところの「誤知」をやめるという事はなんだか似ているなと思いました。
    (誤知:現象をありのままではなく、自分があってほしいと思う形で認識してしまうこと)


    あの、ところで実はこちらが本題になってしまうのですが
    こういう事があって自分が嫌いになってしまうということもあるんじゃないかという現象?があるのですが、心理学用語で呼び方などは無いものでしょうか?

    自分が何か失敗をしてしまったと思い込む→周りの人間も自分に対して失望していると感じる→でもそれは幻想だった

    という具合に「自分が認識している他人との状態や関係(姿形)を、他人も同じように共有している」と思い込んでしまっている状態のことです。
    あるいは「あれ?僕たちは恋人の関係じゃないの?」というように、思っている関係(の形)を相手も共有していると思い込んでしまう心理。呼び方などがありましたら教えてください。

    長文になってしまってしまいましたが、読んでいただけたら幸いです。

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