2013年1月31日木曜日

『蛙の子は蛙』ではない常態行動心理学的理由

人を揶揄する際に『所詮蛙の子は蛙だよな』と良く言いますがそれは間違いです。 大事なのは『生まれ』ではなく『育ち』の方です、しかも親から自立後の。 『親の育て方』が悪い子が全て犯罪を犯しているのなら世の中犯罪者だらけです。 何故なら『親の育て方』にセオリーがないからです。 一方的な愛情を注いでも千尋の谷から突き落とす突き放し教育でも子供は正しく育つとは限りません。 以前も此処で申し上げましたが愛情には『方向性』が有ります。 それは人の『心』に『方向性』がある事に起因しています。 その『方向性』を違えれば『過保護』でも『放任』でも親の望む方向には進みません。 本当に親の望む方向に進ませたいなら『子供の心の向き』をちゃんと知る努力を怠ってはなりません。 我が元にはそんな『子供の心の向きを知る努力を怠る親』が数多く来訪されます。 そして自らの無学を棚に上げ子供の無知さを嘆きます、甚だ可笑しい話ですが。 そういう馬鹿親には『遠隔操作セラピー』で先ずお子さんを変え変わったお子さんと同じ場を持つ親御さんを変えるやり方で結果『お子さんが望む親』に変えています。 (つまり親が望む方向ではない方向にw)。 閑話休題 人間の遺伝子は『生来型』と『学習型』に大別されます。 『生来型遺伝子』は親からの遺伝子情報を引継ぎ顔形や嗜好等に影響を与えます。 『学習型遺伝子』は親元から離れ自立後自らが得る五感情報により自らの遺伝子を学習させその結果成長して行く遺伝子です。 『蛙の子は蛙』ではない常態行動心理学的理由が正に此処に有ります。 親元から離れ違う場所で違う生き方をした子は『蛙の子は蛙』にはなりません。 親の影に怯え自立できず親の存在が頭から消えない子は『蛙の子は蛙』になります。 つまり『自立学習型』は『蛙』にならず『依存踏襲型』は『蛙』になります。 これが『蛙の子は蛙』にならない常態行動心理学的理由であります。 良く親御さんが近所の不良の子を見て『蛙の子は蛙』よねと揶揄される場面。 そういう時に私は不良っ子にこの言葉を言えと指導しています(笑) 大抵は度肝を抜かしそれからは揶揄しなくなり揶揄されなくなると不思議と馬鹿もしなくなるものです。馬鹿をしたくなるのは自らを認めて欲しいがゆえです。 自らの存在価値をちゃんと認めてくれる人が1人でもいれば案外人は余り馬鹿をしないものです。 こういう更生のさせ方も又、ありだと思います。

2013年1月30日水曜日

『容認』と『黙認』の心理学的違いとネット内虐め撲滅対策法について

『容認』と『黙認』は全くの別物である。 言うなれば『公認』と『非公認』位の違いがある。 前者はその行動を知った上でそれを受け入れている。 後者はその行動を受け入れてはいないが敢えて見て見ないふりをしているだけである。 最近この『容認』と『黙認』を玉石混交している人間を数多くネット内で見掛ける。 例えばTwitter等での有名人に対する批判スレッドがその際たる例である。 あの手の輩は下手に騒ぐと余計”火に油を注ぐ”事になる、所謂”炎上”という奴。 それを逆手にとって人気取りをする上手も最近は出て来ているがそれも限度物。 炎上タレントは生命力が少なく飽きられたら誰も相手にしてくれなくなる。 最近でいうと某巨大ガールズユニットの元センターを真似たタレントだろうか。 ああいうのは打ち上げ花火と同じでパッと咲いてパッと散る、 所謂『一発屋』が多い。 過去にもそんな『一発屋タレント』の凋落ぶりは多く見ている筈である。 何も事は有名人だけに留まらない。 一般人相手でも挑発したりからかったりを生業?としている悪趣味の輩がいる。 本人的には”親愛の情”を示しているつもりであろうが周りからすると”空気の読めない奴”で大抵は終わる。 されど”空気の読めない奴”なので下手に喧嘩を売ると”飛び火”され被害を拡大させられかけない。 それは困るので皆、適当にあしらい”黙認”していている。 されど本人は誰も何も言わないので自らの行動を”容認”されたと思いどんどん暴走はエスカレートしていく。 ネットの世界は非常でそういう”KY”な人間は切られてお終いである。 リアルの世界では中々そう簡単には行かないがそれがネット社会の恐ろしさである。 そしてもっと恐ろしいのは”その人目線”で相手に見えない場所での批判スレッドが立つ。 更にリアルにその人を知らない人は信用に足る人物が批判している人を無条件に避ける。 こうなるとネット内で孤立無援となりその場を去るしかなくなる。 最近はこれを逆手にとって”ネット内虐め”を行う人間も多数各所で見掛ける。 恐ろしいのはそれが元で人間不信に陥りリアルな人間関係にすら大きな影を落とす事。 被害者はリアルとネットの区別がうまくつかないのでそれをリアルの世界に持ち込む。 あくまでネットはネット、リアルはリアル、相手もそれ位の区別はつく。 そうじゃないと今度は下手に現実で批判をした人間が批判対象となるからだ。 されど批判をされた側はそれが解らないので人間不信に陥り我が門を叩く。 こういう由々しき問題に対して我々はネット内での解決に日夜勤しんでいる。 ネット内で起こった事件は基本ネット内で解決をするというのが我々の考え方。 複数人の仲間を中に入れて批判をした人間に理路整然とした反論を行う。 感情論で攻めては我が同胞にしたのと同じレベルに落ちてしまうのでそれはしない。 そして何より大事な事は同胞に”私の仲間”だと悟られず”味方意識”を与える事。 ”ネット内で自分は一人ではない”という意識を与え戦う意欲を与える事。 そして最終的に被害者自身の力でネット内で反論させる事。 それが我々の最終目的地。 集団で理路整然と責められ且つ被害者が理路整然と反論を行えば今度は形成逆転となる。 こうやってネチケット違反者を撲滅して行くのも心理職の大事な仕事の一つである。 心理職のフィールドは案外広いのだ。

2013年1月29日火曜日

無から有は生み出せ無い常態行動心理学的根拠について或いは私がメンタルアーティストと呼ばれる訳について

私は自らを『アーティスト』だと言って憚らない、『メンタルアーティスト』だと。 私は真の『アーティスト』ならば『無から有を生み出す』のではなく『有から有』を生み出す物だと思っている。 ”0”はどうやっても”0”であり、絶対に”1”にはなれない。二進数も十進法も”0”は”0”である。 アニメーションは1秒間に数十コマを撮りそれを連続で映す事で淀みない動きを作る。 これは裏を返せば人間を含むこの世に存在する全ての存在が”コマ送り”の動くをしているということの裏返しである。 ”一挙手一投足”という言葉が示す通り全ての存在は”コマ撮り”で表す事ができる。 即ち此処にも”無から有”ではなく”有から有”が生み出されているという証拠である。 我々が考える思考は全て”生来型遺伝子”により生まれ持ってこの世に生を受けた段階で親から引き継がれた物で基本概念は出来上がっている。 これに生後様々な五感情報から得た情報により”学習型遺伝子”が学習し情報を得た結果新たな”思考”が生まれてくる。 つまり”思考”自体が生来型遺伝子及び学習型遺伝子により構成された物であり”完全オリジナル”な訳ではありません。 これも又、”無から有”ではなく”有から有”な訳です。 いわゆるファンタジーの世界もこれに同じ。 ファンタジー小説に出てくる”錬金術”も”等価交換の法則”に則っており等価値の物しか生み出せ無い事になっています。 ”召喚術”もこの”等価交換の法則”に則っており”何かの犠牲”なく”召喚”できない事になっています。 ”棚から牡丹餅”や”濡れてに泡”なんてのは諺の世界だけであり実際には起こり売りません。 それが起こり得ると思っているのはその前に”事前行動”が必ずあるからです。 つまり”引き寄せの法則”です。 人は自ら”棚から牡丹餅””濡れ手に泡”になる状況に自らのポジションを無意識的にポジショニングしているのです。其処に気づけないだけで幸運も不運も全ては”引き寄せの法則”に則っているのです。 不幸だなとか幸福だなと運任せにしていないでその状況になった自分を精査してみる事。 すると不幸を遠ざけ幸福を引き寄せる法則は必ず存在しています。 私が”マジシャン”と呼ばれる所以はその”原因”を究明し”幸福を引き寄せ不幸を遠ざけ”る事ができるからです。 案外”灯台下暗し”、自分自身の事は自分では見えにくい物ですよ。

2013年1月24日木曜日

セラピストの苦悩と葛藤の記録。

『継続は力なりと立つ鳥跡を濁さず』 諺の授業ではありません(笑) 私のセラピストととしての基本理念を示しています。 御心を病まれた或いは長年間違った自分で生きてきて違和感を感じている人をその人本来のパーソナリティに変えようと思えば並大抵の努力では出来ません。 セラピストも同胞も共に努力と忍耐と多少の傷を負う覚悟無く出来る物ではありません。 導き手は我々ですがそれを実際に行うのは同胞自身。 故に我々セラピストは如何に同胞にやる気を維持させるかが一つの肝です。 それ故に手を替え品を替えて飽きさせず色々と試行錯誤を繰り返しながら手探り状態がずっと続きます。 その先にある物を掴む為にどう方向付けたら良いか? それはもうケースバイケースでセオリーなんかはありません。 セラピストの瞬間判断力が試される一瞬でもあります。 これを見誤ると大きな痛手を双方が負い更に怪我を負った同胞の信用を失います。 同胞は門を潜った段階で既に全てをセラピストに預けています。 勿論我々は引率者であり伴走者であるので事を成すのは同胞本人です。 されどそれを行うのは同胞本人ですがそれまで同胞が背負ってきた荷物を降ろすのは我々の役目です。 されど一度降ろしたと思い込んでいた荷物が実はまだ残っていたという事になると一気にその信用は地に落ちます。 そうなってしまっては中々浮上できません。 それ故に我々はとても言葉を選んで発言します。 たった一言で全信用を失う事等この世界では日常茶飯事です。 何年も掛けて信頼関係を築いてもたった一言の不如意な言葉で全てが崩れ去ります。 それ故にセラピーの期間中は毎日が緊張の連続、気の抜ける時は少しもありません。 この仕事は肉体労働ではないと思われますが移動型の場合結構体力勝負の所があります。 更に経費節減の為にセミナーも大抵少人数で行う為にそれらのセッティングも自分一人で 行う時があり結構な肉体労働です。 これに加えて先の精神疲労が加わるのですから罹るストレスは相当の物です。 その結果セラピー中止なんて事になったらその脱力感、敗北感は半端有りません。 金銭的問題よりもプロとして完遂出来なかった無力感敗北感は相当な物になります。 されどそれを経験しながら次こそは絶対に失敗しないぞと心に誓い更に策を練ります。 それを繰り返してきての二十年でした。 もう一つ大事なこと、それは深追いをしないということ。 先に述べた通り信頼を失いセラピー中止を言い渡されるのは一瞬の出来事です。 何が起こったのか頭の中で整理が出来ぬまま同胞は私の元を去ります。 その際、必死になって引き留めれば引き留める程に信頼は地に落ちます。 大帝の場合近隣者からの邪魔が入るか、自分の中で勝手に結論を出してしまうかの二つに大別されます。 特にこれが夫婦だの恋人だのとなると余計話は厄介となりそれぞれの配偶者が要らぬちょっかいをだしてきて御破算となるケースがあります。 本当はその要らぬちょっかいを出してくる張本人こそ諸悪の根源なのですが^^; もう一つは問題が発生しそれを処理しきれず我が門を叩くのですがその途中で図らずもその解決の糸口を見つけてしまいセラピー自体の必要性がその人の中で無くなるケース。 これ自体は一見すると何の問題もないようにみえますが然に非ず。 飽くまでもある問題に対しての対処法を見出せただけでその汎用性は極めて狭い物です。 我々が目指す物はそんな狭い範囲ではなくもっと広範囲の物を目指しています。 故に目の前の問題が解決したからもう用済みという訳には行かないのです。 何れ又袋小路に必ず陥ります、それは経験上既に得ています。 それが見えるが故に留まる事を勧めるのですが大抵の場合それは固辞されます。 そういう時も自らの無力感脱力感に苛まれますが黙って同胞の後ろ姿を見送ります。 幾ら説得を試みてもそういう場合は無駄なのです、それは経験上熟知しています。 人間というものは中々目の前の事には目が届いても先の問題には目が行かない物です。 我々はそれが職業柄見えるのですが同胞にはそこまでは見えない。 よしんばそれを感じていたとしても取り敢えず今は不要という方が心を支配する。 されどその油断こそが一番の大敵である事を何れ知る事となる。 その時になっては既に事遅し、我々も常動ける状態にある訳ではありません。 故に動ける時に動いておきたいがために説得をするのですが御理解を得る事は難しい。 そんな時は断腸の思いなれど黙ってその場を去るのみ、セラピストとして最も辛い瞬間。 先が見えるというのは必ずしも良い事ばかりとは限りません。 こういう時先が見える自分を恨めしく思う時も有ります。 セラピストと言えど血の通う人間です、辛さも歯痒さもあります。 生身の人間であることはどうかご理解を頂きたいです。

『大人シリーズ』はエイジレス現象を加速化させる愚行である

最近『大人』シリーズが隆盛を極めている。 『大人グリコ』とか『大人のお茶漬け』とか。 殆どが子供向け商品の大人版で甘さが控えめで有ったり増量されていたりとかである。 最近は『お子様ランチ』の大人版『大人様ランチ』迄出て来る始末である。 此処までくると少しやりすぎでは?という感が正直否めない。 さてこの『大人』シリーズの台頭を私は余り実は好意的には見ていない。 寧ろ『大人の幼児化』が進んでいるような気がして少し畏怖の念を覚える。 言わずもがなだが『大人』シリーズの対極に有るのが『子供向け商品』である。 最近は大人顔負けの『子供向け商品』が有り大人でも使えるような物が数多くある。 特にコスメ系はオイオイと思わず眉根をしかめたくなるような充実振りである。 最近のアダルティーチャイルド(大人ぶったガキ)が増えている原因の一つは明らかにこういう大人向け商品の低年齢層への販売拡大が原因の一つと考えられる。 つまり今世の中”大人と子供”の逆転現象が起きていると言って良いのではないかと思う。 幼少期に様々な原因で実現出来なかった事を大人になって実現するという行為自体は別に間違いではない。所謂”大人買い”なんてのはその最たる例ではないかと思う。 されど現在の”大人シリーズ””子供向け商品の大人化”はそういう範疇を大きく超えている。 昨今の成人の犯罪自体もその理由がどんどん幼児性を帯びていると思われる。 翻り青少年犯罪の犯罪理由がどんどん大人社会へ食い込んできている気がする。 このまま事がどんどん進めば大人と子供の逆転現象はどんどん過激の一途を辿るだろう。 その前にこの流れは絶対に止めねばならないと思う。 先ず”大人シリーズ”の販売を控え同時に”子供向け商品の大人化”も控えるべきであろう。 その年代でしか学べない獲られない経験をすっ飛ばして過去へ逆戻りしたり未来へ一足飛びというのは後々精神に多大なるダメージを与える結果となる。 人は時空を操れないが商品を手に取る事で時空を操る術を手に入れられたかのような錯覚を起こす。 されどそれはエイジレス現象を加速化し年齢差を無くすとても怖い現象である。 人は成長して行く生き物である限りその方向性は一方通行でなければならない。 それを過去に遡ったり未来へ一足飛びするのは神の領域へ足を踏み入れる愚行である。 それは決して許されるべき物ではない。 大人が大人である事、子供が子供である事が人間社会を営む上で大事な事なのである。 ノスタルジーを感じる事自体は間違いではない、早く大人になりたいと思う事自体は間違いではない。 されどそれを実現させる実現方法には現行法においては私はとても違和感を覚える。 変に”大人シリーズ”を作らずとも”ノスタルジー”を感じる事はできる。 変に子供向け商品の大人化”を図らずとも精神的に成長している子供はその辺の大人子供よりも余程大人である。 姿形や指向性を変えずとも心を切り替える事で人は大人にも子供にも成れる。 本当の大人は子供をよく知る物であり本当の子供は大人を良く知る物である。 其処に何かのアイテムを求めたり何かに依る必要はないのだ。 大人が大人である為に、子供が子供である為に今何が必要で何が不要なのか? 今一度考え直す必要が有ると私は思う。

アルジェリアの外国人殺害テロを繰り返さない為に日本が出来る事とは

今回のアルジェリアの外国人殺害テロは国家が民を見捨て外貨獲得に走ったが為に起こった事件である。 国は民を守る事が国としての役目。 されどその国が国際社会の中での国の地位を得んがため外国企業の参入を許せば国民の働き場所がなくなり結果政府打破の為のテロ集団を生む結果となる。 今後はこういう事件が各国で(特に欧州辺りで)増えるであろう。 又本事件を見てもTPP不要である事は明白。 テロリストは自国の諸外国の国内流入を防ぐ為にテロ行為を繰り返している。 それは自国民の生活を守らんが為、そして政府が民の生活を充分保証していれば回避できた事件。 国際社会の仲間入りを果たす事も大事だがそれも民あればこそ。 民なき国は国たり得ず。 アルジェリア政府の無策が多くの外国人犠牲者を産んだ原因の一つである事をTPP参加国は肝に銘じるべきである。 TPPを推し進める限り今回のようなテロ行為は今後各国で起こり得るだろう。 もう二度と罪なき犠牲者を出してはならない。 TPPは早急に考え直されるべきだと考える。

2013年1月22日火曜日

『逆説的心理療法について』

我が元には年間相当数の同胞が来訪される。 その内、”自分に自信がない”人の数は全体の比率から見ても決して少ない数ではない。 そして悲しいかなその数は年々増加傾向にあり昨年一年間で軽く100名は超えている。 そういう方々に私は以下の質問をいつも差し上げるようにしている。 私『貴方は自分に自信がない事に自信がありますか?』 此処で多くの同胞は『はい』と答えるが一部の同胞は『嫌、それは自信がありません』と答える方もいる。本当に”自信がない”のは前者ではなく実は後者の方。 前者の方には私はこうお応えを差し上げている。 『”自信がない”事に”自信がある”のなら結果的に”自信はある”事となり”自信がない”事にはならない。何故なら本当に”自信がない”人は自分が”自信がない”事にすら”自信”をもてないのだから』と。 詭弁というなかれ、実際後者の人のように”自信がない事に自信が無い”人も居るのだ。 自信を持って”自信がない”と言える人は”自信がない”と言えるだけ”自信はある”人である。 では何故”自信がない”と思い込んでるのか?それは”自信を持つ方向性”を違えているから。 ”自信がない”とする多くの人は人から色々と言われている人が多くそれを鵜呑みにしている人がとても多い。 例えば体が大きい人で体力に”自信がある”でしょ?と言われたり学校の成績が良い人が”頭に自信があるでしょ?”と言われたりと言う風にそれをいう人の中にそれがない人がその無い事象に対して勝手な思い込みで”自信がある”と言われてしまう。 されどそういう人は生来的にそういう要素を持って生まれてきているので”自信を持つ”必要がない。 身体能力や頭脳明晰と言う物は勿論努力に勝る物はないが生来型遺伝子の継承という部分も決して少なくない。 故に”最初から持っているもの”に人は中々”自信を持つ”事は難しい。 人が”自信を持つ”メカニズムはそれを持つに値する努力をした者のみである。 自分で努力をしそれを勝ち得た者のみがそれを”自信をもって自信がある”と言えるのだ。 故に生来型遺伝子の継承により生来的に持っている能力に関しては”自信がなくて”当たり前なのである。 先ずはそれをお教えし自らの能力が人からは”羨ましい物”であり”自信を持つに値する物”である事をお教えする。 その上で自らが”求めている自信”を得れる方法をお示ししそれを得られるようお導きを差し上げる。 その結果それを得る事が出来た者は自らに始めて”自信”を得てそれ以降”自信がない”とはいう事はない。 翻り”自信がない事に自信がない”人は”本当に自信がない”人である。 そういう人は周りから色々と馬鹿にされ否定され続けた人に多く見られる。 だが人から色々と馬鹿にされ否定されると言う事はそれをする原因が必ず存在する。 つまり”その人にしかない隠れた才能”は絶対に存在しそれ故に人はそれに嫉妬しそれ以外を攻めたて”自信を持てなくする”のである。 なればその”自分自身が気づいていない他の人にはない自信の種”の存在を明らかにしそれを”目に見える形”にしてあげれば人から揶揄され馬鹿にされても反論材料を与えられる。 さすれば”自信がない事に自信が無い”人も”自信がある”人にする事ができる。 私自身も人に”自信を与える”事を生業としているが自分自身に”自信があるか?”と問われたら”はい”とはとても言い難い。 されど同胞の為に命を掛けても治す自身はあるか?と問われれば迷わず”はい”と言える。 そうでなければこの仕事を二十年も続けられなかったと思う。 人間誰しも何か一つ位は”自信”を持てる物はある。 それを”目に見える形”にして示してあげ”自信を与える”のも我々の大事な仕事の一つ。 今日も私はそんな”自らの隠れた自信”に気づけない人の元へ参ります。 と言う事で今日も最後のフォンセッションを終えそろそろ休ませて戴きます。 皆様方も良き夢をm(_ _)m

2013年1月18日金曜日

”誰でも分かる表現”という物の常態行動心理学的矛盾について

”誰もが解る表現をしましょう”と教える人がいるがそれは大きな誤りである。 例えば英語圏の人に日本語で説明をして理解が叶いますか?逆も又真なりです。 『理解』とは『理を解する』と書きこの場合の『理』とは『ことわり』と読み『ことわり』とは『心のあり方及び方向性』とWikipediaにあります。 つまり『理解』とは相手の『心のあり方及び方向性を解する行為』という事です。 さて、ここで原題に戻りましょう。 人によって考え方、つまり”心の在り方及び方向性”は皆、違います。 更に同じ人であったとしても昨日と今日、1分前と1分後では”心のあり方及び方向性”は違います。 同じ人間ですらそうなのにこれが不特定多数となるともう大変です^^; てんでばらばらもう手がつけられません。 よしんば同じ時間同じ場所に居ても場の共有率は上がるのである程度の同方向性は示たとしても個々の方向性はやはり微妙に違います。 故に”誰にでも解る表現をしましょう”は到底不可能な事なのです。 例えば”サルでもわかる”シリーズが一時期とてももてはやされました。 例えば”こんな事子供でも解るわ’と人を叱責する際に使う常套句。 されど上記の場合も、猿により理解は様々であり子供により解釈も様々です。 全ての猿、全ての子供が平均的な理解を示すと言う事は有り得ません。 故に”誰にでも分かる表現”という物はこの世には存在しません。 唯一有るとするならばそれは”伝え手の熱意”だけです。 これだけは凡ゆる柵から解放された唯一の伝達手段です。 年代や性別や国や社会階層等凡ゆる問題を超える唯一の方法です。 ”元気元気元気が有れば何でもできる”は某元プロレスラーの名言。 されど私はこう言いたい。 ”熱意熱意熱意熱意が有れば多くの人の賛同は得られる”と。 私は賢さは余り有りませんが心理学そして同胞に対する”熱意”だけは誰にも負けません。 それ故に二十年心理職一筋でお仕事が叶ったのだと手前味噌ながら自負しています。 熱意に勝る技は無しと言うのが持論です。

2013年1月17日木曜日

『無意識は意識に勝てるか?』その常態行動心理学的解釈

『無意識は意識に勝てるか?』 心理学を志し心理職を生業とする者の至上命題である。 私の結論からいえば『余裕で勝てる』。 何故なら意識(表層意識)の決定権を持っているのは下層意識(無意識)だからである。 そして我が専門の常態行動心理学こそこの表層意識を変える事で下層意識を変えるから。 同じ行動を繰り返す事でそれは無意識下に記憶され無意識下でそれを実行する。 最初は”意識的”に行っている事であるが結果的に勝つのは”無意識”である。 俗にいう『堀の中の懲りない面々』はその悪い例。 悪さを繰り返している内にそれが常態化し無意識下に擦り込まれる。 すると無意識に悪行を繰り返し辞めようと思っても中々やめれない。 所謂常習性疾患(依存症)もこの範疇にある。 同じ行動を繰り返す事でそれが常態化しそれをしないと落ち着かなくなる。 お心を病まれておいでの方が安定剤を飲まないと心が落ち着かないのと同じ。 我々はそれを我々に依存させる事で全ての依存症克服を実現している。 もう一度いう、”無意識は意識に余裕で勝てる”。 私はそれを二十年の心理職生活の中で実践してきている。 そして私はこれからもこの至上命題を追求し続けたいと思う。 この世から心の病が無くなるその日まで。 という事で今日も最後のフォンセッションを終えそろそろ休ませて戴きます。 皆様方も良き夢をm(_ _)m

2013年1月15日火曜日

『常態行動心理学的体罰不要不要論』

『体罰不要論』ではない、『体罰不要論』の『不要論』である(つまり必要論)。 私は嘗て『体罰』で命を救われた者の一人である。 当時私は虐めの渦中にあり毎日虐められ続けて居た。 小学校低学年から始まった虐めは年を追う毎にその激しさを増し遂に私はその陰惨な虐めに耐えかね自らの命を絶とうとした。 今から思えば究極の親不孝だが幼い私にとってはそれ以外の方法は見つからなかった。 幸い首を釣ろうと用意した木箱が腐敗していた為に足を踏み外し失敗。 その時私は神から死ぬ事も許されないのだと悟り生きる事を決意した。 それからの私は体では対抗出来なかったが口で対抗し続けた。 それでも高校を出るまで陰惨な虐めは続きました。 その中でも中学時代の虐めは群を抜いており私は愚か母に迄被害が出るほどでした。 それを止めてくれたのが登場中3の担任だった数学担当のN先生でした。 市内でも有名な”虎キチ”で阪神が勝てばたこ焼きを生徒全員に奢り負ければ数学の小テストという今の教育現場には到底居ないであろう破天荒な先生でした。 されどそれも今から思えば先生の策略であり上手い事”飴と鞭”を使い分けられ我々は見事その”飴と鞭”に翻弄されたと言っても過言ではないでしょう。 或る時母がその先生に自らの息子、即ち私への生徒からの虐めを涙ながらに訴えました。 黙ってその話を聞いて下さったN先生、されどその目は怒りに燃えておられました。 翌朝HR時間N先生より私は教室から退出を命じられ廊下で待たされました。 中で何が行われているかは外へ漏れ聞こえる音ではっきりとわかりました。 机が倒れ頬を打つ音と人が倒れる音がはっきりと聞こえました。 私がその後教室に戻ると完全に教室内の空気は固まっていました。 その後も”虐め”自体は暴力から”完全無視”にシフトし続きましたが私に”暴力”を奮って居た男子生徒の”暴力”からは逃れる事が出来ました。 私は間違いなくN先生の”体罰”が無ければ今頃この世には居なかっただろうと確信をしています。 今こうして指導者として”いじめ撲滅”に寄与出来るのは間違いなく”N先生”のお陰です。 卒業後もN先生は近所の子供の家庭訪問の際には必ず立ち寄り励まして下さいました。 勿論依怙贔屓等一切無く私自身も随分と叩かれ”御指導”を賜った物の一人でした。 それもやはり先生の他の生徒からの差別をなくす御配慮であったと感謝しています。 現代の”体罰”において重要な事は”体罰”自体ではなく”体罰をする教師の人としての質の低下”にその問題が有ると思います。 此処で話は少し横道にそれますがDVが繰り返されるのはその自らが幼少の頃に受けた”理不尽な扱い”を”心で容認”した者のみでありそれを”心で否定”し続けた者はDVは繰り返しません。 ”体罰問題”もこれに同じです。 ”未成熟な”教師による”感情に任せた体罰”を”受け入れた”者は下の者にも体罰をします。 されど”感情に任せた体罰”を”拒否し続けた”者は下の者には体罰はしません。 又、”体罰”の質自体にも問題があります。 本当に”叩かれる者の痛み”が解る”体罰”には生徒は反抗せず反省を示します。 されど自らの感情の赴くままに”叩かれる者の痛みの解らない”体罰には生徒は激しく抵抗しその矛先は弱き者へと向きます。 ”未成熟な人間の感情に任せた暴力”こそが問題なのであり”体罰”自体が問題なのでは有りません。 問題は”教育者育成機関”にもその責任が有ります。 今の”教育者育成機関”は”成績重視”で”人間性”は軽視されています。 ”人材育成”において大事なのは”スキル”ではなくそれを行う人間の”人間性”です。 画一化された社会で機械のように無感情に成績向上マシーンを量産していたのでは体罰が正当評価される事は一生ないでしょう。 我々は”体罰”を受けて成長しそして今があります。 もし”体罰”を受けてこなければこういう大人にはならなかったでしょう。 ”身体に染み付いた心の痛み”は一生涯忘れる事は有りません。 そしてそれ故にそれを”繰り返す”事もありません。 ”体罰”は絶対に必要です、されどもっと大事なのはそれを行う者の”成熟さ”です。 文科省はその辺りを今一度沈思黙考され熟慮されるべきだと思います。

2013年1月14日月曜日

或る帰国子女の悲劇(喜劇?)。

大学時代を米国で過ごし帰国、そのまま英語力を活かし職場に就職。 したまでは良かったが生憎外国人のお客は少なく時だけが無為に過ぎた。 数年後、彼女の本領を発揮する事件が起きた。 外国から団体様が彼女の勤務する駅に降り立ったのだ。 やっと自らのスキルを試せる時が来たと意気込んだのも束の間、全く英語が通じない。 一生懸命身振り手振りで説明を試みると相手は全員小首をかしげるばかりである。 其処へある少女がやってきて流暢な英語力で難局打開を果たした。 帰国子女の女性は面目丸潰れ、一躍少女は時の人となった。 ではこの違いは何故起こったのか? 答えは常態行動にあり。 帰国子女の彼女は長期留学経験者である事に胡座をかき帰国後英語を鍛えなかった。 少女の方は今まさに英語の勉強真っ最中であり、常、英語漬けの毎日であった。 生活の中に英語がある少女と生活の中に英語がない帰国子女。 これが二人の勝敗を見事に分けたのである。 その後自らのプライドを傷つけられた帰国子女が猛勉強を再開したのは言うまでもない。 『昔取った杵柄』とは長年経験しそれが”常態化”してこそその本領を発揮する。 幾ら短期留学経験が有ってもその後それを活かせなければ杵柄は使い物にはならない。 これが常態行動の不思議である。

2013年1月13日日曜日

”負けん気が強い”と”負けず嫌い”の常態行動心理学的違いについて

『負けん気が強い』と『負けず嫌い』は実は似て非なる物。 前者は肯定的だが後者は否定的である。 前者はその対象が自分に向けられているが後者はその対象が他者に向けられている。 前者は自分に対して厳しく人に優しく後者は自分に甘く人に厳しい。 前者の対象は自分なので被害は自分の範囲内に止まるが後者は対象が他者なのでその被害は広範囲に及ぶ可能性がある。 前者は勝つ為に自分に何が足りないかを考察するが後者は勝つ為に手段を選ばない。 実はこれを混同して言葉を使っている人がとても多い。 言葉というのは『言の葉』であり『言霊』である。 『魂』が宿っている限り唯一無二であり同じ物は何一つない。 例えば同じ言葉を紡いでもそれを紡ぐ人によって人に与える影響は大きく異なる。 有名人の一言よりも無名の人間の何気無い一言が世界を駆け巡る事があるのはそのせい。 それはその言葉に『魂』がどれだけ宿っているかに依る。 有名人であるからと安易に言葉を使えばその言葉の価値はとても低い物となる。 無名でもその言葉をとても慎重に大切に使えばその言葉の価値はとても高くなる。 そう考えた時老若男女を問わず『言葉』が現代は乱れて使われている事に心を痛める。 『言霊』はきっと嘆き悲しんでいるに違いない。 出来得るならば『言霊』が笑顔になる『言の葉』を紡いで上げたいと思う。 自分にはまだまだそのスキルは決して高くないのだが^^; という事で今日も最後のフォンセッションを終えそろそろ休ませていただきます。 皆様方も良き夢をm(_ _)m

常態行動心理学的花粉症対策

今年は既に花粉が飛び始めており我が愛方も私もそして近隣の者達も鼻をムズムズとさせています。 まだかなり冷え込みが激しいので風邪と混同される方がとても多く風邪薬を併用される方が多いのですがこれは要注意。より鼻づまりを促す結果になるので薬の多用は禁止です。 アレルギー反応取り分け皮膚疾患の多くは環境型と心因型に大別されます。 花粉症は勿論環境型であり幼児期のアレルギー皮膚疾患もこの環境型に入ります。 翻り心因型は転居先でアレルギー反応が出たとか転職先でアレルギー反応が出たとか結婚、出産等社会的地位が変わった場合に起こります。 特に女性の場合花粉症と成り鼻をかむとそこだけファンデが落ちて肌色が変わってしまったり塗り直しをしないといけない事が小さなストレスとなり余計に花粉の症状が酷くなる場合があります。 ではどうするか?アレルギー反応は脳の過剰反応が主な原因です。 花粉を異物と認識しそれをいれまいと全ての器官を閉じてしまう事で起こる疾患。 なればその脳の誤動作を取り除いてしまえば如何でしょう? 花粉自体は年中飛散しています、つまり本当に花粉症なら年中苦しまなくてはいけない事になります。実際年中花粉症の人も多くいます。されどそういう人も改善は可能です。 生まれたての赤ん坊が五感が働いていないとするのは実は大きな誤解です。 生まれたての赤ん坊も五感はちゃんと機能しています。 されど実際は機能していないように見える、それは何故か? それは五感情報が大人と比べ充分ではないからです。 胎児の頃から脳は働き五感はちゃんと機能しています。 それ故にお腹を蹴ったり動いたりをしているのです。 されど五感情報が少ない為に脳は対象物を具に観察する方にフォーカシングします。 解りやすい例で言うと見知らぬ土地にいきなり放り込まれ右も左も分からぬ状態の時、人はなるべく行動を制限し相手に自分の存在を悟られないようにします。 これが赤ん坊の行動原理です。 情報収集に従事すると人の動きは小さく機能していないように見えます。 見る、聞く、食べる、匂う、触るはそれを学習して始めてそれらの機能を使う事ができるようになります。 それらを学習せず始めてそれを持った時はまだそれらの機能の使い方が解っていないので五感情報を集めどの場面でどの機能を使うかを学習しているのです。 それが赤ん坊が生まれたての状態です。 閑話休題 なればその脳の働きを花粉症対策に当てはめて見るのは如何でしょう? 花粉は年中飛んでいます、されど赤ん坊で花粉症の人は殆ど居ません。 それは花粉に対する過剰反応をまだ学習していないからです。 裏を返せば過剰反応しなくても良いと脳に学習させれば花粉に対する反応は軽減されます。 TVや雑誌等で連日花粉情報を入手しているとそれだけで脳が過剰反応を起こします。 あれらの情報こそが実は花粉症を助長させる原因だったのです。 なるべく花粉情報を目に耳に入れず尚且つ花粉は年中飛んでいて年中体内に入っている事を認識それでも季節に限定がある以上体が過剰反応しない季節もある。その季節は花粉情報がなく五感情報で花粉を認識していないから花粉症にもならない。 つまり花粉は常飛んでいるのだから花粉症になっても良いのだと思う事を意識する事。 これを意識し脳に学習させれば徐々に花粉症状は確実に軽くなります。 私自身昔は極度の花粉症で家から出られないほど酷かったのですが今は外出しても殆ど反応を示しません。それはこのお陰です。 是非お試しあれ。

ストレス社会に常態行動心理学者がメスを入れる

現代はストレス社会だといわれて久しい。 されど世の中には”ストレスを感じない”という随分幸せな人もいる。 だが、実際”ストレスを感じない”人はこの世には存在しない。 携帯電話やパソコンから発せられる電磁波、熱中症等に代表される高熱、オゾン層破壊による大寒波、そして経済の低迷とそれに翻弄され不安が増大し冷静さを欠いている現代社会。 それこそ『エスカレーター式ストレス』と呼んでも差し支えない程現代はストレスに溢れています。 では何故感じる人とそれを感じない人がいるのか? それはストレスに対する向き合い方の違いである。 ストレスを感じると人の血中にフグ毒と呼ばれるてトロドトキシンの数十倍の毒素が流出します。すると当然体調は崩れ病に伏せます。 そうなると体の各部位が影響を受けるので体の各部位がそれを回避する方法に出ます。 主に脳、脳が無意識的にストレスが掛かる場所を回避する行動に出ます。 その脳の回避行動に素直に従う人はストレスの感じ方が違います。 更に現状に対して不満を多く持つ人と今はこういう時期なのだから仕方なしと思う人でストレスの感じ方は大きく変わってきます。 特にこの時期特有のストレスといえば花粉症。 花粉症もアレルギー反応であり花粉に対する体内除去機能の過剰反応が原因。 なればその現状を拒否らず受け入れる事で過剰反応が減少、花粉症症状も緩和可能に。 されどここで要注意。 人は人に見られるだけで実際は毎日小さなストレスを蓄積させています。 それは人間の中にある生物学的な生存欲求が成せる技。 見られる=狙われていると脳は捉え臨戦体制を取ります。 これが長く続くとボクシングのジャブと同等のダメージを受けます。 ジャブも一発一発のダメージはストレートパンチよりも少ないですが手数が多いとそのダメージ総量はストレートパンチよりも増大します。 凝視されるよりも多くの人にチラ見される方が人間はより多くのストレスを感じます。 されどそれも常態化してくるとそれをストレスと感じなくなります。 これは実は良い傾向ではありません。 ストレスをストレスと感じる機能自体が麻痺を起こしストレスを感じなくしています。 暴行事件における暴行被害者と同じ、それを受け入れたくない気持ちが麻痺をさせます。 それはその後大きなトラウマとなり大人となり又は加齢と共に体に負担を掛けます。 そうなる前に対処が必要です。 好きな場所、好きな物、好きな人等自分が欲する物乃至人の元へ出かけましょう。 そしてそれを五感で感じて下さい。 旅行が好きで旅行に行く時間もお金もない人はせめて旅行雑誌や旅番組で擬似体験をして下さい。その事で随分ストレスは軽減され常態化せず短命予防になります。 我々は1000を超えるオリジナル理論により同胞に掛かるストレスを如何に自分の力で逃がす事が出来るかを追求し結果を出しています。 ストレスを軽減乃至は除去したいけど今の自分じゃ無理とお思いの方。 我々にお任せ下さい、そのストレス我々が見事除去してさしあげます。

2013年1月8日火曜日

今冬の季節性うつ病は季節性ではない事が原因である。

年末年始は忙しく飛び回っておりました。 今年は特に酷く鬱状態の人がとても多かったように思えます。 年末年始の鬱状態は政権交代における世情不安の伝搬が原因。 人間の感情には伝搬性が有り特にマイナス感情はプラスより伝搬率が高い。 『貰い泣き』がその代表。 感情のシンクロ率はプラス感情よりもマイナス感情の方がより強くなる。 それは場の脆弱性が原因、人間負の感情を持つと心が弱りその心を持つ人の場が脆弱化します。同じ場の中にいる人も伝搬性を伴っているので同じ様に心が弱ります。 そうなると生物学的には困るので伝搬性を持ち心理的負担軽減を図ります。 一人より二人二人より四人、負の感情を共有できれば一人当たりの負担は軽くなります。 それ故に負の感情はプラス感情よりも伝搬性が高いのです。 そういう事に敏感な人はその不安をモロ心に受けます。 今暫くは世情が安定せず鬱状態は続くと思われます。 そういう時は無理をせず現状を受け入れる事。 自分だけでなく今は自分を含む全員が同じ状態である事を自覚する事。 その事で鬱状態は随分軽くなります。 又、この時期は肌荒れなど肌トラブルを起こす人も多数。 それも又、世情不安による心因性ストレスが原因です。 これも上記と同じ様に現状を把握しそれを心で受け入れる事で改善は可能です。

『性同一性障害』『解離性同一性障害』『双極性障害』は心の病ではない学術的根拠とその改善策について

『性同一性障害』『解離性同一性障害』『双極性障害』は心の病ではない。 又、このオッサンは訳解らん事をほざき始めたと言うなかれ。 先ずは『病気』と言う言葉の成り立ちから見て行きたいと思う。 『病気』とは『気を病む』と書きます。 つまり『病気』とは『正常な状態ではない』と言う事を指します。 では上記病名は『正常な状態ではない』のでしょうか? 答えは否です、それは何故か? 上記病名は程度の差こそあれ皆が心に内包せし事だとするとどうでしょう? 同性を見て素敵と思った事はありませんか?例えば宝塚、同じ女性でも素敵と思う筈。 親に見せる顔と友人に見せる顔と恋人に見せる顔は皆同じですか?皆違う筈です。 激しく苛つく事や激しく嬉しい事を感じた事は一度も有りませんか?必ず有る筈です。 先にも述べた通り”程度の差”こそあれ上記病名の中身は誰もが経験した事です。 されどその程度を”超えてしまう事”が問題なのです。 問題なのはその”程度”であり”病其の物”ではありません。 逆を言えば”程度”を覚える事が出来れば”病”ではなくなります。 ではどうするか?先ずどういう風になる事が問題となるかを見つけます。 自分の現在の状況においてどういう自分自身の行動が人に悪影響を与えているかを精査。 次にその行動には必ず”原因”となるべき物が必ず存在しています。 その”原因”を過去に遡り見つけます。 そしてそれを”除去”します、これで随分症状は軽くする事ができます。 と同時に”自らの多面性”をお教えしその症状が出た際の”逃げ場”をお作りします。 そうすると発症しても”自らが作り出した逃げ場”に自らを逃げ込ませる事が出来ます。 すると更に被害を最小限度に抑える事ができるようになります。 そして何より”被害を自分自身で抑えられている自分”を知る事が大事です。 ”自分の力で自分の病を克服乃至改善できる自分”を知る事は状況改善大きく寄与します。 この事で我々は上記疾病を一切の投薬治療無しで御治ししています。 勿論”言うは易く行うは難し”です。 時間と労力と根気を必要とします。 されど”医は仁術”であり”算術”に非ずです。 多くの医師免許を持った守銭奴は”効率化”を重視し”利潤”を追求し投薬治療に走ります。 されど、元々”異常”じゃない物を”異常”とし”表に出てきた人格を剥離”したり”昂ぶる感情”を薬で抑えたりすれば廃人となり無感情な人間を量産する結果になり兼ねません。 これはより多くの精神疾患患者を世に放つとても危険な行為です。 我々は断固それに反対し時間と根気と労力を惜しまずゆっくりと施術していきます。 時に共に泣き怒り喜びそして楽しみます。 心の病を治すのは薬ではなく”共に戦う仲間”の存在が第一です。 お心を患って居られる方はその殆どが”孤独”を持っておりその”孤独”と戦っています。 なればその”孤独”に二人以上で挑めばどうでしょう? 得られる結果は大きく異なり”孤独”を退治する事が出来ます。 其の事が結果的に”病克服”に繋がるのです。 我々はこれからも採算度外視で”お心の病”にぶつかっていきます。 そしていつかこの世から”心の闇”が完全に祓われる日を心から望んでいます。