2010年12月19日日曜日

誤認の心理学~或いは容認の心理学~

題名は厳ついですが内容は何時ものように緩々です
(何せ書いている人間が超ゆるゆる人間ですから^^;)。

題名の例で一番顕著な例は『醜形恐怖症』がその類に当てはまります。

大抵『醜形恐怖症』に陥る人の多くは『醜形』では無いと言う事実。
大抵『醜形恐怖症』に陥る人の多くは『美形』であるという事実。

ですが余りに『美形』過ぎ『美形で無い方々』により幼少期より『美形ではない』という刷り込みをされている人達。

それが『醜形恐怖症』に悩む同胞たちです。

彼ら・彼女らは頑なに自らが『美しい存在』である事を拒みます、それは過去のトラウマが原因です。
綺麗であれば有る程その傾向は強く、幾ら”綺麗だ”と言っても左右に激しく頭を振ります。

ならばどうするか?一旦彼ら・彼女らの意見を『容認』するのです。
彼ら・彼女らの周りに居る人たち(家族や御味方)は勿論”綺麗”だとか”カッコイイ”とか言います(其れが事実だから)

ですが彼ら・彼女らの目には”真実”が映らない。
それは過去何年間にも渡り”刷り込み”で植えつけられた”醜い”という悪い言葉の種のせいです。

なれば逆刷り込みでそれらを除去してしまえばいい。

私は彼ら・彼女らの意見を一旦は受け入れます。
”うんうん、確かに美しくないよね、○○さんや○○君程にはね。でもさ、ああいう商業的な美しさをアナタは求めてるの? 商業第一主義で商品価値としての価値は高いけど人間的価値の無い存在を求めているの?だとしたら随分つまらない人だね、そして勿体無い人だ”と。

相手は一旦は自らの意見が認められるもその後全否定される事に深い衝撃を覚えます。
これこそが私が狙う”ディストラクション”つまり”悪い土壌の破壊”です。

専門家の先生が”つまらない人”だといった。ならばその”つまらない人”は本当だ。でも私はそんなつまらない人にはなりたくない。醜くて更につまらない人なんて最悪じゃないか”と言う風に心を持っていくのです。

そうなれば”つまらない人じゃない人”を目指せばいい、そして彼ら・彼女らの心に”美の種”を植え付けるのです。

何の事は無い”事実”を見せれば良いだけの話。但し”段階的に”に。

一度に見せてもどうせ又全否定に走るのです、でも徐々に見せて行き”美しくなる過程”を見せていけば抵抗感は少なく容認度も増していきます。

そうして長い時間を掛けて我々は”醜形恐怖症”を完治まで導いていくのです。

完治した後の彼ら・彼女らは一人の例外も無く言います。
”私をここまで綺麗にして下さったのは他の誰でもない先生。本当に有難うと”。

私は返します。
”いいえ、アナタを此処まで美しくしたのは私ではなくアナタ自身です。アナタ自身がアナタの中に眠る”美の種”を発芽させ育てそして”美しさの花”を咲かせた。私はその土壌作りをしたに過ぎません。本当に賞賛を得るべきはアナタです”と。

そうして彼ら・彼女らは来た時とは全く見違えるほど威風堂々として我が門を颯爽と去っていかれるのです^^v

2010年12月17日金曜日

『選択の心理学〜或いは三者三様の心理学』

二者択一を迫られた時貴方ならどうしますか? 

どちらかをえらびますか?

そのどちらももし望まない物だったら?
それでも尚貴方は二者択一の内の一つを選びますか?

私なら"選ばない"という選択をします、つまり第三の選択肢。

二者択一を迫られた時選択肢が二つしかないと人は思いがちです。
ですが実際は"選ばない"と言う選択肢も実は隠されて居るのです。

つまり第三の選択肢。

それには勿論大きなリスクを背負います、時として生命線を立たれる事も有るでしょう。
それでも尚第三の選択肢が有ると言う事を常念頭に置いておく。

それが心に余裕を作り二者択一の焦りを解消してくれるのです。

閑話休題

選択をする際悩むと思います、誰しもそうでしょう、私もそうです。
だが悩むと言う行為自体が既に解決へ進んで居ると言う事を中々人は気づかない。

本気で悩んだ時、八方塞がりの際人は"考える"と言う事をしません。 所謂思考停止状態です。何も考えが浮かばない思考が進まない状態を示します。

しかし"悩む"と言う事は問題解決の為に思考が進行して居るという証拠。思考が止まらない限り解決へ必ず向かって居るのです。

それが例え遠回りになったとしても"悩んで居ると言う事は問題解決に向かって進んでいる"と言う事を常意識して見て下さい。

そう思うと其処に必ず一筋の光明が必ず見えて来ますから。
諦めないで悩み続ける、それこそが問題解決の最良の道なのです。

2010年12月14日火曜日

祝!交際8年目(笑)

誠に僭越且つ私事ながら今日本日を持ちまして交際8年目を迎えられました。

これも偏に我々をかげながら応援し見守ってくださった皆様のお陰
心より感謝致します<(_ _)>

普通のカップルが過ごしてきたであろう8年とは恐らく違った8年を過ごしてきたと自負しています。
沢山泣きました沢山怒りました沢山笑いました沢山喜びました…全てが大切な大切な宝です。

これからも色々と艱難辛苦が待ち構えている事は容易に想像ができます。
ですがこの二人ならどんな艱難辛苦が待ち構えていようが乗り越えられる自信が有ります。

いよいよ来年は挙式へ向け動き出します<(_ _)>

まだまだ不束者の二人ではございますが二人三脚で頑張って参りま
す。
...どうぞこれからも今まで以上のご厚情を賜りたく温かく見守ってやって下さい。

2010年12月10日金曜日

真心が支える人の縁(えにし)

郵政民営化となり随分時が立った。

民営化を自らの政治生命を賭け断行した時の総理は既に政界を去り後に続く者達も次々と総理の職を途中放棄した(私には試合放棄をしたとしかどうしてもみえない。)

しかしそれでも郵政民営化事業はその実りを徐々に付けつつあるようだ。

過日当日記でも土砂降りの中博多駅前郵便局からびしょ濡れになって博多駅に戻った旨は既にこちらでも寄稿させて戴いた。

今日はその後日談。

その郵便局へお金を下ろしに行った時の事。
窓口に居られた案内係の方が『先日は大変な雨でしたが大丈夫でございましたか?あの後案じておりました』と申して下さいました。

既に数週間も前の事。

私の方が失念していた程である。
その心配りが堪らなく嬉しかったです。

別ブログで土砂降りの時のそしてそれ以前からの博多駅前郵便局の接客の妙については書かせて戴いておりその旨案内係の局員さんにお伝え申し上げた。
こういう事はきちんとお伝えした方がより励みになると考えた為だ。
すると近くに局長様が居られご挨拶に来られた。
とても満足げなしかしちょっとはにかんだような笑顔はまるで少年の顔その物であった。

真心が伝わる瞬間であった。

その後無事に仕事を済ませ散髪前に先ず腹ごしらえと福岡天神三越5階に有るキハチカフェへ。
(本来ならば仕事をする前に散髪はする物だが地図ルート上からだとやむをえない措置であった)

キハチカフェは博多へ来る際必ず立ち寄る私のお気に入りのお店。
キハチカフェは九州にもう一店舗小倉にもありこちらも私たちは常連である。

店長以下スタッフのきめ細やかで痒い所に行き届くサービスは東京にある本店以上。

今日も三越誕生祭スペシャルプレートを注文するも中に茸のスープが^^;

秋と言えば松茸を始めとする茸のシーズン。
メニューにあって当然ですが私は残念ながら茸は食べられません( p_q)エ-ン

故に詫びながら残させて頂きました。

当然残すのは此方の身勝手であり店側に否などあろう筈もありません。
しかし店長が飛んできて何と季節のフルーツsherbetにチェンジして下さったのです。

しかも会計時”気づかなくて済みません”と一礼をされました。

正に感激の一語です。

このきめ細やかなサービスがあればこそ名店の名を轟かせて居るのだと改めて痛感した次第。
何時来ても満席に近いのも頷けます。

その後は三越へ移動。

此処でも以前三越店の事ではないお店の事をお尋ねした際嫌な顔一つせず一生懸命インターネットまで使ってお調べ下さった私にとっては博多天神三越イチオシの受付嬢が居られた。

礼には礼を以て接すべしが亡父の教え。

例えそれが職務上の事だとしても礼にはきちんと返すが常道。
故にその件があった数日後御菓子箱を携えお礼に参りました。

その事があったからか?それとも元々なのか?それ以降も会う度に色々お話をさせて戴いている。
既に受付嬢とお客と言う立場を越え半分お友達感覚になっている^^;

昨日も我が愛方より贈呈されし帽子とサングラス(帽子はバーバリー、サングラスはコーチ)を絶賛。
折角彼女から戴いた物を腐されたのでは気分が悪いが褒められれば面映い^^;

恐縮しながらも得意満面で店を後にする事が出来た。

こういう決め細やかなサービスを出来るか否か?それは何も接客業に限った事ではない。
我々医療従事者にも同じ事が言える。

”病気を治してやる”ではなく”病気を治させて戴く”という精神なくして医療は成り立たない。
ふんぞり返って上目遣いに物を言う医者に私は絶対自らの体を診て欲しくない。

優しい笑顔で腰を屈めて一生懸命診てくれる医者の下へ私は行きたい。
私自身がそう思うのだからきっと他の患者さんも同じように考えておられると私は思う。

自信と過信は違う。

自信の無い医者は嫌だが自意識過剰な天狗医者はもっと嫌である。
私も医療従事者として慢心だけはすまいと常自らを鑑みている。

何事に於いても真心に勝る物は無いと思う…。

『お疲れ様です』という挨拶の持つ威力~或いは声掛けの心理学~

過日博多へ行った時の事。

飲食店店主と思しき方が荷物を荷台に乗せ運んでおられた。
すれ違い様”お疲れ様です”と言われた。

いきなりの事で躊躇したが咄嗟に『お、お疲れ様です』としどろもどろに応えた^^;

そのちょっと少し前。

丁度夏の盛りで暑さ最高潮で天神で待つ同胞の元へ急いでいた時の事。
先に述べた方とは別の方(この方も飲食店主のような出で立ちでしたが)がいきなり、
『お疲れ様です、押させて戴きます』と親切に坂を登りきるまで車椅子を押してくださった。

恐らく私の顔が相当しんどそうにみえたのだろう^^;
だがその親切が私にはとても嬉しかった。

私の仕事は電車を良く利用する。
週の内、殆どは電車か新幹線の移動である、年の内数回は飛行機も利用する。

駅構内には駅員さん始め売店の方、荷物を卸したりする方など実に様々な方が居られる。
私はその人一人一人に会う度に『お疲れ様です』と声を掛けた。

過日自分が味わった心地よさを他の方々にも味わって欲しかったのだ。
最初は相手も私を知らぬ人であるので軽く会釈だけで返してくる、そりゃあ当然の事だ。

だが回数を重ねてくると相手も私の顔を覚えてくれ段々と訝しげな表情が笑顔へと変わってくる。
過日地元の新幹線口から在来線へ向かう陸橋を渡る前何時ものように駅の関係者へ挨拶をした。

するとその中の構内の工事担当のお兄さんが陸橋を車椅子を押して渡して下さった。
この日も夏の暑い盛りでお兄さんはタオルを頭に巻いて汗だくの状態であった。

自分の身すら持て余す状態であったのに笑顔で押してくださった事がとても嬉しかった。
帰り際『頑張って下さいね』という一言がその日一日の私の活力源となった。

今も私は会う人ごとに『お疲れ様です』という挨拶を続けている。
何処かで会った誰かが私が感じた心地よさを感じそれを繋げてくれればとても嬉しい。

そう思う今日この頃である。

上をむいて歩こう!

ブラックマンデーの再来と呼び声高い世界的恐慌の渦に巻き込まれている国、日本。
第三次オイルショックから始まる物価高、凶悪犯罪の多発、詐欺事件の手口の巧妙さの向上などなど…。
右を見ても左を見ても誰もが泥棒や強盗に見え誰を信じてよいのか解らないと言うご時世。
隙を見せれば一瞬にして有り金全てを持っていかれかねない状況です。
しかしそんな時だからこそ尚”上をむいて歩こう!”と私は思います。
皆さん下ばかり向いて”どっかに小銭でも落ちてないかな”と探しているようですが早々見付かる物じゃなし。
ならば上を向いて流れ行く雲をじっと見つめ未来の自分に夢を馳せる方が建設的じゃないですか。
過去は誰にも変えられない、でも未来は自分の手で変える事が出来る。
誰にも自分の未来は渡さない、自分の未来は自分自身で切り開く。
私は20年間ずっとその事を多くの人に説いて来ました。
貴方の人生を人に委ねてどうするの?親や兄弟や先生や友人に委ねてどうするの?
貴方が貴方として生きる一生はこれっきりなんだよ?例え輪廻転生してもこの体で又戻る事は無い。
この体でこの時代に生きた証を立てるべき人がその証を人に立ててもらってちゃ駄目でしょ?
それじゃあその人の生きた証のいわば貴方は代行者乃至は代弁者になっちゃうじゃない。
貴方は貴方を生きるべきだ、他の誰でもないオリジナルの貴方を生きるべきだとずっと説いてます。
と、同時にそれは私自身にも当てはまる事でもあります。
肩書きだけを見れば私も”先生”と呼ばれる職業の人です。
あっちへ行ってもこっちへ行っても”先生”と呼ばれる毎日。
しかし私は私。先生でも教授でもお医者様でもありません。
私は私と言うオリジナル、それを私自身38年間ずっと貫き通して居ます。
時に人とぶつかり時に人を傷つけてしまう事もあります。
それでも尚私は”私である!”という事をやめるつもりはありません。
何故ならば多くの同胞はそんな”私が私で居る私という存在”を見てついてきてくれているから。
私が私と言う存在を主張せず誰かに迎合し誰かの後ろについていく人だったら誰が私に従いますか?
誰が私の言に耳を傾けようとしますか?どうせ奴も朱に交われば赤くなるだけじゃんと言われるだけ。
私はそんな人生だけは送りたくありません。
そんな人生を送るなら未だ自ら死を選んだ方がマシです。
勿論”私色”を貫く事は簡単じゃ在りません。
常、孤独と闘い、違う色を持つ人とぶつかる事もあります。
でもその中で全く異なる”色”を持つ人と出会い”交じり合い””新たな色”を作る事もある。
今の私の愛方が正にそうでした。
全く私とは全てに於いて双璧をなす人でした。
恐らく一生交わらなくても問題は無い筈の人でした。
でも我々は出会いそして互いの色を交わらせ合った。
その結果二人が思いもよらなかった”新しい色”が出来ました。
その色は赤や黄色や青といった固定色ではなく日々その色を変化させていきます。
昨日は赤だったものが今日はもう青となり、夕べには緑に変色するような色。
人が人と交わるという事は”色の数を増やしそのバリエーションを増やす事”だと私は思います。
ならばなるべく”同系色”ではなく”異色”な人と交わった方が面白いじゃないですか。
大抵私と出会った人はこういいます。
”貴方は実に面白い人だ”と…。
でも楽しくなければ生きている意味は無いですし楽しく出来るからこそ人の心も楽しく出来る。
私は私が常楽しめる空間を作りその中に同胞や愛方や多くの人を住まわせたいと思っています。
上を向いて歩いていこうじゃないですか!たった一度きりの人生なんですもの。

風見鶏にはなりたくない…

嘗てロンヤスという呼び名でお互いを呼び合っていた中曽根康弘元・総理大臣とロナルド・レーガン元大統領時代、諸外国は中曽根氏の態度を見て”風見鶏”と揶揄していた。

アメリカの言う通りで右を向けば右、左を向けば左、日本人としての誇りも何も無い総理だと…。
私の周りにも、というか日本人気質というべきかそういう人はとても多い。

私はフェミニズムを大学時代専攻していた為女性学についてはある程度の知識を有している。
私がセラピストとして活動をして行く上でフェミニズムを学べた事はとても大きな意義を持っている。

もし私が女性学を学ばなければ今よりもっと男性寄りの意見を持つ人になっていたかもしれない。
一部の女性からはフェミニストと言われるがそれは大学時代フェミニズムを学んだ事が大きい。

日本に於ける女性の地位向上について声高に叫ぶ方々がいる。

上野千鶴子女史を筆頭に日本のフェミニズムの草分けたる研究者方々は皆口々に女性の社会進出向上について延べられている。

雇用問題のみに言及すればそして雇用条件を無視すれば女性の方が雇用状況は男性よりも遥かに良いと言われている日本である。

しかし結局は世間体や収入面そして何より健康面で選択肢を選べば男性雇用よりも遥かに雇用率は下がる。まだまだ日本が女性にとって”優しい国”ではない事を如実に物語っているだろう。

故に我が同胞に女性が多いと言う事も或る意味当然といえば当然の結果なのかもしれない。
セクハラやパワハラなどまだまだ社会的に女性が被害者となるケースがとても多い。

痴漢被害についてもそうである。

最近は冤罪事件が幅を利かせ、本当に痴漢被害に遭っているにも係らず女性が無職で男性が管理職だと、冤罪事件として扱われるケースも少なくない。
酷いケースとなると逆に侮辱罪で訴えられるケースもある程だ。

私はそういう社会的権力を傘に横暴を振るう人間を断固許さない。
確固たる証拠を集め警察署へ後輩を通じて提出、逆転勝訴させたケースは決して少なくない。

あるケースもそうだった。

部内ではとても優しい上司で女性職員の受けも良くとても面倒見の良い上司が居た。
筋道をちゃんと通す人で男性職員による女性職員の差別にも対応してくれる良い上司だった。

偶々同じ部内の女性職員とその上司の上役そしてその上司の三人が同じ車両に乗り合わせた。
上役は早くからその女性職員に目をつけ狙っていたが全く女性職員は意に介さない様子。

それを面白く思わない上役は女性に満員電車で在る事を良い事に痴漢しまくったという。
勿論女性も只黙って居る訳じゃない、次の駅で降り上役を痴漢で訴えたのだ。

当然、証人として彼女の直属の上司も呼ばれた、その場に同席していたのだから当然である。
しかし上司は知らぬ存ぜぬの一点張りで全く彼女の味方にはなってくれなかった。

そして帰り際に一言”私にも生活があり家族もある、解ってくれ…”と…彼女はそこで全てを悟った。

彼女は上司以外の目撃証言を集めた。幸い違う部署だが同じ電車に乗り合わせた男性がいた。
上役は圧力を掛け証言もみ消しに掛ったが男性職員はその圧力に屈する事無く証言台に立った。

そして事細かに仔細を語りそれが決定打となり上役は痴漢の罪で刑に服することとなった。
帰り際、男性は女性に深々と頭を下げたと言う。

”あの時もしも私が声を掛け痴漢を止めさせていたらこんな嫌な思いを貴女にさせる事は無かった。
僕も怖かったんだ、今の生活を失う事が…でも、解った。人間には失っちゃ行けない物があるんだってだから証言台に立った。明日俺は会社に辞表を提出するよ”と…。

だが彼の上司はその辞表を受理する事は無かった、それより不正を正した彼を褒め称えてくれた。
彼の英断により会社の評判も上がり売れ行きも上がった、その後彼は見事昇進まで果したのだ。

もし彼が彼女の上司のように風見鶏で右向けば右左向けば左の人ならこんな事にはならなかっただろう。彼が”ぶれない心”の持ち主であったからこそ彼自身の後の成功にも繋がったのだと思う。

私の周りには周囲の意見に流されコロコロと意見を変える人がいる。
昨日まで赤だと言っていた人が突如嫌、やはり青でしたという人はとても多い。

正直頭を抱えるばかりだがそういう人は私の周り意外にも少なくないと聞く。
私は青い物は青だというし赤い物は赤だと言う、赤い物を青いというつもりは毛頭無い。

TPOによって言葉や態度を変える事は大切だとは思うがそれもやはり時と場合に限る。

今まで私側についていた人がある時一寸した仲違いでいきなり敵陣営に寝返るケースもままある。
日和見主義の際たる物だが私はそういう人間を信用はしないし交流を持ちたいとも思わない。

幸いそういう方は私とは反りが合わないらしく向こうの方から立ち去ってくれるケースが殆どである。
過日もそういう風見鶏というか日和見主義者の方から讒言を頂戴しそして去っていかれた。

正直周囲の受けもすこぶる悪く私の周りの方々は氏と友好関係を結ぶ事に反対の姿勢を持っていた。だが私にとって氏は学ぶべき所がとても多く又人生の先輩として尊敬できる部分も沢山あった。

向こうから距離を置かれる事が無ければ恐らく一生このまま友好関係は結べていたと思う。
だが相手は私から距離を置かれそして周囲はその事にとても喜びを見出している。

恐らく氏と私が今後歩み寄ると言う可能性はゼロではない物の互いの周囲の状況を考えてみても大変困難と思う。その困難を乗り越えるほどの物をお互いが見出せれば又話は別なのだが…。

私はブレない、嫌、職業柄ブレては行けない立場に私は居る。
昨日は赤、今日は青、明日は白という人間を誰が信用できるだろう。

我が同胞は私のこの”頑固一徹さが好き”だと言ってくれているし私も彼らと同意見である。
時に頑固を貫く事はとても苦しいし辛い事だが私はこれからも頑固一徹は貫いていきたいと思う。

それが”私と言う一個の人間”であるという事の証だからである

何気ない一言が人の心を潤す…

人の心という物に向き合って20年余り。
私自身、同胞から”名言メーカー”という異名を頂戴している。

だが、それは取りも直さず私の周囲に居る方々のお陰である。
彼ら・彼女らの”何気ない一言”が私の心を潤し元気にし、明日への活力を与えてくれる。

以前もそんな一言に出会った。

いつも私が仕事で利用させて貰っている山口線。
行き帰りは殆ど毎日元・坂本駅長(現・厚狭駅長)御自らお出迎え下さり、言葉を交わして下さった。

中々駅長職にまで上り詰めた者が気軽に乗客と接すると言う事は少ない。
もう一つの駅である新山口の元・駅長なんざ殆ど駅構内でその姿を見かけたことは無い。

偶に電話の応対に出られるがそれ以外構内で彼の姿を見かける事は稀である。
前々の駅長は良く構内で見掛け多くの乗客の方と触れ合っておいでであった。

この辺り人柄という物が現れるものだ。

閑話休題

何時もの様に駅に降り立ち何時もの様に駅から新山口へ帰る際の出来事。
何時も明日の利用時間と利用号車をお伝えして私は帰宅するようにしている。

なるべく皆様方のお手間を取らせたくない私なりの配慮である。
不必要なときにわざわざお手配戴くのは気の毒だからである。

今週は連休中山口線の利用は無い、その旨駅長さんに申し出た。
すると駅長さんがこのように申された。

”先生、駄目ですよ、先生のお顔を拝見出来ないと寂しいじゃないですか”と…。

勿論それが”お上手”である事は先刻承知である、それを額面通りに受取る程私は馬鹿じゃない。
だが、それでも”そのたった一言”が私の疲れた心を癒しそして明日への活力を与えてくれた。

もう一人、私の心に潤いを与えてくれた人が居る。
既に此処でも御馴染みとなった我が愛方の一言である。

彼女は本当に”名言メーカー”として実は名高い人物である。

私が今の彼女と一生添い遂げようとした理由の一つに彼女が発した何気ない一言がある。

”殿は足が悪いから車椅子に乗っている、私は目が悪いからコンタクトをしている。
其処に何の違いがあるの?皆同じじゃない?”と…。

言われて見れば至極当然の話だがその一言が普通中々出てこない。
この一言が我々一家が彼女を我が家に迎え入れようと決めた瞬間であった。

そして今日も彼女は私に名言を吐いてくれた。

既知の通り去年5月、最愛の夫を亡くして今、母は独り身である。
勿論実質的長男である私は母の老後の面倒を見る事は決めていた。

だが、そうなれば当然妻となるべき愛方の負担は確実に増える。
私自身の世話に加えて、母の事も加わるのだ、そりゃあ大変さは想像を絶する。

私の個人的感情と愛方の気持ちとは又別物、私はそう考えていた。
だが…愛方は事も無げにこういった。

”私はお母様を老人ホームになんて絶対入れない、我が家はおばあちゃんも老人ホームに
入れず家でちゃんと面倒を見ている。まして殿(私の呼称)のお母様を老人ホームに入れるなんて私は考えていない。新婚生活が済んだら即同居して色々と教えて貰いたい”と。

中々普通に出る言葉ではない。

大抵姑との同居を嫌がる人が多い中、自らが進んで同居を申し出てくれた事は歓喜極まり無い。

私が愛方を我が一生の妻として迎えた事が本当に間違って居なかったと改めて確信した瞬間であった。

そんな多くの方々の”何気ない一言”が今日も私を生かしてくれている。
本当にありがたいと思っている。

人の上に立つと言う事…

丁度というか運良くというか図らずも私が書き込もうとしていた内容が私を此処へ導いて下さった方のブログネタとクロスリンクしていたので併せて此処へ書かせて頂く。

少し前の話。5月の大型連休我々は人ごみを避け遠出せず地元の近場へ出掛けて行った。
今までならば福岡や広島方面へ足を伸ばす所だが愛方も三日間の東京見物でお疲れ気味、
私も博多と小倉の往復が続き一寸お疲れモードだったのでお互いの意見が一致した。

幸いにして地元でビーズ展を開催されていたり、リニューアルしたショッピングセンターへ
足を運んでレストランで食事を頂戴しながらタンゴの生演奏を満喫したりと安値でプチセレブな気分を味わえ且つ色々な新鮮な体験をさせて戴いた。

今日は御互い明日からの仕事に備えお互いの自宅にて英気を養っている。
この数日間、私鉄を随分と使わせて頂いた。

防府、小野田、厚狭と生憎県内ばかりだが私鉄を乗り継ぎさせて戴いた。
何処の駅でも大変丁寧且つ親切な対応をして戴き有難い限りである。

防府駅の駅長と小野田駅の駅員さんは知古の仲であり彼ら・彼女らが新山口で勤務されておられる頃から随分と懇意にさせて戴いた。

又、厚狭駅の窓口業務の女性駅員さんは今回初めてお会いしたが発券時よりとても素敵な対応を戴き、ホームへ上がる際のご配慮も戴いた。
新幹線が発車して出るまでずっと頭を下げられとても気持ちのよい旅をする事が出来た。
(余談だが松下奈緒似の超美人であった事も得点高し(笑))

何処の駅も駅長さんがとてもしっかりとした方でやはり人の上に立つ者がきちんとした人の元の駅員さんはとてもしっかりされておられるなと確信した。

仕事柄新幹線をとても良く利用させて戴いている。
週の内、移動は殆ど新幹線である、定期券を買いたい程に^^;。

新幹線が止まる駅で唯一エレベーターが無いのは我が地元新山口駅のみ(笑)
他の全ての駅にはエレベーター・エスカレーター完備で甚だお恥ずかしい限りである。

J西の株主として進言は常しているのだが中々県の予算の関係で設置は難しいとの見解。
毎回サポートの駅員さんのお手間を取らせる事は甚だ遺憾に覚える。

今まで新幹線が止まる駅のワースト1は広島駅だった、数年前までは…。
駅員の態度及び設備面でも不満が多く、国鉄時代の傲慢さがとても鼻についていた。

しかし数年前に駅長が代われてから内部の意識改革をされそれからは様相が一変した。
駅員の態度も変わりお客第一主義を貫かれとても気持ちのよい駅として生まれ変わった。

防府駅も嘗ては国鉄時代の悪い因習の残る傲慢な所であった。
しかし、現・駅長に代わりこちらも駅員の再教育がなされた結果とても気持ちの良い駅として生まれ変わった。

今では週1で買物へ行く程防府駅の利用度は増した。

首尾一貫した徹底主義で定評があるのが山口駅と博多駅及び小倉駅の方々。
特に山口駅の方々は駅長以下駅員方々の教育が徹底されていて気持ちが良い。

又、新幹線が止まる駅の駅員さんの態度も私にはとても心地の良い物であった。
京都と新神戸は各二回、新大阪へは数回訪れたが何れもとても気持の良い物であった。

東京駅や名古屋は言うに及ばずである、流石日本の玄関口だけあって応対は完璧である。

やはり一様に上がしっかりとした人格者の下の駅員さんはとても教育が行き届いている。

人の上に立つと言う事…この重みを上に立つ者はしっかりと認識して欲しいと思う。
只、成績が良いから、上へのごますりが上手いからだけで上に立って欲しくは無い。

そうやって上に立たれるのは結構だが下の者がその分苦労する事をご理解戴きたい。
私も嘗てそんな”上に立つべき人ではない人の下”に居た事がある人間である。

上の尻拭いは全部下に任せ、下の功績は全て自分の功績として上へ進言。
上へは謙り下へは威張り散らす…多くの者がその会社を辞め私もそれに従った。

数年後その人は会社の金を横領し逮捕、程なくしてその会社は倒産した。
やはり上がしっかりしていない会社の末路はこんな物かと今更ながら嘆く始末。

私も人の上に立つ職業ではないが人を導く仕事に長く就いている。
どうしても長く引率者役を務めると傲慢になったり鼻っ柱を高くして仕舞いがちになる。

だが幸い私の周りには我が傲慢さを諌め、高すぎる鼻っ柱をへし折ってくれる人が居る。
その方々のお陰もあって今も多くの同胞を引っ張れる人で居られる。

やはり常”自戒出来る人”でありたいと常願う物である。

公共性と利便性の狭間で…

先日より新聞各紙で賑せております某大手航空会社の公的資金導入問題。
幸いあの会社の飛行機はフライト時間の問題で利用した事は有りません。

ですがもう一つの路線は年間何度か利用するのであちらがそうなってしまったら一寸痛い。

我が地元の空港は一つ、昔は東京以外にも便を出していたが年々利用客が減り今は国内は東京便のみ。
それでも年数回東京へ行く用事の有る私から言わせて貰えば有り難い限りである(便数の少なさには若干不満は残るが…)。


この空港から出る東京便が無くなると一番近い空港は福岡空港という事になる。
そうなると先ず福岡まで新幹線で出て更に地下鉄で福岡空港まで行ってそれから東京へという事となり、飛行機代以外にもかなりの出費を強いられる。

地元の空港を利用するだけでもタクシーを使って30分以上行かねば空港へは着かない。
毎回空港までの交通代だけで10000円の出費は正直かなり痛い。

空港に近い最寄り駅も有るには有るのだが何せ本数が少ない為かなり時間的制約を受ける。
又最寄り駅とは言っても実際はかなり距離が有り相当歩かねばならない。

まだ空港が有るだけ有り難いと言われればそれまでだが利便性を考えると少し疑問を覚える事も確か。

今、某国際空港のハブ化問題で国土交通省と地元そして某府県との間で虚虚実実の攻防が展開されていてどうなるのか?注目をしてみている。

確かに国際空港のハブ化も国の発展の為には必要な事だと思う。
しかし国力を上げる為には地方力を上げる事も又大切な事ではないか?と私は考える。

その為にも地方の路線減便には私は反対の姿勢を持っている。
寧ろ地方を増便する方が利用客が増えるのではないか?と考える。

そうすれば地方色をもっともっと各地域も明確化しお客を呼べるのでは?と思う。
日本の政府は何時も後手後手に回って何か事が起こってからそれに対して対策を講じるケースが多い。

しかし事が起こってからでは遅いケースもままある。
やはり中央政府には”先見性”をもう少し見て考えて戴きたいと思う。

公共性と成熟性

私は計5つのブログを今管理しているが実質此処以外の所は最近若干なおざりとなっている^^;

それにはそれなりの理由がある。

実はヤフーブログに関しては以前某ネトゲの奮戦記を副ギルドマスターとしてアップしていた事が有りブロガーとしてはmixiよりもyahoo!blogの方が長かったりする。

当然その頃から顔見知りの方も友録さんには何人か居られこちらの方が私としては古巣という感じがする。

だが尤も大きな理由は”成熟性”に有る。

過日此処で『maron revolution』という題で博多は天神三越にある『キハチカフェ』のマロンデザートについて記事にさせて戴いた事は未だ皆様の記憶にはそう遠くない事と思います。

勿論mixiの方にも同じ日記を挙げさせて頂いたのだが其処で一寸不愉快な気分に合った。
私が”絶賛”している物にケチを付けられ”そんなに美味くないよね”と面と向かって書かれたのだ。

ブログとは公共性の高い物で有り全体公開の記事に関しては多くの方々がご覧になられている。
まして個人の嗜好性について意見を述べる事は結構だが全否定される事は甚だ不愉快極まりない。

その方とはつい最近こちらでいう所の友録さんとなった方だがKYな発言はメッセでも目立っていた。
知り合って間もない人を”馬鹿”呼ばわりするのは流石に如何な物だろうか…。

その方は地方で長く習字の先生をされておられ多くの生徒さんを抱えておられるという。
地元では知名度も有り又、ご本人曰く”神のご加護”を頂戴している方との事。

だが、人の意見を全否定し見ず知らずの他人を”馬鹿”呼ばわりする人を本当に神が守護なさるのか?一霊能者としてはこれも甚だ疑問である。

私のヤフーブログ内の友録さんの中にも嘗てそういう方が数名居られた。
だがやはりというか当然の結果と言うかそういう方とは疎遠となり友録もあちらから外して戴いた。

今居られる友録さんは”家族”と言って憚らない程私の自慢の”宝石”方々ばかりである。
良識を持ち深い見識と洞察力で適切なコメント下さる、賢者揃いである。

我ながら此処まで素晴らしい方々が私のような浅学菲才な者の元へ集まって下さった事は歓喜の念に耐え得ずこれからも色々とご指導ご鞭撻を賜りながら日々皆様と共に成長していければと思っている次第。

人の死を商売にするという事~或いは私的死生観~

作家の井上ひさし氏が亡くなられた。

同時に地元の本屋の店頭に氏の作品が並べられ『井上ひさしフェア』が開催された。
店頭ではチャラ男が彼女に『井上ひさしってさ~』等とTVや雑誌などで書かれているような知識をひけらかし馬鹿な女は『へぇ、すご~い』などと会話をしている場面などを見るとかる~い殺意を覚えたりもする。

私は井上ひさしファンでもなければ氏の作品を語れるほど氏の作品を読んで居る訳ではない。
せいぜい氏の戯曲を何作か読ませて頂いた程度であり氏の答弁をTVで数度見た位である。

いかにも作家然とした氏の生き方を賞賛する人も居れば揶揄する人も居る。
私はどちらかと言うと後者の方で余り氏の生き様を真似てみようとは思わない。

作家という存在はとても孤独な作業の繰り返しであり自己が強くないと出来ない仕事であると思っている。

故・星 新一氏がショート・ショート1篇を編むだけでも何週間も部屋に篭もり眠れぬ日々を送った事が有るとエッセイで書かれていて氏の作品を誰も真似出来ない真の理由を其処に見た気がした。

或る作家が星作品のあとがきを書かれておられたがその作家も一見すると星文学は平易な文章で枚数も少なく誰にでも書けるような錯覚を起こさせるが実際に執筆してみるとあの短い枚数の中で起承転結を付け且つしっかりとブラックなオチまで用意するという事が如何に大変で難しいことかが解ると申されていた。

嘗て私も小説家を志していた時期が有り星文学を真似た事もある。
今から思えば若気の至りといおうか随分無謀な挑戦をした物だと失笑の極である。

閑話休題

日本人は兎角有名人が亡くなると直ぐ商品化しもうけ主義に走ろうとする。

亡父が亡くなった時も誰も何も連絡を入れていないにも関わらず数社から葬儀の依頼の電話を頂戴した事が有った。

私は思わず”人の死を悼まず商売の道具として扱うな!”と一喝し電話を切った。
親族が悲しみに打ちひしがれている時に無遠慮に商売の話をする等言語道断である

私はそういう商売をする人間を軽蔑しそういう商売を出来る人間を悲しい人だと思う。
確かに彼らもそれで飯を食っている人間でありそうしなければいけない事情もあろう。

だが、もし自分の身内が亡くなって同じような事をされた時彼らは冷静に無感情に応対が出来るであろうか?生憎私にはそのような事は出来そうもない。

私の仕事も案外死と隣り合わせの商売である。

自殺願望を持つ同胞の自殺を食い止められず死なせてしまった事もある。
その時私は自らの無力さを嘆き彼の死をとても重く受け止め慙愧の念に耐えない。

私が亡くなった時周囲がどういう反応を示すのか?それは私には解らない。
だが願わくば遺された者達の意を汲んで戴き静かに死を悼んで欲しいと願う。

それが『和の国』に生まれた人間の務めではないかと私は考える。

心理学者瀬木の心に効くオリジナルレシピ~イカのマリネマヨネーズ風味~

イカのマリネマヨネーズ風味

用意する物。

・イカ 1杯
・マヨネーズ 大匙1杯
・パセリ 少々
・玉ねぎ 半玉
・レタス 数枚
・醤油 小さじ1杯
・胡椒 少々
・御酢 小さじ一杯
・オリーブオイル 少々

イカは表面が軽く白くなる程度に湯がいておきます。
下足(ゲソ)と胴体を切り分け、更にそれらを一口サイズに切っておきます。

玉ねぎは半玉を千切りにして水にさっと潜らせてしゃきしゃき感を出しておきます。

ボールに先程茹でて切った烏賊と玉ねぎを入れます。
其処へマヨネーズ大匙一杯、醤油、御酢を各小さじ一杯投入。
かき混ぜます。

器にレタスを敷きその上に烏賊を盛り付けます。

そこへオリーブオイルを一垂らし。
胡椒を一掛け。

後はパセリをちょっとアクセントに置けば出来上がり。
パセリをクレソンにしてもグー!です。

お酒のおつまみにするもよし、ご飯と共に食べても美味しいです。
サワークリームでも美味しく出来ますよ。

心理学者瀬木の心に効くオリジナルレシピ~簡単おこげ料理~

『簡単おこげ料理』

用意する物

・サッポロ一番バーベキュー味
・中華スープの素。
・海鮮(何でも)

先ず中華スープの素を煮立てます。
そこにお家に在る海鮮(何でも結構です)をぶちこみます。

鍋焼きうどんに使う鍋にサッポロ一番バーベキュー味を敷き詰めます。
其処に先ほどの中華スープに海鮮を入れた物を掛けます。

最後にラー油を数滴垂らせば出来上がり。

これだけで中華料理屋のディナーに出てくるあのおこげスープが楽しめます。
簡単お手軽で中華料理屋気分が味わえます。

一つだけ注意点。

元がジャガイモなのでスープを掛けたら掛けたら直ぐ食べてください。
それかスープを入れる前に一度オーブンでサッポロ一番バーベキュー味をオーブンで焼くのもお勧めです<(_ _)>

後はお好みで塩・胡椒などを入れて味を調えてください。

心理学者瀬木の心に効くオリジナルレシピ~ナスの味噌グラタン~

用意するもの)
茄子 1個(出来れば加茂茄子などの大降りが良)
八丁味噌(八丁味噌が無ければ他でも問題なし)
酒 少々
砂糖 少々
みりん 少々
白胡麻 少々
パルメザンチーズ 少々
パセリ 少々
コーン 少々

作り方)

先ず下手を取り、ナスを縦半分に切ります。
焼き茄子の要領で茄子を焼いていきます。
表面に軽く焼き色が付いたら良いです。
茄子中身をスプーン等でくり貫きます。
(その際、側を1.5cm位残します)

八丁味噌他調味料を全て混ぜ合せタレを作ります。
先程くり貫いた茄子の身をタレに合わせます。

よく混ぜてタレに馴染ませたらくり貫いた茄子の本体にくり貫いた中身を戻します。

パルメザンチーズを掛け、パセリを散らし、コーンを散らします。

オーブンへ入れ表面に軽く焼き色が付くまで熱します。チーズが少し焦げ始めたら出来上がりの合図。

最後に白胡麻を軽く振ったら出来上がり。

後は熱々を召し上がれ!
暑い夏、ビールに良く会う一品です。

心理学者瀬木の心に効くオリジナルレシピ~さつまいものフルーツグラタン~

美味しい物、美しい器、楽しい会話それだけで”心”に充分な栄養が行渡ります。

そんな美味しいオリジナルレシピをこれから少しずつご紹介してきます。

用意するもの)さつまいも 一本(なるべく大振りの物)
黒胡麻
砂糖 大匙1
塩 少々
生クリーム 1カップ
フルーツ お好みで

(作り方)
薩摩芋を盾に半分に切ります。
そのまま表面に焼き色がつくまで焼きます。
一旦取り出し中身を外側1cm位残して中身をくり貫きます(これが器となります)
くり貫いた中身をボウルに入れて潰します。
その中に砂糖、塩、生クリームの順に入れ、良く混ぜ合わせさつまいもペーストを作ります。
もう一度そのペーストを先ほどの器に戻します。
もう一度オーブンに入れ、今度はしっかりと焼き目がつくまで焼きます。
最後にお好みのフルーツをトッピングしたら出来上がり。
お子さんと一緒に作るとより一層美味しさが増します。
是非秋の夜長、お子さんと一緒に作って見て下さい。

2010年12月2日木曜日

多様性と関連性の心理学~或いはリンクの心理学~

過日新しく我が”家族”となられた方に大変お褒めのお言葉を頂戴した。
先生のように”○○と××を関連付けて考えてくださった方は初めてです”と…。

私の中ではその時若干の疑問符が浮かんだ…”何故この二つが関連付けられないのだろう…”と。
確かに単面的思考性でこの二つを関連付ける事は難しい事と思う。

だがそれらを多面的側面から思考すれば結び付ける事はとても容易な事である。
そしてそれこそが我々の仕事であると言っても過言ではない。

私は以前人材派遣の会社をやろうと考えていた時期があった(今も個人ではやっている)。
それは我が元に来る同胞を会社へ入れて欲しいからであった。

確かに彼ら・彼女らは”心を病んでいた人”達である(あくまでも過去形)。
しかしそれは余りにも周りに無理解な人たちが居たからに過ぎない。

もし彼ら・彼女らの周りにもっと多くの理解者が居てくれさえすれば彼ら・彼女らが心を病むことは決してなかった。
つまり彼ら・彼女らは”異常者”ではなく”犠牲者”な訳である。

だが、経歴の欄にそれらを見つけると大抵の企業はそういう人の入社に難色を示す。
そういう方々の”お墨付き”を私が与え入社させていただくという物である。

事実この我が”お墨付き”でかなりの人を過去入社させ或いは起業させてきた。
今もそれらの人道支援は続けているし今後も続けていきたいと思っている。

その際に最も重要な事が表題にもある”多様性と関連性”である。
その人の持つパーソナリティーの多様性、そしてその多様性でもって御社に与える利益との関連性。

それらを人事担当の方や或いは社長に直談判し採用願っている。
相手にきちんと”理解”して貰えば採用を得ることは難しい事ではない。

実際それで私はある一定以上の実績を誇っているからだ。
故に就職に挑む生徒や就職浪人生の面倒を見た事もある。

人間の持つ多様性と関連性、これらはつい蔑ろにされがちで有る。
だがそれこそが人材発掘の鍵であり産業社会における生産性、創造性の発掘であると思っている。

一見すると何の関連性もなさそうな所に関連性を見出す、そしてそれらの持つ多様性を示す。
その多様性でもって得られる利益、与える才を訴えれば”求める”人材から”求められる”人材へと変貌を遂げる。

或る会社でメンタル疾患で首を切られた某氏は我がセラピーを受けた後更に前の会社よりも知名度も待遇も良い所へトラバーユする事に成功。しかも自らが”求めた”のではなく相手側から”求められて”の事である。

まだまだ日本には素晴らしい人材が多く眠っている。
それらを揺り起こし日本の発展に寄与させるのも又我が使命である。

2010年12月1日水曜日

私がオリジナルテクニックを公表し続ける訳…。

此処じゃない別のSNSでのお話。

そちらの方が此処より長くやっているので当然同胞の数も其方の方が此方より多い。
んで書いてる内容は此処も其処も自ブログも殆ど一緒(笑)

我がオリジナルセラピーテクニックや独自の心理学理論を展開させて戴いている。
当然同じ心理学者さんや同じメンタルセラピストさんともお友達になる訳で…。

その際同胞が危惧していたのは我がテクニックを同業に盗まれやしないかという事
私は『まさかそれはなさるまい、そんなに人を直ぐに疑う物ではない』と嗜めた。

だが…数年後同胞の危惧は現実となって我が眼前に突きつけられた。
我がセラピーテクニックを『オリジナルセラピー』として同道とHPに出している人が居たのだ^^;。

”似ている”というレベルに非ず、まんま”盗用”されていたから驚くというか呆れるというかw
此処まで”そっくりそのまま”まねられるとある種の爽快感すら覚えます(笑)

当然同胞は憤怒の表情を浮かべ直ぐに告訴すべきだ!と息巻いた。
だが、その際も私は一切動じずに居た。

『まぁ、待ちなさい。幾ら理論やテクニックを盗んでも其れを行うのは結局は人。
 人のテクニックや理論を盗む人はそれだけのスキルしかない。
 我がテクニックがそんな人にまともに扱えると思うてか?そこまで稚拙なテクではないと思うが?』

同胞は口ごもりながらもそれ以降何も言いませんでした。
案の定、我がテクニック理論を盗用せしその方はその後新聞の三面記事にその名を晒す事となりましたとさ(笑)

私は此れかも自身のセラピーテクニックや心理学的理論を展開していく所存。
それは私しか扱えないと確信するが故です。

そして出来うれば我がテクニックや理論を更に高度な物に作り変えて下さる方が出てくれる事を願います。
其れは盗用ではなくもう完全に”オリジナル”といって憚らないのですから<(_ _)>

2010年11月27日土曜日

究極のアンチエイジングの心理学~或いは輝きは君の中に~

夫婦問題のスーパーアドバイザー竹中なおよ先生は究極の『美魔女』であられる。

過日お会いしその美貌その若さに圧倒、だが一番圧倒されたのはその年齢を聞いた時であった^^;。
敢えて此処では公表は控えるが”まさか!”とわが耳を疑う程であり実際私はまだその事を信じられずに居る。

確かにご子息やご息女の年齢から逆算すれば私が想像していた年齢では少し無理がある事が解った。
まぁ産んで産めなくは無い年齢だが(勿論法律上は違法だが)それで育て上げるのは容易な事ではない。

しかし…この美貌、この若さでそれは絶対ありえないだろうと目が点となりました(笑)
聞けば元・モデルさんをやられていたとの事、それで得心が行きました。

モデルは自らの商品価値を高める為如何にすればより美しくより若々しく見られるかを熟知しています。
嘗てモデルも数名見た事があるので彼女ら・彼らの美への飽くなき追及心には本当に頭が下がる思いにて。

だがなおよ先生の場合はそれだけではなかった…一言で言えば『背負っている物の大きさの差』である。
勿論皆誰しも大切な人の思いを背負い家族の思いを背負っている、だがなおよ先生が背負っている物はそれだけではなかった。

故に”年をとる暇”すらなかったと言うのが現状であろう。

我が同胞の中にも齢70過ぎにして50前半から半ばにしか見えない『美魔女』が居る。

最初は本当に”初老の女性”という出で立ちで来られていた。
旦那さんを事故で亡くされ失意の余り自殺しかねないと友人が我が元へ連れて来たという訳だ。

私は彼女に”旦那さんの事は絶対に忘れてはいけない”といいました。

周りは”早く忘れろ”と言いますがそれは間違い、本当に大切な愛している人を忘れられるわけが有りません。
故に私は彼女に”決してだんなさんの事は忘れてはいけませんよ”と言いしっかりと話を聞く事から始めました。

お身内にはご主人の事、年齢の事、ファッションの事などは一切口にしない事を確約させました。
そしてある一定の期間を終えた後こう言ったのです。

”天国に居るご主人が望まれている事、それは奥様がいつまでも若々しく元気で艶のある魅力溢れる女性である事。
 あの世から下界を見て自らが心から愛した女性が光り輝いていたらそりゃあ嬉しいです物ね、私は霊能者でもあるのでご主人の願いが解るのです”と。

彼女の話を真剣に聞き彼女の要求を受け入れてきた私の言葉ゆえに彼女は一切の疑いを持たず聞き入れてました
それからは少し実年齢よりも若々しい格好やメイクをしだすようになりました。

お身内は最初眉根を寄せた物の私から固く禁じられていたので年齢やファッションの事には触れずに居ました。
当然私は彼女の若々しいファッションやメイクを褒めるので嬉しくなりどんどん若々しく派手になっていきました。

すると周りの男性の目もそれに伴い変わって来ます。

元々綺麗な方でお若い頃は随分男性を悩ませてきただろうと言う風貌の方です。それなりの格好やメイクをすれば一般男性を落とすなど造作も無い事。それ以降は自らの”美への欲求”が高まり今や10代から70代までの数名のBFを持つに至りました。

しかし…それでも彼女がご主人を思わなくなったと言えば差に非ず。
いつも夜になるとご主人の遺影を抱きしめ涙しながら床についていたそうです。

年齢は関係有りません、輝きは”貴女の心の中”に眠っているのです。
私と一緒にその”美の種”を起こしてみませんか?

2010年11月25日木曜日

美男美女の心理学~或いは類は友を呼ぶの心理学~

以前我がセラピーを受けその後完治したKちゃん(女性)に図らずも偶然お会いし久しぶりにお茶をする事となった。
当時『醜形恐怖症』で我が門を叩いたKちゃんは今や女性起業家として華々しい活躍をしている。
そのKちゃんが私に言った言葉『先生、私女性の友達が少ないんです。というか減ったんです、セラピーを受けた後』
私『だろうね』
彼女『え?!何で解ったんですか?』
私『答えは至極簡単だからさ』
彼女『???』
私『君が美しすぎる、正確に言えば俺が君の隠れた美しさを表に出したから、其れが一番の理由』
彼女『またまた~、先生相変わらずお上手なんだから~』
私『じゃあ聞くが例えば紀香から食事の誘いがあったとしよう、君ならどうする?』
彼女『え?!そ、それは一寸…』
私『だろ?気後れして行かないだろ?はい、その紀香と君を入れ替えてみよう』
彼女『無理ですよ~、だって私は紀香みたいに綺麗じゃない物、それは無理無理』
私『そうかな?彼女は商業的価値は高いと思う、彼女の美しさは商品だからね。しかしそれは作られた美しさであって彼女本来の持つ美ではない。女性本来の持つ美という観点に立った時私は紀香より君の方が綺麗だと思うがね』
彼女『先生…(此処で顔を赤らめる彼女)。んもう先生は本当に女性を気持ちよくする事がお上手なんだから。随分オモテになるでしょうね』
私『俺が?冗談。誰にでもこんな事を俺が言うと思うか?冗談じゃない、そこまで俺は暇人じゃない。俺は俺が認めた女性だけしかこんな事は言わない。愛方含めて10指にも満たぬよ』
彼女『え?なら私はその先生の10指の中の一人?』
私『そういう事』
彼女…黙って下を向く(顔は更に赤くなる)。

だがその後彼女は自らの”自信”を取り戻しそれからは自らが美しい存在であるという事を必要以上に謙遜しなくなり、その彼女の快活さが受け助成の友達も増えたという報告を受けた…。
(勿論類友で彼女が送ってきた写真は彼女を含め全員モデル級の美女ばかりだったが^^;)。

同じ事は男性の元・同胞にも言い氏はその後コックからモデルへと華麗なる転身を遂げた。
美しい人は美しいままで良い、カッコイイ人はそのままかっこ良くて良いのである。

変に三枚目を演じたり変にへりくだる事は余計回りの失笑を買い反感を買うという事を失念なさいませぬように^^;

一番厄介なのは自らが『イケてる存在』である事をご存じない方々である。
イケてる人間が自らをイケてないと勘違いするほど周りがムカつく事はない^^;。

本人に自覚がないだけに余計に害は大きい^^;
そういう方に自らが『イケてる存在』である事をお教えするのも私の仕事である。

自らが『イケてる』『輝く』存在である事を知れば人生もっと楽しく生きる事が出来ますよ^^V

2010年11月23日火曜日

信頼の心理学~或いは待ちの心理学~

夫婦問題専門カウンセラーの第一人者竹中なおよさんのご子息はキャリア官僚。
灘中→灘高→東大→霞ヶ関と絵に描いたようなエリート街道まっしぐらである。

しかしその道は苦難に満ちており頂点を極められるまでの御苦労はとても此処では全てを書き切れる物ではない。
親子二人三脚、息がぴったりと合ったチームワークがあればこそ成しえた偉業であると言っても過言ではない。

誰もがなおよさんの子育て術をお知りになりたいと思われるだろうし、
又それは多くの悩み多き親御さんに是非聞かせて差し上げて欲しい話であると思う。

私自身何れ人の親となった時なおよさんの『子育て術』を是非実行してみたいと思う程。
本当に氏は子育てのプロと言っても過言ではない。

詳しくはご本人から直接お聞き下さるのが一番だが此処では表題にもある”待ち”について語ってみたいと思う。

ご子息がまだ幼少期の頃の話、どうしても靴下を左右反対に履いたり靴を反対に履いたりは誰しも経験が有る筈。
そんな時多くの親は子供に靴下を履かせ靴を履かせ幼稚園のバスに乗り込ませるのが常であろう。
私も1週間姪を預かっていた際同じ事を姪にした覚えがある^^;

だがなおよさんは違った、例え時間が掛かっても只管ご子息が履かれるまで”待たれて”おいでであった。
それは自分の子への”信頼”と”自立”を願えばこその親の愛情、又、ご子息もそれをちゃんと受け取っておられた。

こんなエピソードもある、ご子息が物を誤って壊してしまった時の事。
普通の親なら”何で壊したの!壊しちゃ駄目でしょ!”と頭ごなしに怒るのが常、私も甥にした覚えが^^;。

だがやはりここでもなおよさんの子育て術は違います。

決して怒らず壊れてしまった今の気持ちを聞きその悲しい気持ちを繰り返さない為に次に自分が出来る事を怒らずにちゃんとご子息にお伝えになられた。
ご子息は物が壊れる悲しさと壊してはいけないという学びを得られ二度と同じ失敗を繰り返さなかったという。

物を壊さないように『注意をする』
実はこの『注意をする』という心の作用には二つある。

頭ごなしに怒ってしまった時、次に又怒られないように『注意をする』これは受動的でありマイナスの思考。
なおよさんのように諭した時、次に又自分が悲しい思いをしないように『注意をする』これは能動でありプラス思考。

このように同じ『注意をする』という言葉でも其れを受ける側の気持ちは能動と受動とでは全然違うのである。
これが『東大脳』を作る秘訣の一つではないかと思う(勿論それ以外にももっともっと有る筈だが)。

我も又同じである。

同胞へ指示を出し同胞がそれを失敗をする、此処で頭ごなしに叱ってしまっては今迄の苦労は水の泡である。
それを頭ごなしに怒るのではなく何故それを失敗したのかを分析し其れを次に回避する方法を模索する。

そして何よりその回避策を自らが導き出せた事に対して同胞を心から褒めてあげる。
そうする事により同胞は”褒められる事の喜び”を知り”失敗をしたくない、又褒められたい”という心の動きに変わる。

さすれば心も上向きとなり心の病も快方へと向かうのである。

”反省だけならサルでも出来る”だが如何に反省し繰り返さず成功へと導くか?それは人間しか出来ぬ事である。
サルは人間ではない、人間も又サルではない。頭ごなしに怒っても『北風と太陽』に同じ相手は萎縮するだけである。

どうせ怒るなら成長させる怒り方をしたいではないですか。
私はそう考えます。

2010年11月22日月曜日

セレブの心理学~或いは成功者の心理学~

昨日は姫路でFacebookで知り合いになった夫婦問題カウンセラーの竹中なおよさんとお会いして参りました。
何せ姫路へ参るのもなおよさんにお会いするのも初めての初めてづくし。

お人柄の素晴らしさは既に何度かメッセの交換をさせて頂いているので存じ上げては居る物のやはり実際にお会いするのと文章とでは印象派随分違う筈。

それ故前日は余り眠れず朝も早く起きて軽く朝食を取り発車時刻より一時間も早く駅に着きなおよさんへのお土産を求め頼んであった切符を求めホームへ上がり葉巻を吹かせながら心を落ち着かせて降りました。

特別室を行き帰りで取る事が出来車窓を眺めながらまだ見ぬ方へ心をときめかせます。
約1時間一寸で姫路へ到着、較べるべくも無いが我が地元とは雲泥の差^^;。

おみやげ物コーナーや食事をする所も充実しており又駅員さんの対応もスムーズで満足の行く物でした。
そして改札を抜け、いよいよなおよさんとご対面。

Queen of cerebrity…彼女を一言で表すと正にそんな言葉がぴったりと言う感じです。
身に付けているものが高級品であるとかそういう見た目的な物ではなく気品や立ち居振る舞い言葉の一つ一つがとても上品で落ち着いていて人を和ませ自然と笑顔にさせるそれがなおよさんでした。

同じ心理職という立場にありながらこの差は何?と愕然とする私^^;。
やはり生まれの違いか育ちの違いか(笑)いやぁwわが身の貧しさが恥かしい限り^^;

駅近くの日航ホテルのラウンジでデザートセットを頂戴しディスカッション開始でございます。
詳しい会話の内容は個人情報保護法に抵触する為省きますが一つだけ…

『地獄から這い上がってきた成功者』という物の気迫そして深い絆と愛で結ばれた家族の素晴らしさ、それがやはり成功の秘訣であるとつくづく痛感した次第。

氏の経歴や氏のご家族の肩書きだけを見れば何の苦労もせずやってきたセレブファミリーという風にしか見えぬ筈。
だがやはり”真のセレブ”とは叩き上げで今の地位を勝ち取った、それも自分の為ではなく人様の為に…。

氏は自らの体験を活かしもっと多くの方々をお救い申し上げたいと申されておられました。
大抵の人は自らに不幸が振りかかると人を呪い境遇を呪い世間を呪うのが常です。

だが氏はそんな俗人がなさるような事は一切なさらず只ひたすらに”成功する事””自らと家族を信じる事”のみに心をフォーカシングしそして見事”成功者”となられたのです。

我もそうですが一度地獄を見た人は強いです、そして私は違いますがなおよさんはとてもキラキラと輝いています。
これからもその輝きが増す事はあれど褪せる事は絶対に無いと確信しています。

ご家族の深い絆が有る限り…。

帰りの時刻が迫りなおよさんより私と母へ駅弁と私の帰りの電車の中で食べるお菓子まで頂戴し^^;恐縮の至り。
又再会出来る事を双方願いながら新幹線配置炉心山口へ向かいました。

夫婦問題で一番の核となる物は”愛”と”信頼関係”そして何より”相手への感謝の気持ち”であります。
その事を私はなおよさんから学ばせていただきました。

夫婦問題で悩まれている方は迷わずなおよさんの元へ行かれて下さい。
きっと貴方の前に輝かしい道が現れると確信します。

2010年11月18日木曜日

色彩影響心理学と色彩印象心理学について

毎度の事ながら中身はゆるゆるです(笑)。
色彩影響心理学とは固有の色が其れを見る者に与える影響について考える心理学。
色彩印象心理学はその逆、自らの色をどうすれば相手にどういう風に自分を印象付けられるかについて考える心理学。

どちらも”色”がテーマであり”色”により受ける印象と”色”により与える印象についての違いのみでございます。
この辺りカラーセラピストやオーラーゾーマの領域ではありますが私の場合其れをもう少し広義に捉えたいと考えます。

先ずは『色彩影響心理学』の方、解り易い例をとって説明するとお医者様の白衣である『白』と牧師、裁判官などの『黒』
これらは全く真逆の色ですがそれらが見る者に与える影響は共通しています。

お医者様の『白』これは衣服を汚れから守る為ではなく自らの『正しさ』を強調するための物。
『白』には『純白』とか『潔白』とかと言う風に『正しい』という言葉が暗喩的にイメージされています。

それ故にお医者様の出す診断は『正しい物である』というイメージを無意識に患者の脳に刷り込む効果が有ります。
勿論こんな事は医学部では誰も教えません、これは連綿と受け継がれた”医の遺伝子”のような物ですから。

翻り牧師・裁判官の『黒』。これらは一見すると『白』の反対なので悪いイメージの方を考えます。
確かに『腹黒い』とか『黒い陰謀』とか黒というイメージは余り良いイメージではありません。

しかし見方を変えると『何者にも染まらない』という強い意志を示す色でもあります。
牧師は神の御言葉のみを信じ、裁判官は真実のみに目を向ける、それ以外の戯言には目を向けない耳を傾けない。
そういう『心の強さ』を現す色でもあります。

翻り『色彩印象心理学』は自分が相手にどういう印象を与えたいかが主眼とされるべき物。
例えば清楚なイメージを演出したいなら白、可愛らしい印象を与えたいならピンクか黄色、凛としたイメージを伝えたいなら黒と言う風に自分が相手に見せたい自分という物を拠り強調する為に選ぶ色の事を指し示します。

只、此処で注意しなくてはいけない事が一つ、それは”相手の好みの色、嫌いな色を知っておく”という事。

先の色彩印象心理学の項とは若干逆の話となりますがあくまでそれは最大公約数的な大枠の話。
それが一個人となった場合先の論では説明できない部分が出てきます。

固有の色に対する異常なまでの感情の高ぶりという物を持つ人が居ます。
例えば幼少の頃火事で両親を亡くした人は燃えるような『赤』をみると当時を思い出し混乱を起こすというような風で。

故にこれから会う人の好みや性格等を事前にリサーチしそれから自らが訴えたい内容に合わせた服や小物やメイクのコーディネートをする事。それが交渉をより有利に運ぶ術となる訳です。

介護の心理学~或いはする者とされる者の心理学~

先日某時代劇俳優の奥様が自らの命を絶たれた…
育児疲れ、孤独に加えお身内の介護疲れという事も自殺の理由の一つに挙げられていた。

真実はご本人が天国まで持っていかれたので解らないが随分と悩まれていた事は想像に難くない。
夫は有名人、嘗て自分もそのスポットライトを浴びる場所に居た。

今は家に一人きりぽつんと…誰に頼る者もなく誰に相談する者もなく、さぞ不安や焦りが有った事と思う。

一芸能人として仕事をする事も大切だがやはり其処はそれ家族が有ってこそ。
もう少し奥方様に対する何らかの配慮がなされなかったのか?と思うと無念でならない。

『介護』の問題は国を挙げて今様々な取り組みがなされている。
高齢者層が益々厚くなり、『老老介護』や『孤独死』などが新聞・雑誌などの誌面を賑わせている。

一方で『介護する側』の配慮が日本ではまだまだ不十分であると言わざるを得ない。
今の日本の介護制度では充分な介護を個人が受ける事はとても難しい。

財政難の中に有っては国からの充分な補助を受ける事は難しく個人負担増がやむをえない状態にある。
少子化対策も先細りで介護する側の数が介護される側よりも圧倒的に少ない状態にある。

介護する側の負担増で介護疲れによる殺人や自殺者の数も後を経たない。
由々しき問題であると思う。

外国人参政権の導入の是非については随分前から日本でも議論されている。
外国人の流入を許せば日本国という国の体をなさなくなるとか、日本国が外国に則られてしまうとか…。

特に今日本が躍起になって国際社会に打って出ようとする某施策には農民団体を初め多くの反対が起こっており、
それらが余計外国人の参政権獲得の大きな壁となっている。

だがこれから国際社会へ打って出る日本国に於いて外国人資本はとても大きな存在となってくるであろう。
先 の『介護』の問題がその一例である、高い日本人企業へ依頼するより安い賃金の外国人労働者の労働力委託は『老老介護』大国日本に於いては寧ろ有難い労働力 である。仏教徒の国の人ならば宗教的対立も無く又儒教の国の人はお年寄りをとても大切にするよう教えを受けている。そういう国の人に介護の委託をする事は 大事な事である。

介護される側ばかりではなく介護する側の負担減に向け日本も本格的に重い腰を上げるべきである。

介護をするという事の大変さを政府は是非わが身で持って体現をして戴きたいと思う。
そうすれば介護をする側への法整備もきっと進むと考える。

今回のような不幸な事件が二度と起こらぬよう政府はこの事実を重く受け止めて欲しいと願う。

2010年11月14日日曜日

『フェミニスト』と呼ばれて…

今日、愛方と防府へたこ焼きを食べる予定を立てていた(メインは愛方のブーツ探し)。
だが黄砂による交通渋滞で愛方の到着が30分以上遅れ急遽明日へ順延となった。

黄砂の影響は事の外大きくノロノロ運転で全く前が進まなかったとの事。
二名分の切符の払い戻しを済ませ行き付けのレストランで今年初のボジョレーを戴いた。

その時の駅員さんと私の会話
『わりぃ、一寸俺がポカしちゃってさ、此れ払い戻しできる?』
『えぇ、少々お待ち下さい』
それで無事終了。

愛方は自分のせいだと思っているそれを汲んだ上で敢えて愛方のせいではない事をアピールしたのだ。

同様の事は大学時代にも有った。

男女各2名の計4名で食事へ行った時の事。
私の隣に座っていたSちゃんが放屁をしてしまった^^;しかもかなり大きな音を立てて。

私はすかさず『わりぃ、屁こいちゃった。朝食った物が痛んでいてお腹の調子悪くてなぁ、スマンスマン』と。
そのままトイレに行くフリをして退出、慌ててSちゃんも私の後を追いかけた。

Sちゃん『さっきは有難う…』
私『え?何の事?わりぃトイレいかねぇとマジ漏れそうなんだ、早く戻ったほうがいいよ^^v』と。

Sちゃんは10数年経った今もその事を鮮明に覚えていると言う。

この話をすると大抵の方は『流石先生ですねぇ』と絶賛されるがこんな事は諸外国では日常茶飯事の事。
イタリヤやフランスではこんな事は当たり前の常識の範囲内であり決して褒められるべき行為でも何でもない。

日本に於いては『フェミニスト』と言うと格好付けのいけ好かない奴というイメージがどうしても先行してしまう。
例えばドアを開けて外を出る際後ろの人を気遣って戸をあけておく、女性を先に通す、食事が揃う迄食べない等。

だが社交界に於いてはこれらは『常識』の範囲内であり寧ろこれができない者は『無作法者』の汚名を着せられる。
海外の要人と会食をする事が多かった亡父故我々はそういうマナーを徹底的に体に叩き込まれた。

今でも食事のマナーに関しては何処へ行っても褒められる。
恐らく海外でアジア人(あえて日本人とは表記しない)が嫌われる理由の一つが私は此処にあると思う。

国が違えば当然風習も違う、故にマナーに関してもちゃんと気を使わざるを得ない。
だが周りが同族ばかりだとそういう部分は蔑ろにされ余程フォーマルな場所でない限り自由気ままに振舞ってしまう。

日常生活において自由気ままに振舞っている者がいきなりフォーマルな場所へ出て礼儀正しく出来る筈もない。
それはやはり日頃からの習慣が物を言うと私は考える。

『尖閣ビデオ』でジャパンパッシングが止まない中、日本人としてやはり『襟を正す』事は必要ではないかと思う。
そういう姿を諸外国に示す事、それも又日本と言う国をアピールする事であると私は信じて疑わない。

2010年11月11日木曜日

心の病と同調行動と心理学

我が元には年間実に様々な方が来訪され又私が訪れている。

その中には身内に付き添われてやってくる方も居てその内の又何名かは突如来訪を取りやめにされる方も居る。

最初心の病を治したいと言う強い決意でご家族もご本人も来られていた筈が急に態度を豹変させ来なくなる場合が…。

これは一種の”同調行動”が成せる災いである。

心理学的”同調行動”とは例えばコンサートホールに於けるファンの一体感や政治的陽動(プロパガンダ)やそれによる暴動等が上げられる。
周りの雰囲気に呑まれ自らの冷静な判断力を奪われてしまうのだ。

翻り心の病にも此れに似たような物がある(案外こちらの方は精神科のお医者様は見逃している方が多いがw)。

例えば長く鬱病や引きこもりの方と同居していると鬱や引き篭もりが伝播し近親者が鬱や引き篭もりになるケースがある。

これこそが正に『同調行動』のマイナス要因である、その陰に有るのは辛い事からの逃避行動である。
傍に居て数々の問題や被害が発生してくると人はそれを何とかしたいと思慮する。

その内、そのトラブルや被害を与える者と同調する事により感覚を麻痺させる事を無意識的に脳が学習する。
実は此れが一番怖いのである、中毒患者の周りに中毒患者が多いのも此れと同じ理由。

それを如何に分離させ病は病としてちゃんと認識をさせ治していくか?それがセラピストの腕の差だと言っていい。
大抵の場合同胞だけに注視してその同伴者たる家族には目が行かない物である。

だが尤も注視せねばなら布は同伴してくる家族の方、こちらの同胞に対するサポート体制がしっかりしている事こそが病を克服する一番の力となる。

我々セラピストはその意味で常多角的視野を持っていなければならないのである。

2010年11月9日火曜日

Patriotism&Globalization&Psychology

日本語に訳すと『愛国心』と『国際化』と『心理学』となる。
一見すると何のつながりもないように見えるが実は大きな繋がりが有る。

それは行う者が『人』であるという点、そしてそれぞれに『心』が介在している点である。
今、日本と中国、ロシアなど共産圏との関係がギクシャクしてきている。

日米地位協定における米軍基地沖縄施設問題での政府の対応の稚拙さがその呼び水となったといわれている。
だが果たしてそうだろうか?この問題に関してはG党時代からずっと日米双方で争議されて来た問題である。

我が町にも米軍基地がある、近くではないが米軍基地を持つ者の一人として沖縄県民方々のお苦しみは痛い程解る。
何時とはなし米軍機の爆音が町中に響き一部の傍若無人たる軍人が市民を恐怖に陥れているのである。

一部とは言え刃向かう事を許されず法に則っても地位協定に阻まれ十分な刑罰を処する事はできない。
随分昔は刑罰にすら処することすら出来なかったケースも幾つも有る。

それで命を絶った者さえも…。

愛国心という言葉が有る、国を愛する心と書く。
誰の心にも去来する自国への深い愛と言う物は自国内に居る間は中々解らない物だ。

だが一度自国を離れ長く海外生活をすると自らの胸中にも『愛国心』が有ったのだという事を痛感させられる。
米国人にも日本人にも中国人にもロシア人にもそれぞれの国の人々に共通してある概念だと思う。

翻り『国際化』という問題が有る。つまり外交問題である。
『愛国心』と『国際化』は一見すると相反する存在のように見えるが実は根は同じ所にある。

何れの国にも国を愛する民が居てその民が如何に幸せで平和で暮らせるかを考える事、それが『国際化』である。
自分の国の国民さへ幸せであれば他国などどうなっても良いでは真の『国際化』とは呼べない。

他国も自国も同じ民を持つ国でありその国同士が如何にすれば仲良く富めるか平和に幸せに暮らせるかを考えてこそ真の『国際化』である。

そう考えた時やはり人の『心』と言う存在無しには考えられない。

今の外交を見ているとこの『人の気持ち』と言う部分を随分蔑ろにされているように思えてならない。
他国の人の『心』も自国の人の『心』も同じ『心』である。

お互いの『心』を考えてこそ本当の意味での『国際化』であり『愛国心』であると私は考える。

2010年11月5日金曜日

男女雇用機会均等法と勝ち組負け組みの心理学

ウーマンリブが叫ばれるようになった1960年以降女性の社会進出に対する進歩は目覚しい物がある。女性の管理職や女性の政治家や国の指導者に至るまで八面六臂の活躍を見せている。

翻り未だ田舎では男尊女卑社会が幅を利かせお役所的な風潮が根強く残っている。
”女の癖に”等という旧態依然とした旧石器時代の前近代的な石頭の思考を持った愚人が数多く存在している。

facebookの我がお友達の女性陣方々は皆さん自立されその輝きは眩いばかりである。
ある方は起業家として或る方は芸術家としてある方は指導者としてある方は魂の導き手として皆輝いておられる。

私は大学でフェミニズムを修め社会的歴史的に如何に女性が虐げられてきたか(そして今も)を学んできた。

私は思う、この世の中に女性の存在無くして人類の発展など望めないと。
女性の存在無くして誰が子を生み育て子孫を残せるというのだろう。

嘗て某馬鹿大臣が『女性は子供を生む機械』などという戯言を述べその職を解かれた。
なればその方に問う、その機械からお生まれになられた貴方も又機械と同じであると。

私は言う、『我は神より生まれし人間である、決して機械から生まれし機械人間ではない』と。

最近我が元に来る方の中に『女性の社会進出が目覚しいので我々の職が奪われている』と嘆く諸兄が居られる。お気の毒とは思うが同じ職種を求める必要は無い、男女差が有るという事はそれぞれに得意不得意の分野がある。

男女共に出来るがこれは男性の方がより良い、これは女性の方がより適切な処理ができるという仕事は存在する。その中に入って活躍すればそのような不平不満はなくなる筈である。

起業家だから働いているから勝ち組、雇われているから無職だから負け組と言うのは余りに早計に過ぎる。ましてそのような考えで自らの持てる可能性を自らが制限し自らが潰す者に神が微笑む筈はない。

我はいう。
貴方というオリジナリティやパーソナリティは貴方にしかない物。それを人と比べる事自体がナンセンスと。

私はその人にしかないオリジナリティやパーソナリティ、タレント(才能)を最大限に引き出す事を仕事としている。長年気づけなかった自らのタレント(才能)に気づいた多くの方々を成功へ導き幸せへと導かせていただいている。

私はこれからもそういう風に我が門を潜る多くの方々にその人にしかない”オリジナリティ””パーソナリティ”そして”タレント”をお伝えし続けその方の末来を開いていきたいと考えている。

男だからとか女だからとかそういう狭量な思考は今日から止めにしませんか?
折角の貴方の素敵なタレント(才能)がそれで潰されては勿体無いじゃないですか^^V

私が貴方の隠れれた才を開くお手伝いさせて戴きますよ^^V

2010年10月30日土曜日

我が身既に鉄なり、我が心既に空なり、天魔伏滅

『影の軍団』服部半蔵の名台詞で始まりました今回の記事。
しかし今の私の心境を素直に表しますとそうなります。

一部の方は既にご存知ですが私はスピリチュアルな人でもあります。
まぁ平たく言うと”霊能者”というカテゴリに属する人間です。

此処数日、溶けるような暑さの連続で少し”ボケ気味”になっております(笑)
しかしそれを差し引いても此処数日の”ボケ具合”は常軌を逸しております。

そしてそれは我が恋人にも波及しております。
まぁ一部の方にはご理解戴けるかも知れませんが”反対勢力による妨害工作”という物であります。
(我々は”干渉”と呼んでますが…)。

我々は神との契約によりその力を発揮する事が出来ます。
逆を言えば契約していない神からは常、狙われる対象となります。

我々霊能者は現世に於ける神の力の代行者です。
神は我々霊能者を通して現世に様々な”奇跡”を起こします。

そうして神々の領域拡大を常考えておられる訳です。
ですが領域侵犯と申しましょうか他の神々と領域が接すると当然”折衝”が起きる訳です。

そして尖兵たる我々人間がその”折衝”の一番の被害者となる訳です。

数年前に父を亡くし今はその悲しみから這い上がろうと家族が必死になって頑張っています。
父亡き後の家庭を守り父の遺した会社を守り皆が一丸となって頑張っています。

そんな中私がヘバる訳には参りません。

奴らは”心の隙間”を狙ってきます、そこにピンポイントに攻撃を仕掛けてきます。
ですから題名にあるように”心を空”にすれば奴らの攻撃ポイントがなくなります。

奴らは”心の隙間、心の弱い部分”につけ込んで攻撃を仕掛けてきます。
故に”心を空”にすることにより弱い部分を無くし攻撃をかわす事にしました。 

裸の心で…

フリーセラピストという職に就いて20年目。

勿論常、順風満帆であった訳ではない。
最初の頃は随分と苦悩もしたし失敗も挫折も数え切れないほど繰り返してきた。

同胞に裏切られお金を騙し取られ挙句暴力団に追われる羽目になった事もある。
余りに辛くて止めようかと思った事も一度や二度ではない。

それでも今だ私はこの仕事を続けているしこの仕事は天職だと思っている。
世俗に塗れると”美辞麗句”や”甘言”の渦の中に否応なしに人は巻き込まれてしまう。

その中で人は”有頂天”となり”自分を見失い”そして最終的には”挫折”する事になる。
私もそんな挫折を味わった者の一人である。

甘言に騙され高額商品を買わされたり高額な金を支払わされたりなんて事も多々あった。
理不尽な徴収を受けた事もある、結局裁判を起こしたが今だ全て回収には至っていない。

だがそれでも私はこの仕事が好きだしこの仕事を一生続けていこうと思っている。
それは何故か?

私が”裸の心”で”裸の言葉”を吐ける唯一の公の場が此処だからである。
同胞には一切の美辞麗句や甘言は使わない、というかそれを使ってしまったらこの仕事はお仕舞である。

こちらが”裸の心”で”裸の言葉”で相手にぶつからない限り相手は絶対に心を開いてはくれない。
薄っぺらい美辞麗句や甘言を幾ら並べ立てたとしても”心の琴線”には少しも触れないのだ。

もう一つ私には”裸の心”で居られる場所がある。
それが我が彼女の前である。

私が”裸の心”で”裸の言葉”を言えるようになった陰には彼女の存在がとても大きい。
彼女は私を常、褒めてくれる、だがその言葉に一切の”嘘偽り”は含まれて居ない。

一切の美辞麗句やお世辞を排除して”真実の言葉”で私に語りかけてくれる。
その”真実の言葉”の持つ効力や重みを私は身を以て我が心に受けている。

そして今はその”裸の心”で多くの同胞に接し、多くの同胞から”裸の心”を頂戴している。

世の中には”嘘、偽り、紛らわしい、大げさ”な事があふれている。
せめて私と共に居る時間だけでもそれらの”虚構”から”現実”へむいて欲しいと思う。

私はこれからも”裸の心”で多くの同胞に接していくだろう。
そしていつかこの地上から”甘言”を無くしたいと思っている。

そうすればもっともっと人は”素敵になれる”と思うからだ…。

言わなきゃ判らないという人は大抵言っても判りませんw

私の知り合いに”言ってくれないと私は判りません”と駄々をこねる人がいる。

だが、私は思う”言わないと判らない人は言っても判らないよ”と(勿論本人には言いませんが^^;)。

我が同胞(私は患者を完治という共通目的を求める仲間と位置づけ同胞と呼びます)にしても同じである。勿論最初は誰でも判りませんから説明をします、これは三歳児であろうが老人であろうが同じ。

ですが三度以上私は繰り返しません(勿論一つの事についてですけれど)。
逸れは何故か?自己治癒力を高めるには本人の”治ろうとする意思”が何よりも大切です。

我々専門職はこの”自分自身が治ろうとする力”を如何に引き出すか?が鍵だと思っています。
故に”死ぬ気”で同胞に挑みます、ありとあらゆる方向から様々なアプローチを試みます。

ですがそれも”同胞と同じ方向を向いていなければならない”という大前提があってこそです。
私は右方向へ導こうとしているのに同胞が反対方向へ進まれては何の意味も有りません。

勿論反対方向へ進む事が同胞の為となるならば喜んでその方向へ進ませるでしょう。
しかし大抵の場合同胞自身が苦しむ方向乃至は元の悪い状態に戻ろうとする方向へ進みます。

これは染色体レベルで人間が本来の方向へ進もうとする性質から来ています。
自然治癒力もその一つ、でも時としてその方向が正確じゃない場合が有ります。

その時は専門職たる我々が”強制的方向転換”をしなくてはならなくなります。
それをどう行うのか?そしてそれが”強制的方向転換”である事を如何に悟られないようにするか?
それが腕の見せ所でもあります。

同胞が違った方向へ進んだとき、その道を封じ新たな道を示し其処へ誘導する、それが我々の仕事です。
しかしいきなり目の前に柵を設け、反対側に誘導したのでは同胞はいう事を聞いてくれません。

如何に相手に納得させ今進んでいる方向が自分にとって好ましくない結果を生みこれから指し示す方向が
その人にとって実り多き場所へ出る道であるかを示す事が何より大切なのです。

それには豊富な経験と確かな知識、そして表現力が求められます。
正確に導くにはそれなりの努力が無いと出来ないのです。

故に”言わなきゃ判らない”と駄々をこねるアフォの相手はしたくないのです(笑)

幸せ効果♪

私は一部では”マジシャン”と思われている(笑)

逸れは何故か?瀬木マジック”という言葉のマジックを掛けるからだ。

我が元へは多くの同胞が年間やってくる。

中には”自信喪失症”の人や”対人恐怖症””自己嫌悪症”の人も数多くやってくる。
だがどの人も我が門を去る頃には皆さん”笑顔”で”自信に満ち溢れ”人が大好き”になって去られていく。

これこそが”瀬木マジック”と言われる所以である。

やり方は人それぞれ違うので一概にこれ!と指し示せる物は無い。
只、指し示せる物は無くてもその効果は”マジックを掛けられた人”を見れば一目瞭然。
特にマジック以前を知る人には”本当にこれはマジックだ”としか思えないらしい(笑)

過日もそんなマジックに掛けられた人から一報が届いた。

私はレイキ・ヒーリストとでもある。

ある同胞に過日レイキ・ヒーリングを施した。
氏は窓口業務なのだが所謂”視線恐怖症”で余り正直この仕事は向いていなかった。

上司には常怒られるしお客にも愚痴られるし同僚には馬鹿にされるし…。
つくづく自分はこの仕事向いてないんだと思って居たらしい。

その氏にレイキ・ヒーリングを施した。

すると驚くべき事が起こったと言う。

今まで怒られていた上司から褒められ、同僚からは羨望の眼差しで見られ今まで愚痴って居たお客からはまぁ褒められはしない物の愚痴られることはなくなったという。

私もこの話を聞いた時は正直我が耳を疑った。
だが実際にその人の勤め先の知人に確認を取った所それは間違いないという事だ。

笑顔がとても輝き応対も自信もって行い落ち着いていて風格が出てきたのだとか(笑)

恐らく氏の精神的ストレスがレイキにより無くなったのが一番の原因だと思われる。
元々出来る人だった物が過度の様々なストレスで精神が萎縮していただけだろう。

まぁ幸せ効果付与という言葉は正直気分の悪い物ではない。
この仕事は”施術する人が明るく楽しく生きる術”を与える事が命題と思っている。

その至上命題を達成できた事はセラピストとしてこの上ない喜びである。
これからも多くの方にこの”幸せ効果♪”を施していければと思っている。

まぁその為にも早くこの体のダルさを退けて欲しいのだが^^;
季節は秋だのいうのに日差しは強いは、蝉は啼くわ、害虫は異常発生するわ…^^;

皆様も害虫には注意してくださいね。

思いの強さを形に変えて…

幸い我が居住地域は台風進路予想進路から大きく外れました。
そして降雨を願う地域の方々の願いが届いたのがそちらへ進路がズレました。

やはり此処でも”人の思いの強さ”を見て取れる気がします。
”人の心”を扱う仕事は”人の思いを受取る仕事”でもあると私は認識しています。

”治りたい””社会復帰したい””人間関係を円滑にし彼女と仲直りしたい”そう願う方々の、
”強い思い”こそが奇跡を起こす鍵であるとこの仕事に就いて深く痛感します。
(或いは”来るな”という強い反発の思いも受け止めねばならぬ時も有ります)。

同胞は私のやり方に賛同し賛美を与えてくれます(勿論全ての同胞がそうである訳ではないですが)。
しかし本当の功労者は誰でもなく本人自身です。

本人の”思いの強さ”が”心の病”を克服した、それこそが事実です。
私は彼らの背中をほんの少し支え、ほんの少し後ろから風を送ったに過ぎません。

勿論手を払いのける人も居れば反対方向へ進む人も居ます。
ですがそれも御自身が選択された事、私はその手を押さえたり軌道修正したりはしません。

しかし”行動とは裏腹に心が救いを求めている人”には強引にでも軌道修正を施します。
心と身体のバランスが崩れている人は思っていても違う行動に出る場合も有ります。

本当はこうしたくないのに身体が反応して…と言う風に心で大粒の涙を流す人も居ます。
傍目にはそれは解らないかも知れません、でも専門職ならばそれを察知できます。

それをいち早く察知しその方の”心”が欲する状態にしてあげる、それが私の仕事です。

今日も今からアレルギー体質改善の注射を打ちに掛り付け医の元へ参ります。
台風の予想進路から外れたといっても規模から言って余波は避けられないでしょう。

黒く厚い雲が空を覆いつくしさながら黒龍の腹の如き色を呈しています。
しかし私が健康である事は私のみならず家族や私を必要とする全ての方の幸せにも繋がります。
故に自身の健康管理は慎重の上にも慎重を期し常動ける体でありたいと思います。

人の為に生きるという事…

今日は朝からバタバタとしていてとても多忙を極めた一日でした。

と言うのもやんごとなき事情で”家から出られなかった”からです。
外回りの仕事も有ったのですが全てキャンセル、電話セラピーに切り替えました。

私にとっての優先順位とは”必要性”と”困窮度”の高い順です。
例え順番が違えていても私は上の二つを最優先とします。

今回とても”必要性”の高い”困窮度”の有る仕事が途中から舞い込んで参りました。
私にとってとても大切な人だったので先ずは何を於いても優先せねばという事で優先順位をつけました。

それが幸いしたのか?災いしたのか?それは後になって判る事。
今、困っている人を目の前にして通り過ぎることは出来ないというのが自論です。

その為にほかの人間関係がギクシャクし、最悪崩壊したとしてもそれは止むを得ない事。
私は私の中の正しさでもって仕事をし生活をしているのでそれを曲げるつもりは有りません。

幸い際優先順位を付けた方も快方に向かっているとの報を受け安堵して居る所であります。

閑話休題

そんな中、大学時代の先輩から連絡を受けました。
聞けば今現在先輩は”街づくり大学”の事務方に席を置いておられるとの事。

”街づくり大学”とは私の大学の元・学長が提唱している市民大学の事。
元・学長は今では”街づくり大学”の学長を務めておいでです。
(余談ですが氏は意外と著名人らしくノーベル物理学賞受賞者らしいです^^;)。

恐らく我が先輩も元・学長に引っ張られて事務方に収まったのだと思います。

市民大学ですから受講生は一般市民が対象です。
様々な市民生活に密着する問題を講師の先生を招いて講義をするのが目的との事。

今まで”物づくり”や”市民生活”について様々な講義をなされてきたらしいのですが、
生憎”心理学系”だけは何故か人材が揃わなかったらしく。

其処へ私の名を先輩がどっかから聞いちゃったんでしょうね^^;
『渡りに船』とばかりに電話が掛ってきちゃった訳です。

勿論大学時代お世話になった先輩なんで無碍に断るわけにも参りません。
さりとて即答でお受けする程私も馬鹿じゃない。

取り合えず今日の所は保留と言うことで資料だけ送ってほしいと願い電話を切りました。
幸い、愛方及び身内の賛意を受け、今後の仕事の足がかりにもなればと言う事でお受けする事に。

早ければ来月から講師として市民大学で壇上に上がる事になりそうです。

学生時代は弁論大会や青年の主張など壇上に上がる事は少なく有りませんでした。
しかし社会人となってからはディスカッションのパネラーに選ばれる程度で壇上に上がる機会も激減し
殆ど無縁の生活を送っていました。

それが此処へ来ていきなりの依頼で…いやはやなんとも一体どうなります事でしょうか^^;
又、講義の内容等は追々此処で紹介して参りたいと思います。

やはり…人の為に生きるという運命に私は逆らえないようですねぇ(笑)

人は自分を知る鏡なり…

我が門を潜る人の中に多くある悩みの一つに『自分が判らない』という人が居る。
つまり自分の今の立ち位置が全く解らないという人結構多いのだ。

それも立派な役職に付き、人望も社会的信用もある程度お持ちの方がである。
一見すると『何で?』という風にお思いになる人が多いと思う。

しかし私には彼らの考えて居る事、思って居る事が手に取るように解る。

人は社会的地位が上がり、ある程度の人望を得ると”守り”に入る。
それらを失うまいと”挑戦する事”をしなくなる。

それは何も自分自身の保身の為だけではない。
例えば大会社の社長ともなれば自分の立ち居振る舞いがそのまま会社の信用に直結する。

下手を打てば会社は斜陽し、多くの社員を路頭に迷わせることとなる。
本当に下の事を思う社長ならばそう思ったとしても何ら不思議は無い。

だがそれは逆に自らに大きな精神的負担を抱える事にもなりかねない。
周りに”イエスマン”が増え、自分を映し出す鏡がどれも”同じ表情”なのだから。

自分は本当に日々成長してるのか?それとも退化しているのか?
周囲にある鏡だけではそれらを推し量る事はとても難しい。

そういう人には私は”チャット”に入る事をお勧めしている。
ヤフーチャットなら私の知り合いも沢山居てその中には”聞き上手”な人間も沢山居る。

勿論私のような専門職の者も居て私以上に素晴らしい助言をしてくれる。
そして彼らは皆一様に”御互いの氏素性”を明かさないで居られる。

社長も弁護士も交通整理の人もパートタイマーも皆”同じ目線”で話が出来るのだ。
中にはとんでもない社会的地位のある人も居るが敢えて私はそれを伏せている。
(何せ国を一つ任せられている人なのだから(笑))

その中で日々成長している”自分”という存在を掛け値なしで知る事が出来る。
最初は中々打ち解けられないが徐々に打ち解けていき自分の今の悩みを素直に打ち明け
又打ち明けられた方もそれを素直に受け止め素直な意見を返してくれる。

言うなれば”釣り馬鹿日誌”の”スーさん、ハマちゃん”の関係と似ている。

だが全ての人間がPCを扱えるわけも無い。
ヤフチャが出来ない人だって沢山居る。

ならばそういう人たちは何処で”鏡”を得たらよいのか?

それは”身近に居る人々”である。

つまり家族や近所の人、偶に買物に出かける先の店員さんでもいい。
そういう人たちの”自分に対する接し方”で自分の成長を押し量る事が出来る。

ある面白い話をしよう。

恋愛に悩むYちゃんという娘が居た。

同じ職場の違う階に居る彼に彼女はぞっこんだった。
しかし中々告白できずバイトの終了期限だけが無為に過ぎていく…。

偶々同じ大学の後輩であるという事も手伝い此処は私が一肌脱ぐことに。

とりあえず敵情視察をしなくてはと彼の居る売り場へ足を運んだ。
幸い彼は紳士服売り場に席を置いているので私が行っても無理は無い。

彼の接客の仕方や立ち居振る舞いをある程度観察し彼とは言葉を交わさずそのまま帰宅。
その足で直ぐYちゃんに電話。

デートの取り付けから終了までの全ての指示を出した。

勿論彼女は半信半疑だ、何せ彼の事を私は殆ど知らないのだから。
だがとりあえず彼女は私の言う通り段取りをしそしてデートに臨んだ。

数日後彼女が我が門をダッシュで叩いて飛び込んできた(笑)

”凄い!先生が言った一言一句間違いなく全て彼が言いました。どうして解ったんですか?”と(笑)

答えは至極簡単である。

彼の立ち居振る舞いから彼の性格を察知。
勿論後輩の性格は長年見ている為彼以上に知っている。

その二人を頭の中で立たせシミュレートすれば自ずと出てくる言葉は容易に想像出来る。
それをそのままYちゃんに指示したに過ぎないのだ。

その後何とYちゃんの男性の好みがいきなりシフトし彼女は男性を日本人から外人に(笑)
だが今でもYちゃんの中で私は”マジシャンだ”という事になっている(爆)

このように”自分”を知る為には”他人の自分に対する接し方”を見ればよいのである。
その接し方が変わっていればそれは”自らが変わった”という事と同意義である。

そのやり方で私は過去お子さんを連れてきた母親を治し、彼氏をつれてきた彼女を治した。
何れも問題を抱えてきたのは連れて来られた方ではなく彼ら・彼女らを連れてきた方。

故にその”連れて来られた方”を変える事で”つれてきた方”を変えるという方法を取った。

セラピーのやり方も実に様々なのである。

本気を見せぬ者を診る気なし

今私が診ている人の為西へ東へ走り回る一日でした。
車で5分掛かる道のりを歩きで10分で行って又10分で戻るという事をしました(笑)

途中結構急傾斜の坂があるのですがそれも下の方からダッシュで駆け上りました(笑)
前回其処へ行った時には”まだか?まだか?”と思っていたのですが昨日は直ぐでしたw

やはり一度道を覚えてしまうと”長い”と思う感覚が少し変わるようですね。
(まぁ心理学的にもそういう効果がある事は存じてましたが^^;)。

行きは汗だくだくでしたが帰りは下り坂という事もあり汗が引いていきます。
丁度帰りは夕方で気温も大分落ち秋風が火照った身体を鎮めてくれます。

季節は確実に初秋から中秋へそして晩秋へとその色を変えています。
季節の移ろいを肌で目で心で感じられる事はとても有り難い事だと思います。

しかしその季節の移ろいを肌で目で心で感じられない人が沢山居ます。
心に病を抱えた人はそれらを感じる事が困難な人々であり笑顔を中々作れない人々です。

そういった方々の笑顔を見たい為にこの仕事をずっと続けている、私はそう言っています。

この仕事は共同作業であり私と同胞が共に一つの目的に向かい心を一つにして目的達成へ
向け邁進していかねばなりません。同胞が先行しても私が先行しすぎても失敗します。

歩調を合わせちょっとだけ私が前へ出て誘導しつつ自立して歩けるよう導いていく。
それが私の仕事だと思っています。

しかし…最近の同胞は季節柄もあるかと思いますが”人の話を聞いてない”^^;

まぁ日頃のお仕事のストレスがあるのは解りますよ、この不景気ですもの大変ですよ。
おまけに家に帰っても其処に安らぎが無いという事になればそりゃあ愚痴りたくもなります。

この仕事は”愚痴を聞く”のも仕事の内です。
全ての”心の膿”を出し切って”心を浄化”して”正常な状態に近づけていく”のが仕事です。

そりゃあ色々な愚痴が有りますよ、身近な所から物凄くグローバルな物まで(笑)
相槌を打ち時に助言を求められる時は的を射た助言を与えねばならずそりゃあ至難の業です(爆)

ですが”愚痴を聞く事だけ”が仕事ではありません。
”愚痴を聞きつつ助言をし、それを実行に移させる”事が本来的な私のお仕事です。

勿論私も専門家ですからそれを上手く誘導させる術は心得ています。
ですが中には”自分の感情を吐露する事に収支し人の話は右から左”の人も居ます。
と言うか最近の人はそういう人がとても多いです^^;。

又これも私自身に多少の責任は有るかと思いますが”思考を人に委ねる”人が多いです。
自らがその答を導き出そうとせずその答を私に求める人が多い。

ですが流石にこればかりはお教えする事は出来ません。
それを自発的に気付かせる事それが私の仕事の最も主だった物だからです。
それすら口頭で伝えてしまってはその方の”思考する癖”を付けさせれなくなります。

常、”思考し自らの悩みを自らで解決できるスキルを身に付けさせる”事こそが大事。
故に其処は心を鬼にして又私自身の創意工夫の中でそれに気付いて貰えるよう頑張ります

私自身がそうであるように私は同胞にも”本気”を求めます。
”本気で治そう””本気で変わろう”とする意思を求めます。

幾ら此方が頑張っても”一向に本気を見せない人”は容赦なく切り捨てます。
何故か?そうする事で相手は思いきり焦ります、何とか私を留めさせようとします。
その結果”本気”を見せてくれます、それが私の狙いでも有ります^^;

ですがそれをやってもまだ”本気”を見せない人はマジで切り捨て二度と診る事はしません。

又、”治った気で居る人”が偶に居るのも頭を悩ませるところです。
最近は随分減りましたが昔は結構こういう人が居て困りました。

まだ加療の段階で既に”完治”した気になり以降我が元へ来なくなった人が居ます。
”私は治りました、心が軽くなり前向きになりました、もう大丈夫です、有難う御座いました”
と私の制止も聞かずさっさと我が門を去る人が居ます。

しかしそういう人は大抵程無くして我が門を再度潜る事になります(ほぼ間違いなく)。
ですがその時も私は”切捨て”ます。自らの意思で我が門を去った者に温情は掛けません。

この仕事は慈善事業でも何でもなく”真剣勝負”でやっているのです、お遊びじゃない。
命を削ってやって居る事を軽視し忠告を無視して去る者に温情を掛ける程お人よしには
私はなれません。

解るんですよ、治ってきたら段々我が元へ来たくなくなる人の気持。
それは”自分はもう心疾患じゃない”と思いたいからなんです。
”心疾患”だった頃の辛い自分を思い出したくないその頃の自分に戻りたくないと思います。

でもわが門を潜っている間は嫌でもそれを思い出してしまう、最初に来た時の辛い自分をふと思い出す時がある。そこから逃げたくて其処を直視したくなくて我が門を去る人が居ます。

でもね、それは本来的に間違いなんです。
過去の自分も今の自分もそして未来の自分も全て”自分と言う存在の一部”なんですよ。

我が門を途中で去らず最後までやり遂げた人は一人の例外も無く言います。
”あの辛い経験があったからこそ今の私がある、そしてあの経験をしたからこそ先生に会えた。私はあの辛い経験をした事を今は有難いと思います、だって先生に会えたから…”と。

その時我々はこれも一人の例外もなく二人で号泣し抱締めあいます。
それは苦楽を共にしてきた”戦友”だからこそ共有し会える感情の交換なんです。

そしてそれこそが”真の卒業”であり以降それからは”同胞”としてではなく”友”として新たな交流が始まります。其処から私の仕事のパートナーとなってくれた人も沢山居ます。

加療中は本当に辛いです、苦しいです、先の見えない漠然とした不安を常抱えています。
ちょっと光が見えたらそれを頼りに制止も聞かずどんどんと進みたくなる気持ちも解ります。

でもその光はその人が本当に目指すべき場所じゃないんです。
その人が戴く光はもっと強くもっと明るくもっと暖かでもっと安らぎを得られる物なんです。

手近にある安易な光に惑わされないで欲しい、その人しか得る事のできない”光”を手にして欲しいと思いますしその”光”を得れるよう我々専門家は導いていかねばならないと常思っています。

ってな事を今度講義で話そうかなぁと思ってます(笑)(なげぇ前フリだな)。

ま、マジでこれは講義内容でもあり又私自身の貴重な体験談でありこれを見ている現在加療中の人、
それからこれから受けてみたいと思われる人の参考になればと思い挙げました。

今日は久しぶりに自宅にてデスクワーク。

と言っても講義内容を考えたり次の同胞の治療方針を考えたり御袋から頼まれた仕事をこなしたりと全然休む事は出来ないんですけどね^^;

でもこうして忙しくしている方が自分の性分には合っている気がします。
昨日も同胞の為に右へ左へ走り回る自分を見て”これが本来の自分だ”と思いました。

常誰かの為に頑張れる事はとても素敵な事ですしとても有り難い事だと思っています。
私しか頑張れないのならば私が頑張る、それが私の生きる道だと思います。

素人が口出しをするな!

我が同胞は現在此処数週間で目覚しいほどの進歩を遂げた。
最初の頃の同胞と較べると今の同胞はマジで別人?と思う程威風堂々としてきている。

だが…此処へ来てそれが逆に弊害となりつつあるようだ^^;

詳しい話は個人情報保護法に抵触する恐れがあり又個人を特定する材料ともなるので話せないのだが、
所謂彼氏さんが私の”治療方針”にイチャモンをつけはじめたようだ。

まぁ自分の愛する人が(相手からすれば)何処の馬の骨とも解らぬ輩に自由に操縦されているのだから
面白くないと思うのは当然と言えば当然の事。

私が彼の立場でも恐らく同じように思っただろう。

しかしこれは”遊び”じゃない。子供のおままごとをやっている訳ではないのだ。
んなもん、”好き”だの”愛してる”だのと甘言を言ってる場合ではないという事だ。

早く手を打たねば本当に”鬱”になりかけていた。
一度”鬱”になってしまったらそれを元に戻すのはそう簡単な事じゃない。

”仮性鬱”の時と”真性鬱”の時ではその加療時間や加療方法が全然違ってくるのだ。
未だ今の段階では同胞は”仮性鬱”の段階であり”真性鬱”にはなっていない。

しかしこのまま放置しておけば”真性鬱”となる事は間違いない。
専門家としてそれだけは絶対に避けたい所である。

ところが件の彼氏さんが私のやり方が気に食わないのかどうか知らぬが色々と文句をつけてくる。
未だ同胞も私の詳しい話はしていないようだが私には過去その件で嫌な思い出がある。

以前診ていた女性が私の治療終了後彼氏を振りその結果彼氏に逆恨みされ襲われかけた。
幸い怪我には至らなかったがとても怖い思いをした事は事実である。

それがある種のトラウマとなっていて今だそういう事になると腰が退けてしまう。
だが今回はかなり重篤な人なので此処で腰が退けて居ては完全回復は望めない。

心を強く持って事に当たらねば又同じことの繰り返しである。
という事で私はこれからもその彼氏さんと戦う所存である。

私も専門家の端くれ。

素人に邪魔されてハイソウデスカと引下る訳にはいかない。
一人の人間の命が懸かっている問題を色恋なんぞに邪魔されて溜まるもんですか。

という事で今後共同胞の加療及び加療方針は一切変えず貫き通します。
人一人の命は地球より重いのです、それを彼氏さんにも理解して貰いたいと思います。

まぁ未だ若いし無理だとは思うんですけどねぇ^^;

命を掛ける価値のある者…

ずっと昔の話。


私は同胞の前で手首を切った事があります。
私の”本気”を彼に見せる為に…。彼は一瞬青ざめ、しかし直ぐに次の行動に出ました(つまり止血、彼は救命救急士でした(笑))

幸い傷は浅く命に別状は無くその後彼も我が門を元気に去っていきました。
今は多くの部下を抱える名救命救急士として名を馳せています(実名は敢えて伏せますが)。

本気を出させる為にこちらも本気を見せる、それが私のやり方です。

本気で治そうと思えばそれなりの”覚悟”が要ります、それは精神疾患であれ他の疾患であれ。


ですが人間中々その”覚悟”を出せない、そりゃあ怖いですもの、不安ですもの、当然ですよ。

私は自らを”先達”と位置づけています。

故に”先達”は何事に於いても”先を行かねばならない”という大命題があります。
同胞に”本気”を出させる為には先ずこちらが”本気”である事を示さなくてはなりません。

まぁそれでも先の例はちょっとやりすぎの感はありましたけど^^;
(後で彼にこっぴどく叱られました(笑)そりゃあ命を救う立場が手首きっちゃヤバイっす)。

一緒に死のうと言った事も有ります(これも遥か昔の話)。

実際その当時私もどん底の生活で彼の気持ちとものすごくシンクロしてしまいました。
彼は当時私の一番の理解者でそして大親友でありました。

その彼がまさか私の同胞として門を叩くなど思っても見ませんでした。
親友として一番の理解者として彼がここまでなるまで気付けなかった自分を恥じました。

自分を責めました自分を罵りました自分を殴りました(マジで)。
そして彼と”痛みを共有”したいと思いました、”苦しみを共有”したいと思いました。

当時まだ20代半ばで血気盛んな無分別な頃の話です。
無鉄砲で自分勝手で後先なんぞ何も考えていませんでした(まぁそれは今も同じですがw)

当時彼には”彼をとても愛している人”が居ました。

ですが彼はその”彼をとても愛している人”を守りきれなかった。
その人の死に直面し生きる希望を失いかけていました。

ですが私の一言が当時の彼の気持ちを変えたようです。
私と亡くなった彼女が当時の彼には重なって見えたそうです。

ですが重なった彼女は彼にこういったそうです。
”死んじゃ駄目、貴方は生きて、私の分まで、弱かった私の分まで生きて”と…。

彼はその後ライフセーバーとして多くの人命を救助するスペシャリストとなりました。
そこで劇的な出会いをし今はファミリーを築いています。
(マジで亡くなった彼女に瓜二つの人に出会ったのです、私もマジで驚きました)。

我が同胞は皆”命を掛ける価値のある者”達ばかりです。
逆を言えば”命を掛ける価値の無い者”を同胞に私はしません。

故に彼らを”生かす”事は”自分自身”を生かす事に同じなのです。

これからも私は”自らの身命を賭して”彼らに向き合いたいと思います。
その中で”彼らの中に眠る本気で生きたいと願う気持ち”を引き出したいと思います。

今はその力を”兄”に求めたいですが…。

リラ~ックス、リラ~ックス…

此処数日兄の調子が良いので今日は久しぶりにお休みを頂戴した(兄にも休めと言われた為)。

と言ってもハイ!そうですかと休む訳にも行かずデスクワークの後は外回りを始めた。
生憎の雨模様だったが今は少しでも入院費及び治療費を稼がねばならない。

今までの同胞の所を回ってきた。

そこでまぁ何時もの事と言えば何時もの事なのだが…最近全く連絡を寄越さなくなった同胞の現状が気になり尋ねて見た。我が同胞が連絡をよこさなくなるケースは大体二通に分かれる。

連絡を寄越さなくなる程ヤバくなっているか、怠けているかその二択しかない^^;
今日の同胞は後者の方、尋ねてみたら呑気にTVゲームなんぞに興じてやがった。

まぁそれはそれ回復して来た事の現れであり素直に喜ぶべき事ではある。
が…こちらが課したプログラムまで疎かにされてはこちらとしても穏やかではいられない。

最近定時報告が全く無く私がわざわざ彼の為に作ったセラピープログラムも滞っている。

一時期状況的に厳しい状況に在った事は理解する、寝る暇も無く働き通しではプログラムを実行しようとしてもそりゃ充無理である。少しでも自立したいと言う氏の切なる願いが解らぬ程の頑固者ではないし寧ろ私はそれを促していた方なので在り難いと言えば有難い。

偶の休みくらいゆっくりさせろという彼の意見を尊重し無い訳でもない。
が、生活向きを見る限り我がプログラムを実行できない暮らし向きでもない様子。

そこで話をしながらそっと振って見た
”最近プログラムやってる?”
”あぁ、あれもう必要ないです”
”…”
そのまま私は無言で彼の家を出た、怒りに震え彼を殴る前に彼の前から立ち去りたかった。人が寝ずに考えに考えたプログラムを”あぁ、あれもう必要ないです”の一言で済まされた。

同胞の状況を診るのは彼ではなく私自身である、それを彼は全く理解していない。

確かに今の状況は彼には好転的のように思える、以前より助力者も随分増えた。
彼自身随分強くなったし明るくもなった、確かに彼の言うように”必要ない”かもしれない。

しかし…それを決めるのはそのプログラムを実行させた私であって彼ではない。
事実彼の今の”強さ”は”流動的”であり”固定化”されていない。

私は常、同胞に言っている”治ったと過信して怠けていると効果が固定化されず薄れる”と。それで何度も我が門を繰り返し叩いている人間を私は数多く見ている。

一度失敗し二度目、三度目に来る同胞は以前にも増して悲惨な状況になっている場合が殆どである。そりゃあそうだろう、完治していない傷口をもう一度開くような物なのだ。

悪化することはあってもそれが快方に向かう事は無い。

だが、どうも我が同胞はそれが理解できていない物が数名居る。

今日を限りに私は彼の”全てのプログラム”を停止し、”一切の関与”を終了した。
彼自身が”必要ない”と言い切っている限り私自身の存在も今の彼には不要であろう。

今後、彼からヘルプが来ても私は一切”無視”します。

と、同時に今も私の言いつけをずっと守る同胞にも会えました。

その子は未だ子供ですがとても純粋で素直で一生懸命に私のプログラムをこなしてます。そして治ると信じて一生懸命頑張っています、その甲斐有って出会った頃のその子とは見違える程元気に明るくそして更に素直になっていました。

日々変わっていく自分が解るのだとその子は言ってくれました。
そして今後どこまで自分が変われるのか?それがとても楽しみだとも言ってくれました。

”先生、ずっと傍に居てね”とその子は目を潤ませ子猫が飼い主を見るような目で見ます。私も目を潤ませその子に言います”大丈夫、君が要らんといっても俺は傍に居るよ”と。

その子は両親を亡くしてずっとおばあちゃん子でした。

とても良い子でしたが自らの感情を表に出す事が不得意な子でした。
やはり祖父母に育てて貰っている事を悪いと思っていたのでしょう。

そして段々と感情の起伏の無い子に育っていきました。

日々笑顔が消えていく孫を見かねておばあちゃんが我が門を叩きました。
力ない笑顔のその子を始めて見た時、私はすべてを悟りました。

それから我々の戦いが始まりました。

詳しい内容は省きますがそりゃあ血反吐を吐くような辛い日々でした。
私も辛かったですがそれ以上に辛かったのはこの子です。

でも一切音を上げずずっとこの子は私についてきてくれました。

元から頭の良い子でしたので飲み込みはとても早いほうでした。
私の手法をどんどん吸収しどんどん明るく元気に溌剌とした子になっていきました。

有体の言葉を使えば”普通の子”になっていきました。

これからも私はずっとこの子と向き合いこの子の成長を楽しみにしたいと思います。

イエスは仰いました、”神は自ら助く者を助く”と…つまり頑張っている人を神は決して見捨てないという事です。彼の成長がそれを見事に表していると私は思いました。

私も”自らが自らを律し頑張っている人”をこれからも応援し続けたいと思います。

追伸

実はこれ別ブログの或る方へ向けたメッセージ日記であった。
そして案の定私の”餌”に釣られてのこのことやってきましたよ(笑)
ところが…この御仁或る意味大物というか傍若無人というか、全く意に介しておらぬ様子。餌だけ食って逃げちゃうタイプの魚いるでしょ?あれですよ、あれ^^;
こうなるともう打つ手無しなんですよね、マジで…。私の我慢もそろそろ限界です。

動かざる事山の如し…

武田信玄公『風林火山』の山の章の一節である。

今の私の心境を此処まで適確に表している言葉は無いという程適確に表している。
昨日此処で挙げた同胞の続報、と言っても内容は殆ど変わらない。

こちらのあらゆるアプローチに対して一切の反応を示さない。
日記に足跡は有るでもコメントはない。

恐らくメッセージもメールも読んで居る筈。でも返信は一切無い。

今までの私ならブチ切れてさっさと関係を解消していたでしょう(今でも本当はそうしたい)。
でも此処数日氏の周りの状況は激変し、今は居住地を移され馴れない中での生活である。

周りは知らぬ者ばかり、さぞ不安である事だろうと思う。
その中で心を閉ざしたとて誰が責める事が出来るだろう。

糞旦那のご両親はとても暖かく彼女を迎え入れてくれたと言う。
旦那は糞でも両親はまともだったようだ、それが彼女には幸いしたのだろう。

最後のメールは”力強く生きて行きます”という物だった。
或いはこれが彼女なりの”ラストメール”だったのかもしれない。

それを私が気付かないだけかもしれない。

故に今はあれやこれやと突くのをやめ心静かに今後の動向を見守ろうと思う。
それが専門職として私が彼女にしてやれる唯一の事のような気がする。

何かアプローチがあればその時初めて動けばいい。
今はそんな心境になっています。

情けは人の為ならず(逆説)

『情けは人の為ならず』…本来は人に情けを掛けておけば巡り巡って自分に帰って来るよという意味。


だが、最近はどうも逆説的なケースが多いようだ。

今日、一人の同胞が我が門を去っていった。
理由は”垣根を越えすぎてるから”だそうだ。

私のウリは”シンクロ率の高さ”である。
精神科医や精神神経内科医そしてカウンセラーにはないフレンドリーさ、が最大の武器である。

同胞と同じ目線で、同胞と同じ考えで、同胞と同じ立場になって考える、それが私のモットーである。
今までそれでやってきたし恐らくそのスタンスは一生変わらないと思う。

が…相手によってはそれを”ウザイ”と思う御仁も居られるようだ(今回のように)。

誤解なきように言っておくが最初から”ウザイ”と思われていたのならさっさと退散していた。


嫌われているのを解っていながらその場に未練たらしく留まるなんて事は私の性格上無理である。

駄目なら次!ってのが基本理念なんで(笑)

ですが最初同胞の方から”並々ならぬ決意”を示してくれた。
その決意たるや相当の物でこれほどまでの決意を示してくれた人は過去居なかった。

私は嬉しかった、私の20年近いセラピスト人生が花開いた瞬間だと思った。
私の中ではそういう事に対する感謝の意も込めていた。

故に同胞と100%以上のシンクロ率を持って寝食を忘れ没頭していった。
だが…どうも深入りし過ぎた様だ。

急に疎遠となり、本日突如解任された。

理由は前述の通りである。

私の悪い癖…期待されると期待以上の事をしてしまう。
それが効を奏する場合も有れば災いを起こす場合もある。

今回は後者の方であったようだ^^;。

だが、今回は”命”掛けて居ただけにちょっとダメージはデカい。
暫くは新規を取らずセミナー講師と現時点で抱えている20人近い同胞を優先しようと思う。

それから前へ進んでも遅くはあるまい…。

本音で語る日本人

少し昔の話になるがある大会社の社長さんの酒席に呼ばれたときの事。

酒席の席へ行って周りを見渡し”自分のポジション”を確認しました。

酒席が始まり、思ったとおり、社長の元へ皆がお酌を継ぎに参っておりました。
そろそろ私の番という時、私を社長に合わせた人がしきりに私に酒を注ぎに行けと促しました。

私はその大会社の社長へ向き一言こう言い放ちました。

”本当に旨い酒は手酌で飲むのが一番美味い、まぁ美人のお酌なら未だしもむさくるしい野郎の酌なぞ余計に酒を不味くするだけ、ならば手酌で飲んだ方がまだ美味いでしょう”と一気に酒を社長の前で飲み干しました。

当然回りは凍りつきます、私を紹介した人なんぞはもう顔面蒼白でガクガクブルブルです。


ですが…その社長はやはり私が睨んだ通りの”大物”でした。

豪放磊落と申しましょうか、豪快に笑った後、私に一杯と逆に盃を下さいました。
その酒席で社長自ら盃を頂戴したのは私一人でした。

酒席も酣となり、社長が席を立たれました、用を足しに参られたのです。
私も用足しに出まして、ついでに少し夜風に当たっておりました。

そこへ先ほどの社長が戻られたのです。

私は満月を眺めながら社長に軽く一礼しそして又月を眺めておりました。
軽く微笑んだ社長は私の横に並び黙って月を眺めておられました。

そして一言…”何十年かぶりに美味い酒を味わえたよ、有難う”と…。

今もその社長とは何だかんだといいながら交流が有ります。
社長の紹介で同胞を得た事もありました。

大抵その社長の紹介で来る人は皆さんこうおっしゃいます。

”奴は口は悪いが歯に衣を着せぬ男だ、きっと君の心の琴線にも奴の言葉は響くだろう”と。

人間”本音”で語れば分かり合えるものなのですよ、それが一角の人物ならば…。
私はこれからも”本音”で語り”本気”でぶつかり”本物の笑顔”を得る為に頑張ります。

日本人はイエスマンしか居ないと諸外国には思われている節があります。
今でも日本は米国の51番目の州だと思っている人も少なからず居られます(失礼千万な話ですがw)

私は在日外国人に”日本語”で話しかけます、日本に来るなら日本語ぐらい覚えて来いというのが持論。当然余所へ行けばその国の言語で話します、それが私の中のルールです。

こんな変わった日本人が一人は居ても面白いじゃないですか。
私はこれからも”私色”を貫き通します、それが私なりの”美学”ですから…。

心・美・体

『心・技・体』はスポーツの基本、『心・美・体』は心理学の基本である。

 
つまり心美しからずば体美しからずや、翻り、心美しければ体美しけりである。

私が大学生だった頃の話。

いつも片手にポテチ片手にコーラという見た目にどうみても”美しくない”人が居た。
”美しくない”という表現を使ったのには意味がある、それは後述するとしよう。

我が大学の学部棟にはちょっとした中庭がある。

夏ともなるとカップルの一寸したデートコースとなり仲睦まじいカップルがテーブルに座り、互いの目を見つめ、愛を語り合っている。

そのカップルを只、じぃっとその娘は見ていた、一切の感情を顔に出さず…。
彼女は私の二つ下の後輩であり、私が大学4年の頃に丁度出会った。

お世辞にでもスマートとは言えぬ体型で且つヘビーではないがスモーカーだった。
笑い方がとても個性的で(笑)それが余計に彼女の”奇異さ”を際立たせて居た。

だが…私にはそんな彼女の”心”の中に”美の種”がまだ眠って居る事を知っていた。
丁度講義が被っていて喫煙所で彼女とは度々出会っていた。

時候の挨拶程度から始まり色々な事を彼女は私に話してくれた。
カップルを見るときの彼女は無表情だが私と話をする時の彼女はとても表情豊かだった。


一生懸命話かける彼女は”可愛らしさ”すら覚える程である。

その内に私の中の”御節介心”が騒ぎ出した^^;。

”この娘を綺麗にしてあげたいな…”

私の中の御節介心はどんどん肥大して行き又それと時同じくして彼女の中でも変化が少し見え始めていた。以心伝心とでも言うのだろうか、彼女も私も実は同じ事を考えていた。

最初に口火を切ったのは彼女だった。

”私綺麗になりたい、勿論自分が醜い事は解ってる、けど今より少しでも綺麗になりたい…”彼女の口から初めて出た言葉だった。その言葉には”決意”が充分感じられた。

私はそこで徹底的な”ビューティー・プログラム”を彼女に敢行する事にした。
先ず彼女に課したのは”ミラー・セラピー”と”フォト・セラピー”だった。

自分自身を鏡に映し、それを自分で見る
自分自身を写メで撮り、それを自分で見る

何れも”今の自分”を知る上で欠く事の出来ないセラピーであった。
又、”自分の中に眠る自分”を目覚めさせる事もこのセラピーの大きな目的の一つである。

鏡に映る”私”には動きがあり常一定していない、写真に写る”私”は固定されていて”一瞬”が切り取れられる。何れも”今の自分”を知る上でとても重要且つ変わる自分を知る為にも、
とても重要なプログラムであった。

当時の彼女にとって”醜い自分”を写真に撮り、鏡で見る事は相当な苦痛であり屈辱であったに違いない。しかし”現実を直視”する事と”現実から逃げず未来のなりたい自分”になる為にはどうしても必要な行為だった。

同時に当時管理栄養士だった姉の力を借りて栄養面でも徹底的なダイエットプログラムを組んで貰った。

大学で栄養学をみっちり学んだ姉のプログラムは正に”完璧”という物だった。

同時にメイキャップ・アーティストの友人とスタイリストの友人の力も借りた。
こうして”美女大作戦”は敢行されたのだ。

1ヶ月、3ヶ月、半年、1年…彼女の努力は果てしなく続いた。
あれほど吸っていた煙草も既に止め、ジャンクフードも口にしなくなっていた。

私と喋る以外は殆ど喋らなかった彼女は徐々に人と接触を持てるようになっていった。
少なかった友達もその数を徐々に増やして行き、あの頃の無表情な彼女ではなくなっていた。

彼女にはこのプログラムが成功した暁には果したい”夢”があった。

それは”我が学部きってのイケメンS君とのデート”であった。
勿論最初の頃の彼女では到底それは不可能に近かった。

しかし…私の中では”絶対出来る!嫌、その願いかなえてみせる!”という確信があった。

ダイエットをしてメリハリボディになってくると意外にも”ナイスバディ”である事が解った。八重歯も矯正し歯並びも良くなった。

流石プロの腕は違うなぁと驚いたのはメ-キャップとファッションセンスであった。

大きめバックを常抱え、サンタさんですか?と言わんばかりに前のめりになって下を向き、足を引きずっていた居た彼女の姿は其処にはもう無かった。

姿勢よく歩くととてもセクシーな歩き方の出来る娘である事が解った。
彼女をちら見する男性も徐々に増え始めたのが何よりの証拠である(笑)

メイキャップの方も彼女はもともと線目だったので目を大きく見せるメイクを施してくれた。
色黒だったのでファンデは明るめ、チークも薄く居れ、ルージュは薄く引かせた。
シャドーも流す感じにしすこしグラデーションをつける様にしてくれた、これで目が引き立った。

正に”使用前””使用後”である(笑)

”美しくない人”だった彼女は今や誰の目からみても”美しい人”になっていた。
そしていよいよ告白タ~イムである。

外見は変わっても中身はあの頃のままの”純真可憐な乙女”である。
私も柱の影でそっと彼女の告白を見守り応援しつづけた(余所から見たらストーカーw)

S君は見た目こそポルノのアキヒトだが如何にせん女性経験に乏しく、
そのギャップが逆に女性には不評で見た目のかっこよさからさぞリードが上手い人だと思われ、いざデートに望むと全然駄目で失恋といういつものお決まりコースだった。

彼も又自らの”外見とのギャップ”に悩む者の一人だったのだ。
そして…見事彼女はS君のハートを射止めデートに漕ぎ着けたのだ^^V

その後まぁ色々あって二人は結果別れてしまった。


だがそれは所謂失恋とかいう物ではなく発展的解消とも言うべき物であった。
御互い目指すべき方向が明確化しその目指すべき方向へ進む為別の道を歩んだと言う事だ。

彼女は今、エアロビのインストラクターとして結構忙しく飛び回っている(と風のうわさに聞いた、何せ海外なので^^;)。

彼女の教室には彼女の”醜かった頃の自分の写真”が置いてある(らしいが見た事は無い)。

それはあの頃の自分を忘れないという意味と貴女もこうい風に変われますよ?という宣伝効果も含まれているらしい(意外とちゃっかりしている^^;)。

『心・美・体』が三位一体となった好例である。

貴女も変わって見ませんか?
貴女の中に眠る『もう一人の自分』目覚めさせてみませんか?

私がそのお手伝いをさせて戴きます<(_ _)>

私的ベルソナ論(乃至は自分を演じるという事)

厳しい題名で始まりました当日記ですが内容はいつものようにゆるーい内容でお送りします(笑)

私の元へ訪れる何人かは大抵こういいます。”私ってどういう人間なんですかね?”と…。

其処で私は大抵こういいます。
”私から見たアナタは○○な人でもあり○○な面を持ち、○○な一面を持つ人であります”と…。

すると殆ど例外なく同胞は言います。”それで結局私はその中のどれなんですか?”と。

私は応えます。”それら全てが貴方であり貴方という存在の一部であります”と…。

最近人から”貴方って人が良く解らない”とか”貴方は人によってコロコロ性格が変わる。
人格障害なんじゃない?”とか揶揄する馬鹿者がいる。

私からすれば素人の浅知恵で人を決め付ける事は止めて頂きたいと思う。

鏡に映る自分を先ず見て欲しい、先ず正面、側面、背面、斜めからの角度も見るのもいいでしょう。

その中に映る自分は”一つ”ですか?恐らく全てが”違う自分”である筈です。
角度が違えば体の凹凸も違うし首の傾け方一つで表情も変わります。

しかし言うまでも無くそれら全てが”貴方と言う存在自体”なのです。
心の中でもそれと同じ作用が現れています。

例えば家族、恩師、例えば会社の同僚、そして愛する恋人…全て接し方が同じですか?
もし全ての接し方が同じなら逆に私はその人に”凄い”と言ってあげます、別の意味で(笑)

当然の事ながらそれら全部が違う筈ですし又違わなければなりません。

”キャラチェンジ”が巧い人は世渡り上手です。

つまり”瞬時に自分のソーシャルポジション(社会的立場)を察知し、そのソーシャルポジションに応じたキャラクター(人格)をチェンジ(変化)させる事が出来る”のですから。

私を例にとって更に詳しくご説明申し上げます。

私を知る人の共通認識は”明るい”という物です。
私はこの”明るい”をベースに様々な”キャラチェンジ”を行います。

学生相手にはこの”明るさ”に”軽さ”を最初プラスします、フレンドリーさを増す為です。
年長者には”明るさ”に”礼儀正しさ”をプラスします、”常識人”を印象付けるために。
女性には”明るさ”に”言葉の魔法”をプラスします、”かっこよさ”を印象付ける為に。
男性には”明るさ”に”リーダーシップ”をプラスします、”素直に従わせる”為に。
不届き物には”冷たさ”に”怖さ”をプラスします、”その筋の人”と思わせるために(爆)

このように”明るい”をベースに様々な者をプラスして”あらゆる人格”を作り出します。
(中には”冷たい”のもありましたが^^;)。

その事により”私”というイメージが人によって実に様々に変化します。

ある時私を知る二人の人物が私と言う人物像を語っている場面に出くわしました。
私は面白いので物陰に隠れその話をずっと聞いていました。

一人は同胞で一人は後輩でした、勿論二人とも全く別々の”キャラ作り”で接していました。
結果”二人が言う人物は同姓同名で容姿も似た別人”という結論に達しました(笑)
(馬鹿ですねぇ^^;)。

このように”自分を上手く演じ分ける”事は一つの処世術であります。

ラベリング論という理論が社会心理学の分野にはあります(日本では逸脱行動論)
我が恩師、辻正二先生が提唱されている理論であり社会学の一分野であります。

つまりある人たちが”あの人は○○な人よね”という風な事を言い続けたとします。
言われ続けた人は自分が”○○な人”であると思いこんでしまいます。
これがラベリング論です。

ですがそれがその人に合ってる物ならばそれでよいですが違っていた場合大変な事なり、
最悪”人格剥離”に繋がります。それで我が門を潜った人はかなりの数居ます。

ある時仕事の合間に煙草を吸っていたときの事。

偶々研修で私の仕事場のホテルに来ていた人と話をする機会に恵まれました。
(私はホテルの一室を事務所にしそこに同胞を呼びます、地元の場合は)

彼はずっと音楽を趣味でやっていたが家族や親戚や友人は彼をとても”真面目な人間”と思っていて、
結局彼も”周囲の自分に対するレッテリング”に推されて真面目な営業マンとなった。

しかし当然の事ながら”自分の中では納得が行かない”事が多々出てきていてそれが悩みだった。
私は彼の音楽的才能を彼が音楽が好きだと言う前に見抜きズバリ言い当てた。
そして表現者としての彼の才能と彼の音楽的センスを褒めた。

私の言葉に深い感銘を受けた彼はその後当時の職場を辞し、今は細々と音楽活動を続けている。
収入は激減したが心は何時も晴れやかであり以前よりも明るく前向きにそして活動的となったという。

程無くして伴侶にも恵まれ、今は二人でユニットを組んで全国を回っていると言う。
”レッテリングが災いしその後そのレッテリングから解放された一人の人物の好例”である。

ですから不用意に”あの人は○○な人よね”というのは止めましょう、大変な事になりますよ

自分と言う存在を楽しみましょう、自分と言う存在を思い切り誇示しましょう。
貴方は貴方と言う完全オリジナルであり他の誰でもない存在です。

色々な自分が自分の中に眠って居る事を理解しましょう、そしてそららを表出させましょう。
隠してるなんて勿体無い、知らないなんて勿体無さ過ぎます。

私はアナタの中に眠る”もう一人のアナタ”を目覚めさせて上げます、完全覚醒させます。
そしてもっともっと魅力ある”アナタ”になりましょう、光り輝く存在となりましょう。

それこそが”本当のアナタ”なのですから…。

セルフフォトセラピーの功罪について

此処暫く数名の方にフォトセラピーを実施させて戴いている。
遠方の方数名、リア友若干名である。

そして…何れの方々も目覚しい”進化”を遂げておられる。
始めた頃と較べると”目覚しいほどの覚醒”をされておられるのは誠に嬉しい限りである。

セルフフォトセラピーの効能とは凡そ以下のような物である。

・自身で自身を撮るという行為が自身の中に隠れた”魅力”を自覚するのに適している。
・自身の中にある”もう一人の自分”が目覚める。判断材料が増える為迷いが軽減される。
・表現力が豊かになり、感情表現が増え、それが人間関係をより円滑にする。
・人に見てもらう事(つまり私に見せる事で)と言う意識がアドレナリンの分泌を促し若返る。
・色々と表現方法を考える時間が増える為、他の余計な事を考える時間が減りストレスが減る。
・何より自分が好きになる

ですね。
しかし”光”の部分が増えれば当然”闇”の部分も増えます。

次は”罪”の部分について

・多少自意識過剰気味となり偶に”ハイパー化”という症状が表れる事がある。
 自分以外全てが”カス”に見え女なら女王様、男ならキングみたくなる(笑)(これは稀)

・自分自身のレベルが飛躍的に上がるので今まで何の問題も無く暮らしてきた周りと波長を
 合わせる事が多少苦痛に感じる事もある。自身のレベルアップと同時に回りもレベルを上
 げてくれるとありがたいのだが^^;。

・自身のレベルアップに伴い求める異性のレベルが飛躍的に上がる為カスを掴み難くなるが
 周りに自分のレベルに合う異性が居ないと異性を求め右往左往する結果となる(笑)
 最終的には国外脱出をした者も居る(実話)。

・まぁ当然の結果だが以前よりも飛躍的に綺麗&格好良くなるので異性が寄って来る^^;
最初は戸惑いを感じる程よって来る場合もあるのでそれを捌くのが大変^^;。

とは言いつつも有る一定以上の効果を今の所示しているのでこれはかなり有効な手段であると思って居ます。

夫婦ならお互いがお互いを撮り合い批評しあう事で絆が強まります。
家族ならもっと家族の会話が増え、互いの間の距離が縮まります。
恋人同士なら大切な人の自分しか見せない一瞬が見れるので余計相手を好きになれます。

これから年末へ向けイベント続きの毎日。

”新たな自分”に出会う為フォトセラピーやってみませんか?^^v

週末は何時も雨…

週末しか時間の取れない同胞が居る。

日曜日は基本お休みにしているし月曜日から又忙しくなるので私も出来れば英気を養いたい。

故にお互いの利害がぶつからない日という物を選べば土曜日しかないのだ。
しかし…先週に引き続き、今週も雨。マジで勘弁願いたい。

同胞は今時電車に乗ったことがないという箱入り。故にこちらが向かわねばならない。

相手も自転車での移動故雨が降ると当然視界も悪くなる。
昨夜より少し風邪気味である事も加味し、今回も延期となった。

順調に回復の兆しを見せて居る事だけが唯一の救いか。
さりとて私も来週から又忙しくなる。

来週の土曜日は晴れてくれる事を切に願いたい。

マネジメント心理学

何やら聞き慣れない言葉で戸惑いを覚えられておられる方も居られるであろう。
それもその筈、私の完全造語なのだから聞きなれていなくて当然である(笑)

私は長く亡父の会社で宣伝部部長職を預かり父の会社のマネジメント一切を仕切ってきた。
代が兄へ移譲し経営方針が変わってからは意見の対立が増え、私は職を辞した。

今はフリーセラピスト一本だが当時は宣伝部部長と心理職のいわば掛け持ちであった。
片手落ちと言う言葉は私の尤も嫌いとする言葉であり私にとっては最も屈辱的な言葉である。

基本いい加減で完璧主義などとは縁遠い私だがそれはあくまでプライベートでの話。
仕事として請負った以上は上出来以上の出来を示して一人前と言うのが我が持論。

そしてそれは亡き父の教えでもある、人間に完璧は無い故に常完璧より上を目指せと…。

マネジメントと心理学は一見すると全くの別物のようだが実は結構似ている。
数字も人の心も水物であるという点は同じである、常流動的で変化に富み動きに一定が無い。

又、お金の動きは人の心と連動している。
一つの例を取ってご説明しよう、流行という言葉がある。

例えばファッション、流行を作る人間は買い手となる消費者の心の動きに常敏感である。社会情勢に目を向け人々のトレンドを察知し、心の奥にある”求める物”を形にして行く。

それが合致すれば莫大な金を生み、失敗すれば破産者となる。

まぁ賭け事に似ていなくもないが、賭け事と違うのは精緻なデータを揃えれば揃える分だけリスクが減るという事である。

お金の流れは人々のその時々の心がどの方向に向いているか?に比例する。
その”流れ”を掴めば大不況の波にあってもお金を産み出す事可能なのだ。

私は経営コンサルタントではないがある時期似たような仕事をしていた時期もあった。
偶々縁が有ってお心を診させて頂いた経営者の方に私の素質を見抜かれたのだ。

顧客リストを見させて戴き年齢層、居住地、購入リストから彼らの嗜好性を分析、又ご意見箱を設け、ご意見をくれた方に粗品を進呈を提案。予想的中で更に詳細な情報が集まった。

それを元に商品開発部と連携を組んで次の商品開発のヒントを差し上げた。
その年の売り上げは50%増となったと謝礼を頂戴した。

『相手の立場に立って考える事』

これは何も心理学の世界に限った事ではない。
商売の世界や物を教える世界でもとても大切な所為である。

人間が生きる基本であり、これが上手く行くか行かないか?で人生随分違ってくる。

マネジメントと心理学、一見するととてもかけ離れた存在のように見える。
しかし其処に”人の心”がある限り決してそれらは無関係ではないのだ。

”人の心”を大切にする事は全てに通じると私は思っている。

セラピスト、セラピストと天狗になるなかれ

勿論私自身に自戒の意味を込めて申しております。

過日仕事前の一服とセブンイレブンにて缶コーヒーを飲んでいた時一見すると私より若いかな?と思しきとてもお洒落な紳士にお会いしました。

目が合いましたのでそのまま無視をするのも失礼ですから時候の挨拶を交わしました。

北九州でアパレル関係のお仕事をされておられる40ちょい過ぎの方でしたが流石アパレル関係のお仕事をされておられるだけあってファッションセンスは抜群。

特筆すべきはその洗練された立ち居振る舞いです。

私の職業についても関心が御有りらしく独学で少し勉強された由。

失礼ながら長く専門としていた自分が恥ずかしくなる程豊かな知識をお持ちでした。

社会規範についても私と同じ価値基準をお持ちで意気投合。
又常自身を下げ相手を立てる姿は正にプロフェッショナルだと舌を巻きました。

自らの職業意識に胡座をかくつもりはありませんが改めて勉強になりました。

人と人との縁を大切に… ケータイ投稿記事

フリーセラピストとなって早19年目(2009年執筆時段階)

来年でいよいよ20年目に突入である。

過日此処でも触れさせて戴いたアパレル関係のお仕事をされて居られる紳士に図らずも又お会いした。

嬉しかったのは私の事をご記憶戴けて居た事と当ブログを早速ご覧戴いた事である。

しかも近い内にコメントも下さるらしい。

誠に有り難い限りである。

どんな仕事もそうであるが特にこの仕事は『人と人の縁』をとても大事にしなければと常思う。

お一人お一人の縁を大切にしお一人お一人のお心に寄り添う事が肝であると思う。
その意味に於いて私は本当に恵まれて居ると思う。

今日もそんな素敵な人たちと出会いそして仕事をしていきたいと願って居る。

今日も一日お疲れ様。

己を知り敵を知れば百戦危うからず…

と言っても兵法の話ではなく恋愛ネタの話です(笑)

過日、何時もの様に仕事を終えて愛方を待つ間近くの広場でモクを吸っていた時の事。
とても感じの良さそうなお兄さんと遭遇、時候の挨拶から我が出身大学の1年生だと判明。

学部は異なれど我が後輩に変わりなし、他愛も無い話で盛り上がっておりました。
中で恋愛についての話に移行し、どうも恋愛に対して臆病になっているとの事。

偶々恋愛に対して不幸が続いた為、中々次の恋愛へ移行できなくなっておられました。
ルックス的にもナイスルッキングで性格的にもとても素直で真面目な性格。

モテ要素をとても数多く備えておいでであるにも関わらずその真価を発揮出来ずに居られる。
故に”御節介心”がムクムクと沸き起こり1時間余りお話をさせて戴きました。

つまり彼にとって一番の原因は”思い違い”をしている事でした。
自分に対しても、恋愛に対しても一方方向でしか物事を見れなくなっていたことが一番の原因です。

物事とは須らく”多方面”から見る必要が有ります、一方方向から見ただけでは”本質”は見抜けません。
自らの事についても同じ、ある一つの事に固執してしまえば他の可能性に目が行かなくなります。

氏が正にそうでした、でもそれでは余りに勿体無さ過ぎます。
故に氏の中に眠る可能性を最大限に引き出し又、ちょっとした恋愛テクニックもご伝授差し上げました。

氏にとってはかなり『目から鱗』状態だったらしく曇っていた目の光がみるみる輝いていくのが手に取るように解りました。こういう解りやすい人はとても大好きです(笑)

最後はとても元気で笑顔でその場を退出されました。

某公共広告機構のCMではないですが『他人の事は見えやすい、自分の事は見えにくい』のが世の倣い。私とて例外に非ず、愛方や同胞や友人・知人より色々と教わりながら”今の私”が有る訳です。

”敵を知り己を知れば百戦危うからず”

先ずは相手を知る前に自分自身の事をもっと知りましょう。
そうすればもっともっと可能性は見えてくる筈です。

私はこれからもそういう”見えない自分”という存在を多くの人に説く人でありたいと思います。
そしてその中で私の中にある”まだ見ぬ自分”にも出会えて行ければと思って居ます。