2010年8月26日木曜日

メンタリストが陥る落とし穴~メンタリストは神ではない~

我々のような心理職(以下メンタリスト)は私は伴走者であらねばならぬと思っている。

同胞と常、歩幅をあわせ時に励まし時に休ませ時に叱咤しながら”完治”という頂きを苦楽を共にしながら歩んで行くものだと思っている。


人を教え導く立場の人間は決して自らの立場を忘れてはならない。

天狗にならぬよう常チェック機関を設けそこからの中元を素直に聞き入れる柔軟性なくしてこの仕事は務まらない。


私は弟子をはじめとして我が愛方や母など多くのチェック機関を設け日々様々な讒言を頂戴しながら(笑)

同胞と共に”精神疾患”という目に見えない敵と戦っている。


だが、過日友人のメンタリストと話を聞いた際、我が耳を疑う話を聞いた。

その方は(偶々)女性で且つフェミニズム提唱者であられた(この時点で凄く嫌な予感がしたのだが…)そして事件は起きた。


その方のご専門はパワハラなどの主に女性が受ける社会的差別や犯罪などの救済であった。

親身になって女性の話を聞き同胞の矢面に立ち会社や社会を相手に八面六臂の活躍をする様は正に現代に蘇るジャンヌダルクさながら。


だが…この方の場合どうも少々”度が過ぎた”ようだ。


我々メンタリストは”神”ではない、あくまでも”人間”である。

同胞の依頼を受けてお仕事をさせて戴き決して”独断専行”してはならないのだ。


だが…このメンタリストの場合その”独断専行”を行ってしまった由。

依頼者への会社の上司による度重なるセクハラ行為に激怒した氏は同胞の許諾を得ず会社へ怒鳴り込んで行き上司を社員が居る前で激しく糾弾、ひとしきり氏を罵倒した後そのままさっさと帰宅したと言う。


勿論これで事が済む筈が無い。


一番の被害者となったのは言うまでも無い氏の元へ仕事を依頼した依頼者であった。

上司は怒り狂い依頼者を首にし侮辱罪で法廷で争う構えだという。


慌てた依頼者は訳が解らずメンタリストの元へ、事の仔細を氏から聞き”何故そんな余計な事を”と当然の事ながら怒り心頭。

するとこの氏は自らの暴走を謝るどころか今度はその怒りの矛先を依頼者へ向け始めたのだ^^;。


”私は貴女からの依頼を受けてわざわざ会社へ出向きあのセクハラ親父を貴女に代わって糾弾してあげたのよ。感謝されても文句を言われる筋合いは無いわ”と開き直る始末。


結局依頼者と両親がセクハラ上司に頭を下げ告訴は取り下げられたが結局彼女は会社を辞めざるを得なかった。

両親はそのメンタリストを告訴すると息巻いたがもうこれ以上のゴタゴタは沢山と娘は田舎へ帰り今は静かな生活を送っていると言う。


勿論これはほんの一例であり且つ大変珍しいケースである(だからこそ友人も笑い話的な感じで話をしてくれたのだろうし)。

多くのメンタリストは常識を弁えた常識人である。だが、メンタリストとて人間。こういう”感情先行型”がいないとも限らない。


メンタリストは勿論プロではあるが中にはこういう人も居るという事を出来ればお心に留めて置いてもらえると有難い。

2010年8月19日木曜日

熱い男…或いは熱すぎる男^^;

私は自他共に認める”熱い男”である(一説に寄ると”熱過ぎる男”という噂もw)。
同胞は言う”何でそんなに人の事で先生は熱くなれるんですか?自分の事ならいざ知らず他人の事なのに…”と。
私は返します”他人の事?冗談じゃねぇ。俺が関わった以上これは既に他人事じゃねぇ、俺の事なんだよ。相手がどうのこうのじゃねぇ。俺が嫌なんだ。その人 が正しい道を歩んでいない、その人がその人自身を生きていない。誰かの真似をしたり誰かに言われて自らが望まぬ方向へ行かされようとしているそれが我慢な らねぇ。今この瞬間俺は切られたってかまわねぇ。罵詈雑言浴びせようが悪態つかれようが陰口叩かれたって痛くも痒くも無いわ。けどな、俺は俺が信じた道を 全力で走る、どんな邪魔が入ろうとどんなに道を邪魔されようとも俺は俺が信じた道を全力で只、突き進むのみだ。俺は自分自身を生きて欲しい。自分を好きで 有って欲しい。その上で変わりたいと思うなら幾らでも川りゃあいい。けど自分嫌いだからって後ろ向きな考えは許さねぇ。少なくとも俺が関わった限りはな” と…。
大抵は同胞は呆れながらも笑いながら着いて来てくれます^^;
そして大抵治療が終わる頃には”熱い人”が一人増えてます^^;。

2010年8月18日水曜日

名残の心理学~或いは会いたくなる心理学~

電話セラピーを施して差し上げた方数名から過日同じ言葉を言われた。

”もうお時間来ちゃったんですね、先生と話していると時間の経つのを忘れてしまいます。
本当にお名残惜しいですが又次回も宜しくお願い致します”と…

私にとっては職業冥利に尽きる大変有難い言葉である。

本当に相手は何度もお礼を言いながら少しでも時間を引き延ばしたいと言う感じがとても見受けられた。
私とて次の同胞がなければもう少しお話をしてあげたいと思うそんな心持である。

又、別の言い方をされた事も有った。

『お声だけではなく実際にお会いしてそして対面でお話がしたい』
お声だけでなく実際に目の前で私と対面してそしてお顔を見ながらお話がしたいと申して下さった。

こんなブサメンをみても何もご利益など有りはしないと私自身は思うのだが…^^;
これも又、セラピスト冥利に尽きる大変有難いお言葉である。

”人の為となる人となれ”我が亡父の言葉であり私自身が座右の銘としている言葉である。
私は常、同胞や生徒さんと対峙する時120%、嫌、200%以上の力で以て接するよう心がけている。

そりゃあ自分の持てる全ての力を出し切るのだから相当疲れますしかなりしんどいですよ。
それでも尚頑張れるのはやはり目の前に居る方を何とかお救い申し上げたい、導いて差し上げたいという願いがあるからである。

崇高な物であるかどうかなど私には解らぬしそれが崇高なもので有れ下賎な物で有れ私には瑣末な事。
今、自分の目の前に助けを求めている人が居てその力に私が少しでも慣れるなら全力で以てお救いしたい。

私の願いは只、それだけである、其処に損得勘定なんぞが発生する余地など無い。

基本”オバカ”が属性の私である(笑)

損得勘定やらそろばん勘定で動ける立派なオツムは持合わせていない。
私自身それでいいと思っているしこんなオ馬鹿なセラピストが世界中に一人位居ても面白いのではないか?と私自身は思っている。

愛方も”それが殿らしくていいんじゃない”といってくれるし多分間違っては居ないのだと思う。

兎に角全ての事に於いて全力で以て事に当たる、一切の妥協を許さずその時出せるパワーを全て出し切る。
そういう姿を人に見せる事が出来れば必ず相手も”心”を開いてくれるし又会いたいと思ってくれると確信している

フェイクではない”本物”を見せる事が魅力溢れる人を作る素であると私は思う。
まぁ、私自身は”魅力”とはかけ離れた存在ではあるのだが(笑)

安心の心理学~或いは総合失調症・パニック障害の心理学~

総合失調症やパニック障害、不安神経症の方を総称して”不安症”と私は括っている。

そして不安症に掛かった人の多くは”漠然とした不安に対処できない自分に不安を抱く”
ケースが殆どであった。

不測の事態が発生した際、何をどうしてよいか解らず頭が真っ白になって脂汗が出て、動悸が激しくなり頭らクラクラして吐き気を催す場合も有ります。

数年前そんな”パニック障害”の人と別ブログでご縁を頂戴した。
何度かメールとお電話でお話をさせて戴いた後、職場でパニック障害を発症された。

直ぐSOSのメールが来てどうして良いか解らないと言われた。
私は間髪置かず”私が傍に居ます、私が後ろで支えているから大丈夫です”と応えた。

氏と私の居住地域の間は400kmを優に越えている、直ぐに助けたくても助けられる距離には御互い居ない。
しかしその後氏のパニック障害は徐々に収まり無事その日の仕事を終えられたと報を受けた。

この事は一体何を指し示しているのでしょうか?
何度かメッセと電話でお話をさせて戴いているので私の人となりはご存知の方です。

しかも私に対する信頼度は絶大で先生の仰られる事なら間違いは無いという風にご理解を戴いております(まぁそこまで持って行くのが結構大変なんですが^^;この方の場合数年を要しました(笑))

故に”先生がパニック障害を自分が起こしても支えて下さる”という後ろ盾が氏の中に在りそれが”パニックが起きた時の対処法の一つ”として認識されパニック回避に繋がった訳です。

別の同胞は”総合失調症”の同胞でした。
氏も又、何度かメールとお電話でお話をさせて戴いている方でした。

自分が”総合失調症”であるという事を認められずずっと苦しんでおられました。
でも自分が”総合失調症”である事を認め理解しそれらを受け入れる事。

そして何か不測の事態が発生した時の”寄る辺”がちゃんと確保されているという事。
その事だけで実際は”総合失調症”も随分改善されるのです。

心疾患の元は”漠然とした目に見えない不安”がその殆どです。

なればその”漠然とした目に見えない不安”を”明確で目に見える不安”にし、且つその”明確で目に見える不安”を私と共に闘って退治する事が出来れば其処に”免疫”が出来ます。

その方は抗鬱剤や安定剤を数多く飲まれておいでの方でした。
パニックが起きて直ぐ薬を飲んでも即効性でない限り幾ばくかの時間は要します。

その不安たるや相当な物でその間にリスカをする人も少なくはありません。
つまり”不安”から逃げる為には何でもするという状態なのです。

ですが我が”言葉の処方箋”は即効性が有り即座に”心”に作用します。
しかも内臓その他に一切の負担を掛けません。

ある方が”先生のセラピーは無害で即効性がありどんな薬より良く効く”と称して下さった事が有りとても有り難いと思いました。特に心疾患の場合如何に”心に作用するか”が一番重要なのです。

例えば風邪薬を例にとっても薬が万能でない事は明白です。
咳を鎮めるお薬、痰を切るお薬、熱を下げるお薬、鼻水を取るお薬は有ってもそれら全てを一度に抑えるお薬は未だ開発されていません。恐らくこれが出来たらノーベル医学賞物だと言われています。

”風邪”という軽度の疾病ですら”完治する薬”はないのにまして”心”に作用する薬が人間に作れる筈が有りません。まして薬を作るのは薬品会社であり医者はその薬品会社からの効能表を見て指示を出すだけです。
自分が作っている訳じゃないので詳しい事なんぞを理解出来ている筈もないのです。

こう考えてみたら薬品会社が与えた”お墨付き”を鵜呑みにして処方するお薬なんざ怖くて飲めません。
故に私はそういうお薬に頼らずとも治せる”心”という物に真摯にぶつかっているわけです。

私はこれからも多くの方々に”安心”を提供しつつ心疾患に悩む多くの方々のお力になれればと思って居ます。

挨拶の心理学~或いは仕事の出来る人は挨拶の出来る人の心理学~

亡父はとても礼儀には煩い人であった。
人に会ったら例え知らない人であったとしてもきちんと挨拶をしなさい。
もし知り合いならば尚の事きちんと挨拶をしなさいと厳しく教育を受けてきた。

それは父の死後も変わらない。
朝出勤時にお会いする駅員さんやタクシーの運転手さん、電車の中で出会う運転手さんや車掌さん。
駅へ着いてからお手配戴く駅長様、何時も懇意にして戴いている店員さんや挨拶をくれる学生さん方々。

1日に私がする挨拶の数をカウントした事は無いが多分1日平均50~100は軽く越えていると思う。
中には深々とお辞儀を返して下さるタクシー運転手さんやパチンコ店の店長さん、百貨店の外商部の方もいる。

県外へ出ても私の態度は変わらない。

着駅の駅員さん、仕事相手は勿論の事、その土地土地でお世話になるかたがたへの挨拶は決して欠かさない。
故に何処へ行っても歓待を受けるし嫌な思いをした事は殆どない。

嘗て私も亡父の会社で宣伝部部長として席を置いていた人間であり部下を持っていた経験を持つ。
或る時我が社に年若い新人が入ってきた、黙って出社し黙って仕事をし黙って弁当を食べ黙って帰宅する。

仕事ぶりは真面目その物だがとにかく口数が少ないのは閉口状態であった。
或る時私はその若者を呼びつけ注意をした、”せめて朝出勤しておはようございます位言いなさい”と。

すると彼は一言だけポツリと返した。
”挨拶が出来なくてもきちんと仕事は出来ているんだからいいじゃないですか”と…。

私はカチンときて彼にこう返した。
”いいかね?挨拶をするという行為は単なる社交辞令ではなく自己確認の意味でもある。例えば君が現場で事故に遭い誰も居ない穴に落ちたとする。その時ちゃ んと挨拶を交わしていれば人は君の存在を認知しそこに君が居なければ不信に思って君を探してくれるだろう、その結果君の命が助かるという事もある訳だ。だ が君が今のまま一言も言葉を発せずに居たら君が居る事すら回りは気付かず君は暗い穴の其処で死に絶える事にもなるんだぞ?”と。

彼はポツリとこう返した。
”部長、そんなヘマ僕はしませんよ、僕は仕事は完璧にこなせる人ですから…”

私は彼に何を言っても無駄だとその日はそのまま家に帰した。
しかし…数日後、私が予見した通りの出来事が実際に起きた。

私は咄嗟に現場近くにある大きな穴へ直行、彼を見つけた。
だが、私は敢えて気付かないフリをして彼が助けを求めるのを待った。

何とか自力で這い上がろうと四苦八苦したみたいだが穴は相当深く彼自身足を挫いている様子であった。
暫くは頑張っていたが遂には諦め助けを求めた、だが私は部下に彼を助けるなと命じそのままにしておいた。

日もどっぷりと暮れ叫ぶ声も段々と小さくなり穴の底からすすり泣く声が聞こえてきた。
”俺、こんなトコで死ぬのかな?俺こんなトコで死にたくないよ…誰か、誰か助けてよ…”と。

私はその時ロープを垂らし彼を無事救出、そして彼を諌めた。

”な?俺の言った通りになったろ?実は君が穴に落ちて直ぐ私は君が穴に落ちた事に気付いた。でもそこで君を救出してしまっては君の悪癖は治らない。だから 敢えて部下にも君を救出せず君が改心するのを待ちなさいと指示を出していた。勿論君の状態はちゃんと把握した上で清明に危険が及ぶ状態になったなら直ぐ引 き上げるつもりでいたがね”と…。

いい年をした大男がこの時ばかりは声をあげて泣いた、余程不安で怖くて心細くて堪らなかったのだろう。
私はヨシヨシと背中を撫でながら彼を抱締め”良く頑張ったな”と褒めてあげた。

挫いた足は数日で完治、その後彼は現場へ復帰してきた。
現場へ復帰した彼は全くの別人となり、朝から大きな声で”おはようございます!”と笑顔で言える人となった。

現場の近所の人達へも明るく挨拶をする彼の姿に最初は皆驚いていたが徐々に親近感を覚えるようになった。
孤独だった彼の回りに”人の輪”が出来彼の”孤独感”は徐々に消えていった。

その後彼は父の知人の社長に見初められ社長の箱入り娘と結婚、今はその会社の二代目社長となっている。
過日その会社へ訪れた際、社訓を見て思わず吹いた”人に会ったら先ず挨拶をする事”そう書いてあったから。

彼も私の顔を見て照れくさそうに笑っていた。
だがその笑顔はキラキラと輝きとても充実した笑顔となっていた。

受験の心理学~努力とは実らせる物ではなく悟らせる物~

過日此処でも現役法大生で新山口駅駅員高根君のお話は書いた通りです。
受験シーズンも終りこれから浪人生や現役生にとって又辛く長い戦いが始まります。

某予備校のキャッチフレーズでは有りませんが『努力は実る』物ではなく『努力は悟る』物であると私は考えます

幾ら努力をしてもそれが絶対に実るという事はありません。

例えば頑張って100点を取っても相手が101点を取ればその時点で負けなのです。
では努力をしても無駄なのでしょうか?嫌、それは違います。

嘗て私も受験生を抱える家庭教師をしていた時期が有ります。
所謂お受験ママでどうしても息子を有名大学へ入れたかったそうです。

私は息子に聞いてみました”君は本当にT大へ行きたいのかい?”と。
彼は応えました”ううん、でもママが行けっていうから…”。

彼はT大への進学を希望はしておらず彼自身はクリエイターを目指しておりました。
故に私は彼に”合格”する為の勉強ではなく”学ぶ”為の勉強を教えました。

当然”合格”する為の勉強ではありませんから東大には落ちます。
母親は落胆し私は駄目家庭教師の烙印を押されお払い箱となります。

ですが彼はその後親の反対を押し切って上京、今は新進気鋭のクリエイターとして名を成しています。
私が彼に教えた事、それは”努力は実らせる物”ではなく”努力をする事により悟りを得る事”を教えたのです。

勉強を学ぶ事で努力をします、その努力をした結果何を自分が学べるのか?何を学べないのか?
学べる物と学べない物との違い、そしてその特性を彼に私は徹底的に教え込みました。

クリエイターとなった今、彼は我が”教え”を忠実に守り、”学ぶ事の大切さ”を後進に指導する立場にあります。
その時彼は言うそうです”俺を大学受験に落としてくれた有り難い先生のお言葉”を(笑)

確かに受験戦争を勝ち抜くことは大切な事かもしれません。

しかし受験戦争を勝ち抜くよりもっと大切な事、それは”努力をする事の大切さ”を学ぶ事です。
”努力は実る”物ではなく”努力は悟る物”であるという事を学ぶ事。

それが一番大切なのではないか?私はそう考えます。

我慢の心理学~或いは解放の心理学~

日本人程『我慢』を好む国民性は無いのではないだろうか?と思う程『我慢大好き大国』のような気がする。
寒中水泳に真夏の我慢大会、滝行に荒行、火渡りにお百度参り…ドMですか?と思わず聞いてみたくなる程w

自慢じゃないが私は”我慢強い”方ではない、というか基本的に”我慢すること”は嫌いな人である^^;。
故に”我慢強い人”を見ていると尊敬するし凄いなぁと思う(勿論自分は出来ないが^^;)

同胞方々や生徒さん方々は”先生は我慢強い”とよく言われるが、んなこたぁない(笑)
只、同胞や生徒さんや勿論我が愛方に関しては”我慢”という認識が無いだけの話である^^;。

我が同胞で夫婦関係に有る物の内、我慢の限界が過ぎて心疾患になった物は全体の約9割。
そしてその又半数以上が親からの”刷り込み”に拠る物であるというデータが手元にある。

大抵男であれ女であれ我慢型の人はその親御さんの内のどちらかが我慢型であったケースが多い。
小さい頃から母親(乃至は父親)の我慢する姿を見て育っているのでそれが”当たり前”となってきている。

だが…んなもん私から言わして貰えば”悪い方の刷り込み”であって我慢は美徳でも何でもない単なる毒だ。
意外と知られていない話だが人間がストレスを感じた時に含まれる血中に発生する毒素は河豚毒いわれるテトロドトキシンの数百倍以上の威力を持っているといわれている。

つまり人間は”ストレスを感じる度に体に毒素を溜め込んでいる”という訳である。
そりゃあ”心が機能不全”を起こすのも無理からぬ事である。

故に我々心理職の人間はその”我慢”をさせない方向で動いている。
つまり”解放”の方向へ心を逃がして居る訳である。

家庭で言えない事や家庭でできない事をわが元へ来て話我が元へ来て実現させる。
此処へくれば”自由”になれる此処へくれば心を”解放”出来る。

そういう”逃げ場”を作ってあげるのである、同時に其処を心の”拠り所”としてあげるのである。
人間不思議なもので”逃げ場”が有る、”心の拠り所”があるという風に思えるだけで随分と強くなれる物。

と、同時に今まで”我慢し続けてきた自分”が馬鹿らしくなり”自由に生きたい”という欲求が高まってくる。
当然今まで”押さえつけて来た側”からすれば相方が急に豹変するのだから驚き戸惑う訳である。

そしてその陰に私の存在を察知すると大抵の場合怒鳴り込んでくるか訴えてやると喚くかどちらかである。
だが例え法的措置を取ろうが暴れようが私にとってみれば”何処吹く風”である、取るに足らぬ瑣末な事。

法的措置を取れば同時に自らが今まで相方へしてきた”悪逆非道の数々”が露見し当然裁判では敗訴となる。
暴力に訴え出た場合はもっと悲惨な結果となる、大抵の場合病院送りとなるケースが殆どだ^^;。

中には陰険な奴も居てヤクザやその辺の不良を嗾ける馬鹿も居る。
だが流石に相手が悪い、私のバックについている”存在”を告げただけで大抵の輩はビビって飛んで逃げる。

何せ奴とは中学の時からの古い付き合いだが”闇社会”ではその名を聞いただけで震え上がる存在である。
しかも奴は私には恩義が有る為私の依頼は絶対断れないのだ(爆)

故に嘗て”籠の中の鳥”となっていた人は”籠の外の自由人”となり”心”を”開放”され自由な人生を歩む事となりそれにより”心疾患”も又、回復していくという訳である。

”我慢は美徳”と勘違いされておられる方々へ申し上げる。
確かに”我慢”する事は大切な事であるが、”我慢”も限度を越えるとそれはもう”ストレス”以外の何物でも非ず。

ストレスは体に毒を溜め込んでいる事と同義である、取るに足らぬ人間の為自らの寿命を削るなど持っての他。
私と一緒に”新たな人生”を歩んでみませんか?そのお手伝い私がさせて戴きます。

我儘と自分勝手の心理学~或いは許される物と許されない物の心理学~

我儘は許されるが自分勝手は許されない…それは何故か?

我が同胞は良く私に言う言葉”先生は私の我儘を聞いてくれる、周りの人間は私の我儘を聞いてくれない”
我儘とは”我が有る侭”の短縮形、つまり”自分が自分で有る為に通す自我”の事である。
その責任は全て”自己”に有り、例えばそれが間違っていたとしてもその責任は自己が管理すべき事である。

翻って”自分勝手”とは”我儘”と良く混同されるがさに非ず。
”自分勝手”とは”手前勝手”と訳される場合があるがこれは”我儘”と大きな差異が有る。

それは”話に整合性が有るか無いか”である。

例えば麺類屋に行って”うどんは食いたいがラーメンは食いたくない”これは我儘である。
翻って同じ場面で”うどんも食いたくないしラーメンも蕎麦もソーメンも食べたくない”これは自分勝手である。

”あれもしたくないこれもしたくない”なればアナタはどうしたいのですか?という事になる。
それでは駄々をこねる子供に同じ、駄々をこねる子供を親が躾けるように私も我が同胞を厳しく躾けます。

それが年上だろうが社会的地位がある人だろうが誰だろうが容赦はしません。
そして特に面倒なのが”社会的地位がある人”や”肩書きが有る人”に限ってこういう勘違いをしている人が多い。

それは何故か?周りがすべて”イエスマン””イエスウーマン”ばかりで誰も”No!”といわない環境に育つから。
それが日常的になればなるほど自らの”自分勝手”はその人の中では”常識”という名に摩り替わってしまいます

しかしそれは周りの風紀を乱しまわりの効率を落としまわりのやる気を落とします。
敷いては会社の士気に関わり営業利益にも繋がります。

それが社会的地位が高い人であればある程その影響力は大きくなります。
故に私は断じてそれを断罪し断固その人の”自分勝手”をやめさせます。

しかし人間当然”鞭”ばかりじゃ動かなくなるのは動物だって同じ事。
故に私は”自分勝手”な人間を”我儘”な人間に作り変えていくのです^^;。

元々”我儘”も”自分勝手”も方向性は同じ、ですが両者は途中で大きくその方向性を変えます。
故にその分岐点までその人を戻し、”自分勝手”に進んでいた方向を”我儘”な方向へ変えるのです。

さすれば”自分勝手”の頃の被害は激減し、時に利益も生みますから回りも前ほど苦情は言わなくなります。
周りの空気が変わればそれを一番に感じ取るのは誰あろうご本人様です。

そうなれば”溜飲も下がり”周りの意見にも耳を傾けてみようかという風にもなります^^;。
そうやって多くの”自分勝手”を”上手く誘導”してその人が本来進むべき道へ戻した経緯が有ります。

”馬鹿と鋏は使いよう”と申しますが何の何の。
案外”賢い人”も使いようによっては”使い勝手”が良くなる物ですよ(笑)

少子化の心理学~或いは子育ての心理学~

今日偶々同胞と電話で話していて痛感した事。

”本当に少子化を止めたいなら本当に愛する価値のある人と添い遂げなさい”という事。
惰性や親の勧めや妥協で結婚は絶対するべきではない、ましてできちゃった婚など論外

勿論できちゃった婚ではなく計画的に婚前交渉を行った結果結婚が後になるのは例外。
”子供出来ちゃった…取り合えず結婚しちゃおうか?”というのは無しという事。

本当に愛する価値の有る人との子なれば一生懸命愛情を以て育てられる筈。
愛する人と自分の間に出来た”宝”なれば虐待をしたり無体な事は出来ぬ筈。

そうして”愛情深く育てられた子”なれば又必ず親が何も期待をせずとも期待に応える筈
我が周りを見渡してみても親の愛情を一身に受けた子は立派に成長為されている。

経済的な問題ではない。

ある御子は両親が余り経済的に豊かではなく充分な学歴をつけてあげれなかった。
それでも毎朝牛乳配達や新聞配達などで独学で学費を稼ぎ大学を出会社を興した。

インタビューで氏はこう応えられていた。

”今の会社そして今の自分があるのは両親のお陰であり心から親に感謝している”と

幼少の頃から貧乏であった為、質素倹約を旨とした生活をしていた。
だが物は無くとも”愛情”だけは充分すぎる程彼は親から受けていた。

親は食べずとも子には食べさせ親は寝ずとも子には充分な睡眠を与えた。
しかし子は成長し親を食べさせ親を休ませる優しい御子へと成長為された。

尊敬する人と聞かれ氏は迷わず”両親”と常応えていた。

下の者を可愛がり部下を大切にし取引先をとても大切にした。

そんな社長に報いるべしと社員も一丸となって社長をそして会社を支えた。
取引先もそんな社長や社員の頑張りに胸打たれ仕事を多く回してくれた。

これは何も稀有な例ではない。

こういうケースを私は多く知っている。
愛情深く育てられた御子はこのように愛情深い場を形成する物なのである。

故に私は常、同胞に言います。
”良い恋をし、良い愛を育み良い御子を育てなさい”と…。

その為には先ず”自分自身を正確に知る事、そして相手を深く知る余裕を持つ事”と

2010年8月17日火曜日

アイドルの心理学~或いは失われていく偶像崇拝性~

最近は『~ドル』という奴が隆盛を極めている。
『鉄ドル』だの『マジドル』だの『歴ドル』などがその典型であるだろう。

昔のアイドルはそういう物は一切無かった、純粋に歌唱力とルックスだけで売っていた。
中にはルックスは一寸…という人も居られたがそれを補って余りある歌唱力と牽引力を秘めておられた。

何より”御自身が持つオーラー”という物が物凄かった。
アイドルではないが昔博多で新派の女王水谷八重子嬢にお目に掛かった事がある。

幸い此方は急いでいた為、軽くご挨拶をしその場を退散させて戴いた。
マネージャーと思しき人に”あの子元気ねぇ、貴方もあの子を見習いなさい”と言っている声を後ろに聞きながら^^;。

だが氏の体から迸るオーラーは凄まじく流石”女王”という冠を戴くに相応しい風格を持っておられた。

他にも芸能人には何名かお会いしているがやはり昭和の芸能人という物はその御自身が持たれるオーラーは凄まじくやはり”一般人とは明らかに違う”物を御持ちである

翻って平成のアイドルにも何名かお会いしている。
勿論その中には昭和生まれの方も居られるが平成でブレイクした方々を総称して…

過日愛方とデート中に某アイドルとすれ違った。
愛方に『今の○○さんだよ』と言った時、愛方がぽつりと一言『オーラー無いねぇ』

それが現実である。

今のアイドルが全てそうだというつもりは毛頭無いが今は昔と違って付加価値をつけねばアイドルも売れぬ時代へと突入している事は事実だろう。

時代が違う、そう片付けてしまえばそれまでである。
個人の趣味も昔と較べれば遥かに多様化しそれに伴いアイドルの偶像性も多様化していかねば対応出来ないといわれればそうかもしれない。

だが時代を超えて愛されるアイドルや芸能人という物が居る事も又事実。
昭和の歌姫、美空ひばり、昭和のスター、石原裕次郎などはその筆頭であろう。

老若男女を問わず又時代を超えて人々の心に君臨し続けるスターという存在は時代やその他様々な付加価値を超える物である。

我が同胞の中にも芸能関係者は居る。
だが皆さんそれぞれその道の第一線で活躍されておられる方々ばかり。

彼ら・彼女らは一切の付加価値を付けず御自身がお持ちの”オーラー”を最大限にまで輝かせている。

それこそが”芸能人”そして”アイドル”の証だと私は思っている。
これからもそんな”オーラー”を持つ人々と出会いそういう人を育てたいと願う。

鬱になると風邪を引き易くなる…

風邪引きさんが増えている。
特に鬱”を患う方に多く発症しているケースが目立つ。

”鬱”を患うと免疫系が低下し一寸した風邪の菌にも対抗できにくくなる。
故に”鬱”を患う方は特に免疫系疾患には注意が必要である。

体と心は密接なかかわりを持っている。

海外では精神科医と他の部署のお医者様とはチームで常行動されている所もある。
それは内臓疾患の多くがメンタル疾患と密接な関わりを持っている事を知っているから。

日本では外科的内科的治療に心理職に有る物が関与するケースはまだ多くない。
だが実際はメンタル疾患だけでなく体のあらゆる部分の危険信号に”心”の関与は否定できないのである。

生理不順は婦人科の領域だがこれには精神が大きく関与している。
先に述べた風邪も心が大きく関与している場合が多くある事は確認が取れている。

これから益々暑くなり冷たい物を多く摂取する季節となると体の冷えからくる疾病を持つ多くの方が来院されるであろう。

しかしそれら全てがフィジカルな病ではなくその根源がメンタルである物もあるという事をお医者様には是非見誤らないで戴きたいと願う。

生兵法は怪我の元~或いは餅屋は餅屋へ~

先日我が同胞の夫が同胞に要らぬ言を発した為同胞のセラピーを中断せざるを得なくなったという文章を書いた事は皆様のご記憶に未だ留められておいででしょうか?

実は先日も似たようなケースに出会い怒髪天を衝く経験を致しました。
登場人物は医療オタクの素人馬鹿母とそんな馬鹿母親に心疾患だと決め付けられた可愛そうなお子様一名。

来訪された直後から”こりゃあおかしいのは母親の方だな”と直感。
そして母親の話を聞けば聞くほど私の外れて欲しいと願っていた予感は的中しました。

TV番組や医学啓蒙書(医学書に非ず)人の噂話等から我が子が心疾患だと誤読。
そのまま精神科受診は気が重かったのか我が門を叩かれました。

私としては精神科受診をされなくて本当に良かったと思いましたよ^^;。
奴らの中には守銭奴も居て心疾患じゃないと知っていて薬を処方し医療報酬を得ようとするクズも少なからず居ます。

我が元へ来られた分だけまだこの馬鹿母親には救いがあった。
取り敢えず親御さんは余所に捌けて置いて問題はこのお子さんである。

何せ全く”異常なし”な訳だ(笑)心疾患でもなんでもないのにはてどうしたものか…。
そこで一計を案じ何時もの様に”遠隔セラピー”にてお子さんを通して親御さんを変えるやり方を取った。

勿論お子さんにはその旨説明をし理解を求め同意を得た上でだ(笑)
お子さんもこのままでは本当に”病人扱い”されてしまっては叶わぬと同意。

二人で力を合わせて母親の治療に当たり見事完治するに至りました。
勿論母親は”先生のお陰でウチの子よくなりまして~”と得意満面である(笑)
(勿論それを見てお子さんと二人爆笑したのは言うまでもない^^;)。

最近は薬の本を初めとして素人さんが手軽に医学的知識を得られる環境が整っている。だが医学という物は只、素人が知識だけ詰め込んで独断専行で病でもない者を
病と誤読してしまう危険性を孕んでいる事もまた事実である。

”餅屋は餅屋”という言葉も昔から有る、素人の生兵法は大怪我の元でもある。
余り御自身の”聞きかじり知識”だけで人を病人扱いするのは止めて頂きたい。

そう言っているアナタの方が…大丈夫ですか?^^;

天は自ら助く者を助く~或いは自浄心理学~

我が同胞は大別して二つに分類される。

我が言を忠実に守り孤軍奮闘し進化して行き自らがセラピー首領を悟るタイプ
我が言を反故にし怠け愚痴ばかり漏らし自らが進歩しようとはせぬタイプ。

前者には物凄い力を注ぐが後者は或る時を境に私は完全に手を引く。
私も多忙を極める身、不平不満ばかり並べ立てて自らが奮い立ち頑張ろうとせぬ者を診る程暇人ではない。

当然同胞は悪態を付く”ちゃんと最後まで面倒診る言うたやないか、規約違反や!”とわめきちらす。
私はその時にピシャリと一言でその言を制す。
”規約の中に指示を忠実に守り自らの心疾患を絶対治すのだという強い決意の元、奮闘努力する事を誓う”という一文があったのをお忘れか?

同胞は更に畳み掛ける”私は患者やない、だって先生にお金払ってないもの、先生もそれでいいと言うたやないか”
”ほう、なればボランティアで診て差し上げてるという事ですな?患者でもない、規約も守らないなれば私が此処にこうして時間を割く意味は有りません。ではさようなら…”といって席を立つ(乃至は電話を切る)。

折り返し直ぐ電話がなるが無視そして着信拒否とする。
家電や住所は教えていないので(以前ストーカー被害にあってから秘匿主義に)そっちの被害が出る心配もない

暫く放置した後、連絡を入れる。
”どう?少しは頭冷されたかな?アナタは社会復帰を望みに此処へ来たんでしょ?ならその為の努力をなさい。
死にたいとかもう駄目とか何もやる気がしないなんてのは今後一切禁止です。前へ進む事だけ考えなさい。
前へ進む言だけ吐きなさい、よいですね?”と。

それで又、マイナスの言葉を吐いたり後ろ向きになったら容赦なく斬り捨てる、この繰り返しです。
そうして同胞は”マイナス=切り捨てられる”という擦り込みがなされ以後マイナスな行動は取らなくなります。

結構こうみえて(どうみえて?)この仕事も体力勝負なんですよね^^;。

同胞をあらゆる物から守る、それも又心理職のお仕事です

随分前の話となりますが治療中の同胞の”親御さん”と名乗る方から同胞の治療の進捗具合を聞かれた事が…。
取り敢えずそこでは保留とし同胞に確認を取りました所間違いなく”親御さん”である事が解りました。
ですが既に家を出て数年が経過、しかも今の同胞の精神疾患の元を作りしはその”親御さん”でした。

二度目の電話の際、きっぱりと内容その他はお伝えできません、それはご本人の意思ですとお伝え致しました。
すると相手は”子供は精神を病んでいてマトモな判断が出来る状態に無い”という事と”知る権利”を主張。

しかし私は”お子さんは心神喪失状態に非ず、御自身の判断はとてもしっかりされておられます。又、個人情報保護法に則り本人の許諾なくしてそちらへお子さ んの個人情報をお与えする事は出来ません。未成年者ならば兎も角お子さんは立派な社会人です。それは出来かねます”ときっぱりとお断りを言いました。

どうも親御さんは我が元へお子さんが来られて居る事をご存じなかったらしく人伝に聞いたとか。
恐らく自らの”愚行”が白日の元に晒されはしないか?それを気に病まれての事でしょう。

何度か同じやり取りをしましたが巌とて私が態度を変えない事に遂に相手は諦めそれ以降連絡は無くなりました。
その後同胞は私が身を呈して氏の個人情報を死守した事に深い感謝と信頼を寄せてくれ逆にそれ以降進捗状態も飛躍的に上がり間もなく我が元を意気揚々と去っていかれました。

我が仕事に置いて大事な事は幾つかあります、その中の一つに”個人情報の死守”という物が有ります。
同胞の治療の進捗状態やその内容は例え身内でろうとも本人の許諾無く絶対に開示は出来ません。

又、本人の許諾を”無理矢理”得た場合も同様に情報開示はできません。
お身内でさえそうなのにましてご近所さんや見ず知らずの相手になど絶対に情報開示はありえない事。

つい先だっても同胞の近所に住むおばさんが同胞の治療の進捗状況について訪ねてきました。
偶然街でお会いしたのですがこのおばさん”拡声器”として近所では有名な方^^;

田舎では良くある風景ですが私は”その質問にはお答えできません、失礼”と早々にその場を立ち去りました。
最近医療関係者による情報漏洩問題がクローズアップされてきています。

医療従事者はそれがどういう立場の人間であれ妄りに個人情報を漏洩してはなりません。
特に私のように心を扱う者なればその重要性は更に増します。

これからも私は”同胞の人権は私が守る”を胸に深く刻み個人情報死守に努めたいと思います。

もう一つのマタニティーブルー

最近マタニティブルーによる自殺者の報道が後を絶たない。

マタニティーブルー...『産後鬱』と呼ばれる物の多くは産前産後の新米ママになる女性の不安や言い様の無い恐怖心疎外感などが原因だとされている。だが我が元に来る『マタニティブルー』の同胞を診る限りどうも原因はそれだけではないように思える。

私が考えるマタニティーブルーの一番の原因...それは『女性として見てもらえない事への寂寥感』だと確信する。

或る『マタニティブルー』を抱える女性の同胞を診た時の話だ。

産後直ぐは不安で不安で堪らない、誰かに傍に居て欲しいし誰かに支えて欲しい。

同時に妊娠末期は性交渉も行えないので余計人肌が恋しくなる。

愛する人に抱かれたい、愛する人の鼓動を感じたいという思いは女性ならずともある筈。

勿論愛する子供への愛があるのは大前提である。

だがいきなり”妻”から”母”となるのである。

不安が無い筈が無い。

回りは殆どが先輩ママさんであり殆どが経験者である。

だがその殆どは出産後余りに時が経ちすぎていて出産時期に自分も感じたであろう不安や欲求不満を忘れている。

だから”大丈夫よ、直ぐよくなるわ。だって貴女はママなんだから”と”ママ”である事を強制する。

(この場合の強制とは新米ママの立場に立った場合の心情を表している)

新米ママも一生懸命”ママ”であろうとするのだが頑張れば頑張るほどに心が”空回り”し余計寂寥感や不安感、孤独感は増大する

其処に”女”である部分の不満が重なるとある種の”存在否定”が自分の心の中で始まるのだ。

”女”である所の自分の存在を否定されるという事は自分自身に対する存在否定と同じと段々考えるようになる。

勿論誰も彼女を”女”として否定している訳ではないのだが余りに”母”である事を求めすぎると人間はそういう風に捉えてしまう場合もあるという事だ。

我が門を叩いた女性は言った。

”私は母である前に女なんです。勿論甘えである事は解ってる。けどそれでも私は女なんです…”と。

私は言います。

”甘えなんかじゃない、ワガママなんかじゃないそれが真実でありその考え方に間違いは有りません”と…。

私はその後奥さんとは別の日にご主人とお母さんを呼びその事を話します。

大抵彼ら・彼女らは”高がそんな事で…”と一笑に附します。

其処で私は敢えてオーバーリアクションで怒りを露にします。

” 高が?冗談じゃない!どれだけ奥様が苦しめられたか?どれだけ悩まれたか?貴方方には解らないんですか!奥さんは此処から飛び降りようと成された。それを 私は懸命に止めました(勿論飛び降りは嘘)。それほど奥さんは追い詰められておられた。これが笑い事で済みますか?貴方方がやっている事は人を一人殺める 事に等しい行為なのですよ”と激しく詰問します。

相手は私の余りの剣幕に驚き其処で初めて事態の深刻さを悟ります。

そして家に帰り義母は人生の先輩として夫は妻の配偶者として”愛”を一杯に奥さんに注ぎます。

勿論旦那さんによる”身体への愛”も忘れずに…。

そして彼女は自らが”女”である事を再確認、と同時に”母”として”妻”としてそして”娘”としての役割も又思い出します。

妊産婦をお持ちのご主人、お義母さんへ御願いです。

奥さんをどうか無理矢理”母”という枠に嵌めて上げないで下さい。

それでもない奥さんは出産という大事業を成し遂げ心身ともに疲弊しているのです。

どうか”愛”を”安らぎ”を与えてあげて下さい。

もう二度と不幸な事故を生まない為にも…。