車で5分掛かる道のりを歩きで10分で行って又10分で戻るという事をしました(笑)
途中結構急傾斜の坂があるのですがそれも下の方からダッシュで駆け上りました(笑)
前回其処へ行った時には”まだか?まだか?”と思っていたのですが昨日は直ぐでしたw
やはり一度道を覚えてしまうと”長い”と思う感覚が少し変わるようですね。
(まぁ心理学的にもそういう効果がある事は存じてましたが^^;)。
行きは汗だくだくでしたが帰りは下り坂という事もあり汗が引いていきます。
丁度帰りは夕方で気温も大分落ち秋風が火照った身体を鎮めてくれます。
季節は確実に初秋から中秋へそして晩秋へとその色を変えています。
季節の移ろいを肌で目で心で感じられる事はとても有り難い事だと思います。
しかしその季節の移ろいを肌で目で心で感じられない人が沢山居ます。
心に病を抱えた人はそれらを感じる事が困難な人々であり笑顔を中々作れない人々です。
そういった方々の笑顔を見たい為にこの仕事をずっと続けている、私はそう言っています。
この仕事は共同作業であり私と同胞が共に一つの目的に向かい心を一つにして目的達成へ
向け邁進していかねばなりません。同胞が先行しても私が先行しすぎても失敗します。
歩調を合わせちょっとだけ私が前へ出て誘導しつつ自立して歩けるよう導いていく。
それが私の仕事だと思っています。
しかし…最近の同胞は季節柄もあるかと思いますが”人の話を聞いてない”^^;
まぁ日頃のお仕事のストレスがあるのは解りますよ、この不景気ですもの大変ですよ。
おまけに家に帰っても其処に安らぎが無いという事になればそりゃあ愚痴りたくもなります。
この仕事は”愚痴を聞く”のも仕事の内です。
全ての”心の膿”を出し切って”心を浄化”して”正常な状態に近づけていく”のが仕事です。
そりゃあ色々な愚痴が有りますよ、身近な所から物凄くグローバルな物まで(笑)
相槌を打ち時に助言を求められる時は的を射た助言を与えねばならずそりゃあ至難の業です(爆)
ですが”愚痴を聞く事だけ”が仕事ではありません。
”愚痴を聞きつつ助言をし、それを実行に移させる”事が本来的な私のお仕事です。
勿論私も専門家ですからそれを上手く誘導させる術は心得ています。
ですが中には”自分の感情を吐露する事に収支し人の話は右から左”の人も居ます。
と言うか最近の人はそういう人がとても多いです^^;。
又これも私自身に多少の責任は有るかと思いますが”思考を人に委ねる”人が多いです。
自らがその答を導き出そうとせずその答を私に求める人が多い。
ですが流石にこればかりはお教えする事は出来ません。
それを自発的に気付かせる事それが私の仕事の最も主だった物だからです。
それすら口頭で伝えてしまってはその方の”思考する癖”を付けさせれなくなります。
常、”思考し自らの悩みを自らで解決できるスキルを身に付けさせる”事こそが大事。
故に其処は心を鬼にして又私自身の創意工夫の中でそれに気付いて貰えるよう頑張ります
私自身がそうであるように私は同胞にも”本気”を求めます。
”本気で治そう””本気で変わろう”とする意思を求めます。
幾ら此方が頑張っても”一向に本気を見せない人”は容赦なく切り捨てます。
何故か?そうする事で相手は思いきり焦ります、何とか私を留めさせようとします。
その結果”本気”を見せてくれます、それが私の狙いでも有ります^^;
ですがそれをやってもまだ”本気”を見せない人はマジで切り捨て二度と診る事はしません。
又、”治った気で居る人”が偶に居るのも頭を悩ませるところです。
最近は随分減りましたが昔は結構こういう人が居て困りました。
まだ加療の段階で既に”完治”した気になり以降我が元へ来なくなった人が居ます。
”私は治りました、心が軽くなり前向きになりました、もう大丈夫です、有難う御座いました”
と私の制止も聞かずさっさと我が門を去る人が居ます。
しかしそういう人は大抵程無くして我が門を再度潜る事になります(ほぼ間違いなく)。
ですがその時も私は”切捨て”ます。自らの意思で我が門を去った者に温情は掛けません。
この仕事は慈善事業でも何でもなく”真剣勝負”でやっているのです、お遊びじゃない。
命を削ってやって居る事を軽視し忠告を無視して去る者に温情を掛ける程お人よしには
私はなれません。
解るんですよ、治ってきたら段々我が元へ来たくなくなる人の気持。
それは”自分はもう心疾患じゃない”と思いたいからなんです。
”心疾患”だった頃の辛い自分を思い出したくないその頃の自分に戻りたくないと思います。
でもわが門を潜っている間は嫌でもそれを思い出してしまう、最初に来た時の辛い自分をふと思い出す時がある。そこから逃げたくて其処を直視したくなくて我が門を去る人が居ます。
でもね、それは本来的に間違いなんです。
過去の自分も今の自分もそして未来の自分も全て”自分と言う存在の一部”なんですよ。
我が門を途中で去らず最後までやり遂げた人は一人の例外も無く言います。
”あの辛い経験があったからこそ今の私がある、そしてあの経験をしたからこそ先生に会えた。私はあの辛い経験をした事を今は有難いと思います、だって先生に会えたから…”と。
その時我々はこれも一人の例外もなく二人で号泣し抱締めあいます。
それは苦楽を共にしてきた”戦友”だからこそ共有し会える感情の交換なんです。
そしてそれこそが”真の卒業”であり以降それからは”同胞”としてではなく”友”として新たな交流が始まります。其処から私の仕事のパートナーとなってくれた人も沢山居ます。
加療中は本当に辛いです、苦しいです、先の見えない漠然とした不安を常抱えています。
ちょっと光が見えたらそれを頼りに制止も聞かずどんどんと進みたくなる気持ちも解ります。
でもその光はその人が本当に目指すべき場所じゃないんです。
その人が戴く光はもっと強くもっと明るくもっと暖かでもっと安らぎを得られる物なんです。
手近にある安易な光に惑わされないで欲しい、その人しか得る事のできない”光”を手にして欲しいと思いますしその”光”を得れるよう我々専門家は導いていかねばならないと常思っています。
ってな事を今度講義で話そうかなぁと思ってます(笑)(なげぇ前フリだな)。
ま、マジでこれは講義内容でもあり又私自身の貴重な体験談でありこれを見ている現在加療中の人、
それからこれから受けてみたいと思われる人の参考になればと思い挙げました。
今日は久しぶりに自宅にてデスクワーク。
と言っても講義内容を考えたり次の同胞の治療方針を考えたり御袋から頼まれた仕事をこなしたりと全然休む事は出来ないんですけどね^^;
でもこうして忙しくしている方が自分の性分には合っている気がします。
昨日も同胞の為に右へ左へ走り回る自分を見て”これが本来の自分だ”と思いました。
常誰かの為に頑張れる事はとても素敵な事ですしとても有り難い事だと思っています。
私しか頑張れないのならば私が頑張る、それが私の生きる道だと思います。
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