2010年10月25日月曜日

不可能可能の心理学~或いは可能性心理学~

私は”不可能”を可能にしてきた人間である。

我が地元では身体障害者は私以前は殆ど全て養護学校か聾学校へ進学していた。
よしんば普通学校へ入学出来たとしても”特殊学級”へ入れられていた。

だが我が両親そして我が恩師青木優牧師と青木道代先生夫妻はその教育委員会の考えを快しとせず入学までの2年間、裁判所を巻き込んで大論争を繰り広げた。

教育委員会の委員長が部屋から出てくるまで座り込みをし、何度も足を運んだ。
遂には人権侵害罪で告訴するという段となり相手もやっと折れ入学を許可された。

考えてみれば至極おかしな話である。

日本国憲法にも”最低限の文化的生活”は基本的人権で認められている。
勿論”学ぶ権利”も平等に日本国憲法ではきちんと法的に定められている。

だが現実は様々な”理由付け”をして多くの身体障害者の方々が普通学級への入学を拒否られているのが現状だ。”学ぶ権利”を奪う資格は誰にも有る物ではない。

同様の差別は高校でも行われた。

私は県内随一の国立大(当時、今は独立行政法人化されている)Y大出身である。

同じく県内随一の進学校であるY高からY大そして県庁というのが田舎町の所謂エリートコースと呼ばれる物であり多くの者がY高そしてY大への進学を希望した。

私もY高出身者だが全日制ではなく定時制出身者である。
当時定時制から全日制のY大への入学は一人も居らず”不可能”とされていた。

私は小学校・中学校の半分以上を床ずれによる治療の為の入退院で取られ基礎学力が著しく抜け落ちており全日制のY高はとてもじゃないが偏差値的に無理だった。

しかし他の全日制の高校は全て”人材が無い・経験が無い・設備が無い”のナイナイ尽くしで入学を拒否られた。結局我々は泣く泣くY高の定時制に進まざるを得なかった

だが其処で多くの人達と出会い”働きながら学ぶ事の難しさや尊さ”を学んだ。
後に我が”人生の師”と仰ぐ浅野山口陸上自衛隊員との出会いもこの頃であった。

氏は自衛隊員でありながら学業もこなし生徒会長を歴任し多くの人望を集めた。
定時制切っての秀才だったがとてもはにかみやで照れ屋で豪快な御仁であった。

曲がった事が大嫌いな性格で随分在学中は氏の叱責を受けた物だ。
だが同時に氏の暖かさに触れ”人間とはかくあるべし”という事を学んだ。

私は氏から”自衛隊の魂”とも呼ぶべき”階級章”を卒業時頂戴している。
”これは俺の魂だ、お前に俺の魂を受け継いでもらいたい”そういって頂戴した。

今もその階級章は大事に保管されている。

又多くの仲間と過ごす四年間の中で”進学したい”という思いが沸々と湧いてきた。
だが当時の国語担任であるK先生は”Y大?お前馬鹿なんじゃないの?”と一瞥をくれ相手にもされなかった(私は推薦入試を御願いしたのだ)。

当時私は定時制ながらトップか2位の位置を常キープしていた為推薦枠が貰える物と思っていた。
だが定時制からY大全日制への入学が過去無い事を理由に蹴られた。

だが其処で諦める私ではない。

定時卒業後、塾や予備校、家庭教師を経て最終的には独学で6年間勉学に励み”馬鹿じゃないの”と揶揄されたY大全日制への合格を遂に成し遂げたのである。

Y大での6年間は私に実に多くの事を学ばせてくれた。
多くの友や多くの師と出会い人間として大きく成長させてもらった。

その後”不可能”と言われた新幹線の一人乗車や”不可能”と言われた飛行機の一人乗車も”可能”にし又”不可能”といわれた”自立”も成し遂げた。

今は市民大学で心理学を教えるまでになり当時私を馬鹿にしてきた奴らの鼻を見事あかしてやった(笑)

同時に私よりも身体的状態の悪い朋友も各方面で八面六臂の活躍をしている。

バイク事故で頚椎損傷となり首から下の神経が麻痺、マウスパッド1枚分しか手を動かせないO氏はその類稀なるCG技術で今は某大手グラフィック会社の専属グラフィック・デザイナーとして忙しい日々を送っている。

又、我が幼稚園時代の後輩に当るR君は脳性麻痺ながら類稀なる写真センスで個展を開いたり市役所で障害者自立支援のお仕事に就いている。

皆、”不可能”を”可能”にしてきた方々ばかりである。

我が同胞の中にも数多く”不可能”を”可能”にしてきた物が居る。
そういう方々を見るにつけ”不可能”は”可能”に出来るんだと強く思うようになった。

本当に”不可能”な事は勿論世の中にあふれている。
だが一見”不可能”と見えても実は”実現可能”な物も又眠っている事も事実である。

私はこれからも同胞らと共に”一見したら不可能に見える僅かな可能性”を追求しながら同胞と共に歩んで生きたいと考えている。

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