私が同胞が共通に言う台詞がある『先生はセラピストらしくない』(笑)
そして同時にこうも言ってくれる『けどセラピスト以上にセラピストらしい、そして熱いよね』と…。
私にとっては最高の賛辞であり我が勲章でもある。
私は戌年生まれ故部屋の中でじっとしているという事がどうも性に合わない。
白衣を着て椅子に座りカルテと睨めっこなんざ死んでも出来ないと思う。
同胞と接する時も同じ。
一所にじっとはしていない、喫茶店でお茶をしたり映画をみたり観劇をしながらセラピーを行う。
それぞれがそれぞれセラピーの役目を又果たしている。
喫茶店でお茶をする事は例えば引きこもりや対人恐怖症を持つ同胞の改善プログラムとなるし、
観劇や映画鑑賞はそれ自体が既にセラピープログラムとなる。
意外と日本では未だ実践例が少ないが海外のセラピストやカウンセラーは多くこの方法を取り入れている。
日本の場合個人情報の取り扱いやら何やらややこしい事があって中々実現は難しいのだと思う。
共に感激し共に涙し共に笑い共に憤る…その事が如何に大切な事か?これは実際に体験した者でしかそれは解らないと思う。そして何より同胞は”同じ時を共有してくれる存在”を強く欲している。
心疾患は孤独である。
目には見えない病故周囲からは”甘えている”だの”サボり”だの好き勝手言われる事が多い。
他人ならまだしも身内ですらその苦しみを理解されずしまいには”要らん子”扱いを受ける場合も…。
心は懸命に”叫び”を発しているのにその”叫び”は声となって表には出ず彼ら・彼女らの”心の叫び”は中空を彷徨い雲散霧消してしまう…私はその雲散霧消した”心の叫び”を一欠けら一欠けら集めて回り
本当の”叫び”として受け取りそして共に”叫び”ながら”完治”という頂まで上り詰めたいと願う。
過日此処でリスカの少女と共にリスカをした話をしたがそれ以外にも同じ苦しみを私は幾つも共有する。
過食の苦しみ拒食の苦しみ自傷の苦しみなどありとあらゆる痛み苦しみ悲しみ悔しさを共有する。
言葉で表現すると簡単なように思えるが実際にやってみたら如何に大変かが解る。
同胞は口々に言う”先生でしかこのやり方は出来ないよね、絶対他のお医者様とかは無理w”と…。
大変失礼ながら私もそう思う、此処まで同胞とシンクロし感情移入する精神科医やカウンセラーという物を私は近場では知らない。日本国中を探せば或いは居られるだろうが少なくとも私の視界の及ぶ範囲には居られない。
それが売りでもあるしそうでなければこの仕事は務まらないと思う。
私は感情表現がとても豊かな人間であり冷静沈着とか沈思黙考などできない人間である。
今までもこの”色”でやってきたしこれからもこの”色”だけは失いたくはない。
例え臨終の最中でも”いくぜぇ!”と叫んでいたいと願う。
こんなセラピスト世界に一人位居てもいいんじゃないでしょうかね^^;。
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