2010年10月25日月曜日

肯定の心理学~或いは認識心理学~

私は同胞の話を最初全て肯定します。
どんなに可笑しいと思われる話でも『うんうん、そうですね。貴方は正しい』と肯定します。

そして大抵の場合、”先生、私の話おかしいですか?”と言われる話に整合性は必ず有ります。
その整合性を見つけられない人の頭が悪いだけで彼ら・彼女らの話は良く聞けば矛盾点など無いのです。

しかし同胞は今まで大抵何処へ行っても否定され拒否られおかしいと言われ続けた方々ばかりです。
故に”私は本当は可笑しい人間じゃないんだろうか?”と疑心暗鬼に捉われます。

でも実際、彼ら・彼女らをおかしくしたのは”周囲の無理解な人達”であり”彼ら・彼女ら自身”ではないのです。いわば彼ら・彼女らはそんな周囲の無理解な人達の”犠牲者”な訳です。

彼ら・彼女ら自身は何も悪くない(よしんば何処か落ち度があったとしても責められる程度の物ではない)訳です。それを世の中の訳の解らない一般常識だの規則だの校則だのに縛り付けてそれに反する物を全て”おかしい”として排除してきた訳です。

排除する側はそれでいいかもしれません、枠からはみ出る物を全て排除してしまえば規格内の人間を量産できるのですから。そりゃあ楽ですよ。

でもね、不定形の野菜や果物に味が有るようにそういう一寸規格から外れた人間の方が人間味もあり才能だってあるんですよ。

ベートーベンだってエジソンだってみんなそうでした。

史上最大のうつけ者といわれた時代の風雲児は本能寺の変が無ければ恐らく一番最初に日本を統一していたでしょう。彼らこそ”時代を作る時代の創設者”達なのです。

常に先駆者と呼ばれる人達というのは人とは違った感性や考え方を持つ者です。

手前味噌なれど私もそうでした。

”ハンディキャッパーのパイオニア”と恩師に小さい頃から言われ続けた私は常、旗手としての役割を果たさなければならなかった。無理解と無協力と蔑みと嘲りの中でそれを貫く事は容易な事では有りませんでした。

壮絶な虐めと暴力の中”人間とは何ぞや”という事を常、考え”人間の尊厳と本質”について何時も考えていた。それが今の私を形成ずけたといっても過言ではない。

日々否定され続け、存在を拒否られ続ける中で自らの”存在意義”を常考える日々でした。

今の私の存在意義、それは偏に”私を必要とする多くの同胞や仲間達”であります。
彼ら・彼女らが居てくれる事それが私がこの世に存在している意義であり意味であります。

これからもそんな多くの同胞や仲間と共に一緒に歩んでいければと思って居ます。

最後に私大好きな郷土の誇る大詩人、中原中也の詩を引用させて戴きます。
今の私の気持を一番代弁している詩なので…。

「妹よ」   

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、

――かの女こそ正当(あたりき)なのに――

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、

  もう死んだっていいよう……といふのであつた。

湿つた野原の黒い土、短い草の上を

  夜風は吹いて、

死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、

うつくしい魂は涕くのであった。

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに

  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた…

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