2010年10月25日月曜日

動物行動学と人間行動心理学~或いは犬語猫語の心理学~

先日、駅を降りて歩道を渡っている際、偶然猫と出くわした。

どうも反対側の歩道へ渡りたいらしく道路を疾走する車を凝視し車が止まるのと同時に反対側の歩道へ掛けていった。

その動きたるや人間の童が道路を手を上げてかけっていくのと同じ光景であった。
人間も動物も行動に然したる違いは無いのだなと大変微笑ましく思った。

最近はバウリンガルだのニャウリンガルだの動物の翻訳機や犬の気持ち猫の気持などのハウツー本が飛ぶように売れていると言う、一人の心理学者として全く嘆かわしい限り…。

そういう機械や本に頼らなければ動物の気持が解らない程人間の機能は低下してしまったのかと思うと涙が出てくる思いである。

昨今、目を覆いたくなるような悲惨な事件が新聞各紙を賑せている。
特に心を痛めるのは親による幼児の虐待及び虐待死である。

血を分けた言わば”分身”を自ら痛めつけ遂には死に至らしめる…。
それはあたかも自分自身を葬り去ろうとしているかのように私の目には映る。

自分と言う存在を消したいが自分は死にたくない、故に分身たる子を身代わりに…。
何とも身勝手極まりない蛮行、断じて許しがたい、極刑にしても飽き足らぬ愚行だ。

人間も動物も生物という括りで括れば皆同じである。

人間だって生まれたては物言わぬ存在である。
しかし昔の親は子の泣き声だけで御腹が空いたのかトイレがしたいのかはたまた遊んで欲しいのか瞬時にそれを見抜く術を持っていた。

素人目には同じ泣き声に聞こえるのだが親御さんはちゃんとその声の微妙な違いを感じ取り子が何を欲しているかを察知していた。何ともはや敬服の至りである。

戦時中の物の無い時代親は自分が食べずとも子供にだけはご飯を食べさせていた。
今は親が子供のご飯を奪って子供にひもじい思いをさせている時代である。

時代が違うといえばそれまでだが時代が幾ら変わろうと人間としての本質まで変わる筈もない。
生き馬の目を抜く時代とは言え何も親子がそうならずとも良いではないか。

過日、親子の雀の集団を見た。

親は何度も何度も振り返り子がちゃんとついてきているか確かめ確かめ進んでいた。
それが本来親の有るべき姿であると落涙の思いであった。

人間も動物も皆同じ”生物”である。

人間は今一度原点に立ち返らねばならぬと親子鳥を見て痛感した次第である。

0 件のコメント:

コメントを投稿