2010年12月10日金曜日

人の死を商売にするという事~或いは私的死生観~

作家の井上ひさし氏が亡くなられた。

同時に地元の本屋の店頭に氏の作品が並べられ『井上ひさしフェア』が開催された。
店頭ではチャラ男が彼女に『井上ひさしってさ~』等とTVや雑誌などで書かれているような知識をひけらかし馬鹿な女は『へぇ、すご~い』などと会話をしている場面などを見るとかる~い殺意を覚えたりもする。

私は井上ひさしファンでもなければ氏の作品を語れるほど氏の作品を読んで居る訳ではない。
せいぜい氏の戯曲を何作か読ませて頂いた程度であり氏の答弁をTVで数度見た位である。

いかにも作家然とした氏の生き方を賞賛する人も居れば揶揄する人も居る。
私はどちらかと言うと後者の方で余り氏の生き様を真似てみようとは思わない。

作家という存在はとても孤独な作業の繰り返しであり自己が強くないと出来ない仕事であると思っている。

故・星 新一氏がショート・ショート1篇を編むだけでも何週間も部屋に篭もり眠れぬ日々を送った事が有るとエッセイで書かれていて氏の作品を誰も真似出来ない真の理由を其処に見た気がした。

或る作家が星作品のあとがきを書かれておられたがその作家も一見すると星文学は平易な文章で枚数も少なく誰にでも書けるような錯覚を起こさせるが実際に執筆してみるとあの短い枚数の中で起承転結を付け且つしっかりとブラックなオチまで用意するという事が如何に大変で難しいことかが解ると申されていた。

嘗て私も小説家を志していた時期が有り星文学を真似た事もある。
今から思えば若気の至りといおうか随分無謀な挑戦をした物だと失笑の極である。

閑話休題

日本人は兎角有名人が亡くなると直ぐ商品化しもうけ主義に走ろうとする。

亡父が亡くなった時も誰も何も連絡を入れていないにも関わらず数社から葬儀の依頼の電話を頂戴した事が有った。

私は思わず”人の死を悼まず商売の道具として扱うな!”と一喝し電話を切った。
親族が悲しみに打ちひしがれている時に無遠慮に商売の話をする等言語道断である

私はそういう商売をする人間を軽蔑しそういう商売を出来る人間を悲しい人だと思う。
確かに彼らもそれで飯を食っている人間でありそうしなければいけない事情もあろう。

だが、もし自分の身内が亡くなって同じような事をされた時彼らは冷静に無感情に応対が出来るであろうか?生憎私にはそのような事は出来そうもない。

私の仕事も案外死と隣り合わせの商売である。

自殺願望を持つ同胞の自殺を食い止められず死なせてしまった事もある。
その時私は自らの無力さを嘆き彼の死をとても重く受け止め慙愧の念に耐えない。

私が亡くなった時周囲がどういう反応を示すのか?それは私には解らない。
だが願わくば遺された者達の意を汲んで戴き静かに死を悼んで欲しいと願う。

それが『和の国』に生まれた人間の務めではないかと私は考える。

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