常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2013年1月24日木曜日
セラピストの苦悩と葛藤の記録。
『継続は力なりと立つ鳥跡を濁さず』
諺の授業ではありません(笑)
私のセラピストととしての基本理念を示しています。
御心を病まれた或いは長年間違った自分で生きてきて違和感を感じている人をその人本来のパーソナリティに変えようと思えば並大抵の努力では出来ません。
セラピストも同胞も共に努力と忍耐と多少の傷を負う覚悟無く出来る物ではありません。
導き手は我々ですがそれを実際に行うのは同胞自身。
故に我々セラピストは如何に同胞にやる気を維持させるかが一つの肝です。
それ故に手を替え品を替えて飽きさせず色々と試行錯誤を繰り返しながら手探り状態がずっと続きます。
その先にある物を掴む為にどう方向付けたら良いか?
それはもうケースバイケースでセオリーなんかはありません。
セラピストの瞬間判断力が試される一瞬でもあります。
これを見誤ると大きな痛手を双方が負い更に怪我を負った同胞の信用を失います。
同胞は門を潜った段階で既に全てをセラピストに預けています。
勿論我々は引率者であり伴走者であるので事を成すのは同胞本人です。
されどそれを行うのは同胞本人ですがそれまで同胞が背負ってきた荷物を降ろすのは我々の役目です。
されど一度降ろしたと思い込んでいた荷物が実はまだ残っていたという事になると一気にその信用は地に落ちます。
そうなってしまっては中々浮上できません。
それ故に我々はとても言葉を選んで発言します。
たった一言で全信用を失う事等この世界では日常茶飯事です。
何年も掛けて信頼関係を築いてもたった一言の不如意な言葉で全てが崩れ去ります。
それ故にセラピーの期間中は毎日が緊張の連続、気の抜ける時は少しもありません。
この仕事は肉体労働ではないと思われますが移動型の場合結構体力勝負の所があります。
更に経費節減の為にセミナーも大抵少人数で行う為にそれらのセッティングも自分一人で
行う時があり結構な肉体労働です。
これに加えて先の精神疲労が加わるのですから罹るストレスは相当の物です。
その結果セラピー中止なんて事になったらその脱力感、敗北感は半端有りません。
金銭的問題よりもプロとして完遂出来なかった無力感敗北感は相当な物になります。
されどそれを経験しながら次こそは絶対に失敗しないぞと心に誓い更に策を練ります。
それを繰り返してきての二十年でした。
もう一つ大事なこと、それは深追いをしないということ。
先に述べた通り信頼を失いセラピー中止を言い渡されるのは一瞬の出来事です。
何が起こったのか頭の中で整理が出来ぬまま同胞は私の元を去ります。
その際、必死になって引き留めれば引き留める程に信頼は地に落ちます。
大帝の場合近隣者からの邪魔が入るか、自分の中で勝手に結論を出してしまうかの二つに大別されます。
特にこれが夫婦だの恋人だのとなると余計話は厄介となりそれぞれの配偶者が要らぬちょっかいをだしてきて御破算となるケースがあります。
本当はその要らぬちょっかいを出してくる張本人こそ諸悪の根源なのですが^^;
もう一つは問題が発生しそれを処理しきれず我が門を叩くのですがその途中で図らずもその解決の糸口を見つけてしまいセラピー自体の必要性がその人の中で無くなるケース。
これ自体は一見すると何の問題もないようにみえますが然に非ず。
飽くまでもある問題に対しての対処法を見出せただけでその汎用性は極めて狭い物です。
我々が目指す物はそんな狭い範囲ではなくもっと広範囲の物を目指しています。
故に目の前の問題が解決したからもう用済みという訳には行かないのです。
何れ又袋小路に必ず陥ります、それは経験上既に得ています。
それが見えるが故に留まる事を勧めるのですが大抵の場合それは固辞されます。
そういう時も自らの無力感脱力感に苛まれますが黙って同胞の後ろ姿を見送ります。
幾ら説得を試みてもそういう場合は無駄なのです、それは経験上熟知しています。
人間というものは中々目の前の事には目が届いても先の問題には目が行かない物です。
我々はそれが職業柄見えるのですが同胞にはそこまでは見えない。
よしんばそれを感じていたとしても取り敢えず今は不要という方が心を支配する。
されどその油断こそが一番の大敵である事を何れ知る事となる。
その時になっては既に事遅し、我々も常動ける状態にある訳ではありません。
故に動ける時に動いておきたいがために説得をするのですが御理解を得る事は難しい。
そんな時は断腸の思いなれど黙ってその場を去るのみ、セラピストとして最も辛い瞬間。
先が見えるというのは必ずしも良い事ばかりとは限りません。
こういう時先が見える自分を恨めしく思う時も有ります。
セラピストと言えど血の通う人間です、辛さも歯痒さもあります。
生身の人間であることはどうかご理解を頂きたいです。
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