2013年1月15日火曜日

『常態行動心理学的体罰不要不要論』

『体罰不要論』ではない、『体罰不要論』の『不要論』である(つまり必要論)。 私は嘗て『体罰』で命を救われた者の一人である。 当時私は虐めの渦中にあり毎日虐められ続けて居た。 小学校低学年から始まった虐めは年を追う毎にその激しさを増し遂に私はその陰惨な虐めに耐えかね自らの命を絶とうとした。 今から思えば究極の親不孝だが幼い私にとってはそれ以外の方法は見つからなかった。 幸い首を釣ろうと用意した木箱が腐敗していた為に足を踏み外し失敗。 その時私は神から死ぬ事も許されないのだと悟り生きる事を決意した。 それからの私は体では対抗出来なかったが口で対抗し続けた。 それでも高校を出るまで陰惨な虐めは続きました。 その中でも中学時代の虐めは群を抜いており私は愚か母に迄被害が出るほどでした。 それを止めてくれたのが登場中3の担任だった数学担当のN先生でした。 市内でも有名な”虎キチ”で阪神が勝てばたこ焼きを生徒全員に奢り負ければ数学の小テストという今の教育現場には到底居ないであろう破天荒な先生でした。 されどそれも今から思えば先生の策略であり上手い事”飴と鞭”を使い分けられ我々は見事その”飴と鞭”に翻弄されたと言っても過言ではないでしょう。 或る時母がその先生に自らの息子、即ち私への生徒からの虐めを涙ながらに訴えました。 黙ってその話を聞いて下さったN先生、されどその目は怒りに燃えておられました。 翌朝HR時間N先生より私は教室から退出を命じられ廊下で待たされました。 中で何が行われているかは外へ漏れ聞こえる音ではっきりとわかりました。 机が倒れ頬を打つ音と人が倒れる音がはっきりと聞こえました。 私がその後教室に戻ると完全に教室内の空気は固まっていました。 その後も”虐め”自体は暴力から”完全無視”にシフトし続きましたが私に”暴力”を奮って居た男子生徒の”暴力”からは逃れる事が出来ました。 私は間違いなくN先生の”体罰”が無ければ今頃この世には居なかっただろうと確信をしています。 今こうして指導者として”いじめ撲滅”に寄与出来るのは間違いなく”N先生”のお陰です。 卒業後もN先生は近所の子供の家庭訪問の際には必ず立ち寄り励まして下さいました。 勿論依怙贔屓等一切無く私自身も随分と叩かれ”御指導”を賜った物の一人でした。 それもやはり先生の他の生徒からの差別をなくす御配慮であったと感謝しています。 現代の”体罰”において重要な事は”体罰”自体ではなく”体罰をする教師の人としての質の低下”にその問題が有ると思います。 此処で話は少し横道にそれますがDVが繰り返されるのはその自らが幼少の頃に受けた”理不尽な扱い”を”心で容認”した者のみでありそれを”心で否定”し続けた者はDVは繰り返しません。 ”体罰問題”もこれに同じです。 ”未成熟な”教師による”感情に任せた体罰”を”受け入れた”者は下の者にも体罰をします。 されど”感情に任せた体罰”を”拒否し続けた”者は下の者には体罰はしません。 又、”体罰”の質自体にも問題があります。 本当に”叩かれる者の痛み”が解る”体罰”には生徒は反抗せず反省を示します。 されど自らの感情の赴くままに”叩かれる者の痛みの解らない”体罰には生徒は激しく抵抗しその矛先は弱き者へと向きます。 ”未成熟な人間の感情に任せた暴力”こそが問題なのであり”体罰”自体が問題なのでは有りません。 問題は”教育者育成機関”にもその責任が有ります。 今の”教育者育成機関”は”成績重視”で”人間性”は軽視されています。 ”人材育成”において大事なのは”スキル”ではなくそれを行う人間の”人間性”です。 画一化された社会で機械のように無感情に成績向上マシーンを量産していたのでは体罰が正当評価される事は一生ないでしょう。 我々は”体罰”を受けて成長しそして今があります。 もし”体罰”を受けてこなければこういう大人にはならなかったでしょう。 ”身体に染み付いた心の痛み”は一生涯忘れる事は有りません。 そしてそれ故にそれを”繰り返す”事もありません。 ”体罰”は絶対に必要です、されどもっと大事なのはそれを行う者の”成熟さ”です。 文科省はその辺りを今一度沈思黙考され熟慮されるべきだと思います。

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