歴史学は歴史学者だけの専売特許ではない。
歴史の中で生きてきた”人々の心”は心理学の分野である。
地理学も同じ。
その土地に生きてきた人々の”思い”がその土地の形成に大きく関 わっている。
つまり全ての学問は須らく”心理学的要素”が介在しているという 事である。
広義的に言えば他の学問とマルチリンクしており学者の専門領域で はないという事だ。
専門でない者は須らく素人であるとは限らない。
専門で無い者でも専門家の目からは見えない部分をよく見ている場 合もある。
『弘法も筆の誤り』
専門に溺れ専門に胡座をかいていれば素人に足元を掬われる事もあ るのだ。
その意味で私は多くの方々の意見を聞く事を常としている。
先日も或る駅員とこんな話で盛り上がった。
駅員『先生は超賢いッスけど俺は超馬鹿ッスね』
私『君は超馬鹿ではないよ』
駅員『厭味っすか?俺先生見たいに学歴もないし知識も全然無いっ すよ』
私『知識や学歴はそれを活かしてこそ意味がある。どれだけ高い学 位を持っていてもどれだけ広範な知識を持っていてもそれを活かし 社会で役立てねば何の意味も価値もない』
駅員『そうっすねぇ、言われてみれば確かにそうっすねぇ』
私『確かに私と比べて心理学的知識や経験は君は少ないかもしれな い。されど君は駅の事、野球の事、その他多くの事を私よりも遥か に知っている。人には誰も得意分野がある。君は君の得意分野があ り、私は私の得意分野がある。心理学的分野に関しては私は君より も年長で経験も知識もある分先生と呼ばれるかもしれない。されど 駅の事や野球の事等は寧ろ私よりも君の方が先生と呼ばれるに相応 しい。つまりはそういう事さ』
駅員『やっぱ先生、超頭いいっすねぇ』
私『(^^;;』
彼から私は専門の何たるかを学ぶ事ができた。
専門家として胡座をかいていたつもりはないが彼との会話の中で改 めて心理学という分野をもっともっと深めたいという気持ちになれ た。
素人と馬鹿にする無かれ、素人なればこそ専門家とは違った視野や 見解を持っている。
その視点や見解は専門家である我々には到底及びもつかず想像も出 来ない物である。
小さい子供から発想のヒントを頂戴した事も一度や二度ではない。
彼ら彼女らのように色眼鏡を持たぬ者の方が遥かに専門家より斬新 な発想を持っている。
その意味において私は常、謙虚さは持っていたいと思う。
専門家としてのプライドも意地も持ちつつ柔軟性だけは失いたくな い。
多くの方々から学びを常、頂戴しながら日々成長をして行きたいと 思っている。
そう思っている限りまだまだ専門家として成長が叶うと信じている から。
それが専門家である所以ではないかと私は考えている。
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