2013年5月29日水曜日

『労いの心理学〜或いはお疲れ様の心理学〜』


我が亡父は子供の教育にとても熱心な人で言葉ではなく態度で示す人であった。

今でもテーブルマナーは何処へ行っても恥ずかしくないマナーをできている。

これも亡父より厳しく幼少期より躾けられたお陰である。

多くの同胞と会食を共にする身となり又、セミナー等でも多くの来場者の方々とお食事を共にさせて戴く事もありその際にとても役立っている。

”礼には礼を以て接すべし”というのもそんな亡父が残した”知の財産”の一つである。

何処へ行っても誰に会っても必ず”お疲れ様”と声を掛け、年長者には”お疲れ様でございます”と一礼し帽子を脱ぐこれも又、亡父より教わった事である。

随分前となるが駅の売店の販売員さんよりこんな言葉を頂戴した事がある。

”先生、先生の駅での評判ご存知ですか?先生はとても立派な方なのにとても礼儀正しくて頭の低い人徳者だって評判なんですよ”と

私は顔から火が出て慌ててその場を退散その日一日赤面していたという(笑)

私にとっては幼少期より染み付いた言わば習慣化された行為であり無意識行動の一つ。

私流に言えば”常態行動”の一つである、故にそういう好評家を頂戴しても心の置き場所に困るw人から蔑まれるのは慣れているが褒められるのは何年経っても慣れないものw

だが”人を労う”と言うのは、これで中々体力と気力を必要とする物である。

既に数年前となるが生存率二割と言われたガス壊疽に罹患し二週間ICUで命の危険に晒されその後三ヶ月に渡る長い入院生活を余儀無くさせられる事と成った。

入院数ヶ月前はずっと寝たきりで高熱が続き体力がギリギリ迄落ちやせ衰えていた。

食も喉を通らず水ばかり欲しがり体重も今の半分以下に落ちていた

流石にその頃は人から声を掛けられても挨拶を返す気力は私には残されていなかった。

挨拶をした相手も私の容体を見てしまったという顔をされる方も数名居られる程だった。

高が挨拶、されど又、挨拶である。

毎日たった一言、”お疲れ様”と言うこの一言を言うのにはそれなりの体力と気力が要る。

勿論私も人間なので会う人全てに挨拶をする訳ではない。

嘗て私を陥れた人間、陰で悪口をいう人間、侮蔑の表情をくれる人間には挨拶はしない。

それは私の中で彼ら彼女らに挨拶をする行為が自らが下位に置かれている気がするから。

私も結構器の小さい普通の人間なのである。

実は大変面白いのだがこの”挨拶をするしない、相手の労を労う労わない”は夫婦、親子、兄弟間でも存在する。

つまり”此方から先に挨拶や労いの言葉を掛けたら負け”とする考えの人もいるのだ。

到底私には理解が及ばぬ話だが色々と話を聞いているとどうもそういう傾向が見える。

特に実家が男尊女卑で男社会で育った御主人で亭主関白な人はそういう傾向が強い。

女系家族で女性上位で育ったかかあ天下で育った妻も同じくそういう傾向がある。

家庭は戦場ではない、家庭は唯一心置きなく安らげる場である筈である、本来は。

されど何故か知らぬが”妻には負けたくない、夫には負けたくない”とする人が居る。

そして年々そういう家族が増えているように我が目には思う。

一つには格差社会で女性の収入が男性の収入を上回って来た事も一つである。

一つには女性の社会進出により旦那よりも社会階層が高い妻が増えてきた事も一つ。

されど私は思う、それは本当に理由の一つなんだろうか?と。

私事で恐縮だが何処へ行っても私は”今の先生があるのは奥様のお陰です”と言われる。

私も”仰る通りでございます”と笑顔で答える(大抵その後姫君の反論があるのだがw)

私は実際多くの事で愛方には手間を取らせているし母にも手間を大きく掛けている。

その分私も出来る事は出来る以上にやるし何よりメンタル面でのカバーに関しては私以上に出来る物は居ないと自負をしている。

だが私は母や愛方にとても感謝をしているしだから労いの言葉を忘れない。

どんなに疲れていても”お疲れ様”の一言を欠かした事は一度もない。

それ故に10年以上経っても潤沢な人間関係を続けていられるのだと思う。

私は精神的充足感が其処には大きく関係していると思う。

職業柄精神的安定と充足感は常、感じていないとお仕事ができない人である。

精神的に余裕がない精神的に落ち着きがない心理職に診て貰いたいと思う同胞は居ない。

”武士は食わねど高楊枝”ではないけれど心では余裕がなくともそれを見せる事はできる。

それを見せる事が私は”男の意地であり誇り”だと思っている。

”俺は働いているんだ、一家の大黒柱なんだ”と威張り散らして何になるというのか?

そんなの態度に示さなくても家族も周囲も皆がちゃんと知っている

本当に一家の主だと示したいのなら威張るのではなく余裕で以て示して欲しい。

さすれば家族もそれを認め礼を尽くしてくれる筈である。

一家の主だから礼を尽くすのではなく礼を尽くすに足る人物だから礼を尽くすのである。

その辺りを変に誤解をしている御主人が多くそれが元で我が門を潜る家族が増えている。

もう少し一家の主としての意地と誇りを持って欲しいと切に願う物である。

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