2013年5月24日金曜日

『沈黙は金』の常態行動心理学的根拠


大学時代教授の地雷を踏んだ事がある(笑)

場所は学部塔、登場人物は私と外国人男性と学部長であった。

私は学部長が余りにも流暢な英語を使われる事にウットリし思わずこう申し上げた。

”英語お上手ですね”と、しかし学部長は苦笑いをしてその場を退席された。

その場に偶々居合わせが国語学の准教授に”馬鹿!学部長は英文課程の教授だ!wと叱責。

大恥をかいた事を今でもはっきりと覚えている(⌒-⌒; )

知らぬ事とは申せ英米文学の専門家に”英語お上手ですね”は流石にヤバかった。

『先達は何れの事にもあらまほしき事なり』とは徒然草の中の『仁和寺の法師』の末節。

本当にその通りだと私も思う。

私は言わずもがなだが心理学の専門家である、それは自他共に認知を得ている。

と同時にパソコンも30年以上扱っているしFBも日本上陸と粗同時期に加入している。

パソコンの事もFBの事も大体の事は熟知している。

随分前になるがその私に知人が地雷を踏んだw

FBの事で偶々”お前そんな事も知らないの?”と揶揄されたのだ
人には皆固有のやり方がありやり方が違う事を揶揄するのは賢明な行動とは言えぬ。

私はその場で一瞥をくれた後以降一切の口を閉ざす事で自らの過ちに気づかせた。

こういう人間には一々反論するよりも自らの愚行を沈黙で持って示すのが一番である。

知人はFBに入ってまだ日が浅いPC歴も私とは到底及びがつかない。

その人間が曲がりなりにも先達に向かって暴言を吐く事は賢明な行動ではない。

されどそれを怒りで以て訴えても”器の小さい奴”で終わり氏は反省を示さない。

氏に己の間違いに気づかせる為には普段多弁たる私が沈黙を守る事が一番である。

人に物を教えると言う事は何も言葉を掛ける事だけではない。
時には”沈黙”でもってそれを教えると言う方法もあるのだ。

先人は弟子に一切の言葉を掛けず自らの行動のみで指導をしていた

私は先人程達観しては居らぬが私も先人の教えを見習いたいと思う

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