2011年9月12日月曜日

心理学的エトセトラその3

その1
『信じて下さい』は信じられないのサイン。
本当に『信じられる話』ならば『信じて下さい』と相手にお願いはせぬ筈。

我が同胞や生徒方々は皆さんこう言われます。
『何故先生は信じて下さいといわないのですか?』と。

私はこう返します。
『何故信じて下さいといわねばならないのですか?その必要は有りません。
何故ならそれが”真実”だから。貴方が私の話を信じてくれようがくれまいが構わない。
私の中でそれが”真実”である事が私自身解っているから私は一切動じません』と。
生徒や同胞は感心しきりとなり、私の話を”真実”だと認めて下さいます。

『信じて下さい』は『信じて欲しい』と言い換えられそれは『信じて貰えないかも』という恐れが心の裏側で作用しているから出てくる言葉。

自分の中で『確固たる自信』と相手に対する『全幅の信頼』が有れば『信じて貰えないかも』と言う不安が湧き起こる筈も無い。

『これは真実です』と連呼する話程眉唾物は無い。

その2
私が数ヶ国語を操るのは何も外国人の同胞が居るからだけではない
日本人の同胞の為でも有る、どういう事か?理由は至極簡単である

幼少の頃、海外で育った帰国子女、長い間か以外留学をしていた学生さん、長期の海外勤務から帰国されたビジネスマン、彼ら・彼女らの中には逗留先の言語で話す方が楽な方も中には居られる。

その中には普段は日本語だが興奮すると中国語やドイツ語や英語が無意識に出る方も。
人間感極まると”地”が出る物で、その”地”が外国語である日本人も案外多いのである。

そういう方とは私はその方が話す言語で話す、すると相手は心が落ち着き日本語に戻る。
後で日本語でどういう風に理解をされたか聞かれるのでこういう解釈だと答える。

拙い語学力では間違う場合も有るが大抵大筋は有って居るといわれる。
外国語が得意なのは何も日本人ばかりでは無いので有る^^;。

その3
【適材適所】とは能力の有る者を能力が発揮出来る場所に配置する事…だけではない。
【適材適所】とはその仕事の”責任”を負う事が出来る者をその部署に配置する事である。
当然”責任”を於く覚悟が有れば奮闘努力し下を導きその部署の能率も挙がる事となる。
能力偏重主義の現代日本はそれを間違えている。その好例が今回の大臣の辞任劇だ。

その4
『数の世界』では正解と不正解は数が合うか合わないかで決まる。
『心の世界』では正解と不正解は相手に得心して貰えるかどうかで決まる。
『心の世界』は数値では測れない、四則計算も出来ない世界である
機械の数値やグラフで計れ無い世界、それが『心の世界』である。
一方からは『正解』と見えるも他方からは『不正解』と見える、それが『心の世界』です。
つまり『正解』は各々の『心の中』にしか存在せず『目には見えない物』なのです。
我々心理職はその『目に見えない正解』を『言葉』というツールを使い『可視的』とする事。
それが心理職の仕事だと私は考えて居ます。

その5
『字が汚い人は相手に意思を伝える気持ちが弱い』は早計の極みである。
『字を書く』と言う行為に於いて大体の人は『綺麗に書く』事に注力されておられる筈。
されど『字を書く』本来の意味は相手に『此方の意図』を伝える事が本来的な目的の筈。
(習字等の文字の美しさを伝える物は除く)。
それは『綺麗な字を書く』事だけではなく『相手に解り易い内容の文字を書く』事も又大事。
余程の汚い字でない限り判別不可能な字と言う物は早々存在する物じゃない。
大体前後の文脈からこういう意味だろうという事は類推は可能である。
されど文字は綺麗なれど文脈が支離滅裂では結局『字を書く』意味が無くなる。
大切な事は『相手に自分の意を伝える事』正確には『伝えたい人に自分の意を伝える事』
それが適えば字の綺麗汚いは然したる問題にはならない。
まぁ結局は字が汚い私の単なる自己弁護なのですけど(爆)
されど自己弁護も論に整合性を持たせるとちゃんと正論となるから不思議です^^;。

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