2011年8月2日火曜日

心理学的エトセトラ


朝、目覚めが悪い人、シャンとしない人の多くは朝食をちゃんと採​っていない人です。
ちゃんと採っているとする人もドリンクや栄養補助食品を通勤途中​にと言う人が大半。
朝、椅子に座って朝食を採る事は脳を”起こす”為に必要な行為。
人間が猿から分派し今の文明を築けた一番の理由は”噛む事”を早​く覚えたから。
噛む行為は脳に刺激を与え刺激を受けた脳が体の各部位に”起きろ​”と指令を出す。
その事で体の各部位が目覚め、”睡眠モード”から”仕事モード”​へ切替えさせてくれる。
”噛む”事は脳に刺激を与えそれが脳の活性化に繋がり一日を円滑​にさせてくれる。
朝、ちゃんと”噛んで”ますか?^^v


『覚悟』無くして『変化』なし。『変化』なくして『進化』なし。
何かを変えようとするならばそれなりの覚悟が必要。
その覚悟を持つ事で進化が可能となる。
『覚悟』を恐れる者は『進化』を得れず。


強い拒絶は容認と同様の効果が有る。
好ましからざる人間関係ばかり構築されている人の殆どがこれ。
強い拒絶は心の奥底に常、それを置く習性が有りそれは潜在意識に​その状態を置く事を容認したのと同様の効果を齎す。
脳は融通が利かないのでそれを容認としそういう人間関係構築に走​る。
これでは本末転倒である、ではどうすればそういう無限ループから​脱却できるだろう?
本当にそれらを拒絶したいなら先ずその拒絶する心を開放する事か​ら始めよう。
それらを拒絶する事を一旦止めそれらを受け入れる方向で考える。
勿論実際に状況を許容するのではなく”心”で受け入れるだけでい​い。
すると”固執する心”がなくなり”拒絶”を”拒絶”として心が受​け取る土壌作りになる。
そうなれば”拒絶”された事を心が認識しそういう状況を無意識に​遠ざけてくれる。


『私に非は無い』とする人の殆どはその人に非がある。
何故なら『自分に非があるかも知れない』と気付いていないから。
本当に非の無い人は自らに非があるかも知れないと自らを振り返ら​れる人。
そういう人は自らに対するチェックリストが出来ているので非があ​っても少なくて済む。
本当に自らに非が無いのであるならば非が無いと言わしめる状態は​起こらない筈。
そういう状況を生んでいる時点でその人に何らかの落ち度が有るこ​とは明白である。
されど多くの人は其処に目は行かず相手の行動のみに注視し自己弁​護を図る。
それ故同じ様な状況に於かれてしまう事になるのである。


我が元へ以前不良グループに入っていたご子息の事で御両親が相談​に来られた。
一時期夫婦仲が悪い時に不良グループに誘われて入ったのだとか。
今は夫婦仲も戻り御子息もグループから抜けたらしいが確証は持て​ない。
自分達の愚行により子供を不幸にしては申し訳が無いと門を叩かれ​た。
私は今の御子息の人間関係に着目する様進言申し上げた。
我が提唱せし『場の心理学』によれば本人が変われば本人を中心と​した場が変わる。
場にそぐわない人間は去り適合する人間のみ残る。
もし御子息が不良グループと繋がっているならば同じ属性を持つ場​が出来ると。
幸いそれ以降御子息の人間関係は良好を保ち無事社会人となり御両​親も安堵した。


『男女の友情は成立するか否か?』恐らく人間が抱える永遠のテー​マの一つだと思う。
多くの方が『男女の友情は成立しない』と言われるが私は寧ろ逆だ​と考える。
何故なら『男と女だからこそ友達で居ようと意識し努力をするから​』である。
これが同性ならばそんな気遣い等無用。
されど相手が異性なら全く恋に落ちる危険性が無いとはいえないか​らである。
それ故同性よりも更に意識をして”友であろう”とする分”友情”​は存在すると考える。
良く”俺は男として見られていない”とか”私は女として見られて​いない”と言うが嘘です。
異性にとって異性はやはり異性、どんなにずっと長く居てもやはり​異性は異性です。
異性であるが故にその関係を崩すまいと意識し異性である事を頭か​ら退けようとする。
それ自体が既に”異性”である事を意識している証拠なのですよ。


地声が大きな人を除いて大声で相手を叱る人は自己顕示欲の強い人​である。
自らの社会的優位性を外に示したいと言う欲求が無意識的に働いて​いるから。
意識が外に向いている為叱り方に整合性がなく支離滅裂な感情論者​である。
本当に相手に理解を得る叱り方とはまず最初に相手を認めてあげる​事。
その上でその人が冒しミスの改善点を示して挙げる事。
最後に励ましの一つも掛けてあげればその人がミスを侵す事は二度​とないでしょう。


『大丈夫です』と言う人の殆どは『大丈夫』ではない。
本当に『大丈夫』な人は『大丈夫じゃない』事を知っている人。
されど『大丈夫じゃない』事を知らない人はそれを知らないから『​大丈夫』と言えるから。
本当に『大丈夫』な人は『大丈夫』とは言わない人です^^v。


『幸せです』と外へ向けて発信している人は実は幸せな人ではない​。
何故なら本当に『幸せ』な人はその時点で満たされていてそれを外​へ向けて発信する必要がないからである。自慢したいからとか人に見せ付けてやりたいからという向きもある​だろうが”外”に目が向いている人が本当に”幸せ”だと言えるだ​ろうか?
見せ付ける、自慢するという時点に於いてそれは”幸せ”という物​の充分条件を満たしては居ない。
本当の”幸せ”は自らの心の中にある物である。


自らを『おかしい』とする人の殆どは『正常』であり自らを『正常​』と言い張る人の多くは『異常』である。
自らを『おかしい』と言える人は言える”目”を持っておりそれを​『異常』とすると全ての人が『異常』となる。
されど自らを『正常』と訴える人は訴えねばならぬ理由がある為訴​えているからです。
本当に『正常』ならばそれを訴える必要などないのだから。


頭ごなしに『あなたはおかしい』と言う人が居るが実はおかしいの​は発言者自身。
何故なら本当に相手が『おかしい』とするならば先ずその相違点を​先に話す筈。
更にそれらの改善点も示せて当然、だが大抵の場合頭ごなしに全否​定が殆ど。
それは最初に全否定する事で相手の機先を制し自らの論を押し通す​為。
そのような脆弱な論で”おかしい”とされても納得できる筈もない​。
我が元にはそんな”おかしい”人から”おかしい”と言われた”正​常”な人が多く門を叩く。
勿論その殆どは”正常”な人なので”正常である理由”を理路整然​と話しそれを”おかしい”とする人にも伝えるよう支持を出す。
大​抵”おかしい”と揶揄した方はそれ以降二度と”おかしい”とは言​われなくなるようだw

その⑫
依存症で尤も怖いのはお酒でも薬物でも買い物でも無く実は”人依存”である。
それが”モノ”である以上その”モノ”がなくなれば必然的に”依存対 象”が無い為、依存度は徐々に現象していく。
私自身”モノ”依存の場合は、”私自身”に依存させる事で、”依存対象であるモノ”から離す方向で依存症を治 療している。
だがこれが”人”となると一寸厄介、しかもこれは生死には全く関係ない。
生存されておられようが死別されておられようが対象が”人”である限 りそれへの”依存”は消え去る事は無い。
この場合は”依存対象から離す”方向ではなく”依存者自身の自信を付ける”事で自ら依存対象から離れるよう指示を している。
まぁ言うは易し行うは難しではあるのですが^^;。

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