手前味噌で大変恐縮なれど我が稚拙なるブログ『或る心理学者の心理学ブログ』が去年の8月開設以来やっと1万アクセスを突破いたしましたバンザーイ \(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/ キャァ♪
当初は殆ど弄って居らずFBに入ってから一気に読者数が増え又、仕事関係者からも閲覧者が増えそれと共にこちらも奮起してブログを更新し続けた結果であり皆様方のご助力無しでは到底なし得なかった事。
本当に感謝の気持ちで一杯で御座います。
これからも何卒お引き立ての程宜しくお願い致します<(_ _)>
常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2011年5月25日水曜日
2011年5月22日日曜日
悲しいのはお前だけじゃない♪
何時もとは一寸毛色が今回は違いエッセイ風に書いてみたいと思います。
題名は某有名歌手の歌の一節です、されど今回の本論を尤も端的に現す言葉でも有ります。
”裏切るより裏切られる方が良い、傷つけるより傷つく方がいい”これも余りにも有名なある歌の一節です。
ですが我が理念は正にこれにあります。別に格好をつけている訳ではなく私は両方を体験しているからです。
裏切られる辛さ、裏切る後味の悪さ、傷つけられる悲しさ、傷つける心の痛みそれら全てを私は過去経験しています。
”誰でも一人きり辿る道が有り誰かの道を横切る度に傷つけていく、けれど必ずそれよりずっと自分が傷ついていく”これも有名シンガーソングライターとその妹のデュエットソングの一節です。
私は長く”弟子”を取りませんでした、今は我道の後継者の青井利行氏、そして高根弘明という弟子が一人居ます。
何故、長く弟子を取らなかったのか?それは過去の辛い経験があったからです。
丁度10年くらい前になりますか、弟子志願者が一人現れました。
とても熱心で情熱もあり、又、不遇な境遇にも負けないハングリーさを持っており氏なら我がスキルを全て教えられると確信をしておりました。
されど…当時の私はまだ”人を見る目”が足りなかった、彼の”見せ掛けの熱心さ”に気付けませんでした。
彼とはパソコン通信で知り合い、大阪在住で一度リアルにお会いもしておりとても好感の持てる人でした。
明るく快活で元気で勉強熱心で私は彼に当時私が持っていた全ての技術知識を伝授するつもりでした。
されど…まだ学びを半分一寸過ぎた頃彼の態度が急変、いきなりネットで私に対して痛烈な批判をしだしたのです。
勿論私を含む彼と私を知る誰もが目を疑い、彼の暴挙に最初戸惑いました、勿論私は彼に理由を問い詰めました。
されど彼は黙して何も語らず只管私に対する批判をし続けました、彼と私を知らぬ者の中には彼の”虚言”に耳を傾ける者も現れ始め段々とその輪は広がりを見せ始め遂に私はその場を去らねば成らぬ事に成りました。
後日談として彼の近くに居た人間から聞いた話ですが彼が私から学びを得ていく内段々と私の存在を恐怖に感じ又
私の存在が疎ましく思えたとの事。同じ道を行く者同士ですからいずれはどこか道でぶつかり合う事もあるでしょう。
その時、私の力が強大なれば自分が潰される、なれば今の内に叩き潰しておこうという事になったのだそうです。
誰が自らの可愛い弟子を潰すでしょうか?私は彼の浅はかさと自らの”観る目のなさ”に愕然としました。
それから私は”二度と弟子はとるまい、こんな悲しい思いまでして後継者を育てる必要は無い”と心に決めました。
あれから更に10年以上の歳月が経ち、今我が目の前に”我道の正当なる後継者”が現れました。
勿論あの時の悲しさや悔しさを忘れた訳ではありません、或いは又我が目の甘さに泣く事になるやもしれません。
されど今の私は彼と共にそして弟子と共に我道邁進していく所存です。
私と袂を別った氏はその後その道で大きな失敗をし二度と同業で飯は食えなくなったと風の便りに聞きました。
とても悲しむべき事とは思いましたがそれも又、彼が選択をした道、自ら冒し過ちは自らが正さねば成りません。
”裏切るより裏切られた方がいい、人を傷つけるより傷ついたほうがいい”これからも私は真っ直ぐに、只管真っ直ぐに我が道を歩んで参りたいと思っています。
それが”私”という存在価値であると信じて。
題名は某有名歌手の歌の一節です、されど今回の本論を尤も端的に現す言葉でも有ります。
”裏切るより裏切られる方が良い、傷つけるより傷つく方がいい”これも余りにも有名なある歌の一節です。
ですが我が理念は正にこれにあります。別に格好をつけている訳ではなく私は両方を体験しているからです。
裏切られる辛さ、裏切る後味の悪さ、傷つけられる悲しさ、傷つける心の痛みそれら全てを私は過去経験しています。
”誰でも一人きり辿る道が有り誰かの道を横切る度に傷つけていく、けれど必ずそれよりずっと自分が傷ついていく”これも有名シンガーソングライターとその妹のデュエットソングの一節です。
私は長く”弟子”を取りませんでした、今は我道の後継者の青井利行氏、そして高根弘明という弟子が一人居ます。
何故、長く弟子を取らなかったのか?それは過去の辛い経験があったからです。
丁度10年くらい前になりますか、弟子志願者が一人現れました。
とても熱心で情熱もあり、又、不遇な境遇にも負けないハングリーさを持っており氏なら我がスキルを全て教えられると確信をしておりました。
されど…当時の私はまだ”人を見る目”が足りなかった、彼の”見せ掛けの熱心さ”に気付けませんでした。
彼とはパソコン通信で知り合い、大阪在住で一度リアルにお会いもしておりとても好感の持てる人でした。
明るく快活で元気で勉強熱心で私は彼に当時私が持っていた全ての技術知識を伝授するつもりでした。
されど…まだ学びを半分一寸過ぎた頃彼の態度が急変、いきなりネットで私に対して痛烈な批判をしだしたのです。
勿論私を含む彼と私を知る誰もが目を疑い、彼の暴挙に最初戸惑いました、勿論私は彼に理由を問い詰めました。
されど彼は黙して何も語らず只管私に対する批判をし続けました、彼と私を知らぬ者の中には彼の”虚言”に耳を傾ける者も現れ始め段々とその輪は広がりを見せ始め遂に私はその場を去らねば成らぬ事に成りました。
後日談として彼の近くに居た人間から聞いた話ですが彼が私から学びを得ていく内段々と私の存在を恐怖に感じ又
私の存在が疎ましく思えたとの事。同じ道を行く者同士ですからいずれはどこか道でぶつかり合う事もあるでしょう。
その時、私の力が強大なれば自分が潰される、なれば今の内に叩き潰しておこうという事になったのだそうです。
誰が自らの可愛い弟子を潰すでしょうか?私は彼の浅はかさと自らの”観る目のなさ”に愕然としました。
それから私は”二度と弟子はとるまい、こんな悲しい思いまでして後継者を育てる必要は無い”と心に決めました。
あれから更に10年以上の歳月が経ち、今我が目の前に”我道の正当なる後継者”が現れました。
勿論あの時の悲しさや悔しさを忘れた訳ではありません、或いは又我が目の甘さに泣く事になるやもしれません。
されど今の私は彼と共にそして弟子と共に我道邁進していく所存です。
私と袂を別った氏はその後その道で大きな失敗をし二度と同業で飯は食えなくなったと風の便りに聞きました。
とても悲しむべき事とは思いましたがそれも又、彼が選択をした道、自ら冒し過ちは自らが正さねば成りません。
”裏切るより裏切られた方がいい、人を傷つけるより傷ついたほうがいい”これからも私は真っ直ぐに、只管真っ直ぐに我が道を歩んで参りたいと思っています。
それが”私”という存在価値であると信じて。
2011年5月18日水曜日
心理学の小ネタその3
鬱や不安神経症やパニック障害の方は『見えざる未来の不安』が元 で発症なさる方が多い。
一般人よりも不安に対して敏感且つ過剰反応なさるのでそのような 病に至る。
だが先の見えない不安を今抱えていない人は恐らく一人も居ない筈 。
私もその中の一人です。
故に自分ひとりではなく皆も同じ恐怖を抱きながらそれでも日々を 逞しく生きておられる事を説き更に不測の事態に対する身の処し方 である『多面的存在である自己』をお示しする事でそういう方々へ 対処をしています。
詳しくは今執筆中の『或る心理学者の心理学ファイル』第二巻で触 れます。
一般人よりも不安に対して敏感且つ過剰反応なさるのでそのような
だが先の見えない不安を今抱えていない人は恐らく一人も居ない筈
私もその中の一人です。
故に自分ひとりではなく皆も同じ恐怖を抱きながらそれでも日々を
詳しくは今執筆中の『或る心理学者の心理学ファイル』第二巻で触
2011年5月16日月曜日
心理学の小ネタその2
FaceBookでフォトアルに沢山『セルフポートレイト』を載せて居られる方が居 る。
一見すると『さぞやご自分に自信が御有りなのだろう』とか『自意 識過剰なんじゃないの?』と揶揄される向きもあろう。
そういう考えも否定はしないが私は元が天邪鬼なので違った見方を している。
それは『自分探し』の旅ではないかと。
沢山の自分を撮る事で自らの多面性を知り且つ相手が自分をどう見 ているか?を知る為の術としてフォトアルを活用されておられる方 もいるであろうと。
決して自信家でもなくナルシストでもなく本当は真反対な方ではな いかと。
案外そういう方も居られると思います。
心理学の小ネタ その1
この時期何枚着込んでも”寒い、風邪引いた?”という経験をされ た方も多い筈。
されどお布団に入った途端、寒さが消え”あれ?勘違い?”と言う 方も又多い筈。
実はこれ”密着度”に関係有り、人が体で感じる”温度”は実は枚 数よりも密着度。
洋服を何枚着込んでもお布団の密着度には到底勝てません、それが 故です。
それは”重さ”が関係しています、”洋服の比重”と”布団の比重 ”では布団が上。
結果その”比重分”だけ密着度は増えそれが体温を逃がさず体へ返 還するから。
例えば雪山で遭難し互いが肌で体を温めあう行為、あれも”密着度 ”が原因です。
意外と”寒さは枚数”と思い込んでいる人が多いですが実は”密着 度”なのですね。
されどお布団に入った途端、寒さが消え”あれ?勘違い?”と言う
実はこれ”密着度”に関係有り、人が体で感じる”温度”は実は枚
洋服を何枚着込んでもお布団の密着度には到底勝てません、それが
それは”重さ”が関係しています、”洋服の比重”と”布団の比重
結果その”比重分”だけ密着度は増えそれが体温を逃がさず体へ返
例えば雪山で遭難し互いが肌で体を温めあう行為、あれも”密着度
意外と”寒さは枚数”と思い込んでいる人が多いですが実は”密着
2011年5月15日日曜日
頭を下げない心理学~或いは職業鬱に掛からない為の改善策の心理学~
『必要以上に頭を下げるな』我が同胞へ私が説いている事。
我が同胞の多くは被雇用者及び接客業に従事している方が多い。
そういう方は”職業的”に頭を下げる事が多くそれが”脳に摺込まれて”いる。
だが、”必要以上に頭を下げる事”は心に”マイナスの土壌”を作る行為でそれらは”職業鬱”などを発症する原因に。
事実我が門を叩きし多くの方々はプライベートでも”無意識”に人に頭を下げている人が多い。
周 りからは”頭が低い人”という高評価を受けるかも知れぬがそれはご自身の心を無意識的に傷つける行為です。
又、一部の御馬鹿は頭を下げられる事により勘違 いを起こし次からの態度が急変し上から目線で物を言い出す者も居ます。
そこでちゃんとした反論が出来ればよいですが其処でできなければプライベートでも” 社会的地位関係”に悩まされなければならずそれが更に”職業欝”を助長させる事となります。
職業人と私人の区別はしっかりと付け必要の無い 時は毅然とした態度で頭を上に上げる事。
私はお世話になる方、師と仰げる方以外には相手が誰であれ決して不用意に頭は下げません(勿論身内がお世話になっ ている場合はその限りでは有りませんが)
我が地元は県庁マン御用達の町で皆、県庁マンには低頭となりますが私は彼らに決して頭は下げません。県庁マンであるというだけで頭を下げる事自体が間違い。(勿論個人的にお世話になった方には頭を下げますが^^;)
随分昔、行きつけの店内で慇懃無礼 な県庁マンが大声で携帯で話していた際私が激しく叱責をしたら店長が飛んできて我々は店から追い出されました。
社会的ルールを守らぬ者が大きな顔を出来る のがわが町です。(余談ですがそれから暫くしてその店は潰れました、私は何もしておりませんが(o ̄ー ̄o) ムフフ)
私は相手が誰であれ社会的規範を犯しし者はその罪を糾弾し白黒はっきりつけさせます。
故に地元では一部の県庁マンに頗る評判は悪く風当たりは強いですが何処吹く風です。
されど私は町で会う方へは相手が誰であれ必ず”時候の挨拶”は致しますし毎日駅を利用させて貰っている関係上駅構内の販売員さん及び駅員方々には必ずご挨拶は欠かしません、勿論それは地方や中央へ出ても同じ事です。
又、行きつけのお店の店長初め店員方々へも感謝の心は忘れず常、”おいしゅうございました”と お礼を述べます。
故に私は地方の行きつけの店へ何時行っても歓待を受け(本当は駄目ですが)順番待ちでも直ぐ中へ通される^^;
彼ら・彼女 らの印象は”先生は社会的地位が御有りなのにとても頭が低い方”という評価を得ているそうで^^;;;(私は低評価を受ける事にはなれているのですが高評 価を受ける事には不慣れ故こういう評価が一番困る(笑))
”ハンディーキャッパーは人のお世話になっているのだから常、人に頭を下げなさい”というのが社 会通念らしい。
だが私は不遜な態度を取られた相手には今まで40年間生きてきて一度も頭を下げた事はないしこれからもその姿勢が変わる事は有りません。
自らが出来る事は精一杯行い出来ない事にも人に助力を乞う事はせず無理と判っていても精一杯努力をする。そういう態度を示していると人は自然と助力をしてくれます。
勿論その際には必ず頭を下げお礼は申し上げますが、”お前はハンディキャッパーだから手を貸してやる”と言う上から目線の助力は断固拒否します。
決して自らのパーソナリティーを失わぬ事。
それが”職業鬱”にならぬ最善策であると私は考えます。
我が同胞の多くは被雇用者及び接客業に従事している方が多い。
そういう方は”職業的”に頭を下げる事が多くそれが”脳に摺込まれて”いる。
だが、”必要以上に頭を下げる事”は心に”マイナスの土壌”を作る行為でそれらは”職業鬱”などを発症する原因に。
事実我が門を叩きし多くの方々はプライベートでも”無意識”に人に頭を下げている人が多い。
周 りからは”頭が低い人”という高評価を受けるかも知れぬがそれはご自身の心を無意識的に傷つける行為です。
又、一部の御馬鹿は頭を下げられる事により勘違 いを起こし次からの態度が急変し上から目線で物を言い出す者も居ます。
そこでちゃんとした反論が出来ればよいですが其処でできなければプライベートでも” 社会的地位関係”に悩まされなければならずそれが更に”職業欝”を助長させる事となります。
職業人と私人の区別はしっかりと付け必要の無い 時は毅然とした態度で頭を上に上げる事。
私はお世話になる方、師と仰げる方以外には相手が誰であれ決して不用意に頭は下げません(勿論身内がお世話になっ ている場合はその限りでは有りませんが)
我が地元は県庁マン御用達の町で皆、県庁マンには低頭となりますが私は彼らに決して頭は下げません。県庁マンであるというだけで頭を下げる事自体が間違い。(勿論個人的にお世話になった方には頭を下げますが^^;)
随分昔、行きつけの店内で慇懃無礼 な県庁マンが大声で携帯で話していた際私が激しく叱責をしたら店長が飛んできて我々は店から追い出されました。
社会的ルールを守らぬ者が大きな顔を出来る のがわが町です。(余談ですがそれから暫くしてその店は潰れました、私は何もしておりませんが(o ̄ー ̄o) ムフフ)
私は相手が誰であれ社会的規範を犯しし者はその罪を糾弾し白黒はっきりつけさせます。
故に地元では一部の県庁マンに頗る評判は悪く風当たりは強いですが何処吹く風です。
されど私は町で会う方へは相手が誰であれ必ず”時候の挨拶”は致しますし毎日駅を利用させて貰っている関係上駅構内の販売員さん及び駅員方々には必ずご挨拶は欠かしません、勿論それは地方や中央へ出ても同じ事です。
又、行きつけのお店の店長初め店員方々へも感謝の心は忘れず常、”おいしゅうございました”と お礼を述べます。
故に私は地方の行きつけの店へ何時行っても歓待を受け(本当は駄目ですが)順番待ちでも直ぐ中へ通される^^;
彼ら・彼女 らの印象は”先生は社会的地位が御有りなのにとても頭が低い方”という評価を得ているそうで^^;;;(私は低評価を受ける事にはなれているのですが高評 価を受ける事には不慣れ故こういう評価が一番困る(笑))
”ハンディーキャッパーは人のお世話になっているのだから常、人に頭を下げなさい”というのが社 会通念らしい。
だが私は不遜な態度を取られた相手には今まで40年間生きてきて一度も頭を下げた事はないしこれからもその姿勢が変わる事は有りません。
自らが出来る事は精一杯行い出来ない事にも人に助力を乞う事はせず無理と判っていても精一杯努力をする。そういう態度を示していると人は自然と助力をしてくれます。
勿論その際には必ず頭を下げお礼は申し上げますが、”お前はハンディキャッパーだから手を貸してやる”と言う上から目線の助力は断固拒否します。
決して自らのパーソナリティーを失わぬ事。
それが”職業鬱”にならぬ最善策であると私は考えます。
2011年5月10日火曜日
大型連休の心理学~或いは常態性行動の浦に潜む”五月病”の悪魔の心理学~
5月の大型連休も終り又、喧騒の中へ身を投じて居られる方々も多い事と思います。
この時期になると毎年皆さん”五月病”に悩まされる方々も多い事と思います。
特に今年は既に現段階で”五月病”と診断された方が大変多いと聞いております。
(事実我が元へも結構な数の”五月病同胞”が訪れております)。
さて、何故人は”五月病”になるのでしょう?
実はその裏には”常態性行動”が大きく関与しているのです。
例えば、”三日坊主”とか”三日三晩”とか日本人は兎角”三”という数字を多用します。
例えば”数日”という凡その概念として尤も多い物は”三日前後”であるというデータも出ています。
又、”三年目の浮気””三年目のジンクス”など”三”周期で物事が変わる事からもそれが判ります。
これは”昔からの因習”が原因であり何も”三”でなくても数字は何でもよいのです。
日本人が”4”と”9”と言う数字を忌み嫌う、西洋人が”13”という数字を忌み嫌うのと同じです。
そして兎角日本人は”3”という数字を割りと尊ぶ慣習が有りそれが実は大型連休にも作用します。
人間同じ事が3日以上続くと段々とそれが”常態化”していく傾向が有ります。
つまり休みが3日以上続くと”休み”である事が”常態化”していく訳です。
回りも”休日モード”となり目に映る、耳にする物等五感に訴える物が全て”休む事”に終始します。
当然そうでない方も居られる訳で全ての人が”五月病”に掛からないのもそれが原因の一つ。
特に今年は震災が有り多くの方がお心を病まれそれが元でお心を休めたいと言う欲求も物凄く全国民的に高まっていた所に10連休という大型連休が来た為、通常よりも更に強い”常態性行動”が見られそれが脳に深く刻まれ其処から脱したくないという強い拒否反応から”脳の誤動作”により、”燃え尽き症候群(バーンナウトシンドローム)”に陥る人が多発しています。
これを避ける為には連休中も通常の日常生活と同じ時間同じ行動をなるべく取る事。
同じ時間に起きて同じ時間活動し同じ時間に寝る、それをする事で上記の事は回避が可能に。
一度憑いてしまった”五月病”を治すには”なるべく早い段階で元の生活に戻す事”が大事です。
その事により”脳の誤動作”を改善出来、”五月病”を回復させる事が出来るようになります。
長期休暇と言う奴も結構これで厄介な物なのですよ^^;。
この時期になると毎年皆さん”五月病”に悩まされる方々も多い事と思います。
特に今年は既に現段階で”五月病”と診断された方が大変多いと聞いております。
(事実我が元へも結構な数の”五月病同胞”が訪れております)。
さて、何故人は”五月病”になるのでしょう?
実はその裏には”常態性行動”が大きく関与しているのです。
例えば、”三日坊主”とか”三日三晩”とか日本人は兎角”三”という数字を多用します。
例えば”数日”という凡その概念として尤も多い物は”三日前後”であるというデータも出ています。
又、”三年目の浮気””三年目のジンクス”など”三”周期で物事が変わる事からもそれが判ります。
これは”昔からの因習”が原因であり何も”三”でなくても数字は何でもよいのです。
日本人が”4”と”9”と言う数字を忌み嫌う、西洋人が”13”という数字を忌み嫌うのと同じです。
そして兎角日本人は”3”という数字を割りと尊ぶ慣習が有りそれが実は大型連休にも作用します。
人間同じ事が3日以上続くと段々とそれが”常態化”していく傾向が有ります。
つまり休みが3日以上続くと”休み”である事が”常態化”していく訳です。
回りも”休日モード”となり目に映る、耳にする物等五感に訴える物が全て”休む事”に終始します。
当然そうでない方も居られる訳で全ての人が”五月病”に掛からないのもそれが原因の一つ。
特に今年は震災が有り多くの方がお心を病まれそれが元でお心を休めたいと言う欲求も物凄く全国民的に高まっていた所に10連休という大型連休が来た為、通常よりも更に強い”常態性行動”が見られそれが脳に深く刻まれ其処から脱したくないという強い拒否反応から”脳の誤動作”により、”燃え尽き症候群(バーンナウトシンドローム)”に陥る人が多発しています。
これを避ける為には連休中も通常の日常生活と同じ時間同じ行動をなるべく取る事。
同じ時間に起きて同じ時間活動し同じ時間に寝る、それをする事で上記の事は回避が可能に。
一度憑いてしまった”五月病”を治すには”なるべく早い段階で元の生活に戻す事”が大事です。
その事により”脳の誤動作”を改善出来、”五月病”を回復させる事が出来るようになります。
長期休暇と言う奴も結構これで厄介な物なのですよ^^;。
2011年5月5日木曜日
結婚は人生の墓場?の心理学~或いは失敗しない相手選びの為の心理学~
私は夫婦問題専門カウンセラーではない(笑)
夫婦問題専門のカウンセラーさんは知人の中にも数名居られる。
だが、何故か年間を通して”夫婦問題”でお心を病まれた方を診る回数は決して少ない数ではない。
しかもその数は此処10数年で鰻上りとなり、問題の多様性も大変多岐に渡り”個々人の問題”の色を濃くしている。
元々、 カテゴライズという概念が無くそういう物を激しく嫌悪する私だがその私が思わずカテゴライズしたくなるほどにその内容は幅広くそして複雑怪奇である ^^;。(そして当然の事ながらカテゴライズは不可能である)。よく”結婚は人生の墓場だ”という言われるがバブル崩壊前と崩壊後ではその内容が大きく異 なってきている。
バブル崩壊前この言葉を発していたのは男性であった、だが、バブル崩壊後この言葉を吐くのは圧倒的多数女性(笑)
”失敗した~!!”と嘆かれる方がとても増えておられる事に気付かされ驚かされる^^;。
我が元へ来る女性の同胞で夫婦問題が原因で来訪される方の殆どが生家に問題を抱えている方々である。生家での親子関係に問題が有り其処から”逃避”する為に結婚を選ぶ(と言うか選ばざるを得ない)という人が多い。
それ自体が間違いであるとは言わぬが正しい行為であるとも又言えぬのが現状である。
所 謂、三高(高学歴・高身長、高収入)という時代は当の昔、今は如何に”安定収入を得られるか”か男性選びの”鍵”となっているようだ。それも又、間違いだ とは言わぬが同じ様に”正解”とはとても思えない。”結婚”とはその字が示す通り”婚儀を結ぶ”と有り元々は宗教的儀式の一つであり神聖な物であった。
元々、不完全な存在である人間が”一つ”となる事でより”神に近い存在となる”為の儀式であった。
又、”子孫繁栄”の為に必要な物でもあり、家内安全、子孫繁栄等の願いが込められた物でもあった。
それが時を経る毎にその意味合いが段々と薄れ”性愛”の部分がより頭を擡げるようになってきた。
又、先に述べた通り、”生家からの逃避場所”として良く相手を吟味する時間も持てぬまま”結婚”へ逃げる人も多い。
”今より上の不幸は無い、だから現状から逃げられたらそれでいい”と短絡的に婚儀を結びその後”今より上の不幸”がある事を知る。だがその時には既に時遅し、子を授かっている場合や家に縛られ逃げられない状態に陥る者も。
その結果、”お心”を病み我が門を叩く事となる訳だ。
”失敗しない相手選び”のコツ、それは先ず”相手を深く知る事”ではなく”自分自身を深く知る事”である。
”相手”は自分を映す言わば、”鏡”である、だが、その”鏡”に映る自分が”何者であるか”を充分に知らねば、”鏡”に映る自分が”正しい自分かそうでない自分か”が判らない。
判 らなければ人が言われるままの”偽りの自分”を”本当の自分”とせねばならずその結果、”本当の自分”からどんどんと遠ざかり結果、”本当の自分”に戻れ なくなる。”本当の自分”から遠ざかれば遠ざかる程、”相手との距離”も又、遠くなり結果夫婦関係を上手く営めなくなる。そうならない為に先ず、”自分自 身を深く知る事”が大切なのである。
”自分自身を深く知る”事により、”本当に自分に相応しい相手が誰であるか”が解る様になる。
家格以外は結婚後幾らでも手に入る、社会的地位も収入も学歴も後から付ける事は充分可能である。
されど、”相性”だけは後付という訳には行かない、こればかりは”先付け”でなくてはならない。
その”相性”を計る為には先ず、”自分自身が何者で自分が自分で居られる相手が誰か”を見定める必要が有る。
” 自分”を正しく知る事で、”今の自分に足りない物”が解り、その”足りない物を補える人”が人生のパートナーとなる。人間は”種の保存”の法則に則り”自 分とは異なる染色体を多く持つ者に惹かれ”、それは”匂い”にあるとするらしい。生物学的知見は良く解らぬが少なくとも、”自分に無い魅力を多く持つ者” なれば誰しも興味関心を抱くであろう。
なればその人に”近づきたい”と思うしそれが恋となり愛となり結ばれたとしても何ら不思議は無い。
外見や収入や学歴等”副次的要因”にばかり目が行って”本来の姿”を見誤ると後で手酷い目に遭う事となる。
そんな”色眼鏡”を掛けない為にも、”しっかりと自らを見定める事”それが良縁を運ぶ最良の方法と私は考える。
夫婦問題専門のカウンセラーさんは知人の中にも数名居られる。
だが、何故か年間を通して”夫婦問題”でお心を病まれた方を診る回数は決して少ない数ではない。
しかもその数は此処10数年で鰻上りとなり、問題の多様性も大変多岐に渡り”個々人の問題”の色を濃くしている。
元々、 カテゴライズという概念が無くそういう物を激しく嫌悪する私だがその私が思わずカテゴライズしたくなるほどにその内容は幅広くそして複雑怪奇である ^^;。(そして当然の事ながらカテゴライズは不可能である)。よく”結婚は人生の墓場だ”という言われるがバブル崩壊前と崩壊後ではその内容が大きく異 なってきている。
バブル崩壊前この言葉を発していたのは男性であった、だが、バブル崩壊後この言葉を吐くのは圧倒的多数女性(笑)
”失敗した~!!”と嘆かれる方がとても増えておられる事に気付かされ驚かされる^^;。
我が元へ来る女性の同胞で夫婦問題が原因で来訪される方の殆どが生家に問題を抱えている方々である。生家での親子関係に問題が有り其処から”逃避”する為に結婚を選ぶ(と言うか選ばざるを得ない)という人が多い。
それ自体が間違いであるとは言わぬが正しい行為であるとも又言えぬのが現状である。
所 謂、三高(高学歴・高身長、高収入)という時代は当の昔、今は如何に”安定収入を得られるか”か男性選びの”鍵”となっているようだ。それも又、間違いだ とは言わぬが同じ様に”正解”とはとても思えない。”結婚”とはその字が示す通り”婚儀を結ぶ”と有り元々は宗教的儀式の一つであり神聖な物であった。
元々、不完全な存在である人間が”一つ”となる事でより”神に近い存在となる”為の儀式であった。
又、”子孫繁栄”の為に必要な物でもあり、家内安全、子孫繁栄等の願いが込められた物でもあった。
それが時を経る毎にその意味合いが段々と薄れ”性愛”の部分がより頭を擡げるようになってきた。
又、先に述べた通り、”生家からの逃避場所”として良く相手を吟味する時間も持てぬまま”結婚”へ逃げる人も多い。
”今より上の不幸は無い、だから現状から逃げられたらそれでいい”と短絡的に婚儀を結びその後”今より上の不幸”がある事を知る。だがその時には既に時遅し、子を授かっている場合や家に縛られ逃げられない状態に陥る者も。
その結果、”お心”を病み我が門を叩く事となる訳だ。
”失敗しない相手選び”のコツ、それは先ず”相手を深く知る事”ではなく”自分自身を深く知る事”である。
”相手”は自分を映す言わば、”鏡”である、だが、その”鏡”に映る自分が”何者であるか”を充分に知らねば、”鏡”に映る自分が”正しい自分かそうでない自分か”が判らない。
判 らなければ人が言われるままの”偽りの自分”を”本当の自分”とせねばならずその結果、”本当の自分”からどんどんと遠ざかり結果、”本当の自分”に戻れ なくなる。”本当の自分”から遠ざかれば遠ざかる程、”相手との距離”も又、遠くなり結果夫婦関係を上手く営めなくなる。そうならない為に先ず、”自分自 身を深く知る事”が大切なのである。
”自分自身を深く知る”事により、”本当に自分に相応しい相手が誰であるか”が解る様になる。
家格以外は結婚後幾らでも手に入る、社会的地位も収入も学歴も後から付ける事は充分可能である。
されど、”相性”だけは後付という訳には行かない、こればかりは”先付け”でなくてはならない。
その”相性”を計る為には先ず、”自分自身が何者で自分が自分で居られる相手が誰か”を見定める必要が有る。
” 自分”を正しく知る事で、”今の自分に足りない物”が解り、その”足りない物を補える人”が人生のパートナーとなる。人間は”種の保存”の法則に則り”自 分とは異なる染色体を多く持つ者に惹かれ”、それは”匂い”にあるとするらしい。生物学的知見は良く解らぬが少なくとも、”自分に無い魅力を多く持つ者” なれば誰しも興味関心を抱くであろう。
なればその人に”近づきたい”と思うしそれが恋となり愛となり結ばれたとしても何ら不思議は無い。
外見や収入や学歴等”副次的要因”にばかり目が行って”本来の姿”を見誤ると後で手酷い目に遭う事となる。
そんな”色眼鏡”を掛けない為にも、”しっかりと自らを見定める事”それが良縁を運ぶ最良の方法と私は考える。
2011年5月4日水曜日
『努力』の心理学~或いは実る『努力』にする為の心理学
何処ぞの予備校のキャッチフレーズではないが『努力は実る』は嘘。
『努力』の方向性を見間違えれば幾ら『努力』をしても『成果』は現れない。
”私はあんなに努力したのに”と結果を嘆く者が居るがそれは方向性を見誤っているのだから『望む結果』が得 られないのは当然の事。
ご自身に対する『認識の甘さ』が招いた失態であり同情の余地は無い。
『努力』とは先ずその方向性をしっかりと見定め目標設定を見誤らない事が大切。
ゴルフに於いて玉を叩く前にそのボールが飛ぶ軌跡の道筋をちゃんと頭の中で描けた者はちゃんと自らが思う方 向へ思う距離へボールを飛ばす事が出来るのと同義である(それでも飛ばないのは才能が無い(笑)これ私の事 (爆))。
又、人間は『努力』に於いて結果に注視する傾向があるが大切な事は『結果』ではなくそこへ至るまでの『経過 』である。
『経過』で何を得、何を学んだかによって『結果』は大きく違ってくる。
『経過』を軽視する者に『望む結果』が得られる事は私の経験上からはない。
又、『努力』によって得られる『結果』は実は一つではない。
『努力』をした過程において結実した『結果』(能動的結果)とその『結果』を得られた事により次の行動にお いて得られる新たな『結果』(受動的結果)の二種類有る事は案外皆、気付かない所である。
我が元へ多くの指導者が教えを乞いに来られる一番の理由は上記のような事を学びたいからであると考えている 。
『努力』の方向性を見間違えれば幾ら『努力』をしても『成果』は現れない。
”私はあんなに努力したのに”と結果を嘆く者が居るがそれは方向性を見誤っているのだから『望む結果』が得
ご自身に対する『認識の甘さ』が招いた失態であり同情の余地は無い。
『努力』とは先ずその方向性をしっかりと見定め目標設定を見誤らない事が大切。
ゴルフに於いて玉を叩く前にそのボールが飛ぶ軌跡の道筋をちゃんと頭の中で描けた者はちゃんと自らが思う方
又、人間は『努力』に於いて結果に注視する傾向があるが大切な事は『結果』ではなくそこへ至るまでの『経過
『経過』で何を得、何を学んだかによって『結果』は大きく違ってくる。
『経過』を軽視する者に『望む結果』が得られる事は私の経験上からはない。
又、『努力』によって得られる『結果』は実は一つではない。
『努力』をした過程において結実した『結果』(能動的結果)とその『結果』を得られた事により次の行動にお
我が元へ多くの指導者が教えを乞いに来られる一番の理由は上記のような事を学びたいからであると考えている
2011年5月3日火曜日
等価交換の心理学~或いは心理学的錬金術の心理学~
『錬金術(れんきんじゅつ、Alchemy) とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂 をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており [1]、実験道具が発明された。その成果は現在の化学 (Chemistry) にも引き継がれている[2][3][4]。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。』(ウィキペ ディアより)
上記の項では触れられていないが錬金術に於いて尤も大切な事は『等価交換』であるという事。
つまり金を錬金する為には金と同価値の物を使わね ば金を練成する事はできないという事である。(この辺りの矛盾を遂に錬金術は解く事が出来なかったのが錬金術が一般に根付かなかった理由の一つと考える)
心理学的にもこの”等価交換”という物と同じ考えがある。
例えば”自分が殴られたら痛いから人を殴ってはいけない”という風に学校で誰しも教わった筈である。だがこれは”等価交換”という考えに於いては”不等”であると言わねばならない。
何故なら体力がある者と体力がない者とでは殴られた時に受けるダメージが全く違うからだ。
事実私が知るガキンチョは”僕は友達に殴られても痛くないから殴ってもいい”と言って居た。
だが、私が”殴った”らその痛さに初めて”殴られたら痛い”事を知り以降友達を殴ることはなくなった^^;。
まぁこれは極端な例だが、”等価交換”の場合、”等価値”である事、つまり”その人にとって等しい価値である事”が大事なのである。
与える側が”同じ力、同じ作用”ではなく受ける側が”同じ力、同じ作用”である事が大事である。
車椅子生活者である私は日常生活に於いて”屈辱”を受ける場面は多々ある、朝起きてから休むまで一度も”屈辱”を受けずに生活を送れた事は40年以上生きてきて一度も無い。
社会的ステータスの向上や経年による経験値の増加、何より愛方の励ましによりその量は年々減少傾向にあるとは言えやはり”屈辱を受ける 事”事態に変わりなし。
だが、その際、私は決してそれを”見て見ぬ振り”はせぬ、我に”屈辱”を与えし者にはその方が理解出来る方法で以て”屈辱”を与えご自身が私に与えた”屈辱”が如何に”屈辱的であるか”を御理解戴けるようにしている。(勿論私が受けた屈辱以上の屈辱を感じて戴く事はデフォとして(笑))。
相手は憤怒の表情を浮かべ時に激怒し暴力に訴える者も居る、そういう者にはやはり”同価値の力”でもってご自身の”暴挙”が如何に”ダメージを受けるか”をその”体”にお教えするようにしている。
故に私をリアルに知る者は”決して私を侮蔑する事はしない”、その事により自らが受ける”災厄”の恐ろしさを知っているからである。
日本人は単一民族であ り”危機管理”がとても甘い。
多民族国家の場合、”目の前にある危機”を如何に回避するかは常、日常生活に於いて考えねばならぬ事であるが故、単一民族の 日本人より危機管理意識は強い。
私の同胞には外国人も多く居て彼ら・彼女らの”危機管理意識の高さ”はとても勉強になり参考とさせて貰っている。
それ故に 其処から得た”学び”を今度は同胞へ還元するように私はしている。
同胞を侮辱せし者へ時に当事者へ(同胞に被害が及ばぬ形で)屈辱をお与えし或いは同胞に その術をお教えする。
全てが成功する訳ではないがそれでも高確率でそれらは的中し以降同胞への”屈辱”は止む場合が多い。
私が”神”と崇められ、”悪魔” と罵られる一番の理由がこれである。
だが私はそれでよいと思っているしその考えを改めるつもりは今の所全く無い。
自らが天に吐いた唾は自らの顔に掛かるのだという事をお教えする事はその次に起こるかもしれない同じ悲劇を食い止める意味でとても重要な事であると私は考えてい る。
勿論”独善的にならぬよう”充分精査した上であり自らの”個人的感情”によりそれらを行う事は決してないという事は明言しておきたい(そうでないと独裁者的存在と思われるのは本意ではないので)。
人は人以上でも人以下でもない、故に人と言う立場に於いて平等であり”不要な侮蔑”を受ける謂れは無いと信 じる。
私は人として生き人として生涯を終えたい、その為にも私は我が志をこれからも貫く所存である。
上記の項では触れられていないが錬金術に於いて尤も大切な事は『等価交換』であるという事。
つまり金を錬金する為には金と同価値の物を使わね ば金を練成する事はできないという事である。(この辺りの矛盾を遂に錬金術は解く事が出来なかったのが錬金術が一般に根付かなかった理由の一つと考える)
心理学的にもこの”等価交換”という物と同じ考えがある。
例えば”自分が殴られたら痛いから人を殴ってはいけない”という風に学校で誰しも教わった筈である。だがこれは”等価交換”という考えに於いては”不等”であると言わねばならない。
何故なら体力がある者と体力がない者とでは殴られた時に受けるダメージが全く違うからだ。
事実私が知るガキンチョは”僕は友達に殴られても痛くないから殴ってもいい”と言って居た。
だが、私が”殴った”らその痛さに初めて”殴られたら痛い”事を知り以降友達を殴ることはなくなった^^;。
まぁこれは極端な例だが、”等価交換”の場合、”等価値”である事、つまり”その人にとって等しい価値である事”が大事なのである。
与える側が”同じ力、同じ作用”ではなく受ける側が”同じ力、同じ作用”である事が大事である。
車椅子生活者である私は日常生活に於いて”屈辱”を受ける場面は多々ある、朝起きてから休むまで一度も”屈辱”を受けずに生活を送れた事は40年以上生きてきて一度も無い。
社会的ステータスの向上や経年による経験値の増加、何より愛方の励ましによりその量は年々減少傾向にあるとは言えやはり”屈辱を受ける 事”事態に変わりなし。
だが、その際、私は決してそれを”見て見ぬ振り”はせぬ、我に”屈辱”を与えし者にはその方が理解出来る方法で以て”屈辱”を与えご自身が私に与えた”屈辱”が如何に”屈辱的であるか”を御理解戴けるようにしている。(勿論私が受けた屈辱以上の屈辱を感じて戴く事はデフォとして(笑))。
相手は憤怒の表情を浮かべ時に激怒し暴力に訴える者も居る、そういう者にはやはり”同価値の力”でもってご自身の”暴挙”が如何に”ダメージを受けるか”をその”体”にお教えするようにしている。
故に私をリアルに知る者は”決して私を侮蔑する事はしない”、その事により自らが受ける”災厄”の恐ろしさを知っているからである。
日本人は単一民族であ り”危機管理”がとても甘い。
多民族国家の場合、”目の前にある危機”を如何に回避するかは常、日常生活に於いて考えねばならぬ事であるが故、単一民族の 日本人より危機管理意識は強い。
私の同胞には外国人も多く居て彼ら・彼女らの”危機管理意識の高さ”はとても勉強になり参考とさせて貰っている。
それ故に 其処から得た”学び”を今度は同胞へ還元するように私はしている。
同胞を侮辱せし者へ時に当事者へ(同胞に被害が及ばぬ形で)屈辱をお与えし或いは同胞に その術をお教えする。
全てが成功する訳ではないがそれでも高確率でそれらは的中し以降同胞への”屈辱”は止む場合が多い。
私が”神”と崇められ、”悪魔” と罵られる一番の理由がこれである。
だが私はそれでよいと思っているしその考えを改めるつもりは今の所全く無い。
自らが天に吐いた唾は自らの顔に掛かるのだという事をお教えする事はその次に起こるかもしれない同じ悲劇を食い止める意味でとても重要な事であると私は考えてい る。
勿論”独善的にならぬよう”充分精査した上であり自らの”個人的感情”によりそれらを行う事は決してないという事は明言しておきたい(そうでないと独裁者的存在と思われるのは本意ではないので)。
人は人以上でも人以下でもない、故に人と言う立場に於いて平等であり”不要な侮蔑”を受ける謂れは無いと信 じる。
私は人として生き人として生涯を終えたい、その為にも私は我が志をこれからも貫く所存である。
風が吹けば桶屋が儲かるの心理学~或いは不幸があると映画館が儲かるの法則~
先日G.W.中に我々がよく行くショッピング・モール内に有る映画館の横を通ったのだが長蛇の列であった。
その帰り道、レンタルビデオ屋の前を電車が通過したのだが車窓から映る景色はやはり同じ物であった。
震災後どこもかしこも”自粛ムード”に包まれ、なるべく遠出は避け近場でという意思が働いての事と思う。
実はこの光景、昭和から平成へ変わる時も目にしている、言わずと知れた昭和天皇御崩御の時であった。
その時もTVは完全自粛ムードであり、人々はこぞってレンタルビデオ屋へ走り此処でもやはり長蛇の列がなっていた。
人は何故このような大きな憂い事があると映画やレンタルビデオ(DVD)に走るのだろう?
それは脳内に於ける情報のアップデートが主な原因の一つである。
昭和天皇御崩御の際も今回の震災でも流れる映像は同じマイナスイメージを与える物であった。
粛々と厳粛なムードの御崩御及び昭和天皇の足跡を辿る映像が延々と流される、或いは悲惨な被災地の映像が延々と流される。案外知られていない事だが人間が受ける苦痛の中で尤も耐え難い苦痛は”五感を奪われる事”である。
実際或る大学で全ての五感を奪う実験をした所、全員が半日と持たず大暴れをしたという結果報告がある程である。
TV で同じ映像を流す行為はこの”五感を奪う事”に於ける”視覚と聴覚”を奪う行為でありそれは人間には苦痛に感じる行為である。更に映像が与える影響は擬似 的に触覚すら影響を与える事がある。極寒の地の映像を見させられて夏なのにブルっと体が震えた記憶がある方は少なくないであろう、正にあれである。毎日悲 惨な映像や悲惨なニュースを耳にする行為は人間にとっては五感を奪われる行為に等しくそれらは苦痛を伴って”心”に襲い掛かってくる。
其処から逃げたいという逃避欲求が起こりその結果、脳内の映像のアップデートを心が強く望むようになる。
それらはマイナスイメージからはかけ離れたプラスのイメージである、それ故人は映画やDVD鑑賞に走るのだ。
事実私が知りうる限りこのG.W.中何処の映画館も満員御礼という事であった。
人々が如何に”脳内映像のアップデート”を望まれておいでであるかがそこでも良く判る。
被災地の現状を伝え、被災者方々のお苦しみを共有する事はとても大事な事であるしそれを否定はしない。
さりとてそればかり見させられても今度は共感から反感へと変わり共有から離脱の方向へ心が移行してしまう。
”常態性行動”の欄でも触れたが人間同じ行動を取り続けるとそれが常態となってしまう傾向がある。
そうなると(というか既にそうなっているのだが)デフレスパイラルの要因ともなりかねない(というか既になっている)。
被災者を救済する側が経済的不安定さを抱えてしまっては被災者救済には手を出したくとも出せなくなる。
そうなれば被災地復興自体が更に遅れる事となり被災者方々へ更なるお苦しみを与える結果ともなりかねない。
政府、マスコミ等にはそういった事も考慮に入れ慎重に事に当って頂きたいと切に願いたい。
その帰り道、レンタルビデオ屋の前を電車が通過したのだが車窓から映る景色はやはり同じ物であった。
震災後どこもかしこも”自粛ムード”に包まれ、なるべく遠出は避け近場でという意思が働いての事と思う。
実はこの光景、昭和から平成へ変わる時も目にしている、言わずと知れた昭和天皇御崩御の時であった。
その時もTVは完全自粛ムードであり、人々はこぞってレンタルビデオ屋へ走り此処でもやはり長蛇の列がなっていた。
人は何故このような大きな憂い事があると映画やレンタルビデオ(DVD)に走るのだろう?
それは脳内に於ける情報のアップデートが主な原因の一つである。
昭和天皇御崩御の際も今回の震災でも流れる映像は同じマイナスイメージを与える物であった。
粛々と厳粛なムードの御崩御及び昭和天皇の足跡を辿る映像が延々と流される、或いは悲惨な被災地の映像が延々と流される。案外知られていない事だが人間が受ける苦痛の中で尤も耐え難い苦痛は”五感を奪われる事”である。
実際或る大学で全ての五感を奪う実験をした所、全員が半日と持たず大暴れをしたという結果報告がある程である。
TV で同じ映像を流す行為はこの”五感を奪う事”に於ける”視覚と聴覚”を奪う行為でありそれは人間には苦痛に感じる行為である。更に映像が与える影響は擬似 的に触覚すら影響を与える事がある。極寒の地の映像を見させられて夏なのにブルっと体が震えた記憶がある方は少なくないであろう、正にあれである。毎日悲 惨な映像や悲惨なニュースを耳にする行為は人間にとっては五感を奪われる行為に等しくそれらは苦痛を伴って”心”に襲い掛かってくる。
其処から逃げたいという逃避欲求が起こりその結果、脳内の映像のアップデートを心が強く望むようになる。
それらはマイナスイメージからはかけ離れたプラスのイメージである、それ故人は映画やDVD鑑賞に走るのだ。
事実私が知りうる限りこのG.W.中何処の映画館も満員御礼という事であった。
人々が如何に”脳内映像のアップデート”を望まれておいでであるかがそこでも良く判る。
被災地の現状を伝え、被災者方々のお苦しみを共有する事はとても大事な事であるしそれを否定はしない。
さりとてそればかり見させられても今度は共感から反感へと変わり共有から離脱の方向へ心が移行してしまう。
”常態性行動”の欄でも触れたが人間同じ行動を取り続けるとそれが常態となってしまう傾向がある。
そうなると(というか既にそうなっているのだが)デフレスパイラルの要因ともなりかねない(というか既になっている)。
被災者を救済する側が経済的不安定さを抱えてしまっては被災者救済には手を出したくとも出せなくなる。
そうなれば被災地復興自体が更に遅れる事となり被災者方々へ更なるお苦しみを与える結果ともなりかねない。
政府、マスコミ等にはそういった事も考慮に入れ慎重に事に当って頂きたいと切に願いたい。
2011年5月1日日曜日
”考えない”の心理学~或いは”考えない”事を”考える心理学~
我が元には年間実に様々な”病”を持った方々が来訪或いは連絡を下さる。
その中には鬱病やパニック障害、不安神経症を患った方々もかなりの数居られる。
上記の方々の場合、大抵精神科乃至は精神神経内科受診をされ、投薬治療を受けその後我が元へ来られるケースが殆どであり最初から我が元へご訪問戴くケースは 殆ど無い。最初から来られた方がやりやすい事はやりやすいのだが、中々それも現状では難しく”専門”を受けられてから”最後の砦”へ向かわれる方が大多数 である。
”最後の砦”として我が門を潜られる方々が多い為、此処で何とか食い止めねば後は”絶望”乃至は”死”が待っている。
少なくとも私自身そういう風に”背水の陣”を自らに敷き事に当るようにしている。
そしてそういう方々に進言申し上げるのが題名に有る”考えない”事である。
されど、大抵の方は”そんなの無理ですよ”と一笑に附される方がこれまた殆どである。
言われて見れば至極当然の事であるのだが、敢えて私はそこでこう付け加える。
”そう!貴方が仰るとおり、朝起きて夜休むまで人間は”思考する事”なしに生き る事は不可能なのです。朝起きて何を着ようか、昼は何を食べようか、夜は明日の予定はどうしようか等等。それこそルーティンワークのようにベルトコンベア に乗って”考える事”が次から次へとどんどんと流れてくる訳です。”自らが思考しようと望まなくても”…さればこそ”自らが思考しようとする事”を止める 事は大事なのです。私が好きなアニメのOPの歌詞にこう一節が有ります”要らない物を捨てたらこんなにも心の中が無限に広がったよ”つまり”強制的に思考 せざるを得ない以外の思考をしないようにする”これが”問題解決の鍵”なのです”と。
パニックや鬱病、不安神経症の元は”充分に現状に対して冷静に考える事が出来なくなる”事が大きな要因の一つ。それは”余りにも考える事が多すぎてほかの事を考える空白が無い”事が原因なのです。
故に”絶対に考えなくてはいけない事”以外は考えないようにする事が大事なのです。
ここで”なるべく”とか”できるだけ”という言葉は被験者には絶対に使ってはなりません。
何故ならそういう”猶予を与えてしまうとその”猶予”に依拠し、又、”考えなくても良い事”を考え始めるからです。人は”猶予”を与えなくても考える事無しに生活を営む事は不可能である事は前述の通りです。
其処に更なる”猶予”を与えてしまうと今度はその”猶予”に対して”何処まで?”という新たな”考え事”が増えます。
これだと本末転倒となり全く意味を成さなく成ります、”猶予”を与えずとも人は生きている限り必ず”思考”する生物。それ故不必要な”猶予”は余計その方の心の混乱を来す物以外の何物にも非ずであり不要な存在なのです。
そして鬱やパニックや不安神経症の同胞にとっていまひとつ大事な事は”逃げ場”を作ってあげる事。
悩んだり不安に苛まれた時、”私”という逃げ場を作ってあげる事により”現状打開への糸口”を自らが掴むのです。
人間不思議な物で”逃げ場”があるという”安心感”があると、自然と”逃げなくなる”物です。
最初は”逃げ”ていても段々と”逃げ”なくなります、それは”逃げなくても大丈夫”という安心感があるから。そして”何時でも逃げられる、今は逃げるべき時ではない”という事が自らで判るから。
そうする事により私は一切の投薬治療無しで上記の症状改善乃至は緩和乃至は根絶に寄与しています。
今日から”考えない癖”を付けてみませんか?きっと”心の中が無限に”広がりますよ^^V。
その中には鬱病やパニック障害、不安神経症を患った方々もかなりの数居られる。
上記の方々の場合、大抵精神科乃至は精神神経内科受診をされ、投薬治療を受けその後我が元へ来られるケースが殆どであり最初から我が元へご訪問戴くケースは 殆ど無い。最初から来られた方がやりやすい事はやりやすいのだが、中々それも現状では難しく”専門”を受けられてから”最後の砦”へ向かわれる方が大多数 である。
”最後の砦”として我が門を潜られる方々が多い為、此処で何とか食い止めねば後は”絶望”乃至は”死”が待っている。
少なくとも私自身そういう風に”背水の陣”を自らに敷き事に当るようにしている。
そしてそういう方々に進言申し上げるのが題名に有る”考えない”事である。
されど、大抵の方は”そんなの無理ですよ”と一笑に附される方がこれまた殆どである。
言われて見れば至極当然の事であるのだが、敢えて私はそこでこう付け加える。
”そう!貴方が仰るとおり、朝起きて夜休むまで人間は”思考する事”なしに生き る事は不可能なのです。朝起きて何を着ようか、昼は何を食べようか、夜は明日の予定はどうしようか等等。それこそルーティンワークのようにベルトコンベア に乗って”考える事”が次から次へとどんどんと流れてくる訳です。”自らが思考しようと望まなくても”…さればこそ”自らが思考しようとする事”を止める 事は大事なのです。私が好きなアニメのOPの歌詞にこう一節が有ります”要らない物を捨てたらこんなにも心の中が無限に広がったよ”つまり”強制的に思考 せざるを得ない以外の思考をしないようにする”これが”問題解決の鍵”なのです”と。
パニックや鬱病、不安神経症の元は”充分に現状に対して冷静に考える事が出来なくなる”事が大きな要因の一つ。それは”余りにも考える事が多すぎてほかの事を考える空白が無い”事が原因なのです。
故に”絶対に考えなくてはいけない事”以外は考えないようにする事が大事なのです。
ここで”なるべく”とか”できるだけ”という言葉は被験者には絶対に使ってはなりません。
何故ならそういう”猶予を与えてしまうとその”猶予”に依拠し、又、”考えなくても良い事”を考え始めるからです。人は”猶予”を与えなくても考える事無しに生活を営む事は不可能である事は前述の通りです。
其処に更なる”猶予”を与えてしまうと今度はその”猶予”に対して”何処まで?”という新たな”考え事”が増えます。
これだと本末転倒となり全く意味を成さなく成ります、”猶予”を与えずとも人は生きている限り必ず”思考”する生物。それ故不必要な”猶予”は余計その方の心の混乱を来す物以外の何物にも非ずであり不要な存在なのです。
そして鬱やパニックや不安神経症の同胞にとっていまひとつ大事な事は”逃げ場”を作ってあげる事。
悩んだり不安に苛まれた時、”私”という逃げ場を作ってあげる事により”現状打開への糸口”を自らが掴むのです。
人間不思議な物で”逃げ場”があるという”安心感”があると、自然と”逃げなくなる”物です。
最初は”逃げ”ていても段々と”逃げ”なくなります、それは”逃げなくても大丈夫”という安心感があるから。そして”何時でも逃げられる、今は逃げるべき時ではない”という事が自らで判るから。
そうする事により私は一切の投薬治療無しで上記の症状改善乃至は緩和乃至は根絶に寄与しています。
今日から”考えない癖”を付けてみませんか?きっと”心の中が無限に”広がりますよ^^V。
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