2011年5月3日火曜日

等価交換の心理学~或いは心理学的錬金術の心理学~

錬金術(れんきんじゅつ、Alchemy) とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂 をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており [1]、実験道具が発明された。その成果は現在の化学 (Chemistry) にも引き継がれている[2][3][4]。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。』(ウィキペ ディアより)

上記の項では触れられていないが錬金術に於いて尤も大切な事は『等価交換』であるという事。
つまり金を錬金する為には金と同価値の物を使わね ば金を練成する事はできないという事である。(この辺りの矛盾を遂に錬金術は解く事が出来なかったのが錬金術が一般に根付かなかった理由の一つと考える)

心理学的にもこの”等価交換”という物と同じ考えがある。

例えば”自分が殴られたら痛いから人を殴ってはいけない”という風に学校で誰しも教わった筈である。だがこれは”等価交換”という考えに於いては”不等”であると言わねばならない。

何故なら体力がある者と体力がない者とでは殴られた時に受けるダメージが全く違うからだ。
事実私が知るガキンチョは”僕は友達に殴られても痛くないから殴ってもいい”と言って居た。
だが、私が”殴った”らその痛さに初めて”殴られたら痛い”事を知り以降友達を殴ることはなくなった^^;。

まぁこれは極端な例だが、”等価交換”の場合、”等価値”である事、つまり”その人にとって等しい価値である事”が大事なのである。
与える側が”同じ力、同じ作用”ではなく受ける側が”同じ力、同じ作用”である事が大事である。

車椅子生活者である私は日常生活に於いて”屈辱”を受ける場面は多々ある、朝起きてから休むまで一度も”屈辱”を受けずに生活を送れた事は40年以上生きてきて一度も無い。

社会的ステータスの向上や経年による経験値の増加、何より愛方の励ましによりその量は年々減少傾向にあるとは言えやはり”屈辱を受ける 事”事態に変わりなし。

だが、その際、私は決してそれを”見て見ぬ振り”はせぬ、我に”屈辱”を与えし者にはその方が理解出来る方法で以て”屈辱”を与えご自身が私に与えた”屈辱”が如何に”屈辱的であるか”を御理解戴けるようにしている。(勿論私が受けた屈辱以上の屈辱を感じて戴く事はデフォとして(笑))。

相手は憤怒の表情を浮かべ時に激怒し暴力に訴える者も居る、そういう者にはやはり”同価値の力”でもってご自身の”暴挙”が如何に”ダメージを受けるか”をその”体”にお教えするようにしている。

故に私をリアルに知る者は”決して私を侮蔑する事はしない”、その事により自らが受ける”災厄”の恐ろしさを知っているからである。

日本人は単一民族であ り”危機管理”がとても甘い。

多民族国家の場合、”目の前にある危機”を如何に回避するかは常、日常生活に於いて考えねばならぬ事であるが故、単一民族の 日本人より危機管理意識は強い。
私の同胞には外国人も多く居て彼ら・彼女らの”危機管理意識の高さ”はとても勉強になり参考とさせて貰っている。

それ故に 其処から得た”学び”を今度は同胞へ還元するように私はしている。

同胞を侮辱せし者へ時に当事者へ(同胞に被害が及ばぬ形で)屈辱をお与えし或いは同胞に その術をお教えする。
全てが成功する訳ではないがそれでも高確率でそれらは的中し以降同胞への”屈辱”は止む場合が多い。

私が”神”と崇められ、”悪魔” と罵られる一番の理由がこれである。
だが私はそれでよいと思っているしその考えを改めるつもりは今の所全く無い。

自らが天に吐いた唾は自らの顔に掛かるのだという事をお教えする事はその次に起こるかもしれない同じ悲劇を食い止める意味でとても重要な事であると私は考えてい る。

勿論”独善的にならぬよう”充分精査した上であり自らの”個人的感情”によりそれらを行う事は決してないという事は明言しておきたい(そうでないと独裁者的存在と思われるのは本意ではないので)。

人は人以上でも人以下でもない、故に人と言う立場に於いて平等であり”不要な侮蔑”を受ける謂れは無いと信 じる。

私は人として生き人として生涯を終えたい、その為にも私は我が志をこれからも貫く所存である。

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