常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2015年3月28日土曜日
常態行動心理学的掲示板で愚痴る事の必要性について♪
本日のテーマは『常態行動心理学的掲示板で愚痴る事の必要性』について。
某SNSで知人が自分の掲示板で愚痴を零されている記事に対して多くの方から批判的意見を頂戴し、自らの行動を反省し、自制するという記事を読んで甚だ呆れ返る思いで一杯になった。
そもそも人が愚痴に対して批判的意見を述べるのには二通りの意味がある。
一つはマイナスの波動を受けとる事への拒絶反応。
これは愚痴を聞く事により自分もその気分に同調し愚痴る人と感情共有する事によるストレス生成拒否反応である。
今一つは単なる嫉妬である。
例えばそれが夫婦喧嘩や兄弟喧嘩、親子喧嘩や恋人同士の喧嘩だとしてもそれをする事が叶わない立場の人間にとってはそれが出来る事自体が既に羨ましい対象でありそれに対する愚痴はそれを見る人にとっては厭味にすら見えるからである。
だが残念ながらこれら愚痴に対する批判的意見を述べる事は違法性を持っている事をそれらを行う方々には痛感願いたい。
人がblogで愚痴るのはその場で愚痴る事が出来ないからである。
その場で愚痴る事が出来る人は態々blogで愚痴らない。
その場で愚痴る事が出来ないならblogでせめて愚痴らせて欲しいのである。
それすら出来ぬとなれば血中生成毒素量は更に増加しそれがstressを産み、それにより更に御身内との関係性は悪化の一途を辿る。
最悪の場合、生物学的生命維持の観点からstressを与える存在排除の行動を取らないとも限らない。
この場合、blogで愚痴に対して批判的意見を述べた方々は殺人幇助罪に問われる可能性がある事を失念されるべきではない。
過去の凡例の中にはこれが適用されたケースもある。
blogで愚痴る事が出来れば心の逃げ場が出来てそれが修復不可能と思われた人間関係修復に繋がる可能性もある。
何故ならstress発散場所が出来ればstressによる血中生成毒素量を抑制する事が出来てそれが相手への殺意を消し去り、相手の事を考える余裕を生むからである。
第一他人の愚痴を聞きたくなければその人のblogを読まなければ良いだけの話である。
blogで愚痴る事に対する批判は威力業務妨害罪であり表現の自由を奪う違法行為である。
私の仕事は愚痴を聞きその問題解決へ導くのがお仕事である。
愚痴であれ惚気であれ何でも聞くのがお仕事である。
故に愚痴も惚気も聞く事にstressを感じない。
誰しも人に悩みや愚痴を聞いて貰いたい時もあります。
それを止める権利は他人にはありません。
その愚痴が第三者に何らかの社会的不利益を与えぬ限りは愚痴る事は何ら悪い事では有りません。
これからもどんどん愚痴りましょう。
私で良ければ幾らでもお聞きしますよ。
今日も元気に頑張りましょう。
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