我が地元の駅(新山口)を利用し始めてかれこれ30年以上となるだろうか。
新山口駅がまだ現サポート体制を敷いておらず外注を頼んでいた頃から利用させて貰っている。
最初は駅員さんもサポート体制が理解出来ておらず失敗を繰返す事も多かった。
されどサポート体制も段々と期を追う毎にその精度を増し今期のサポートメンバーはその集大成。
今は又新たな期が入ってきて見習いとして今期のサポートメンバーに就いて勉強をしている。
皆、今の現役駅員の殆どはこのサポートシステムを経て契約社員から正社員への道を歩んでいく。
契約社員を経て当駅を去っていった多くの諸先輩方々が踏襲してきた物を善き物は伝承し悪き物は排除しながら独自の道を歩んでもらいたいと願っている。
されど今期のサポートメンバーほど独自の”色”を持っているメンバーもそう多くは無いだろう。
そこで今日はイニシャルで(笑)各々を武将に例え(一部武将じゃない者も居るがw)分析したいと思うw
タイプA:信長型:これはもう言わずと知れたI君であろう(笑)竹を割ったような性格で嫌な物は嫌、好きな物は好きととてもはっきりとした性格である。笑いを取る事を生甲斐とし(笑)如何に多く笑いを取るかに命を掛けているような感じを受ける人であるが仕事ぶりは極めて真面目でそつがない。一度失敗をしたがそれを決して繰返さない慎重な面と二度と失敗を繰返す物かというプライドの高さを併せ持つ。とても涙脆く情に厚く人に優しく自分に厳しい。一見軽薄そうに見せているのはそんな自らの重さを人に背負わせたくは無いが故である。その辺りも極めて彼らしい一面である。
タイプB:秀吉型:これは恐らくO君ではないかと思う。人に媚びずさりとて喧嘩も売らず。野心もあれどそれを決して表には出さず自分自身をしっかりと持ち自らのポリシーは決して譲らない頑固さを持ちながら上手く人と波長を合わせられる面は彼の専売特許。又、滅法女性に免疫が無く女性から褒められると緊張のあまり声が裏返るほどの純真さを持つ。ガタイが良く普段着が割と強面系が多い為誤解を受けやすいがとても正義感が強く人に優しく彼も又自分に厳しいタイプの人である。ファッションにも拘りが有り自らの芯を揺るがす事は無い。そんな彼を慕う者も少なくは無いだろう。
タイプC:家康型:これは間違いなくM君で決まりである。4名の中で最年長、先輩の契約社員や正社員よりも年上で経験も豊富。されど人当たりは良く物腰は柔らか。人の話をしっかりと聞き、頭の中で瞬時に取捨選択が出来自らの血肉とすべき情報と捨て情報を見抜く目を持つ。又、野心家でも有り虎視眈々と上を狙う姿は正に天下統一を成し遂げた家康その物。潔さや自らの立ち位置を見る目は4人の中で随一である。伊達に年を重ねていない事は彼の目を見れば一目瞭然。残り三名も彼を手本とし彼を師と仰いでいる面も有りその重さをちゃんと理解しつつ下を引っ張る牽引力を持つ
様々な過去の経験を我が血肉とし今も尚今の経験を末来に活かそうとする謙虚さを持つ。
タイプD:足軽型:これはF君で決まり(笑)4人の中で一番若年で社会経験も無くお身内が同業者である事も手伝い昼行灯的であり駅のある種マスコット的存在である。上にも下にも可愛がられ(笑)又、それを彼自身受け入れている面もある。お身内が同じ職場内に居られる為お身内に恥をかかすまいとする面と反面その思いが強すぎるが故空回りしてしまう若さも併せ持つ。されど彼は大器晩成型。他の三人には無い潜在能力を秘めていると私は思っている。彼の潜在能力は∞。今はまだ見習いの身だがこれからどのように成長を遂げていくのか?この目で是非確かめてみたいと思う。
こうして見てみると実に個性が強い面々が揃ったなと思い彼らの今後がとても楽しみである。
心理学的分析もこれから出来そうだし彼らの行く末を一利用者として見守って生きたいと思っている
常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2011年6月22日水曜日
2011年6月20日月曜日
暴飲暴食の裏に隠れた悪魔~或いは常態性行動が起こす新たな恐怖についての心理学~
生態学的に暴飲暴食が行けないという事は古くからいわれて居る事である。
内臓を必要以上に酷使する事は生体機能を著しく低下させ生命維持が困難と成ります。
まぁ何でも”やりすぎ”は体に毒である事は自明の理、されど実はこの”暴飲暴食”は内臓に負担を掛けるだけに非ず。
意外と知られていない事ですが”精神”にも多大なる影響を及ぼしているのです。
”暴飲暴食”を繰返しているとそれが”常態”となってしまい、それを行っている本人的にはそれが”暴飲暴食”ではなくなり”普通食(常態食)”となってしまう。
これは実は恐ろしい”心の病”を引き起こす原因となります。
”感情機能障害”つまり、喜怒哀楽の”心の機能”が上手く働かなくなる心の病を引き起こし易くなるのです。
何故、”暴飲暴食”をすると”感情機能障害”を引き起こしやすくなるのでしょう?
それは”五感情報”にその原因があるのです。
暴飲暴食をする人にとって”食べる事飲む事”が常態化される。
つまり、”五感で感じる物が常態化”される事で刺激を受ける度合が減ります。
多く摂取しなければ感じなくなるという事は裏を返せば多く摂取しなければ五感が感知しないという事となります。
例えばこれは”危機回避能力”にも影響を及ぼし普段”危険察知”が働く物が働かなくなります。
それは”五感情報”が”暴飲暴食”により”全てが大枠”で捉えられる様になってしまった為、”危険察知能力”に対しても反応が緩慢となる為です。
又、これらは”感情面”でも適応され”喜怒哀楽”が人よりも鈍感となり緩慢となります。
最初は”KYな人”どまりですがそれが段々と講じると”あの人は無感情な人”となり最悪”快楽殺人者”への道を歩む事も否定は出来なります。
つまり”五感が 鈍重と成る”事により”より強い快楽”を求める結果”快楽至上主義者”となり、”快楽を求める為に様々な行動を起こす”事が原因で先に述べた”快楽殺人 者”への道を歩む事にも成りかねません。
事実、私が謁見した事が有る快楽殺人者の中にはこの傾向を感じた者も居ました。
暴飲暴食というのは”体”だけを壊す物に非ず、”心”までもを壊す愚行である事をどうか肝に銘じておいて下さい。
何事も”程々”が一番ですよ^^V。
内臓を必要以上に酷使する事は生体機能を著しく低下させ生命維持が困難と成ります。
まぁ何でも”やりすぎ”は体に毒である事は自明の理、されど実はこの”暴飲暴食”は内臓に負担を掛けるだけに非ず。
意外と知られていない事ですが”精神”にも多大なる影響を及ぼしているのです。
”暴飲暴食”を繰返しているとそれが”常態”となってしまい、それを行っている本人的にはそれが”暴飲暴食”ではなくなり”普通食(常態食)”となってしまう。
これは実は恐ろしい”心の病”を引き起こす原因となります。
”感情機能障害”つまり、喜怒哀楽の”心の機能”が上手く働かなくなる心の病を引き起こし易くなるのです。
何故、”暴飲暴食”をすると”感情機能障害”を引き起こしやすくなるのでしょう?
それは”五感情報”にその原因があるのです。
暴飲暴食をする人にとって”食べる事飲む事”が常態化される。
つまり、”五感で感じる物が常態化”される事で刺激を受ける度合が減ります。
多く摂取しなければ感じなくなるという事は裏を返せば多く摂取しなければ五感が感知しないという事となります。
例えばこれは”危機回避能力”にも影響を及ぼし普段”危険察知”が働く物が働かなくなります。
それは”五感情報”が”暴飲暴食”により”全てが大枠”で捉えられる様になってしまった為、”危険察知能力”に対しても反応が緩慢となる為です。
又、これらは”感情面”でも適応され”喜怒哀楽”が人よりも鈍感となり緩慢となります。
最初は”KYな人”どまりですがそれが段々と講じると”あの人は無感情な人”となり最悪”快楽殺人者”への道を歩む事も否定は出来なります。
つまり”五感が 鈍重と成る”事により”より強い快楽”を求める結果”快楽至上主義者”となり、”快楽を求める為に様々な行動を起こす”事が原因で先に述べた”快楽殺人 者”への道を歩む事にも成りかねません。
事実、私が謁見した事が有る快楽殺人者の中にはこの傾向を感じた者も居ました。
暴飲暴食というのは”体”だけを壊す物に非ず、”心”までもを壊す愚行である事をどうか肝に銘じておいて下さい。
何事も”程々”が一番ですよ^^V。
五感療法についての一考察
絵画療法や音楽療法、動画療法等を一般的には『五感療法』と呼び ます。
即ち『五感』をフル活用しそれらを精神疾病治療に活かすからです 。
音楽療法を含む『五感療法』の一番の長所は”脳に直接的に刺激を 与えられる事”に有ります。
これは行動療法である嫌悪療法の亜流です。
意外と音楽療法で気付かれていないのが『ビート』即ち『鼓動』で す。
何故か?人間が生まれて最初に耳にする音は母親の心臓音です。
即ち『鼓動』それ故一番脳に強印象を与えやすいのです(事前記憶 がある為)。
其処を意識すると例えばヘビーメタル系の音楽でも充分音楽療法に対応可能という事になりますしオペ ラや声楽家の音楽も適用可能という事に成ります。
即ち、”ジャンルを問わない”という事になります。
一つだけ気をつけたいのは普段聴きなれている音楽はなるべく避け るという事。
それらは”聞きなれている”ので”鼓動”の感じ方が弱くなるから です。
なるべく今まで聞いた事がないジャンルで且つ”鼓動”を感じられ る物がベストです。
つまり”鼓動”を感じられれば良いのですから。
即ち『五感』をフル活用しそれらを精神疾病治療に活かすからです
音楽療法を含む『五感療法』の一番の長所は”脳に直接的に刺激を
これは行動療法である嫌悪療法の亜流です。
意外と音楽療法で気付かれていないのが『ビート』即ち『鼓動』で
何故か?人間が生まれて最初に耳にする音は母親の心臓音です。
即ち『鼓動』それ故一番脳に強印象を与えやすいのです(事前記憶
其処を意識すると例えばヘビーメタル系の音楽でも充分音楽療法に対応可能という事になりますしオペ
即ち、”ジャンルを問わない”という事になります。
一つだけ気をつけたいのは普段聴きなれている音楽はなるべく避け
それらは”聞きなれている”ので”鼓動”の感じ方が弱くなるから
なるべく今まで聞いた事がないジャンルで且つ”鼓動”を感じられ
つまり”鼓動”を感じられれば良いのですから。
2011年6月17日金曜日
フェミニズムの心理学~或いは本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?の心理学~
大学時代、フェミニズムを学び以下に歴史的に女性が社会的に虐げられてきたかをしっかりと学ばせて戴いた。
記述されている内容はそのどれもが目を覆いたくなるような内容ばかりで男性である私自身怒りを禁じえなかった。
ウーマンリブは1960年アメリカで起こった女性解放運動で日本では旧社会党の元・土井たかこ委員長が有名である。
フェミニズム論者としては上野千鶴子女史を初め名立たる論客が日本では名を連ねておられるがそれらと又ウーマンリブは別物であると私は考えている。
近年、女性の社会進出は目覚しく女性の管理職や社長等はもう珍しい話ではなくなりどんどん男性は隅に追いやられていく一方である(笑)
私なんぞはその典型であり何処へ言っても”今の先生があるのは奥様のお陰ですからね”と念を押される始末(爆)。
まぁ私自身それは容認というか痛感しているので反論の余地は全 くないのだが^^;。
だが一心理学者として(というか私自身がへそ曲りゆえなのだが)は今の風潮を別の角度から分析してみたいと思う。
本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?それを心理学的に分析してみたいと思う。
例えばウーマンリブ以前のジャパニーズカルチャーに目を向けてみよう。
そこでは甲斐甲斐しく男性に尽くす女性の姿が映し出され、常、男が前、女性が後ろという図式が成り立っていた。
ドラマの題名を見ても『俺は男だ!』『俺たちの旅』『俺たちは天使だ』等男を前面に出したドラマが圧倒的であった。
芸能界でも三波春雄、村田秀雄を初め橋・西郷・舟木の『御三家』や郷・西城・野口の『新・御三家』大活躍の時代。
翻り現代はガールズグループ花盛りの時代。
おにゃんこクラブに端を発したガールズグループはその後モーニング娘。やAKB48、女子十二楽房や、KARA、少女時代等ガールズグループが日本の芸能界を牽引しているといっても過言ではないであろう。
ドラマの題名を見ても『科捜研の女』『京都地検の女』『七人の女弁護士』等、女を前面に出したドラマが隆盛を極めている。
これを見る限り”ほら、やっぱりウーマンリブ以降女性が台頭してきているじゃない”と言う風に一見すると見える。
んが、心理学的考察だと残念ながらこれらは全て”逆”となる(笑)
映画やドラマの醍醐味とは何だろう?それは『仮想現実』を味わえる点に有る。
つまり”現実にはありえない出来事を疑似体験出来る”という事が映画やTVの一番のウリで有る訳だ。
空を自由に飛び、弾丸も跳ね返し、新幹線よりも早く飛ぶヒーロー、筋骨隆々で敵をなぎ倒す主人公等がその典型。現実ではとても実現不可能だけどTVや映画の世界で疑似体験する事によりそれらの欲求を満たし鬱憤を晴らす。
きっと悪役に自らの気に食わない会社の上司や苛めっ子をイメージし主人公と自分を重ねた人も少なくない筈。
韓流スターの出る恋愛ドラマでヒロインと自分を重ねた婦女子も結構居られるのではないでしょうか?(笑)
このように映画やドラマ、音楽等”人間が表現物全て”には人間の”夢や希望”が色濃く投影されているという事です。
では話を冒頭のそれに戻しましょう、ウーマンリブ以前のドラマや曲では”女性が只管耐え忍ぶ物”が多く、今のドラマや曲では”女性が華々しく活躍する物”が多いのは何故か?勿論それらに共感を得た為というのもあるでしょうが、それよりも多いのは”仮想現実の実現”の部分。
つまり”耐え忍ぶ女性”の姿、”甲斐甲斐しく男に尽くす女性の姿”を見るのは女性だけでなく男性もいるという事。
そしてそれらが支持を得ていたという事は社会的欲求が其処にあったという紛れもない事実でありました。
翻り現代は”女性が自由奔放に八面六臂の活躍をしているドラマや歌が隆盛を極めている”という事実。
これも裏を返せば”そういう女性に対する女性の強い憧れ”がそういう物のヒットを生んでいるという事です。
実際ウーマンリブ以前の女性にインタビューをした事が有ります。
勿論限られた行動範囲での取材故、若干の偏りは有るかも知れません。
されど、インタビューに答えてくれた女性は”周りが騒ぐほど私は虐げられては居なかった。昔は物がない時代でそれこそ男女差無くお互いが助け合わなければ生きられなかった、旦那はとても優しかった”と言う人が多数でした。
これは一体何を意味しているのでしょう?
歴史自体に異議申し立てをするつもりは毛頭御座いません、
それらは歴史学者に喧嘩を売る愚行なれば^^;。
されど、 歴史書の中で我々が昔習った”聖徳太子”が実は実在の人物ではなかったとか、家康が信玄の子であった可能性等歴史が現代の新たな調査により正史として伝え られていた物が実は偽史であり捏造された物であったという事は実際に有った事。
なればウーマンリブ以前の書物自体に全く誤りがなかったという事も疑わしくなります。
実際私が見聞した内容と女性学の過去の書物の内容にはかなりの隔たりが有りました。
何故生物が須らくオスとメスに分けられたのか?私はそれが”生物の不完全性を教える為”だと解釈しています。
男性だけでも女性だけでも歴史が刻まれる事はなかった筈、男性と女性が居て初めて歴史の歯車は回るのです。
一部のフェミニズム信者は”女性だけのユートピア”を作ろうと画策されておられる御様子。
されど私は”男性だけのユートピア“等御免蒙りたい(笑)まして、”女性を従わせて“等という考えは毛頭有りません。
もっとお互いがお互いを理解し愛し合えば恐らくこの世から戦争や争いは無くなる気がします。
その為にも最小単位である男女がもっと解りあえる愛し合える環境を創って生きたいと考えています。
記述されている内容はそのどれもが目を覆いたくなるような内容ばかりで男性である私自身怒りを禁じえなかった。
ウーマンリブは1960年アメリカで起こった女性解放運動で日本では旧社会党の元・土井たかこ委員長が有名である。
フェミニズム論者としては上野千鶴子女史を初め名立たる論客が日本では名を連ねておられるがそれらと又ウーマンリブは別物であると私は考えている。
近年、女性の社会進出は目覚しく女性の管理職や社長等はもう珍しい話ではなくなりどんどん男性は隅に追いやられていく一方である(笑)
私なんぞはその典型であり何処へ言っても”今の先生があるのは奥様のお陰ですからね”と念を押される始末(爆)。
まぁ私自身それは容認というか痛感しているので反論の余地は全 くないのだが^^;。
だが一心理学者として(というか私自身がへそ曲りゆえなのだが)は今の風潮を別の角度から分析してみたいと思う。
本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?それを心理学的に分析してみたいと思う。
例えばウーマンリブ以前のジャパニーズカルチャーに目を向けてみよう。
そこでは甲斐甲斐しく男性に尽くす女性の姿が映し出され、常、男が前、女性が後ろという図式が成り立っていた。
ドラマの題名を見ても『俺は男だ!』『俺たちの旅』『俺たちは天使だ』等男を前面に出したドラマが圧倒的であった。
芸能界でも三波春雄、村田秀雄を初め橋・西郷・舟木の『御三家』や郷・西城・野口の『新・御三家』大活躍の時代。
翻り現代はガールズグループ花盛りの時代。
おにゃんこクラブに端を発したガールズグループはその後モーニング娘。やAKB48、女子十二楽房や、KARA、少女時代等ガールズグループが日本の芸能界を牽引しているといっても過言ではないであろう。
ドラマの題名を見ても『科捜研の女』『京都地検の女』『七人の女弁護士』等、女を前面に出したドラマが隆盛を極めている。
これを見る限り”ほら、やっぱりウーマンリブ以降女性が台頭してきているじゃない”と言う風に一見すると見える。
んが、心理学的考察だと残念ながらこれらは全て”逆”となる(笑)
映画やドラマの醍醐味とは何だろう?それは『仮想現実』を味わえる点に有る。
つまり”現実にはありえない出来事を疑似体験出来る”という事が映画やTVの一番のウリで有る訳だ。
空を自由に飛び、弾丸も跳ね返し、新幹線よりも早く飛ぶヒーロー、筋骨隆々で敵をなぎ倒す主人公等がその典型。現実ではとても実現不可能だけどTVや映画の世界で疑似体験する事によりそれらの欲求を満たし鬱憤を晴らす。
きっと悪役に自らの気に食わない会社の上司や苛めっ子をイメージし主人公と自分を重ねた人も少なくない筈。
韓流スターの出る恋愛ドラマでヒロインと自分を重ねた婦女子も結構居られるのではないでしょうか?(笑)
このように映画やドラマ、音楽等”人間が表現物全て”には人間の”夢や希望”が色濃く投影されているという事です。
では話を冒頭のそれに戻しましょう、ウーマンリブ以前のドラマや曲では”女性が只管耐え忍ぶ物”が多く、今のドラマや曲では”女性が華々しく活躍する物”が多いのは何故か?勿論それらに共感を得た為というのもあるでしょうが、それよりも多いのは”仮想現実の実現”の部分。
つまり”耐え忍ぶ女性”の姿、”甲斐甲斐しく男に尽くす女性の姿”を見るのは女性だけでなく男性もいるという事。
そしてそれらが支持を得ていたという事は社会的欲求が其処にあったという紛れもない事実でありました。
翻り現代は”女性が自由奔放に八面六臂の活躍をしているドラマや歌が隆盛を極めている”という事実。
これも裏を返せば”そういう女性に対する女性の強い憧れ”がそういう物のヒットを生んでいるという事です。
実際ウーマンリブ以前の女性にインタビューをした事が有ります。
勿論限られた行動範囲での取材故、若干の偏りは有るかも知れません。
されど、インタビューに答えてくれた女性は”周りが騒ぐほど私は虐げられては居なかった。昔は物がない時代でそれこそ男女差無くお互いが助け合わなければ生きられなかった、旦那はとても優しかった”と言う人が多数でした。
これは一体何を意味しているのでしょう?
歴史自体に異議申し立てをするつもりは毛頭御座いません、
それらは歴史学者に喧嘩を売る愚行なれば^^;。
されど、 歴史書の中で我々が昔習った”聖徳太子”が実は実在の人物ではなかったとか、家康が信玄の子であった可能性等歴史が現代の新たな調査により正史として伝え られていた物が実は偽史であり捏造された物であったという事は実際に有った事。
なればウーマンリブ以前の書物自体に全く誤りがなかったという事も疑わしくなります。
実際私が見聞した内容と女性学の過去の書物の内容にはかなりの隔たりが有りました。
何故生物が須らくオスとメスに分けられたのか?私はそれが”生物の不完全性を教える為”だと解釈しています。
男性だけでも女性だけでも歴史が刻まれる事はなかった筈、男性と女性が居て初めて歴史の歯車は回るのです。
一部のフェミニズム信者は”女性だけのユートピア”を作ろうと画策されておられる御様子。
されど私は”男性だけのユートピア“等御免蒙りたい(笑)まして、”女性を従わせて“等という考えは毛頭有りません。
もっとお互いがお互いを理解し愛し合えば恐らくこの世から戦争や争いは無くなる気がします。
その為にも最小単位である男女がもっと解りあえる愛し合える環境を創って生きたいと考えています。
2011年6月16日木曜日
醜形恐怖症の新たな脅威~或いはボーダレスセクシャルの心理学~
醜形恐怖症とは読んで字の如く自らが醜いと誤解をしそれに対する異常な恐怖を抱く心の病である。
小さくはプチ整形等がその例に挙げられ、大きくなると自己否定から自我崩壊に至り自死に至るケースも少なくない。
我が元にもそういう”醜形恐怖症”の同胞が年間を通してかなりの数来訪されている。
しかもその数は年を負う毎に増して行きその内容も多岐に渡り既存の常識を打ち破る内容となっている。
今まで醜形恐怖症の多くは女性が罹患しておりその対象者も同じ女性であるケースが多かった。
されど最近は女性よりも寧ろ男性にその率が多く見られ且つその対象も男女共というケースが増えてきた。
我々 が子供の頃は『男は男らしく女は女らしく』と言う教育を受け男が女らしい格好や女が男らしい格好でいる事は恥とされきちんと”生態的性別”により区分けが されていた。しかし”ニューハーフ”の台頭及びスイーツ系男子やお弁当系男子の登場によりそれらのボーダーは大変曖昧模糊な物となり又、幼少期よりメイク 等に関心を深く持つようになる事により、より早い年代から”美”という物を意識せざるを得ない状況になってきている。
今までは対象が女性で且つ同性であった物が対象が男性まで広がりカバー範囲が広がってしまった。
最近は”女性より美しい男性”は珍しくなくなり、女性の”美”という物の牙城を男性がどんどん突き崩していっている。
だが、多くの方々が気づいていない事実が有る事をこれまた多くの方がご存知ない。
男性が求める美も女性が求める美も結局は”女性的美”であるという事に。
所謂”イケメン”と称される男性の多くは”女性的美しさ”を持つ者が多く例え日サロで焼いていてもやはり”小麦色した女性の美”に近い状態となって居る事が現状である。男性的なムキムキの筋肉質でイケメンという人は余り居ない。
つまり”美”という対象自体が、”女性的”であるという事実に多くの醜形恐怖症に悩む女性は気付いていない。
”美の女神”という言葉でも解る通り、”美”を持てるのは女性でしかなく、男性の求める”美”は又違う所にある。
つまり、幾ら男性側が女性の”美”の領域に入り込んだとしても結局は”女性的美しさ”を求めているに過ぎない。
見た目の性別は”男”でもその”男”が求める”美”は”女性的美”であり、結果”女性”を相手にしていると同じである。
なれば”元々女性”である分だけプライオリティーは女性側にあり、男性側がしなくてはいけない苦労の幾つかを既に女性は生来持っているのでその努力分しなくて済むのである。
且つ”多くの人が求める美”ではなく”オリジナルの美”に気付く事、実はこれが尤も大事である。
”美”という物を求める根源的要素は”人にない物を求める”という事にあり人より美しくなりたいと欲するはそれが故。
なれば”相手が得る事が出来ない美”を自らが求めればそれこそ”究極美”を手に入れるも同じである。
そしてその”究極美”こそが個々人の持つ、”オリジナルビューティー”であると私は認識している。
誰にも拠らず誰も真似ず、”自分が自分で有る事を示せる美”である事である。
我々専門職はお一人お一人の中に隠れた”その人にしかない美”を見つけ出しそれを表に出しお示しする事で自らが”美の種”を内包して居る事にお気づき戴きそれを伸ばす事で人との差を付ける事をお勧めしている。
お陰で同胞の数は鰻上りに増え今も増加の一途を辿り、我が門を去る頃には皆、”オリジナルビューティー”を手に入れ威風堂々と胸を張って我が門を去っていかれている。自と他を較べる事自体は悪い事ではない、他者と自分を比較する事で気づかされる事は実に多くある。
されどそこから”学び”を得ず、”劣等感”だけを得ていたのでは”比較”する意味がなくなる。
”比較”とはその結果、”得る物”が有ってこそ初めて”比較”する事に価値が見出されるのである。
人と自分を較べる事自体が悪いのではなくそこから”自らのオリジナリティー”を見つける事を怠る事こそが罪である。
”私は綺麗ではない”と自らの可能性を潰してしまう前に我が門を叩いてみませんか?
きっと”人も羨むオリジナルビューティー”に溢れるアナタに私がして見せましょう!
今日から”醜形恐怖症”にバイバイしませんか?そのお手伝い私がさせて戴きます^^v
小さくはプチ整形等がその例に挙げられ、大きくなると自己否定から自我崩壊に至り自死に至るケースも少なくない。
我が元にもそういう”醜形恐怖症”の同胞が年間を通してかなりの数来訪されている。
しかもその数は年を負う毎に増して行きその内容も多岐に渡り既存の常識を打ち破る内容となっている。
今まで醜形恐怖症の多くは女性が罹患しておりその対象者も同じ女性であるケースが多かった。
されど最近は女性よりも寧ろ男性にその率が多く見られ且つその対象も男女共というケースが増えてきた。
我々 が子供の頃は『男は男らしく女は女らしく』と言う教育を受け男が女らしい格好や女が男らしい格好でいる事は恥とされきちんと”生態的性別”により区分けが されていた。しかし”ニューハーフ”の台頭及びスイーツ系男子やお弁当系男子の登場によりそれらのボーダーは大変曖昧模糊な物となり又、幼少期よりメイク 等に関心を深く持つようになる事により、より早い年代から”美”という物を意識せざるを得ない状況になってきている。
今までは対象が女性で且つ同性であった物が対象が男性まで広がりカバー範囲が広がってしまった。
最近は”女性より美しい男性”は珍しくなくなり、女性の”美”という物の牙城を男性がどんどん突き崩していっている。
だが、多くの方々が気づいていない事実が有る事をこれまた多くの方がご存知ない。
男性が求める美も女性が求める美も結局は”女性的美”であるという事に。
所謂”イケメン”と称される男性の多くは”女性的美しさ”を持つ者が多く例え日サロで焼いていてもやはり”小麦色した女性の美”に近い状態となって居る事が現状である。男性的なムキムキの筋肉質でイケメンという人は余り居ない。
つまり”美”という対象自体が、”女性的”であるという事実に多くの醜形恐怖症に悩む女性は気付いていない。
”美の女神”という言葉でも解る通り、”美”を持てるのは女性でしかなく、男性の求める”美”は又違う所にある。
つまり、幾ら男性側が女性の”美”の領域に入り込んだとしても結局は”女性的美しさ”を求めているに過ぎない。
見た目の性別は”男”でもその”男”が求める”美”は”女性的美”であり、結果”女性”を相手にしていると同じである。
なれば”元々女性”である分だけプライオリティーは女性側にあり、男性側がしなくてはいけない苦労の幾つかを既に女性は生来持っているのでその努力分しなくて済むのである。
且つ”多くの人が求める美”ではなく”オリジナルの美”に気付く事、実はこれが尤も大事である。
”美”という物を求める根源的要素は”人にない物を求める”という事にあり人より美しくなりたいと欲するはそれが故。
なれば”相手が得る事が出来ない美”を自らが求めればそれこそ”究極美”を手に入れるも同じである。
そしてその”究極美”こそが個々人の持つ、”オリジナルビューティー”であると私は認識している。
誰にも拠らず誰も真似ず、”自分が自分で有る事を示せる美”である事である。
我々専門職はお一人お一人の中に隠れた”その人にしかない美”を見つけ出しそれを表に出しお示しする事で自らが”美の種”を内包して居る事にお気づき戴きそれを伸ばす事で人との差を付ける事をお勧めしている。
お陰で同胞の数は鰻上りに増え今も増加の一途を辿り、我が門を去る頃には皆、”オリジナルビューティー”を手に入れ威風堂々と胸を張って我が門を去っていかれている。自と他を較べる事自体は悪い事ではない、他者と自分を比較する事で気づかされる事は実に多くある。
されどそこから”学び”を得ず、”劣等感”だけを得ていたのでは”比較”する意味がなくなる。
”比較”とはその結果、”得る物”が有ってこそ初めて”比較”する事に価値が見出されるのである。
人と自分を較べる事自体が悪いのではなくそこから”自らのオリジナリティー”を見つける事を怠る事こそが罪である。
”私は綺麗ではない”と自らの可能性を潰してしまう前に我が門を叩いてみませんか?
きっと”人も羨むオリジナルビューティー”に溢れるアナタに私がして見せましょう!
今日から”醜形恐怖症”にバイバイしませんか?そのお手伝い私がさせて戴きます^^v
2011年6月14日火曜日
影ぼうし~もう一人のボク~
夕日が迫る帰り道、パパと手を繋ぐボクの前に長い”影”ができた 。
ボクが歩くと影も歩き、ボクが止まると”影”も止まる。
ボクはふと立ち止まりじっと”影”を見つめた。
本当はどっちが本当のボク?パパと手を繋いでいるボク?それとも …。
急にボクは恐くなってパパの手をぎゅっと握り締めた。
パパにボクの漠然とした不安が伝わったのか優しい笑顔で更に強く ボクの手を握り返してくれた。
ボクは安心して又、歩き始めた。
ふと後ろを振り返ると先程の”影”が後ろから何だか嬉しそうに手 を振っている様にボクには見えた。
ボクは心の中で小さく手を振りこういった、”バイバイ、もう一人 のボク”と。
2011年6月7日火曜日
栄養心理学について
栄養心理学とは栄養が”心”に与える影響を研究した分野である。
代表的な物を言えば例えば”カルシウム不足となるとイライラが増え怒りやすくなる”とかである。
栄養学的及び生態学的には存じ上げませんが心理学的には朝食をし
『栄養を摂る事』と『栄養補助食品を摂る事』は同じでは有りませ
代表的な物を言えば例えば”カルシウム不足となるとイライラが増え怒りやすくなる”とかである。
栄養学的及び生態学的には存じ上げませんが心理学的には朝食をし っかり摂る事は脳に”栄養がちゃんと行渡ったから仕事してね”と 指令を出す意味でとても重要な意味を持ちます。
又、しっかりと” 噛む”事で脳に刺激を与えそれが脳の目覚めと活性化に繋がり仕事 、発想の効率化を図る事が出来るようになります。
朝をカロリーメ イト等栄養補助食品等で補っているアナタ?出来るだけきちんと朝 食は摂りましょうね^^v
閑話休題
『栄養を摂る事』と『栄養補助食品を摂る事』は同じでは有りませ ん。
『補助食品』を多く摂取しても『補助』であり『栄養』を摂取した 事にはなりません。
事実『栄養補助食品』だけと『経口からの食物摂取』ではバランス 表が一目瞭然。
『栄養補助食品』だけだと栄養バランス表にバラつきがあり綺麗な 五角形にはなりませんが『経口からの栄養摂取』ではちゃんと綺麗 な五角形を描きます。
これは脳にちゃんと『栄養が行き届いた』という指令が届いている か否かが原因。
経口からの栄養摂取により脳は『食べた』と認識しそれが必要部所 へ栄養を運ぶ際の助けとなります。これが栄養補助食品だとその認 識が弱く当然栄養を運ぶ際の助けの妨げとなります。
経口且つちゃんとした肉・魚・野菜・果物等形有る物を食べる事で 脳は”食べた”と認識しそれにより始めて”栄養”摂取となるので す。
更に閑話休題
アルコールの摂取過多は内臓を壊すだけでなく神経系を傷め、脳の シナプスの伝達速度を落とし判断力、思考力を低下させミスを頻発させる要因となりそれが常態化する事により脳内麻薬の役目も果たす為依存症へと移行しやす いく、無気力症候群にもなりなすいのでアルコール摂取も程ほどに^^;
どうですか?栄養が”心”に与える影響に就いて少しは御理解戴けたでしょうか?
きちんとした栄養を取る事は”心”にも栄養を与えているという事お忘れなく^^v。
どうですか?栄養が”心”に与える影響に就いて少しは御理解戴けたでしょうか?
きちんとした栄養を取る事は”心”にも栄養を与えているという事お忘れなく^^v。
2011年6月4日土曜日
気分変調障害の心理学~或いは常態性行動の恐るべき罠の心理学~
今の時期、天候が悪く朝は晴れていたのに夕方急に雲行きが怪しくなり帰社時いきなり雨に遭う人も少なくない。
私もそんな一人で雨の中傘も差さず(差せず?)上から下までびしょぬれで帰宅した事も一度や二度ではない。
特に季節の変わり目はそんな天候の日が多く、傘を持っていこうかいくまいか大いに悩む所である。
意外とこの傘と言う奴は嵩張るし邪魔になるので雨が降らなければ降らないでそれが又小さなストレスと成る。
そんなこんなで季節の変わり目は気候変動が激しい分”心が中々安定しない時期”でも又或る。
故にこの時期我々心理職の人間は実は結構忙しい、東奔西走し寝る間を惜しまなくてはいけない日々が結構続く。
特にこういう時期、”気分変調障害”の人”や”躁うつ病”や”自律神経失調症”を患っておられる方は本当に大変である。
そういう方を多くセラピーさせて戴いた事がある私のこの時期の対策法を述べてみたいと思う。
先ず今の時期、気候変動や政治不信等”不安要素”が世の中に蔓延している、これは先ず抑えておくべき事。
何故ならその事が周囲の人々の”心の不安定さ”を生み、それらが自分にも”伝播”している事を認識する事が大事だからである。
つまり”自分だけがおかしいのではなく自分を含む周り全てがそういう状態である”という認識を持つ事。
そうなれば”自分一人だけが可笑しいのではなく皆も可笑しい=自分はおかしくない”という事となる。
可笑しいの定義は”自他が違う事”である訳なので”自他共に同じ”ならそれは”おかしい”という定義からは外れる訳である。
次に”常態性行動”の項でも触れたが”視界情報をアップデートする事”が大事である。
心が不安定な時は普段見慣れている筈の風景がよりその鬱々感を増加させる効果(逆効果?)がある。
何故なら鬱々とした時に見ている風景なので今見ている風景がより自らの鬱々感を増長させていると思い込むからである。
それを回避する為には”常態性行動”を変えて見る事である。
つまり、”普段見慣れない道を通って通勤をしてみる””行きなれた店じゃない店でご飯を食べる“等である。
視点を変える事で脳内記憶をアップデートさせそれにより”欝の記憶”を遠ざける事、それが気分変調障害を改善させる方法である。
そして何より一番大切なことは”時限性が高くそれらが永続的に続くものではない事を自覚する事”である。
つまり、”時期的””季節的”など”時限的”な物がその主な原因なのでそれらに”永続性”は無いのである。
それを強く意識する事で”嵐が去るのを待つ”という姿勢を持つことも大事である。
又、我々のような専門職に助けを乞う事も又大事な事であろう。
誰かの助けを乞いそれを支えとする事で随分と”心の負担”を軽くする事はできる。
アナタの”心の荷物”私にも少し持たせて貰えませんか?^^V
私もそんな一人で雨の中傘も差さず(差せず?)上から下までびしょぬれで帰宅した事も一度や二度ではない。
特に季節の変わり目はそんな天候の日が多く、傘を持っていこうかいくまいか大いに悩む所である。
意外とこの傘と言う奴は嵩張るし邪魔になるので雨が降らなければ降らないでそれが又小さなストレスと成る。
そんなこんなで季節の変わり目は気候変動が激しい分”心が中々安定しない時期”でも又或る。
故にこの時期我々心理職の人間は実は結構忙しい、東奔西走し寝る間を惜しまなくてはいけない日々が結構続く。
特にこういう時期、”気分変調障害”の人”や”躁うつ病”や”自律神経失調症”を患っておられる方は本当に大変である。
そういう方を多くセラピーさせて戴いた事がある私のこの時期の対策法を述べてみたいと思う。
先ず今の時期、気候変動や政治不信等”不安要素”が世の中に蔓延している、これは先ず抑えておくべき事。
何故ならその事が周囲の人々の”心の不安定さ”を生み、それらが自分にも”伝播”している事を認識する事が大事だからである。
つまり”自分だけがおかしいのではなく自分を含む周り全てがそういう状態である”という認識を持つ事。
そうなれば”自分一人だけが可笑しいのではなく皆も可笑しい=自分はおかしくない”という事となる。
可笑しいの定義は”自他が違う事”である訳なので”自他共に同じ”ならそれは”おかしい”という定義からは外れる訳である。
次に”常態性行動”の項でも触れたが”視界情報をアップデートする事”が大事である。
心が不安定な時は普段見慣れている筈の風景がよりその鬱々感を増加させる効果(逆効果?)がある。
何故なら鬱々とした時に見ている風景なので今見ている風景がより自らの鬱々感を増長させていると思い込むからである。
それを回避する為には”常態性行動”を変えて見る事である。
つまり、”普段見慣れない道を通って通勤をしてみる””行きなれた店じゃない店でご飯を食べる“等である。
視点を変える事で脳内記憶をアップデートさせそれにより”欝の記憶”を遠ざける事、それが気分変調障害を改善させる方法である。
そして何より一番大切なことは”時限性が高くそれらが永続的に続くものではない事を自覚する事”である。
つまり、”時期的””季節的”など”時限的”な物がその主な原因なのでそれらに”永続性”は無いのである。
それを強く意識する事で”嵐が去るのを待つ”という姿勢を持つことも大事である。
又、我々のような専門職に助けを乞う事も又大事な事であろう。
誰かの助けを乞いそれを支えとする事で随分と”心の負担”を軽くする事はできる。
アナタの”心の荷物”私にも少し持たせて貰えませんか?^^V
2011年6月1日水曜日
ランナーズハイの心理学~或いは脳内麻薬の恐るべき罠の心理学~
今回の震災を通して日本人、嫌、世界の人々が学んだ事ーそれは”耐える事”と思います。
被災者方々は今も不自由な生活を懸命に”耐えて”居ます、その姿に世界が涙し共感しました。
今回これほど多くの義捐金が世界中から集められたのもこの”日本人の耐える姿勢”に感動した為というのも大きい。
それほどまでに日本人は”耐え忍ぶ事”を尊ぶ世界にも類を見ない珍しい国民性を持っているともいえます。
この”耐え忍ぶ事を尊ぶ姿勢”は何処から生まれたのか?それは日本の気候風土がそれを物語っています。
周りを海に囲まれ海洋資源や山林等自然資源には事欠かない日本ですがそれでも”足りない物”は沢山あります。
今は政治的外交関係で国内生産で賄える物まで輸入に頼らざるを得ない日本ですが太古の昔より他国より鎖国時代も様々な物資を”輸入”に頼りながら日本は生き延びて参りました。
されどそれも安定供給が成される訳ではなく輸出国の生産高が落ち込めば当然輸出用物資は抑えられ自国へ回され結果日本へは物資が不足する事態というのも当然の事ながら起こりえます。
その際、日本人である我々は只管”耐える”しかなくそれ以外に手段は有りません。
又、昔から”武士道”や近年でいえば”我慢大会”等、”耐える事を美徳”とする国民性でもあります。
勿論、耐える事は誰しも嫌いでなるべくなら”我慢”などしたくはありません。
先人は”我慢は買ってでも白”と言われるがその先人とて”好んで我慢”はなさるまいでしょう。
されど”どうしても我慢せざるを得ない時”人の体はその”苦痛”を”快感”へ代える術をちゃんと持っております。
それが”脳内麻薬”と呼ばれる物質であり、人は過度の”苦痛”を受けた際、一時的に”苦痛”を”快楽”へ変える術をちゃんと体内に持っております。それがあればこそ日本人は”耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで”参ったのです。
所謂”ランナーズ・ハイ”がその一番の好例でございましょう、長距離ランナーがその余りの過酷さに”苦痛”を一時的に”快感”へと脳内で変換してしまう事、それが”ランナーズ・ハイ”であります。
その術が有ればこそ、日本人は”耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで”参ったので有ります。
所が…先程”脳内麻薬”と申しました、そう、これも”麻薬”の一種でありますので、”常習性”という物が当然ございます
それが表題にある”罠”の部分であります。
”苦痛”が”苦痛”のまま脳内に留まるのなら人は好んで”苦痛”を受けたりはしないでしょう。
されどその”苦痛”が”快感”に変わるなら話は別です、”体”はそれを拒んでいても”心”がそれを欲する限りそれらを人は求め続けます。正にランナーが”死ぬまで走り続ける”のと同義であります。
されど先程も述べました通り、”脳内麻薬”とは”一時的に苦痛を麻痺させ快楽とする代替措置”でありそれが長く続けば当然の事ながら肉体に過度なストレスや疲労を与える事となり、どんどん肉体は衰え内蔵機能も衰え続けます。
その結果、限界を超えた肉体や内臓はその機能を停止し、”死”を突然迎える事となります、これが”突然死”の原因。
昨今”過労死”が問題視されておりますがこの”過労死の要因にも実はこの”脳内麻薬”が大きく関係をしています。
”家族の為、会社の為に働く自分”に快楽を見出し、進んでではない物の”苦痛”を脳内麻薬で”快楽”へと変換し続けた結果、体は酷使に酷使を重ねその結果、二度と元には戻らない体となり、最悪”過労死”を迎える事となるのです。
そうなる前に”我慢も限界がある”という事を自らが知り、”脳内麻薬”のお世話にもならずに済む程度の”息抜き”は絶対に必要であると考えます。”脳内麻薬の多量分泌による突然死”なんてとんでもない事であり笑える話に非ずです。
”遺されていく者”の悲しみはそれを失った者でしか決して味わう事はできません、されどその時にはもう遅いのです。
私も亡父を”過労死”で半ば亡くした様な物ゆえにその悲しみは”実感”出来ます。
どうか”エコノミック・アニマル”に成らないで下さい、必要以上に”脳内麻薬”を分泌させないで下さい。
何より”あなたの大切な人たち”を悲しませるような事だけは決してしないであげてください。
あなたがあなたとしてこの世に居られるのは”今”だけなのです、前世でも来世でもなく”今”だけなのです。
それだけは決して忘れないで下さい、”愛する者の為に死ぬ”のではなく”生きて”下さい、お願いします。
被災者方々は今も不自由な生活を懸命に”耐えて”居ます、その姿に世界が涙し共感しました。
今回これほど多くの義捐金が世界中から集められたのもこの”日本人の耐える姿勢”に感動した為というのも大きい。
それほどまでに日本人は”耐え忍ぶ事”を尊ぶ世界にも類を見ない珍しい国民性を持っているともいえます。
この”耐え忍ぶ事を尊ぶ姿勢”は何処から生まれたのか?それは日本の気候風土がそれを物語っています。
周りを海に囲まれ海洋資源や山林等自然資源には事欠かない日本ですがそれでも”足りない物”は沢山あります。
今は政治的外交関係で国内生産で賄える物まで輸入に頼らざるを得ない日本ですが太古の昔より他国より鎖国時代も様々な物資を”輸入”に頼りながら日本は生き延びて参りました。
されどそれも安定供給が成される訳ではなく輸出国の生産高が落ち込めば当然輸出用物資は抑えられ自国へ回され結果日本へは物資が不足する事態というのも当然の事ながら起こりえます。
その際、日本人である我々は只管”耐える”しかなくそれ以外に手段は有りません。
又、昔から”武士道”や近年でいえば”我慢大会”等、”耐える事を美徳”とする国民性でもあります。
勿論、耐える事は誰しも嫌いでなるべくなら”我慢”などしたくはありません。
先人は”我慢は買ってでも白”と言われるがその先人とて”好んで我慢”はなさるまいでしょう。
されど”どうしても我慢せざるを得ない時”人の体はその”苦痛”を”快感”へ代える術をちゃんと持っております。
それが”脳内麻薬”と呼ばれる物質であり、人は過度の”苦痛”を受けた際、一時的に”苦痛”を”快楽”へ変える術をちゃんと体内に持っております。それがあればこそ日本人は”耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで”参ったのです。
所謂”ランナーズ・ハイ”がその一番の好例でございましょう、長距離ランナーがその余りの過酷さに”苦痛”を一時的に”快感”へと脳内で変換してしまう事、それが”ランナーズ・ハイ”であります。
その術が有ればこそ、日本人は”耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで”参ったので有ります。
所が…先程”脳内麻薬”と申しました、そう、これも”麻薬”の一種でありますので、”常習性”という物が当然ございます
それが表題にある”罠”の部分であります。
”苦痛”が”苦痛”のまま脳内に留まるのなら人は好んで”苦痛”を受けたりはしないでしょう。
されどその”苦痛”が”快感”に変わるなら話は別です、”体”はそれを拒んでいても”心”がそれを欲する限りそれらを人は求め続けます。正にランナーが”死ぬまで走り続ける”のと同義であります。
されど先程も述べました通り、”脳内麻薬”とは”一時的に苦痛を麻痺させ快楽とする代替措置”でありそれが長く続けば当然の事ながら肉体に過度なストレスや疲労を与える事となり、どんどん肉体は衰え内蔵機能も衰え続けます。
その結果、限界を超えた肉体や内臓はその機能を停止し、”死”を突然迎える事となります、これが”突然死”の原因。
昨今”過労死”が問題視されておりますがこの”過労死の要因にも実はこの”脳内麻薬”が大きく関係をしています。
”家族の為、会社の為に働く自分”に快楽を見出し、進んでではない物の”苦痛”を脳内麻薬で”快楽”へと変換し続けた結果、体は酷使に酷使を重ねその結果、二度と元には戻らない体となり、最悪”過労死”を迎える事となるのです。
そうなる前に”我慢も限界がある”という事を自らが知り、”脳内麻薬”のお世話にもならずに済む程度の”息抜き”は絶対に必要であると考えます。”脳内麻薬の多量分泌による突然死”なんてとんでもない事であり笑える話に非ずです。
”遺されていく者”の悲しみはそれを失った者でしか決して味わう事はできません、されどその時にはもう遅いのです。
私も亡父を”過労死”で半ば亡くした様な物ゆえにその悲しみは”実感”出来ます。
どうか”エコノミック・アニマル”に成らないで下さい、必要以上に”脳内麻薬”を分泌させないで下さい。
何より”あなたの大切な人たち”を悲しませるような事だけは決してしないであげてください。
あなたがあなたとしてこの世に居られるのは”今”だけなのです、前世でも来世でもなく”今”だけなのです。
それだけは決して忘れないで下さい、”愛する者の為に死ぬ”のではなく”生きて”下さい、お願いします。
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