大学時代、フェミニズムを学び以下に歴史的に女性が社会的に虐げられてきたかをしっかりと学ばせて戴いた。
記述されている内容はそのどれもが目を覆いたくなるような内容ばかりで男性である私自身怒りを禁じえなかった。
ウーマンリブは1960年アメリカで起こった女性解放運動で日本では旧社会党の元・土井たかこ委員長が有名である。
フェミニズム論者としては上野千鶴子女史を初め名立たる論客が日本では名を連ねておられるがそれらと又ウーマンリブは別物であると私は考えている。
近年、女性の社会進出は目覚しく女性の管理職や社長等はもう珍しい話ではなくなりどんどん男性は隅に追いやられていく一方である(笑)
私なんぞはその典型であり何処へ言っても”今の先生があるのは奥様のお陰ですからね”と念を押される始末(爆)。
まぁ私自身それは容認というか痛感しているので反論の余地は全 くないのだが^^;。
だが一心理学者として(というか私自身がへそ曲りゆえなのだが)は今の風潮を別の角度から分析してみたいと思う。
本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?それを心理学的に分析してみたいと思う。
例えばウーマンリブ以前のジャパニーズカルチャーに目を向けてみよう。
そこでは甲斐甲斐しく男性に尽くす女性の姿が映し出され、常、男が前、女性が後ろという図式が成り立っていた。
ドラマの題名を見ても『俺は男だ!』『俺たちの旅』『俺たちは天使だ』等男を前面に出したドラマが圧倒的であった。
芸能界でも三波春雄、村田秀雄を初め橋・西郷・舟木の『御三家』や郷・西城・野口の『新・御三家』大活躍の時代。
翻り現代はガールズグループ花盛りの時代。
おにゃんこクラブに端を発したガールズグループはその後モーニング娘。やAKB48、女子十二楽房や、KARA、少女時代等ガールズグループが日本の芸能界を牽引しているといっても過言ではないであろう。
ドラマの題名を見ても『科捜研の女』『京都地検の女』『七人の女弁護士』等、女を前面に出したドラマが隆盛を極めている。
これを見る限り”ほら、やっぱりウーマンリブ以降女性が台頭してきているじゃない”と言う風に一見すると見える。
んが、心理学的考察だと残念ながらこれらは全て”逆”となる(笑)
映画やドラマの醍醐味とは何だろう?それは『仮想現実』を味わえる点に有る。
つまり”現実にはありえない出来事を疑似体験出来る”という事が映画やTVの一番のウリで有る訳だ。
空を自由に飛び、弾丸も跳ね返し、新幹線よりも早く飛ぶヒーロー、筋骨隆々で敵をなぎ倒す主人公等がその典型。現実ではとても実現不可能だけどTVや映画の世界で疑似体験する事によりそれらの欲求を満たし鬱憤を晴らす。
きっと悪役に自らの気に食わない会社の上司や苛めっ子をイメージし主人公と自分を重ねた人も少なくない筈。
韓流スターの出る恋愛ドラマでヒロインと自分を重ねた婦女子も結構居られるのではないでしょうか?(笑)
このように映画やドラマ、音楽等”人間が表現物全て”には人間の”夢や希望”が色濃く投影されているという事です。
では話を冒頭のそれに戻しましょう、ウーマンリブ以前のドラマや曲では”女性が只管耐え忍ぶ物”が多く、今のドラマや曲では”女性が華々しく活躍する物”が多いのは何故か?勿論それらに共感を得た為というのもあるでしょうが、それよりも多いのは”仮想現実の実現”の部分。
つまり”耐え忍ぶ女性”の姿、”甲斐甲斐しく男に尽くす女性の姿”を見るのは女性だけでなく男性もいるという事。
そしてそれらが支持を得ていたという事は社会的欲求が其処にあったという紛れもない事実でありました。
翻り現代は”女性が自由奔放に八面六臂の活躍をしているドラマや歌が隆盛を極めている”という事実。
これも裏を返せば”そういう女性に対する女性の強い憧れ”がそういう物のヒットを生んでいるという事です。
実際ウーマンリブ以前の女性にインタビューをした事が有ります。
勿論限られた行動範囲での取材故、若干の偏りは有るかも知れません。
されど、インタビューに答えてくれた女性は”周りが騒ぐほど私は虐げられては居なかった。昔は物がない時代でそれこそ男女差無くお互いが助け合わなければ生きられなかった、旦那はとても優しかった”と言う人が多数でした。
これは一体何を意味しているのでしょう?
歴史自体に異議申し立てをするつもりは毛頭御座いません、
それらは歴史学者に喧嘩を売る愚行なれば^^;。
されど、 歴史書の中で我々が昔習った”聖徳太子”が実は実在の人物ではなかったとか、家康が信玄の子であった可能性等歴史が現代の新たな調査により正史として伝え られていた物が実は偽史であり捏造された物であったという事は実際に有った事。
なればウーマンリブ以前の書物自体に全く誤りがなかったという事も疑わしくなります。
実際私が見聞した内容と女性学の過去の書物の内容にはかなりの隔たりが有りました。
何故生物が須らくオスとメスに分けられたのか?私はそれが”生物の不完全性を教える為”だと解釈しています。
男性だけでも女性だけでも歴史が刻まれる事はなかった筈、男性と女性が居て初めて歴史の歯車は回るのです。
一部のフェミニズム信者は”女性だけのユートピア”を作ろうと画策されておられる御様子。
されど私は”男性だけのユートピア“等御免蒙りたい(笑)まして、”女性を従わせて“等という考えは毛頭有りません。
もっとお互いがお互いを理解し愛し合えば恐らくこの世から戦争や争いは無くなる気がします。
その為にも最小単位である男女がもっと解りあえる愛し合える環境を創って生きたいと考えています。
記述されている内容はそのどれもが目を覆いたくなるような内容ばかりで男性である私自身怒りを禁じえなかった。
ウーマンリブは1960年アメリカで起こった女性解放運動で日本では旧社会党の元・土井たかこ委員長が有名である。
フェミニズム論者としては上野千鶴子女史を初め名立たる論客が日本では名を連ねておられるがそれらと又ウーマンリブは別物であると私は考えている。
近年、女性の社会進出は目覚しく女性の管理職や社長等はもう珍しい話ではなくなりどんどん男性は隅に追いやられていく一方である(笑)
私なんぞはその典型であり何処へ言っても”今の先生があるのは奥様のお陰ですからね”と念を押される始末(爆)。
まぁ私自身それは容認というか痛感しているので反論の余地は全 くないのだが^^;。
だが一心理学者として(というか私自身がへそ曲りゆえなのだが)は今の風潮を別の角度から分析してみたいと思う。
本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?それを心理学的に分析してみたいと思う。
例えばウーマンリブ以前のジャパニーズカルチャーに目を向けてみよう。
そこでは甲斐甲斐しく男性に尽くす女性の姿が映し出され、常、男が前、女性が後ろという図式が成り立っていた。
ドラマの題名を見ても『俺は男だ!』『俺たちの旅』『俺たちは天使だ』等男を前面に出したドラマが圧倒的であった。
芸能界でも三波春雄、村田秀雄を初め橋・西郷・舟木の『御三家』や郷・西城・野口の『新・御三家』大活躍の時代。
翻り現代はガールズグループ花盛りの時代。
おにゃんこクラブに端を発したガールズグループはその後モーニング娘。やAKB48、女子十二楽房や、KARA、少女時代等ガールズグループが日本の芸能界を牽引しているといっても過言ではないであろう。
ドラマの題名を見ても『科捜研の女』『京都地検の女』『七人の女弁護士』等、女を前面に出したドラマが隆盛を極めている。
これを見る限り”ほら、やっぱりウーマンリブ以降女性が台頭してきているじゃない”と言う風に一見すると見える。
んが、心理学的考察だと残念ながらこれらは全て”逆”となる(笑)
映画やドラマの醍醐味とは何だろう?それは『仮想現実』を味わえる点に有る。
つまり”現実にはありえない出来事を疑似体験出来る”という事が映画やTVの一番のウリで有る訳だ。
空を自由に飛び、弾丸も跳ね返し、新幹線よりも早く飛ぶヒーロー、筋骨隆々で敵をなぎ倒す主人公等がその典型。現実ではとても実現不可能だけどTVや映画の世界で疑似体験する事によりそれらの欲求を満たし鬱憤を晴らす。
きっと悪役に自らの気に食わない会社の上司や苛めっ子をイメージし主人公と自分を重ねた人も少なくない筈。
韓流スターの出る恋愛ドラマでヒロインと自分を重ねた婦女子も結構居られるのではないでしょうか?(笑)
このように映画やドラマ、音楽等”人間が表現物全て”には人間の”夢や希望”が色濃く投影されているという事です。
では話を冒頭のそれに戻しましょう、ウーマンリブ以前のドラマや曲では”女性が只管耐え忍ぶ物”が多く、今のドラマや曲では”女性が華々しく活躍する物”が多いのは何故か?勿論それらに共感を得た為というのもあるでしょうが、それよりも多いのは”仮想現実の実現”の部分。
つまり”耐え忍ぶ女性”の姿、”甲斐甲斐しく男に尽くす女性の姿”を見るのは女性だけでなく男性もいるという事。
そしてそれらが支持を得ていたという事は社会的欲求が其処にあったという紛れもない事実でありました。
翻り現代は”女性が自由奔放に八面六臂の活躍をしているドラマや歌が隆盛を極めている”という事実。
これも裏を返せば”そういう女性に対する女性の強い憧れ”がそういう物のヒットを生んでいるという事です。
実際ウーマンリブ以前の女性にインタビューをした事が有ります。
勿論限られた行動範囲での取材故、若干の偏りは有るかも知れません。
されど、インタビューに答えてくれた女性は”周りが騒ぐほど私は虐げられては居なかった。昔は物がない時代でそれこそ男女差無くお互いが助け合わなければ生きられなかった、旦那はとても優しかった”と言う人が多数でした。
これは一体何を意味しているのでしょう?
歴史自体に異議申し立てをするつもりは毛頭御座いません、
それらは歴史学者に喧嘩を売る愚行なれば^^;。
されど、 歴史書の中で我々が昔習った”聖徳太子”が実は実在の人物ではなかったとか、家康が信玄の子であった可能性等歴史が現代の新たな調査により正史として伝え られていた物が実は偽史であり捏造された物であったという事は実際に有った事。
なればウーマンリブ以前の書物自体に全く誤りがなかったという事も疑わしくなります。
実際私が見聞した内容と女性学の過去の書物の内容にはかなりの隔たりが有りました。
何故生物が須らくオスとメスに分けられたのか?私はそれが”生物の不完全性を教える為”だと解釈しています。
男性だけでも女性だけでも歴史が刻まれる事はなかった筈、男性と女性が居て初めて歴史の歯車は回るのです。
一部のフェミニズム信者は”女性だけのユートピア”を作ろうと画策されておられる御様子。
されど私は”男性だけのユートピア“等御免蒙りたい(笑)まして、”女性を従わせて“等という考えは毛頭有りません。
もっとお互いがお互いを理解し愛し合えば恐らくこの世から戦争や争いは無くなる気がします。
その為にも最小単位である男女がもっと解りあえる愛し合える環境を創って生きたいと考えています。
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