2012年1月9日月曜日

御無沙汰しています。

大晦日より体調を再度崩し元旦は何とか持ち堪えるも二日の夜に42℃の高熱を出しされどかかりつけ医は三が日お休み。4時間おきに解熱剤投与で何とか解熱し命を拾うもその後も一日に何度も40度越えをし寒さとの戦い。勿論何も口に出来ず口にするのは水のみ。内蔵は高熱と水分摂取過多でボロボロ。少し戻りつつ有った体重も又元に戻り骨と皮に。4日から抗生剤の点滴を三日間投与。タンパク質とアルブミンと善玉菌が著しく欠乏しており、今はそれを取り戻すべく何とか経口摂取で栄養補給し体調回復に努めています。幸い抗生剤投与後高熱は余り出なくなり徐々に回復傾向にある様子。兎に角今は失われた栄養を取り戻す事に全力を注ぎたいと思います。今日からやっとまともに体が動けるようになりましたので先ずは皆様にご報告をと思う次第。

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。 今日の山口は曇り 気温9℃(前日比ー4℃) 今日の朝食はピザロッソのベーコンチーズピザ、ルーツレヴォリューション、母手製生野菜サラダ。 去年末に風邪を引きましてそれが未だ尾を引いており昼からベットの住人となります^^; 早め早めの対処で今年は罹患防止に務め決して無理をしない事を誓いました。 本年も宜しくお願い致します。

2011年12月31日土曜日

常態化の齎す不思議1 『大人の情操教育』

情操教育というと大抵の場合は幼児期における教育を考える方が殆どだと思います。 勿論それは間違いではありませんが実は大人もそれを無意識的にしている場合がある事は余り認知されていません。 幼児期における情操教育は親、乃至は先生が繰り返し子供に言葉や数字を教え思考形態を確立させこういう場合にはこういう回答が導き出される事を体験的に覚えさせます。 多くは道具を使い体現的に覚えさせる事が一般的とされています。 大人の場合はこれを五感で捉えます、しかも本人の意思に関わらず無意識的に。 (この無意識的にという部分が子供の情操教育と似ているのです) 例えばとても温厚な性格の人だった物が転勤先でとても荒々しい場所に移ったとします。本人は全く意識をせずその中で生活をしていたとしても五感で捉える情報は常アップデートされ今の生活に適した接し方を無意識に覚えます。 転勤を無事に終え地元に戻っても一度覚えた生活様式は無意識下にあるため余程意識をしない限りそれが顕在化します。当然周囲は以前の温厚な彼を頭に入れているのでとても違和感を感じます。そして又地元での生活が長くなると接する人や五感が感じる物もアップデートされ元の温厚な彼に戻るのです。 此れを上手く利用すれば車内の問題児も問題児ではなくすることも可能なのです。これが常態化の齎す不思議なのですねw

2011年12月29日木曜日

セミナー開催について

未だ少し先の話となるが(先ずは病を治す事が最優先なれば^^;)常態行動心理学について一般に広く知って戴く為セミナーを開催したいと思っています。 まだまだ常態行動心理学に付いて社会的認知は0に等しくされどこれほど生活に根ざした心理学はないと自負しています。 何せ常態行動とは人が朝起きて寝るまでに日常的に無意識に行っている行動の事。 『常態行動心理学』とはその常態行動の中に潜む様々な問題を解決する心理学。 つまり『実践心理学』の最も日常生活に近い形であるという事です。 皆様方の普段の生活の明日から役立つ情報を満載で行いたいと思って居ます。 ついては場所の選定に悩んでおり何処で開催するのが適当か? 又会場もどこでするのが適当か?考えあぐねております(何せセミナーを自分で開催するなど初めてなので^^;)。 皆様方のお知恵を是非拝借出来ればと思って居ます。

『正しさの心理学』

例えば人から何らかの嫌疑を掛けられたとする。 大抵の人はその事に狼狽しその嫌疑を消そうと必死になる。 だがそうすればするほどその嫌疑の色は濃くなり色眼鏡も又濃くなる。 ”私は違うんです、潔癖です”と声高に叫べば叫ぶ程より人は疑いの色を濃くする。 それは”私は違う”という言葉の裏に或る”目に見えない不安や焦り”を”真実を隠す為”と人は解釈するからである。 何かの嫌疑を掛けられ自らに正しさがあるならば普段の生活を決して変えない事。 例えばその行動の中に嫌疑を掛けられた物が含まれて居ても決してそれを消そうとしては成らない。 下手にそれだけ消そうとすれば人は”やっぱりあの人の噂は本当だった”となる。 私自身を含め同胞もそう言う”風評被害”に遭っている、それでお心病まれた方も。 そういう方々には上記の様に御指導をさせて貰っている。 そうすれば”人の噂も七十五日”ではないけれど”根も葉もない噂”は立ち消えとなる。 まぁ実際わが身に降りかかったら中々そう冷静では要られないのが現状ですけどねw

病を超えて思う事

昔から『苦労は買ってでもしろ』と言います。 ドラえもんの秘密道具にも『苦労味噌』と言うアイテムが有りのび太のパパがドラえもんの静止を振り切りパクパク味噌を食べた為、煙草一本吸う為に原始時代の火起こし迄取り出す始末に^^;。 まぁそこまでの苦労は流石に私もしたくはありません。 今回図らずも病に罹患し多くの方の御助力の元、自由の効かぬ身が更に自由が効かぬ身となりベッドから出れぬ身となり色々と学ぶ事は沢山有りました。 一番思ったのは『生への異常なまでの執着』でした。 罹患直後直ぐの夜、体の震えが止まらずまさか40度もの熱が自分に有るとは思えず、 本当にこのまま心肺停止となるのでは?などと言う元気な人から見れば鼻で笑われそうな事も実際考えました。 されど何をしても震えが収まらないというのは結構な恐怖です。 通院後は毎日の点滴と注射、明けてもくれても朝昼晩全く同じ食事メニュー。 大好きな珈琲やラーメン等持っての他。それでも腹下しは収まらずトイレが恋人に^^;。 9度以上の熱は結局二日前迄続きその間は汗と寒さと咳の戦いで一睡も出来ず。 何度朝もやと朝陽を拝んだ事か、此処何重年も無かった事です。 当然同胞を見舞う事も出来ずフォンセッションで何とか凌ぐ日々。 罹患中8度以上熱が有る時も同胞からの電話やメールは鳴り止まず。 あの着信音を恐怖に感じたのはこれも後にも先にも始めての事。 今は冷静にこうやって筆を取れますが罹患当初は私の間近に明らかに『死』は有りました。 そんな時私を心から支えて下さったのが我が身内そしてFBの『家族』でした。 この方々の助力無く間違いなく今の私は有りません。 有形無形の沢山の恩恵を本当に多く賜りました。 ”何もしない事”がどれだけの助けになるかも学ばせて戴きました。 まだまだ本調子とは言えませんが私にもやらねばならぬ事が沢山有ります。 勿論無理は厳禁ですがやるべき事を少しずつやっていこうと思って居ます。 これからも何卒宜しくお願い致します<(_ _)>

2011年9月12日月曜日

ヒプノセラピーと『seed療法』について

私は心理学者が本業だがフリーセラピストがセカンドスキルである(以前は逆だったw)。
フリーセラピストとは”心に纏わる全てを執り行う何でも屋”という意味で私は命名した。
つまり催眠も色もボディーも”心”と”癒し”を与える為ならありとあらゆる方式を用いる。
あれは出来るがこれは出来ないでは私はセラピストとしてフ充分だと考える。
我が『seed療法』はヒプノセラピー(催眠療法)の亜流である。
以前催眠療法を施していた同胞が”目を瞑って意識が無い間何をされるかを考えると不安で催眠に掛かり難い”といわれた事がきっかけである。ならば”覚醒した状態”で催眠を掛ければ良いと思い立ったのがきっかけである。
発想はコカ・コーラのCMの逸話である。
映画の何秒間かに一コマの確率でコカ・コーラの絵を挟むと映画を見終わって何故かコカ・コーラが飲みたくなる。
これはその更に前にポップコーン会社の人間が編み出した方法でもある。これは『インプリンティング』つまり、”脳への映像の刷り込み効果”を狙った物である。
我が『SEED療法』もこの”刷り込み効果”を狙ったヒプノセラピーである。

同胞との会話の間にちょこちょこ”或る言葉”を挟みこむ、同胞に気付かれぬ様上手く会話と会話の間に滑り込ませる訳だ。
す ると会話をしている同胞自身は普通に私と会話をしているだけだから無意識だが脳はちゃんと繰り返される言葉を”記憶”し、脳へ”刷り込ませて”いる。或る 時、私が”刷り込ませた言葉”を同胞自身が無意識に口にする時が或る。その時、私はすかさず”ほ~ら、ちゃんと解ってるじゃん、今、自分の口からちゃんと 答え言ったじゃねぇか”と言う。同胞はとても喜び、そこからお心の病がどんどん快方へ向い我が門を笑顔で去っていかれる。同胞はそれが”SEED療法”と いう催眠療法である事を知らずにで有る、知れば知るで納得はするだろうが自らが発案した物ではなく私が刷り込ませた物だと知ればそれはそれで落ち込むだろ う。一々同胞を落ち込ませる必要など無いのだ。私が常、言っている”常態化”も此れと同じ作用が有る。日常生活に於いて習慣的に行っている言動や行動は” 常態化”され脳に無意識的に刷り込まれている。お心を患っておられる方の多くはこの”日常生活の中で常態化されている行動の中”にその問題を内包している ケースが多い。故にその”日常生活の中で常態化されている問題行動”をその上に更に”常態行動”を乗せる事で上書きし除去する。それが”常態行動療法”で ある。こういう療法や理論は1000近い数が有りその数は更に増えている^^;;。こういう事を考えている時間が私の至福の時で先程も有る理論が頭に浮か んだ。
まぁ一種の職業病であり有る種病的な思考の持ち主と言えなくもない(爆)。
されどそれで同胞のお心が少しでも快方に向ってくれれば変態と呼ばれようが変人と呼ばれようが何処吹く風である。私のような変わり者が世の中一人位居ても良いのでは無いだろうか?(とは自己弁護であるがw