2010年10月19日火曜日

マジシャンと呼ばれる理由(笑)

近所の小さき御子は私の事を『魔法使いのおじちゃん』と呼ぶ(笑)又、我が同胞は我がセラピーを『瀬木マジック』と称する。

それはどういう意味か?前者は何の事は無い、子供の心を私が読むからに他ならない、子供の考えている事など手に取るように解るからだ。

だが子供にはそれが判る筈もない、だから『魔法使い』と言う解釈となる、まぁ妥当な評価だと思う^^;

だが大の大人が『瀬木マジック』と呼ぶのは此れは一体どう言う事であろうか?

つまりはこう、1時間乃至は1.5時間話をしただけで心が軽くなり今まで誰にも言えず苦しんでいた悩みが軽くなると言う事。

そして一切の投薬や苦行なしで『悩み』が知らず知らずの内に消失してしまうと言う事。

そして『幸せ効果』が付与されると言う事。それが『瀬木マジック』と言われる所以である。

悩みが解決するのは私が『seed療法』にて解決の種を心に受け付けるからである。

会話の中に悩みの解決の糸口となる物を織り交ぜ一旦同胞の心に入れる、そして此方が質問をしさも同胞が自らの意思で答えた様にする

言うは易いが行うは難しである、今までこの療法を学びに来た方は多いがマスターされた方は未だ出てこない、相当の高等技術(らしい)。

幸せ効果の方はもっと解り易い『引き寄せの法則』に則っただけの話。

つまり『seed療法』により『幸せの土壌』が出来上がると其処に『幸せの場』が出来上がる。

当然人は皆『幸せ』になりたいのでその『幸せの場』を持つ人の元へ集まってくる。

そうすればその人に助力をしてくれる人も出てくるし良縁にも恵まれる。

そうなれば勿論自信も出てくるし自尊心も出てくる、知らず知らずに威風堂々となりその威風堂々振りが又人を惹き付ける。

『引き寄せの法則』に則った『幸せ効果』とはそういう物である。

私がマジシャンと呼ばれる所以のお話でした(笑)

ハンディを背負うという事

多くの方がご存じないようなので此処で記しておくが私は車椅子生活者である。障害者手帳1級を持っている。

両下肢機能の全廃に水頭症、床ずれとアトピー性皮膚炎と戦いながら日々日本全国を心を患う人を治す為縦横無尽に駆けずり回っている。

だが私はそれを売りにした事は一度も無いしこれからもそれを売りにするつもりは更々無い。

大学時代の友人Iのエピソード。

『障害』をテーマに話を皆でしていた時の事、私自身もカテゴリー的にはその中に入るのだがその友人Iの台詞が利いている。

『そっか、お前も一応その範疇の人間だったな。すまん、お前は車椅子と一体でお前だからその範疇にお前が居る事自体認識がなかった』

氏とは今も親交がある、私の数少ない『気の置けない友』の一人である。

私はハンディキャッパーとして生を受け一度も自らがハンディキャッパーである事を意識した事はない。

逆を言えばそれ故に我をハンディーキャッパーと見、侮蔑する者の存在を許さない、社会的乃至は肉体的制裁で以て叩き潰してきた。

私は私の行動理念を間違っているとは思っていないしこれからもそれを変えるつもりは無い。

我が元へ来られる方々も形は違えど心に『ハンディ』を背負った方々である。

それ故に『ハンディを背負う』事の辛さ、悲しさ、悔しさは痛いほど解る。

簡単に一言で片付けられないほどそれは辛く苦しく悲しい事なのである。

故に私は私の持てる全ての力もてそれを全力で行使し病と闘いそして駆逐する。

同胞は言う、『何故先生はそんなに熱いんですか?』と。

私は答える、『君の存在が大切だからさ』と。

同胞は更に言う『何故私の存在が先生にとって必要なのですか?』と。

私は更に答える『君が私を必要としてくれたからさ、私は私を必要とする者を必要とし私を愛してくれる者を愛するそれだけさ』

大抵の場合此処で同胞は泣きます^^;。

そして私は同胞を黙って抱きしめその事により更に絆は強くなります。

その事が自然治癒力を高め同胞の社会復帰を早める結果となります。

ハンディを背負う辛さはそれを背負った者でしか中々理解は難しい。

私は自らがハンディを背負っている事をこれからも誇りに思いつつ多くの同胞の心の病を駆逐するお手伝いをさせて戴きたいと願っている。

『認める事』と『認められる事』その傾向と対策について

我が元へ来る方々の多くは人から『認められない』方々である。

自分自身はこうであると一生懸命声高に叫んでもそれが理解されない範疇に居る方々である。

そうなると人間も段々意固地となり認めて貰えないならそれでもいいや!となってしまい悪循環となる。

そういう方々に私が一様に言う台詞がある。

『貴方は貴方以外の人をどれだけ認めてますか?認められたい認められたいと言う気持ちが余りに先行し貴方自身が人をどれだけ認められていますか?』と。

大抵の方は『私はちゃんと人を認めています』と声高に申されるが『ではどのように?』と言うとこれまた殆どの方が口ごもられます。

結局『認めて貰えない』と嘆く人々の多くはその人自身が人を『認めていない』事が多いのです。

自分自身が相手を認めていないのに自分だけその存在を認めて貰おうなどそれは理に適いません、余りに利己主義に過ぎ我儘に過ぎる。

故に先ず貴方自身が他を認めることから始めなさい、先ずは貴方の目の前に居る私を認めることから始めましょう、そうしたら私も貴方の存在を認めましょうと。

勿論同胞は私を『認め』ます。そしてそんな同胞を私も又『認め』ます。互い互いを認め合い求め合う大切さを此処で学んで頂きます。

すると今度は相手を認める事が楽しくなり更に相手から認められる事に対しても以前より求めない自分の存在に気づきます。

それは既に心の中で自分自身が『認められている』という事を自覚するからです。

そうなればもう大丈夫、私が何もせずとも氏はどんどん先へ進まれます。

我々がする事は只一つ、『認める事』そして『認めさせる事』それだけなのです。

守るべき者と背負うべき物

『背負うべき物の大きさが違う』

私が良く同胞に言う言葉であり同胞が得心下さる言葉。

対象者は我が元へ同胞を寄越した精神科医やカウンセラー方々へ向けて。

別段彼らの喧嘩を売るつもりは毛頭有りませんが買って下さるなら喜んで売りましょう、かなりの高値で(笑)

彼らは大抵の場合病院勤務でありその身は病院によって守られています。

よしんば何か問題を起こしたとしても遠隔地の病院へ移れば何れ噂は消えるでしょう。

だが我々は違う、フリーランスの人間と所属している人間の一番の差はそこなのです。

所属している方はその所属から外れたら大抵その存在は薄れます、なぜなら所属で大抵の場合人は認識するからです。

しかし無所属な我々は我々自身の存在自体で認識されるので何処へ移動しても噂は就いて回ります。

更に噂は誇大化しとんでもない大きな事になる危険性すら孕んでいます。

そうなると寄る辺無き身は只、滅びるのみ誰もわが身を守ってくれる存在は無いのですから。

それで失職し職換えしたフリーランスの友人を数多く知っています。

私自身数年前いわれ無き噂をばら撒かれあわや失職か?という所まで追い詰められた事もあります。

しかしその時は友人・知人・同胞方々のお力添えで何とか回避する事ができました。

勿論私が喧嘩を売るのは極一部の中の更に極一部の方々です。

多くの医療関係者はそれこそ骨身を削り自らの保身を省みず患者を治す為粉骨砕身の努力をされておられます。

寝食を忘れ昼夜を問わずどうすれば患者を治せるか?患者の痛みを軽減できるかを考えておられる方々であります。

だが真っ白な布の上に一滴の墨適を落とせば目立つように多くの良識ある医療関係者の中に極僅かな不心得者が居れば目立ちます。

そういう方々を排斥し本当に評価を得るべき方々が正当な評価を得られるような社会にしたい。

そして多くの同胞をお救い申し上げたい、我が願いはそれだけです。

一部の心無き者たちは声を荒げてこういいます”我々を愚弄するのか?医者でも無い者が大口を叩くな!”と。

私は返します”そういわれる貴方の元から我が元へどれだけの方が来られているかご存知ですか?数字を出しましょうか?”と。

そして此れは嘘でも誇張でもなく紛れも無い事実。

心無い者達によって心を治して貰いに行った方々がパワハラやドクハラで更に傷口に塩を塗られ抉られ苦しんでいるのが現状です。

医療報酬を得んが為不要な薬を沢山出され内蔵をボロボロにされ今度はその内臓を治すための薬を処方され…薬物漬けですよ。

そういう一部の極少数の心無い者達から同胞を救い出し正しい導きと正しい治療を施したいと私は願っています。

私はこれからも相手が誰であれ戦う姿勢は崩しません、自らが正しいと信じる道は例えどんな妨害に遭おうとも逃げずにぶつかります。

それが我が存在証明と私は考えています。

2010年10月18日月曜日

『先生』と呼ばれる者たち~或いはその自覚と使命についての一考察~

題名は厳ついですが何時ものように内容はゆるゆるです(笑)

世に『先生』と呼ばれる職業の方は沢山居ます。

それこそ街で『先生!』と声をかけて振り向いた人にインタビューをし何の先生なのかを尋ねるという番組の御馬鹿企画が出来上がるほど^^;

政治家、医者、弁護士、検事、裁判官、教育者、習い事のお師匠さんなどそれこそ枚挙に暇が有りません。

『先生』という文字を良く見ると『先に生まれた』者と書かれているように見えますがこの解釈は実は間違い。

『先生』とは『先に生まれた』者ではなく『先に生きた者』の意。そんなの同じじゃないかと言うなかれ、実は大きな違いがあります。

『先に生まれた者』が先生なら自分より年上は全て先生となります、まぁ中には反面教師などという存在も有りますがそれはおかしな話。

ですが『先に生きた者』という事になるとこれは少しニュアンスが違ってきます。

『先に生きた者』…では『何を』先に生きた者なのでしょうか?それは『その人の後を追う者が進むべき道』を先に生きた者の事を指します。

つまり自分がこれから進むべき道を『先に生きた者(先に進んだ者)』が『先生』となる訳です。

『道』を歩む事、『道』を極める事は並大抵の事ではありません、故に何事に於いても『先達』の存在は必要なのです。

『徒然草』の一説『仁和寺の法師』の結びにも同じ事が記されています。

故に先に道を歩み間違いながら傷つきながらそれでも諦めず前へ進み続けその道の頂きに到達した者が後進が必要以上に迷わぬように傷を負わぬように導く者、それが『先生』と言う存在なのです。

そう考えたとき、今の世の中どれだけ『先生』と心から呼べる人が居るでしょうか?

権威を傘に来て横暴の限りを尽くす者、専門用語で患者を煙に巻き医療報酬を得んが為不要な薬を大量に出す者、自らの立場を利用して弱気存在を意のままに操ろうとしそれを拒むと叩き潰す者、自らの利益を追求し弱き者の立場を更に弱める者…それこそ枚挙に暇が無い。

私自身も職業柄『先生』と呼ばれる存在である。

だが私は常思う、『先生』と呼ばれるに私は本当に相応しい存在であるのだろうか?と。

本当に後進をきちんと導けているのだろうかと、頂までちゃんと伴走できているのだろうか?と。

正直私にはそれを『そうです!』と言い切れる自信は無い。

だからこそ同胞と共に、生徒方々と共に同じ目線で同じ立場で一緒になって傷つき悩み苦しみ泣き笑いながら頂きを目指したいと願う。

それが我が理念であります。

2010年10月13日水曜日

『資格』について…

偶々目の前で人が倒れたとします。

その人の症状を診て偶々自分にその人の症状を改善する知識があったとします。

貴方ならどうしますか?有資格者じゃないと言う理由でその場を後にしますか?それとも無資格者でもその人を救いますか?

私はセラピストです、それ以外の資格は何も有していない。

ですが”心”に纏わる全ての事を私はやります、その殆どが独学です。

私のやっている事を間違いだと言う人が居る、他の専門家の領域に足を踏み入れる事は正しくないとする人が居る。

ですが生憎そんな戯言に耳を傾ける暇は私には有りません。

我が元へ来られる方々はその殆どが他の医療機関乃至は公的機関で”心”をボロボロにされた方々です。

此処が最後の砦という決意で足を運ばれる方が殆どです。

その方々に対して私が何が出来るのか?私は常、それを真剣に考えます。

そしてその方々にとって尤も最良であろうと思われる選択をしそしてそれを行います。

例えそれが有資格者でなかったとしてもです。

勿論私がお金を戴くのは”セラピスト”としての仕事のみです。

他にして差し上げた事は全て”サービス”として一切のお金は頂戴しておりません。

故にそれを専門としておられる方々の”商売の邪魔”をしているつもりはありません。

日本は何と言っても資格社会、資格が物を言う世界です。

しかし海外ではそうではない。

医学的知識を持った”無資格者”の多くが患者を診そして救っています。

人を助けるのに有資格者も無資格者もないと私は考える。

私はこれからも私が正しいと思うべき未知を只管邁進して参ります。

その道を塞ぐ物あらばそれを全力で以て除去する、それのみです。

2010年10月5日火曜日

『ありふれた事件』

此処は場末のうらぶれたバーのカウンター。

俺と貴文は10数年振りに偶然街で再会を果たし再会を祝して一杯やる事となり此処へ来た。

奴は東大中退後会社を興し紆余曲折を経て今は売れっ子の演出家。

俺はと言えば何とか国立大を出てしがない商社マン。

奴との差は歴然。 俺はずっと奴にコンプレックスを感じて居た。

"光と影"…奴と俺の人生を俺は今までそう考えていた。

奴の話を聞くまでは…

『そうそう、この間面白い話を仕入れてな、知り合いの刑事から聞いた話なんだが…』

又始まった…奴の自慢話にはこれまでも多くの仲間が辟易として来た。

だが奴は話を聞かないと不機嫌になり帰ってしまう。

場が白ける事を避ける面々には只、奴の話が早く終わる事を願うのみだった。

奴の話はこうだった…。

ある一人の男性が殺された。

鋭利な刃物で心臓を一突き…ほぼ即死。

現場からはゲソ痕(足跡)など犯人の手掛かりとなる証拠が幾つも発見されこれがプロではなく素人 の衝動的犯行である事を匂わせた。

最初¨怨恨¨の線で捜査は進められた。

被害者は街金融の取立て屋であり当然多くの債権者から恨みを買って居たからである。

人を人とも思わない取立てには同業者すら震え上がる程であった。

借金苦で自殺した夫婦のお通夜の席で香典を借金の返済と取立てに来た時には流石に遺族を始め参列 者からも激しい非難の声が上がった。

しかし奴は顔色一つかえず一喝すると『まいどおおきに』と笑顔でその場を立ち去ったという。

その時目に涙を一杯溜め恨めしそうに男を見つめる姉弟がいた。

警察は最初この姉弟に目を付けた。動機は充分だったからだ。

だが姉妹にはその日つまり殺人当日)のアリバイが成立していた。

その日 は亡くなった両親の命日であり姉弟は墓参りしていた事がお寺の住職の証言で明らかとなった。

勿論 近所の住人の裏も取れた。

捜査は振り出しに戻された。

その後事件当夜塾帰りの中学生を事件現場近くで見たという証言を得て一縷の望みを託したが夜遅く 又急いでいた為怪しい人影は見なかったという。 又も捜査は振り出しに戻された。

捜査は難航を極めあわや「お蔵入」かと思われたその時! 全く予想もしない結末を迎えたのだ。

事件当夜偶々近くを食べ物を求めて捜し歩いていたホームレスの目撃証言により先の中学性が捜査線 上に浮かんで来た。

最初はホームレスの見間違いではないかという見方もあったが余りにも克明に覚えていた為任意で少年を呼び尋ねてみるとあっさりと犯行を自供。

しかも驚いた事に殺人の相手はだれも良かったという。

事の顛末はこうであった。

偶々友人達との会話の中で自分には『予知能力』があると嘯いてしまい事件当夜人が死ぬと予言して しまい引っ込みがつかなくなり偶々酒によって無抵抗に近かった被害者を殺傷してしまったと言うの だ。

彼は言う。 『だってしょうがないじゃないじゃないですか。偶々そう言っちゃったんだもの。そして運悪くあの おじさんが偶然居ただもの』と…

話し終えた奴はウイスキーをグッと一杯呷るとこう言った。

『恐ろしい話だよ。そんな理由で殺されちゃあかなわねぇよなぁ。まぁでも" どこにでもあるありふ れた事件"だけどなぁ』と…

"ありふれた事件"?この事件の何処がありふれているのか?俺には理解出来なかった。

明らかに快楽殺人者ではないか。それを"ありふれた事件"などと…

だが…そう言う奴の目は既に焦点を無くし口元には薄ら笑を浮かべていた。

それを見た時俺の中の奴に対する劣等感は消えていた。

そして俺は奴じゃなくて良かったと心底思った…。 完