2010年10月18日月曜日

『先生』と呼ばれる者たち~或いはその自覚と使命についての一考察~

題名は厳ついですが何時ものように内容はゆるゆるです(笑)

世に『先生』と呼ばれる職業の方は沢山居ます。

それこそ街で『先生!』と声をかけて振り向いた人にインタビューをし何の先生なのかを尋ねるという番組の御馬鹿企画が出来上がるほど^^;

政治家、医者、弁護士、検事、裁判官、教育者、習い事のお師匠さんなどそれこそ枚挙に暇が有りません。

『先生』という文字を良く見ると『先に生まれた』者と書かれているように見えますがこの解釈は実は間違い。

『先生』とは『先に生まれた』者ではなく『先に生きた者』の意。そんなの同じじゃないかと言うなかれ、実は大きな違いがあります。

『先に生まれた者』が先生なら自分より年上は全て先生となります、まぁ中には反面教師などという存在も有りますがそれはおかしな話。

ですが『先に生きた者』という事になるとこれは少しニュアンスが違ってきます。

『先に生きた者』…では『何を』先に生きた者なのでしょうか?それは『その人の後を追う者が進むべき道』を先に生きた者の事を指します。

つまり自分がこれから進むべき道を『先に生きた者(先に進んだ者)』が『先生』となる訳です。

『道』を歩む事、『道』を極める事は並大抵の事ではありません、故に何事に於いても『先達』の存在は必要なのです。

『徒然草』の一説『仁和寺の法師』の結びにも同じ事が記されています。

故に先に道を歩み間違いながら傷つきながらそれでも諦めず前へ進み続けその道の頂きに到達した者が後進が必要以上に迷わぬように傷を負わぬように導く者、それが『先生』と言う存在なのです。

そう考えたとき、今の世の中どれだけ『先生』と心から呼べる人が居るでしょうか?

権威を傘に来て横暴の限りを尽くす者、専門用語で患者を煙に巻き医療報酬を得んが為不要な薬を大量に出す者、自らの立場を利用して弱気存在を意のままに操ろうとしそれを拒むと叩き潰す者、自らの利益を追求し弱き者の立場を更に弱める者…それこそ枚挙に暇が無い。

私自身も職業柄『先生』と呼ばれる存在である。

だが私は常思う、『先生』と呼ばれるに私は本当に相応しい存在であるのだろうか?と。

本当に後進をきちんと導けているのだろうかと、頂までちゃんと伴走できているのだろうか?と。

正直私にはそれを『そうです!』と言い切れる自信は無い。

だからこそ同胞と共に、生徒方々と共に同じ目線で同じ立場で一緒になって傷つき悩み苦しみ泣き笑いながら頂きを目指したいと願う。

それが我が理念であります。

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