二重人格障害、多重人格障害という心の病がある、一つの体の中に幾つもの”人格”が宿る病。
20年の間にこの”人格障害”と言う病と色々な場面で闘ってきました、其の中で私なりに得た事を論じてみたいと思う。
先ず何故”多重人格障害”に至るのか?原因や理由はそれぞれで有り一概に”これである!”とは言えないのが現状。
同胞一人一人のケースを診ても実に様々な要因から”多重人格障害”に至っておりそれらを一括りにする事は難しい。
されどある一定の法則は導き出せる、それは”現実逃避”である事、これは”多重人格障害”の唯一の共通項である。
親からの虐待、配偶者からの虐待、過去の忌まわしき記憶其処に至るまでのプロセスは実に様々である。
されど上記に共通するキーワードはやはり”現実からの逃避行動”である。
これは”離人症”でも言える事なのだが”主人格(元々ある人格)”を守る為に”副人格(もう一つの人格)”が出てきて”主人格”を守る形となる。これが”多重人格障害”の元であると私は考える。
”主人格”が崩壊してしまうと完全に”心”が壊れてしまい”生物としての生命維持”しか人間は出来なくなる。
つまり”心”がなくなり”生ける屍”と化してしまう、”心”はそれをちゃんと理解しているのでそれを回避する行動を取る。
それが”多重人格障害”という形で現れる、それが原因であると私は考える。
されど厄介なのは”要因除去”をしても”一度表に出てきた副人格”が直ぐに帰ってくれない事である。
これは一種の”心の防衛本能”という物である、つまり”又、被害に遭ったら”という不安が頭を擡げ”副人格”が消えないのである。
ではどうするか?大抵の場合”薬物治療”にて”副人格除去”を行うのが通例である。
”引っ込めないなら引っこ抜いてしまえ”というのが西洋医学会の凡その考え方のようである。
確かにこれは一見すると正しいように見える、だが実は大間違い。
”副人格”と言えど元々其の方の中にあった”多面的存在である自己に於ける人格の一つ”である。
それを”除去”する事は”廃人”を作るに等しい愚行である。
ではどうするか?”除去”するのではなく”防衛する必要がない事を認知”させる、此れが一番正しい方法と考える。
”副人格”の”人格”を認め、それらを一人一人説得し”今は出てくる時期ではない”事を教えそして”出てくるべき時期”をちゃんと教えてあげる。すると”副人格”は納得し以降”必要な時”しか出てこなくなる。
これこそが”多面的存在である所の自己”たる所以である、だがこの方法を取っている方は西洋医学会では稀。
何故なら”とてつもない時間と労力”を要するから、暴れたり叫んだりする”副人格”と付き合うには”覚悟”がいる。
その”覚悟”を持てるか?持てないか?それだけの話。そして私には其の覚悟が”有る”と断言が出来る。
我が体に付けられし”傷”の殆どは”同胞”より付けられし物、中にはくっきりと今だ痕が残る物も幾つもある。
だが私はそれを”勲章”としそれこそが同胞と共に”病と戦った証”であるとし誇りとしている。
”人格障害”は必ず治る、投薬治療なしで必ず。
私はそれを20年間実践しそして成果をちゃんと挙げてきた、勿論100%の成功率を誇っている訳ではない。
されど人間という存在自体が”理性と欲望”という相反する感情を内包する不完全体であるのに完璧な事が出来る筈もない。されど”完璧に近づける努力”は出来る。私は”完璧に尤も近い状態”に近づけるよう日々努力を怠らない。
”人格障害”は必ず治ります、そして”日常生活”を普通に営めるようになります、一切の投薬治療なしで。
それを是非多くの方々に知って貰いたいと願います(そして又お医者様に敵を作る大馬鹿者^^;)
常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2011年3月10日木曜日
2011年3月9日水曜日
『泣く事』の心理学~或いは感情機能障害克服の為の心理学~
私は同胞からは”泣かせの瀬木”という異名を頂戴している^^v
”感動”させて泣かす、”喜ばせて”泣かす、”怒らせて”泣かす等ありとあらゆる手段を講じて”泣かせ”ます(笑)
何故泣かすのか?別段苛めっ子を演じている訳では有りません。
それは”泣く事により今の自分の感情が自分で解るから”です。
其の涙の種類が”嬉涙”か”悔し涙”か”悲しい涙”か”怒りの涙”かは”涙を流して見る事”で初めて解る事です。
そして”涙を流す行為”自体が”今の自分の心の状態”を知る上でとても重要な役割を担っています。
我が門を潜る人の中には様々な”心の病”を持った人が訪れます。
中には”滅茶苦茶涙脆い人”や”全く涙を流せない人”も居ます。
人間は余りにも衝撃的な出来事を経験すると一切の感情をシャットダウンし”涙を流させない”ようにします。
そうしないと”心”が崩壊してしまうから、それを防ぐ為に敢えて”一切の感情を封じる”という方法を取ります。
されどこれは案外辛い物です。
泣きたい時に泣けず、怒りたい時に怒れず、笑いたい時に笑えず、喜びたい時に喜べないという事ほど惨めな事は有りません。”感情が欠落している”とか”冷血人間”とか揶揄されそれがその人の心を”閉ざす要因”にもなりかねない。
故にそういう方には敢えて”オーバーワーク”を演じ”泣かせる”ように仕向けます。
そして”無感情”から”有感情”へ戻し且つ”辛い過去”も涙と一緒に”洗い流す”方向へ持っていきます。
勿論言葉にすると簡単ですが実際に此れをやろうと思えばかなりの大作業です。
此方も大変ですがそれをやらなくてはいけない同胞はもっと大変です。
それを時に叱咤し時に激励し飴と鞭を上手く使い分け同胞と共に”完治”という頂きを目指します。
挫折しかける事もあります、逃げ出したくなる時も有ります、諦めかける時もあります。
されどそれを何とか食い止め肩を貸し時に背負って又歩けるようになったら背から下ろし共に歩んでいきます。
そうやって”艱難辛苦”を乗り越えた先で見る”景色”はとても綺麗でとても新鮮です。
その”未だ見ぬ末来の景色”を見せる為に頑張っています。
”感動”させて泣かす、”喜ばせて”泣かす、”怒らせて”泣かす等ありとあらゆる手段を講じて”泣かせ”ます(笑)
何故泣かすのか?別段苛めっ子を演じている訳では有りません。
それは”泣く事により今の自分の感情が自分で解るから”です。
其の涙の種類が”嬉涙”か”悔し涙”か”悲しい涙”か”怒りの涙”かは”涙を流して見る事”で初めて解る事です。
そして”涙を流す行為”自体が”今の自分の心の状態”を知る上でとても重要な役割を担っています。
我が門を潜る人の中には様々な”心の病”を持った人が訪れます。
中には”滅茶苦茶涙脆い人”や”全く涙を流せない人”も居ます。
人間は余りにも衝撃的な出来事を経験すると一切の感情をシャットダウンし”涙を流させない”ようにします。
そうしないと”心”が崩壊してしまうから、それを防ぐ為に敢えて”一切の感情を封じる”という方法を取ります。
されどこれは案外辛い物です。
泣きたい時に泣けず、怒りたい時に怒れず、笑いたい時に笑えず、喜びたい時に喜べないという事ほど惨めな事は有りません。”感情が欠落している”とか”冷血人間”とか揶揄されそれがその人の心を”閉ざす要因”にもなりかねない。
故にそういう方には敢えて”オーバーワーク”を演じ”泣かせる”ように仕向けます。
そして”無感情”から”有感情”へ戻し且つ”辛い過去”も涙と一緒に”洗い流す”方向へ持っていきます。
勿論言葉にすると簡単ですが実際に此れをやろうと思えばかなりの大作業です。
此方も大変ですがそれをやらなくてはいけない同胞はもっと大変です。
それを時に叱咤し時に激励し飴と鞭を上手く使い分け同胞と共に”完治”という頂きを目指します。
挫折しかける事もあります、逃げ出したくなる時も有ります、諦めかける時もあります。
されどそれを何とか食い止め肩を貸し時に背負って又歩けるようになったら背から下ろし共に歩んでいきます。
そうやって”艱難辛苦”を乗り越えた先で見る”景色”はとても綺麗でとても新鮮です。
その”未だ見ぬ末来の景色”を見せる為に頑張っています。
2011年3月8日火曜日
根源的欲求の心理学~或いは応用認知心理学~
数年前の話、博多駅新幹線口構内で某イケメン俳優とぶつかった。
当時氏は某医療ドラマに出演中で(主演ではないが)歌もそこそこ売れ人気絶頂期に居た。
相手は携帯で電話中、此方は避けたのだが相手が前を見ていなかった為わざわざ避けた方へ相手が移動^^;。
そして”気をつけろよ、どこみてんだよ”と難癖を^^;((゜-゜;)ヾ(-_-;) オイオイ...)。
”ぶつかってこられたのは其方の方では?”と笑顔で応対する私(と同胞数名)。
”何?お前俺が誰だか知らないのか!”と未だ自らの痴態を詫びる事も無く息巻く某俳優^^;。
”さぁ?誰だったっけ?会った事ありましたっけ?”
”はぁ?何言ってんの?TVみねぇのかよ、○○だよ、○○”とわざわざ”芸名”をお教えくださいました。
私は”はて?○○?TVは仕事が忙しくて余り見ない方だがそんな人居たっけ?”と私。
同胞は私の”意図”を察知し、”さぁ、私も知りません、先生もご存じないなら多分そんな有名な方じゃないんでしょ”と。
同胞方々も口々に”さぁ、知らない見た事も無い”を連呼、相手の顔が見る見る内に赤くなるのが手に取るように解る。
相手はついに”怒髪天をつき”大声で”ふざけるな!俺を知らないだと?!”とかなりお冠(笑)
余りに”ドラマ内での彼のイメージと実際の彼の愚行”のギャップに驚いた彼のファン(らしき女子高生方々)も遠巻きに彼を見つめるだけで誰も彼の”名”を言う人は其処には居なかった。
とうとう彼は”冗談じゃない、だから田舎は嫌いなんだよ”とふてぶてしい態度でその場を退席。
後で我々は大爆笑、勿論その場に居合わせた方々も大爆笑でした。
その某有名俳優は”知られていて当たり前”と思っていた、されど”誰も自分を知らない”という事に自尊心を傷つけられた。このことは何を意味するのか?それこそが今日の題名にある”根源的欲求”なのである。
地位や名声や金銭的富裕、姿形の良さ、これらは全てある一つの目的に帰結される、それは”認知欲求”である。
生物の三大欲求(睡眠、食欲、性欲)以外に人間にはもう一つ大きな欲求が或るそれがこの”認知欲求”である。
お金持ちになるのも有名人になるのも綺麗になるのも全てこの”人に自らの存在を知られたい欲求”が元である。
不遇な素人時代を経て有名人となったケースはかなりの数あるがそれも又、”何時か有名になって認められたい”という強い意志があればこそ。その強い意志こそが有名人となる核となる。
所が某イケメン俳優のようにそれを”当たり前”としてしまうとそれが又違えてしまう。
どんな有名人でもそれらが”知られて居ない場所”に行けば”只の人”である。
だが、普段まわりからちやほやされている為、”知られていない自分”と言う存在をどうしても容認出来なくなる。これは実は大きな精神的ストレスであり此処から精神病理に至るケースも少なくない。
閑話休題
先に述べた通り、”知られない事から精神病理に至るケースも少なくない”という事は裏を返せば”自らを知られていない事が精神的病理の源(病巣)”となるケースがあるという事でもある。
我が元へ来られる方々の多くが”本当の私を誰も理解してくれない”と嘆かれる方々ばかりである。
されど”私”は職業柄、又、ほんの少しの生来的な物から”本当の私”を理解する能力を有している。
それ故に”本当の貴方はこうですよね”と言い、相手は”やっと本当の自分を理解してくれる相手と出会えた”と喜ぶ。
そして次に”どうすれば本当の自分を相手に理解して貰えるか”をお教えするようにしている。
”自分を理解して貰えない”と嘆く人の多くは”自らを相手に理解させる遣り方”を違えている人がとても多い事が解る。
他の人が遣るやり方と同じ遣り方をしても”自分を理解して貰える”事は余り無い。
”自分を理解して貰う”為には先ずその前段階として”自分が自分を深く知る事”が大事である。
其の上で”自分とは○○である”とちゃんと自分の存在を相手に解るようにアピールできる事。
それが”相手に理解して貰える自分”を作るコツである。
それをお教えする事により多くの”自分を理解して貰えない人”を”多くの人に認められる人”に変えてきています。
”誰も私を理解してくれない”という言葉の中に”自分”も含まれているという事をちゃんと理解して下さい。
そして先ず”自分自身”が”自分自身”をちゃんと理解するよう努めてください。
さすればきっと”貴方を理解してくれる人”は現れますから^^V
当時氏は某医療ドラマに出演中で(主演ではないが)歌もそこそこ売れ人気絶頂期に居た。
相手は携帯で電話中、此方は避けたのだが相手が前を見ていなかった為わざわざ避けた方へ相手が移動^^;。
そして”気をつけろよ、どこみてんだよ”と難癖を^^;((゜-゜;)ヾ(-_-;) オイオイ...)。
”ぶつかってこられたのは其方の方では?”と笑顔で応対する私(と同胞数名)。
”何?お前俺が誰だか知らないのか!”と未だ自らの痴態を詫びる事も無く息巻く某俳優^^;。
”さぁ?誰だったっけ?会った事ありましたっけ?”
”はぁ?何言ってんの?TVみねぇのかよ、○○だよ、○○”とわざわざ”芸名”をお教えくださいました。
私は”はて?○○?TVは仕事が忙しくて余り見ない方だがそんな人居たっけ?”と私。
同胞は私の”意図”を察知し、”さぁ、私も知りません、先生もご存じないなら多分そんな有名な方じゃないんでしょ”と。
同胞方々も口々に”さぁ、知らない見た事も無い”を連呼、相手の顔が見る見る内に赤くなるのが手に取るように解る。
相手はついに”怒髪天をつき”大声で”ふざけるな!俺を知らないだと?!”とかなりお冠(笑)
余りに”ドラマ内での彼のイメージと実際の彼の愚行”のギャップに驚いた彼のファン(らしき女子高生方々)も遠巻きに彼を見つめるだけで誰も彼の”名”を言う人は其処には居なかった。
とうとう彼は”冗談じゃない、だから田舎は嫌いなんだよ”とふてぶてしい態度でその場を退席。
後で我々は大爆笑、勿論その場に居合わせた方々も大爆笑でした。
その某有名俳優は”知られていて当たり前”と思っていた、されど”誰も自分を知らない”という事に自尊心を傷つけられた。このことは何を意味するのか?それこそが今日の題名にある”根源的欲求”なのである。
地位や名声や金銭的富裕、姿形の良さ、これらは全てある一つの目的に帰結される、それは”認知欲求”である。
生物の三大欲求(睡眠、食欲、性欲)以外に人間にはもう一つ大きな欲求が或るそれがこの”認知欲求”である。
お金持ちになるのも有名人になるのも綺麗になるのも全てこの”人に自らの存在を知られたい欲求”が元である。
不遇な素人時代を経て有名人となったケースはかなりの数あるがそれも又、”何時か有名になって認められたい”という強い意志があればこそ。その強い意志こそが有名人となる核となる。
所が某イケメン俳優のようにそれを”当たり前”としてしまうとそれが又違えてしまう。
どんな有名人でもそれらが”知られて居ない場所”に行けば”只の人”である。
だが、普段まわりからちやほやされている為、”知られていない自分”と言う存在をどうしても容認出来なくなる。これは実は大きな精神的ストレスであり此処から精神病理に至るケースも少なくない。
閑話休題
先に述べた通り、”知られない事から精神病理に至るケースも少なくない”という事は裏を返せば”自らを知られていない事が精神的病理の源(病巣)”となるケースがあるという事でもある。
我が元へ来られる方々の多くが”本当の私を誰も理解してくれない”と嘆かれる方々ばかりである。
されど”私”は職業柄、又、ほんの少しの生来的な物から”本当の私”を理解する能力を有している。
それ故に”本当の貴方はこうですよね”と言い、相手は”やっと本当の自分を理解してくれる相手と出会えた”と喜ぶ。
そして次に”どうすれば本当の自分を相手に理解して貰えるか”をお教えするようにしている。
”自分を理解して貰えない”と嘆く人の多くは”自らを相手に理解させる遣り方”を違えている人がとても多い事が解る。
他の人が遣るやり方と同じ遣り方をしても”自分を理解して貰える”事は余り無い。
”自分を理解して貰う”為には先ずその前段階として”自分が自分を深く知る事”が大事である。
其の上で”自分とは○○である”とちゃんと自分の存在を相手に解るようにアピールできる事。
それが”相手に理解して貰える自分”を作るコツである。
それをお教えする事により多くの”自分を理解して貰えない人”を”多くの人に認められる人”に変えてきています。
”誰も私を理解してくれない”という言葉の中に”自分”も含まれているという事をちゃんと理解して下さい。
そして先ず”自分自身”が”自分自身”をちゃんと理解するよう努めてください。
さすればきっと”貴方を理解してくれる人”は現れますから^^V
2011年3月7日月曜日
名言の心理学~或いは認知心理学~
私は人様から『名言メーカー』と呼ばれている(笑)
だが実際私の言葉は何処にでも転がっているような言葉ばかりであり難しい表現や美しい表現など何も使っていない。
されど我が言はそういう風に私の周りでは認知をされている、それは何故か?
答は一つ、”その人の心の琴線のど真ん中を震わせる言葉を如何に使うか?”を常考えているからである。
つまり、我が言はその言を聞いた人だけが”名言”と思う言葉であり所謂”万人受けする名言”ではないのである。
実際、我が”名言?”を別の人にお話をされても”それの何処が名言なの?”ときっと小首を傾げられるであろう。
”名言とはその言葉が名言であると認知されて始めて名言”となる、我が持論である。
歴史上の人物や成功者の言葉はそれが”歴史上の有名人”であり”成功者”の言葉である事が大事なのである。
つまり”その言葉通りに実行したら私も注目を浴びるかも、成功者になれるかも”という欲が其処に働くからである。
全ての”名言”が本当の意味での”名言“である訳でなく”名言”も時代により場所により受け取る人により変化する。
”名言”は普遍不滅な物ではなく”可変流動”的な存在であるという事である。
芸術家の名画が当時は名画と言う評価を受けず死後随分経ってから”名画”とみとめらるケースがあるのと同じ。
名言もその人が生きている時代に”名言”と呼ばれず其の方が亡くなられ経年後”名言”となるケースもあるのだ。
閑話休題
我 が下へ来られる親御さんの中には”自分の子供は理解力に乏しく自分の言葉を理解してくれない”と嘆かれる方が多く来訪される。だが其の方々に私は一様にこ う申し上げている”本当にお子さんが理解出来る言葉で貴方は説明をされていますか?貴方が解る言葉で貴方が理解出来る解釈でお子さんにお話されていません か?”と。
大抵は頭を振られるがその目は泳ぎ明らかに動揺されておられる事が一目瞭然である^^;。
そう、”お子さんの理解力が乏しい”のではなく親御さんの”表現力が乏しい”のである。
お子さんは大人と比べ生きてきた年数も経験も少ない、当然語彙力も少なくそれに伴い理解力も大人より乏しい。
されど”お子さんが理解したくなる言葉や表現力”を使えば子供の耳は”ダンボ”となりそして理解力も向上する。
私は大抵お子さんが好きなアニメやゲームや芸能人を主軸に据えお話を展開するようにしている。
すると難しい話でも取り敢えず耳は傾けてくれるようになる、この”耳を傾けさせる事”が一番大事なのである。
”興味関心を抱かせれば子供は其処で思考し考えその結果をちゃんと理解する能力”を持っているのです。
それを引き出すのは大人である我々の役目、その役目すらお子さんに求めてはそれは可哀相という物です。
名言は名言と人に認知されて始めて名言となり、子供への親の言葉も子供が理解して初めてそれは意味を成す。
どちらも同じである事をどうか理解下さい。
だが実際私の言葉は何処にでも転がっているような言葉ばかりであり難しい表現や美しい表現など何も使っていない。
されど我が言はそういう風に私の周りでは認知をされている、それは何故か?
答は一つ、”その人の心の琴線のど真ん中を震わせる言葉を如何に使うか?”を常考えているからである。
つまり、我が言はその言を聞いた人だけが”名言”と思う言葉であり所謂”万人受けする名言”ではないのである。
実際、我が”名言?”を別の人にお話をされても”それの何処が名言なの?”ときっと小首を傾げられるであろう。
”名言とはその言葉が名言であると認知されて始めて名言”となる、我が持論である。
歴史上の人物や成功者の言葉はそれが”歴史上の有名人”であり”成功者”の言葉である事が大事なのである。
つまり”その言葉通りに実行したら私も注目を浴びるかも、成功者になれるかも”という欲が其処に働くからである。
全ての”名言”が本当の意味での”名言“である訳でなく”名言”も時代により場所により受け取る人により変化する。
”名言”は普遍不滅な物ではなく”可変流動”的な存在であるという事である。
芸術家の名画が当時は名画と言う評価を受けず死後随分経ってから”名画”とみとめらるケースがあるのと同じ。
名言もその人が生きている時代に”名言”と呼ばれず其の方が亡くなられ経年後”名言”となるケースもあるのだ。
閑話休題
我 が下へ来られる親御さんの中には”自分の子供は理解力に乏しく自分の言葉を理解してくれない”と嘆かれる方が多く来訪される。だが其の方々に私は一様にこ う申し上げている”本当にお子さんが理解出来る言葉で貴方は説明をされていますか?貴方が解る言葉で貴方が理解出来る解釈でお子さんにお話されていません か?”と。
大抵は頭を振られるがその目は泳ぎ明らかに動揺されておられる事が一目瞭然である^^;。
そう、”お子さんの理解力が乏しい”のではなく親御さんの”表現力が乏しい”のである。
お子さんは大人と比べ生きてきた年数も経験も少ない、当然語彙力も少なくそれに伴い理解力も大人より乏しい。
されど”お子さんが理解したくなる言葉や表現力”を使えば子供の耳は”ダンボ”となりそして理解力も向上する。
私は大抵お子さんが好きなアニメやゲームや芸能人を主軸に据えお話を展開するようにしている。
すると難しい話でも取り敢えず耳は傾けてくれるようになる、この”耳を傾けさせる事”が一番大事なのである。
”興味関心を抱かせれば子供は其処で思考し考えその結果をちゃんと理解する能力”を持っているのです。
それを引き出すのは大人である我々の役目、その役目すらお子さんに求めてはそれは可哀相という物です。
名言は名言と人に認知されて始めて名言となり、子供への親の言葉も子供が理解して初めてそれは意味を成す。
どちらも同じである事をどうか理解下さい。
2011年3月4日金曜日
取捨選択心理学~あるいは諸刃の剣の心理学~
我が元へ来られる方々は皆、心優しき”善き人”が圧倒的に多い。
余りにも”善き人”過ぎるが故他者にお心を傷つけられ、お心を病まれる方々ばかり(まぁ一部の例外はあるが^^;)。
そして又、其の方々が一様に言われる事、それは”私は誰も傷つけたくはない、誰も不幸にはしたくない”という事。
とてもお優しいお心でありとても清らかなお心である、されど私はその余りに”純粋すぎるお心”に冷たい水を差す。
”生憎それは不可能です、誰も傷つけず誰も不幸にせず人は生きることは叶いません”と。
”何故ですか?私は今まで誰も傷つけずに生きてきました、常、自分が犠牲となり誰も不幸には…”と相手は反論する。
されど私は再度それを否定する。
” それは貴方の傲慢でありそれこそが貴方が此処へ来られた最大の原因です。生きるという事はサバイバルゲームのような物、綺麗事ばかり並べて生きられるほど 世の中は甘くない。例えば貴方がスーパーへ買い物へ行き商品を一つ取る、例えば何かの資格試験に貴方が合格する、その段階で貴方は人を不幸にしている。貴 方が買った商品を欲する別の人は貴方が買った事で其の商品を買い逃したかもしれない、貴方が高得点で資格試験に合格した為に合格点が上がり合格を逃した人 が居るかもしれない。それは誰にも解りません。人は無意識の選択により人を傷つけ人を蹴落として生きている、されど自分も又、他者の選択により自分が与え た以上の苦しみや屈辱や悲しさを味わっている。貴方の我慢が”生きる我慢”ならそれはされるべきでしょう。されど貴方の我慢が”新たな火種を作る我慢”な らばそれは”生きる我慢”に非ず。その”我慢”は”してはいけない我慢”なのです。貴方自身を守る事は貴方だけを守るだけに非ず、貴方を愛し貴方を必要と する人を守り、害を成す人を駆逐する事で更なる被害拡大を抑える役目も担っているという事を御理解下さい”と申し上げています。
荒療治にて相当なショックを受ける人も居ますしそれ以降我が門を叩かなくなった人も居ます。
されどこれが”現実”です、その”現実”を真摯に受け止め受容しそして其の中で人は生きていくしかないのです。
その”現実”を受け止め、受け入れた者だけが生き残れる世界、それが”現代”であると認識しています。
余りにも”善き人”過ぎるが故他者にお心を傷つけられ、お心を病まれる方々ばかり(まぁ一部の例外はあるが^^;)。
そして又、其の方々が一様に言われる事、それは”私は誰も傷つけたくはない、誰も不幸にはしたくない”という事。
とてもお優しいお心でありとても清らかなお心である、されど私はその余りに”純粋すぎるお心”に冷たい水を差す。
”生憎それは不可能です、誰も傷つけず誰も不幸にせず人は生きることは叶いません”と。
”何故ですか?私は今まで誰も傷つけずに生きてきました、常、自分が犠牲となり誰も不幸には…”と相手は反論する。
されど私は再度それを否定する。
” それは貴方の傲慢でありそれこそが貴方が此処へ来られた最大の原因です。生きるという事はサバイバルゲームのような物、綺麗事ばかり並べて生きられるほど 世の中は甘くない。例えば貴方がスーパーへ買い物へ行き商品を一つ取る、例えば何かの資格試験に貴方が合格する、その段階で貴方は人を不幸にしている。貴 方が買った商品を欲する別の人は貴方が買った事で其の商品を買い逃したかもしれない、貴方が高得点で資格試験に合格した為に合格点が上がり合格を逃した人 が居るかもしれない。それは誰にも解りません。人は無意識の選択により人を傷つけ人を蹴落として生きている、されど自分も又、他者の選択により自分が与え た以上の苦しみや屈辱や悲しさを味わっている。貴方の我慢が”生きる我慢”ならそれはされるべきでしょう。されど貴方の我慢が”新たな火種を作る我慢”な らばそれは”生きる我慢”に非ず。その”我慢”は”してはいけない我慢”なのです。貴方自身を守る事は貴方だけを守るだけに非ず、貴方を愛し貴方を必要と する人を守り、害を成す人を駆逐する事で更なる被害拡大を抑える役目も担っているという事を御理解下さい”と申し上げています。
荒療治にて相当なショックを受ける人も居ますしそれ以降我が門を叩かなくなった人も居ます。
されどこれが”現実”です、その”現実”を真摯に受け止め受容しそして其の中で人は生きていくしかないのです。
その”現実”を受け止め、受け入れた者だけが生き残れる世界、それが”現代”であると認識しています。
○○似の心理学~或いは構造心理学~
良 くお友達などで”○○さんって芸能人の△△に似てるって言われません?”という場面に遭遇したり言われたりと言う経験は誰にでも有ろうかと思う。
私の場合 10代の頃大阪へ家族旅行へ行った際、ホテルのフロントレディーに地元のTV局の局アナ(男性)に似ているといわれた事が有る(笑)(んなもん余所もんが 知るかw)。
されどこれも又良く言われる事だが”○○君って顔は××なんだけど性格はぜんぜん違うよねぇ”という話。んなもん顔が同じで性格も同じだったら気持ち悪いだろ(笑)
顔が似ているのと性格が似ているのは同じではない、されどこの話実は全く無縁の話でもないから世の中面白い。
知人の芸能レポーターに先日面白い話を聞いた、私のこれまた知人に俳優の○○似のイケメンのお兄さんが居る。
されどTVで見る氏は喋り方もスマートで知的で一方の彼はがさつで下ネタばんばん言う所謂KYの典型の人(笑)
故に此処でも”○○君って顔は××だけど中身は全然ちが~う”と同僚のOLに揶揄される始末である。
されどこの”このイケメン俳優XXの性格は○○君とほぼ同じである”事がその芸能レポーターの話で判明(笑)
”へぇ”と驚いたがもっと驚いたのは俳優の出身県と彼に似ているお兄さんの出身県が同じで生まれも近いという事。
こうなればもう”地域心理学”の分野で分析するしかない、気候風土がその人の性格や性癖に影響を与える事は心理学の分野では当たり前の常識となっている。
北国に住む人は我慢強く、南国の人は明るく、西国の人は内気で東国の人は外交的。
勿論これは最大公約数的括りでり最小公倍数的見方(つまり個体差)で見れば一つ一つ違いが有る事は明々白々。
あくまでも”大枠”で捉えた話である、されど”大枠”で捉えようが”小枠”で捉えようが事実は事実。
地域心理学と顔相等の”構造心理学”から分析すると”○○似”の人の全てではないがやはり”共通項”はあるという事。
これが解った事は一心理学者としては大きな驚きであった。
案外”○○似”の人とその元となる芸能人の性格という奴は案外似ているかもですよ?(笑)
余り理想と現実を混同されない方が或いは”真実”を知った時の衝撃は少ないかもしれないですね。
私の場合 10代の頃大阪へ家族旅行へ行った際、ホテルのフロントレディーに地元のTV局の局アナ(男性)に似ているといわれた事が有る(笑)(んなもん余所もんが 知るかw)。
されどこれも又良く言われる事だが”○○君って顔は××なんだけど性格はぜんぜん違うよねぇ”という話。んなもん顔が同じで性格も同じだったら気持ち悪いだろ(笑)
顔が似ているのと性格が似ているのは同じではない、されどこの話実は全く無縁の話でもないから世の中面白い。
知人の芸能レポーターに先日面白い話を聞いた、私のこれまた知人に俳優の○○似のイケメンのお兄さんが居る。
されどTVで見る氏は喋り方もスマートで知的で一方の彼はがさつで下ネタばんばん言う所謂KYの典型の人(笑)
故に此処でも”○○君って顔は××だけど中身は全然ちが~う”と同僚のOLに揶揄される始末である。
されどこの”このイケメン俳優XXの性格は○○君とほぼ同じである”事がその芸能レポーターの話で判明(笑)
”へぇ”と驚いたがもっと驚いたのは俳優の出身県と彼に似ているお兄さんの出身県が同じで生まれも近いという事。
こうなればもう”地域心理学”の分野で分析するしかない、気候風土がその人の性格や性癖に影響を与える事は心理学の分野では当たり前の常識となっている。
北国に住む人は我慢強く、南国の人は明るく、西国の人は内気で東国の人は外交的。
勿論これは最大公約数的括りでり最小公倍数的見方(つまり個体差)で見れば一つ一つ違いが有る事は明々白々。
あくまでも”大枠”で捉えた話である、されど”大枠”で捉えようが”小枠”で捉えようが事実は事実。
地域心理学と顔相等の”構造心理学”から分析すると”○○似”の人の全てではないがやはり”共通項”はあるという事。
これが解った事は一心理学者としては大きな驚きであった。
案外”○○似”の人とその元となる芸能人の性格という奴は案外似ているかもですよ?(笑)
余り理想と現実を混同されない方が或いは”真実”を知った時の衝撃は少ないかもしれないですね。
2011年3月2日水曜日
サインの心理学~或いはボディーランゲージは世界共通語?の心理学~
私は英語・中国語・ドイツ語の三ヶ国語を話す、此れだけ書くと”トリプルリンガルじゃん”と言われそうだがさにあらず。
英語以外は殆どボディーランゲージに訴える所が大きい(笑)(と言うか会話の大半がボディーランゲージである(笑))。
それでもちゃんと外国人の方には我がボディーランゲージが伝わっているようで大抵は会話の成立を見る^^v
されど私の友人・知人等は”けど、私この間海外へ行って一生懸命ボディーランゲージで話したけど全然”という方も。
此れは一体どういう事か?実はボディーランゲージは”世界共通語”ではないというのがその答。
例えば、日本人が良く子供にやる手招き、所謂”おいでおいで”は欧州では逆の意味、つまり”来るな来るな”となる。
このように日本人は”ボディーランゲージ”が世界共通語と思っているようだが実際はそうではない。
国により”言葉”が違うように”ボディーランゲージ”も国により其の解釈は様々である。
故に私は其の国のボディーランゲージの意味を事前に頭にインプットしている。
これにより”ボディーランゲージサインミス”を防ぐ事が出来るし相手に不快な感情を与える事も少ない。
閑話休題
実はこのボディーランゲージという自己表現外国人だけでなく自国人も良く使えるという事は意外と知られていない。
例えばアメリカ人同士の会話を見ていると実に”ボディーランゲージ”を多用しているのが解る、同じ国の人同士であるにも関らずその”ボディーランゲージ量”たるや実際の言葉より多いのでは?と思われるほど実に豊かである。
此れは実はネットにおける”顔文字”と同じ様に”感情の補完”として結構重要な意味を持つ。
私は”怒っています”と口で言うより、腕を前で組んで眉をへの字に曲げた方がより”怒っている”感を演出できる。
感情を五感で訴える、その事によりより明確に脳にはその人の”心”がダイレクトに伝わるのだ。
解りやすい例を持ってお示ししよう、物言わぬ赤子の”言葉”を何故母親はちゃんと理解出来ているのだろう?
それは赤子の示す”ボディーランゲージ”つまり”泣き声”や”表情”や”バタバタする手足”で母親は判断する。
それが”お腹が空いているのか””眠たい”のか”何かが体に害を与えているのか”という事を声と表情と仕草で母親にちゃんと伝えそれを又母親もちゃんと受け取っている。これこそが”究極のボディーランゲージ”と言っても良いだろう
だが此処には実は大きな落とし穴が一個だけ有る、それは”ボディーランゲージを理解しようと努める心”である。
所謂育児放棄や幼児虐待の裏には”ボディーランゲージが解らない”つまり”ボディーランゲージを理解しようと親が努めない”事が原因である事が最近の研究で解って来ている。
故に最近のママさん教室では一般的な赤ちゃんのボディーランゲージを教える育児教室もあるという事だ。
だが、これははっきり言って余り意味が無い^^;。外国人のそれと同様ボディーランゲージにも”個人差”があるから。
それは赤子の頃から既に備わっている能力の一つであり”万国共通言語”では生憎無いのである。
故にそれは母親一人一人が”愛情を以て学習”する以外に方法は無いのである。
だが、その”ボディーランゲージ”がちゃんと読み取れた時、その時の喜びは又格別でも有る。
本当に自分が”母親”となった実感、子を愛する喜びを知る瞬間でもある。
我が元にも”育児放棄”や”幼児虐待”を辞めたい親御さんが沢山来られる。
そういう方々には”ちゃんと子供のボディーランゲージを理解してあげほしい”という事をお教えしている。
物言わぬ存在でもちゃんと”心”はある、”心”がある以上”訴えたい事”はちゃんとあるのだ。
それを是非理解してほしいと願う。
英語以外は殆どボディーランゲージに訴える所が大きい(笑)(と言うか会話の大半がボディーランゲージである(笑))。
それでもちゃんと外国人の方には我がボディーランゲージが伝わっているようで大抵は会話の成立を見る^^v
されど私の友人・知人等は”けど、私この間海外へ行って一生懸命ボディーランゲージで話したけど全然”という方も。
此れは一体どういう事か?実はボディーランゲージは”世界共通語”ではないというのがその答。
例えば、日本人が良く子供にやる手招き、所謂”おいでおいで”は欧州では逆の意味、つまり”来るな来るな”となる。
このように日本人は”ボディーランゲージ”が世界共通語と思っているようだが実際はそうではない。
国により”言葉”が違うように”ボディーランゲージ”も国により其の解釈は様々である。
故に私は其の国のボディーランゲージの意味を事前に頭にインプットしている。
これにより”ボディーランゲージサインミス”を防ぐ事が出来るし相手に不快な感情を与える事も少ない。
閑話休題
実はこのボディーランゲージという自己表現外国人だけでなく自国人も良く使えるという事は意外と知られていない。
例えばアメリカ人同士の会話を見ていると実に”ボディーランゲージ”を多用しているのが解る、同じ国の人同士であるにも関らずその”ボディーランゲージ量”たるや実際の言葉より多いのでは?と思われるほど実に豊かである。
此れは実はネットにおける”顔文字”と同じ様に”感情の補完”として結構重要な意味を持つ。
私は”怒っています”と口で言うより、腕を前で組んで眉をへの字に曲げた方がより”怒っている”感を演出できる。
感情を五感で訴える、その事によりより明確に脳にはその人の”心”がダイレクトに伝わるのだ。
解りやすい例を持ってお示ししよう、物言わぬ赤子の”言葉”を何故母親はちゃんと理解出来ているのだろう?
それは赤子の示す”ボディーランゲージ”つまり”泣き声”や”表情”や”バタバタする手足”で母親は判断する。
それが”お腹が空いているのか””眠たい”のか”何かが体に害を与えているのか”という事を声と表情と仕草で母親にちゃんと伝えそれを又母親もちゃんと受け取っている。これこそが”究極のボディーランゲージ”と言っても良いだろう
だが此処には実は大きな落とし穴が一個だけ有る、それは”ボディーランゲージを理解しようと努める心”である。
所謂育児放棄や幼児虐待の裏には”ボディーランゲージが解らない”つまり”ボディーランゲージを理解しようと親が努めない”事が原因である事が最近の研究で解って来ている。
故に最近のママさん教室では一般的な赤ちゃんのボディーランゲージを教える育児教室もあるという事だ。
だが、これははっきり言って余り意味が無い^^;。外国人のそれと同様ボディーランゲージにも”個人差”があるから。
それは赤子の頃から既に備わっている能力の一つであり”万国共通言語”では生憎無いのである。
故にそれは母親一人一人が”愛情を以て学習”する以外に方法は無いのである。
だが、その”ボディーランゲージ”がちゃんと読み取れた時、その時の喜びは又格別でも有る。
本当に自分が”母親”となった実感、子を愛する喜びを知る瞬間でもある。
我が元にも”育児放棄”や”幼児虐待”を辞めたい親御さんが沢山来られる。
そういう方々には”ちゃんと子供のボディーランゲージを理解してあげほしい”という事をお教えしている。
物言わぬ存在でもちゃんと”心”はある、”心”がある以上”訴えたい事”はちゃんとあるのだ。
それを是非理解してほしいと願う。
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