2013年1月31日木曜日

『蛙の子は蛙』ではない常態行動心理学的理由

人を揶揄する際に『所詮蛙の子は蛙だよな』と良く言いますがそれは間違いです。 大事なのは『生まれ』ではなく『育ち』の方です、しかも親から自立後の。 『親の育て方』が悪い子が全て犯罪を犯しているのなら世の中犯罪者だらけです。 何故なら『親の育て方』にセオリーがないからです。 一方的な愛情を注いでも千尋の谷から突き落とす突き放し教育でも子供は正しく育つとは限りません。 以前も此処で申し上げましたが愛情には『方向性』が有ります。 それは人の『心』に『方向性』がある事に起因しています。 その『方向性』を違えれば『過保護』でも『放任』でも親の望む方向には進みません。 本当に親の望む方向に進ませたいなら『子供の心の向き』をちゃんと知る努力を怠ってはなりません。 我が元にはそんな『子供の心の向きを知る努力を怠る親』が数多く来訪されます。 そして自らの無学を棚に上げ子供の無知さを嘆きます、甚だ可笑しい話ですが。 そういう馬鹿親には『遠隔操作セラピー』で先ずお子さんを変え変わったお子さんと同じ場を持つ親御さんを変えるやり方で結果『お子さんが望む親』に変えています。 (つまり親が望む方向ではない方向にw)。 閑話休題 人間の遺伝子は『生来型』と『学習型』に大別されます。 『生来型遺伝子』は親からの遺伝子情報を引継ぎ顔形や嗜好等に影響を与えます。 『学習型遺伝子』は親元から離れ自立後自らが得る五感情報により自らの遺伝子を学習させその結果成長して行く遺伝子です。 『蛙の子は蛙』ではない常態行動心理学的理由が正に此処に有ります。 親元から離れ違う場所で違う生き方をした子は『蛙の子は蛙』にはなりません。 親の影に怯え自立できず親の存在が頭から消えない子は『蛙の子は蛙』になります。 つまり『自立学習型』は『蛙』にならず『依存踏襲型』は『蛙』になります。 これが『蛙の子は蛙』にならない常態行動心理学的理由であります。 良く親御さんが近所の不良の子を見て『蛙の子は蛙』よねと揶揄される場面。 そういう時に私は不良っ子にこの言葉を言えと指導しています(笑) 大抵は度肝を抜かしそれからは揶揄しなくなり揶揄されなくなると不思議と馬鹿もしなくなるものです。馬鹿をしたくなるのは自らを認めて欲しいがゆえです。 自らの存在価値をちゃんと認めてくれる人が1人でもいれば案外人は余り馬鹿をしないものです。 こういう更生のさせ方も又、ありだと思います。

2013年1月30日水曜日

『容認』と『黙認』の心理学的違いとネット内虐め撲滅対策法について

『容認』と『黙認』は全くの別物である。 言うなれば『公認』と『非公認』位の違いがある。 前者はその行動を知った上でそれを受け入れている。 後者はその行動を受け入れてはいないが敢えて見て見ないふりをしているだけである。 最近この『容認』と『黙認』を玉石混交している人間を数多くネット内で見掛ける。 例えばTwitter等での有名人に対する批判スレッドがその際たる例である。 あの手の輩は下手に騒ぐと余計”火に油を注ぐ”事になる、所謂”炎上”という奴。 それを逆手にとって人気取りをする上手も最近は出て来ているがそれも限度物。 炎上タレントは生命力が少なく飽きられたら誰も相手にしてくれなくなる。 最近でいうと某巨大ガールズユニットの元センターを真似たタレントだろうか。 ああいうのは打ち上げ花火と同じでパッと咲いてパッと散る、 所謂『一発屋』が多い。 過去にもそんな『一発屋タレント』の凋落ぶりは多く見ている筈である。 何も事は有名人だけに留まらない。 一般人相手でも挑発したりからかったりを生業?としている悪趣味の輩がいる。 本人的には”親愛の情”を示しているつもりであろうが周りからすると”空気の読めない奴”で大抵は終わる。 されど”空気の読めない奴”なので下手に喧嘩を売ると”飛び火”され被害を拡大させられかけない。 それは困るので皆、適当にあしらい”黙認”していている。 されど本人は誰も何も言わないので自らの行動を”容認”されたと思いどんどん暴走はエスカレートしていく。 ネットの世界は非常でそういう”KY”な人間は切られてお終いである。 リアルの世界では中々そう簡単には行かないがそれがネット社会の恐ろしさである。 そしてもっと恐ろしいのは”その人目線”で相手に見えない場所での批判スレッドが立つ。 更にリアルにその人を知らない人は信用に足る人物が批判している人を無条件に避ける。 こうなるとネット内で孤立無援となりその場を去るしかなくなる。 最近はこれを逆手にとって”ネット内虐め”を行う人間も多数各所で見掛ける。 恐ろしいのはそれが元で人間不信に陥りリアルな人間関係にすら大きな影を落とす事。 被害者はリアルとネットの区別がうまくつかないのでそれをリアルの世界に持ち込む。 あくまでネットはネット、リアルはリアル、相手もそれ位の区別はつく。 そうじゃないと今度は下手に現実で批判をした人間が批判対象となるからだ。 されど批判をされた側はそれが解らないので人間不信に陥り我が門を叩く。 こういう由々しき問題に対して我々はネット内での解決に日夜勤しんでいる。 ネット内で起こった事件は基本ネット内で解決をするというのが我々の考え方。 複数人の仲間を中に入れて批判をした人間に理路整然とした反論を行う。 感情論で攻めては我が同胞にしたのと同じレベルに落ちてしまうのでそれはしない。 そして何より大事な事は同胞に”私の仲間”だと悟られず”味方意識”を与える事。 ”ネット内で自分は一人ではない”という意識を与え戦う意欲を与える事。 そして最終的に被害者自身の力でネット内で反論させる事。 それが我々の最終目的地。 集団で理路整然と責められ且つ被害者が理路整然と反論を行えば今度は形成逆転となる。 こうやってネチケット違反者を撲滅して行くのも心理職の大事な仕事の一つである。 心理職のフィールドは案外広いのだ。

2013年1月29日火曜日

無から有は生み出せ無い常態行動心理学的根拠について或いは私がメンタルアーティストと呼ばれる訳について

私は自らを『アーティスト』だと言って憚らない、『メンタルアーティスト』だと。 私は真の『アーティスト』ならば『無から有を生み出す』のではなく『有から有』を生み出す物だと思っている。 ”0”はどうやっても”0”であり、絶対に”1”にはなれない。二進数も十進法も”0”は”0”である。 アニメーションは1秒間に数十コマを撮りそれを連続で映す事で淀みない動きを作る。 これは裏を返せば人間を含むこの世に存在する全ての存在が”コマ送り”の動くをしているということの裏返しである。 ”一挙手一投足”という言葉が示す通り全ての存在は”コマ撮り”で表す事ができる。 即ち此処にも”無から有”ではなく”有から有”が生み出されているという証拠である。 我々が考える思考は全て”生来型遺伝子”により生まれ持ってこの世に生を受けた段階で親から引き継がれた物で基本概念は出来上がっている。 これに生後様々な五感情報から得た情報により”学習型遺伝子”が学習し情報を得た結果新たな”思考”が生まれてくる。 つまり”思考”自体が生来型遺伝子及び学習型遺伝子により構成された物であり”完全オリジナル”な訳ではありません。 これも又、”無から有”ではなく”有から有”な訳です。 いわゆるファンタジーの世界もこれに同じ。 ファンタジー小説に出てくる”錬金術”も”等価交換の法則”に則っており等価値の物しか生み出せ無い事になっています。 ”召喚術”もこの”等価交換の法則”に則っており”何かの犠牲”なく”召喚”できない事になっています。 ”棚から牡丹餅”や”濡れてに泡”なんてのは諺の世界だけであり実際には起こり売りません。 それが起こり得ると思っているのはその前に”事前行動”が必ずあるからです。 つまり”引き寄せの法則”です。 人は自ら”棚から牡丹餅””濡れ手に泡”になる状況に自らのポジションを無意識的にポジショニングしているのです。其処に気づけないだけで幸運も不運も全ては”引き寄せの法則”に則っているのです。 不幸だなとか幸福だなと運任せにしていないでその状況になった自分を精査してみる事。 すると不幸を遠ざけ幸福を引き寄せる法則は必ず存在しています。 私が”マジシャン”と呼ばれる所以はその”原因”を究明し”幸福を引き寄せ不幸を遠ざけ”る事ができるからです。 案外”灯台下暗し”、自分自身の事は自分では見えにくい物ですよ。

2013年1月24日木曜日

セラピストの苦悩と葛藤の記録。

『継続は力なりと立つ鳥跡を濁さず』 諺の授業ではありません(笑) 私のセラピストととしての基本理念を示しています。 御心を病まれた或いは長年間違った自分で生きてきて違和感を感じている人をその人本来のパーソナリティに変えようと思えば並大抵の努力では出来ません。 セラピストも同胞も共に努力と忍耐と多少の傷を負う覚悟無く出来る物ではありません。 導き手は我々ですがそれを実際に行うのは同胞自身。 故に我々セラピストは如何に同胞にやる気を維持させるかが一つの肝です。 それ故に手を替え品を替えて飽きさせず色々と試行錯誤を繰り返しながら手探り状態がずっと続きます。 その先にある物を掴む為にどう方向付けたら良いか? それはもうケースバイケースでセオリーなんかはありません。 セラピストの瞬間判断力が試される一瞬でもあります。 これを見誤ると大きな痛手を双方が負い更に怪我を負った同胞の信用を失います。 同胞は門を潜った段階で既に全てをセラピストに預けています。 勿論我々は引率者であり伴走者であるので事を成すのは同胞本人です。 されどそれを行うのは同胞本人ですがそれまで同胞が背負ってきた荷物を降ろすのは我々の役目です。 されど一度降ろしたと思い込んでいた荷物が実はまだ残っていたという事になると一気にその信用は地に落ちます。 そうなってしまっては中々浮上できません。 それ故に我々はとても言葉を選んで発言します。 たった一言で全信用を失う事等この世界では日常茶飯事です。 何年も掛けて信頼関係を築いてもたった一言の不如意な言葉で全てが崩れ去ります。 それ故にセラピーの期間中は毎日が緊張の連続、気の抜ける時は少しもありません。 この仕事は肉体労働ではないと思われますが移動型の場合結構体力勝負の所があります。 更に経費節減の為にセミナーも大抵少人数で行う為にそれらのセッティングも自分一人で 行う時があり結構な肉体労働です。 これに加えて先の精神疲労が加わるのですから罹るストレスは相当の物です。 その結果セラピー中止なんて事になったらその脱力感、敗北感は半端有りません。 金銭的問題よりもプロとして完遂出来なかった無力感敗北感は相当な物になります。 されどそれを経験しながら次こそは絶対に失敗しないぞと心に誓い更に策を練ります。 それを繰り返してきての二十年でした。 もう一つ大事なこと、それは深追いをしないということ。 先に述べた通り信頼を失いセラピー中止を言い渡されるのは一瞬の出来事です。 何が起こったのか頭の中で整理が出来ぬまま同胞は私の元を去ります。 その際、必死になって引き留めれば引き留める程に信頼は地に落ちます。 大帝の場合近隣者からの邪魔が入るか、自分の中で勝手に結論を出してしまうかの二つに大別されます。 特にこれが夫婦だの恋人だのとなると余計話は厄介となりそれぞれの配偶者が要らぬちょっかいをだしてきて御破算となるケースがあります。 本当はその要らぬちょっかいを出してくる張本人こそ諸悪の根源なのですが^^; もう一つは問題が発生しそれを処理しきれず我が門を叩くのですがその途中で図らずもその解決の糸口を見つけてしまいセラピー自体の必要性がその人の中で無くなるケース。 これ自体は一見すると何の問題もないようにみえますが然に非ず。 飽くまでもある問題に対しての対処法を見出せただけでその汎用性は極めて狭い物です。 我々が目指す物はそんな狭い範囲ではなくもっと広範囲の物を目指しています。 故に目の前の問題が解決したからもう用済みという訳には行かないのです。 何れ又袋小路に必ず陥ります、それは経験上既に得ています。 それが見えるが故に留まる事を勧めるのですが大抵の場合それは固辞されます。 そういう時も自らの無力感脱力感に苛まれますが黙って同胞の後ろ姿を見送ります。 幾ら説得を試みてもそういう場合は無駄なのです、それは経験上熟知しています。 人間というものは中々目の前の事には目が届いても先の問題には目が行かない物です。 我々はそれが職業柄見えるのですが同胞にはそこまでは見えない。 よしんばそれを感じていたとしても取り敢えず今は不要という方が心を支配する。 されどその油断こそが一番の大敵である事を何れ知る事となる。 その時になっては既に事遅し、我々も常動ける状態にある訳ではありません。 故に動ける時に動いておきたいがために説得をするのですが御理解を得る事は難しい。 そんな時は断腸の思いなれど黙ってその場を去るのみ、セラピストとして最も辛い瞬間。 先が見えるというのは必ずしも良い事ばかりとは限りません。 こういう時先が見える自分を恨めしく思う時も有ります。 セラピストと言えど血の通う人間です、辛さも歯痒さもあります。 生身の人間であることはどうかご理解を頂きたいです。

『大人シリーズ』はエイジレス現象を加速化させる愚行である

最近『大人』シリーズが隆盛を極めている。 『大人グリコ』とか『大人のお茶漬け』とか。 殆どが子供向け商品の大人版で甘さが控えめで有ったり増量されていたりとかである。 最近は『お子様ランチ』の大人版『大人様ランチ』迄出て来る始末である。 此処までくると少しやりすぎでは?という感が正直否めない。 さてこの『大人』シリーズの台頭を私は余り実は好意的には見ていない。 寧ろ『大人の幼児化』が進んでいるような気がして少し畏怖の念を覚える。 言わずもがなだが『大人』シリーズの対極に有るのが『子供向け商品』である。 最近は大人顔負けの『子供向け商品』が有り大人でも使えるような物が数多くある。 特にコスメ系はオイオイと思わず眉根をしかめたくなるような充実振りである。 最近のアダルティーチャイルド(大人ぶったガキ)が増えている原因の一つは明らかにこういう大人向け商品の低年齢層への販売拡大が原因の一つと考えられる。 つまり今世の中”大人と子供”の逆転現象が起きていると言って良いのではないかと思う。 幼少期に様々な原因で実現出来なかった事を大人になって実現するという行為自体は別に間違いではない。所謂”大人買い”なんてのはその最たる例ではないかと思う。 されど現在の”大人シリーズ””子供向け商品の大人化”はそういう範疇を大きく超えている。 昨今の成人の犯罪自体もその理由がどんどん幼児性を帯びていると思われる。 翻り青少年犯罪の犯罪理由がどんどん大人社会へ食い込んできている気がする。 このまま事がどんどん進めば大人と子供の逆転現象はどんどん過激の一途を辿るだろう。 その前にこの流れは絶対に止めねばならないと思う。 先ず”大人シリーズ”の販売を控え同時に”子供向け商品の大人化”も控えるべきであろう。 その年代でしか学べない獲られない経験をすっ飛ばして過去へ逆戻りしたり未来へ一足飛びというのは後々精神に多大なるダメージを与える結果となる。 人は時空を操れないが商品を手に取る事で時空を操る術を手に入れられたかのような錯覚を起こす。 されどそれはエイジレス現象を加速化し年齢差を無くすとても怖い現象である。 人は成長して行く生き物である限りその方向性は一方通行でなければならない。 それを過去に遡ったり未来へ一足飛びするのは神の領域へ足を踏み入れる愚行である。 それは決して許されるべき物ではない。 大人が大人である事、子供が子供である事が人間社会を営む上で大事な事なのである。 ノスタルジーを感じる事自体は間違いではない、早く大人になりたいと思う事自体は間違いではない。 されどそれを実現させる実現方法には現行法においては私はとても違和感を覚える。 変に”大人シリーズ”を作らずとも”ノスタルジー”を感じる事はできる。 変に子供向け商品の大人化”を図らずとも精神的に成長している子供はその辺の大人子供よりも余程大人である。 姿形や指向性を変えずとも心を切り替える事で人は大人にも子供にも成れる。 本当の大人は子供をよく知る物であり本当の子供は大人を良く知る物である。 其処に何かのアイテムを求めたり何かに依る必要はないのだ。 大人が大人である為に、子供が子供である為に今何が必要で何が不要なのか? 今一度考え直す必要が有ると私は思う。

アルジェリアの外国人殺害テロを繰り返さない為に日本が出来る事とは

今回のアルジェリアの外国人殺害テロは国家が民を見捨て外貨獲得に走ったが為に起こった事件である。 国は民を守る事が国としての役目。 されどその国が国際社会の中での国の地位を得んがため外国企業の参入を許せば国民の働き場所がなくなり結果政府打破の為のテロ集団を生む結果となる。 今後はこういう事件が各国で(特に欧州辺りで)増えるであろう。 又本事件を見てもTPP不要である事は明白。 テロリストは自国の諸外国の国内流入を防ぐ為にテロ行為を繰り返している。 それは自国民の生活を守らんが為、そして政府が民の生活を充分保証していれば回避できた事件。 国際社会の仲間入りを果たす事も大事だがそれも民あればこそ。 民なき国は国たり得ず。 アルジェリア政府の無策が多くの外国人犠牲者を産んだ原因の一つである事をTPP参加国は肝に銘じるべきである。 TPPを推し進める限り今回のようなテロ行為は今後各国で起こり得るだろう。 もう二度と罪なき犠牲者を出してはならない。 TPPは早急に考え直されるべきだと考える。

2013年1月22日火曜日

『逆説的心理療法について』

我が元には年間相当数の同胞が来訪される。 その内、”自分に自信がない”人の数は全体の比率から見ても決して少ない数ではない。 そして悲しいかなその数は年々増加傾向にあり昨年一年間で軽く100名は超えている。 そういう方々に私は以下の質問をいつも差し上げるようにしている。 私『貴方は自分に自信がない事に自信がありますか?』 此処で多くの同胞は『はい』と答えるが一部の同胞は『嫌、それは自信がありません』と答える方もいる。本当に”自信がない”のは前者ではなく実は後者の方。 前者の方には私はこうお応えを差し上げている。 『”自信がない”事に”自信がある”のなら結果的に”自信はある”事となり”自信がない”事にはならない。何故なら本当に”自信がない”人は自分が”自信がない”事にすら”自信”をもてないのだから』と。 詭弁というなかれ、実際後者の人のように”自信がない事に自信が無い”人も居るのだ。 自信を持って”自信がない”と言える人は”自信がない”と言えるだけ”自信はある”人である。 では何故”自信がない”と思い込んでるのか?それは”自信を持つ方向性”を違えているから。 ”自信がない”とする多くの人は人から色々と言われている人が多くそれを鵜呑みにしている人がとても多い。 例えば体が大きい人で体力に”自信がある”でしょ?と言われたり学校の成績が良い人が”頭に自信があるでしょ?”と言われたりと言う風にそれをいう人の中にそれがない人がその無い事象に対して勝手な思い込みで”自信がある”と言われてしまう。 されどそういう人は生来的にそういう要素を持って生まれてきているので”自信を持つ”必要がない。 身体能力や頭脳明晰と言う物は勿論努力に勝る物はないが生来型遺伝子の継承という部分も決して少なくない。 故に”最初から持っているもの”に人は中々”自信を持つ”事は難しい。 人が”自信を持つ”メカニズムはそれを持つに値する努力をした者のみである。 自分で努力をしそれを勝ち得た者のみがそれを”自信をもって自信がある”と言えるのだ。 故に生来型遺伝子の継承により生来的に持っている能力に関しては”自信がなくて”当たり前なのである。 先ずはそれをお教えし自らの能力が人からは”羨ましい物”であり”自信を持つに値する物”である事をお教えする。 その上で自らが”求めている自信”を得れる方法をお示ししそれを得られるようお導きを差し上げる。 その結果それを得る事が出来た者は自らに始めて”自信”を得てそれ以降”自信がない”とはいう事はない。 翻り”自信がない事に自信がない”人は”本当に自信がない”人である。 そういう人は周りから色々と馬鹿にされ否定され続けた人に多く見られる。 だが人から色々と馬鹿にされ否定されると言う事はそれをする原因が必ず存在する。 つまり”その人にしかない隠れた才能”は絶対に存在しそれ故に人はそれに嫉妬しそれ以外を攻めたて”自信を持てなくする”のである。 なればその”自分自身が気づいていない他の人にはない自信の種”の存在を明らかにしそれを”目に見える形”にしてあげれば人から揶揄され馬鹿にされても反論材料を与えられる。 さすれば”自信がない事に自信が無い”人も”自信がある”人にする事ができる。 私自身も人に”自信を与える”事を生業としているが自分自身に”自信があるか?”と問われたら”はい”とはとても言い難い。 されど同胞の為に命を掛けても治す自身はあるか?と問われれば迷わず”はい”と言える。 そうでなければこの仕事を二十年も続けられなかったと思う。 人間誰しも何か一つ位は”自信”を持てる物はある。 それを”目に見える形”にして示してあげ”自信を与える”のも我々の大事な仕事の一つ。 今日も私はそんな”自らの隠れた自信”に気づけない人の元へ参ります。 と言う事で今日も最後のフォンセッションを終えそろそろ休ませて戴きます。 皆様方も良き夢をm(_ _)m