2011年1月31日月曜日

Magician of smile~笑顔の魔術師と呼ばれて~

『人を笑顔にする達人』『人を幸せにする達人』『先生のお陰で今日一日笑顔で居れます』…嘗て私が言われた言葉。

大変光栄の至りで有りお恥かしい限りである、過日も此れと同様のお言葉を頂戴し面映い限りである。

だが、私は思う…確かに私は心理職一筋20年、自らの心理テクニックや心理理論には絶対的な自信を持っている。
そうでなければ迷える同胞を守れない導けない、導き手がコンパス片手に右往左往では導かれる側は不安で一杯。
多少強引でも”こっちだ!”と手を引き道無き道を切り拓きながら進む度胸と決断力が無ければこの仕事は勤まらない。

同胞と一緒になって怯えていては其れこそ本末転倒の至り^^;だが実際そういう人は結構多いと聞く。
後は武器(薬)に頼って自らの力を試さない引率者(心理職)も多いと聞く、此れこそ本末転倒の極地である。

自らの力(技術)を信じ切れず武器(薬)に頼る者に人を導けるはずも無い、そのような者は無資格者と同じである。
丸腰(投薬治療なし)でもちゃんと導けてこそ本当の引率者であると私は断言する。

だが今でこそこのような大言を言えるようになったが私とて其れを言えるまでには20年の歳月を有した。
一杯泣いたし一杯怒りもし、一杯苦しみ一杯悩んだ、このまま逃げてしまえばどんだけ楽だろうと思った事も有った。

だがそんな時私は嘗ての私が経験した苦い思い出を思いだす。

当時私は真だ駆け出しで”名を売る事”に一生懸命でオーバーワークを続けていた。
その中に有る青年が居た、勿論当時からアンチピリスト(反投薬主義者)だったのでその青年にも投薬無しの治療を施していた。

その日は何件も同胞が重なり暫く彼自身容態が安定し回復傾向に有ったので油断していた。
何時もは携帯をバイブにして同胞からの連絡に備えるのだがその日は電話が一日鳴り響き電池切れをしていた。
彼の容態も安定していたし他の同胞も見舞安心して床についた…彼から幾度と無く”ヘルプ”があった事も気づけず…

彼の訃報を聞いたのは次の日の朝、家の電話で彼の親御さんからであった。
薬を大量に飲んだ挙げ句手首を切って自殺、彼は何とか不安を解消しようと私に何度も”ヘルプ”を寄越した。

だが、肝心の私は事もあろうに携帯の電源を”OFF”にしていた。
お葬式の日、どうしても足がすくんで中へは入れなかった、外で立ちすくむ私を両親は笑顔で招きいれてくれた。

私は両親の前で頭をこすり付けて詫びた、詫びて済む問題ではないが詫びて詫びて兎に角詫び倒した。
まるで”贖罪”を乞う罪人の如く狂ったように顔を畳にこすり付けた。

両親は何度も私に顔を上げてくれと頼んだが私はまともに両親の顔を見る事が出来なかった。
私さえあの時着信に気づいていれば彼は死なずに済んだ、どれだけ辛かっただろう、どれだけ不安だっただろう…。

彼の両親は狂ったように詫び倒す私に一通の封書を手渡した、其処には彼の私に対する感謝の言葉が幾つも並べられていた。死ぬ直前彼が私に当てた手紙だと言う。
其処には恨み言は一切無く只々私に対する感謝の言葉だけが綴られていた…。

私はその手紙を震えながら読みそして会場を後にした。外は雨、私は帰り際傘も差さず号泣し意味も無く叫んだ…。
天国に居る彼へ私の声が届けとばかり叫んでいた、まるで獣の雄叫びの様に…。

あれから既に10数年が経過、私も大学で教鞭をとる人となった、だが今もあの時の”経験”は我が心に鮮明に有る。
彼が亡くなって暫く後両親にお会いした、元気そうであの後お生まれになった彼の”弟”と元気に暮らしておられた。

その時両親が私にくれた”笑顔”、あの”笑顔”が今でも私は忘れる事が出来ない。
私はその時決意した”何が有ってもこの仕事は続けて行こう、そして沢山の人を笑顔にしていこう”と…。

彼の魂は今も私の中でずっと息づいている、彼の笑顔が私を笑顔にしそして我が同胞を笑顔にする。
笑顔の連鎖が続き何時か世界中を笑顔で一杯にするその日まで私の戦いに終わりは無い。

それが我が選んだ道であり私が進むべき道だと信じているから。

2011年1月29日土曜日

『銀魂 劇場版 新訳紅桜篇』雑感

何時もは此処では心理学的な事を書いておりますが今日だけは思い切り『趣味』に走っております(笑)
(まぁ一寸だけ心理学的考察は入ってますがまぁお飾り程度で殆どはその名の通り『雑感』ですw)

『銀魂 劇場版 新訳紅桜篇』を手に入れたのが1/16。
それから急に多忙モードに途中し計3枚在る内の2枚を何とか見終るも本編DVDまで到らず^^;。

そして今日やっと本編DVD鑑賞に到りました
ヾ(*゜ー゜*)ノヾ(。。*)ノヾ(*゜ー゜*)ノヾ(。。*)ノ バンザーイ!!

アニメDVDを買ったのは『キン肉マン』以来二度目、アニオタを自称する割り数は少ない^^;
んでつい映画を見ちゃうと感情移入し思い切り心理学的分析をしちゃう悪い癖が(笑)

本編の映画を劇場で観に行った際、愛方が一言…『殿(私の呼称)ハンカチ二枚用意して行った方がいいよw』。
そして当日、何時も懇意にしている駅員F君よりお父様が経営する会社が出しているアップルジュースを頂戴する。

そして劇場へ…予測通り会場は女子高生、女子大生、OLさん達で埋め尽くされ『40過ぎたおっさん』は私一人^^;。
更に愛方の予測通りハンカチ二枚を涙でぐしょぐしょにし、喉の渇きをアップルジュースで癒しましたとさ(笑)

閑話休題

そんなこんなで思い入れがあるDVDだったのでしっかりと時間が有る時に見たいとずっと『我慢』しておりました。
そしてその『我慢』が今日やっと報われ見る事が叶いました。

TV版で1回、劇場版で1回、そしてDVDで1回(笑)都合”紅桜篇”は3回目な訳です^^;。
されどやはり”同じ場面”で号泣し箱テッシュ1つ駄目にしましたとさ(笑)

『愛する者』を世界に奪われし二人の侍、『愛する者』を奪った世界を壊そうとする者、『愛する者』が愛した世界を守ろうとする者、計り知れようも無い『喪失感』は何れも同じ。されど何時からか二人の『思い』は違ってしまった…。

人間という存在の多面性、そして人が人を思う『思い』の強さ、愛する者達を守ろうとする者達の本当の強さ…。
そういった物をこの映画は私に教えてくれたような気がします。

『愛する者』が遺した言葉…『己が身を守る為の剣は捨てなさい、己が魂を守る為の剣をお持ちなさい』
『己が魂』…それは愛する家族、大切な人たち、そしてこの世界…。

現代日本に一番掛けている”何か”をこの映画は私に教えてくれた、私はこの映画をそう位置づけています。

2011年1月28日金曜日

ノーメイクの心理学~或いは最強の攻めメイク~

我が同胞の中には”醜形恐怖症”ですっぴんで外には出られないとする人が数多く居る。
だが我がセラピーを受けた後、殆どの方が”濃いメイク”から”ナチュラル”乃至は”ノーメイク”で外を歩けるようになる。

又、同様に我が同胞方々の中には肌が過敏で化粧品が合わずメイクができない人も大変多い。
この数は年々増加傾向に有り10年前と較べてもその比は歴然としている。

一つには食生活の問題やストレス社会の問題、生活時間の乱れや生育過程における諸問題等色々な問題が絡んでくる
単なる”敏感肌”ではないケースも侭あって中々一本道で通れる物ではない。

本当はメイクをしたい、他の女性見たくおしゃれを楽しみたいけれど私は…と後ろ向きな人生を送る人がとても多い。
それが元で人間関係が崩れたり自己嫌悪から欝に移行する人、酷い人となると二重人格や多重に移行する人も…。

既に一種の『社会的病理』となりつつあるこの問題はしかし何故か日本の精神医学会では軽視される傾向にある。
私は古くからこの問題に取り組み改善策を色々と練ってきた。

その中で私が辿り着いた一つの結論、それは題名にも有る”ノーメイクは最強の攻めメイク”であるという事。

顔に色を乗せるのは古来呪術的な意味合いがあり神と繋がる為現世と隔絶する為に行われた物が発祥である。
つまりメイクをする事自体が”別人格”を作り出す事を本来的な目的として作られた物である。

だがこの”別人格”を作り出すという考え方、実は二通りあるのである。
所謂”攻めメイク”と”守りのメイク”。解りやすく言えば”見せるメイク”と”隠すメイク”の違いである。

”すっぴんを見られるのが恥かしいから隠す為にするメイク”これは守りのメイク。
”より綺麗な私を多くの人に見せたいからするメイク”これは攻めのメイク。

前者のメイクは人を遠ざけ、後者のメイクは人をひきつける。

つまり”人をひきつけたり遠ざけたりする事”は”メイクによって色を載せる事”ではなく”メイクをする際の心理的作用”によって決まるのである。幾ら綺麗に顔に色を載せてもそれが”守りのメイク”であるならば乗せた色は色あせる。

裏を返せば”心が攻めの状態”の時はアドレナリンやドーパミンホルモンやオキシトシンの分泌が促され肌活性が起き
メイクをせずとも表情は活き活きとして艶を全開に表に出す事ができるのである。

実際私がリアルで知る人の中で敏感肌でメイクができない人の肌はとてもぷりぷりの絹肌で且つ美人がとても多い。
されど”メイクが出来ない自分”という存在を過小評価しそれが”表”に出ていない、それが私には歯痒くてならない。

故に私は”メイクをしなくても充分綺麗である自分”という物をその方々にお教えし自らが”得で選ばれた存在”である事をお教えしている。人により理解は様々だが皆一様に”自らの隠れた美しさ”に目覚め明るい人生取り戻している。

最強のメイク・マジック、それは”心”が決めるのである。

2011年1月27日木曜日

誤解の心理学~親切が仇になる時(笑)~

私は決して”モテ男”ではない。まぁアイコン見て貰えば一目瞭然(笑)

だが何故か学生頃より”色恋沙汰”に巻き込まれる事が多かった(爆)
人の彼女を奪っただの人の妻を奪っただのという話は枚挙に暇が無い^^;。

私は『不倫は文化ではなく立派な犯罪』であると公言している人。

故に浮気や不倫だのは私の辞書には存在しない、浮気する時は相手が移る時。
されど今だその風潮は止まず駅員の彼女を口説いただの何だのと面倒この上なし

一つには”人の心の尤も近い部分に触れる事が出来る”というのが原因であろう。

されどこれは職業柄やむを得ぬ事、それができなければセラピストとしてやってはいけぬのですから。

そして”困っている人を見ると放っておけない”そして”その人の心とシンクロし人事である筈の問題が自分事”になってしまうという悪癖が(笑)

人事が自分事になる訳ですから当然人の悩みが自分の悩みとなり真剣に悩む。
答が見つかれば相手は喜びそこまで親身になってくれる人は居ないとなる^^;。

んでそういう”誤解”が生まれてしまう訳である(笑)でもそれはそれで仕方ない事。

だからといって”お節介”を止めるつもりは毛頭なし、私は私。これからもこのまま。

2011年1月25日火曜日

生体心理学と生体エネルギーについて

題名は厳ついですが内容は何時ものようにゆるゆるです(笑)(書いている人間がゆるゆるなのに難しい話は無理(笑))
今日久しぶりに駅で女性駅員のOちゃんに会った、一寸太目の上戸彩という感じの娘で駅では人気の女の子である。
基本御馬鹿キャラだが仕事はきっちりこなし決して人に嫌な顔を見せずというプロ根性逞しい娘で上の覚えもめでたい。
彼氏が元・同じ職員(つまりJR職員)だったが職場が合わず退職しそれ以降ぷらぷらとしているらしくそれが悩みの種。
本来ならば去年末の段階で就職が決まらねば離縁の予定だったが彼女の優しさが災いし今も関係は続いているという。
んでそのOちゃんと会った時の会話。
『最近彼氏とやってるかい?ちゃんとやらないと駄目だぞ』
『は~い、それが彼氏最近一寸お疲れ気味で~』
『そりゃあいかん、鰻かすっぽんでもくわさねぇとな』
『あはは、そ~ですねぇ、そうしないといけないかも』

傍から見たらセクハラ発言連発で真面目ちゃんが近くに居たらお叱りを受けそうな会話(笑)
だがこれは中年男の下世話な会話ではなく到って真面目な話。

Oちゃんも私が冗談は言うが基本真面目である事をちゃんと理解している人。
この間も彼氏の事で相談しに来て私のアドバイスが活きたと喜んでいた。

私は地元の駅では何故か”新人教育係”となっているらしく(私はJRの人ではないw)上から新人を任されている(笑)
彼女がまだ新人だった頃からずっと面倒を見ているので彼女の同期前後からしてみたら”教官”みたいな感じである。

故に若い駅員の全員から悩み相談を受けるし”此処だけの話”も沢山入る(それを聞かされる身にもなってくれ^^;)。
職業柄守秘義務は守らねばならず結構ストレスは溜まる仕事である(且つ全く儲けには直結せぬし^^;)。

閑話休題

人間を含む生物に須らく”生殖器”が付いているのは種の保存の為だけではない。
それは自らの”生体エネルギー”を補充しそれを”生命力”に活かす為である。

人間でいう所の”リピドー”というのは人間が生きる為に必要な生命エネルギーの一つである。
もしそれが不要な物ならば”理性と欲望”という相反する物が人間という”器”に同梱している筈が無い。

”リピドー”は人間が生きて行く上で欠くことが出来ない”生体エネルギー”を作り出す重要な役割を持っている。
故に無理に其れを抑えたりそれから遠ざかる事により”生体エネルギー”が弱まり”人間性”が徐々に失われていく。

さりとてそれを前面に押し出してしまえばそれこそ”変態”とか”ストーカー”となってしまう訳でその兼ね合いは難しい。
だが”生体エネルギー維持の為の性衝動”自体を全否定する向きには一心理学者としては容認しかねる。

今の性犯罪の幾つかはこういう背景を持っていると私は考える。

人が人を愛する事は極自然な行為でありその先に性衝動が合ったとしても何ら不思議な事ではない。
それらを否定する事は人類の歴史その物を否定する事に繋がる事を婦人団体他それら否定派には理解して欲しい。

今、アナタが此処に存在しているのもそれらのお陰であるという事を忘れないで欲しいと思う。
そう考えると案外もっとフランクに物事が見える気がするのは私だけだろうか?^^;

2011年1月23日日曜日

SmartPhoneの心理学~或いはタッチパネルの心理学~

昨日いよいよauアンドロイドを手に入れ私も遂にSmartPhoneデビューである。
SmartPhoneに関してはこの一つ前に(正確にはPhoneではないが)ipadでタッチパネル型は経験をしている。

電話の変遷から言えば手回し式からダイヤル式となりプッシュ型へと移行しそして今タッチパネルの時代を迎えている。

もっと原始的な物から言えば糸電話からのスタートと言っても良いかもしれない^^;

だが先日タッチパネルの新たな弊害の場面に遭遇した。
齢70と思しき男性、或る機械の前で悪戦苦闘していた、一生懸命画面をタッチするも無反応…随分お困りの様子。

近くによって見ると”タッチパネル式”ではなく”ボタン式。ちゃんとボタンも大きく表示されていた。
だが最近は何処へ行ってもタッチパネル式が横行している為そのご老体もタッチパネル式だと勘違いしていた様子。

又、或る場面では此方はタッチパネルなのだが全く機械がタッチを認識してくれていない。
見ると随分画面が人間の皮脂で汚れており指紋認証が困難な状態になっている事に気づいた。

汚れをふき取り再度タッチしてみてとお教えしその通りに実行したら見事機械はその機能を発揮してくれた。
ご婦人はいたく喜ばれ何度も頭を下げられ随分恐縮した物である。

更に脳梗塞を患われ手がご不自由な男性にとって狭いタッチパネルは求めるキーを押す事自体が大変困難である。
何度も誤押でやり直しとなりかなり精神的に参られていた様子、私が代行し処理をしこちらも深々とお辞儀をされた。

閑話休題

新幹線のハンディーキャップトイレで緑と赤のボタンを良く見かけるがあれも使わない人には大変解り辛い物。
開け方が解らない人、中に入って閉め方が解らない人、用を足して部屋からの出方が解らない人など多数である。

大抵此れも私がその場に居合わせていたら必要に応じてご指示乃至はボタン自体を押して差し上げる事もある。
私のようにそれしか使えない者なれば機能も覚えよう物だが普段余り使い慣れていない方にはあれは解り難い。

グローバルデザインとして本来的に機能すべき物が余計物の煩雑さを産み新たな弊害を生んでいる場合がある。
こういう時社会学を学んだ者として”本当に人に優しいグローバルデザインとはなんぞや?”と思いを馳せる事もある。

閑話休題

タッチパネル時代の幕開けによりこれからどんどん同方式の機械は続々と増えていくだろう。
体にハンディーを背負った方や煩雑な機械操作が苦手な方にとっては本来助け舟となるべき筈の物である。

だが実際蓋を開けてみた時果たして本当にそうなっているか?人間がタッチパネルに翻弄されていないか?と思う。
時代の波を作るのは時代ではなく人である、なれば又タッチパネルの波も場合によっては方向転換も必要であろう。

時代の進化に人が合わせるのではなく人の進化に時代が合わせる、そんな時代が来る事を切に願う物である。
と、Androidに四苦八苦する40過ぎの一心理学者のオサーンは思うのである(爆)

2011年1月22日土曜日

気遣いの心理学~或いはノーガード戦法の心理学~

『私の気持ちなんて誰も解ってくれない』と同胞は嘆く
『ったりめぇだ、馬鹿。てめぇから解って貰おうと努力もしねぇ奴の気持ちなんざ誰が解るか』と私。

同胞はギョ!っとした顔で此方を見つめる”信じられない、この人”という感じで。

誰もが氏を”腫れ物”に障る様に接してきた、だがそれが一番彼女の”心”を傷つけている事に実は誰も気づかない。
お心を病まれている方は人の”感情”にとても敏感である。
故に”腫れ物に触る人の心”がダイレクトに解りそれが余計にお心を傷つける結果となる。

故にわざと私は乱暴な口調で粗暴な態度で”ノーガード”の態度を相手に見せる。
最初相手は”何この人!?”と訝しがり不愉快さを露にするが徐々に”傷を癒している”事に気づき始める。

それは”気遣う振りをして相手を無意識に傷つける言葉”を決してはかないから。
粗暴な中に深い愛情を込めダイレクトな気持ちの直球を心に直に叩き込むから。

最初はとてもきついし辛い作業だが其処を超えねば先へは進めない。
私は文字通り”叱咤激励”し同胞を”完治”と言う名の頂きまで一緒に歩いていく。

完治後同胞は口々に言う”先生は口は悪いけど誰よりも愛情が深い人、だから好かれるし惚れられるのね”と。
私は言う”るっせいよ!さっさとけぇれ。もう彼氏来る時間だろ、こんな所見られてみろ、ぶっころされんぞ”と笑いながらw

同胞は言う”大丈夫!先生の事は全部彼氏には離して有るから、今度会ってお礼が言いたいってさ”。
”おいおい勘弁してくれよ、柄じゃねぇよ、さぁさ、早く行った行った”と^^;

それから暫く町で彼女と会った、勿論素敵な彼氏と一緒の所で。
私は敢えて気づかぬフリをして立ち去ろうとしたがいきなり彼女が腕に絡んできて”センセ!彼氏彼氏素敵でしょ”とw

”馬鹿、彼氏の前で何て事やってんだ、てめぇは、離れろ!”と焦る私^^;
彼氏さんは”いいんですよ、先生は特別ですから。彼女を救ってくれた恩人です。信じてますから僕は…”
”はぁ…嫌w信じるも何もそういう関係じゃありませんしね^^;やれやれ、てめぇ何彼氏に余計な事ふきこみやがった”。
”え?私は何も言ってないよ、只、”私の素敵な先生”って言っただけ、ンフ”
”ンフじゃねぇよ、馬鹿たれ、俺は行くぞ、勝手にラブラブしてろ、じゃあな”と…。

その時、私の財布から1万円札がボトリと落ちる。
彼女が慌てて”先生、お金落としたよ、1万円、大金だよ~”と。

私、手を振りながら”餞別だ、それで美味い物でも彼氏と食って帰れ、じゃあな”と手を後ろ手に振り立ち去る。
深々とお辞儀をする彼氏と一生懸命手を振る同胞、私の一番の至福の時である。

人は誰しも幸せになる権利を有している、その権利を奪う者の存在を私は決して許しはしない。
彼女の心を”傷つけた輩”には社会的制裁措置が加えられその後社会復帰は叶わなかったと聞く。

人を傷つけた物はそれがどういう形であれ必ず制裁を加えられる、それを彼らは身を以て体験しただろう。
私の家族は私が守る、これからも私はその精神を崩さず精進を重ねて生きたいと願う。

2011年1月21日金曜日

アナタが望まない貴方になる為に~或いはA.B.C療法~

『郷に入れば郷に従え』という言葉が有る。HIROMI GOの家に行ったらHIROMI GOの言うとおりにしなさい…という意味ではなく(笑)その土地のしきたりやなわらしに従いなさいと言う昔の教えである。

向こう三軒両隣で未だ『隣組制度』が残っていた時代ならいざ知らず今の時代にそのような風潮は田舎でも中々…。

だが実際配偶者に『型』に無理矢理嵌められて『自分ではない自分』を演じ続けなくてはいけないケースは結構ある。
例えばDV夫にマザコン夫、ストーカー夫にアニオタ夫etc...夫ばかり書いたが妻や配偶者の親族なども例に入る。
んでその結果”自ら”を亡くしお心を病まれた方というのもこれまた結構な数居られる。

誰しも結婚前は”羊の皮”を被っている物、所が所帯を持った途端その仮面を剥いで”狼の本性”を晒す訳です。
しかし既に婚姻関係が有り両親や親戚果ては仕事先への体面や世間体を考え取り敢えず我慢の方向に行きます。
1年2年と経つ内に今度は”此処まで我慢したんだからこれからも我慢しなくちゃ勿体無い”と言う風に逆方向へ…。

その間もどんどんお心は磨り減っていき”自分”が無くなり結果”離人症”や”二重人格障害”や”多重人格障害”を引き起こす結果ともなりかねない。勿論”対人恐怖症”や”拒食・過食症”の原因ともなりかねない。

そういう方に勧めているのが”A.B.C療法”である。日本語に直すと”反行動療法(Anti Behavor Cerapy)である。
即ち”強要されている事と逆の事をする”療法であります。

この療法には以下の利点がある。
・強制からの解放
・失われた自我の確立
・自己の意思で望む事が出来る喜びと精神的自立
・自分を困らせる相手が望まない事をやる事の快感(笑)
以上。

これによりDVやその他多くの疾病を抱える同胞を数多くお救い申し上げてきた。
これからも私は”籠の中の鳥”を野に放つ運動を続けていく所存である。

2011年1月20日木曜日

Sentimental Valentine~僕が本命チョコに拘る理由~

今年もやってきたSt.Valentine。1年1度女の子が男の子に心を込めて愛を込めてチョコを送る日。

この日の為に女の子は何ヶ月も前から色々な策を練り本命の男の子を”落とす”作戦を色々と考える。大好きな男の子の為に一生懸命努力する女の子の姿はとても美しい。

何かに夢中になる人の笑顔はとてもキラキラとして輝いているように僕には見える。
そして僕も今年で8回目の”本チョコ”を貰える。

世の中では”義理チョコ”や”友チョコ”など”本チョコ”以外の儀礼的なチョコ習慣がある。
1年に一度位チョコレート会社の策略に乗ってあげても良いと思うが僕は”本チョコ”以外のチョコは貰わないと心に決めている。

それは約20年前、一寸切ないヴァレンタインの日の出来事が原因だった…。

僕はヴァレンタインの前後にショーケースに並ぶチョコを見るのが昔から大好きだった
色もとりどり味も形もとりどりのチョコ達は見ているだけでとても楽しく愉快になる。

チョコを買わなくてもいい、只、見ているだけで心がウキウキと躍りだす。
そんなチョコを見るのが大好きで僕は良く近所の百貨店のチョコ売り場へ足を運んだ。

僕はウイスキーボンボンが好きで毎年同じウイスキーボンボンを買っていた。
毎年様々なチョコが並び店員さん方々もチョコを売ろうと必死になっていた。

ある日の事…何時もの様にショーケースに並ぶチョコを見ながら歩いて居たときの事
妙齢の女性店員さんが近づいてきた、目を見た瞬間”やばいな!”と感じた。

僕の”嫌な予感”という奴は大抵当たるのだ、宝くじや懸賞は外れるけれど何故か自分に害を成す存在の予感という奴は昔から外した事が無い。

”以心伝心”恐らくそんな物だろうか?相手が自分を嫌っている事を解ってしまう。
面倒だなと何時も思うのだがこればかりは自分自身でどうしようもない。

その日もそんな状態だった。

卑下た薄ら笑いを浮かべ妙齢の女性店員は僕に近づいてきた。
そして一言こう言った。

”最近は男性がチョコを買われる事も多いんですよ、何、恥ずかしがる事は有りません。女性からチョコを一つも貰えず自分用にチョコを買っても全然おかしな事ではないんですから…”と僕に一瞥をくれた。

女性客に混じって男性客が買物に来たのが癪に障ったのか?
それとも違う理由だったのか?当時の僕には解らなかった。

でも一つだけ確かな事があった。
それはその妙齢の女性店員が明らかに僕を侮蔑していたという事。

(どうせこんな車椅子、チョコを挙げる彼女なんて居ないだろ)
この時、僕は人の心を読める能力を有する事を始めて呪った。
この能力さえ無ければこんな惨めな思いをする事は無かったのに…。

確かに当時僕には彼女も義理チョコをくれる女友達も居なかった。
チョコをくれるのは何時も母親と姉そして父の会社の事務員さんだけだった。

僕はそのまま黙ってその場を立ち去り…その日の夕方僕は近所の高台に居た。
そして訳も無く叫んでいた、恐らく近所の人が見たら頭がおかしくなったと思うだろう。

でも僕は人目を憚らず泣いたそして訳も無く絶叫した。
悔しくて悲しくてそしてそんな事で嘆く惨めな自分が情けなくて…。

その時、僕は心に決めた。

”絶対義理チョコは貰わない、僕は何時か必ず本チョコを貰える男になる。その時まで僕は絶対義理チョコは貰わない”と…。

あの日から既に20年近くが経過した。

今、僕は大学で教鞭を取る立場となり多くの生徒や同胞に囲まれる日々を送っている
あの日から僕は変わった、お洒落にも気遣うようになり常香水も付けるようになった。

香水と葉巻とグラサンとZIPPOライターと手袋…これが僕のトレードマークとなった。

あれから僕は死ぬ程勉強し地元で一流と呼ばれる大学も出て今は多忙な日々を送っている。あの時の悔しさがあの時受けた心の傷が、そしてあの時受けた屈辱が今までの僕をある種支えてくれたといっていい。

絶対に負けない!そう心に決めて我武者羅に頑張ってきた20年だった。

あれから多くの同胞や大学の後輩からもチョコを貰える立場となったが僕は受け取らなかった。”本チョコ”を貰うまで僕は頑張るんだ、そう心に決めたから…。

今、僕の手元にはたった一枚のチョコレートが届く。

幾つ物店舗を回り全てのチョコレートをノートに記載し何度も何度も遂行し何ヶ月も掛けて選ぶ最高の一枚。

僕はやっと”本チョコ”を貰える立場となった。

2.14.Valentine Day

今年も一寸切なくてそしてちょっぴり甘い日がやってくる…。

追伸
これは実話です^^;

超心理学者(霊能者)として生きるという事

心理学者としての顔とは別に幾つかの顔を持つ私(笑)
その中で最も危険な顔は"超心理学者"としての私、平たく言えば霊能者。

20代の頃、私の一つ下の大学の後輩にH氏と言う人が居た。
日本で五本の指に入る霊能者でその界隈では知られた存在。

だが私自身もそうだが大抵の"本物"の霊能者は余り表舞台には出ない。
一つには命を狙われ易くなると言う物が有るし家族に被害が出るから。

私の第一番目の師匠も普段はコンビニ店長である(笑)
因みにH氏は二番目の師匠であり今の師匠は三番目、何とエンジニアw

これが"本物"の証だと私は認識している。

んでその”第一番目”の師匠に私の”力”を開いて貰って以降そりゃあもう大変(笑)
”見えざる者の姿を見、聞こえざる者の声を聞き、触れざる者に触れる”恐怖という物を嫌と言う程味わいました^^;

更に我々は”霊能者同士の交わり”により互いの能力を交換付与できると言う物が有り多くの霊能者と関る事でより多くの霊能力を身に付ける事が出来るようになります。
勿論霊能力を使う為にはエネルギーが必要な訳でそれが”生体エネルギー”つまり”生命力”な訳。

つまり”霊能力”を行使する度に”寿命が縮まる”訳ですねw
我々は其れを防ぐ為に”気”を”丹田”に充填させそれで補っている訳です。

”引き寄せの法則”と言う物は此処でも適用され類は友をを呼ぶのか私の周りは何故か愛方含め霊能者だらけ(笑)
まぁお互い”勝手知ったる他人の力”ですから何も言わずとも通じる部分が有り黙って力の交換をしてたりします。

基本”霊能力の行使”で儲けてはならんという第一の師匠の教えの元、殆どの”仕事”は格安でやってます。
勿論”命の危険が及びそうな位デカい相手”という物ともなるとこりゃあもう格安でという訳には行きません。

何せ下手打てば”死んじゃう”訳で母も愛方も残して死ぬのは流石に忍びないので其れ相応の報酬を頂戴してます。
んで今もあっちこっちでかけては”除霊”だ”浄霊”だ”霊視”だ”調伏”だというような事をやっている訳です。

お陰でそっち方面でも結構忙しく去年の年末は心理学者としてより寧ろ調心理学者としての方が忙しかった程(笑)
やはり年末年始人がバタバタとする時期となると奴らも色々仕掛けて来るんで^^;

んで今もあるファミリーを丸抱えで面倒を見させて貰っている、個人的に大好きな我が”家族”なので勿論”格安”でw
そして今日お風呂上り私の背中を見た母が悲鳴を挙げた(笑)背中に無数の”切傷”があったから(爆)。

その場は何とか誤魔化したが此れは間違いなく”霊障”つまり”霊的障害”の事である。
奴らも”消されて”は叶わないのであらゆる手立てを講じて来ます。先の傷もその一つ。

こんな物はほんの”小手調べ”、暴走車に引かれそうになる、憑依された人間の集団に襲われる等日常茶飯事(笑)
背中の切傷など可愛い物^^;

されど私はこの”ファミリー”を心から敬愛しそして”命に代えても守りたい”と思っています。
これから掛かる苦難は相当な物である事は容易に想像ができます、或いは命自体が危なくなる事もあるでしょう。

されど私は退かない、此処で退いてしまっては”ファミリー”を守る事が出来ないから。
幸い全国に多くの”仲間”が居て互いに密に連絡を取り合っています。

ヤバくなったら彼ら・彼女らにヘルプを頼み事を済ませようと思っています。
(まぁなるべく迷惑は掛けたくないんで自己処理に努めますが^^;)

こう見えて(どうみえて?)超心理学者も結構大変なのです^^;。

2011年1月19日水曜日

彼と”彼女”の事情~或いは運命の歯車は再度回りだす~

彼女は言った『ずっと待っていてくれたのね…』
私『あぁ…』
彼女『私は貴方を裏切った、そして貴方の前から姿を消したのに…』
私『でも僕たちはこうして又出会えた、それが全てだよ』
彼女『相変わらずなのね』
私『相変わらずさ』

カップルの会話かと思いきや私と同胞の会話しかも二人とも”男”です(爆)。

”自らと向き合う事の辛さ”に耐えかねた”彼”が私の元から姿を消したのは1年前。
されど運命の歯車は残酷、1年後ばったり出張先で鉢合わせてしまったのですw

二人はそのまま私の行きつけのうらぶれた飾り気の何も無いバーへ。
そして上記の会話となる訳です^^;(会話からも解る通り同胞はおねぇ系の人w)

氏は”性同一性障害”で悩み我が門を叩きそして消えた…現実から逃げる為に。
されど現実は”彼”を逃がしてはくれず又再会させた、そして今”彼”は治療中です。

”運命”からは誰も逃げられない、されどその”運命を導くのも又自分自身。
”彼”と私が出会ったのは”彼”自身の中に”変わりたい”という思いがあればこそ。”
思いは具現化する”我が持論です、そして今”彼”は懸命に”変わろう”としている。

私もその”思い”に応えたいと思います。

2011年1月18日火曜日

色彩影響心理学と精神病理について

一部の精神医学界の通説の中に『メイクが変な人は心を病んでいる人が多い』という説が在る、所謂俗説である。

だがこの俗説、俗説と言えど案外馬鹿にできない、それは『目から入る情報が脳に与える影響』が大きいからである。

例えば女子プロの悪役レスラーのあの毒々しいメイク、あれは見る物を恐れさせる効果だけでは実は無い。

リングに上がる前その顔をじぃっと見つめ”悪役”になりきる為に必要な行動なのである。

色を一つ一つ載せていく毎に”自分は悪役レスラーなのだ”と脳に刷り込ませていく。
そしてある種の麻痺感覚を起こさせてリングに上がっていくのである。

故に彼女・彼らはあれだけのエキセントリックな戦法を取れるのである。
メイクマジック(といても巨人に非ずw)は案外馬鹿に出来ないのである。

色彩影響心理学とは読んで字の如く色が人の心に与える影響に就いてである。
人にはそれぞれ固有の好む色と嫌う色が在る。

春は明るい色、夏はビビッド、秋は淡く、冬は暗いという風に大体其の季節で似合う色と言うのは決まっている。
だがそれとは別に個々人が”好む色”と”好まない色”という物が在る。

色彩影響心理学は最大公約数的見方ではなく寧ろ最小公倍数的見方で心理分析を行う。
こういう集団乃至はこういう個人に対してはこういう色を使うとこういう影響が出るという事を研究する心理学である。

それが解ると例えば顧客獲得に繋がったり就職を有利に運んだり人間関係を円滑に運ぶ事が出来るようになる。
まさか!と馬鹿にする無かれ、先に述べた通り”色が脳に与える影響”は決して少なくないのである。

それが一度、二度と蓄積されていけばより脳に刷り込ませる影響は大きくなる。
更にそこで色を反転させ真反対の色を使う事により更に明確に脳に印象を付ける事も可能なのである。

高が色、されど色なのである。

2011年1月15日土曜日

好き嫌いと摂食障害の心理学~或いは思い込みの心理学~

過日、我が一番弟子の青井氏より
『子供の好き嫌いは摂食障害と成り得るか?』というご質問を頂戴した。

中々鋭い質問をすると何時もながら敬服の至り。

私の見解はこう。

『子供の好き嫌いは私自身の経験も顧て刷り込みによる物が多くそれが摂食障害と位置づける事は少々困難である。大人になってもそれがそのままである場合は其の可能性も否定は出来ないが』と言う回答を差し上げた。

私自身椎茸嫌いのきっかけは黒揚羽の黒と椎茸の黒が同じだったからというのがその理由である。大人からすれば”バカじゃないの?”と思われるが子供の思考等其の程度の物である。だが当の本人にしてみれば冗談でも嘘でもなくリアルである

それを大人の解釈で小ばかにしたり強引に事を進めると余計嫌い度が増すか、最悪人間不信に繋がり其の経験が後に大きな心の病を生む土壌となる場合がある。

幼少期に於ける他愛ない心の傷が大人になって発症しとんでもない結果を生む例を職業柄何例も見てきている。だが多くの精神科の先生はそこまで記憶を遡らず現状分析のみで判断なさる。

これはとても危険な行為であり明らかなる誤診。
心と言う物は常、多角的に分析をせねば其の真実は解明が出来ぬ物。

目の前に在る事象のみに捉われ真実を見失わぬようしたい物である。

2011年1月13日木曜日

『心頭滅却すれば火も又涼し』或いは心理学的防寒対策法

『心頭滅却すれば火も又涼し』…昔の人はさらっと無茶な事を言う物です(笑)
そんなもん幾ら『心頭滅却』しても『火が涼しく』感じられる訳がありません^^;。

もしも本当に『火が涼しく』感じられるので在るならばそりゃあどこか感覚が麻痺を起こしているとしか思えません(笑)
ですが心理学的に『涼しく』はできなくても『暑さを抑える』事は出来ます。

逆を返せば『寒さを抑える』事も出来ます。

例えば本島から雪国の離島へ移動した際『思っていた程寒くなかった』と言う経験を持たれた方はきっと多い筈。
これは人間の”思い込みの誤動作”が引き起こす物

つまり、雪国=滅茶苦茶寒いという情報が既に頭の中に在る為に体自体が”防寒”モードに入っている為、
実際の温度よりも若干高く感じられる為である。

なればこの”脳の誤動作”を利用すれば今の寒さを少し和らげる事も可能。

最初から頭の中で北海道や青森等の雪深い場所の酷寒のイメージを持ちます。
想像しただけで震えがきそうですがそれを記憶したまま外へ出るのです。
すると頭は先程の映像を記憶し体も其れを覚えていますから案外寒さを感じない。

これこそが脳の不思議と言う物です。

2011年1月6日木曜日

ムラ社会の心理学~社会民族学から精神心理学への心理学的アプローチ~

題名は厳ついですが内容は何時ものようにゆるゆるです。

年末年始結構な数の診療のご依頼を頂戴し、今の所有り難い事に今月の予定はほぼ埋まりつつあります。
まぁ何度も申し上げている通り私のような職業が儲からない社会というのが本来的には望ましい社会であります。

私自身は私のような職業の者が一日も早く廃業乃至は転職しなくてはいけなくなる社会となる事を望んでいます。
大抵の場合心理職をやっている人間は人の”心の機微”が解るので著述業には向いています。

そっちで大半は食っていけるので(本物の心理職なればですが^^;)問題は無いと思っています。

閑話休題

ご依頼の都道府県を見てみると中央よりも圧倒的に地方が多い、此れが今の傾向です。
人口増や就職率、生活費の高さなどから一般的に田舎より都会の方がお心を病まれる方が多いように見えます・

ですが実際は逆、都会より田舎の方がお心を病まれる方が多いのです。

理由は幾つか有ります。

一つには典型的『ムラ社会の風習』に有ります。

今の個人尊重主義は近代以降の風潮であり今だムラ社会に於いてプライバシーを守ることは難しい状況にあります。『向こう三軒両隣』的で『隣は何をするひとぞ』と覗きに来る人が多いと聞きます。
実際我が居住区を見てもご近所さんが”何でそんな家庭内の内部事情までアンタしってんの?”という位詳しい(笑)
コップを壁につけているか或いは盗聴器でも仕掛けてんじゃないの?と疑いたくなるほどです^^;。

又『ムラ社会に於けるネットワークの情報伝達率の高さ』もその一つ。

何か事が起これば一日所か1時間もあれば村中に噂が広まります、しかも事実にかなりの尾ひれ雌ひれが付いてw
これでは個人的に何かをしようとか成そうと思っても無理で中々ムラ社会に於ける『個』を持つ事は困難を極めます。

更には『ムラ社会に於ける因習の伝承率』も其の一つ。
今時そんなの流行らないよと鼻で笑いたくなる程、ムラ社会という物は伝統とか格式とかを重んじます。

伝統や格式は其の時代時代に沿って作られた物でありそれらは本来的には可変的で在るべき。
しかしムラ社会に生きる人たちにとってそれは”聖域”であり冒さざる領域であり守るべき掟のようになっています。

そういう”精神的閉塞感”が個人主義の特性と反発しあいその結果お心を病まれる方が多いのです。
さりとて御心病まれているので都会へ出るのが怖く中々悪循環から断ち切れないというのが実情です。

”田舎ですらやっていけないのに都会でやっていける筈が無い”と思い込んでる、これこそが”負の刷り込み”です。
その”負の刷り込み”を”正の刷り込み”に変え田舎よりも寧ろ都会の方が住み易い事をお教えする。

そして何より”ムラ社会から脱却する事”をお教えする、それが私の仕事であると私自身位置づけています。

其の為には先ず何より”ムラ社会に住む方々”へ向けて”自分は○○である!”と自分自身をちゃんと言える事。
誰が何と言おうが私は私である!という事を揺ぎ無い自分自身に対する自信を持つ事。

それこそが”ムラ社会脱却の鍵”であると私は考えています。

”伝統や格式”を守る事も勿論大切です、それらは”歴史”であり”人々が生きてきた証”でもあります。
されど”伝統や格式”に”縛られすぎて””個を失う”となるとこれはもう”伝統や格式”で片付けられる問題に非ず。

先人たちが”生きていく上で見につけた業”は現代人が又、現代で”生き抜く上で身に付けた経験や知識”でもって作り変えるべきは作り変えていく、そういう柔軟性を持たせてあげたい。それが”ムラ社会存続の鍵”であると考えます。

2011年1月4日火曜日

時代劇の心理学~何故年末年始に時代劇が多いのか?~

年末年始ともなると各局でやれ大河の終盤だやれ大型時代劇だと時代劇花盛りである。
80年代お茶の間を席巻したゴールデンタイムの時代劇の波は徐々に年末年始に追い遣られた形となった。

では何故年末年始に時代劇が流行るのか?実はこれはある種のプロパガンダが含まれている。
今の時代右を見ても左を見ても”ついていきたくなる指導者”の存在という物が随分昔と較べ少なくなった。

昔はロンヤス時代の中曽根首相、ロナルド・レーガン大統領、毛沢東主席、サッチャー首相など名立たる指導者が居た。
色々諸説は在るがそれでも長きに渡り政局を運営してきた事は間違いが無い。

だがここ数年はどうであろうか?数年だけじゃない、1年を振り返ってみても自国内で何人の総理大臣が交替したか。
同じ自国民としては甚だ残念であり恥かしい限り、そしてそれは恐らく国民の総意でも有る筈である。

幾ら日本国民が他国民と比べ暴動やデモなどを起さない単一民族国家人とは言え国民の不満や不安は今や頂点に達しつつある。それこそ下手に刺激すれば”蜂の巣”を突いた様な大騒ぎに発展しかねない状況に在るといっても過言ではない。

それ故国民の目を余所に逸らし溜まりに溜まった溜飲を下げさせる必要が在る。
その役目を担うのが実は時代劇なのだ。

昔の名君、名軍師、名将軍の采配を見て”あぁ、これこそが国を預かる乃至は国を補佐する者の最たる物だ”と得心し
満足し心の中の溜飲も下がる。

人間は上がった溜飲が一度下がると又上がるまで結構な時間が掛かる物である。

其処で年末年始ともなるとこぞって時代劇を流し国民の不満の矛先を変えていると言う訳なのである。
多分、こういう見方をしているのは私くらいな物でしょうねぇ、根がひねくれてますから(笑)

2011年1月2日日曜日

お正月雑学あれこれ

1)意外と知られていない事だが『初夢』とは12/31の夜に見る夢の事ではなく1/1の夜、つまり今日の夜見る夢が『初夢』である。年が変わった日の夜に見るのが初夢だとされている。
2)元旦に神社へ参詣し御神籤を引かれた方も今日は多かったのではないかと思います。もし大凶や凶を引き当ててしまっても落ち込む事は有りません。寧ろそれは大吉よりも強運なのです。
...何故なら事前に危険が起こると解れば当然慎重となり危険回避が可能。大吉から吉までには救済が少ない。多くの救済措置が書かれているその分幸運なのです。私も数年前お正月に大凶を引き当てました、家族全員が大吉を引き当てる中(笑)ですがその年私は心理学講師となりその後道が開かれていきました正月に見た御神籤の注意事項を忠実に守り実行してきたお陰です
このように大凶でも好運を手にする事は出来るのです。運命を切り開くのは神でも仏でもなく自分自身。あくまで御神籤はその指針の一つに過ぎません。
 
3)お正月に御節を食べる風習が有る家もまだまだ多いと思います、我が家も同じ。本来御節は1年間家事育児に働きづめのお母さんを休ませて上げる為の物。故にご飯物を廃しおかず中心で且つ暖める必要がない物が詰められている。年始位お母上様を労って差し上げてください。...又、今の御節には生類系も有りますが本来は精進料理と同じく生類系はなし。三が日くらい折衝をせず仏の心で戴きましょうという教えからです一家の大黒柱を労う事も大切ですが三が日くらい山の神様も労いましょう(笑)
 
4) 今は風習として大分廃りましたがお正月といえば独楽を回したり羽根突をしたり凧揚げをしたりカルタ取りをして遊んだ物。そしてこの凧、何故烏賊や鯛ではなく凧なのか?皆さんご存知ですか?
風の抵抗等構造上の問題だけではなく実は凧の足の本数に由来があるんです。...凧の足は八本。
この『八』と言う漢数字が『末広がり』であるという事から未来が開けるようにという願いがこめられての事。故に陰陽道にも凧揚げ祈願という厄除け物が有ります。

5)お正月の『カルタ取り』実はこれ江戸時代から伝わる今で言う『情操教育』の一環。寺子屋で文字を覚えられるのは当時は武士階級以上の子。農民以下の子は寺子屋に通う事すら困難でした。それでも何とか読み書きだけでもと考えられたのがカルタ。故に万葉集などからの引用句が多いのです。...子供に楽しく学んで欲しいという親の願いは今も昔も変わらないと言う事ですね。

新年に思う~或いは既に1日オーバーだった件(笑)~

一年の計は元旦に在り。そして今日は二日目(笑)

本来ならば元旦に所信表明をする物で在る。
だがご同業者様から去年頂戴したお酒が美味過ぎて昨日は飲みすぎダウン(笑)

故に今更ながら今年の私の目標を述べてみたいと思う。

去年セラピスト暦20年を迎え今年は更なる20年へ向けての最初の年となる。

そこで新たな事に今年は様々な挑戦をしてみたいと考えている。
時に無謀と思えるような事にも兎の如く元気に頑張りたいと願う

今愛方はパワーポイントの勉強中、去年もPCの資格試験に合格。
そんな愛方に触発されたか私も何かやってみたいと思うようになった。

資格試験の勉強は時間的にも厳しい物が在る。
そこで自らの芸術性を高める事に今年は主眼を置いてみたい。

意外と思われるが私は元々画家志望であった。

漫画少年であり小学校時代は漫画倶楽部に所属をしていた事も在る。
こうみえて(どうみえて?)同人ソフトも仲間を募って(というより私は参加した側)販売していた事も
(勿論私は文章担当であったが^^;)

だが壊滅的に芸術センスが無く泣く泣く諦めていた。

同人仲間には脊椎損傷でマウスパッド1枚分しか手が動かせない絵師の人も居た。
氏の芸術性の高さは誰しもが認める所であり今グラフィックデザイナーとして八面六臂の活躍を…。

元々私が絵画好きとなったきっかけを作ってくれたのは亡父であった。
絵画鑑賞と絵画収集が趣味で色々な美術館や展覧会に幼少期良く連れて行って貰った物だ。

今でも絵画鑑賞は趣味の一つであり暇があれば結構遠くの美術館まで足を運ぶ事もする。
一心理療法家としても絵画はとても勉強になるからだ。


だが一度画家への道を諦めた筈の我がipadの中には描画ソフトが数本収められている^^;
中には3Dレンダリングソフトというかなりハイスキルを求められる物まで(笑)

だが『下手の横好き』とはよく言った物。
年末から『黒板』ソフトで『下手の横好き』を描き続けている。

Twipicにお目汚しながら作品をアップし続けているがこれが評判が悪くない^^;
評価があれば頑張るのが私、今年は此方の方面にも力を注いで見たい。