『人を笑顔にする達人』『人を幸せにする達人』『先生のお陰で今日一日笑顔で居れます』…嘗て私が言われた言葉。
大変光栄の至りで有りお恥かしい限りである、過日も此れと同様のお言葉を頂戴し面映い限りである。
だが、私は思う…確かに私は心理職一筋20年、自らの心理テクニックや心理理論には絶対的な自信を持っている。
そうでなければ迷える同胞を守れない導けない、導き手がコンパス片手に右往左往では導かれる側は不安で一杯。
多少強引でも”こっちだ!”と手を引き道無き道を切り拓きながら進む度胸と決断力が無ければこの仕事は勤まらない。
同胞と一緒になって怯えていては其れこそ本末転倒の至り^^;だが実際そういう人は結構多いと聞く。
後は武器(薬)に頼って自らの力を試さない引率者(心理職)も多いと聞く、此れこそ本末転倒の極地である。
自らの力(技術)を信じ切れず武器(薬)に頼る者に人を導けるはずも無い、そのような者は無資格者と同じである。
丸腰(投薬治療なし)でもちゃんと導けてこそ本当の引率者であると私は断言する。
だが今でこそこのような大言を言えるようになったが私とて其れを言えるまでには20年の歳月を有した。
一杯泣いたし一杯怒りもし、一杯苦しみ一杯悩んだ、このまま逃げてしまえばどんだけ楽だろうと思った事も有った。
だがそんな時私は嘗ての私が経験した苦い思い出を思いだす。
当時私は真だ駆け出しで”名を売る事”に一生懸命でオーバーワークを続けていた。
その中に有る青年が居た、勿論当時からアンチピリスト(反投薬主義者)だったのでその青年にも投薬無しの治療を施していた。
その日は何件も同胞が重なり暫く彼自身容態が安定し回復傾向に有ったので油断していた。
何時もは携帯をバイブにして同胞からの連絡に備えるのだがその日は電話が一日鳴り響き電池切れをしていた。
彼の容態も安定していたし他の同胞も見舞安心して床についた…彼から幾度と無く”ヘルプ”があった事も気づけず…
彼の訃報を聞いたのは次の日の朝、家の電話で彼の親御さんからであった。
薬を大量に飲んだ挙げ句手首を切って自殺、彼は何とか不安を解消しようと私に何度も”ヘルプ”を寄越した。
だが、肝心の私は事もあろうに携帯の電源を”OFF”にしていた。
お葬式の日、どうしても足がすくんで中へは入れなかった、外で立ちすくむ私を両親は笑顔で招きいれてくれた。
私は両親の前で頭をこすり付けて詫びた、詫びて済む問題ではないが詫びて詫びて兎に角詫び倒した。
まるで”贖罪”を乞う罪人の如く狂ったように顔を畳にこすり付けた。
両親は何度も私に顔を上げてくれと頼んだが私はまともに両親の顔を見る事が出来なかった。
私さえあの時着信に気づいていれば彼は死なずに済んだ、どれだけ辛かっただろう、どれだけ不安だっただろう…。
彼の両親は狂ったように詫び倒す私に一通の封書を手渡した、其処には彼の私に対する感謝の言葉が幾つも並べられていた。死ぬ直前彼が私に当てた手紙だと言う。
其処には恨み言は一切無く只々私に対する感謝の言葉だけが綴られていた…。
私はその手紙を震えながら読みそして会場を後にした。外は雨、私は帰り際傘も差さず号泣し意味も無く叫んだ…。
天国に居る彼へ私の声が届けとばかり叫んでいた、まるで獣の雄叫びの様に…。
あれから既に10数年が経過、私も大学で教鞭をとる人となった、だが今もあの時の”経験”は我が心に鮮明に有る。
彼が亡くなって暫く後両親にお会いした、元気そうであの後お生まれになった彼の”弟”と元気に暮らしておられた。
その時両親が私にくれた”笑顔”、あの”笑顔”が今でも私は忘れる事が出来ない。
私はその時決意した”何が有ってもこの仕事は続けて行こう、そして沢山の人を笑顔にしていこう”と…。
彼の魂は今も私の中でずっと息づいている、彼の笑顔が私を笑顔にしそして我が同胞を笑顔にする。
笑顔の連鎖が続き何時か世界中を笑顔で一杯にするその日まで私の戦いに終わりは無い。
それが我が選んだ道であり私が進むべき道だと信じているから。
大変光栄の至りで有りお恥かしい限りである、過日も此れと同様のお言葉を頂戴し面映い限りである。
だが、私は思う…確かに私は心理職一筋20年、自らの心理テクニックや心理理論には絶対的な自信を持っている。
そうでなければ迷える同胞を守れない導けない、導き手がコンパス片手に右往左往では導かれる側は不安で一杯。
多少強引でも”こっちだ!”と手を引き道無き道を切り拓きながら進む度胸と決断力が無ければこの仕事は勤まらない。
同胞と一緒になって怯えていては其れこそ本末転倒の至り^^;だが実際そういう人は結構多いと聞く。
後は武器(薬)に頼って自らの力を試さない引率者(心理職)も多いと聞く、此れこそ本末転倒の極地である。
自らの力(技術)を信じ切れず武器(薬)に頼る者に人を導けるはずも無い、そのような者は無資格者と同じである。
丸腰(投薬治療なし)でもちゃんと導けてこそ本当の引率者であると私は断言する。
だが今でこそこのような大言を言えるようになったが私とて其れを言えるまでには20年の歳月を有した。
一杯泣いたし一杯怒りもし、一杯苦しみ一杯悩んだ、このまま逃げてしまえばどんだけ楽だろうと思った事も有った。
だがそんな時私は嘗ての私が経験した苦い思い出を思いだす。
当時私は真だ駆け出しで”名を売る事”に一生懸命でオーバーワークを続けていた。
その中に有る青年が居た、勿論当時からアンチピリスト(反投薬主義者)だったのでその青年にも投薬無しの治療を施していた。
その日は何件も同胞が重なり暫く彼自身容態が安定し回復傾向に有ったので油断していた。
何時もは携帯をバイブにして同胞からの連絡に備えるのだがその日は電話が一日鳴り響き電池切れをしていた。
彼の容態も安定していたし他の同胞も見舞安心して床についた…彼から幾度と無く”ヘルプ”があった事も気づけず…
彼の訃報を聞いたのは次の日の朝、家の電話で彼の親御さんからであった。
薬を大量に飲んだ挙げ句手首を切って自殺、彼は何とか不安を解消しようと私に何度も”ヘルプ”を寄越した。
だが、肝心の私は事もあろうに携帯の電源を”OFF”にしていた。
お葬式の日、どうしても足がすくんで中へは入れなかった、外で立ちすくむ私を両親は笑顔で招きいれてくれた。
私は両親の前で頭をこすり付けて詫びた、詫びて済む問題ではないが詫びて詫びて兎に角詫び倒した。
まるで”贖罪”を乞う罪人の如く狂ったように顔を畳にこすり付けた。
両親は何度も私に顔を上げてくれと頼んだが私はまともに両親の顔を見る事が出来なかった。
私さえあの時着信に気づいていれば彼は死なずに済んだ、どれだけ辛かっただろう、どれだけ不安だっただろう…。
彼の両親は狂ったように詫び倒す私に一通の封書を手渡した、其処には彼の私に対する感謝の言葉が幾つも並べられていた。死ぬ直前彼が私に当てた手紙だと言う。
其処には恨み言は一切無く只々私に対する感謝の言葉だけが綴られていた…。
私はその手紙を震えながら読みそして会場を後にした。外は雨、私は帰り際傘も差さず号泣し意味も無く叫んだ…。
天国に居る彼へ私の声が届けとばかり叫んでいた、まるで獣の雄叫びの様に…。
あれから既に10数年が経過、私も大学で教鞭をとる人となった、だが今もあの時の”経験”は我が心に鮮明に有る。
彼が亡くなって暫く後両親にお会いした、元気そうであの後お生まれになった彼の”弟”と元気に暮らしておられた。
その時両親が私にくれた”笑顔”、あの”笑顔”が今でも私は忘れる事が出来ない。
私はその時決意した”何が有ってもこの仕事は続けて行こう、そして沢山の人を笑顔にしていこう”と…。
彼の魂は今も私の中でずっと息づいている、彼の笑顔が私を笑顔にしそして我が同胞を笑顔にする。
笑顔の連鎖が続き何時か世界中を笑顔で一杯にするその日まで私の戦いに終わりは無い。
それが我が選んだ道であり私が進むべき道だと信じているから。
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