数年前、余りに長すぎる闘病生活の末父が亡くなった時、もし母と我が愛方と同胞や生徒方々の支え が無ければ間違いなく私は父の後を殉じて居た。
私が15の年に発病してから20年近く入退院を繰り返 しながらそれでも経営者として家族を従業員を守り続けた父だった。誰が何と言おうが私のとって父は誇りで有り全てであった。
其の父を亡くした喪失感は私が今まで味わった以上の物であり5年以上が過ぎた今も心にぽっかりと空いた穴が完全に埋まる事はない、恐らくこの穴は死ぬまで埋められる事は無いであろう。
阪神淡路大震災時、私は震災でお身内を亡くされた方のメンタルケアへ赴いた。
そして今も又、今回の震災で被災された方のお身内のメンタルケアへ東奔西走している。
俄に信じがたい話だが阪神淡路大震災でお身内をなくされた喪失感から自死をしようと試みる方は未だ後を絶たず。
今私が赴いているのは今回の震災でお身内をなくされ或いは未だ行方不明の方だけでなく阪神淡路大震災時の方も居られる。
先日も後一歩到着が遅れれば自死に至っていたであろう方が居た、必至の説得で何とか思いとどまって戴けたが。故に今も24h体制で臨み殆ど不眠不休の状態が続いている。
それほどまでに”身内の死”という物は時間を超越したものであるのだという事を我が身を以て痛感した次第。
私自身もし愛方の支え無くば父に殉じていたかも知れぬ、それほどまでに人の死(特に身内の死)は人の精神を狂わせる物なのである。
以前此処で『常態性行動』についてはお話させて戴いた事と思う。
実はこの”お身内をなくされた方の自死行動”にも『常態性行動』が大きく関与している。
人間が五感で尤も影響を受けるのは視覚情報である、故に今回の震災で震災地域外の方のメンタルが危ぶまれているのは連日連夜TVなどで放送される悲惨な状況を”目”でもしくは”耳”で受け取るからである。
普段見慣れている物とは違う風景に出会った時、人の心は大きく揺さぶられる。
それが時に感動を呼ぶ時もあれば深い悲しみを生む場合もある。
普段の生活の中で見慣れた風景の中に居る人物(お身内)が居ない事は脳に誤動作を与えるきっかけとなる。
その誤動作がお心の不安定さを増し、その不安からの逃避行動として自死という選択をされる方が居られるのだ。
不安解消の為に自死しその不安を解消しお身内の元へ参りたいと言う欲求が生まれたとしてもそれは不思議な事ではない。されどそれは又新たな別の悲しみを得る事となり非生産的行動である。
それらの方々のメンタルケアをする場合どうするか?それは”常態性行動”の特性を逆利用する遣り方が有る。
なるべく亡くなられた方が居ない場所(一緒に行った事が無い場所)へお連れする事、それが回避策の一つである。
普段見慣れた風景(亡くなられた方が居る風景)に見慣れない物が有ると脳が誤動作を起こす事は前述の通り。
なれば普段見慣れない風景の中に身を置けばそれが新たな”常態性行動”を生み能の誤動作は起こさずに済む。
お身内をなくされた方がその思い出の土地を離れる事は断腸の思いである事は容易に想像に難くない。
されどそのままずっと悲しみを背負いながら生きていく事を亡くなられた方はお望みで有るかをお考え戴きたい。
もしご自分が天に召された側だとして地上でずっと自分の為に悲しみに日々暮れる方を見る事は忍びない筈である。
なればそれを今御自身がやられていて亡くなられたお身内の成仏及び転生の阻害をしている事が正しくない事も判る筈である。
誰しもお身内を失う事は悲しい、されどその悲しみを越えた先に又新たな出会いも待っている事も事実である。
父の死後実に多くの方と出会い其の中には父と瓜二つの方も居た、きっと父とのめぐり合わせのような心持である。
そのような素敵な出会いも運命には用意されている、その運命を『引き寄せる』為に御遺族には強く生きて欲しい。
其のお手伝いの為ならばどんな苦労も厭いませんしどんな苦難にも立ち向かって参りましょう。
私は常、貴方のお心の一番近くにいます、それだけは覚えて置いてくださいね。
私が15の年に発病してから20年近く入退院を繰り返 しながらそれでも経営者として家族を従業員を守り続けた父だった。誰が何と言おうが私のとって父は誇りで有り全てであった。
其の父を亡くした喪失感は私が今まで味わった以上の物であり5年以上が過ぎた今も心にぽっかりと空いた穴が完全に埋まる事はない、恐らくこの穴は死ぬまで埋められる事は無いであろう。
阪神淡路大震災時、私は震災でお身内を亡くされた方のメンタルケアへ赴いた。
そして今も又、今回の震災で被災された方のお身内のメンタルケアへ東奔西走している。
俄に信じがたい話だが阪神淡路大震災でお身内をなくされた喪失感から自死をしようと試みる方は未だ後を絶たず。
今私が赴いているのは今回の震災でお身内をなくされ或いは未だ行方不明の方だけでなく阪神淡路大震災時の方も居られる。
先日も後一歩到着が遅れれば自死に至っていたであろう方が居た、必至の説得で何とか思いとどまって戴けたが。故に今も24h体制で臨み殆ど不眠不休の状態が続いている。
それほどまでに”身内の死”という物は時間を超越したものであるのだという事を我が身を以て痛感した次第。
私自身もし愛方の支え無くば父に殉じていたかも知れぬ、それほどまでに人の死(特に身内の死)は人の精神を狂わせる物なのである。
以前此処で『常態性行動』についてはお話させて戴いた事と思う。
実はこの”お身内をなくされた方の自死行動”にも『常態性行動』が大きく関与している。
人間が五感で尤も影響を受けるのは視覚情報である、故に今回の震災で震災地域外の方のメンタルが危ぶまれているのは連日連夜TVなどで放送される悲惨な状況を”目”でもしくは”耳”で受け取るからである。
普段見慣れている物とは違う風景に出会った時、人の心は大きく揺さぶられる。
それが時に感動を呼ぶ時もあれば深い悲しみを生む場合もある。
普段の生活の中で見慣れた風景の中に居る人物(お身内)が居ない事は脳に誤動作を与えるきっかけとなる。
その誤動作がお心の不安定さを増し、その不安からの逃避行動として自死という選択をされる方が居られるのだ。
不安解消の為に自死しその不安を解消しお身内の元へ参りたいと言う欲求が生まれたとしてもそれは不思議な事ではない。されどそれは又新たな別の悲しみを得る事となり非生産的行動である。
それらの方々のメンタルケアをする場合どうするか?それは”常態性行動”の特性を逆利用する遣り方が有る。
なるべく亡くなられた方が居ない場所(一緒に行った事が無い場所)へお連れする事、それが回避策の一つである。
普段見慣れた風景(亡くなられた方が居る風景)に見慣れない物が有ると脳が誤動作を起こす事は前述の通り。
なれば普段見慣れない風景の中に身を置けばそれが新たな”常態性行動”を生み能の誤動作は起こさずに済む。
お身内をなくされた方がその思い出の土地を離れる事は断腸の思いである事は容易に想像に難くない。
されどそのままずっと悲しみを背負いながら生きていく事を亡くなられた方はお望みで有るかをお考え戴きたい。
もしご自分が天に召された側だとして地上でずっと自分の為に悲しみに日々暮れる方を見る事は忍びない筈である。
なればそれを今御自身がやられていて亡くなられたお身内の成仏及び転生の阻害をしている事が正しくない事も判る筈である。
誰しもお身内を失う事は悲しい、されどその悲しみを越えた先に又新たな出会いも待っている事も事実である。
父の死後実に多くの方と出会い其の中には父と瓜二つの方も居た、きっと父とのめぐり合わせのような心持である。
そのような素敵な出会いも運命には用意されている、その運命を『引き寄せる』為に御遺族には強く生きて欲しい。
其のお手伝いの為ならばどんな苦労も厭いませんしどんな苦難にも立ち向かって参りましょう。
私は常、貴方のお心の一番近くにいます、それだけは覚えて置いてくださいね。
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