2011年4月3日日曜日

『真実』の心理学~或いは真実の多面性の心理学~

今回の震災で一つの『真実』が脆くも崩れたーそう、原発の『安全性』という真実が。

平常時ー国が訴える原発が『安全』であるという事は間違いなく『真実』であったに違いない。
異常時ーされど今回の震災で原発が『安全』であるという神話は崩れ『危険』であるという認識が広く国民に広がった。

今回の震災に於ける原発事故を受けて山口県知事は上関原発着手にストップをかけた、県民を思えば当然の措置。

他にも例を挙げれば幾らでも有る。

戦争時ー敵国の兵士を殺傷する事は正義でありそれは『真実』であった。
現在時ーどのような理由付けをしても人を殺める事は『真実』とはならず法の元に裁かれる。

更に有る人が『あの人はとても良い人』という事と別の人が『あの人はとても悪い人』という事、
これらは全く別の解釈となるが何れもそれは『真実』である。

有る人にとっては利益を与える人でありそれは『良い人』という解釈となるが、有る人にとっては不利益を与える人となる事も有りそれは『悪い人』と言う解釈になる。
又どちらも無い人にとっては『良くも悪くも無い人』と言う解釈もある。

『真実は一つ』既に使い古された言葉であるがこの言葉が間違いで有る事が上記の事で既にお解り戴けたであろう。

時代により状況により人により『真実』は幾つも存在する、普遍的な『真実』と言う物は恐らくこの世には存在しない。

閑話休題

されど多くの人がその『真実の多面性』と言う部分に気づけず『真実は一つ』と思い込んでしまう(摺込まれている)。
故に違う『真実』を突きつけられた時多くの人は『裏切られた』と落胆し其の直後からその人の印象は180℃変化する

同胞がよく私に言う言葉、『私の本当の姿を先生は知らないから、私の本当の姿を知ったらきっと嫌いになります』と。
されどその後その人が言う『真実の私』と言う物を見せられた時、私は微動だにせず何時もと全く態度が変わらない。
寧ろ其の変化を『素晴らしい』とし賞賛し受け入れる、すると同胞は今までと違った反応を得てとても驚き戸惑う。

されど其処で初めて『受け入れられた喜び』を知り『真実の姿を見せても変わらない人が居る』事を知る。
其れがその人の”自信”に繋がりお心を患う人のお心が徐々に回復に向かっていくのである。

私は人の『多面性』を日々追求しそれを研究している、故にどんな『違う自分』を見せられたとしても全く驚きはしない。
寧ろ『新たな一面』を見れる事はこの上ない喜びであり得をした気分になる(同胞には”物好き”と揶揄されるが(笑))

私はどんな”一面”を見せられてもその人のそれが”一部”だと知っているので好意的に取れど否定的には取らない。
その事が”自分を出しても大丈夫”となり自らの多面性に気づいていくのである。

”常態性行動”此処でも何度も出ているので既にこの言葉はご記憶戴けた事と思う。
実は”真実”という物もこの”常態性行動”が大きく関係している。

常、日常的に行われている行為が”真実”となる為、イレギュラーが発生した際それを”真実”とは受け取れず”異常”な物として排除していしまう心の動きが有る。それを認めてしまう事によりお心が乱れる事を心自体が防衛する為。

されどこの”常態性行動”という物も先に述べた”色々な物を見る”事によりその”幅”を広げる事が出来るようになる。
その結果”非日常的場面”に出くわしても心が”異常反応”を示さなくなる、その事が実はとても大事な事なのである。

”危機的状況”に陥ってもそれを”異常”とせず”常態”とする事が出来れば充分”思考”は働き危機回避が可能である。
それは常”危機的状況”という物を”頭の中でイメージング”して体現する事、それにより充分可能な事となる。

今回図らずも日本人全体がこの”危機的状況”という物を否応なしに目の当たりにした為、学習する結果となった。
この経験が次の時代に必ず活かされると思うし活かしていかなければならないと私は思っている。

それが亡くなられた方への一番の供養である事を私は信じて疑わない…。

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