2011年3月30日水曜日

指導者の心理学~或いはリフレミングの心理学~

一応私も肩書き上は”指導者”と言う事になっている、だが私自身”指導者”という自覚は殆ど皆無と言って良い(笑)
同胞からも”先生らしくない先生、されど誰よりも先生らしい”という大変有り難いお墨付きを頂戴している(笑)

知人の武芸者の弁”型を守るは達人の倣い、型に頼るは弱者の倣い”だと。

弱い者ほど”型”に頼り”型”に自分を嵌め其処から一歩も出ようとしない、”型”に守られている限り強くはなれないのに…

私は恐らく心理学者としてもセラピストとしてもあらゆる意味で”型破り”であると自認しているし他認されている(笑)そんな自分が好きだし自分を必要とする多くの友が居る事をとても誇りに思う。

そんな私の元には大変面白い事なのだが”指導者”と呼ばれる方々が何故か多く来訪され”教え”を乞いに来られる。

し かも専門範囲内ならまだしも”全くの専門外”の方も我が門を潜られるのだから潜られる側は溜まった物じゃないw

されど専門範囲内だろうが外であろうが”専 門以外”は皆同じ、”人と人との付き合い方”は万国共通というのが持論。

浅学菲才な未熟者なれど私なりにお分かりする事を精一杯彼ら・彼女らにお教えさせて戴いている。

多くは”習った事をそのまま教え導こうとする事”に大抵の場合無理があるのだが其処に中々目が行かない。
”自分が理解出来た事が何故理解出来ないのか?”多くの”指導者”は其処で迷路に嵌る事となる。
されど”理解”とは”理を解する”と書く、つまり”その人の心の有り方方向性を解する事”が理解である。
その”理解”が表面的な物で”理論や言語のみの理解”であったならばそれを第三者へ教え導く事は難しい。
更に言えば”教えられた事”を”自分の言葉や自分の経験に置き換える努力”をしていたか否かが大きな鍵となる。

その言葉、その理論をそのまま字面通り額面通りに受け取る事は誰にでも出来る、されどそれは応用には難しい。
受けた言葉、学んだ理論を”自らの言葉やの理論”に置き換える事、これは至難の業なれど応用には長けている。

我が門を潜る”指導者”の多くはこの”自らの言葉や経験に置き換える”という事を中々されておられない方が多い。
私は私が学んだ全ての事を”自らの経験や言葉”に必ず変換しそして血肉とするよう心がけている。

勿論全ての事がそうなる訳ではない、されど其の場合でもその人の立場になるべく立って自分ならどう行動を取るかとシミュレートしそしてその人の心をトレーシングし理解をするよう努力を怠らない。

故に我が門を潜る多くの”指導者”にこういわれる。”先生は専門外の我が職業の事を私以上に理解されている”とw
それはその人の職業的知識や経験を”自らの職業的知識や経験”に置き換えて理解しているからである。

自らが知らない職業や知識をそのままの”形”で理解しようとすれば当然其処に”無理”が生じる事は自明の理。
なればその”知らない職業や知識”を”知ってる職業や知識”に変換すれば当然”無理”ではなくなる。

手間は掛かるがその一手間が拠り多くの”理解”を生み”指導者”としての昇華に繋がるという事を理解して欲しい。
誰も最初は”素人”である、其処から様々な知識や経験を経て”玄人”となりやがて”指導者”へとなっていく。

自らが嘗て”素人”でありその時自分がどう学びどう吸収して行ったかを思い出せば出来る事ではないだろうか?
”心”を診続けて20年、伏目の年を越え今私が思う事である。

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