2013年9月22日日曜日

人が人を認識する場所についての常態行動心理学的意外性について

人が人を認識する場所はどこだと思いますか?
名前?肩書き?性別?年齢?収入?そのどれも違います。
人が人を認識するのはその人の"性質"にあります。
何故ならその"性質"が一番自分自身と比較しやすいからです。
名前は皆一人一人違うので比較対象とはなりません。
肩書きも職種が異なればやはり比較対象とはなりません。
性別を比較対象とする人間ならば人間自体をやめるべきです。
何故なら性別を比較対象とし差別化を図る事は自己否定に繋がるからです。
男と女が分かれているからこそ互いの存在価値が明確化され互いが高められる。
その一方の否定はもう片方である自分自身の否定に等しい愚行だからです。
年齢は生年に依拠するのでこれも比較対象としては相応しくありません。
増して年長者が上で若輩者が下だとする考え方はその時点で下に負けています。
本当に下に勝ちたいのであるならば無意味な上下関係は排除すべき
上がそれを放棄できる人ならば下は必ず上を敬います。
上がそこに固執する人ならば下は上を反面教師として蔑みます。
上下をひっくり返して考えれば分かりやすい筈です。
収入がこの中では尤も比較しやすいですがこれも時代や国や経済状況に左右されやすく個人の努力が及ばない領域を残しているので不適格。
されど"性質"だけは他の凡ゆる問題をクリアーにしてくれます。
何故なら上記のどれにも依拠せず独立した存在だからです。
私が同胞を導く際に多用するのがこの"性質"の部分です。
他で比較されても逃げ場が必ず何処かにあります。
されど"性質"だけは何処にも逃げ場が有りません。
それ故に同胞は悔しさを心に滲ませます。
私は一切の固有名詞や個人情報を与えません。
私が情報として与えるのはその人の持つ"性質"のみです。
されど同胞はその"性質"に嫉妬しライバル心を煽られます。
そして"見えない相手"に勝とうと孤軍奮闘します。
その結果勝つ相手はその"見えない相手"ではなく"自分自身"となります。
そう、私が与えた"性質"とは正に"その人自身"なのです。
されど一切の固有名詞を与えられない相手は"別人"と認識します
骨を咥えた犬が水面に映る自分を別の犬と認識し吠えるのと同じ。
人は人を認識出来ても自分自身は中々認識出来ないものなのです。
何故ならその存在があまりにも近すぎるから。
故に私は敢えてその存在をぼかす事で認識しやすくします。
そしてその自分と対峙させ自分を超えさせるのです。
今の自分を越えられらば病は治ったも同然です。
問題は如何にして自分だと気づかせないか?
そして自分自身と気づかせるか?に掛かって居ます。
これが一番の腕の見せ所でもあります。
見事騙せた時の快感は較べるべくもありません。
正に我が意を得たりの心境です。
これも又、同胞第一主義が成せる技です。
その意味において私はこれからも良い意味で人を騙し続ける"詐欺師"でありたいと願いますw

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