2012年12月31日月曜日

内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)不要論

日本人にとって取り分け政府にとって沖縄と北方領土はまだまだ『日本国』という位置づけではないように思える。 その一つが山本一太議員が担う『内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)』という肩書き。 勿論沖縄と北方領土の問題はとても大事な問題であり専門担当部署を設ける事自体に異議を申し立てるつもりはない。 されどどちらも『国土』という位置づけであるならば『国土交通省』の担当である筈。 事実、沖縄と北方領土以外の『国土』に関しては『国土交通省』の管轄だからである。 更に言えば『内閣府特命担当大臣』は内閣府に置かれている。 これも又、沖縄や北方領土が他とは違う扱いを受けている証拠である。 これを全て『国土交通省』が担えばもっと領土問題を身近に捉える事ができるのではないかと私は思う。米軍基地問題も恐らくこの制度が大きく邪魔をしているように思える。 米軍基地が置かれているのは紛れもなく『日本国領土』である。 ならば『国土交通省』の管轄であるべきである。 よそ者が日本国領土内で問題を起こせば当然国法によって裁かれるべきである。 最近はやっとそれが”当たり前”となってきているようだがまだまだ”日米地位協定”に阻まれている部分もある。 戦後50年が過ぎそろそろ『米国日本州』と言う属国意識は取り除かれるべきではないか? 在る米国人の話をすると一部の米国人の中では未だ日本を『属国』と勘違いしている米国人も少ないという。米国におけるハワイ州と同じ位置づけにある者も少なくないと聞く。 こういう認識が国内で在る事自体が既に間違いでありそれを正さぬ政府にも大きな問題がある。瑣末な事と言う無かれ、その瑣末な事が今、大きくクローズアップされているのだ。 一部の傍若無人なる振る舞いをする異国人の中には”属国意識”を持つ者もいる。 その”属国意識”が犯罪を助長させていると言っても過言ではない。 先ずは日本国政府からこの考えを変えるべきではないかと私は考える。 沖縄も北方領土も元は別の国の物であった、それを日本国人が戦争で奪い取ったのだ。 その責任を日本国政府は負わねばならぬ、その重さを感じねばならぬ。 未だ昔の人は自らの事を”琉球人”だと”アイヌ人”だと呼称する方々がいる。 ”日本国人”とされても”魂”はそれを拒絶している証である。 その一つが政府による”差別意識”である事は否定できる物ではない。 沖縄も北方領土も”日本国領土”とするならば政府も考えを改めるべきである。 もっともっと沖縄や北海道及び北方領土の方々の”切なる叫び”に耳を傾けて頂きたい。 それが我が願いである。

2012年12月29日土曜日

突発性難聴は病院に行かずとも治ります

今年も後二日。 年末年始を海外やテーマパーク、或いはライブハウス等で迎える人も多い。 年末年始は特に紅白を皮切りに音楽イベント目白押しで音楽好きには堪らない。 その際に問題となるのが『突発性難聴』である。 今年はこの病気に罹患しライブ活動を一時休止せざるを得なかったアーティストが多かった。ご存知の通り突然耳の聞こえが悪くなり或いは聞こえなくなる病気で五感の内の聴覚が突然奪われる訳だからそりゃあ驚くのなんの。 人間は恒温動物でとても変化に弱いので変化に対してとても過敏に反応し自らの身を守る性質を持っている。花粉症などがその好例である。 実は『突発性難聴』もこの機能が働いた結果起こる『自己防衛性疾患』である。 『自己防衛性疾患』とは風邪等に代表される物で大病を避ける為に小さな病で人間自身に身体の異常を警告注意を喚起し大病を避ける予備疾患の事。 音響機器における『フェードアウト』現象を体で体現したものそれが『突発性難聴』の元である。所が音響機器における『フェードアウト』と違うのは解除方法が違う所である。 これこそが『常態行動心理学』の妙である。 『突発性難聴』に罹患する人は普段から大音量を耳にしている人が多い。 故にアーティストじゃなくても趣味で音楽活動をしている人とかヘッドフォンで移動中も部屋の中でも大音量で聞いている人とかもその範疇である。 そういう人の場合鼓膜や脳への刺激を抑える為に脳が自律的に『フェードアウト』を起こす。されど音を小さくしても『常態行動』により脳がそれを認識するのに時間が掛かる。 人間は急激な変化に弱いので徐々に改善して行き変化を最小限度に抑える性質が生物学的及び生態学的に備わっている。 改善方法は一つだけ。 聴覚を研ぎ澄まし小さい音でも聞こえる耳を持つこと。 雑音という奴は『聞く事』に集中すれば余り気にならなくなる。 例えばF1レーサーがあの数台にも及ぶエンジン音の爆音の中『静寂に包まれる』事がある。それは最大限に集中力を高め運転のみに全神経を研ぎ澄ませ集中させた結果である。 彼らはプロで我々は素人だから出来ないは単なる怠け者の言い訳でしかない。 実際何度も何度も満員電車内で音量を落としてヘッドフォンで聞く訓練をさせた所、 静かな場所でも聞き取りにくい音量でもちゃんとその音を聞き取れるようにできる。 これこそが先に述べた『常態行動』の妙である。 目のご不自由な方が目が自由な人よりも早く確実に歩ける所以がここにある。 片足のないおっさんが車椅子でバイクと並走できる理由が此処にある(笑) ヘッドフォンをすれば問題がないわけじゃありません。 ヘッドフォンをしても大音量で聞いていたら意味がありません。 楽しく音楽活動をするためにも是非常態行動に心掛けて見て下さい。

2012年12月28日金曜日

年末の大掃除が中々終わらない常態行動心理学的根拠

この時期我が家もですが何処も『大掃除』の時期です。 普段大まかなお掃除はしても細かい所迄は中々時間的制約が有りできません。 一年の計は元旦にありと申します。 元旦を気持ち良く迎える為にも風水的に金運を呼び込む為にもお掃除は欠かせない。 されど私もそうですが中々大掃除と言うものは終わらないものです^^; 普段気づいていても見て見ぬ振りをしている箇所の何と多い事か(笑) この際だから一気に片付けてしまおうとついつい要らん欲を出してしまいます。 されど実はこの要らん欲が大きな落とし穴。 普段使わない筋肉を使い、普段使わない姿勢を取り、普段掛けない時間を掛ける。 これが常態行動心理学的には疲労感を増す原因となります。 何度も此処で触れていますが人間は変化にとても弱い性質を生物学的及び生理学的に持っています。 読んで字の如く”大掃除”ですからそりゃあもう”大変化”な訳です。 これに先ず視界がついて行かない。 更に先に述べた通り普段使わない筋肉や普段使わない姿勢を取る事も常態行動心理学的には脳が誤動作を起こす原因となります。 受験など試験対策の際の脳の使い方と大掃除の時の脳の使い方は実は働きが違う。 前者は減って行く宿題や課題を見てやる気を奮起させるのが私の受験テクニック。 後者はこの方法では実は駄目なんです、何故なら体の使う部位が違うから。 受験で使うのは脳とせいぜい使っても腕です。 されど大掃除では使うのは脳だけじゃなく全身の筋肉です。 これは当然消費される運動量が違い溜まる疲労も桁違いです。 故にラストスパートが中々掛けにくいのが現状です。 ランナーズハイに中々なりにくいのは脳の内の特に視界情報の変化に乏しいから。 ゴール近くになると当然見えてくる景色は変わってきます。 されど大掃除は室内なので見える景色は余り変わりません。 掃除をして綺麗にはなっている筈ですが配置換え等をせぬ限り視界情報が更新されてもその更新を脳が中々認識してくれません。 これが実は『ルーティンワーク』となり人間の苦痛に変わって行きます。 人間にとって最も過酷な労働は”変化が見えない事”なのです。 故に大掃除の際の後少しになると突然今まで我武者羅に頑張ってきた疲労感が一気に体に現れ後少しが中々手が出ないのです。 そういう時はどうするか?勿論休憩をいれるのです。 後少しなのにと言われるかもしれませんがこの後少しを一気に片付けてしまう為には小休止が必要不可欠。 特に大掃除中に失われた糖分や水分を充分に補給しましょう。 何より椅子に深く腰掛け”休んでいる”事をちゃんと脳に伝えましょう。 すると脳は”休んだ”と認識し体内に溜まった披露をちゃんと除去してくれます。 ”後少し”を頑張る為に”小休止”は必要不可欠である事を忘れないで下さい。 そうして新年を気持ちも新たに迎えようではないですか。

2012年12月27日木曜日

美の種を発芽させるお仕事をしています。

言わずもがなであるが我が女性友録は他の女性友録から見ても”美女揃い”であるようだ。 嘗て何度かリアルに女性友録さんにお会いしそういうお話を頂戴しているからである。 そしてそれは至極当然の事、何故なら”顔”で選んでいるから(笑) だって”心の美しさは顔に出る”からです。 例えどんなにメイク技術や撮影技術や果ては整形技術が発達しようとも”心”までそれらの技巧が及ぶ事は有りません。 ”心”は人の手で”変えられる”物ではなく己の精進のみで変えて行くものだからです。 幾らメイクや撮影技術や整形技術が発達し見栄えをよくしても”心の醜い”人はその”醜さ”が必ず顔に、態度にそして言葉に出ます。生来の”醜さ”はどうやっても隠せる物じゃない。 生まれや育ちが関係していると思われがちですが然に非ず。 どんなに過酷な環境に生まれ育っても”心健やか”なれば必ず”美人”に育ちます。 その証拠が”戦火に生きる子供達の表情の美しさ”です。 彼ら彼女らは明日をも知れぬ命の中で懸命に生きようとしています。 その真剣さが彼ら彼女らの”美しさの元”になっています。 家でのパパはみっともなくても仕事中のパパがカッコ良く見える一番の理由がそれ。 人は何かに一生懸命になっている時の顔はとても素敵なのです。 美人が美人たり得るのはメイクや撮影技術や整形技術等”人の手”による物ではありません。それは常日々の自身の弛まない努力による物です。 されどその努力も人を押しのけ或いは陥れのし上がろうとするのでは無意味。 人を押しのけ人を陥れるは自らを押しのけ自らを陥れる愚行なり。 何故ならば人も我も同じ”人間”だからである。 人を陥れ人を押しのけるは自らも同じ境遇に遭う事と知るべし。 心理職となって二十年を超えました。 今迄老若男女を問わず国を問わず万人単位でお世話をさせて戴いて参りました。 その中で”絶世の美女”もいれば”側に居て同じ空気を吸うことすら汚らわしい人”も居ました。 私はフリーランスなので人を選ぶ事ができます。 お金が無くても自らのお心を真剣に治したいと思われる方には採算度外視で挑みます。 お金に富んで居ても人の頬を札束で叩くような屑には一兆円積まれてもお断りします。 事実遥か昔或大物政治家の馬鹿息子を治せと大枚持ってきた親バカ政治家が居ました。 世間体を気にしてフリーランスである私なら情報漏洩がないと思われたのでしょう。 されどその態度は飽くまで上から目線横柄で馬鹿息子も全く他力本願で治す気なし。 私はそのまま戸外へ追いやり戸を閉めました。 無駄に人脈があり経済封鎖をされましたがそこはそれ。 凡ゆる機関に圧力を掛けても私はフリーランス。 同胞からの依頼まで圧力を掛ける事は出来ません。 私が居住型から移動型に変えた経緯は其処にあります。 閑話休題 所謂”マテリアルビューティー”な女性のウォールはいいね!ボタンは無数にあれどコメントなしが多く”ナチュラルビューティー”及び”パーフェクトビューティー”な女性のウォールはいいねもコメントも相当数有ります。 これがその真実です。 私はこれからも”美女大好き”を公言し続けます。 そして我が”心の施術”で”本当の美女”を世に送り出したいと思っています。 貴女の中の眠っている”美女の種”発芽させて見ませんか? 或いは貴女の中で”育っている美女の種”の存在に気づいてあげませんか? そのお手伝いを私がさせて戴きます。

イブの夜に安部内閣に思いを馳せる。

去年のXmasは丁度ガス壊疽罹患し入院直前(この時はまだガス壊疽である事も足を切断する事も入院する事すら予測不可能な時期でしたが)でディナーは愚かステーキ一枚すら完食出来ない程でした。 今年のXmasはディナー完食後お酒まで数杯頂戴する程に回復し愛方共々元気になった事をお祝いしました。 24日は流石に予約で一杯だったという山口グランドホテル内レストラン『アゼリア』。 されど本日はXmasディナーを頼んだのは我々一組だけ。 もう御一組予約席が有りましたが我々が会食途中席のリザーブが外されました。 その後紳士が数名来店されディナーを注文されるもXmasディナーではなし。 帰り際ちらりと母の車の車内から道路沿いの店内を覗くも店内に人影なし。 まぁ流石に21時もすぎると我が田舎町はゴーストタウンの如き様相を呈し夜間灯以外の光は無しと言う世界なので余り違和感は感じませんでしたがそれでもやはりまだXmas。 去年の丁度今頃はまだ結構な人だかりが有った気がします。 それは場所を変えても同じでした。 去年も今年と同じく愛方を駅まで送り電車を見送った後帰宅します。 これは私が10年間ずっと続けている言わば常態行動の一つ。 時期が時期だけにカップルや家族ずれが去年は結構多くこの時間でも駅構内はいつもの如く賑わっていました。されど今年はカップルの姿なく仕事帰りのサラリーマン氏数名と忘年会帰りと思われる若い同僚数名とすれ違ったのみ。 ちらりと愛方が乗る電車を見ましたが何時もは立ったまま座る場所がない程ですが今日はスカスカ。恐らく無事着席し帰宅できた物と思われます。 現在愛方は某100均に勤務しており其処でも去年との違いを認識できました。 我々は去年は購入者側でこの時期はメイクグッズが良く出ていたのを覚えています。 今年は相方は販売者側でしたがhomeXmas商品が馬鹿売れしたそうです。 事実山口駅通りにある某ダンススタジオで24日催されたXmasパーティーでは愛方が勤務する百均での品物が通りに面した窓からもはっきりと見えるほど飾り付けで一杯でした。 ここ二日間余り商店街に人だかりはなく早々にシャッターを下ろす何時もの風景。 帰宅途中の家々の窓には楽しそうにXmasを祝うカップルや家族の姿がありました。 家族やカップルの絆を強めお互いの結束力や愛情を高めるという意味に於いてはとても喜ばしい事であり推奨されるべき事だと思います。 されど経済面に於いては今日のレストランもそうでしたが外で会食する事もなくお泊まりをするでもなくプレゼントも高価なブランド物を買うでもなくお金を外に落とす習慣が徐々に薄れている事に若干の恐れを抱いて居ります。 過日も此処で申し上げましたが安倍新総裁が打ち出すデフレ対策は国内経済の立て直しを核とした物であり国内生産高は上がるかもしれません。しかし外貨価値としての日本円の価値を下げる結果となり輸入業者への皺寄せ、免税店への皺寄せ、取り分け旅行代理店や旅行業者への皺寄せは相当な物となる事は必至です。 勿論それに関わる商品を扱っているお店も少なからず打撃を食らうでしょう。 其処に追い打ちをかけるように消費税引き上げを行えば益々買い控え現象がおきます。 国内生産高を上げるために行った筈の政策が結果国内生産高を貶める結果となります。 TPPについて自民党は最初から不参加を表明し政権奪取後更にその勢いは増すでしょう。 それ自体は反対すべき事ではありませんが少なくとも先進諸国におけるイニシアティブは今後取れなくなる事は間違いありません。 安部政権が目指している物が何処へ向かっているのか? 今の私にはまだそれを推し量る術はありません。 されどアンチ民主票だけでもしも政権を奪取しただけであるならば前々回と同じ結果を四年後迎えそして二度と奇跡の大逆転劇は起こらないでしょう。 国民も馬鹿じゃない。 或る女性政治家(自民党)に国民が言ったそうです。 ”もう一度あんた達に掛けて見る、されどこれが最後だ”と。 これは一国民の声ではなく現日本国民の総意であると私は思います。 それを安部政権は決して失念せず在民主権を貫いて欲しいと願います。

神は見てござる、聞いてござる、知ってござる。

光の暖かさを暖かいと感じられる人は影の冷たさを知る者のみである。 影の冷たさを冷たいと感じられるのは光の暖かさを知る者のみである。 互いの存在を確かめた者のみその存在の有難さを知る事ができる。 暖かさを求めたくば先ず影の冷たさを感じる事である。 冷たさを求めたくば先ず光の暖かさを感じる事である。 各々の存在を知らずして対を成す存在を知る事は能わず。 人が冷たいと感じられる人は人の暖かさを知る者である。 人が暖かいと感じられる人は人の冷たさを知る者である。 人の暖かさを知らぬ者が人の冷たさを知る事はない。 人の冷たさを知らぬ者が人の暖かさを知る事はない。 成功を欲する者は失敗を恐れる者のみである。 失敗を恐れる者は成功を恐れる者のみである。 真に成功を欲するならば失敗を恐れぬ事である。 真に失敗を恐れたくないならば失敗を是とする事である。 富を欲する者は富が無い事を嘆く者である。 真に富を欲するなれば富がない事を嘆かず今有る自分に感謝をする事である。 神は見てござる、聞いてござる、知ってござる。

2012年12月21日金曜日

向き不向きの心理学〜或いは向いていないは向いているのサインの心理学〜

人には誰しも向き不向きがある。 私は心理職は天職だと思っているし周りもそのように思って下さる方が多い。 されどそれ以外の仕事は色々と過去経験して見たが向いている仕事は見つからなかった。 器用貧乏とはよく言った物で凡ゆる職種の方のお心を読む事とその仕事に就く事は同義ではない。 色々な職種の方から”私の仕事先生は向いてますよ”と進言を頂戴する。 それはその人のお心の中を読み職業的悩みを解決差し上げたが故である。 だがそれは私が専門職だから出来る事でありその職種の経験があるからではない。 人がやる事には須らく”心”が介在し”心”が介在しない仕事は存在しないというのが持論。 その通り私は凡ゆる職種を持つ方々のお悩みを聞きそれを解決へと導いてきた。 凡ゆる職種に就く人の行動を具に観察すればその人の行動様式が見えてくる。 それが見えてくるとそれらの行動の中に現時点の問題点や改善点も見えてくる。 それをお示しする事でお心の中の問題や悩みを解決差し上げる。 それが”常態行動心理学”である、先ずその人の”行動”を観察しその行動に至る”心”を分析する。さすればその”心の問題”に迫る事ができる。 されど言うは易く行うは難し、経験と知識が物を言う世界。 誰しもが出来る事ではないと自負をしている。 閑話休題 所謂その職業に”向いている人と向いていない人”がいる。 人からその職業に向いていると言われている人の中には本当にその素質がある人がいる。 それはその人の隠れたスキルにより誰かが恩恵を賜われた証拠である。 だが恩恵を与えた相手は無意識にそれを行っているのでそう言われもピンとこない。 されどそれを言う人は間違いなくその恩恵を賜った人かその場面に遭遇した人の筈。 それなしに”向いている向いていない”を判断する事はできないからである。 されど”向いていない”に関してはこれはそう簡単にはいかない。 ”向いていない”言う人は二種に大別される。 一つは”向いてない”と言った相手から何らかの不利益を蒙った場合。 解りやすくいえば”ジャイアンリサイタル”で聴衆した人は”歌手になる”事を”向いていない”というであろう。 何故ならその為に毎回聞きたくもない歌を聞かされる羽目になるからだ。 今一つは”向いていない”と言った相手が自分より多く利益を得るのを阻止する場合。 此れも解りやすい例を出して説明しよう。 ”とても似合う服”を女友達が着て居たとしよう。 その服を見た”自分が気に入っている男性”がその服を着た彼女に好印象を持ったとする。 すると”似合っている服”を着られる事でこの女性は”意中の男性”を逃す可能性がある。 そうなれば当然”似合っているのに似合っていない”と言いそれをきせまいとする。 何もこれは女友達に限定しない。 家族や彼氏もその範疇となる。 家族と言えど同じ女性、当然嫉妬心はある。 彼氏と言えど同じ男性、他の男性が好意を持たれる服は着て欲しくないであろう。 生物学的生存本能と所有意識からくる言葉である事に目を向けるべきである。 以上の様に”向いている”とする場合はその言葉を素直に受け入れその道を未来の選択肢の一つとして考えても良いと私は考える。 されど”向いていない”とする言葉をそのまま鵜呑みにする事は反対である。 先ずその反対をする人との”人間関係”を考査しそれが”正しい選択”であるかどうかを精査する必要があるだろう。 案外この”向いていない”を言われた事が原因でお心を病む結果に至る人も少なくない。 くれぐれも御注意を。

人が人を愛する常態行動心理学的メカニズム〜或いは私が貴方を愛した幾つかの理由〜

人が人を愛するメカニズムは生物学的には全く色気の無い話であり単に種の保存の法則に則り優勢遺伝子を残す為の行為であると言う味もすっぽもない話。 されどこれを生物学的ではなく心理学的取り分け常態行動心理学的に考察すると又、違った面白さ(意地悪さ?)がある。 自分が幸せである事を誰かから愛され愛している事を堂々と公言する人が居る。 まぁ多くは芸能人なのだが偶に一般人でもそういう人がいる。 周りからすると惚気やがって厭味な奴と思われるか幸せな人ねと揶揄されるか。 だが言ってる本人は残念ながら惚気でも脳天気でもない、言わば牽制である。 先に述べた通り生物学的には人間は幸せを本来的に隠す習性がある。 犬が餌の骨を隠すのと同じ、これは他の犬から自らの獲物を守る為である。 人間も生物である訳だから当然隠したがるのが普通である。 されどそれを敢えて公表する人がいる。 何故か?その事により自らの防御力を上げ生命維持率を上げたいからである。 自分がこれだけ愛せる人がいる事を示す人の中には二種類ある。 自らが愛情深い人である事をアピールする人と自らがこんなにも深く愛せる人を得ている事を自慢したい人と。 何れにせよ自己アピールでありそれは生存本能が成せる業である。 これを策略ではなく素でできる人が居る、これこそが常態行動の妙である。 所がこれは余り喜べる事ではない。 これを素で出来ると言う事はそれだけそれが常態化していると言う事である。 裏を返せばそれだけお心の奥に不安を内包させている事の現れでもある。 お心に不安が無ければ人にアピールをする必要性はない。 人間は必要のない行動は決して取らない。 裏を返せば行動にはその行動がどんなに奇異に見えても御粗末に見えても必ずそれを行う理由がある。 人に自らが深く愛する人がいる乃至は愛してくれる人がいる事をアピールする人はその奥で深い不安と常無意識的に戦っている。 それは深く愛したい、愛されたいと思う裏返し。 これを以前或るお金持ちのお嬢さんに直球でぶつけた事がある。 彼女は地位も名誉も美貌も有り勿論資産家の娘さんでもあった。 自らが多くの男性から愛されている事を自慢し又自分自身も愛情深い人である事を懸命にアピールしていた。 だが、心の奥底で彼女自身は知っていた。 彼ら求愛する男性の殆どが彼女の地位や名誉や財産や体のみを欲している事を。 だが彼女自身それを認めたくはなかったのだ。 それを私はズバリ見抜きそれを本人の目の前で告げた。 勿論烈火の如く怒り全否定されどその行為自体が我が言の正しさを証明していた。 それから間も無く彼女は彼女の”副次的産物”しか愛さない男性陣を全て排した。 つまり全財産相続権を放棄し家を出たのだ。 無一文となり何も持たぬ彼女に魅力を感じない男共は皆去って行った。 されど一人だけ彼女の側に付き従う男性が居た。 彼女の嘗ての使用人であり常身の回りの世話をしていた男性である。 自分には貴方を雇う金は既に無いと言っても彼は彼女に付き従い進んで身の回りの世話を焼いた。 お嬢様育ちで何も出来ない彼女を心配しついてきたのだ。 最初は正直鬱陶しかったらしいが彼の誠実な気持ちに気づいた彼女は彼を心底愛するようになり数年ご結婚、貧しい暮らしながらもとても幸せな人生を送ったと言う。 お金も大事、地位や名誉も時には大事かもしれません。 されどこのカップルを見れば解る通りそれらは副次的産物でしかありません。 本当に大切な物は何か?をこのカップルは教えてくれた気がします。 貴方のパートナーは本当に貴方を愛していますか? 貴方自身は本当にパートナーを愛していますか? 今一度その胸に問うて見て下さい。

2012年12月20日木曜日

今冬のアレルギー疾患は要注意!

この時期アレルギー疾患で皮膚科を訪れる方が急増中。 今冬のアレルギー疾患は二種に大別される。 環境性アレルギー疾患と心因性アレルギー疾患。 前者は幼児に多く空気の乾燥や熱中症等により皮膚に必要以上の刺激を与える為に起こる皮膚疾患。 後者は成人に多くストレスからくる血中毒素生成により発症。 前者は保湿剤やコールドクリーム等により皮膚を乾燥や熱から守る事で改善が可能。 後者はストレスを逃がす事で改善が可能。 どちらも対処法は有ります。

2012年12月18日火曜日

現政権と国民に求める物。

今回の政権交代に多くの人が期待をしている。 されど一寸待って欲しい。 四年前同じ様に民主に大きな期待を掛けそしてその期待は大きく裏切られた。 更に8年以上前自民に票を投じ我々は何度も辛酸を舐めさせられた。 政権批判をする事は簡単、されどその政権を選んだのは誰なのか?他でもない民である。 政権批判はその政権を選んだ国民自体への批判に同じ。 謂わば天に唾を吐きかける愚行である。 私は選んでいないと逃げ口上を言っても無駄な事。 支持政党に政権を取らせなかった責任はその党を選んだ貴方にも充分あります。 直接であれ間接であれ首相を選ぶのは国民であるという事を忘れてはならない。 ダメだったら次じゃなく駄目ならそれを如何に駄目じゃなくするかが大事である。 駄目だったら次という思考では何時まで経っても政党の成長は有りません。 今迄の政党を成長させなかった責任は国民にも大きくあります。 全てを政権に任せるのではなく国民一人一人が国を動かせる立場にある事を失念せず常政治の行く末を見据え駄目だと思えばそれを変える権利を有している事を失念してはなりません。 腐敗政治の根幹はそんな政権運営に無関心である国民の責任でもあります。 憲法改正も同じく、憲法改正は議員の仕事に非ず、民の仕事です。 民にとって不合理な憲法は民の手で変えるべきです。 ソ連邦崩壊もベルリンの壁崩壊もそれを成し遂げたのは民衆の力です。 いい加減”みざるいわざるきかざる”はやめにしましょう。 もっと政治に対してこれからは国民も意見をどんどん出して行きましょう。 幸いFacebookを始め議員に直接或いは国に対して意見を言える場は沢山有ります。 其処で国民一人一人が粘り強く訴えて行けばそれがムーブメントとなります。 議員が動かなければ外から攻めればいい。 嘗て我々は外圧で或る法案を廃案に持ち込みました。 世界経済をも揺るがせない悪法だったからです。 当時はまだインターネットもなくパソコン通信の時代です。 それでも各国のマスコミへ向けその国の言葉に翻訳し廃案へ向け訴えかけかました。 当時の政権政党員の中にも常識派が居て彼らと共に活動をし見事廃案にしました。 国民一人一人が動けば政治は変えられる事を我々は見事証明しました。 私も安部政権には大きな期待を寄せています。 されど政党政治は安倍氏一人で行う物に非ず、党利党略は個人の意見が通らない世界。 安部氏が望まない事も国主として断行せねばならない時もあるでしょう。 時には国民に辛酸を舐めてもらわねばならない時もあるかもしれません。 それが国民が納得の行く痛みなら我々もその痛みを共にしましょう。 されどその痛みが国民のみが負う痛みなら我々は断固反対します。 もっと国民一人一人が政治に参加できる社会を作る事。 それが本当に今の日本を救う唯一の手だてと私は信じて疑いません。

2012年12月16日日曜日

脳死は人の死ではない。

脳死を人の死とするのは生物学的及び細胞学的誤りである。 単細胞生物は脳を持たないなれば死んでいるのか?答えは否である。 脳機能不全は死ではない、自立呼吸が出来ないだけである。 自立呼吸ができないを人の死とするならば呼吸器系疾患患者が酸素吸入機を外せば人の死となるのか?答えは否である。 脳死を人の死とするは病院側の暴利追求主義による殺人罪に該当する。細胞一つ一つは自立判断機能がありそれなしで生物は生きられない。 単細胞生物が生存しているのがその理由である。 つまり細胞一つ一つが脳と同じ役割を示しているのである。 脳死は人の死ではない。脳機能不全というだけである。 脳死を人の死とするは病院と企業と政府の三者の癒着による暴利を貪る為でありそれを合法とする司法も又、それらに加担する物である。 人権的問題ではなく生物学的及び細胞学的に脳死は生物の死ではない。つまりそれは人の死とは呼べない物である。 それを容認する政党支持はそれを是すると同義である。 脳機能不全に陥ってもまだ人は”生きている”。 脳機能不全に陥った患者を持つ家族の気持ちを考えて欲しい。 中には安らかなる死を望む方もおられるであろう。 されど脳死となってもまだ生き永らえさせたいと願う家族も居る。 それは家族の判断であり病院側にその裁量権を与えるべきではない。 死んでも魂は永久不滅であり患者の体を丸でモノでも扱うかのような一部の人非道的扱いには明らかに人権侵害である。 今一度言う。 脳死は人の死ではない、脳機能不全というだけである。 どうか遺された家族の悲しみ、苦しみ、痛みを解ってあげて欲しい。 脳死判断をされ未だ癒えぬ心の傷を持つ我が切なる叫びである。

総務省の発表はプロパガンダであり誤りである。

総務省の発表によるとまだまだ国民の経済に対する考えは慎重派が多数で消費よりも先行き不安で貯蓄に回す人が多いらしい。 されどそれはより経済停滞の原因を生む事になる。 我々が銀行に預けたお金は我々の許諾を得る事なく他へ流用され仮にそれが焦げ付いた場合最悪戻らない危険もあるからである。 昔と違い既に銀行は預けて安心の場所ではなくなってきている。 リーマンショックや某信託銀行の不手際の例を出すまでも無く国民の血の滲むような思いのお金は他に流用され富める者の富をより増やす糧にされている。 それを防ぎ富める者の富の増加を抑え自らが富む為には貯蓄にお金を回さない事である。 お金を増やす方法は株や預貯金だけではない。 一番の方法はお金を使う事である。 逆説的だが経済論でいえばそれが一番効果がある。 大枚を落とせば店が儲かり店が儲かれば主人や従業員がお金を落とす。 それが巡り巡って自分の懐に何倍にもなって戻る。 逆に財布の紐を締めればお金は生まれず増えない。 某総裁は某紙幣製造工場に”政府のツケ”を肩代わりさせようとしているがその”ツケ”は結果国民へ回ってくる。 利回りを高くしたければ銀行にお金を預けない事。 つまり”銀行に儲けさせない事”が一番である。 銀行が儲からねば利回りを上げるしか銀行が生き残る術は無くなる。 その方法は銀行にお金を預けないのが一番である。 政府と日銀の癒着を断ち切り国内経済立て直しを図るそれが唯一の方法であると私は考える。

2012年12月15日土曜日

世界平和の最短距離です。

年末が近づくに連れ喧騒もよりその色合いを濃くし選挙前の各党候補者の争いも激化し 更にそれに不景気風に後押しされ必要以上に頑張って疲れ切り我が門を叩く人が急増。 そのお陰で私自身も又、頑張らざるを得ない状況になっている^^; そりゃあ不景気になれば何とか頑張って景気を良くしようという気持ちは大事である。 先行き不安な状態の中で消費よりも貯蓄にお金を回そうという考えも理解が可能。 されどもっと大事な事がある。 それは『頑張っている自分を認めて上げる事』である。 戦前戦後より古くは江戸時代以前より日本人は頑張る事を強要されてきた。 確かに島国で四方を海に囲まれ単一民族である日本人にとって『奮闘努力』しなければ生き残れなかった現実はあるであろうと思う。特に北海道や沖縄等離島にお住まいの方々にとっては頑張らねば生き残れないというサバイバリゼーションもあったであろう。 されど戦前日本の『月月火水木金金』制度は私にはキチガイじみた制度にしか見えぬ。 本当に国民を奮起させ生産力を高めたいならば適度に休息を取らせる事は必要である。 機械だってメンテナンスは不可欠、まして人間は機械に非ず。 休息を充分に取ってこそ又、新たなやる気も出てくるという物である。 又、『目の前にぶら下げられた人参めがけて走り抜ける馬』の如く御褒美も必要。 手前味噌で恐縮だが我が愛方は私と出会う迄御褒美を貰った事が無かったらしい。 親御さんにとっては親の手伝いをして当たり前、仕事をして当たり前でありそれは褒章の対象にはならぬと言う教えを長く受けてきた為に自らに対しても御褒美を挙げるという考えには至らなかったと言う。 その考え方が絶対的に間違っているとはいわぬが少なくとも我が目には正しい事としては映らなかった。我が家は何か親の手伝いをしたら必ずご褒美を貰えて居た。 勿論子供の駄賃等高が知れている、それでも幼少期より働いたら何某かの報酬を得れると言う商業主義的考えを植え付けられた事は現代の自分にもとてもプラスになっている。 我がセラピーの仕方もそれに習っている。 頑張った分だけ必ず結果を出す。 結果の出ないセラピーは絶対にしない。 当たり前の事だがこの当たり前の事を中々実行出来ているセラピストは少ない様だ。 我が門を叩く同胞の多くは”目に見える結果”が出る事をとても喜び我がセラピープログラムを嬉々としてこなしている。 それは結果として自らの変化が自らでちゃんと自覚できているからである。 例えば容姿、例えば人の評価、人からの扱いの違い等である。 我が門を叩く人の多くは人から正当評価をされず認められなかった方々である。 それ故に我がセラピー後”認められる喜び”を得られる事はとても大きな意味を持つ。 それは何故か? 私自身もそうだが”人から認められると自らも自らを認められるようになる”からだ。 お恥ずかしい話だが私自身が自分を認められるようになったのはこの仕事に就いてから。 それまではとてもじゃないが自分を認められる人ではなかった。 30年近く人から人として認められない世界に身を置いていた人間である。 早々に自らを認めよと言われもそれは土台無理な話。 だがこの仕事に就いてから人が人から認められる喜びを自らがそれを同胞に成す事で学ばせて貰った。と、同時に自分自身を認める事で変わっていく同胞を目の当たりにし自分自身も自分自身を認めてあげるべきではないか?と言う考えに至った。 それからは随分と楽になり生き易くなった。 心なしかセラピーテクニックも精度を増した気もした物である。 人間頑張る事は勿論大事、されどその頑張りを自らが認めてあげる事はもっと大事。 貴方は世界にたった一人しか存在し得ない唯一無二の絶対的存在なのである。 その唯一無二の絶対的存在である自分にどうか誇りを持ち自分自身を認めてあげて欲しい。その事により自分自身も変わり自分自身の周りも又、変わって行く事は間違いない。 貴方が貴方自身を認める事は貴方の周りの人達も又、認める事と同じである。 何故ならば同じ場を構成する構成員だからである。 貴方自身が貴方を認めその輪が広がればこの世からいつか争いはなくなる。 私はそう信じて今日も”自分自身を認めさせる努力”を続けています。

2012年12月14日金曜日

『卵が先か?鶏が先か?』の理論だと私は思います。

脳はPCで言う所のCPU(中央集積回路)であり五体は外部情報入力機関。 各部位からの情報を脳が処理しその結果を伝達しそれを受けて各部位が動く。 と言うのが脳科学及び神経学的見解であると思います、生態学も少しは被るか? されど私は一心理学者としてこの見解に若干の異議を唱えたい。 例えばマラソン等長期常態行動において体が途中から言う事を聞いてくれなくなる。 これは言わずもがな生命維持装置が働きそれ以上の運動は生命力を弱める危険性がある為に動けなくするというのは理に叶っている。 その際それを判断するのが本当に”脳”だけなのだろうか?と私は疑問に思う。 筋肉が疲労を感じそれを脳に伝達しそれを各部位に指令を出しているという事は実際に動く動かないの判断を下しているのは各々の部位ではないか?と私は考える。 正に脳科学及び神経学及び生態学的には『馬鹿か!』と一笑に伏される事間違いなし。 私は生来のへそ曲りなので定説と言うものを見るとどうもひっくり返したくて仕方なし。 先の『卵が先か?鶏が先か?』の理論で行けば各部位に独自の自己判断機能が備わっていてもおかしくは無いのではないかと思う。 いわゆる条件反射と言うのも一般的には脳が処理をしていると言われているが本当にそうなのであろうか? 或いはそれらの判断を各部位が独自に行っているとしたならばこれは理に叶う事ではないだろうか? この考えに至ったのは実は今回の山中教授の発見が契機となった。 細胞自体に判断力が在りその判断で持って自らの意思で各部位の情報を集めそれらになっていくと考えた場合これが証明されれば物凄い大発見となる。 私は一心理学者なので研究範囲に限界がある。 されどその限られた中で様々な思慮を重ねこの問題に独自に取り組んで行きたいと思う。

2012年12月13日木曜日

今冬の胃腸系疾患が多い訳。

最近私を含め近隣者でお腹を傷める方々が多数。 腹痛から下痢や便秘を繰り返しもしや大腸ガンでは?と一喜一憂される方が多い。 されどそれらの主な原因は急激な温度差であります。 尋常ならざる寒さの中急に熱い物を食べたり飲んだりすると内蔵はその温度変化についていかず誤動作を起こします。 元々寒さで腸の働きが鈍って老廃物が溜まっている所にそういう異常が起こると脳はそれを正常化させようと老廃物を強制的に除去しにかかります。 それが真冬の胃腸系疾患の原因です。 改善方法は急激に熱い物を口にせず少しずつ温めて行く事です。 人間は急激な温度変化に弱い恒温動物です。 蜥蜴や蛇等爬虫類のような変温動物ではないので周囲の温度に自らの体温を合わせる事ができません。今冬の寒さは尋常では無くその分屋内外での温度差はかなりの物に。 これが此処まで寒くなければ室内外の温度差が余り無い為に胃腸系疾患には至りません。 されど此処まで温度差が有るとその影響はモロ内蔵にきます。 くれぐれも熱い物の一気飲み及び一気食いは胃腸系疾患を引き起こす原因となりますので御用心下さい。

2012年12月12日水曜日

海外で日本人英語が通じないのは発音だけが問題ではない。

年末年始を海外で過ごす方も少なくはないであろう。 何度も渡航している人は別だがそうでない人の場合必ずぶつかるのは”言葉の壁”。 日本人は戦後教育の中で”正しい外国語”を身に付ける事に躍起になってきた。 米英に追いつき追い越すという精神は未だ日本人の生来型遺伝子に遺伝子情報として脈々と受け継がれている。先進国の仲間入りを果たした今でもその精神に代わりはない。 だがその精神こそが海外でのコミュニケーション能力を貶めている事に気づいていない。 日本人の外国語が外国人に伝わらないのは何も”発音”だけが問題ではない。 一番の問題は”表現力の乏しさ”にある。 或る面白いエピソードをご紹介しよう。 英文科卒のバリバリのバイリンギャルAと文学部卒の普通の英語力しか持たない大和撫子Bの二人の女性が海外へ旅行へ出かけた。 通訳は私に任せてと言わんばかり意気揚々と目的地に着いた。 さて此処で本領発揮と普段”大学で習った英語”をバリバリ使ってコミュニケーション。 ところが…着いた先は都会ではなく田舎町、都内某有名大学卒の二人は”海外の田舎”に憧れ敢えて都会ではなく町外れの街を選んだ。 第一の失敗はこの目的地の選択ミス。 Bは都会の方が日本語が使える場所も多いと主張したがAは自らの英語力を過信し却下。 Bもそれに従い田舎町をセレクトしたのだがこれが大失敗。 悲しい位Aの英語は全く現地人には通用しない。 焦れば焦る程言葉を間違えそれが余計に焦りを生みと悪循環。 見かねたBがAを押し退け拙い英語と身振り手振りで一生懸命現地人に説明。 私ですら通じないのにアンタの英語力で通じるはずがないじゃないと高を括るA。 されど結果は予想を大きく裏切りBの英語で相手は理解し何とか宿泊先についた。 見事プライドを傷つけられたAは今度こそと宿泊先で”流暢で上品な英語”を披露。 されどこれもやはり通じず、今度もBの”拙い英語”で難を切り抜けた。 こうなったらいよいよAは自らの面目丸潰れとなり面白くない。 何とか汚名挽回をと思えば思う程その心とは裏腹にBの活躍の場は増えていく。 自らのプライドを完膚無きまで叩き潰されAは茫然自失遂には引き籠りとなった。 帰国後二度と海外へは行かないと言うAに対し自らの英語力に自信をつけたBはその後海外へ就職を求め見事就職が叶った。 ではこの二人の違いは一体何処に有ったのか? 答えは”Aの英語力が有り過ぎた”事が原因である。 海外の田舎町では都会程”識字率”が日本の田舎町と比較しても決して高くない。 つまりAの”綺麗な英語”は彼らには”難しすぎた”のだ。 又、日本と同じで海外も”方言”があるので”方言”で耳が慣れている現地人には”標準語”は聞き慣れない言葉で理解が”難しい”。 翻りBの英語力はA程ではないが”身振り手振り”を駆使し”現地人と同レベルの語彙”で話した事が功を奏した。 発音は決して良くはないが平易な英語と何より一生懸命伝えようとするボディーランゲージが現地人の理解を増したと言って良いだろう。 ”正しい外国語”が必ずしも”伝わる外国語”ではない。 私の英語力も対した事はないが或る留学生に大学教授より表現力があると言われたw 因みにその大学教授とは英米文学部の学部長殿である(笑) これが現実である。

今の日本に欠けているいるものとは

『生き馬の目を抜く現代』『生きる事は戦い』と言われます。 年末を迎え益々その様相は色濃くなって来ています。 されどその中にあって『共闘』という事を現代人の多くは抜かしていると思います。 人間が地上の覇者となれたのは某自己犠牲ゲームじゃないですが巨大な的に対して皆で力を合わせて共闘したからこそ強大な敵にも向かう事が出来共闘出来たからこそ高い文明を築く事も出来た筈です。 日本が戦後急成長した影には米英に追いつき追い越すという精神の元皆がその力を結集し努力をした結果先進諸国の仲間入りを果たす事が出来たのだと思います。 『個の時代』と言われて久しくなりますが『個』はその対を成す『全』があればこそ『個の存在』も又その色を濃くできるのです。 『全』無き『個』は存在し得ないのです。 日本の今の経済の停滞の原因の一つは正に此処にあると思っています。 他社を追い抜く、同僚を追い抜くのではなくそのもっと先にある強大な敵の為に皆が共闘してこそ経済も回復して行くのではないでしょうか? 有限な資源がどんどんと枯渇していく中その必要性は益々増してくると思います。 私は断固戦争反対派です。 戦争は何も生み出しません。 されどその中にあって戦後日本が共闘精神を持てた事だけは評価に値すると思います。 今一度人間がこの地球で未だ生き残っている理由に立ち返って欲しい。 総選挙投票前に私が思う事です。 と言う事で今日も最後のフォンセッションを終えそろそろ休ませていただきます。 皆様方も良き夢をm(_ _)m

2012年12月11日火曜日

原発推進はオゾン層の破壊を助長させ地球を死の星とする愚行なり

『最近の若い者は軟弱でいかん、ワシが若い頃は…』と昔話を始めるご老体。 挙げ句の果てこの真冬の寒さに真っ裸で乾布摩擦を始め、或いは竹刀の素振りを始め結果大風邪を引く。 これぞまさしく『裸の王様』 御老体には誠に申し訳ない事なれど明らかに地球の温度は御老体が若かりし頃より数度以上変化をしています。 それは目に見えております。 それも”地球温暖化”だけが取り沙汰されておりますが実は異常気象はそれだけに非ず。 今冬は初冠雪を多くの地域で更新され又最低気温が例年に比べ低い日数が多いのが特徴。 実はこの初冠雪に最低気温の更新の原因も”オゾン層の破壊”が原因です。 オゾン層とは言わば人間に於ける衣服に同じ。 暑ければ風通しを良くし寒ければ風を遮蔽する役目、それがオゾン層の役目です。 それがフロンガスや排気ガス等の環境破壊によってどんどんと薄くなっている。 つまり暑さや寒さを遮る物を人間自らが放棄しているのと同じです。 更にそれは気圧配置を変え台風や大雨、大干ばつ等の異常気象を引き起こす原因にもなります。 太陽熱を遮らないということは地熱温度が上がります。 すると当然地球のコアであるマグマを刺激します。 結果的にプレートを動かす原動力となり地震が起きやすくなりそれにより火山の噴火も呼び水となります。 オゾン層の破壊は正に人間をこの地上から抹殺する最終兵器なのです。 このまま地球の自然を人間の愚行により破壊し続ければ明らかに地球は”死の星”となるでしょう。 そうなれば”母なる星”が無くなり”魂の帰る場所”を亡くします。 それは人類創生より繋がる御先祖様への無礼にも繋がります。 そうなる前に今迄以上に真剣に”オゾン層の破壊”を止める方法を人類は模索すべきです。 原発が問題なのは原発が今回の東日本大震災の時のような人災で破壊され”放射能漏れ”を起こした際”オゾン層の破壊”を更に増進させる危険性がある事が一番の原因。 それにより異常気象を引き起こし火山の活動を活発化させ地下のプレート移動速度を早め結果地震を引き起こす引き金となるからです。 今考えるべきはオゾン層の破壊問題、人類が真剣に取り組まなければいけない大きな課題なのです。

2012年12月10日月曜日

昔:『風が吹けば桶屋が儲かる』 今:『自動ドアが開けば空調屋が儲かる』。

今は何処へ行っても自動ドア乃至重力式ドアで和室の様に自らが閉める必要の無い所が多い。 それが常態行動となり地方の電車や和室では無意識に開け放しにする人が多数。 結果季節を問わず空調が必要となり空調屋が儲かるのです。 そしてそれは更に恐ろしい事態を招く結果にもなります。 空調を強くすればフロンガスが大量に空中に撒き散らされ結果益々地球温暖化現象は深刻な結果になります。 自動ドア乃至重力式ドアを廃止し全てを手動に切り替えれば地球温暖化防止だけでなく某社のようなエレベーター事故も防げ安全対策にもなります。 更に思いやりの精神も養う事が出来ます。 一人は皆のために、皆は一人の為に、助け合いの精神も其処で養う事ができるようになります。 日本人の誇りと地球の環境を取り戻す為にも自動ドア乃至重力式ドアを本来の手動式に戻す必要が今後出てくると思います。 自動ドア乃至重力式ドア廃止は更に原発推進派の腐敗政府や腐敗電力会社への反旗を翻す事にもなります。 手動扉開閉が定着すれば空調に掛かる電気代節約にもなるので電力会社の値上げに屈せずとも良くなります。 そうなれば原発推進も無意味となります。 より安全は確保され健康にもなります。 これこそ正に一挙両得です。 是非今度の選挙投票の材料にw

”迷い”には実は種類がある。

以前当ウォールで”迷う時点で結果は出ています”というお話を差し上げました。 自分が絶対的に正しいと思う事は人は迷いを生じさせません。 つまり”迷う”時点でそれは”正しくない”という事でそれを実行する際にかなりのデメリットが生じる可能性があるというお話。 されど実は迷いには二種類有ります。 肯定的迷いと否定的迷い。 肯定的迷いとは例えばイケメンがずらりと並びどれでも一人選んで良いといわれる時の迷い。 否定的迷いはその逆。 ブサメンばかりが並びどうしても選ばないといけないという状況。 選びたいと思うか選ばないといけないと思うか。 能動的か受動的か。 その違いが同じ”迷い”でも結果が出ているか出ていないかに分かれます。 ”肯定的迷い”ならばどんどん悩みましょう、その事で脳の皺はより深くシナプスの伝達速度も上がります。 されど”否定的迷い”なればそれは即刻止めるべきです。 それは血中に河豚毒と呼ばれるテトロドトキシンの何十倍もの毒素を垂れ流し生命力を貶める愚行です。 どうせ悩むなら楽しく悩みましょう。

強い自己否定は強い自己顕示欲の隠れ蓑である。

どんなに家族の事を自分が物心付いて以降嫌っていても人が家族の悪口を言ったり自分が言った家族の悪口に同意をされるとそれを否定したくなる時がある。 例えばそれが恋人関係や友人関係であっても同じ。 これは心理学的に『生存欲求』が働くからである。 例えば家族。 家族の否定はそのままその構成員たる自分の否定に繋がる。 例えば恋人。 恋人の否定はそのままその恋人を選んだ自分の否定につながる。 これが友人であったとしても得られる結果は同じである。 自己否定は容認できても他者否定は容認できないのが人間が人間たる所以。 何故なら自己否定の中にはその奥に強い自己顕示欲が隠れているからである。 本当に自己を否定しているならば人は自らの否定を表には出さない。 何故ならそれを出す必要性が無いからである。 本当に自殺を企てている人が自殺を仄めかす行動をしないのと同じである。 人間はその行動に整合性がある場合それを表に敢えて出そうとはしない。 自己否定を見せる人は実は自己肯定を望んでいる人である。 それは願望が潜在意識的否定である事の裏返しである。 こうなりたいと願う人はその裏でそれが叶わない事を知っている。 もしもそれが叶う物なれば人はそれを願う事はしない。 それを願うという行為自体がそれ自体の否定行為である。 故に強い願望は強い否定と同じなのでその願いは中々叶えられないのである。 閑話休題 故に家族や友人や恋人を悪くいう人の口車に乗せられて下手に同意をするのは気をつけましょう。下手すると同意をした貴方自体を今度は嫌悪する対象とされてしまいます。 そういう時は敢えて否定を示しましょう。 そうする事でその人の否定が肯定に変わり貴方自身の評価も肯定的となるでしょう。 我が実体験より得た学びです(笑)(敢えて誰から学んだかは伏せておきます(爆))

2012年12月8日土曜日

人間が地球上で生き残る為に必要な事。

『理解』とは『理を解する』事。 そして『理』とは『ことわり』と読み『心の向き、在り方』を指す。 つまり『理解』とは『人の心の向き、在り方を解する』事です。 そしてこの『理解』とは生物学的に『生来型遺伝子的理解』と『学習型経験的理解』に分かれます。 『生来型遺伝子的理解』とは生まれ持った両親の遺伝子を引継ぎ更に生育環境の中で得た経験や知識によって得られる理解の事。 『学習型経験的理解』とは生育環境を離れ親元から自立し様々な外界の刺激を受け色々と経験をした上で得られる理解の事。 人間はこの二つの理解をその場その場で使い分けながら生きている。 されどそのバランスはとても難しく時に著しい偏りを見せる。 それは人間が理性と欲望と言う二律背反な物を心に同梱させている事に起因している。 それ故に人は悩み苦しみその中で選択し学習し理解を深めそして進化進歩し現在に至る。 されどそれは人間がこの地球上で地上の覇者として生き残る為の物。 生物学的に動物的共栄主義は生来人間には備わって居ない。 集団で事に当たるのはそれをする事でより効率的にものを処理し個を維持できるから。 この場合大事なのは集団ではなくそれが個の集合体であるという所である。 元々が集団である物と元々が個である物が集団となった物とでは考え方は全く異なる。 動物や魚類は元々集団で移動し集落を持ちそれは食料的依存性の高い集落でありそれがなくなると移動しという生活を営んでいる。 今でも遊牧民族はその風習を残しているが現代人の殆どは居を構え其処から移動せず居は移動させず食物を求めて人間自身が移動しそれを得て居に持ち帰る。 移動型住居の場合大事なのは住居を移動させる労働力でありそれは人との繋がりである。 されど定住型住居の場合必要なのは、定住を維持させる収入であり労働力ではない。 これが人間が群れではなく個で生活を営む最大の理由である。 共同生活を送っていても同じ屋根の下に住んでいても現代人は”個”である事を好む。 これが人間と動物の違いである。 地球が誕生し46億年以上が経過。 されどその中で人間が生まれて今までの歴史はほんの星の瞬き程度でしかない。 それ以外の地球史を作ってきたのは人類以外の生物である。 謂わば地球上で一番の新参者が地球で虚勢を張っているのと同じである。 最近の天変地異を見ているとそれをガイヤがお怒りのように見えてならない。 新参者は新参者らしく大人しくしていなさいと叱責を受けている気がする。 このまま人間が傍若無人なる振る舞いを止めず地球環境を壊し生態系を壊し続けたら最終的には地球にとって寄生虫と判断され淘汰されるのはもう目前であろう。 その前にその事に現代人は気づき全ての生き物との共存共栄の道を模索すべきだろう。 そう考えた時原発が不要である理由は一番理解が叶う事ではないかと思う。 本当に人間が生きる方法は原発を活かす事ではなく地球と共存共栄していく道を探す事。 それ以外に人間がこの地球で生き残る道はないと考える。

2012年12月3日月曜日

時差ぼけが時差ぼけでない常態行動心理学的根拠

所謂『時差ぼけ』は実は『時差』が原因ではない。 その原因は『常態行動』にある。 仕事であれプライベートであれ日本と海外とでは行動様式が違い五感から得られる情報も全く国内のそれとは異なる。 それが長時間であればある程その印象は強く”常態化”しやすくなる。 又、短期間でもその体験が今迄の経験を遥かに超える衝撃を与えた場合”強印象”として残り、長期滞在者と同じ脳の働きを見せる。 されど帰国すれば又、何時もの変わらぬルーティンワークが待っていて雑事に追われる日々が続く。 例えそれが仕事で海外へ行ったとしても関係者以外は見ず知らずの他人である。 日本の場合はそうは行かない。 関係者以外でもやはり何らかのコネクションは必ず存在する。 その煩わしさからの解放が終り又、柵の中に長く身を置かねばならなくなる。 それらの拒否感等と常態行動が合わさって誤動作を起こす。 もしそれが本当に『時差ぼけ』であるならば一切時計を置かない生活を送ってみるといい。 それが『時差ぼけ』である限り時計を身の回りに置かねば『時差』は存在せず『ボケぬ』筈である。 だが実際は常態行動により五感から得られる情報の格差からそれは起こる。 もちろん寒暖差や天候の違い等もその範疇である。 それを解消する方法は一つ。 国内でのストレスを逃がす方法を模索し海外である認識を強く持つ事。 それにより『時差ぼけ』は随分と解消されるはずである。 お試しあれ。

やっと時代が俺に着いてきた(笑)

『季節性情動障害』については既に『季節性疲労』という別名で数年前より公表している。 心理学会や医学会がやっと我が持論に追いついたかという感じ。 やはり日本の医学会及び心理学会は欧米諸国と比べると30年以上遅れている。 その大きな原因の一つが専門性に対する間違った考え方にあると私は考えている。 私の専門は心理学である。 だがこれも既知の通り私はそれ以外の学問についても広く浅く研究を続けている。 最近は生物学者も名乗れるよね?と周りから揶揄される程生物学には精通するようになった。 されど私の専門は飽く迄心理学。 他はその心理学を別角度から実証する為のデータ的扱いでしかない。 専門が専門たりえるのは他の専門との相違点類似性を示てこそが持論。 相違点ばかりを述べるのではなく類似性を其処に加える事でより専門性を高める事ができる。 西瓜をより甘くする振り塩に同じである。 閑話休題 海外の研究者の場合自らの研究分野の色をより鮮明にする為に他分野の研究分野にも手を出しその色をより濃くする研究を多く発表している。 それ故にとても視野が広く見識も深い。 専門性に特化するとは深さだけでなく私は広さも必要だと思う。 人間が五感で感じる”広さ”も拡幅だけでなく其処に”深さ”が加わる事でよりその”広さ”をリアルに感じる事ができる。 それは人間が空間存在論的に2Dではなく3Dで生きているからである。 されどその認識は人間のみ。 3D的見方ではない別の見方をしている他の生物も地球上には多く存在する。 温度で感知する生物にとっては深さや広さは無関係であるのと同義である。 地球上には人間だけが住んでいるのではない。 寧ろ人間以外の存在の方が遥かに多く長く存在している。 又、人間の五感が知覚出来ない存在も又、多く存在している。 それらの存在を否定し無いとすれば簡単だがそれでは説明が付かない場面が余りにも昨今は多すぎる。 寧ろそれらの存在を素直に認め畏敬の念を持ちながら生活をした方が遥かに心豊かに過ごせると私は考える。 この地球は人間だけの星に非ず。 その事を失念するべきではないと思う今日この頃である。

2012年12月2日日曜日

泣いて馬謖を斬る

最近あちらこちらで友録間のトラブルを目にします。 年末も近くなると色々と不安が頭を擡げ御心の安定を欠きそれが態度に言葉に出る人が多い。 そうなると友録を続けて行く事に疑問を覚える人も出てくる。 そして大抵の人が悩むのが『共通友録数』の問題。 この数が多ければ多い程『この人を切って他の共通友録に罵詈雑言言われてもなぁ』とそれがネックとなり中々その人を切れないという人は少なくないようです。 されどそこでよく考えて欲しい。 共通友録数と非共通友録数はどちらが多いですか? 恐らく非共通友録数の方が多い筈。 そして其れこそがその人を切らねばならぬ理由です。 私が今回友録解除したH氏も100名以上友録が被ってます。 H氏を切れば或いはその100名を敵に回すかもしれません。 けどよく考えて欲しい。 その100名を守らんが為に残りの私でいう数千の人間を危険に晒す事は正しい事だと言えるでしょうか? 私はそうは思わない。 その人を怪しいとしその人から何らかの被害を蒙っている場合或いは自分以外の人も同様の被害に遭い同様の悩みを持っているかもしれません。 されどそこで貴方が躊躇し友録を切らねばその同様の悩みを持つ人も同じ様にその人を切れずにいるのです。 逆を言えば貴方が勇気を持ってその人を切ればその勇気に押されて別の人もその人を切れるかもしれない。 過日私は此処でこのように書きました。 『貴方の一言が世界を救うかもしれない、或いは世界を壊すかもしれない』と。 同じ事を此処でもう一度言います。 『貴方の勇気ある行動が貴方の大切な人を守るかもしれない。貴方の小さな恐怖心が貴方の大切な人を危険に晒すかもしれない』と。 是非貴方だけでなく貴方の大切な人を守る為に今迷っている人がいるなら勇気ある決断をして欲しい。そして先にある不安をどうか払拭して下さい。 新たな気持ちで新年を迎えようではないですかw

『霊波動』の学術的根拠のお話

『霊波動』と言うと超心理学的な物が駄目な人には目を背けたくなる言葉である。 だがこの『霊波動』は実は科学的根拠の有る言葉だとするとどうであろうか? 例えばこの言葉を二つの言葉に分解してみよう。 『霊』と『波動』 この場合『霊』は取り敢えずはけといて問題は『波動』の方。 超心理学的なものが苦手な人でも『波動』と言う言葉自体は受け入れられる筈である。 例えばこれに『音』が付けば『音波』となり『電気』が付けば『電波』となる。 『波動』とは字面通り『波の動き』である。 人間の体はこの『波の動き』に結構左右されている。 女性に月に一度訪れる物は『潮の満ち引き』に左右されそれは月からの引力に関係がある。 お酒を発酵させる際クラシックを聞かせると良いお酒になると一時期持て囃されたあれも『音の振動』により発酵速度を早めるのが原因である。 心臓も波形だし殆どの検査も波形で示される。 『霊波動』はこれが『気配』に変わるだけの話。 例えば『反りが合う』『反りが合わない』と言う言い方に言い換える事もできる。 『霊格』とは『人格』と言い換える事も可能である。 もし『目に見えない物は信じられない』とするならば『空気』は見えますか? 『細菌』は肉眼で見えますか? 『ガン細胞』を肉眼で捉えられますか? そしてお腹の中の『新たな生命』を肉眼で捉える事が出来ますか? 『機械を通して見る事が可能な物』であったとしてもその『機械』を作ったのは人間です。 『不完全である人間』が作った物に『完璧』を求めるのは酷と言うもの。 その『機械が写し出す映像』が『真実の物』である証を示ますか? それを『真実の物』だと示せない以上それらは『超心理学的存在』と何らその価値は変わりません。案外食わず嫌いならぬ知らぬ嫌いという物も世の中には結構存在しています。 我々超心理学者はその『目に見えない不確かな物』を『目に見える学術的説明がつく存在』としそれらの誤解を解く努力を常続けています。 そして全人類がその存在を『在る』とした時それらは『存在』を始めて許されます。