『0増5減』を実現出来ない最も諸悪の根源は政府ではなく司法に あり。
裁判官がミスジャッジを行った際ミスジャッジをした裁判官を罷免 させる権利は民にはない。
正確には権利は有っても行使されず。
犯罪を犯したければ法曹人になればよいのか?という理論も成り立 つという事である。
過日も集団暴行をされたと訴えた女性の訴えが間違いであると立証 されたにも関わらず司法は濡れ衣を着せられ無罪の人間を有罪とし 堀の中へ無理やり放り込み社会的地位や時間や人権を奪っておきな がらその判決を下した女性判事にはお咎めは一切無しで定年を無事 終えたという。
これが司法のやる事であろうか?
最近地方検事や裁判関係のドラマが多いのも司法のプロパガンダの ような気がしてならない。
三権分立とは名ばかりで結局は政府と司法が裏でつながっていると 揶揄されても仕方なし。
他人は裁けても身内を裁けぬ司法に司法たる資格はない。
そして最もこの事に心を痛めて居られるのはそれを変える権利を持 たない心ある多くの法曹人方々である。
我が友録の法曹人方々は上記のような法の番人の皮を被った犯罪者 ではなく真に正義を愛し正義を貫き被害者の立場に立って被害者の 心に寄り添える真に法曹人と言って憚らない方々ばかりである。
されど彼ら彼女らの力だけではどうしようもない事もある。
権力に屈するは最大の屈辱なれどその屈辱に耐えねばならぬ理由が 各々にはお有りです。
なれば民がそれを変える以外にはありません。
今も裁判官のミスジャッジを受けて冤罪被害者は後を立ちません。
形だけの裁判員制を敷いても司法自体の身内可愛さ制度を廃さない 限り現状は何ら変わりません。
これからも私は司法が司法としてその権威を落とさないように尽力 して参りたいと思っています。
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