2012年6月8日金曜日

『復興』と言う文字が齎す『動き出す時間』と『止まり続ける時間』

東日本大震災から一年以上が経過。 されど未だ御遺体が見つからない方が数百人以上居られると聞く。 被災地の地元の警察は犯人特定の際に行う模写を被害者の身元確定の足がかりとせんと尽力されておられる。 マスコミや外部の人間が『復興』へ向け動き出している間その『復興』という言葉を耳障りだとする人々が居る。 東日本大震災で御身内を失い未だ御遺体が見つからない方々である。 彼ら、彼女らにとってはまだ『復興』へ進めない思いがある。 御遺体も見つからず御遺体が無い御葬儀を行わねばなら無い無念さ悔しさ虚しさはそれを味わった物でしか解らない。 私も今年初めガス壊疽で片足を失い手続き上の問題の壁に阻まれ遺灰を持ち帰れないと言う屈辱を味わった。 ガス壊疽でグチャグチャとなり原形を留めぬ遺灰でも我が体の一部である、やはり手元において置きたかった。 されどそれは手続き上の不備で叶わず遺灰は処分される事となった。 我も又、『止まった時間』の中で生きる者の一人で有る。 勿論震災の悲劇から立ち直り前を向いて復興へ向け進まなくては行けないのは事実で有る。 されどそれも又、ケースバイケースで有り、『動けない時間』の中で今も辛く悲しい時を過ごす方々も居る。 『復興』と言う言葉が与える悲劇もあると言う事を我々は忘れてはならないと思う。

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