常態行動心理学者の瀬木と申します。 ”常態行動”とは人間が普段、無意識的に行っている行動の事。 例えば朝起きて歯を磨き朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事再開し、帰宅、夕飯食べて、歯を磨いて寝るという一連の行動形態の事を指しています。 その”日常生活の無意識行動”の中に実は様々な問題が内包されている事に多くの方は気付いておられない。その諸問題を解決する為、何かと難しいと思われている心理学と言う分野を解り易く生活に根ざしたテーマを元に説明させていただきたいと思っています。
2012年11月29日木曜日
人はどこで人を認識するのか?
人が人を認識するのは何処だと思いますか?
顔?身体?声?匂い?それとも触れた感覚?
多くの人が人が人を認識するのは”顔”だと思っています。
だから一般的には”整形”した人は誰だか解らないと思われています。
されど実はそれは間違い、人が人を認識するのはその五感で感じる物全てです。
もし視覚的にしか人を認識出来ないのであるならば視覚障害を持っている人は何処で人を認識しているのでしょう?
それがもしも声なら聴覚障害者の人は何処で認識をしている?という事になります。
されど彼ら彼女らはそれを使える人以上に鋭敏に人を見分けられます。
その答えが先に述べた五感情報全てで人は人を認識しているからです。
以前お話をしましたが患者と生徒と教え子が偶々鉢合わせ私の事を話している場面。
三人共私の話をしているのですが三人共それは別人だと言い張りますwww
それは私が各々の接し方を変えているからです。
人は人を認識する際視覚情報だけでなく身振り手振り喋り方抑揚等で判断をします。
匂いもその内の大事な要素の一つ。
故に私は会う人毎に香水を変え同じ人に同じ香水を使っています。
故に香り一つ違っても人は”似ているけど普段と使っている香りが違うから別人かな”と思う訳です。
逆もあります。
私の人生初の草の根ネットでのオフ会での出来事。
まだお互いの自己紹介が済む前にユーザー各位が私だと認識されました。
それは書き込む内容と喋り口調が同じであったからw
これも私が意図的にやった事です。
私のセラピーを受けた人の中にセラピー後人からの関わり方が変わった方は多数います。
人の態度が優しくなった、理解を示してくれるようになった、人間関係が修復された等。
私は何も衣服やメイクや整形で顔かたちを変えた訳ではありません。
では何故?答えは心の向きを変えたからです。
人間心の方向を少し変えるだけで視野が全然変わります。
視野が変わればそれが脳の刺激となり立ち居振る舞いに変化が出てきます。
変化がその人にとって好ましいものであるならばその変化の幅は更に広がります。
その結果同じ人なのに違う人だと、別人だと言われる人になれるのです。
別人なのですから当然受ける印象与える印象が違い相手の接し方も変わってきます。
これで私は多くの人間関係トラブル解消に寄与をして参りました。
つい先だってもそれで家庭トラブルを回避させ夫婦円満家族円満にした例があります。
先の立てこもり事件のウォール書き込みでも述べましたが大事なのは生育環境です。
しかも親元を離れてからの生育環境が大事です。
幾ら金持ちで家柄も良く高貴な出の人でもその人のその後の人生によっては人後に落ちる非人となる可能性も十分にあります。
大事なのは生まれではなくその後の育ちの方。
それを間違えるととんでもない結果を生みます。
それを間違えた人の道を正し本来その人が歩むべき道を歩ませるお仕事をしています。
2012年11月26日月曜日
免疫系疾患はお薬でなくても改善が可能というお話
免疫系疾患はお薬でなくても改善が可能です。
免疫力向上の鍵は自分という存在の多面性を知り精神的逃避場を作る事。
ほぼ全ての病気の改善が可能となります。
例えば呼吸器系の病気の殆どが咽喉等及び内臓疾患が原因である事は知られて居ますが更にその多くが心因性である事は各々の学会でもまだ余り知られて居ません。
私は其処に着目し長年の研究の結果その改善策を見つける事に成功しました。
私自身現在も上気道炎という呼吸器系疾患に苦しめれています。
喘息系疾患で冬場になると喉がいがらっぽくなり咳が止まりません。
幾つも呼吸器系科を受診するも中々改善されず遂に自分でその原因を探り改善に成功しました。
今も完治には至って居ませんが随分症状は軽くなりました。
私自身の理論の殆どはこのように自らの身で実体験をし臨床実験をした結果編み出された物であり机上の空論ではありません。
理論とは実践され役立ってこそだと言うのが自論。
これからも自らを臨床実験体とし多くの実証的理論を編み出して行きたいと思っています。
今回の銀行立てこもり事件に対する常態行動心理学的分析
恐らく今回の立てこもり事件も加害者の家庭環境にスポットが当てられるであろうがそれは下衆の勘繰りであり物見遊山な報道価値のない報道であり噂好きのおばさんの知的欲求を満たすだけの報道側の知識レベルの低さを露呈するだけの自己満足報道に過ぎない。
こういう報道を見る度に甚だ一株主としては嘆かざるを得ない。
もしも家庭環境に何らかの問題が有りそれが犯罪の引き金を引く要因となっているならば今の世の中犯罪者だらけである。
どこの家庭にも必ず何らかの家庭環境に問題がありそれが無い家庭は恐らく存在しない。それはその問題を如何に解決するかによってその後の子供の成長が変わっていくからである。
だが尤も重要なのは自立後の生育環境の方である。
これこそが我が”常態行動心理学”の妙である。
生育環境における五感情報から来る刺激は家庭内よりもその外により多く情報源がある。
それは親が子の変化に疎いように子も又、親から日常的に受ける刺激に慣れてしまいそこから得られる情報量は余り多くない。
そうなれば結果情報を求めるのは外界という事になる。
外界には内界(家庭)にはない様々な刺激に溢れている。
脳は刺激を受け成長しそれが信号として体の各部位に伝えられ体自身も成長していく。
デビューしたてのアイドルが数年後急に大人びる原因の一つが実はここにある。
家庭環境とは全く異なる生育環境で生きて行く為場を構成する者と姿形を似せようとする。
周りは皆自分より年齢的にも経験的にも上の方々ばかりである。
その方々と対等に或いは上位に位置する為には自らの立ち位置も上に置かねばならない。
それがアイドルが数年で大人びる一番の理由である。
閑話休題
今回の犯罪において重要な事は現代社会に対するアンチテーゼを投げ掛けている事である。勿論その投げ掛け方には大きな問題が有りその投げ掛け方自体は間違いであると言わねばならない。だが投げ掛け方に問題があったとしても問題提起自体間違いは恐らくない。
彼も彼なりに今の国を憂う憂国の士の一人であった。
だがその示し方にかなりの問題があっただけである(だがそれが一番大きいのだが)。
彼を凶行に借りたてた物、それはやはり彼が親から自立後の生育環境であろう。
その中で何処か歯車が狂い其処に親も本人も気づけず凶行に及んでしまったというのが恐らく原因であろう。
多くの”専門家”という肩書きを持った素人は”家庭環境”にスポットをあてたがるがそれは更なる犯罪者を生み出す事を助長させるに留まり犯罪抑止には至らない。
馬鹿な親はその報道を見てより厳しく子供を正しい方向へ導こうとするだろう。
されどそれこそが犯罪の温床となる事に気付いてはいない。
当節巷を騒がした『北風と太陽』作戦に同じ。
『北風=厳しく』だけでも『太陽=放任』だけでも子供は正しく成長をしない。
その両面を持ち何より子供の『声にならない声』に耳を傾け聞く姿勢を持つ事こそ大事。
それこそが第二第三の犯罪を抑止し犠牲者を出さない最良の方法だと私は信じて疑わない。
2012年11月25日日曜日
質素倹約を尊ぶより稼ぐ方法を考えよう
日本国憲法で保証されている基本的人権の中の『健康的で文化的な生活』という条文の中に『幸福の追求権』という物が新たに加わった事を知る人は案外少ないかもしれない。
良く極貧生活や節約生活の企画物を近年TVで見かける回数が増えた。
過日も某巨大ガールズユニットの内の一人が某番組の節約生活の企画脱落した事にマスコミ各社芸能人からも批判された記事が出ていた。
徳川吉宗公以降質素倹約を尊しとする風潮は日本に強く根付いている。
確かに島国且つ単一民族で資源に恵まれない日本においては質素倹約は日本人が生きる術として必要な事だったのかもしれない。
サバイバリゼーションの観点から見ればそれは勿論外れては居ない。
人間生きて行く為には必要最低限の物があれば生きる事はできる。
されど生物学的生存と人間の『文化的生活』は実は大きく異なる。
人間が他の動物と異なり文化を持ち地球上で進化し生き残れた理由の一つに人間が持つ『欲望』という部分を決して外す事はできない。
勿論他の動物にも『欲望』はある、だが『理性』はない。
先の二律背反の話と同じ、この二つのバランスのお陰でヒトは地球上で知恵を持ち文化を持ち長く地球でその存在を許されたのだ。
人間がこの二つを持ち合わせていなければとっくに自然に淘汰され人間という生物はこの世に存在しなかったであろう。
『理性』とはいわば『節制』と言い換える事もできるであろう。
されど先のバランスと同じ、『節制』があれば当然『消費』もある。
この『節制』と『消費』のバランスが上手に取れている人は『幸福』に生きている人だと言わねばならない。
されど中々人間このバランスを保つ事は難しい。
『消費』に過ぎれば財を失い『節制』に過ぎれば心を失う。
どちらも『過ぎたるは猶及ばざるが如し』である。
年末に近くなり皆さん『質素倹約』に必死になっている。
だがそれもまた『消費』へ向けての物である。
飽く迄『節制』を主目的にしてはならぬと私は考える。
『節制』は私から見れば美徳でも何でもない。
それも過ぎれば我が目には『悪徳』にしか見えない。
今の世の中『稼ぐ方法』は幾らでもある。
勿論犯罪や人様に顔向けできない商売をせずともである。
創意工夫で『節約』するより創意工夫で『稼ぐ』事を考えよう。
それが人間が『健康で文化的かつ幸福を追求できる』存在である証である。
その方法は私がお示し出来ます。
何事もバランスが大事だという常態行動心理学的根拠
人間は欲望と理性を心に同梱せし二律背反な存在である。
故にバランスをとても大事にしている。
人間は不幸をとても嘆く、そりゃあ誰しも不幸にはなりたくない。
だが不幸を嘆く事が出来る人は実は幸いな人である。
何故なら不幸を嘆く事ができる人はその前に必ず幸福があるから。
ずっと不幸の人は幸福を知らないので不幸を嘆く事すら出来ない。
不安も又同じである。
不安を感じればこそ人はその不安を払拭する為に努力をする。
不安が無ければ人はその努力を怠って居たかも知れない。
不安があればこそ人はその不安を払拭する為に努力をし結果その不安を払拭できる。
そして一段階成長した自分の存在を其処に感じる事が出来るのである。
悪も同じ、悪の存在があればこそ悪を憎み善を尊ぶ事ができるのだ。
前だけならば悪を知らず結果其処に成長を見て取る事は出来ず。
悪があり悪を憎む心があればこそ人の成長は叶うのである。
だがどちらもバランスが大事。
どちらが多すぎても少なすぎてもバランスは崩れお心の均衡も保てなくなる。だが中々このバランスを保つ事が人は困難である。
だからこそ我々のような心理職がその失われたバランス感覚を取り戻し正常なお心に戻して差し上げるのである。
そういう意味で我々はバランサーであらねばならぬと考えている。
まぁそのバランサーたる我々も中身は結構不安定な者だが(笑)
2012年11月23日金曜日
児童文学が大人には読み難い常態行動心理学的根拠
『児童文学』は大人には読みにくい文章です。
何故なら対象層が違うから。
児童文学の読者対象層は児童。
当然漢字を少なく平仮名を多く利用しています。
人間の脳は普段読み慣れている文章で脳処理を行っています。
其処にいきなり平仮名多用文章を読ませられると脳はその視界情報変化に戸惑い理解力を落とします。
それを読んでいる大人は解らないので児童文学なのに読むのに時間がかかりすぎると焦ります。
焦ると当然理解力は落ちます。
これが大人が児童文学を読み難くしている大きな要因です。
児童文学と大人が読む純文学は全くの別物です。
英語を理解できない人がいきなり洋書を読むのに等しい行為。
それを克服する為には洋書の時と同じ。只管読み漁る事です。
読み漁る事で脳が児童文学の文体や文脈作りを理解します。
当然平仮名多用文章も脳が認識し馴染みます。
そうするとスラスラ読めるようになります。
児童文学だから読めると過信すると大きな落とし穴が待っているので御注意をw
秋の行楽を100倍楽しむ常態行動心理学的方法
紅葉の美しいこの時期は山登りやウォーキング等アウトドアを楽しむ人がとても多い。
その際自らの体力を気にされる方が多いが鍛えるべきは体力ではなく寧ろ気力の方です。
気力が充実していると長時間の移動でも疲弊感を余り感じません。
されど気力が減退していたら体力がまだ実際は有っても動けなくなります。
疲労感と言うのは実は体力の減退からくる物ではなくMonotonic behavior(単調行動、この場合は歩く事)により増して行きます。
移り変わる季節の風景の移ろいを目で感じ空気の匂いの変化を鼻で感じ気温の変化を肌で感じ囀る鳥や自然の音の変化を耳で感じ清流の冷たさを舌で感じながら移動する事。
季節を五感全てで感じ移動しながらも常自然の変化を感じ取る事。
つまり移動時の単調行動の疲労感を如何に回避するかが大事なのです。
休憩時大事なのは体力を回復する事だけでなくこの単調行動からの脱却こそが休憩の一番の目的です。歩く事を一時休止する事で単調行動から脱却できそれは係るストレスという荷物を其処に下ろす行為でもあります。
言うなれば『荷下ろし鬱』の逆バージョン。
この場合は『荷を下ろす事』が『鬱屈した感情をクリアにする行為』となり活力の回復に繋がります。
体力の回復とは実は精神力の回復でもあるのです。
スポーツ選手も素人も人間としての器に大差はありません。
筋力や運動能力よりも大事なのは気力です。
私はメンタルトレーナーとしても多くのスポーツ選手を育成してきました。その際一番気を配ったのがスタミナ回復を如何に効率的に行うか。
既述の様に体力回復の鍵は気力の回復です。
その方法を伝授し様々なスポーツで結果を残させて来ました。
どうか秋の行楽シーズン、気力満タンでお楽しみください。
2012年11月22日木曜日
この時期の頭痛、胃痛、胸痛には御用心。
この時期寒さの為に腹痛を訴える人が多い。
中にはこれに胸痛や頭痛を訴える人もいる。
それぞれ胃腸科や外科や脳外科を受診しそれぞれ処方箋を頂く。
それで症状が改善される場合は良いが実際中々症状緩和が困難であるという人も少なくはない。
それもその筈、これらの症状の元は実は意外な所にあるからである。
それは空気の乾燥及び初期感冒による咳が原因だからである。
意外と知られて居ないが咳一回の運動量は腹筋数回に匹敵する。
これを一気に多い場合一度に10回以上する場合があるのだからその場合の運動量は相当の物。
裏を返せばその分多く腹筋に負担をかけている。
そうなれば腹筋肉疲労からくる腹痛があっても何ら不思議は無い。
この時期の腹痛の原因の一つにこれがあげられる。
咳の衝撃が原因の病は実は他にもある。
咳をするとその衝撃は胃だけでなく胸筋や頭骨にも影響を与える。
咳をする際痰が出やすいようどうしても前傾姿勢を取ってしまう。
すると先ず肺胞が塞がりそれがより胸筋を縮め負担をかける。
更に首の筋肉に負担をかけ咳自体の反響が頭骨に影響を与える。
そうすると頭や胸に多大なる負担を掛ける事になる。
特にスポーツ選手や胸の豊かな人はその分胸筋が発達している為に
より多く衝撃が走りそれが痛みの元となる。
更に運動量が多いという事はその分発生する熱量も相当な物となる。
それ故に咳をすればするほど体全体が熱を帯び風邪の症状に酷似し周りの罹患者の様相も影響し風邪と勘違いをする人が多い。
そりゃあ筋肉疲労なら頭痛薬や風邪薬、胃薬で治る筈が無い。
未だこれを知らずにそれぞれの科の医者が処方箋を出すのは理解が出来ないではないが中にはそれを知っていて医療報酬を得んが為態と処方箋を出す守銭奴医者も居る。
医療費も当節馬鹿にはできない。
くれぐれも上記理由による痛苦を勘違いし不要な医療費を態々医師免許を持った詐欺師にくれてやらぬようご注意下さい。
『餅屋は餅屋』というけれどその『餅屋』が正直な商売をしているとは限りません。何事も先ずは疑って掛かるセカンド、サードオピニオンを求める事も大事です。
先ずは罹患者自体が自らの体の状態を具に観察しある程度の予測を立てる必要も今後は出てくるでしょう。
自らの身は自らで守る。
先ずはこれを念頭に年末年始を明るく元気に過ごしましょう。
2012年11月21日水曜日
色彩選択の裏に潜む常態行動心理学的恐怖
先の『黒の恐怖』にも関係するが色彩選択に関しては実は脳科学的には二種類ある。
『自主的意識的選択』『依存的無意識的選択』である。
色彩心理学的には黒を好む傾向が強い人はお心が乱れていてその乱れを正す意味で黒色を好まれる場合が多い。
もしくはそのお心の乱れを悟られないようにせんが為と言う意味もある。
結婚式の燕尾服やお葬式の喪服等慶弔事で黒色が多い理由が実はそこにある。
家人を家から送る身内の寂しさ、故人を天界へと運び悼む苦しみを隠す為の色である。
されどこの『選択色』という物も『意識的選択』か『無意識的選択』かにより選られる結果は格段に違う。
つまり選択における責任の所在を何処に求めるかで得られる結果は著しく変わると言う事である。
選択の責任の所在が自分である、つまり『自主的選択』である場合その選択は『意識的選択』であるので問題はない。どういう結果になったとしてもそれを選んだのは紛れもない自分であり言い逃れはできない。そういう覚悟で持って選んでいるので例えその選択が誤りであったとしても受ける衝撃は少なくて済む。
されどそれが『依存的選択』である場合その選択は『無意識的選択』であるのでこの場合かなり問題が出てくる。第一に得られる結果が好ましいからざる場合その選択を『自主的』ではなく『依存的』に選ばされた事の後悔が先に立ちます。
第二にこの無意識的選択により『騙された感』が増しその選択物における嫌悪感はその選択物のみならずその選択物を含む大枠自体へ及び最悪それを勧めた人物をも嫌悪するようになります。
これが段々と嵩じてくると人心不信へと陥り結果視線恐怖症や人格障害果ては離人症へと発展して行く恐れが有ります。
これが色の問題である場合その色自体を嫌悪しその色を身につける人を嫌悪するようになる可能性も否定はできずそうなってくると社会生活自体を営む事が困難となります。
『引きこもり』など等の原因の一つにこれが挙げられます。
選択一つをとって見てもその重要性はとても高いと言わざるを得ません。
『流行色』を取り入れる事は生物学的生存欲求が成せる業なので止むを得ない部分もありますがなるべくなら同じ『流行色』でもその取り入れ方に少しでもこういう『独自色』を取り入れる事で様々な問題回避に繋がると一常態行動心理学者である私は考えます。
2012年11月20日火曜日
”黒”は救世色に足らずである。
最近”黒”が人気だとか。
落ち着いた色で高級感がある、不景気の巻き返しに最適と売り上げも上々らしいが一常態行動心理学者としては苦言を呈したい。
我が提唱せし色彩影響心理学的には黒をはじめとする静色は興奮を鎮める色であるだけで無く購買欲をも奪う色である。
糠喜びは大怪我の元。
更に黒色は落ち着きの色だがそれ一色になると色覚障害を発症しやすくなりそれに慣れると外界のヴィヴィッドな色に対する拒絶反応が生まれ他の色の商品が売れなくなる。
すると黒を初めとする静色が一時的には売れるがそれも常態化により購買欲は何れ失せ結果全体的な景気低迷に繋がる。
黒色は救世主に非ずである。
2012年11月18日日曜日
受験生必見?!!北風と太陽と心理学
○○しなくてはいけないのに実際は××であるという状況は誰にでも起こりうります。
例えば仕事しなくちゃいけないのに眠いとか、勉強しなくてはいけないのにやる気が出ないとか。
そういう場合人は○○の方へお心をフォーカスしそれを強制的にさせようとします。
されどこれは実は逆効果。
当節流行りの『北風と太陽』で言えば、しなくちゃいけないは北風であります。北風なれば当然旅人は羽織を強く羽織り抵抗します。
これが脳内の働きであります。
願望に対してその願望が強すぎると脳はその願望を否定と捉えその否定の方を実行します。
英語でも『must』〜せねばならないと言う命令形であり根本は否定形。
それを肯定にするためには『not must』にすればいいのです。
つまりかっこ『しなければいけない』を一度脳で放棄する事です。
すると脳は『しなければいけない』を消去し否定が消えます。
『否定』が消えれば当然其処には『肯定』が残ります。
後はその『肯定』に従い事を成せば良いのです。
『心理学』『脳科学』『神経学』の根本概念は案外簡単なのです。
精神疾患は神経系と環境系に大別される。
精神疾患は主に神経系と環境系に大別される。
神経系の代表格はLDやアスペルガー症候群等
環境系の代表格は社会適応障害、不安神経症、パニック障害等である。
主に前者は治りにくく後者は改善が可能だと一般的に認知されている。
だがそれは少なくとも私の経験上正しいとは言えない。
LDやアスペルガー症候群は一般社会的認知ほど実際は重病ではない。
寧ろそれを重病とし社会から隔離し社会との隔絶を図る事でより御本人の精神的負担及び不安を増大させ病を助長させる事に繋がる。
お心の病は時間は掛っても必ず改善が可能であるし社会復帰は叶う。
事実アスペを患っておられながら社長で妻で母親という人を友に持つ。
高校時代LDと診断を受けた女の子は現在人を指導する立場の仕事に就いている。
病を病としそれを重病視させ多くの医療報酬を得んとする守銭奴の誤診に惑わされてはなりません。
環境系疾患は環境を変える事で改善は十分可能である。
環境系疾患の多くは五感情報の誤動作が原因で起こる。
これは心理学会でも案外知られていない事実である。
これこそが我が専門領域である常態行動心理学の妙である。
生まれ育った環境の中で煩われたお心の病の多くは環境を改善する事で改善しそれを常態化させる事で元の環境に戻ってもキチンと社会適応可能とする事ができる。
一度フレーミングされた枠を外し自由にしその上でリフレーミングさせ
元の枠に戻せば自らの大きさを再確認出来るので狭い枠の中でも自由に行動が叶う。
環境系疾患の多くは生育期における負の記憶(無意識記憶)が原因だと考えられる。それは精神安定剤等の処方では決して治らない。
一時的に改善をした都思われてもそれは錯覚であり完治には程遠い。
それが治っていないと知った時の衝撃はそれを治療する前より大きい。
すると西洋かぶれの馬鹿医者は薬を変えたり量を増やす事で対応する。
投薬治療自体に問題があるのにその根本を変えずして治る筈がない。
薬品会社と結託し医療報酬をせしめんが為の治療では治る病も治る筈はない。お心の病は最大公約数的見方ではなく最小公倍数的見方をせねば絶対に治らない。
既述だが統計学ではなく分析学である。
集積論ではなく堆積論である。
他者との比較ではなく御自身との比較において分析されるべき物。
そこに考えが至らぬ限り絶対にお心の病を治す事は叶わない。
それを是非医療従事者は勿論罹患者も念頭において考えて欲しい。
お心の病はお薬や他人任せで治る疾患ではない。
治癒者と罹患者共に手に手をとって病に対してぶつかっていかねばならぬ物であり治癒者はその力を罹患者に与え罹患者はその戴いた力で自らが病と対峙しそれを退けねばなりません。
あくまで治癒者は共に病と戦う仲間であり完治の頂きまで共に走る伴奏者であ治癒者自身が矢面に立ち戦い代走する物ではありません。
それをどうか失念なさいませぬようお願いを申し上げます。
2012年11月17日土曜日
滅私奉公』制は今も現存する。
『滅私奉公』制は今も現存する。
制度上無くなっただけで精神論的にはまだまだ根強く存在する。
それは単一民族で且つ島国に生きる日本人の生きる術であった。
『私を滅する』事で精神的屈辱や苦痛を自らが和らげている。
されどそれは自傷行為に等しい行為。
『私を滅する』事は『心を滅する』事。
『心を滅する』事は『人として滅する事』である。
『人が人として生きる』為には『私を滅して』はならない。
多くの『私を滅し』ながら家族の為、大切な人の為に生きる人に『私を滅せずに』生きる生き方をお教えし『私を生かす』仕事を二十年しています。
『私を滅せず』とも生きる事は出来ます。
どうか『私を生かす』生き方をして下さい。
そのお手伝いを差し上げます。
2012年11月16日金曜日
専門家が専門家たり得るのは専門的知識を有しているからだけではない
『専門家』が『専門家』たりえるのはその専門に特化しているから…だけではない。
『専門家』が『専門家』たりえるのはその『専門』と『非専門』の違いを明確にしその『専門性』をより鮮明にできるからである。
私の『専門』は言わずもがな『心理学』である。
二十年『心理学』一筋で飯を食べてきた。
だが『心理学』だけを只管学んできた訳ではない。
私の文章を良くご覧になると”生物学”や”物理学”という言葉が良く出てくる事がお分かりであろうと思う。
寧ろ”心理学”という言葉より”生物学的”という言葉の方が多い程笑
それは”生物学”と”心理学”の共通点と相違点を明らかにする事により更に”心理学”という分野の色を明らかにせんとする事が目的である。
私は生物学物理学以外にも空間力学や天文学、色彩学や栄養学果ては東洋医学や西洋医学、悪魔学や神学、サブカルチャーに至る迄その守備範囲は果てしなく幅が広い。
これに深さが加われば完璧だが生憎そこまでは時間も頭もついていかないw
されど触りだけでも知識としていれて置けばそれらと心理学との違いを明確にする事くらいは出来る。
以前有る医師免許を持った素人と議論をした事が有った。
氏は医学部時代全ての科を学んだ筈だが今はご自分の専門分野以外何の知識も持ち合わせては居られなかった。
それを当然とし自分は自分の専門分野以外の知識は不要だと豪語した。
私は開いた口が塞がらず思わず絶句した。
外科医は外科的知識だけあれば良いというものではない。
その疾患が外科的物なのかそれとも心因性が原因なのかそれを探る必要は絶対にある。
例えば自傷癖の患者がいたとしよう。
勿論傷つけられた傷を治すのは外科医の仕事である。
だが外科医はその傷を治すだけでは仕事として不十分だと私は考える。
その原因を探りそれを除去し二度と来院させないようさせる事こそ外科医に求められるスキルだと私は考える。
其の為に欧米では心理の専門家と常セットで治療に当たる。
これは何も外科的な物だけでなく内科や消化器全ての科に当てはまる。
逆を言えば心理を学ぶ者にとって大事なのは心理学だけではないという事だとも言える。
外科的内科的凡ゆる分野の知識を広範に求めておく必要がある。
そうでなければ本当にお心を治す事は叶わないと私は考える。
今一度言う。
”専門家”が”専門家”たりえるのは”非専門”との”違い”を明らかにしてこそ”専門家”という冠を戴く事ができるのである。
”専門以外は不要”とする”エセ専門家”は”専門家”とは呼べない。
2012年11月14日水曜日
常態行動心理学から見た行動原理の不思議について
行動心理学(behavior psychology) は行動からその人の心を読み取る方法と心からその人の行動を探る方法の二種類がある。
心の動きが行動に出て行動の変化が心の変化となって出る。
我が常態行動心理学はそれを常態行動心理学(日常生活における無意識行動)に求め研究し原因を特定し心の病を改善完治する学問である。
実は昨日面白い場面に出くわした、登場人物は二人。
私の市内のセラピールームとして使っている山口グランドホテルの受付嬢とクリスチャンで英語講師の『聞き屋』という所謂愚痴聞きを路上でやっておられるある某嬢。
前者は所謂”可愛い系キャラ”であり後者は”ボケキャラ”である。
だが前出の通りそれは”キャラ”であり御本人が演じておられる物。
実際の中身は”可愛い系キャラ”でも”ボケキャラ”でもない。
前者の方はセクシー艶女系で後者はハリウッド女優ばりのできる女系である。だがそれは彼女達の様相からはとても想像ができる物ではない。
だがそれを私は会ったその日に何れの方も見抜き度肝を抜かれた。
では彼女達の何処を見てそれを判断したのか?
それこそが”常態行動心理学”の妙であり醍醐味である。
意識は上層、中層、下層の三層に分かれている事は既出である。
この場合注目すべきは下層と上層意識の二つ。
”演じているキャラ”は上層意識の領域。
”実際の立ち居振る舞い”は下層意識の領域。
そしてこの”常態行動”には”下層意識”が反映されやすい性質を持っている。だがその表出方法は何も大きく異なる。
前出の受付嬢の場合それは”リップメイク”に現れていた。
他の受付嬢が業務の関係上からか割と大人しめであるに反して艶やかで鮮やかな発色が多くそこだけが”可愛い系キャラ”とは相反していた。
後出の英語講師の場合それは”トイレに立つ時の足の運び方”に現れていた。いつもは明るくオーバーリアクションの彼女だが歩く時の歩き方はとても落ち着きがあり下を向いて”素の自分”に戻っていた。尚且つ顔は下を向きその顔には笑顔がなかった。
本当に彼女達のキャラが”本物のキャラ”であるならば既出のような行動にはならぬ筈である。だがやはり”演じているキャラ”と”自らが求めるキャラ”の違いは必ず”立ち居振る舞い”に出る。
今回は”肉体的身体的行動”のお話だったが実は”表出方法”は”ボディーアクション”だけではない。
”書く文字”や”紡ぐ文章””選ぶアイテム”にもその人の立ち居振る舞い”求めるキャラ”のキャラクター性は思い切り現れている。
”常態行動心理学”はこうした”日常生活の裏に隠れた普段の日常生活では中々気づけない行動原理”から”心の中の真実”を見つけ出し其処から”心の病の根本原因”を探り除去する為の我が1000を超えるオリジナル理論の内のメイン心理学である。
『その物を欲せんとするなばらそれを欲せんとせぬ事である』
マリッジブルーという言葉がある結婚前鬱と略される事があるが環境が変わる花嫁がその不安を増大させ鬱病のような症状を訴える物。
翻り最近新たなブルーが発見された。
『クリスマスブルー』誤解なきよう申し上げておくが『ブルークリスマス』ではありませんw
正確には『イベントブルー』と呼ぶのであるが特にこの時期は『クリスマスブルー』と呼ばれる事の方が多い。
実は私も嘗てこの病?に罹患した事がある。
クリスマス時期になると何処も彼処もカップルや親子連れで一杯となりシングルである人は取り残され社会から隔絶されたように思われる。
既に二十年以上昔となるがカップルで一杯の歩道に軽トラが突っ込んで十数名が重軽傷を負った事件があった。
浪人中の受験生で彼女も無くカップルを見ていると無性に腹が立って軽トラを借りてきてカップルの輪の中に突っ込んだのだと言う。
既にこの頃から『クリスマスブルー』は存在していたがその頃はさして話題にもならなかった。
クリスマスやバレンタインデーは企業がその販売戦略の為に設けたイベントでありイベント自体にさしたる意味はない。
寧ろそんな企業が自らの売上を伸ばす為だけのイベントにまんまと載せられ売り上げに貢献する事は正直如何なものか?といつも思う。
我々は記念日が12・14である事も手伝いその日にクリスマスイベントも兼ねてお祝いをしている為にイブもクリスマスも大人しく過ごしている。
元々二人とも人ごみやイベント等お祭り騒ぎが苦手な方である。
人ごみに酔う体質なので余り人ごみが多い所は避けて通りたい。
そして昨今そういうカップルが急増しホームクリスマスなる屋内型イベントが増えてそういうイベントグッズも売れているそうな。
この時期飲食店や宝飾店は稼ぎ時なので随分とこの風潮に異議を唱え各社様々な方策を講じておられるらしい。
されどそれもこの不景気風に圧され気味で敗色濃厚とは当事者の弁。
今年はバレンタインデーも例年程には盛り上がらなかったという。
一常態行動心理学者としては喜ばしい傾向であると言わざるを得ない。
人が人たり得るのは互いに支え合い助け合う事にある。
其処にカップルであったり近距離であったりという要素は必要ない。
制度上の夫婦や形だけのカップルであるより遠距離で形式上そうでないとしても心が繋がっている方がより心の距離は近くに感じる物である。
翻れば幾ら息のかかる距離に居ても心が離れていたら地球の裏側に存在しているのと同義である。
まして人は一人で生まれ一人で死んで行く生き物である。
どんなに絆が強くとも同じ日に同じ様に死ねる訳ではない。
後追い自殺をしたとしても同じ場所にはいけぬ。
自殺者の霊は地縛霊となり現世を未来永劫彷徨い成仏は叶わぬ。
本当に結ばれたいと欲するならば来世での逢瀬を願うべきである。
今一度言う、『イベントブルー』に心を奪われてはなりません。
年中イベントに人が皆参加している訳ではありません。
あくまでも企業戦略の一貫であり金儲けの為の手段にすぎません。
決してそのような下世話な物に惑わされないようにしましょう。
何より貴方が貴方らしくある事が一番大事です。
どうか貴方らしさだけは失わないで下さい。
2012年11月12日月曜日
人は必ず自らがなりたい者になれる。
『変身願望』と言うと女性の専売特許のように思えるが実はその願望は女性より男性の方が強い。
生物学的に恒温動物たる人間は変温動物と比べ変化に弱い。
変化に弱いという事は逆を言えば変化に憧れる性質を持っている。
別項で述べた『意外性の心理学』のように人が人の意外性に惹かれ引くのと同義である。
肉体的、運動的に男性より劣る女性は自らの見た目を変える事でその能力を補っている。
実は此処にも常態行動の妙が隠されている。
メイクや衣装で女性の性格迄変わる人がいる。
先に述べた『変身願望』が表に出たケースだがそれが『願望』である限りその人の内に内包されている物であり普段表に出ないだけであってその人の内にはちゃんと存在している人格である。
それが鏡の前に立ち視覚的に自らの変化を捉える事で自らが憧れている存在と同期し言動や態度まで変わってしまうという訳である。
男性の場合これはアルコールが入った時によく現れる。
男性の場合女性のように服装やメイクで自らを変える事は社会的制度的に難しい。だがそれゆえに変身願望は女性のそれよりもかなり強い。
そういう時男性はお酒の力を借りてその自らの秘めたる願望を果たす。
酒に酔うと人が変わる人がいるがそう言う人程変身願望が強い。
裏を返せば今の主人格に不満を持ち自信を持てないで居る。
まだお酒に逃げられる内は良いがそれが段々逃げられなくなってくる。
そうなるとどんどん酒量が増え結果アルコール依存症へと発展する。
アルコール依存症が離人症や廃人になる理由は実は此処にも有る。
何も変身願望を満たすのはアルコールだけではない。
買い物依存症やギャンブル依存症、薬物依存も又同じ変身願望からその端を発している。現状に不満を持ち現状打開を望むも叶わず現実逃避し夢の中で変身願望を果たす為に酒やギャンブルや買物などに逃避する。
されど今一度思い出して欲しい。
人の夢が夢たり得るのはそれが実現可能だからである。
人の夢が実現たり得ない物は夢たり得ない。
夢たり得る時点でそれは実現可能な物である。
という事は夢を持てる時点で現実逃避せずともよいという事になる。
我が門を叩く人の多くはその事に気づかれずお心を煩われ悩み苦しむ。
されどそれが分かってくると今度はその方策に悩み苦しむ。
その手助けを差し上げ夢に実現へ向けそして依存症脱却へ向けて邁進させ実現させ見事変身させる事こそ我が使命である。
人は必ず自らがなりたい者になれる。
私は小さい頃正義の味方に憧れキン肉マンに憧れた。
時流れて現代私は悪と戦う正義の味方となる事ができた。
悪(心の闇)を倒す事が出来る正義の味方に…。
2012年11月11日日曜日
『手料理』の旨さはその腕ではなく方位性にありw
先の『八方美人』にも若干の関係があるのだが実は『手料理』には方向性がある。
この場合の『手料理』とは企業が不特定多数を対象とした商品的な『手料理』の事を指すのではなく母や妻や恋人等特定の人が特定の人を想定して作られた物を指す事を最初に明言しておきます。
所謂企業向けの『手料理』は実際には『手料理風』でありその実は機械が作っているのは既知の事。よしんばその工程内に手作業が含まれていたとしても『手料理』とはとても言える代物ではない。
『手料理』が『手料理』たるはその方位生が限定された物のみである。
つまり『食べて欲しい人』が限られている場合に限定される。
それは『愛情の方向性』に関係がある。
既に別項で述べているように『愛情』には『方向性』がある。
よく親が子供に対して『私がこんなに愛情を持って育てているのに何で貴方はそれが解らないの?!』と子を詰る親がいるが私から言わせれば愚の骨頂であり甚だ馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
『愛情』の方向が違っているのにそれを幾ら傾けた所で子供がいない方向に『愛情』を幾ら注いでもそれは雲散霧消し全くの無意味である。
殆どの場合『親の愛情を汲み取れない子供』のケースは親の『愛情を傾ける方向間違い』である事が大半である。
子供は未成熟であり自らが『親の愛情の方向』を見定められる訳ではないのでそこは年長者である親がきちんと『愛情の方向性』をしっかりと見定めて愛情を注いで行かねばならない。
それを怠るは親としての資質の問題であり親たりえない。
話を元に戻そう。
『手料理』の元は『愛する人に私の料理を食べて貰いたい』という思いからでありその『愛情』には方位性があり方位は定まっている。
当然方位が決まっていれば目標は定めやすい。
『愛情』の隠し味がこれに加われば不味い筈が無い。
双方向的でなく一方通行的偏愛でない限りそれを不味いとするのは味覚障害と言わざるを得ない。或いはお心に何か問題があるかである。
どんな一流シェフの最高級食材を使った料理にも負けない物。
それこそが方位性を正しくした『手料理』であると私は確信する。
私は母が作る、そして愛方が作る『手料理』は世界一だと断言できる。
きっと多くの『手料理』を戴いている方々もそうだと信じている。
『八方美人』が『八方美人』ではない常態行動心理学的根拠
『八方美人』が『八方美人』たるには実は条件がある。
先ず読んで字の如く『八方向』この場合正確には全方位的方向に人がいなければいけないという事。
更にその行為が『八方美人』だと認識されなくてはいけないという事。
この二点が揃って始めて『八方美人』は『八方美人』たりえるのである。
だが此処で実は最大矛盾が発生する。
『八方美人』が本当に『八方美人』なれば何故その人の周りに人が全方位的に存在するのか?
もし『八方美人』を否とするならば全方位的に人がいないのではないか?
全方位的に人が配置されている時点でその人は『八方美人』ではないのではないか?
よしんば敢えて人がいる場所を選んだとしてもその人を好まなければ人は移動しやはり『八方美人』は成立しなくなる。
今ひとつの矛盾。
それは『八方美人』を『八方美人』と認識する人の存在。
何故その人は『八方美人』だとその人の行為を認識したのか?
それはその人自身が『八方美人』ではないからではないか?
もしもそれを『八方美人』だと認識した人自身が『八方美人』であった場合その行為を『八方美人』とは認識できなかった筈である。
人間は生物学的生存欲求により自らよりも優れた能力を持つ者を攻撃しその能力を貶め自らの生存率をあげようとする本能が生まれ持って備わっている。
そう考えると『八方美人』も或いは生物学的生存欲求が成せる自己防衛本能でありそれは人が生物である限り当然の事とせねばならぬのではないかと考える。
翻り考えれば『八方美人』の周りにいる『八方美人』ではない人達は『八方美人』の人よりも増益を得ていない訳だから損益を蒙っている訳で当然『八方美人』を揶揄しそれを遠ざけなければいけない訳である。
そうなると『八方美人』も結構大変だという事になる。
案外『八方美人』も大変なのである。
2012年11月9日金曜日
『凶器』が『凶器』たり得るのはそれを持つ者が『狂気』である時のみである。
『凶器』が『凶器』たり得るのはそれを扱う者が『狂気』である場合であり『凶器』を扱う者が『正気』であるならばそれは『凶器』にはならない。
『凶器』とは『凶々しい器を持ちし者』の意だからである。
『凶器』を持つ者全てが『狂気』である訳ではない。
寧ろ『正気』の者が『凶器』を持った時それを見た者がそれを『狂気』だと認識する事によって『狂気』となった結果『凶器』となるケースは決して少なくない。
私も嘗て『凶器』を持つ『正気』の人間を説得し『凶器』を下ろさせ更生させた事がある。
どうか『凶器』を持つ者を『狂気』にはしないであげて欲しい。
それは本人のみならずそれにより傷つき奪われる命を持つ者にまで影響が波及するのを防ぐ為である。
人々の『凶器』に対する異常な恐怖心が人を『狂気』にする事もあるのだという事をどうか覚えておいて欲しい。
2012年11月7日水曜日
心理学は分析学であり堆積論である、統計学や集積論ではない。
心理学は統計学ではなく分析学である。
叉、集積論ではなく堆積論である。
最大公約数的視点ではなく最小公倍数的視点でもって物事を分析し決して統計的な見方をしない。
他と自を比べるのではなく自と自を比べるのである。
他と自を比べても元が違うので精緻なデータは取れない。
自を掘り下げる事が大事。
多くの精神科医は集積論でものを言われるがそれは間違い。
同胞一人一人バックボーンが違うのにそれを十把一絡げで纏め上げまともな結果が得られる訳がない。
一人の同胞の過去を探り堆積された物の中にこそ真実が眠る。
その眠っている真実を掘り起こす作業こそ大事である。
この時期の体の不調の原因は加齢による物ではない
この時期体の不調を訴える人の中に加齢による影響を語る方が居られるがそれは余り適当な判断ではない。
先に述べた通りまだまだ昼間と朝晩の寒暖差は大きく太陽の放射熱も夏よりかは弱いが朝晩のそれと比べるとその差は歴然。
更に夏のような寝苦しい夜は寧ろ朝晩の寒暖差が低い為に細胞に影響は出にくいが朝晩の寒暖差が激しい昨今は細胞へのダメージも大きくそれが体の不調をより高める結果となる。
細胞は寒暖差に最も弱い性質を持っていて痛みを受けやすい。
細胞がそうであるということは当然皮膚もそうである。
最近忘れっぽい、妙にイライラする、失敗が多いと嘆かれる方が多いがそれは加齢が原因ではなく先に述べた熱射病と寒暖差による季節性疲労が原因である。
改善方法は遮熱となるべく朝晩と昼間の寒暖差を無くす工夫をし
なるべく体に温度差による負担を掛けない事。
それだけで随分と改善は可能である。
年齢とは行政がその業務の便宜上設けた仮の制度であり年齢自体に意味は有りません。
加齢とはそれを意識した瞬間から細胞がそれに向けて動き出す物でありそこを意識せぬかぎりそれらが活発に動く事はありません。
ある一定の年齢をすぎると特に女性はお肌やその他見た目を気にしますがこれこそがより肌の老化を早める愚行である事を理解すべきです。
御心を常若々しく保つ事、年齢が若い人と共に行動し五感情報をそれに合わせる事こそが究極のアンチエイジングです。
余計な物は不要。
貴女自身の中に眠る美の種を発芽させて見ませんか?
私がそのお手伝いを差し上げます。
2012年11月5日月曜日
日米法律事情エンターテイメント分析論
先で日本と海外の法解釈事情についての違いについて私見を述べさせて戴いた。
だが実は日本と外国の法解釈事情の違いはこれだけではない。
地理的制度的風土的問題以上の違いは実はマスメディアでの取り上げ方、取分けエンターテイメント性における取り上げ方の違いがとても大きい。
スカパー等を見られている方はご存知だと思うが海外ドラマにはいわゆる法律関係のドラマがとても多い事に気づかれるであろう。
日本でも赤かぶ検事奮戦記や七人の女弁護士、牟田管理官刑事ファイル等判例を扱うドラマは有るが海外の比ではない。
又、日本のそれは視聴率獲得の関係でエンターテイメント性重視でドラマ性が高く見て居て面白さは感じてもそれによって法律を学べる事は少ない。
翻り海外ドラマの法律関係は実際の事件を扱った物や卑近な判例が多く実際に明日被害に遭っても或いは与えてもおかしくないような物を多く取り扱っている。
デスパレードな妻たち等はその好例であろう。
日本では馴染みは薄いかもしれぬがあの手のご近所トラブルは欧米では日常茶飯事である。
ドラマを通して法律を学びそれを実際の生活に活かしている。
又、アメリカンコミック(アメコミ)も法律を扱った物や題材とした物が多くスーパーマンやスパイダーマン等日本でも馴染み深いアメコミも時事問題や裁判ネタを多く扱っている。
実際に文字でみるよりもエンターテイメントで五感で捉える方が明らかに脳に定着しやすい。
ドラマや漫画自体が面白ければ同じ物を何度でもみる。
その都度法律や判例を無意識に脳に擦り込ませる結果となる。
故に日本と比べ法律が身近となり訴訟大国へと発展したと私は解釈をしている。
政府発行の難しい書物や専門用語バリバリの広報映像を見るより余程分かりやすい。
本当に法律を根付かせたいならそういう努力をもっと政府だけでなくマスコミやTV局も考えるべきであろう。
心理職の仕事はお心を治す事…だけじゃありません。
私の仕事はお心を煩われた方のお心を治す仕事…だけではない。
お心を煩われ長く社会生活から離れ社会生活を営む事が困難となった方を社会復帰させる事も又、大事な仕事である。
お心を煩われて居られる方の一部はそれを免罪符としてそれを逃げ口上に使う方も居られる。
されどお心を患っている事は免罪符ではない。
自分は心を患っているのだからと言い傍若無人なる振る舞いをする者には私は容赦なく糾弾しその罪を問う。
大抵は逃げ腰となり喚き暴れそして心を閉ざし我を敵視する。
それでも私は糾弾する事を止めない。
此処で止めて優しくする事は簡単である。
だがそれでは一向に自らの間違いに同胞は気づけないままである。
それが法的違法性を持たぬ間は良いが法的違法性を持った場合お心を患っている如何に関わらず罰則は課せられる。
幸いにして罪を逃れられたとしても今度は精神異常者のレッテルを貼られ精神科病棟へ強制的に入れられ其処から通常の社会復帰はほぼ絶望的となる。
私自身の同胞となりし場合それは絶対に許されるべき事ではない。
私自身の経歴その他に傷がつく云々なんぞどうでもいい。
そんな事は瑣末な事である。
私は関わった同胞は全てその病を治し社会復帰を実現させる事を最終目的としている。
それが叶わぬ内は『完治』とはせぬ、少なくとも私の中では。
プロなれば当然の事。
我が門を叩いた限りは絶対にそれを成す、その為に我は有り。
故に我が門を叩き最後迄その治療に携われた者は嘗て一人の脱落者も出さず社会復帰を果たしている。
中には社会復帰のみならず成功者として多くの者を牽引しリーダーシップを発揮する者もいる。
其れこそが我が最高の喜び。
これからも常同胞と共に病と対峙しそれを克服し社会復帰を目指す所存である。
2012年11月4日日曜日
症例に対する事前説明不要論
職業柄色々な方から精神疾患の症例についてのご質問を頂戴する。
普通の医者なら一般的な概略を説明しそれから相手の症状を聞くが私は敢えて逆の方法を取る。
其処には理由がある。
大抵精神疾患の症例に対する質問を下さる方は御本人様がその疑いがあるか或いはお身内や親しい人にその疑いがあるかが多く興味本位や知的欲求からそれらを聞いてくる人は少ない。
故に先ずは相手のお話を聞かせて頂く事でそれがその症例に合致する物であるかどうかをこちらが判断し合致する場合はその疑い有りとし合致しない場合は全否定後その理由を説明する。
内臓疾患と違い精神疾患の場合余程の事がない限り手遅れというものはないので兎に角同胞の不安を煽り希望を失わせるような事は言ってはならない。
精神疾患を治す元はというより疾病自体を治す元は同胞の中の治りたいと言う意思である。
我々心理職はこの同胞の治りたいと言う意思を支え励まし同胞の中に眠る自然治癒力を高め抵抗力をつけさせ心の病を追い出す事こそがその使命である。
有りもしない病名を付けて不安を煽り処方箋や診察料を貪る医者という資格を持った守銭奴とは其処が大きな違いである。
勿論採算度外視の本当の意味での名医と呼ばれる方々も沢山居られる。
されど名医が居れば藪医者がいるのは世の倣い。
そういう藪医者に診て貰い不必要な情報と不必要な不安を得た同胞にとって何より大事なのは大丈夫だという安心感である。
お心の乱れを正して安定させる。それだけで改善する精神疾患は山程ある。
私は心理職であり守銭奴に非ず。
不必要に同胞の不安を煽り法外な医療報酬を得るような守銭奴ではない。
故に私は概略的精神疾患の症例説明に対しては殆ど行わない。
それも又、心理職に求められている事であると私は考えている。
2012年11月3日土曜日
この時期お心が落ちる方へ
我が提唱せし『色彩影響心理学』は色が人の心に与える影響について研究した物でありその対象者は自身ではなく他者である場合が多い。
自身が身につける色によってそれを見た第三者がどういう印象をその人に持つか?
それにより好印象を与えたりで悪印象を与えたりで好きな人は寄せ付け嫌いな人は遠ざける作用がある。
一般的に認識されている色解釈と過去の経験が影響する色解釈は実は大きく異なりそれを熟知しないと大きな痛手を負う事になります。
暖色が必ずしも人の心を明るく豊かにするとは限りません。
嘗て火事の被害で家族を失った方にとっては寧ろ暖色は冷色以上にお心を落ち込ませる色となりえます。
逆に冷色に楽しい思い出が付随している人にとっては冷食は寧ろ心踊らせる色となります。色解釈も千差万別、一般的解釈が必ずしも普遍の定理であるとは考えられない方が賢明かと存じ上げます。
元々はより人間関係を円滑に行えるよう上手く色を生活に採り入れ様と発案したものであった。
されど時としてこれが自分自身に向けられる場合が発生する。
この時期は所謂”秋色”と一般に呼ばれる静色が街に溢れ自然と心が落ち着くのは良いけれど色彩感覚に優れた人は此の色の影響をモロ受けてお心が必要以上に落ち着く(落ち込む)人がいます。
元々羊水に浸かって生を受ける身の人間は水色に対して心安らげる性質を持ってます。心が騒ぐと海を見たくなる人が多いのがその理由です。
されどお心が必要以上に落ちている時に否応無しに静色を見せられると視界情報は脳に落ち着けと更に指令を無意識に出します。
元々落ち込んでいるのだから既に充分落ち着いているのですが視界情報はそれを理解できず強制的に心を”落ち着かせ”ますw
その結果お心を病み鬱病に罹患しやすくなります。
これがこの時期の季節性うつ病の原因。
実は季節性鬱病の多くは色や温度その他様々な要因が原因でありその多くは五感情報の過剰入手や入手誤認が原因である事が私の長年の研究でわかっています。
改善方法はヴィヴィッドな色を生活に取り入れる事。
赤やオレンジや兎に角”派手な色”を生活の中に採り入れる事。
すると無意識に心はアゲアゲになります。されど街全体が静色一色なのでアゲアゲ過ぎる事にはなりません。
お心を病まれて居る方の中には今度は躁病にならぬかと危惧される方も居られるのでその心配はないと申し添えておきます。
秋をウキウキと過ごしましょう。
2012年11月2日金曜日
人間関係にとって必要なのは『時間』ではなく『親密度』である
以前私にとって友録とは『時間』ではなく『親密度』であるという話を此方で差し上げました。
実はこの『親密度』
人間が生きて行くために無意識に選んでいる選択肢だったりします。
例えばこれが『時間』であるならば間違いなく一番の理解者は『家族』でなければなりません。
されど実際多くの場合『家族』は尤も近い『他人』であり親密度はより他人の方が深かったりします。
昨日会ったばかりなのに十年来のおつきあいのような感覚を覚える人って居ませんか?
実は『親密度』は『共有率』でもって決まりこの『共有率』は異なる染色体を多く持つ物により多く『共有率』を持つ事が私の長年の研究の結果判明しています。
生物学的に人間はより優秀な遺伝子を残し生き残らねばならないと言う遺伝子情報が生まれつき備わっています。
硬い鱗も鋭い爪も超人的跳躍力や脚力もない人間にとって知恵だけが唯一自然の中で生き残る術です。
そしてその知恵こそが染色体レベルで異なる染色体を多く持つ者と交わる事で異なる知識を得てより生存率をあげる事になる事を生来型遺伝子がちゃんと理解をしています。
そしてそれは五感情報でもってその情報を無意識的に集めています。
これが実は異国人に心を奪われる女性が後を絶たない理由の一つでもあります。
話を元に戻します。
故に異なる遺伝子を多く持つ者は互いにその遺伝子情報を欲しその結果知らず識らずの内にお互いがお互いを求めあいます。
これが『親密度』に繋がる訳です。
誤解がないように申し上げておきますがこの場合の求めるは『心』であり『肉体』に非ず。
故に異性でも同性でも無問題です。
そこの当たり誤解なきようにw
後期熱中症に弱いのは人間だけに非ず。
以前後期熱中症のお話を此処で差し上げました。
昼間と朝晩の寒暖差及び昼間の太陽の熱が原因で体調を崩す人が急増していると。
所がこれ何も人間に限った事ではありません。
この時期人間以外の物も後期熱中症の影響を受けます。
一番影響を受けやすいのが食べ物。
夏場の様に暑くないので傷み憎いだろうと冷蔵庫にいれずそのまま放置しておくとすぐに傷みます。
実は数日前それで危うく傷んだ物を口にしかけましたw
実はこれも朝晩と日中の温度差の激しさが原因。
温度差が激しければ激しい程雑菌は繁殖しやすくなり又、細胞も壊れやすくなります。
環境の変化に弱いのは何も人間だけに限りません。
人間が口にする食物も又、人間と同様温度差には弱いのです。
くれぐれもこの時期の腐敗にはお気をつけください。
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