2011年12月31日土曜日

常態化の齎す不思議1 『大人の情操教育』

情操教育というと大抵の場合は幼児期における教育を考える方が殆どだと思います。 勿論それは間違いではありませんが実は大人もそれを無意識的にしている場合がある事は余り認知されていません。 幼児期における情操教育は親、乃至は先生が繰り返し子供に言葉や数字を教え思考形態を確立させこういう場合にはこういう回答が導き出される事を体験的に覚えさせます。 多くは道具を使い体現的に覚えさせる事が一般的とされています。 大人の場合はこれを五感で捉えます、しかも本人の意思に関わらず無意識的に。 (この無意識的にという部分が子供の情操教育と似ているのです) 例えばとても温厚な性格の人だった物が転勤先でとても荒々しい場所に移ったとします。本人は全く意識をせずその中で生活をしていたとしても五感で捉える情報は常アップデートされ今の生活に適した接し方を無意識に覚えます。 転勤を無事に終え地元に戻っても一度覚えた生活様式は無意識下にあるため余程意識をしない限りそれが顕在化します。当然周囲は以前の温厚な彼を頭に入れているのでとても違和感を感じます。そして又地元での生活が長くなると接する人や五感が感じる物もアップデートされ元の温厚な彼に戻るのです。 此れを上手く利用すれば車内の問題児も問題児ではなくすることも可能なのです。これが常態化の齎す不思議なのですねw

2011年12月29日木曜日

セミナー開催について

未だ少し先の話となるが(先ずは病を治す事が最優先なれば^^;)常態行動心理学について一般に広く知って戴く為セミナーを開催したいと思っています。 まだまだ常態行動心理学に付いて社会的認知は0に等しくされどこれほど生活に根ざした心理学はないと自負しています。 何せ常態行動とは人が朝起きて寝るまでに日常的に無意識に行っている行動の事。 『常態行動心理学』とはその常態行動の中に潜む様々な問題を解決する心理学。 つまり『実践心理学』の最も日常生活に近い形であるという事です。 皆様方の普段の生活の明日から役立つ情報を満載で行いたいと思って居ます。 ついては場所の選定に悩んでおり何処で開催するのが適当か? 又会場もどこでするのが適当か?考えあぐねております(何せセミナーを自分で開催するなど初めてなので^^;)。 皆様方のお知恵を是非拝借出来ればと思って居ます。

『正しさの心理学』

例えば人から何らかの嫌疑を掛けられたとする。 大抵の人はその事に狼狽しその嫌疑を消そうと必死になる。 だがそうすればするほどその嫌疑の色は濃くなり色眼鏡も又濃くなる。 ”私は違うんです、潔癖です”と声高に叫べば叫ぶ程より人は疑いの色を濃くする。 それは”私は違う”という言葉の裏に或る”目に見えない不安や焦り”を”真実を隠す為”と人は解釈するからである。 何かの嫌疑を掛けられ自らに正しさがあるならば普段の生活を決して変えない事。 例えばその行動の中に嫌疑を掛けられた物が含まれて居ても決してそれを消そうとしては成らない。 下手にそれだけ消そうとすれば人は”やっぱりあの人の噂は本当だった”となる。 私自身を含め同胞もそう言う”風評被害”に遭っている、それでお心病まれた方も。 そういう方々には上記の様に御指導をさせて貰っている。 そうすれば”人の噂も七十五日”ではないけれど”根も葉もない噂”は立ち消えとなる。 まぁ実際わが身に降りかかったら中々そう冷静では要られないのが現状ですけどねw

病を超えて思う事

昔から『苦労は買ってでもしろ』と言います。 ドラえもんの秘密道具にも『苦労味噌』と言うアイテムが有りのび太のパパがドラえもんの静止を振り切りパクパク味噌を食べた為、煙草一本吸う為に原始時代の火起こし迄取り出す始末に^^;。 まぁそこまでの苦労は流石に私もしたくはありません。 今回図らずも病に罹患し多くの方の御助力の元、自由の効かぬ身が更に自由が効かぬ身となりベッドから出れぬ身となり色々と学ぶ事は沢山有りました。 一番思ったのは『生への異常なまでの執着』でした。 罹患直後直ぐの夜、体の震えが止まらずまさか40度もの熱が自分に有るとは思えず、 本当にこのまま心肺停止となるのでは?などと言う元気な人から見れば鼻で笑われそうな事も実際考えました。 されど何をしても震えが収まらないというのは結構な恐怖です。 通院後は毎日の点滴と注射、明けてもくれても朝昼晩全く同じ食事メニュー。 大好きな珈琲やラーメン等持っての他。それでも腹下しは収まらずトイレが恋人に^^;。 9度以上の熱は結局二日前迄続きその間は汗と寒さと咳の戦いで一睡も出来ず。 何度朝もやと朝陽を拝んだ事か、此処何重年も無かった事です。 当然同胞を見舞う事も出来ずフォンセッションで何とか凌ぐ日々。 罹患中8度以上熱が有る時も同胞からの電話やメールは鳴り止まず。 あの着信音を恐怖に感じたのはこれも後にも先にも始めての事。 今は冷静にこうやって筆を取れますが罹患当初は私の間近に明らかに『死』は有りました。 そんな時私を心から支えて下さったのが我が身内そしてFBの『家族』でした。 この方々の助力無く間違いなく今の私は有りません。 有形無形の沢山の恩恵を本当に多く賜りました。 ”何もしない事”がどれだけの助けになるかも学ばせて戴きました。 まだまだ本調子とは言えませんが私にもやらねばならぬ事が沢山有ります。 勿論無理は厳禁ですがやるべき事を少しずつやっていこうと思って居ます。 これからも何卒宜しくお願い致します<(_ _)>

2011年9月12日月曜日

ヒプノセラピーと『seed療法』について

私は心理学者が本業だがフリーセラピストがセカンドスキルである(以前は逆だったw)。
フリーセラピストとは”心に纏わる全てを執り行う何でも屋”という意味で私は命名した。
つまり催眠も色もボディーも”心”と”癒し”を与える為ならありとあらゆる方式を用いる。
あれは出来るがこれは出来ないでは私はセラピストとしてフ充分だと考える。
我が『seed療法』はヒプノセラピー(催眠療法)の亜流である。
以前催眠療法を施していた同胞が”目を瞑って意識が無い間何をされるかを考えると不安で催眠に掛かり難い”といわれた事がきっかけである。ならば”覚醒した状態”で催眠を掛ければ良いと思い立ったのがきっかけである。
発想はコカ・コーラのCMの逸話である。
映画の何秒間かに一コマの確率でコカ・コーラの絵を挟むと映画を見終わって何故かコカ・コーラが飲みたくなる。
これはその更に前にポップコーン会社の人間が編み出した方法でもある。これは『インプリンティング』つまり、”脳への映像の刷り込み効果”を狙った物である。
我が『SEED療法』もこの”刷り込み効果”を狙ったヒプノセラピーである。

同胞との会話の間にちょこちょこ”或る言葉”を挟みこむ、同胞に気付かれぬ様上手く会話と会話の間に滑り込ませる訳だ。
す ると会話をしている同胞自身は普通に私と会話をしているだけだから無意識だが脳はちゃんと繰り返される言葉を”記憶”し、脳へ”刷り込ませて”いる。或る 時、私が”刷り込ませた言葉”を同胞自身が無意識に口にする時が或る。その時、私はすかさず”ほ~ら、ちゃんと解ってるじゃん、今、自分の口からちゃんと 答え言ったじゃねぇか”と言う。同胞はとても喜び、そこからお心の病がどんどん快方へ向い我が門を笑顔で去っていかれる。同胞はそれが”SEED療法”と いう催眠療法である事を知らずにで有る、知れば知るで納得はするだろうが自らが発案した物ではなく私が刷り込ませた物だと知ればそれはそれで落ち込むだろ う。一々同胞を落ち込ませる必要など無いのだ。私が常、言っている”常態化”も此れと同じ作用が有る。日常生活に於いて習慣的に行っている言動や行動は” 常態化”され脳に無意識的に刷り込まれている。お心を患っておられる方の多くはこの”日常生活の中で常態化されている行動の中”にその問題を内包している ケースが多い。故にその”日常生活の中で常態化されている問題行動”をその上に更に”常態行動”を乗せる事で上書きし除去する。それが”常態行動療法”で ある。こういう療法や理論は1000近い数が有りその数は更に増えている^^;;。こういう事を考えている時間が私の至福の時で先程も有る理論が頭に浮か んだ。
まぁ一種の職業病であり有る種病的な思考の持ち主と言えなくもない(爆)。
されどそれで同胞のお心が少しでも快方に向ってくれれば変態と呼ばれようが変人と呼ばれようが何処吹く風である。私のような変わり者が世の中一人位居ても良いのでは無いだろうか?(とは自己弁護であるがw

心理学的エトセトラその4

その1
『遠隔レイキヒーリング』はセルフヒーリングでもある。
どういう事か?私は遠隔でレイキを飛ばす際、同胞に受け取った時のイメージを伝える。
すると相手はそのイメージを意識するのでその分霊気が届きやすく効き目が高くなる。
解り易い例を出すとTVで好きな芸能人が仮に自分の名を呼び愛の告白をしたとしよう。
相手はTVで録画なら数日前の話。されど言われた方は心臓ドキドキである。
更にTVの向こうでキスをされた場合、実際にされて無いのにされた感覚に陥る筈。
これもセルフイメージで好きな芸能人にキスをされたイメージを脳内に起こすから。
遠隔霊気ヒーリングもこれに似た状態を作り出す事で自浄作用を高めるやり方である。
如何に同胞とお心を通わせるか?シンクロ率が高ければ高い程効果も又高いのである。
その2
『情操教育』が大事なのは『常態化しやすい環境』だからである。
幼い内は社会の、人の何たるかを知らずなので何の疑いも無く知識を吸収出来る。
大人になればなるほど様々なバイアスが掛かり知識吸収が阻害されるからである。
勿論細胞云々の問題も多少有るのだがそれ以外は余り関係が無い。
裏を返せば幼児期で無くても『情操教育』は可能だと言う事である
つまり如何に『常態化』させる事が出来るか否かなのだからである
私はそれで成人の方の『情操教育』に成功している^^v


その3
『飼い主に飼い猫(飼い犬)が似る』乃至はその逆も又真なりと申しますがこれは実は心理学的に説明が行く話。

実は此れにも常態化が大きく関与しています。

人間は毎日見ている物に対して視界情報がそれを脳に伝達し皮膚組成を作り変える特性を持って居ます。日本人が長く海外に滞在した場合あちらの顔に近くなるのがその好例。

五感で受け取る情報を元に体内組成を組み替えその環境に自らを対応させていく。
これも人間のもつ特性の一つなのです。

つまり長い間ワンちゃんや猫ちゃんと一緒に居るとその視界情報を脳が受け取りその形に修正を加えて行くという事なのです。
これは愛情度により拠りお互いが似てきます。

夫婦が長年連れ添うと段々似て来るのと同義です。

心理学的エトセトラその3

その1
『信じて下さい』は信じられないのサイン。
本当に『信じられる話』ならば『信じて下さい』と相手にお願いはせぬ筈。

我が同胞や生徒方々は皆さんこう言われます。
『何故先生は信じて下さいといわないのですか?』と。

私はこう返します。
『何故信じて下さいといわねばならないのですか?その必要は有りません。
何故ならそれが”真実”だから。貴方が私の話を信じてくれようがくれまいが構わない。
私の中でそれが”真実”である事が私自身解っているから私は一切動じません』と。
生徒や同胞は感心しきりとなり、私の話を”真実”だと認めて下さいます。

『信じて下さい』は『信じて欲しい』と言い換えられそれは『信じて貰えないかも』という恐れが心の裏側で作用しているから出てくる言葉。

自分の中で『確固たる自信』と相手に対する『全幅の信頼』が有れば『信じて貰えないかも』と言う不安が湧き起こる筈も無い。

『これは真実です』と連呼する話程眉唾物は無い。

その2
私が数ヶ国語を操るのは何も外国人の同胞が居るからだけではない
日本人の同胞の為でも有る、どういう事か?理由は至極簡単である

幼少の頃、海外で育った帰国子女、長い間か以外留学をしていた学生さん、長期の海外勤務から帰国されたビジネスマン、彼ら・彼女らの中には逗留先の言語で話す方が楽な方も中には居られる。

その中には普段は日本語だが興奮すると中国語やドイツ語や英語が無意識に出る方も。
人間感極まると”地”が出る物で、その”地”が外国語である日本人も案外多いのである。

そういう方とは私はその方が話す言語で話す、すると相手は心が落ち着き日本語に戻る。
後で日本語でどういう風に理解をされたか聞かれるのでこういう解釈だと答える。

拙い語学力では間違う場合も有るが大抵大筋は有って居るといわれる。
外国語が得意なのは何も日本人ばかりでは無いので有る^^;。

その3
【適材適所】とは能力の有る者を能力が発揮出来る場所に配置する事…だけではない。
【適材適所】とはその仕事の”責任”を負う事が出来る者をその部署に配置する事である。
当然”責任”を於く覚悟が有れば奮闘努力し下を導きその部署の能率も挙がる事となる。
能力偏重主義の現代日本はそれを間違えている。その好例が今回の大臣の辞任劇だ。

その4
『数の世界』では正解と不正解は数が合うか合わないかで決まる。
『心の世界』では正解と不正解は相手に得心して貰えるかどうかで決まる。
『心の世界』は数値では測れない、四則計算も出来ない世界である
機械の数値やグラフで計れ無い世界、それが『心の世界』である。
一方からは『正解』と見えるも他方からは『不正解』と見える、それが『心の世界』です。
つまり『正解』は各々の『心の中』にしか存在せず『目には見えない物』なのです。
我々心理職はその『目に見えない正解』を『言葉』というツールを使い『可視的』とする事。
それが心理職の仕事だと私は考えて居ます。

その5
『字が汚い人は相手に意思を伝える気持ちが弱い』は早計の極みである。
『字を書く』と言う行為に於いて大体の人は『綺麗に書く』事に注力されておられる筈。
されど『字を書く』本来の意味は相手に『此方の意図』を伝える事が本来的な目的の筈。
(習字等の文字の美しさを伝える物は除く)。
それは『綺麗な字を書く』事だけではなく『相手に解り易い内容の文字を書く』事も又大事。
余程の汚い字でない限り判別不可能な字と言う物は早々存在する物じゃない。
大体前後の文脈からこういう意味だろうという事は類推は可能である。
されど文字は綺麗なれど文脈が支離滅裂では結局『字を書く』意味が無くなる。
大切な事は『相手に自分の意を伝える事』正確には『伝えたい人に自分の意を伝える事』
それが適えば字の綺麗汚いは然したる問題にはならない。
まぁ結局は字が汚い私の単なる自己弁護なのですけど(爆)
されど自己弁護も論に整合性を持たせるとちゃんと正論となるから不思議です^^;。

2011年9月5日月曜日

尾行する者とされる者^^;。

先日或る御同業者が探偵を雇い私の動向を調査し”粗捜し”をされておられた時の事。
其処から我が元へ流れてくる同胞の数がとても多く相手は”営業妨害”をされていると勘違いをなされたのであろう^^;。(単にずさんな診察が原因なのだが)
その探偵さんと”すれ違い様””お勤めご苦労様です”と笑顔で会釈(爆)。

相手も”プロ”。

尾行している事を気取られる筈もない、相手は顔にこそ出さなかったが明らかにそれ以降の行動がぎこちなくなり、人気がなくなった場所に私が移動後彼が我が元へ(敢えて人気が無い場所を選び彼を誘導したのだが^^;)。

”何故先生は私が尾行しているのがお解りになられたので?私も尾行のプロ、今まで一度も尾行に気付いた方は居られませんでしたのに”と(余程悔しかったのでしょう)。

人 間の行動には”隠そうとすればするほど目立つ物が必ず出てきます。尾行に気付かれまい位とすればするほどすれ違い様の行動は固くなり視線を合わせまいと相 手の顔を無意識に避けるようになる。同じく視線を避ける人に視線恐怖症の方が居ますが此方は下を向かれる方が多い。しかもそれ以外にも多くのシグナルを体 から発信なさる。

されど視線恐怖症でない場合多くのシグナルを発する必要は無くされど”見られたくない”とする思いが行動を普段より固くする。その行動の固さ、目の運び方、足の運び方で相手が自分に対してどういうアクションを取ろうとしているのかを察知するのです”と私。

相手は低頭となりその場を立ち去り相手方には”一切のやましい所なし”という報告を出したそう(爆)。

2011年8月24日水曜日

『全ての道はローマに通ず』じゃなくて『全ての職業は心に通ず』

先日とても面白場面に遭遇したのでそれを書いてみたいと思う。
主 演者は私(心理学者)、S氏(クレジット会社営業)、M氏(外科医)、K氏(某国立大学教授)、W氏(大手企業社長)。それぞれがそれぞれの”得意分野” つまり、”御自身の職業観”という物を話合う場…ではなく普通に喫煙所で偶々偶然初顔合わせの面々が各々の職業についての見解(又の名を愚痴w)を述べて いた。それぞれの職業に就いている方々は”自分の所こそ一番大変なんだ”とそれこそ”愚痴自慢大会”となり、会話はヒートアップし一触即発の事態へと発展 しかねない状況に陥ったので仕方なく私が間に入り”舵取り”をする羽目となった^^;。”つまり皆さんが仰りたい事はこういう事なんですよね?”と各々の 言いたい事の”論点”をまとめ結果”皆それぞれ大変なのだ”という着地点を得た。皆、喧々囂々と眉間に皺を寄せていたが、皆さん”溜飲を下げて”くれた様 で帰り際は皆、握手で散会した。

一人残ったクレジット会社営業のS氏が感心しきりという感じで我が元へ駆け寄りこういった。”流石先生、色々な御職業を経験なさっておいでなのですね、先程の話、私の話等現場に居なければ解らない話ですよ”と。
私は”いいえ、確かに私は色々な職業を経て心理学者をしておりますが今日御参加の皆様の御職業に就いた事は一度も”と。すると相手は吃驚仰天し、”されど先 程の話等私の職業を経験した事が無い人には絶対解らない話ですよ”と小首を傾げる。私はその疑問に一言で回答した”だってどんな職業の人でもそれを行って いるのは人でしょ?つまり”心”を持った人達ですよ。その職業に就いておられる人の”心”を分析すればその職業がどういう職業か解らずともその職業に就い ている人の”心”は読み取る事が出来る。大事なのはその”職業”について知る事ではなくその職業に就いている人の”心”を理解する事なのですよ”と。相手 ははぁ~!っと深い溜息を付き深々とお辞儀をし去っていかれた。恐らく氏と同じ思いを他の方々もされておられた事であろう、されど言われて見れば確かにそ の通りと得心戴ける筈である。”全ての道はローマに通ず”そして”全ての職業は心に通ず”なのである^^V私が多くの企業で”キャリアカウンセラー”とし て出張で御指導をさせて頂いているのは恐らくそういう理由からであろう。私自身は”ノンキャリア”なのだがw

48の殺人技の一つ…じゃなくて1000のセラピー技の一つ『表現療法』について

『表現療法』として一番メジャーな物は恐らく『箱庭療法』だと思う(療法としてではない物ではロールシャッハテストが有名)。

紙箱の中に砂を入れジオラマを配置しその配置や何を置くかで同胞の心を探るやり方である。
だが、これは結構準備に時間が掛かるし費用も掛かる、保管スペースも必要だしフィギュアも何を購入するか結構迷う所である。

無闇矢鱈と選択肢を多くしてもお心を患っておられる方々にとってはそれが又新たなストレスともなりかねない。

私は同じ『表現療法』としてipadを使った方法を提示している。
御存知の通りipadにはペイントツールや文書作成ツール、音楽ソフトや果ては版画まである(笑)
3Dレイトレツールを使えば先の『箱庭療法』がipad上で作成可能ともなる。
ご自分で好きな物を作りそれらを自由自在に配置する事が出来る。

これなら場所も取らずお金も掛からず選択肢で悩む事も無い。
それぞれがそれぞれに見合ったジオラマを作る事が出来る。

表現力の汎用性としては遥かに此方の方が高いといえるだろう。
更に私もその輪の中に加わり『共同作業』として『作品』を作っていく事も或る。
これは『対人恐怖症』でお心を閉ざした方、『引きこもり』の方の治療に最大限の力を発揮する。
共に一つの作品を作り出すと言う事は先のノートの『シンクロニシティ』が高くなくては出来ない所為である。
私は同胞の心に心を重ねる事は簡単であり、同胞は心を重ねる喜びを只、感じてくれればそれでいい。

その心地よさを感じて戴き、人と人との交わりの喜びを私を通して感じて貰い社会復帰を目指して頂くのである。
勿論ここで書いている限りに於いては随分と容易な事の様に思えるが実際は血みどろの戦いである^^;。

お互い傷を負いながらそれでも尚、『社会復帰したい』と願う同胞の”重い”を受け取りその”思い”を形にしていく作業。
それが”表現療法”の一番の売りだと思っている。

又、”声にならない心の声”を”形”にする事で、”心の声を聞える声”にするのも私の大切な仕事の一つである。
出来た作品に対してお互いが品評しあう事で”心の声”を”実際の聞える声”にしていく、これも大切な事である。

そうやって”人と人とのコミュニケーション”を通じて、”シンクロニシティ”を高めていき社会復帰を目指す。
私 のこの療法は”社会更正プログラム”として時に元・犯罪を冒し者のプログラムとして行う場合も有る。その場合いはもっとその緊張度は増す訳だがその”極度 の緊張状態”がより互いの”シンクロニシティ”を高める結果にもなる。何事にも恐れず果敢に立ち向かい同胞の為、命を掛けるそれがセラピストに求められる 最大のスキルだと考えている。

48の殺人技の一つ…じゃなくて1000のセラピー技の一つ『ムービーセラピー』について

『ムービーセラピー』つまり『動画療法』である(主に映画療法である)。

この療法の一番の狙いは”感情の共有”つまり”共感を得る事”が最大の目的である。
後に御紹介申し上げる『鼓動療法(音楽療法)』もその一つだが五感を刺激する意味に於いては此方の方が上である。

所謂『感情機能障害』の同胞にはこの『動画療法』は絶大なる効果を持つ。

昔はわざわざ映画館まで出向いて映画を見ていたが最近はipadの台頭によりitunesで好きな動画をDLし好きな時間好きな場所で映画を見ることが可能となった。

更にTVに繋いでそれこそ映画のスクリーンさながらの大画面で見ることも可能となる。

『プライベートシアター』…昔は余程の金持ちでなければ持てなかった空間が今は一般人でもこういうツールを使って持てる時代となった、大変喜ばしい事である。

先に述べた通り、『動画療法』は目と耳と脳を使うのでその分同胞の心が感じた物を得る情報量はとても多い。

それを映画を見ながらもしくは映画を見終わった後お互いの感想を語り合い同じ時間を”共有”するのである。

この”共有する=同調する”というのが実は心理療法的にはとても重要な意味を持つ。”同調する(シンクロニシティ)”というのは親しい間柄乃至は心を許した者にのみ許された行為である。

更に自らをおかしいとする人にとって”同調する相手が居る”と言う事は”自分はおかしい存在ではない”という証明にもなる。

私は同胞の心に”シンクロニシティ”し、同胞の中の”私はおかしい人”という間違った意識を消していく。

それは周りが勝手に付けた”ラベリング”でありその”ラベリング”は大抵の場合間違えている。
なればその”ラベリング”を剥がし新たな”ラベリングを与える事こそが大事である。そう!”自分は正しい”というラベリングである。

同じ映画を観、同じ時間を共有し、同じ”心”を共有する事で自らの”正しさ”を得ていく、自らの”自信”を得ていく事はお心を病まれた同胞にとってとても重要。

”私は正しい、私はおかしい存在じゃない”という事を自らが認知する事はとても大事である。

更に”映画を見終わった後”その”感情・意見の共有”を”言葉”で説明させる様私は心掛けている。
何故なら人から”おかしい”とされた時、”言葉”で自らの正しさを説明出来る様にしたいからである。

”シンクロニシティ”する事で自信を回復し、”映像の言語化”により自らの”正しさ”の証明を得る。

”動画療法”にはこの二つの大きな利点がある。何も”動画療法”は同胞が好きな映画に限らない、同胞が見た事がない或いは”食わず嫌いの映画”にも遭えて挑戦させる。

それは”食わず嫌い”を教える事と、”思考の幅”を広げる為、何より”シンクロニシティー”を増やし”自信”を得る為である。

この療法により実に多くの”自らをおかしい”とする人を”私は正しい”と出来た事は幸甚の極みである。

48の殺人技の一つ…じゃなくて1000のセラピー技の一つ『ヴォイスセラピー』について

『ヴォイスセラピー』とは私が普段『フォンセッション』と呼んでいる『通話ツール』を使った癒し技。
『通話ツール』と書いたのは通話媒体が電話だけでなく最近はスカイプや他の通話手段をも使う為。

人の”心の動き”は”目”で解ると普段書いているがそれ以外にも解る部分が有る、それが”声”。
”声”の抑揚や早さ、トーンの高低等普段の生活で気付けない部分が”声”を通すととてもよく解る。

又、話す事自体、頭の中で”整理し理解する事”なしに出来ない様に脳科学にはなっている。

”よく解らないんだけど”とか、又聞きで話す場合でもその人の”口”を通した段階で”その人が理解した言葉”に変換をされている事は意外と知られていない。故に”会話をする事自体”が”問題解決行動”となっている事に意外と人は気付けない物なのである。

更に耳から入る”言葉”はそのまま”脳”に行き、その”脳”が”言葉”として理解し分析する事はとても大きな意味を持つ。

又、 言葉と映像を結び付けると人の脳内における伝達物質である”シナプス”の伝達速度が上がり脳の記憶が定着し易くなる。

故に私はなるべく言葉を映像化し易い 様話す事を心掛けている。
大抵同胞から”先生の話は解り易い”と言われているのはそれが故である。

それは”言葉の映像化”即ち、”脳への伝達速度の向上”に努めているか らである。
更に”声帯心理学”(これも我がオリジナル理論)の見地から”人が心地よいとする音”を検出しその声のトーンで話す事も私が心掛けている事の一 つである。

故に我が同胞の私の声の印象は一人一人皆違う筈である。或る人には”落ち着いた声”と捉えられ、或る方には”とても張りのある元気のある声”と 認識されたりと私の印象は実に様々である。”

会話ツール”を使うので相手に顔は見えないのでどんな格好をしていても恥ずかしくないし気軽に話す事が出来 る。

故に悩みを打ち明けやすいし馬鹿話をちょいちょい挟むので相手は大抵大笑いし”馬鹿話をしている間にセラピー終了”という事も少なくな いwされどその”馬鹿話”の中にちゃんと”癒しの種”は植え込んである、電話を切った時、”あれ?何か心が軽くなっている”という事を後から実感して頂ける、それが我がヴォイスセラピーの一番の売りである”seed療法(種療法”である。

seedつまり”問題解決の種”をお心に植え込み、それを発芽させ花 を咲かせる。
それにより同胞は”悩みの種”を”解決の種”へと変える事が出来る。相手に気付けぬ内に”植え込む”ので相手は”自分が思考し問題解決を導き 出した”と思い込みそれが自信へと繋がる。

私の仕事は”お悩み解決人”であり、”誰がお心を治したか”という事はさして重要な事ではない。

私 が治したとする方が効果が高い人も居れば、”独力で治した”とする方がよい方も居る。
その場合いは”seed療法”にて”御自分の力のみで治した”とし自信回復へ繋がってくれればそれが一番である。

”先生の功績なのに…”と同胞は悔しがる人も居るが私の功績等私にとっては瑣末な事。
”同胞のお心が健全であ る事”それが我が望みであり我が願いである。

その”お心が健全になる為のお手伝いが出来た”その事だけで私は充分である。

48の殺人技の一つ…じゃなくて1000のセラピー技の一つ『セルフフォトセラピー』について

我が1000を越えるオリジナルセラピーの内の一つ(何だかキン肉マンの48の殺人技の一つみたいでかっこいいなw)『セルフフォトセラピー』は読んで字の如く『自分撮り』が基本。

他人が撮るのではなく『自分自身で自分を撮る』事に意義が有る。

セルフじゃない方のフォトセラピーは国内外を問わずやっているが兎に角料金が馬鹿高い
私が調べた限りでは大抵1枚5000円でしかもお医者様が撮られる。
人間私もそうだが人にとって貰うとどうしても『自分を作る』ので素の自分が出し難い。
されどセルフの場合大抵自分にカメラを向けるか鏡に写った自分を撮るので遠慮がない。
”作らない自分”即ち”素の自分”を知る事は”認知心理学”に於ける”自己認知”に役立つ。
しかも私の場合1枚100円で5枚一セットそれを土日祝日を続く毎日やって貰っている。

これは”常態化”により”自らを見る事”に慣れて貰う事と”日々変わっていく自分”を見て貰いその進化を楽しんで欲しい為である。

セラピーだと割り切れば普段人には見せられない自分をも見せられる(お馬鹿な自分も)
私しか写メは見ず終ったら個人情報保護法観点から全て処分する。
同胞各々それぞれオリジナルカスタマイズを行う為、同じセラピーとなる事は無い。
それが最大の売りである。

最近それで実に多くの方から”劇的に人生が変わり嬉しい”との報告を数多く受けている事が嬉しくて成らない。セラピスト冥利に尽きるとは正にこの事である。
女性が多い様に見えるが案外男性も多いから世の中面白い^^v
結 構『自分を変えたい人』『本当の自分を知りたい人』とする人は老若男女を問わないと言う事がよく解る。実際性別もバラバラ、年齢も下は10代から上は70 を越える方も居るというのだから面白い。70を越える方は老婆で今まで夫の世話で夫が他界しやっと自分の時間が持てたのでこれからは”第二の人生”を謳歌 したいという理由からであるw我がセラピーを受けられて以後7人の”ボーイフレンド”を持ち50歳の男性と再婚、80半ば迄生き葬儀には多くの”殿方”が 参列されたとか。

人生色々男も色々、女だって色々咲き乱れるわ~である^^;。

2011年8月20日土曜日

トラウマの心理学~トラウマの種類とその傾向についての一考察~

子供の頃、人から言われた何気ない一言が大人となり『トラウマ』となってお心を煩うケースは少なくない。
我が元にも年間100件以上の”トラウマ”によりお心を病まれ来訪される方が居られる。子供が子供から言われた一言、子供が大人から言われた一言、そのたった一言で…。

子供が子供へ言う一言と大人が子供へ言う一言ではその意味合いは大きく異なる。

子供はパーソナルスペースが大人より狭いので”異質”と感じる物への攻撃反応は強い。
それは子供が異質な物に対して”恐怖心”を抱く事が原因である。

周りは皆、自分と背格好も顔形も似ている中で少しだけ顔形や背格好が違う子供が居た時、大抵の子供は”化け物”扱いする。

それはそれが”異質な物”として認識する事による、”心の防御反応”が原因である。
それを”同質”とすると今度はその”同質”とした自分が”異質”なる事を恐れるが故である。

大人が子供に発する何気ない一言はそれが”子供だから大丈夫”という甘えからである。
だが子供成ればこそより”発する言葉”には気を配る必要が有る。
経 験も知識も無い子供にとって”大人”はそれ自体が脅威”である、その”脅威”たる大人から言われる何気ない一言は正に子供にとっては”心臓に突き刺さる 刃”の如き致命傷となる場合が有る。”心”はその致命傷を何とかして抑えようと”心”を一時的に閉じて記憶から遠ざけようとする。

さ れど同じ様な場面に出くわした時、”忌まわしき記憶”は呼び覚まされ、麻痺していた”心の痛み”を再度感じるように成ると”子供の時の心の痛み”がプラス される分より”衝撃”は大きくそれが”トラウマ”と言う形を取る訳である。出はそう言う場合いはどうするか?様々な方法が有る。例えば退行催眠で過去の記 憶を辿りそれを消していく方法。去れどこの場合催眠の効き目が個人差があるので私は余りお奨めしない。一番私がお奨めするのが我がオリジナルセラピーの一 つ『イレーズ療法』である。それは”現在”の自分を深く知り現在の自分を輝かせ、現在の自分を好きに成るやり方。過去も未来も”現在”と言う時間軸を基軸 にせぬ限りその存在をする事は不可能である。つまり”現在”を変えれば、過去も未来も又変える事が可能という訳である。人間の記憶領域には限界が有り有る 一定の量を超えた記憶は完全に消える訳では無いが直ぐには思い出せない場所まで移動させる事が可能である。故に私は『イレーズ療法』により”現在の楽しい 記憶”を作る事により、心太方式で”過去の記憶”を記憶領域から追い出し消し去るやり方を採っている。このやり方の一番の難所は”信頼関係”である、こ の”信頼関係”を如何に築くかがいわばこの療法の鍵となる。逆を言えばこの”信頼関係”を築く事に成功すれば後は”楽しい記憶の上書き”で”忌まわしき過 去”は完全に記憶領域から消える。それで過去1000人以上の”忌まわしき過去”を持つ方々の”負の記憶”を消してきた。人間が生きていく上で残しておか ねば成らない”負の記憶”もある、だがそれが有るが故に”生き難い記憶”がある事も又事実。負の記憶が成長の糧となるなら残して置くべきだが成長の妨げと 成るなら消し去るべきである。
私はこれからも『イレーズ療法』で多くの方々の”不要な記憶”は消し去って生きたいと願っている。

2011年8月8日月曜日

心理学的夏対策

その1

子供及びペットの熱中症対策には地面との接触面を少なくする事が​大切です。
子供もペットも地面からの距離が大人より近い為地熱を​より受けやすいので熱中症に罹患しやすいのです。
それを回避する​為には抱き抱える等地面との接触面をなるべく減らしましょう。

その2


熱い時は辛い物を食べると良いは間違い。
あれは辛い物を食べる事により体温を上げ体内温度と体外温度差を​縮める事で一時的に暑さを感じさせなくする効果を狙った物だが繰​り返す事により常態化され効果は薄れより辛さを求める結果内臓を​著しく痛める危険性を孕んで居ます。
又辛い物を食べた時汗を多量にかくので水分摂取量が増えその分体​温を下げる効果も有るがこれも又水分摂取過多により腎臓に甚大な​る負担を掛け水腎症等に罹患しやすくなります。
辛い物は一時凌ぎにしかなりません。
熱い時はどうしても冷たい物に走りがちですが実は此れはとても危​険な行為です。
例えばアイスの一気食い等は寿命を縮める愚行である事を理解して​下さい。
急激な温度変化はそれ自体の耐久性を弱め脆弱性を高めます。
その結果より内臓の耐久度を落とし抵抗力の弱い病に罹患し易い体​を作ってしまいます。
それを防ぐ為にも急激な温度変化は気をつけて下さい<(_ _)>

その3
熱い時はどうしても冷たい物に走りがちですが実は此れはとても危​険な行為です。
例えばアイスの一気食い等は寿命を縮める愚行である事を理解して​下さい。
急激な温度変化はそれ自体の耐久性を弱め脆弱性を高めます。
その結果より内臓の耐久度を落とし抵抗力の弱い病に罹患し易い体​を作ってしまいます。
それを防ぐ為にも急激な温度変化は気をつけて下さい<(_ _)>

2011年8月6日土曜日

心理学的エトセトラ2

その1

○○のお陰で…といえる人は実は自分のお陰である。
何故ならその○○が助力してくれる価値がその人自身に有るから。
人は無価値な存在に手を差し伸べたりはしない、その人に有価値と​するからこそ助力す。
その有価値であるという自分という存在に気付く事こそが助力者に​対する感謝の気持ちであると私は考える。
”アナタの事が好きだから…”
離れていても通じ合う心という物はある物ですよ^^v

その2
『御縁』という物はそんなに簡単に切ったりくっついたり出来る物​ではない。
私は常、そう考えている。故に私はプロフィールにも『一期一会』​という言葉を挙げている。
砂浜の中から一粒の砂金を見つける如くの確率で出会えた事に私は​価値を見出したい。
逆を言えば其処で見出した『縁』を自ら捨て去る者に私は一切の未​練を残さない。
偶に自ら縁を切りながら詫びも入れず復縁を求める者が居るが私は​一切応じない。
”縁”という物はそんなに簡単な物でも軽い物でもないと私は考え​ている。
それ故私は”縁結び””縁切り”をとても慎重且つ大事に扱うよう​にしている。
全ては亡父より受け継ぎし業物、愚息なれど亡父の魂は我が心の奥​に有る。
その3
本当に賞賛に値する人とはその人自身賞賛に値しないとする人。
誰しも賞賛を受けたいし認められたい。
それは人間の尤も根源的欲求が『認知欲求』である事に起因。
人間の根源的欲求はお金でも地位でも名誉でも美貌でもない。
それは人間が『生物』であり地球上で尤も弱き生物だから。
本能的自己防衛本能から多くの方に『認められ』その認めた人を盾​に身を守る為。
此れは生物学的な話。されどそれが真実。

その4
『反省だけなら猿でもできる。人間と猿の違いは同じ過ちを繰り返​さぬ努力を自主的に出来るかどうか』であると何時も同胞に説いて​います。

猿は人間に叱られて恐怖でそれを覚え人間はそれを自主的に覚えま​す。
されど中々それは簡単な事に非ず。

それは人間が『欲望』と『理性』という二律背反な存在を心に同根​している事に起因。
『学習』は『理性』が司り、『失敗』は『欲望』が司っています。

どちらに重きを置くかで人間の価値が決まります。
私は思い切り前者に重きを置く駄目人間ですけどね(笑)

その5
セラピストに求められるスキル、それは知識でも技術でもなく『忍​耐』と『恐れない事』。

重篤な精神疾患の場合かなり長期間面倒を診なくてはいけなくなる​、同胞もセラピスト自身も疲れ果て途中で投げ出したくなる時も少​なくは無い。されどそんな同胞を叱咤激励し又自分自身をも鼓舞し​『忍耐』を以て遂行する事、それが大事だと考える。

又、セラピストは同胞や周囲の人達に対して常、『攻め』の気持ち​出なければならない。
金銭の授受に関わらず此方が『受身』となり関係性を壊すまいと弱​腰になっては重篤な病を克服する事は不可能。時には厳しい態度で​接し同胞との関係性が崩壊するかもしれないという恐れを抱きなが​らもそこから”逃げ”てはいけないと考える。

その”本気”が相手に伝わった時、相手も又、”本気”を見せてく​れると私は考えている。

2011年8月5日金曜日

初の電子書籍小説集『もし心理学者が小説を書いたらどうなるのか?』完遂!

心理学者瀬木良介渾身の電子書籍三作目!
今回は初の小説集です。
『もし心理学者が小説を書いたらどうなるのか?』
そんな実験的作品でも有ります(人、それを無謀と呼ぶw)。
作家とは違う心理学者ならではの切り口で語られる全11篇の物語
​。
アナタの目にはどのように映りますでしょうか?
本書の初版売上は東日本大震災で被災された被災者家族へそのまま
​手渡しされます
http://assf.cart.fc2.com/ca1/4/p-r-s5/

2011年8月2日火曜日

心理学者瀬木良介電子書籍第二弾、今回は初のエッセイ集発売『心の宝石箱①』

心理学者瀬木良介の電子書籍第二弾。
今回は初のエッセイ集。

心理学者がエッセイを書くとどうなるのか?
そんな実験的試み的作品です。

心理学者ならではの視点で綴られる全28篇の宝石達。
アナタの目にはどの様に映りますでしょうか?

前作より大幅ボリュームアップされどお値段そのまま。
今回はPDFファイルにて皆様のお手元にお届けします。
iphone等多くの媒体に対応可是非御笑覧下さいませ

尚、前作『或る心理学者の心理学ファイル001~ディザスターズ​サイコロジー(災害症候群)篇~』同様初版売上は全額被災者家族​へ直接手渡しとさせて戴きます。

皆様方の御支援を何卒宜しくお願い致します。

http://assf.cart.fc2.com/ca1/3​/p-r-s/

心理学的エトセトラ


朝、目覚めが悪い人、シャンとしない人の多くは朝食をちゃんと採​っていない人です。
ちゃんと採っているとする人もドリンクや栄養補助食品を通勤途中​にと言う人が大半。
朝、椅子に座って朝食を採る事は脳を”起こす”為に必要な行為。
人間が猿から分派し今の文明を築けた一番の理由は”噛む事”を早​く覚えたから。
噛む行為は脳に刺激を与え刺激を受けた脳が体の各部位に”起きろ​”と指令を出す。
その事で体の各部位が目覚め、”睡眠モード”から”仕事モード”​へ切替えさせてくれる。
”噛む”事は脳に刺激を与えそれが脳の活性化に繋がり一日を円滑​にさせてくれる。
朝、ちゃんと”噛んで”ますか?^^v


『覚悟』無くして『変化』なし。『変化』なくして『進化』なし。
何かを変えようとするならばそれなりの覚悟が必要。
その覚悟を持つ事で進化が可能となる。
『覚悟』を恐れる者は『進化』を得れず。


強い拒絶は容認と同様の効果が有る。
好ましからざる人間関係ばかり構築されている人の殆どがこれ。
強い拒絶は心の奥底に常、それを置く習性が有りそれは潜在意識に​その状態を置く事を容認したのと同様の効果を齎す。
脳は融通が利かないのでそれを容認としそういう人間関係構築に走​る。
これでは本末転倒である、ではどうすればそういう無限ループから​脱却できるだろう?
本当にそれらを拒絶したいなら先ずその拒絶する心を開放する事か​ら始めよう。
それらを拒絶する事を一旦止めそれらを受け入れる方向で考える。
勿論実際に状況を許容するのではなく”心”で受け入れるだけでい​い。
すると”固執する心”がなくなり”拒絶”を”拒絶”として心が受​け取る土壌作りになる。
そうなれば”拒絶”された事を心が認識しそういう状況を無意識に​遠ざけてくれる。


『私に非は無い』とする人の殆どはその人に非がある。
何故なら『自分に非があるかも知れない』と気付いていないから。
本当に非の無い人は自らに非があるかも知れないと自らを振り返ら​れる人。
そういう人は自らに対するチェックリストが出来ているので非があ​っても少なくて済む。
本当に自らに非が無いのであるならば非が無いと言わしめる状態は​起こらない筈。
そういう状況を生んでいる時点でその人に何らかの落ち度が有るこ​とは明白である。
されど多くの人は其処に目は行かず相手の行動のみに注視し自己弁​護を図る。
それ故同じ様な状況に於かれてしまう事になるのである。


我が元へ以前不良グループに入っていたご子息の事で御両親が相談​に来られた。
一時期夫婦仲が悪い時に不良グループに誘われて入ったのだとか。
今は夫婦仲も戻り御子息もグループから抜けたらしいが確証は持て​ない。
自分達の愚行により子供を不幸にしては申し訳が無いと門を叩かれ​た。
私は今の御子息の人間関係に着目する様進言申し上げた。
我が提唱せし『場の心理学』によれば本人が変われば本人を中心と​した場が変わる。
場にそぐわない人間は去り適合する人間のみ残る。
もし御子息が不良グループと繋がっているならば同じ属性を持つ場​が出来ると。
幸いそれ以降御子息の人間関係は良好を保ち無事社会人となり御両​親も安堵した。


『男女の友情は成立するか否か?』恐らく人間が抱える永遠のテー​マの一つだと思う。
多くの方が『男女の友情は成立しない』と言われるが私は寧ろ逆だ​と考える。
何故なら『男と女だからこそ友達で居ようと意識し努力をするから​』である。
これが同性ならばそんな気遣い等無用。
されど相手が異性なら全く恋に落ちる危険性が無いとはいえないか​らである。
それ故同性よりも更に意識をして”友であろう”とする分”友情”​は存在すると考える。
良く”俺は男として見られていない”とか”私は女として見られて​いない”と言うが嘘です。
異性にとって異性はやはり異性、どんなにずっと長く居てもやはり​異性は異性です。
異性であるが故にその関係を崩すまいと意識し異性である事を頭か​ら退けようとする。
それ自体が既に”異性”である事を意識している証拠なのですよ。


地声が大きな人を除いて大声で相手を叱る人は自己顕示欲の強い人​である。
自らの社会的優位性を外に示したいと言う欲求が無意識的に働いて​いるから。
意識が外に向いている為叱り方に整合性がなく支離滅裂な感情論者​である。
本当に相手に理解を得る叱り方とはまず最初に相手を認めてあげる​事。
その上でその人が冒しミスの改善点を示して挙げる事。
最後に励ましの一つも掛けてあげればその人がミスを侵す事は二度​とないでしょう。


『大丈夫です』と言う人の殆どは『大丈夫』ではない。
本当に『大丈夫』な人は『大丈夫じゃない』事を知っている人。
されど『大丈夫じゃない』事を知らない人はそれを知らないから『​大丈夫』と言えるから。
本当に『大丈夫』な人は『大丈夫』とは言わない人です^^v。


『幸せです』と外へ向けて発信している人は実は幸せな人ではない​。
何故なら本当に『幸せ』な人はその時点で満たされていてそれを外​へ向けて発信する必要がないからである。自慢したいからとか人に見せ付けてやりたいからという向きもある​だろうが”外”に目が向いている人が本当に”幸せ”だと言えるだ​ろうか?
見せ付ける、自慢するという時点に於いてそれは”幸せ”という物​の充分条件を満たしては居ない。
本当の”幸せ”は自らの心の中にある物である。


自らを『おかしい』とする人の殆どは『正常』であり自らを『正常​』と言い張る人の多くは『異常』である。
自らを『おかしい』と言える人は言える”目”を持っておりそれを​『異常』とすると全ての人が『異常』となる。
されど自らを『正常』と訴える人は訴えねばならぬ理由がある為訴​えているからです。
本当に『正常』ならばそれを訴える必要などないのだから。


頭ごなしに『あなたはおかしい』と言う人が居るが実はおかしいの​は発言者自身。
何故なら本当に相手が『おかしい』とするならば先ずその相違点を​先に話す筈。
更にそれらの改善点も示せて当然、だが大抵の場合頭ごなしに全否​定が殆ど。
それは最初に全否定する事で相手の機先を制し自らの論を押し通す​為。
そのような脆弱な論で”おかしい”とされても納得できる筈もない​。
我が元にはそんな”おかしい”人から”おかしい”と言われた”正​常”な人が多く門を叩く。
勿論その殆どは”正常”な人なので”正常である理由”を理路整然​と話しそれを”おかしい”とする人にも伝えるよう支持を出す。
大​抵”おかしい”と揶揄した方はそれ以降二度と”おかしい”とは言​われなくなるようだw

その⑫
依存症で尤も怖いのはお酒でも薬物でも買い物でも無く実は”人依存”である。
それが”モノ”である以上その”モノ”がなくなれば必然的に”依存対 象”が無い為、依存度は徐々に現象していく。
私自身”モノ”依存の場合は、”私自身”に依存させる事で、”依存対象であるモノ”から離す方向で依存症を治 療している。
だがこれが”人”となると一寸厄介、しかもこれは生死には全く関係ない。
生存されておられようが死別されておられようが対象が”人”である限 りそれへの”依存”は消え去る事は無い。
この場合は”依存対象から離す”方向ではなく”依存者自身の自信を付ける”事で自ら依存対象から離れるよう指示を している。
まぁ言うは易し行うは難しではあるのですが^^;。

2011年7月26日火曜日

騒音の心理学~或いは静寂の心理学~

嫌、 どっちやねんという突っ込みが入りそうですが上記の二つ一見全く逆のベクトルを向いているように見えますが実は同じ属性を持っています。

今の時期、夏休み となり多くのガ…もとい、お子様の元気な声で結構外は喧しく、又、田舎に行くと金魚屋や青竹売り等の宣伝カーが喧しくスピーカーで回っており休日の昼間の 安眠妨害をされ不機嫌となりし方も少なくないのでは?と思います。

ではそれと静寂が何故同じなのでしょう?
騒音と比べ静寂は読んで字の如く”静か”なので すから何の問題も無い筈。

所が実はこれが大きな落とし穴なのです。

人間が騒音を嫌う一番の理由を御存知でしょうか?それは”音が喧しいから”ではないのです、これを多くの方が誤解をされている。

人間が騒音を嫌う一番の理由は騒音により五感の内の聴覚を侵される為得られる情報が普段より減る事、それが一番の原因。

そして件の”静寂”も又、同じベクトルを向いているのです。

単なる”静かな状態”ではなく全くの”無音”状態というのは先の”騒音”と同じ”聴覚による情報収集”を行えない状態に有ります。
これは或る一定の期間までは大丈夫なのですがそれを超えると今度は”静けさ”が恐怖へと変わり”音”を求めるようになります。

特に暗闇等”五感情報”が少ない中では”音”が重要な情報源の一つとなる為、それを奪われる事は不安感を煽る事になります。

実際ある実験で完全に五感を奪い去る実験をやった所多くの被験者が1時間以上持たなかったという実験結果も出ています。

人間が受ける拷問の中で最もダメージがでかいのは実は痛苦ではなく”五感情報を奪う事”という事は意外と知られていない事実。

”身を守る術”が他の生物と比べ明らかに少ない人間にとって”危機回避”は”五感”に頼る所がとても大きいのです。

故にそれを”奪われる事”は”危機感の増大”となりそれは”お心を乱す一番の要因”となり得ます。

痛苦は五感が感じられる分だけまだ耐える事ができます、”常態化”となり”脳内麻薬”が分泌されれば痛苦すら感じなくなる。

されど”五感全てを奪い去る事”に対しては脳はその全てを脳内麻薬で補う事はできません。
故にその”不安感””恐怖心”たるや尋常ならざる物となり結果お心を”壊す”事となるのです。

良く電車の中でお子さんに親御さんが”静かにしなさい”と叱責をしている場面に出くわします。
特に新幹線指定席車内では他のお客様の御迷惑となる為、お子さんの必要以上の”騒ぎ”に対して親御さんが叱責をされます。

それ自体は間違った行為ではありません、お子さんを”躾ける”事は親御さんとして社会生活を教える正しい行いであります。

されど何故お子さんが車内で騒がれるのか?その理由を深く考えられる方は意外と少ない。

長時間の移動で同じ姿勢でしかも黙っている事はお子さんにとっては”苦痛”以外の何物でも有りません。
先に述べたとおり大人と比べまだ社会経験値が低いお子さんにとって”静寂”は”恐怖”以外の何物でもないのです。

それを紛らわす為態と騒いで”恐怖”から自らを逃避させようとしている行為であるという理解を是非理解してあげて欲しいのです。

子供が騒ぐのは当たり前、それが言わば”仕事”のような物。
私は余程の大声を出さぬ限りそういう行為には目を瞑ります。
するとその大人の”行為”を見てお子 さんもそれを学習しおとなしくなる場合も有ります(実際私の横でおとなしくしていた子も居た)。

頭ごなしに叱って黙らせる事は簡単です、されどそれが”ト ラウマ”となり大人となり”静寂恐怖症”となるケースも近年少なくは無い。

子供の未来を考えた時そういう事もどうか親御さんには御理解を賜りたいと切に願 います

2011年7月21日木曜日

ご縁の心理学~或いは結ぶ事と切る事の重さの心理学~

日本人程”縁”と言う物を重んじる種族も恐らく世界に類を見ないのではないかと思う。

神社へ行きお賽銭を上げる際、15円(十分ご縁が有ります様に)、45円(始終ご縁が有ります様に)を入れた人は少なくない筈。

又、縁結びや縁切りの神を奉る神社も日本各地に有り未だ盛況を極めているとは知人の或る縁結びの神様を祭る神主さんの弁。

『縁の下の力持ち』とか『縁側』とか『縁談』とか『縁』が付く言葉がとても多く日常会話の中に含まれている事からもそれが伺える。

私自身亡父が何より大切にしていた座右の銘『一期一会』を踏襲し私も又、座右の銘とし肝に銘じている。

私は一度縁を結びし人を裏切る事は決してしない、と同時に自ら縁を切ってきた者と再び縁を結ぶ事は無い。

過日我が同胞が”一時の迷い”で友録を解除、勿論その事は存じていたが一切それを口にする事はなかった。

再度申請を頂戴したがそれもシカト、同胞は”私が友録を解除したのも申請を出したのも先生は知らない”と私を罵った。

私はこう返した”私がそれを知らないとでも?冗談じゃない、毎日友録の数はチェック済、誰が抜けたかも直ぐ解るさ。されど私は自ら縁を切った者に声を掛けるような事はしない、同じく一度縁を切りし者を改めて”家族”とするつもりはない”と言い放ち関係を絶った。

私にとって”縁を結ぶ”とはとても重要な意味を持つ、それは亡父の昔経験せし苦い思い出が有る為だ。

亡父の親友が亡父を裏切り共同で仕事をした際の儲けを全て持ち逃げした。

当時会社はバブル崩壊の波をまともに食らいどこも下請け会社は生き残りを掛けて必死であった。
亡父の親友もその一人で社員を食わしていく為やむをえない措置であったであろう事は理解する。

だが親友である父を裏切り金を持ち逃げした挙句裁判を起こしても出廷せずは余りと言えば余りであった。

その後彼は病に倒れ父よりも早くこの世を去った、善因善果悪因悪果とは良く言った物だと当時の父は彼を見てそう言っていた。

今でこそ冷静にこうして記せるようになったが当時は傾きかけていた会社を何とか元に戻そうとした矢先の出来事故一家離散の危機に瀕していた。

一時は生活保護 を受けねばならなくなるかもという所まで追い込まれ生活は極貧となり食うや食わずの日々が続いた。

父の余りの人の良さに母は半ば呆れ父自身自分の甘さにほ とほと嫌気が差していたと思う。

されど私はそんな真直ぐな父を尊敬しそんな父の為懸命に家計をやりくりし支えた母を誇りに思う。

子供達三人も誰一人悪の道に走る事無く会社を支えんと一丸となりそれがより会社の結束力を高め難局を乗り切る事ができた。

残された従業員方々も給料を払えない月も有ったが今まで社長に受けたご恩を返したいと不平不満を言わず働いて下さった。

その時私は改めて父の子である事を誇りに思い何としても父の顔に泥を塗るような真似だけはすまいと心に決めた。

あれから既に20年以上が経過、既に父はこの世に無く父が残した会社も兄が代替わりとなり規模は随分と小さくなりしも、

未だ父の頃の御贔屓さんが仕事を持ってきてくれこの不況風が吹き荒れる中業績不振とならずに済んでいる。

それもこれも全ては父が”人と人との縁”を何よりも大切にし大事に思ってきたからであると思う。

地元では父の名を知らぬ者は無く又建築業界に於いても父の名を未だ覚えて下さっている方は少なくない。

皆、一様に”社長は素晴らしい人でした”と言って下さり何処へ行っても父の苦言を聞いた事は一度も無い。

社長職に有りながら誰に対しても頭を低くし礼を尽くし人に対する情けを誰よりも尊んだ人であった。
私のような未熟者が父の真似等出来る筈も無いが父の子としてこれからも人様に背を向けるような事だけはしたくないと思う。

何時か父の墓前に立った時、”成長したな”と言って貰える様これからも精進を重ねていく所存である。

2011年7月11日月曜日

意志を貫くという事~或いは唯一無二の心理学~

昨日FaceBook内に於いて友録さんのお一人を友録から外させて戴いた。
私に対する苦言ならば幾らでも我慢もしますし耐えもします。

事実FBで私を快く思わない人間が悪評を立てそれによりサークルを除名され
FB内に於けるトラブルメーカーとして名を連ねられていても私は構わない。

勿論それは我が不徳の致す所であり改むるべき所は改め、貫くべき所は何があっても貫き通します。
人から色々言われてその都度自分を変えていたら自分が無くなりますし”自分を持て”と普段指導している人がコロコロ自分を変えていたら説得力は有りません。

そこまで器用では有りませんしそれ自体私が望む所では有りません。

私は40年以上この”色”でやってきましたしこれからもこの”色”を変えるつもりは毛頭有りません。

100人の見知らぬ人がそれを”非”としてもたった1人の信用に足る人が”是”とするならば私はそれを貫きます。
逆に1000人の見知らぬ人が”是”としてもたった一人の大切な人が”非”とするならばわたしはそれを改めます。

昨日私が切った人は私の身内を侮辱せし方でした、私が毎回挙げし夕飯メニューの数が少ないと苦言を呈された。

その上で女房を叱れと申された、私はその言葉にキレそして友録から外させて戴いた。

メニューの数はその家々により可変的であり又、適当とする量も同じく家々によって違う筈。

自らの家のそれと較べて少なかったとしても逸れは家々の流儀であり逸れに口を出すは賢人のする事に非ず。

ましてその事に対して身内を叱責せよとは私にとっては言語道断であり許されざる事であります。
私と言う人物に会った事も無く我が家族の事を何も知らぬ者に讒言を賜るつもりは毛頭有りません。

その方を切った後、一気に10名近い方が私を友録から外されました、恐らくその方の息の掛かった方々かと…。
されど私は自らの行いを是とし非とするつもりは毛頭有りません。

閑話休題

同じ場面で私は同胞にも意思を貫く事を進言しそれを実行させています、それはその人の病を治す為に必要な事。
御心を患った方々はどうしても弱気となり正しい事に対しても人から否定されると逸れに流される傾向に有ります。

その結果どんどん疑心暗鬼が増えそれが病を更に悪化させる結果となります。

それを防ぐには自らの正しさを自らがちゃんと理解した上で何が有ってもそれを貫く強さを御与えする事が大切。

その為の後ろ盾が私であり何が有っても決して後ろに下がるな後ろには私が居る、必ず私が支えているからと励まし同胞を一歩前へ前進させます。

何故前進させるのか?前進させれば例え後ろに下がっても元の位置に戻るだけです。

されど元の位置で踏み止まらせたらその段階で下がったら又、マイナス方向へ思考がシフトします。

元々マイナスの土壌を持ち我が門を潜られたのですから何が何でもプラスの土壌にそれを変えねばなりません。

故に一歩乃至は数歩前へ同胞を出しそしてその後ろに私がデン!と大きく構えている訳です。

剣を振るうは本人のみ、されどその後方で私が援護射撃を行い、そして敵を撃退し己が正しさを証明するのです。

その事で同胞は”自信”と”自尊心”を取り戻し、”自分自身”を取り戻し社会へ復帰していくのです。

”私は私、世界でたった一人のかけがえの無い存在”という事をこれからも私は同胞へ説いていきたいと願います。

2011年7月6日水曜日

電子書籍『或る進学者の心理学ファイル0001~災害症候群(ディザスターズシンドローム)篇』刊行

弊社『ASSF』のショッピングカートにて瀬木良介初の電子書籍『或る進学者の心理学ファイル0001~災害症候群(ディザスターズシンドローム)篇』刊行の運びとなりました。

此処で一言お詫びを申し上げます<(_ _)>

当初はPDF化しより多くの方に見て頂こうと昨夜からずっと作業をして参りましたがどうしても限界アップロードファイルサイズ範囲内に見たず断腸の思いなれどワードファイルのままアップロードさせて戴く事となりました事深くお詫びを申し上げます。

次回刊行物に関しては何とかPDF化出来るよう頑張ります。

http://assf.cart.fc2.com/ca1/2/p-r-s/
ASSF
assf.cart.fc2.com

2011年6月22日水曜日

新山口風雲録~或いはタイプ別武将風雲録~

我が地元の駅(新山口)を利用し始めてかれこれ30年以上となるだろうか。
新山口駅がまだ現サポート体制を敷いておらず外注を頼んでいた頃から利用させて貰っている。
最初は駅員さんもサポート体制が理解出来ておらず失敗を繰返す事も多かった。
されどサポート体制も段々と期を追う毎にその精度を増し今期のサポートメンバーはその集大成。
今は又新たな期が入ってきて見習いとして今期のサポートメンバーに就いて勉強をしている。
皆、今の現役駅員の殆どはこのサポートシステムを経て契約社員から正社員への道を歩んでいく。
契約社員を経て当駅を去っていった多くの諸先輩方々が踏襲してきた物を善き物は伝承し悪き物は排除しながら独自の道を歩んでもらいたいと願っている。

されど今期のサポートメンバーほど独自の”色”を持っているメンバーもそう多くは無いだろう。
そこで今日はイニシャルで(笑)各々を武将に例え(一部武将じゃない者も居るがw)分析したいと思うw

タイプA:信長型:これはもう言わずと知れたI君であろう(笑)竹を割ったような性格で嫌な物は嫌、好きな物は好きととてもはっきりとした性格である。笑いを取る事を生甲斐とし(笑)如何に多く笑いを取るかに命を掛けているような感じを受ける人であるが仕事ぶりは極めて真面目でそつがない。一度失敗をしたがそれを決して繰返さない慎重な面と二度と失敗を繰返す物かというプライドの高さを併せ持つ。とても涙脆く情に厚く人に優しく自分に厳しい。一見軽薄そうに見せているのはそんな自らの重さを人に背負わせたくは無いが故である。その辺りも極めて彼らしい一面である。

タイプB:秀吉型:これは恐らくO君ではないかと思う。人に媚びずさりとて喧嘩も売らず。野心もあれどそれを決して表には出さず自分自身をしっかりと持ち自らのポリシーは決して譲らない頑固さを持ちながら上手く人と波長を合わせられる面は彼の専売特許。又、滅法女性に免疫が無く女性から褒められると緊張のあまり声が裏返るほどの純真さを持つ。ガタイが良く普段着が割と強面系が多い為誤解を受けやすいがとても正義感が強く人に優しく彼も又自分に厳しいタイプの人である。ファッションにも拘りが有り自らの芯を揺るがす事は無い。そんな彼を慕う者も少なくは無いだろう。

タイプC:家康型:これは間違いなくM君で決まりである。4名の中で最年長、先輩の契約社員や正社員よりも年上で経験も豊富。されど人当たりは良く物腰は柔らか。人の話をしっかりと聞き、頭の中で瞬時に取捨選択が出来自らの血肉とすべき情報と捨て情報を見抜く目を持つ。又、野心家でも有り虎視眈々と上を狙う姿は正に天下統一を成し遂げた家康その物。潔さや自らの立ち位置を見る目は4人の中で随一である。伊達に年を重ねていない事は彼の目を見れば一目瞭然。残り三名も彼を手本とし彼を師と仰いでいる面も有りその重さをちゃんと理解しつつ下を引っ張る牽引力を持つ
様々な過去の経験を我が血肉とし今も尚今の経験を末来に活かそうとする謙虚さを持つ。

タイプD:足軽型:これはF君で決まり(笑)4人の中で一番若年で社会経験も無くお身内が同業者である事も手伝い昼行灯的であり駅のある種マスコット的存在である。上にも下にも可愛がられ(笑)又、それを彼自身受け入れている面もある。お身内が同じ職場内に居られる為お身内に恥をかかすまいとする面と反面その思いが強すぎるが故空回りしてしまう若さも併せ持つ。されど彼は大器晩成型。他の三人には無い潜在能力を秘めていると私は思っている。彼の潜在能力は∞。今はまだ見習いの身だがこれからどのように成長を遂げていくのか?この目で是非確かめてみたいと思う。

こうして見てみると実に個性が強い面々が揃ったなと思い彼らの今後がとても楽しみである。
心理学的分析もこれから出来そうだし彼らの行く末を一利用者として見守って生きたいと思っている

2011年6月20日月曜日

暴飲暴食の裏に隠れた悪魔~或いは常態性行動が起こす新たな恐怖についての心理学~

生態学的に暴飲暴食が行けないという事は古くからいわれて居る事である。
内臓を必要以上に酷使する事は生体機能を著しく低下させ生命維持が困難と成ります。

まぁ何でも”やりすぎ”は体に毒である事は自明の理、されど実はこの”暴飲暴食”は内臓に負担を掛けるだけに非ず。

意外と知られていない事ですが”精神”にも多大なる影響を及ぼしているのです。
”暴飲暴食”を繰返しているとそれが”常態”となってしまい、それを行っている本人的にはそれが”暴飲暴食”ではなくなり”普通食(常態食)”となってしまう。

これは実は恐ろしい”心の病”を引き起こす原因となります。
”感情機能障害”つまり、喜怒哀楽の”心の機能”が上手く働かなくなる心の病を引き起こし易くなるのです。

何故、”暴飲暴食”をすると”感情機能障害”を引き起こしやすくなるのでしょう?
それは”五感情報”にその原因があるのです。

暴飲暴食をする人にとって”食べる事飲む事”が常態化される。
つまり、”五感で感じる物が常態化”される事で刺激を受ける度合が減ります。

多く摂取しなければ感じなくなるという事は裏を返せば多く摂取しなければ五感が感知しないという事となります。

例えばこれは”危機回避能力”にも影響を及ぼし普段”危険察知”が働く物が働かなくなります。

それは”五感情報”が”暴飲暴食”により”全てが大枠”で捉えられる様になってしまった為、”危険察知能力”に対しても反応が緩慢となる為です。

又、これらは”感情面”でも適応され”喜怒哀楽”が人よりも鈍感となり緩慢となります。

最初は”KYな人”どまりですがそれが段々と講じると”あの人は無感情な人”となり最悪”快楽殺人者”への道を歩む事も否定は出来なります。

つまり”五感が 鈍重と成る”事により”より強い快楽”を求める結果”快楽至上主義者”となり、”快楽を求める為に様々な行動を起こす”事が原因で先に述べた”快楽殺人 者”への道を歩む事にも成りかねません。

事実、私が謁見した事が有る快楽殺人者の中にはこの傾向を感じた者も居ました。

暴飲暴食というのは”体”だけを壊す物に非ず、”心”までもを壊す愚行である事をどうか肝に銘じておいて下さい。

何事も”程々”が一番ですよ^^V。

五感療法についての一考察

絵画療法や音楽療法、動画療法等を一般的には『五感療法』と呼びます。
即ち『五感』をフル活用しそれらを精神疾病治療に活かすからです

音楽療法を含む『五感療法』の一番の長所は”脳に直接的に刺激を
与えられる事”に有ります。

これは行動療法である嫌悪療法の亜流です。

意外と音楽療法で気付かれていないのが『ビート』即ち『鼓動』で
す。
何故か?人間が生まれて最初に耳にする音は母親の心臓音です。
即ち『鼓動』それ故一番脳に強印象を与えやすいのです(事前記憶
がある為)。

其処を意識すると例えばヘビーメタル系の音楽でも充分音楽療法に対応可能という事になりますしオペラや声楽家の音楽も適用可能という事に成ります。

即ち、”ジャンルを問わない”という事になります。
一つだけ気をつけたいのは普段聴きなれている音楽はなるべく避け
るという事。
それらは”聞きなれている”ので”鼓動”の感じ方が弱くなるから
です。

なるべく今まで聞いた事がないジャンルで且つ”鼓動”を感じられ
る物がベストです。
つまり”鼓動”を感じられれば良いのですから。

2011年6月17日金曜日

フェミニズムの心理学~或いは本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?の心理学~

大学時代、フェミニズムを学び以下に歴史的に女性が社会的に虐げられてきたかをしっかりと学ばせて戴いた。

記述されている内容はそのどれもが目を覆いたくなるような内容ばかりで男性である私自身怒りを禁じえなかった。

ウーマンリブは1960年アメリカで起こった女性解放運動で日本では旧社会党の元・土井たかこ委員長が有名である。

フェミニズム論者としては上野千鶴子女史を初め名立たる論客が日本では名を連ねておられるがそれらと又ウーマンリブは別物であると私は考えている。

近年、女性の社会進出は目覚しく女性の管理職や社長等はもう珍しい話ではなくなりどんどん男性は隅に追いやられていく一方である(笑)
私なんぞはその典型であり何処へ言っても”今の先生があるのは奥様のお陰ですからね”と念を押される始末(爆)。

まぁ私自身それは容認というか痛感しているので反論の余地は全 くないのだが^^;。

だが一心理学者として(というか私自身がへそ曲りゆえなのだが)は今の風潮を別の角度から分析してみたいと思う。

本当にウーマンリブ以降女性は逞しくなったのか?それを心理学的に分析してみたいと思う。

例えばウーマンリブ以前のジャパニーズカルチャーに目を向けてみよう。

そこでは甲斐甲斐しく男性に尽くす女性の姿が映し出され、常、男が前、女性が後ろという図式が成り立っていた。

ドラマの題名を見ても『俺は男だ!』『俺たちの旅』『俺たちは天使だ』等男を前面に出したドラマが圧倒的であった。

芸能界でも三波春雄、村田秀雄を初め橋・西郷・舟木の『御三家』や郷・西城・野口の『新・御三家』大活躍の時代。

翻り現代はガールズグループ花盛りの時代。

おにゃんこクラブに端を発したガールズグループはその後モーニング娘。やAKB48、女子十二楽房や、KARA、少女時代等ガールズグループが日本の芸能界を牽引しているといっても過言ではないであろう。

ドラマの題名を見ても『科捜研の女』『京都地検の女』『七人の女弁護士』等、女を前面に出したドラマが隆盛を極めている。

これを見る限り”ほら、やっぱりウーマンリブ以降女性が台頭してきているじゃない”と言う風に一見すると見える。

んが、心理学的考察だと残念ながらこれらは全て”逆”となる(笑)

映画やドラマの醍醐味とは何だろう?それは『仮想現実』を味わえる点に有る。
つまり”現実にはありえない出来事を疑似体験出来る”という事が映画やTVの一番のウリで有る訳だ。

空を自由に飛び、弾丸も跳ね返し、新幹線よりも早く飛ぶヒーロー、筋骨隆々で敵をなぎ倒す主人公等がその典型。現実ではとても実現不可能だけどTVや映画の世界で疑似体験する事によりそれらの欲求を満たし鬱憤を晴らす。

きっと悪役に自らの気に食わない会社の上司や苛めっ子をイメージし主人公と自分を重ねた人も少なくない筈。

韓流スターの出る恋愛ドラマでヒロインと自分を重ねた婦女子も結構居られるのではないでしょうか?(笑)

このように映画やドラマ、音楽等”人間が表現物全て”には人間の”夢や希望”が色濃く投影されているという事です。

では話を冒頭のそれに戻しましょう、ウーマンリブ以前のドラマや曲では”女性が只管耐え忍ぶ物”が多く、今のドラマや曲では”女性が華々しく活躍する物”が多いのは何故か?勿論それらに共感を得た為というのもあるでしょうが、それよりも多いのは”仮想現実の実現”の部分。

つまり”耐え忍ぶ女性”の姿、”甲斐甲斐しく男に尽くす女性の姿”を見るのは女性だけでなく男性もいるという事。
そしてそれらが支持を得ていたという事は社会的欲求が其処にあったという紛れもない事実でありました。

翻り現代は”女性が自由奔放に八面六臂の活躍をしているドラマや歌が隆盛を極めている”という事実。
これも裏を返せば”そういう女性に対する女性の強い憧れ”がそういう物のヒットを生んでいるという事です。

実際ウーマンリブ以前の女性にインタビューをした事が有ります。
勿論限られた行動範囲での取材故、若干の偏りは有るかも知れません。

されど、インタビューに答えてくれた女性は”周りが騒ぐほど私は虐げられては居なかった。昔は物がない時代でそれこそ男女差無くお互いが助け合わなければ生きられなかった、旦那はとても優しかった”と言う人が多数でした。

これは一体何を意味しているのでしょう?
歴史自体に異議申し立てをするつもりは毛頭御座いません、
それらは歴史学者に喧嘩を売る愚行なれば^^;。

されど、 歴史書の中で我々が昔習った”聖徳太子”が実は実在の人物ではなかったとか、家康が信玄の子であった可能性等歴史が現代の新たな調査により正史として伝え られていた物が実は偽史であり捏造された物であったという事は実際に有った事。

なればウーマンリブ以前の書物自体に全く誤りがなかったという事も疑わしくなります。
実際私が見聞した内容と女性学の過去の書物の内容にはかなりの隔たりが有りました。

何故生物が須らくオスとメスに分けられたのか?私はそれが”生物の不完全性を教える為”だと解釈しています。

男性だけでも女性だけでも歴史が刻まれる事はなかった筈、男性と女性が居て初めて歴史の歯車は回るのです。

一部のフェミニズム信者は”女性だけのユートピア”を作ろうと画策されておられる御様子。

されど私は”男性だけのユートピア“等御免蒙りたい(笑)まして、”女性を従わせて“等という考えは毛頭有りません。

もっとお互いがお互いを理解し愛し合えば恐らくこの世から戦争や争いは無くなる気がします。
その為にも最小単位である男女がもっと解りあえる愛し合える環境を創って生きたいと考えています。

2011年6月16日木曜日

醜形恐怖症の新たな脅威~或いはボーダレスセクシャルの心理学~



醜形恐怖症とは読んで字の如く自らが醜いと誤解をしそれに対する異常な恐怖を抱く心の病である。
小さくはプチ整形等がその例に挙げられ、大きくなると自己否定から自我崩壊に至り自死に至るケースも少なくない。

我が元にもそういう”醜形恐怖症”の同胞が年間を通してかなりの数来訪されている。
しかもその数は年を負う毎に増して行きその内容も多岐に渡り既存の常識を打ち破る内容となっている。

今まで醜形恐怖症の多くは女性が罹患しておりその対象者も同じ女性であるケースが多かった。
されど最近は女性よりも寧ろ男性にその率が多く見られ且つその対象も男女共というケースが増えてきた。

我々 が子供の頃は『男は男らしく女は女らしく』と言う教育を受け男が女らしい格好や女が男らしい格好でいる事は恥とされきちんと”生態的性別”により区分けが されていた。しかし”ニューハーフ”の台頭及びスイーツ系男子やお弁当系男子の登場によりそれらのボーダーは大変曖昧模糊な物となり又、幼少期よりメイク 等に関心を深く持つようになる事により、より早い年代から”美”という物を意識せざるを得ない状況になってきている。

今までは対象が女性で且つ同性であった物が対象が男性まで広がりカバー範囲が広がってしまった。
最近は”女性より美しい男性”は珍しくなくなり、女性の”美”という物の牙城を男性がどんどん突き崩していっている。

だが、多くの方々が気づいていない事実が有る事をこれまた多くの方がご存知ない。
男性が求める美も女性が求める美も結局は”女性的美”であるという事に。

所謂”イケメン”と称される男性の多くは”女性的美しさ”を持つ者が多く例え日サロで焼いていてもやはり”小麦色した女性の美”に近い状態となって居る事が現状である。男性的なムキムキの筋肉質でイケメンという人は余り居ない。

つまり”美”という対象自体が、”女性的”であるという事実に多くの醜形恐怖症に悩む女性は気付いていない。
”美の女神”という言葉でも解る通り、”美”を持てるのは女性でしかなく、男性の求める”美”は又違う所にある。

つまり、幾ら男性側が女性の”美”の領域に入り込んだとしても結局は”女性的美しさ”を求めているに過ぎない。
見た目の性別は”男”でもその”男”が求める”美”は”女性的美”であり、結果”女性”を相手にしていると同じである。

なれば”元々女性”である分だけプライオリティーは女性側にあり、男性側がしなくてはいけない苦労の幾つかを既に女性は生来持っているのでその努力分しなくて済むのである。

且つ”多くの人が求める美”ではなく”オリジナルの美”に気付く事、実はこれが尤も大事である。
”美”という物を求める根源的要素は”人にない物を求める”という事にあり人より美しくなりたいと欲するはそれが故。
なれば”相手が得る事が出来ない美”を自らが求めればそれこそ”究極美”を手に入れるも同じである。

そしてその”究極美”こそが個々人の持つ、”オリジナルビューティー”であると私は認識している。
誰にも拠らず誰も真似ず、”自分が自分で有る事を示せる美”である事である。

我々専門職はお一人お一人の中に隠れた”その人にしかない美”を見つけ出しそれを表に出しお示しする事で自らが”美の種”を内包して居る事にお気づき戴きそれを伸ばす事で人との差を付ける事をお勧めしている。

お陰で同胞の数は鰻上りに増え今も増加の一途を辿り、我が門を去る頃には皆、”オリジナルビューティー”を手に入れ威風堂々と胸を張って我が門を去っていかれている。自と他を較べる事自体は悪い事ではない、他者と自分を比較する事で気づかされる事は実に多くある。
されどそこから”学び”を得ず、”劣等感”だけを得ていたのでは”比較”する意味がなくなる。

”比較”とはその結果、”得る物”が有ってこそ初めて”比較”する事に価値が見出されるのである。
人と自分を較べる事自体が悪いのではなくそこから”自らのオリジナリティー”を見つける事を怠る事こそが罪である。

”私は綺麗ではない”と自らの可能性を潰してしまう前に我が門を叩いてみませんか?
きっと”人も羨むオリジナルビューティー”に溢れるアナタに私がして見せましょう!

今日から”醜形恐怖症”にバイバイしませんか?そのお手伝い私がさせて戴きます^^v

2011年6月14日火曜日

影ぼうし~もう一人のボク~


夕日が迫る帰り道、パパと手を繋ぐボクの前に長い”影”ができた

ボクが歩くと影も歩き、ボクが止まると”影”も止まる。
ボクはふと立ち止まりじっと”影”を見つめた。

本当はどっちが本当のボク?パパと手を繋いでいるボク?それとも…。

急にボクは恐くなってパパの手をぎゅっと握り締めた。
パパにボクの漠然とした不安が伝わったのか優しい笑顔で更に強くボクの手を握り返してくれた。

ボクは安心して又、歩き始めた。

ふと後ろを振り返ると先程の”影”が後ろから何だか嬉しそうに手を振っている様にボクには見えた。
ボクは心の中で小さく手を振りこういった、”バイバイ、もう一人のボク”と。

2011年6月7日火曜日

栄養心理学について

栄養心理学とは栄養が”心”に与える影響を研究した分野である。
代表的な物を言えば例えば”カルシウム不足となるとイライラが増え怒りやすくなる”とかである。
栄養学的及び生態学的には存じ上げませんが心理学的には朝食をしっかり摂る事は脳に”栄養がちゃんと行渡ったから仕事してね”と指令を出す意味でとても重要な意味を持ちます。

又、しっかりと”
噛む”事で脳に刺激を与えそれが脳の目覚めと活性化に繋がり仕事、発想の効率化を図る事が出来るようになります。

朝をカロリーメ
イト等栄養補助食品等で補っているアナタ?出来るだけきちんと朝食は摂りましょうね^^v

閑話休題
『栄養を摂る事』と『栄養補助食品を摂る事』は同じでは有りません。

『補助食品』を多く摂取しても『補助』であり『栄養』を摂取した事にはなりません。
事実『栄養補助食品』だけと『経口からの食物摂取』ではバランス表が一目瞭然。

『栄養補助食品』だけだと栄養バランス表にバラつきがあり綺麗な五角形にはなりませんが『経口からの栄養摂取』ではちゃんと綺麗な五角形を描きます。

これは脳にちゃんと『栄養が行き届いた』という指令が届いているか否かが原因。
経口からの栄養摂取により脳は『食べた』と認識しそれが必要部所へ栄養を運ぶ際の助けとなります。これが栄養補助食品だとその認識が弱く当然栄養を運ぶ際の助けの妨げとなります。

経口且つちゃんとした肉・魚・野菜・果物等形有る物を食べる事で脳は”食べた”と認識しそれにより始めて”栄養”摂取となるのです。

更に閑話休題

2011年6月4日土曜日

気分変調障害の心理学~或いは常態性行動の恐るべき罠の心理学~

今の時期、天候が悪く朝は晴れていたのに夕方急に雲行きが怪しくなり帰社時いきなり雨に遭う人も少なくない。

私もそんな一人で雨の中傘も差さず(差せず?)上から下までびしょぬれで帰宅した事も一度や二度ではない。

特に季節の変わり目はそんな天候の日が多く、傘を持っていこうかいくまいか大いに悩む所である。
意外とこの傘と言う奴は嵩張るし邪魔になるので雨が降らなければ降らないでそれが又小さなストレスと成る。

そんなこんなで季節の変わり目は気候変動が激しい分”心が中々安定しない時期”でも又或る。
故にこの時期我々心理職の人間は実は結構忙しい、東奔西走し寝る間を惜しまなくてはいけない日々が結構続く。

特にこういう時期、”気分変調障害”の人”や”躁うつ病”や”自律神経失調症”を患っておられる方は本当に大変である。
そういう方を多くセラピーさせて戴いた事がある私のこの時期の対策法を述べてみたいと思う。

先ず今の時期、気候変動や政治不信等”不安要素”が世の中に蔓延している、これは先ず抑えておくべき事。
何故ならその事が周囲の人々の”心の不安定さ”を生み、それらが自分にも”伝播”している事を認識する事が大事だからである。
つまり”自分だけがおかしいのではなく自分を含む周り全てがそういう状態である”という認識を持つ事。

そうなれば”自分一人だけが可笑しいのではなく皆も可笑しい=自分はおかしくない”という事となる。
可笑しいの定義は”自他が違う事”である訳なので”自他共に同じ”ならそれは”おかしい”という定義からは外れる訳である。

次に”常態性行動”の項でも触れたが”視界情報をアップデートする事”が大事である。
心が不安定な時は普段見慣れている筈の風景がよりその鬱々感を増加させる効果(逆効果?)がある。
何故なら鬱々とした時に見ている風景なので今見ている風景がより自らの鬱々感を増長させていると思い込むからである。

それを回避する為には”常態性行動”を変えて見る事である。
つまり、”普段見慣れない道を通って通勤をしてみる””行きなれた店じゃない店でご飯を食べる“等である。
視点を変える事で脳内記憶をアップデートさせそれにより”欝の記憶”を遠ざける事、それが気分変調障害を改善させる方法である。

そして何より一番大切なことは”時限性が高くそれらが永続的に続くものではない事を自覚する事”である。
つまり、”時期的””季節的”など”時限的”な物がその主な原因なのでそれらに”永続性”は無いのである。

それを強く意識する事で”嵐が去るのを待つ”という姿勢を持つことも大事である。

又、我々のような専門職に助けを乞う事も又大事な事であろう。
誰かの助けを乞いそれを支えとする事で随分と”心の負担”を軽くする事はできる。

アナタの”心の荷物”私にも少し持たせて貰えませんか?^^V

2011年6月1日水曜日

ランナーズハイの心理学~或いは脳内麻薬の恐るべき罠の心理学~

今回の震災を通して日本人、嫌、世界の人々が学んだ事ーそれは”耐える事”と思います。
被災者方々は今も不自由な生活を懸命に”耐えて”居ます、その姿に世界が涙し共感しました。

今回これほど多くの義捐金が世界中から集められたのもこの”日本人の耐える姿勢”に感動した為というのも大きい。

それほどまでに日本人は”耐え忍ぶ事”を尊ぶ世界にも類を見ない珍しい国民性を持っているともいえます。
この”耐え忍ぶ事を尊ぶ姿勢”は何処から生まれたのか?それは日本の気候風土がそれを物語っています。

周りを海に囲まれ海洋資源や山林等自然資源には事欠かない日本ですがそれでも”足りない物”は沢山あります。
今は政治的外交関係で国内生産で賄える物まで輸入に頼らざるを得ない日本ですが太古の昔より他国より鎖国時代も様々な物資を”輸入”に頼りながら日本は生き延びて参りました。

されどそれも安定供給が成される訳ではなく輸出国の生産高が落ち込めば当然輸出用物資は抑えられ自国へ回され結果日本へは物資が不足する事態というのも当然の事ながら起こりえます。

その際、日本人である我々は只管”耐える”しかなくそれ以外に手段は有りません。
又、昔から”武士道”や近年でいえば”我慢大会”等、”耐える事を美徳”とする国民性でもあります。

勿論、耐える事は誰しも嫌いでなるべくなら”我慢”などしたくはありません。
先人は”我慢は買ってでも白”と言われるがその先人とて”好んで我慢”はなさるまいでしょう。

されど”どうしても我慢せざるを得ない時”人の体はその”苦痛”を”快感”へ代える術をちゃんと持っております。
それが”脳内麻薬”と呼ばれる物質であり、人は過度の”苦痛”を受けた際、一時的に”苦痛”を”快楽”へ変える術をちゃんと体内に持っております。それがあればこそ日本人は”耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで”参ったのです。
所謂”ランナーズ・ハイ”がその一番の好例でございましょう、長距離ランナーがその余りの過酷さに”苦痛”を一時的に”快感”へと脳内で変換してしまう事、それが”ランナーズ・ハイ”であります。

その術が有ればこそ、日本人は”耐え難きを耐え、偲び難きを偲んで”参ったので有ります。
所が…先程”脳内麻薬”と申しました、そう、これも”麻薬”の一種でありますので、”常習性”という物が当然ございます

それが表題にある”罠”の部分であります。

”苦痛”が”苦痛”のまま脳内に留まるのなら人は好んで”苦痛”を受けたりはしないでしょう。
されどその”苦痛”が”快感”に変わるなら話は別です、”体”はそれを拒んでいても”心”がそれを欲する限りそれらを人は求め続けます。正にランナーが”死ぬまで走り続ける”のと同義であります。

されど先程も述べました通り、”脳内麻薬”とは”一時的に苦痛を麻痺させ快楽とする代替措置”でありそれが長く続けば当然の事ながら肉体に過度なストレスや疲労を与える事となり、どんどん肉体は衰え内蔵機能も衰え続けます。

その結果、限界を超えた肉体や内臓はその機能を停止し、”死”を突然迎える事となります、これが”突然死”の原因。
昨今”過労死”が問題視されておりますがこの”過労死の要因にも実はこの”脳内麻薬”が大きく関係をしています。

”家族の為、会社の為に働く自分”に快楽を見出し、進んでではない物の”苦痛”を脳内麻薬で”快楽”へと変換し続けた結果、体は酷使に酷使を重ねその結果、二度と元には戻らない体となり、最悪”過労死”を迎える事となるのです。

そうなる前に”我慢も限界がある”という事を自らが知り、”脳内麻薬”のお世話にもならずに済む程度の”息抜き”は絶対に必要であると考えます。”脳内麻薬の多量分泌による突然死”なんてとんでもない事であり笑える話に非ずです。

”遺されていく者”の悲しみはそれを失った者でしか決して味わう事はできません、されどその時にはもう遅いのです。
私も亡父を”過労死”で半ば亡くした様な物ゆえにその悲しみは”実感”出来ます。

どうか”エコノミック・アニマル”に成らないで下さい、必要以上に”脳内麻薬”を分泌させないで下さい。
何より”あなたの大切な人たち”を悲しませるような事だけは決してしないであげてください。

あなたがあなたとしてこの世に居られるのは”今”だけなのです、前世でも来世でもなく”今”だけなのです。
それだけは決して忘れないで下さい、”愛する者の為に死ぬ”のではなく”生きて”下さい、お願いします。

2011年5月25日水曜日

祝!1万アクセス突破!バンザーイ \(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/ キャァ♪

手前味噌で大変恐縮なれど我が稚拙なるブログ『或る心理学者の心理学ブログ』が去年の8月開設以来やっと1万アクセスを突破いたしましたバンザーイ \(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/\(≧∇≦)/ キャァ♪

当初は殆ど弄って居らずFBに入ってから一気に読者数が増え又、仕事関係者からも閲覧者が増えそれと共にこちらも奮起してブログを更新し続けた結果であり皆様方のご助力無しでは到底なし得なかった事。

本当に感謝の気持ちで一杯で御座います。
これからも何卒お引き立ての程宜しくお願い致します<(_ _)>

2011年5月22日日曜日

悲しいのはお前だけじゃない♪

何時もとは一寸毛色が今回は違いエッセイ風に書いてみたいと思います。

題名は某有名歌手の歌の一節です、されど今回の本論を尤も端的に現す言葉でも有ります。
”裏切るより裏切られる方が良い、傷つけるより傷つく方がいい”これも余りにも有名なある歌の一節です。

ですが我が理念は正にこれにあります。別に格好をつけている訳ではなく私は両方を体験しているからです。

裏切られる辛さ、裏切る後味の悪さ、傷つけられる悲しさ、傷つける心の痛みそれら全てを私は過去経験しています。

”誰でも一人きり辿る道が有り誰かの道を横切る度に傷つけていく、けれど必ずそれよりずっと自分が傷ついていく”これも有名シンガーソングライターとその妹のデュエットソングの一節です。

私は長く”弟子”を取りませんでした、今は我道の後継者の青井利行氏、そして高根弘明という弟子が一人居ます。

何故、長く弟子を取らなかったのか?それは過去の辛い経験があったからです。

丁度10年くらい前になりますか、弟子志願者が一人現れました。
とても熱心で情熱もあり、又、不遇な境遇にも負けないハングリーさを持っており氏なら我がスキルを全て教えられると確信をしておりました。

されど…当時の私はまだ”人を見る目”が足りなかった、彼の”見せ掛けの熱心さ”に気付けませんでした。

彼とはパソコン通信で知り合い、大阪在住で一度リアルにお会いもしておりとても好感の持てる人でした。

明るく快活で元気で勉強熱心で私は彼に当時私が持っていた全ての技術知識を伝授するつもりでした。
されど…まだ学びを半分一寸過ぎた頃彼の態度が急変、いきなりネットで私に対して痛烈な批判をしだしたのです。

勿論私を含む彼と私を知る誰もが目を疑い、彼の暴挙に最初戸惑いました、勿論私は彼に理由を問い詰めました。
されど彼は黙して何も語らず只管私に対する批判をし続けました、彼と私を知らぬ者の中には彼の”虚言”に耳を傾ける者も現れ始め段々とその輪は広がりを見せ始め遂に私はその場を去らねば成らぬ事に成りました。

後日談として彼の近くに居た人間から聞いた話ですが彼が私から学びを得ていく内段々と私の存在を恐怖に感じ又
私の存在が疎ましく思えたとの事。同じ道を行く者同士ですからいずれはどこか道でぶつかり合う事もあるでしょう。

その時、私の力が強大なれば自分が潰される、なれば今の内に叩き潰しておこうという事になったのだそうです。
誰が自らの可愛い弟子を潰すでしょうか?私は彼の浅はかさと自らの”観る目のなさ”に愕然としました。

それから私は”二度と弟子はとるまい、こんな悲しい思いまでして後継者を育てる必要は無い”と心に決めました。
あれから更に10年以上の歳月が経ち、今我が目の前に”我道の正当なる後継者”が現れました。
勿論あの時の悲しさや悔しさを忘れた訳ではありません、或いは又我が目の甘さに泣く事になるやもしれません。

されど今の私は彼と共にそして弟子と共に我道邁進していく所存です。

私と袂を別った氏はその後その道で大きな失敗をし二度と同業で飯は食えなくなったと風の便りに聞きました。
とても悲しむべき事とは思いましたがそれも又、彼が選択をした道、自ら冒し過ちは自らが正さねば成りません。

”裏切るより裏切られた方がいい、人を傷つけるより傷ついたほうがいい”これからも私は真っ直ぐに、只管真っ直ぐに我が道を歩んで参りたいと思っています。

それが”私”という存在価値であると信じて。

2011年5月18日水曜日

心理学の小ネタその3

鬱や不安神経症やパニック障害の方は『見えざる未来の不安』が元で発症なさる方が多い。
一般人よりも不安に対して敏感且つ過剰反応なさるのでそのような病に至る。

だが先の見えない不安を今抱えていない人は恐らく一人も居ない筈
私もその中の一人です。

故に自分ひとりではなく皆も同じ恐怖を抱きながらそれでも日々を
逞しく生きておられる事を説き更に不測の事態に対する身の処し方である『多面的存在である自己』をお示しする事でそういう方々へ対処をしています。

詳しくは今執筆中の『或る心理学者の心理学ファイル』第二巻で触
れます。

2011年5月16日月曜日

心理学の小ネタその2

FaceBookでフォトアルに沢山『セルフポートレイト』を載せて居られる方が居る。
一見すると『さぞやご自分に自信が御有りなのだろう』とか『自意識過剰なんじゃないの?』と揶揄される向きもあろう。

そういう考えも否定はしないが私は元が天邪鬼なので違った見方を
している。
それは『自分探し』の旅ではないかと。

沢山の自分を撮る事で自らの多面性を知り且つ相手が自分をどう見
ているか?を知る為の術としてフォトアルを活用されておられる方もいるであろうと。

決して自信家でもなくナルシストでもなく本当は真反対な方ではな
いかと。
案外そういう方も居られると思います。

心理学の小ネタ その1

この時期何枚着込んでも”寒い、風邪引いた?”という経験をされた方も多い筈。
されどお布団に入った途端、寒さが消え”あれ?勘違い?”と言う方も又多い筈。
実はこれ”密着度”に関係有り、人が体で感じる”温度”は実は枚数よりも密着度。
洋服を何枚着込んでもお布団の密着度には到底勝てません、それが故です。
それは”重さ”が関係しています、”洋服の比重”と”布団の比重”では布団が上。
結果その”比重分”だけ密着度は増えそれが体温を逃がさず体へ返還するから。
例えば雪山で遭難し互いが肌で体を温めあう行為、あれも”密着度”が原因です。
意外と”寒さは枚数”と思い込んでいる人が多いですが実は”密着度”なのですね。

2011年5月15日日曜日

頭を下げない心理学~或いは職業鬱に掛からない為の改善策の心理学~

『必要以上に頭を下げるな』我が同胞へ私が説いている事。
我が同胞の多くは被雇用者及び接客業に従事している方が多い。

そういう方は”職業的”に頭を下げる事が多くそれが”脳に摺込まれて”いる。
 だが、”必要以上に頭を下げる事”は心に”マイナスの土壌”を作る行為でそれらは”職業鬱”などを発症する原因に。

事実我が門を叩きし多くの方々はプライベートでも”無意識”に人に頭を下げている人が多い。
 周 りからは”頭が低い人”という高評価を受けるかも知れぬがそれはご自身の心を無意識的に傷つける行為です。

又、一部の御馬鹿は頭を下げられる事により勘違 いを起こし次からの態度が急変し上から目線で物を言い出す者も居ます。
そこでちゃんとした反論が出来ればよいですが其処でできなければプライベートでも” 社会的地位関係”に悩まされなければならずそれが更に”職業欝”を助長させる事となります。

職業人と私人の区別はしっかりと付け必要の無い 時は毅然とした態度で頭を上に上げる事。
私はお世話になる方、師と仰げる方以外には相手が誰であれ決して不用意に頭は下げません(勿論身内がお世話になっ ている場合はその限りでは有りませんが)

我が地元は県庁マン御用達の町で皆、県庁マンには低頭となりますが私は彼らに決して頭は下げません。県庁マンであるというだけで頭を下げる事自体が間違い。(勿論個人的にお世話になった方には頭を下げますが^^;)

 随分昔、行きつけの店内で慇懃無礼 な県庁マンが大声で携帯で話していた際私が激しく叱責をしたら店長が飛んできて我々は店から追い出されました。
社会的ルールを守らぬ者が大きな顔を出来る のがわが町です。(余談ですがそれから暫くしてその店は潰れました、私は何もしておりませんが(o ̄ー ̄o) ムフフ)

私は相手が誰であれ社会的規範を犯しし者はその罪を糾弾し白黒はっきりつけさせます。
故に地元では一部の県庁マンに頗る評判は悪く風当たりは強いですが何処吹く風です。

されど私は町で会う方へは相手が誰であれ必ず”時候の挨拶”は致しますし毎日駅を利用させて貰っている関係上駅構内の販売員さん及び駅員方々には必ずご挨拶は欠かしません、勿論それは地方や中央へ出ても同じ事です。

又、行きつけのお店の店長初め店員方々へも感謝の心は忘れず常、”おいしゅうございました”と お礼を述べます。

故に私は地方の行きつけの店へ何時行っても歓待を受け(本当は駄目ですが)順番待ちでも直ぐ中へ通される^^;

彼ら・彼女 らの印象は”先生は社会的地位が御有りなのにとても頭が低い方”という評価を得ているそうで^^;;;(私は低評価を受ける事にはなれているのですが高評 価を受ける事には不慣れ故こういう評価が一番困る(笑))

”ハンディーキャッパーは人のお世話になっているのだから常、人に頭を下げなさい”というのが社 会通念らしい。
だが私は不遜な態度を取られた相手には今まで40年間生きてきて一度も頭を下げた事はないしこれからもその姿勢が変わる事は有りません。
自らが出来る事は精一杯行い出来ない事にも人に助力を乞う事はせず無理と判っていても精一杯努力をする。そういう態度を示していると人は自然と助力をしてくれます。

勿論その際には必ず頭を下げお礼は申し上げますが、”お前はハンディキャッパーだから手を貸してやる”と言う上から目線の助力は断固拒否します。

決して自らのパーソナリティーを失わぬ事。
それが”職業鬱”にならぬ最善策であると私は考えます。

2011年5月10日火曜日

大型連休の心理学~或いは常態性行動の浦に潜む”五月病”の悪魔の心理学~

5月の大型連休も終り又、喧騒の中へ身を投じて居られる方々も多い事と思います。
この時期になると毎年皆さん”五月病”に悩まされる方々も多い事と思います。
特に今年は既に現段階で”五月病”と診断された方が大変多いと聞いております。
(事実我が元へも結構な数の”五月病同胞”が訪れております)。

さて、何故人は”五月病”になるのでしょう?
実はその裏には”常態性行動”が大きく関与しているのです。

例えば、”三日坊主”とか”三日三晩”とか日本人は兎角”三”という数字を多用します。
例えば”数日”という凡その概念として尤も多い物は”三日前後”であるというデータも出ています。

又、”三年目の浮気””三年目のジンクス”など”三”周期で物事が変わる事からもそれが判ります。
これは”昔からの因習”が原因であり何も”三”でなくても数字は何でもよいのです。

日本人が”4”と”9”と言う数字を忌み嫌う、西洋人が”13”という数字を忌み嫌うのと同じです。
そして兎角日本人は”3”という数字を割りと尊ぶ慣習が有りそれが実は大型連休にも作用します。

人間同じ事が3日以上続くと段々とそれが”常態化”していく傾向が有ります。
つまり休みが3日以上続くと”休み”である事が”常態化”していく訳です。

回りも”休日モード”となり目に映る、耳にする物等五感に訴える物が全て”休む事”に終始します。
当然そうでない方も居られる訳で全ての人が”五月病”に掛からないのもそれが原因の一つ。

特に今年は震災が有り多くの方がお心を病まれそれが元でお心を休めたいと言う欲求も物凄く全国民的に高まっていた所に10連休という大型連休が来た為、通常よりも更に強い”常態性行動”が見られそれが脳に深く刻まれ其処から脱したくないという強い拒否反応から”脳の誤動作”により、”燃え尽き症候群(バーンナウトシンドローム)”に陥る人が多発しています。

これを避ける為には連休中も通常の日常生活と同じ時間同じ行動をなるべく取る事。
同じ時間に起きて同じ時間活動し同じ時間に寝る、それをする事で上記の事は回避が可能に。

一度憑いてしまった”五月病”を治すには”なるべく早い段階で元の生活に戻す事”が大事です。
その事により”脳の誤動作”を改善出来、”五月病”を回復させる事が出来るようになります。

長期休暇と言う奴も結構これで厄介な物なのですよ^^;。

2011年5月5日木曜日

結婚は人生の墓場?の心理学~或いは失敗しない相手選びの為の心理学~

私は夫婦問題専門カウンセラーではない(笑)
夫婦問題専門のカウンセラーさんは知人の中にも数名居られる。

だが、何故か年間を通して”夫婦問題”でお心を病まれた方を診る回数は決して少ない数ではない。
しかもその数は此処10数年で鰻上りとなり、問題の多様性も大変多岐に渡り”個々人の問題”の色を濃くしている。
元々、 カテゴライズという概念が無くそういう物を激しく嫌悪する私だがその私が思わずカテゴライズしたくなるほどにその内容は幅広くそして複雑怪奇である ^^;。(そして当然の事ながらカテゴライズは不可能である)。よく”結婚は人生の墓場だ”という言われるがバブル崩壊前と崩壊後ではその内容が大きく異 なってきている。
バブル崩壊前この言葉を発していたのは男性であった、だが、バブル崩壊後この言葉を吐くのは圧倒的多数女性(笑)
”失敗した~!!”と嘆かれる方がとても増えておられる事に気付かされ驚かされる^^;。
我が元へ来る女性の同胞で夫婦問題が原因で来訪される方の殆どが生家に問題を抱えている方々である。生家での親子関係に問題が有り其処から”逃避”する為に結婚を選ぶ(と言うか選ばざるを得ない)という人が多い。
それ自体が間違いであるとは言わぬが正しい行為であるとも又言えぬのが現状である。
所 謂、三高(高学歴・高身長、高収入)という時代は当の昔、今は如何に”安定収入を得られるか”か男性選びの”鍵”となっているようだ。それも又、間違いだ とは言わぬが同じ様に”正解”とはとても思えない。”結婚”とはその字が示す通り”婚儀を結ぶ”と有り元々は宗教的儀式の一つであり神聖な物であった。
元々、不完全な存在である人間が”一つ”となる事でより”神に近い存在となる”為の儀式であった。
又、”子孫繁栄”の為に必要な物でもあり、家内安全、子孫繁栄等の願いが込められた物でもあった。

それが時を経る毎にその意味合いが段々と薄れ”性愛”の部分がより頭を擡げるようになってきた。
又、先に述べた通り、”生家からの逃避場所”として良く相手を吟味する時間も持てぬまま”結婚”へ逃げる人も多い。

”今より上の不幸は無い、だから現状から逃げられたらそれでいい”と短絡的に婚儀を結びその後”今より上の不幸”がある事を知る。だがその時には既に時遅し、子を授かっている場合や家に縛られ逃げられない状態に陥る者も。
その結果、”お心”を病み我が門を叩く事となる訳だ。

”失敗しない相手選び”のコツ、それは先ず”相手を深く知る事”ではなく”自分自身を深く知る事”である。

”相手”は自分を映す言わば、”鏡”である、だが、その”鏡”に映る自分が”何者であるか”を充分に知らねば、”鏡”に映る自分が”正しい自分かそうでない自分か”が判らない。

判 らなければ人が言われるままの”偽りの自分”を”本当の自分”とせねばならずその結果、”本当の自分”からどんどんと遠ざかり結果、”本当の自分”に戻れ なくなる。”本当の自分”から遠ざかれば遠ざかる程、”相手との距離”も又、遠くなり結果夫婦関係を上手く営めなくなる。そうならない為に先ず、”自分自 身を深く知る事”が大切なのである。

”自分自身を深く知る”事により、”本当に自分に相応しい相手が誰であるか”が解る様になる。
家格以外は結婚後幾らでも手に入る、社会的地位も収入も学歴も後から付ける事は充分可能である。

されど、”相性”だけは後付という訳には行かない、こればかりは”先付け”でなくてはならない。
その”相性”を計る為には先ず、”自分自身が何者で自分が自分で居られる相手が誰か”を見定める必要が有る。

” 自分”を正しく知る事で、”今の自分に足りない物”が解り、その”足りない物を補える人”が人生のパートナーとなる。人間は”種の保存”の法則に則り”自 分とは異なる染色体を多く持つ者に惹かれ”、それは”匂い”にあるとするらしい。生物学的知見は良く解らぬが少なくとも、”自分に無い魅力を多く持つ者” なれば誰しも興味関心を抱くであろう。
なればその人に”近づきたい”と思うしそれが恋となり愛となり結ばれたとしても何ら不思議は無い。

外見や収入や学歴等”副次的要因”にばかり目が行って”本来の姿”を見誤ると後で手酷い目に遭う事となる。
そんな”色眼鏡”を掛けない為にも、”しっかりと自らを見定める事”それが良縁を運ぶ最良の方法と私は考える。

2011年5月4日水曜日

『努力』の心理学~或いは実る『努力』にする為の心理学


何処ぞの予備校のキャッチフレーズではないが『努力は実る』は嘘。
『努力』の方向性を見間違えれば幾ら『努力』をしても『成果』は現れない。

”私はあんなに努力したのに”と結果を嘆く者が居るがそれは方向性を見誤っているのだから『望む結果』が得られないのは当然の事。
ご自身に対する『認識の甘さ』が招いた失態であり同情の余地は無い。

『努力』とは先ずその方向性をしっかりと見定め目標設定を見誤らない事が大切。

ゴルフに於いて玉を叩く前にそのボールが飛ぶ軌跡の道筋をちゃんと頭の中で描けた者はちゃんと自らが思う方向へ思う距離へボールを飛ばす事が出来るのと同義である(それでも飛ばないのは才能が無い(笑)これ私の事(爆))。

又、人間は『努力』に於いて結果に注視する傾向があるが大切な事は『結果』ではなくそこへ至るまでの『経過』である。

『経過』で何を得、何を学んだかによって『結果』は大きく違ってくる。
『経過』を軽視する者に『望む結果』が得られる事は私の経験上からはない。

又、『努力』によって得られる『結果』は実は一つではない。

『努力』をした過程において結実した『結果』(能動的結果)とその『結果』を得られた事により次の行動において得られる新たな『結果』(受動的結果)の二種類有る事は案外皆、気付かない所である。

我が元へ多くの指導者が教えを乞いに来られる一番の理由は上記のような事を学びたいからであると考えている

2011年5月3日火曜日

等価交換の心理学~或いは心理学的錬金術の心理学~

錬金術(れんきんじゅつ、Alchemy) とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂 をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており [1]、実験道具が発明された。その成果は現在の化学 (Chemistry) にも引き継がれている[2][3][4]。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。』(ウィキペ ディアより)

上記の項では触れられていないが錬金術に於いて尤も大切な事は『等価交換』であるという事。
つまり金を錬金する為には金と同価値の物を使わね ば金を練成する事はできないという事である。(この辺りの矛盾を遂に錬金術は解く事が出来なかったのが錬金術が一般に根付かなかった理由の一つと考える)

心理学的にもこの”等価交換”という物と同じ考えがある。

例えば”自分が殴られたら痛いから人を殴ってはいけない”という風に学校で誰しも教わった筈である。だがこれは”等価交換”という考えに於いては”不等”であると言わねばならない。

何故なら体力がある者と体力がない者とでは殴られた時に受けるダメージが全く違うからだ。
事実私が知るガキンチョは”僕は友達に殴られても痛くないから殴ってもいい”と言って居た。
だが、私が”殴った”らその痛さに初めて”殴られたら痛い”事を知り以降友達を殴ることはなくなった^^;。

まぁこれは極端な例だが、”等価交換”の場合、”等価値”である事、つまり”その人にとって等しい価値である事”が大事なのである。
与える側が”同じ力、同じ作用”ではなく受ける側が”同じ力、同じ作用”である事が大事である。

車椅子生活者である私は日常生活に於いて”屈辱”を受ける場面は多々ある、朝起きてから休むまで一度も”屈辱”を受けずに生活を送れた事は40年以上生きてきて一度も無い。

社会的ステータスの向上や経年による経験値の増加、何より愛方の励ましによりその量は年々減少傾向にあるとは言えやはり”屈辱を受ける 事”事態に変わりなし。

だが、その際、私は決してそれを”見て見ぬ振り”はせぬ、我に”屈辱”を与えし者にはその方が理解出来る方法で以て”屈辱”を与えご自身が私に与えた”屈辱”が如何に”屈辱的であるか”を御理解戴けるようにしている。(勿論私が受けた屈辱以上の屈辱を感じて戴く事はデフォとして(笑))。

相手は憤怒の表情を浮かべ時に激怒し暴力に訴える者も居る、そういう者にはやはり”同価値の力”でもってご自身の”暴挙”が如何に”ダメージを受けるか”をその”体”にお教えするようにしている。

故に私をリアルに知る者は”決して私を侮蔑する事はしない”、その事により自らが受ける”災厄”の恐ろしさを知っているからである。

日本人は単一民族であ り”危機管理”がとても甘い。

多民族国家の場合、”目の前にある危機”を如何に回避するかは常、日常生活に於いて考えねばならぬ事であるが故、単一民族の 日本人より危機管理意識は強い。
私の同胞には外国人も多く居て彼ら・彼女らの”危機管理意識の高さ”はとても勉強になり参考とさせて貰っている。

それ故に 其処から得た”学び”を今度は同胞へ還元するように私はしている。

同胞を侮辱せし者へ時に当事者へ(同胞に被害が及ばぬ形で)屈辱をお与えし或いは同胞に その術をお教えする。
全てが成功する訳ではないがそれでも高確率でそれらは的中し以降同胞への”屈辱”は止む場合が多い。

私が”神”と崇められ、”悪魔” と罵られる一番の理由がこれである。
だが私はそれでよいと思っているしその考えを改めるつもりは今の所全く無い。

自らが天に吐いた唾は自らの顔に掛かるのだという事をお教えする事はその次に起こるかもしれない同じ悲劇を食い止める意味でとても重要な事であると私は考えてい る。

勿論”独善的にならぬよう”充分精査した上であり自らの”個人的感情”によりそれらを行う事は決してないという事は明言しておきたい(そうでないと独裁者的存在と思われるのは本意ではないので)。

人は人以上でも人以下でもない、故に人と言う立場に於いて平等であり”不要な侮蔑”を受ける謂れは無いと信 じる。

私は人として生き人として生涯を終えたい、その為にも私は我が志をこれからも貫く所存である。

風が吹けば桶屋が儲かるの心理学~或いは不幸があると映画館が儲かるの法則~

先日G.W.中に我々がよく行くショッピング・モール内に有る映画館の横を通ったのだが長蛇の列であった。
その帰り道、レンタルビデオ屋の前を電車が通過したのだが車窓から映る景色はやはり同じ物であった。
震災後どこもかしこも”自粛ムード”に包まれ、なるべく遠出は避け近場でという意思が働いての事と思う。

実はこの光景、昭和から平成へ変わる時も目にしている、言わずと知れた昭和天皇御崩御の時であった。
その時もTVは完全自粛ムードであり、人々はこぞってレンタルビデオ屋へ走り此処でもやはり長蛇の列がなっていた。

人は何故このような大きな憂い事があると映画やレンタルビデオ(DVD)に走るのだろう?
それは脳内に於ける情報のアップデートが主な原因の一つである。

昭和天皇御崩御の際も今回の震災でも流れる映像は同じマイナスイメージを与える物であった。
粛々と厳粛なムードの御崩御及び昭和天皇の足跡を辿る映像が延々と流される、或いは悲惨な被災地の映像が延々と流される。案外知られていない事だが人間が受ける苦痛の中で尤も耐え難い苦痛は”五感を奪われる事”である。
実際或る大学で全ての五感を奪う実験をした所、全員が半日と持たず大暴れをしたという結果報告がある程である。

TV で同じ映像を流す行為はこの”五感を奪う事”に於ける”視覚と聴覚”を奪う行為でありそれは人間には苦痛に感じる行為である。更に映像が与える影響は擬似 的に触覚すら影響を与える事がある。極寒の地の映像を見させられて夏なのにブルっと体が震えた記憶がある方は少なくないであろう、正にあれである。毎日悲 惨な映像や悲惨なニュースを耳にする行為は人間にとっては五感を奪われる行為に等しくそれらは苦痛を伴って”心”に襲い掛かってくる。

其処から逃げたいという逃避欲求が起こりその結果、脳内の映像のアップデートを心が強く望むようになる。
それらはマイナスイメージからはかけ離れたプラスのイメージである、それ故人は映画やDVD鑑賞に走るのだ。

事実私が知りうる限りこのG.W.中何処の映画館も満員御礼という事であった。
人々が如何に”脳内映像のアップデート”を望まれておいでであるかがそこでも良く判る。

被災地の現状を伝え、被災者方々のお苦しみを共有する事はとても大事な事であるしそれを否定はしない。
さりとてそればかり見させられても今度は共感から反感へと変わり共有から離脱の方向へ心が移行してしまう。

”常態性行動”の欄でも触れたが人間同じ行動を取り続けるとそれが常態となってしまう傾向がある。
そうなると(というか既にそうなっているのだが)デフレスパイラルの要因ともなりかねない(というか既になっている)。

被災者を救済する側が経済的不安定さを抱えてしまっては被災者救済には手を出したくとも出せなくなる。
そうなれば被災地復興自体が更に遅れる事となり被災者方々へ更なるお苦しみを与える結果ともなりかねない。

政府、マスコミ等にはそういった事も考慮に入れ慎重に事に当って頂きたいと切に願いたい。

2011年5月1日日曜日

”考えない”の心理学~或いは”考えない”事を”考える心理学~

我が元には年間実に様々な”病”を持った方々が来訪或いは連絡を下さる。
その中には鬱病やパニック障害、不安神経症を患った方々もかなりの数居られる。

上記の方々の場合、大抵精神科乃至は精神神経内科受診をされ、投薬治療を受けその後我が元へ来られるケースが殆どであり最初から我が元へご訪問戴くケースは 殆ど無い。最初から来られた方がやりやすい事はやりやすいのだが、中々それも現状では難しく”専門”を受けられてから”最後の砦”へ向かわれる方が大多数 である。

”最後の砦”として我が門を潜られる方々が多い為、此処で何とか食い止めねば後は”絶望”乃至は”死”が待っている。

少なくとも私自身そういう風に”背水の陣”を自らに敷き事に当るようにしている。

そしてそういう方々に進言申し上げるのが題名に有る”考えない”事である。
されど、大抵の方は”そんなの無理ですよ”と一笑に附される方がこれまた殆どである。
言われて見れば至極当然の事であるのだが、敢えて私はそこでこう付け加える。

”そう!貴方が仰るとおり、朝起きて夜休むまで人間は”思考する事”なしに生き る事は不可能なのです。朝起きて何を着ようか、昼は何を食べようか、夜は明日の予定はどうしようか等等。それこそルーティンワークのようにベルトコンベア に乗って”考える事”が次から次へとどんどんと流れてくる訳です。”自らが思考しようと望まなくても”…さればこそ”自らが思考しようとする事”を止める 事は大事なのです。私が好きなアニメのOPの歌詞にこう一節が有ります”要らない物を捨てたらこんなにも心の中が無限に広がったよ”つまり”強制的に思考 せざるを得ない以外の思考をしないようにする”これが”問題解決の鍵”なのです”と。
パニックや鬱病、不安神経症の元は”充分に現状に対して冷静に考える事が出来なくなる”事が大きな要因の一つ。それは”余りにも考える事が多すぎてほかの事を考える空白が無い”事が原因なのです。

故に”絶対に考えなくてはいけない事”以外は考えないようにする事が大事なのです。
ここで”なるべく”とか”できるだけ”という言葉は被験者には絶対に使ってはなりません。
何故ならそういう”猶予を与えてしまうとその”猶予”に依拠し、又、”考えなくても良い事”を考え始めるからです。人は”猶予”を与えなくても考える事無しに生活を営む事は不可能である事は前述の通りです。
其処に更なる”猶予”を与えてしまうと今度はその”猶予”に対して”何処まで?”という新たな”考え事”が増えます。

これだと本末転倒となり全く意味を成さなく成ります、”猶予”を与えずとも人は生きている限り必ず”思考”する生物。それ故不必要な”猶予”は余計その方の心の混乱を来す物以外の何物にも非ずであり不要な存在なのです。
そして鬱やパニックや不安神経症の同胞にとっていまひとつ大事な事は”逃げ場”を作ってあげる事。
悩んだり不安に苛まれた時、”私”という逃げ場を作ってあげる事により”現状打開への糸口”を自らが掴むのです。
人間不思議な物で”逃げ場”があるという”安心感”があると、自然と”逃げなくなる”物です。
最初は”逃げ”ていても段々と”逃げ”なくなります、それは”逃げなくても大丈夫”という安心感があるから。そして”何時でも逃げられる、今は逃げるべき時ではない”という事が自らで判るから。

そうする事により私は一切の投薬治療無しで上記の症状改善乃至は緩和乃至は根絶に寄与しています。

今日から”考えない癖”を付けてみませんか?きっと”心の中が無限に”広がりますよ^^V。

2011年4月25日月曜日

指導者の心理学~或いは人を導く者に必要な条件とは?の心理学~

今、私は指導者の立場にある。

だが、それは過去多くの”先達”のお陰であり私一人の力で成し得た物では決してない。
幼 稚園に於いては園長先生が小学校から中学入学に際し、ご自身が全盲である事を忘れるかのような舌戦を教育委員会と繰り広げ見事普通学級への入学を許され た。園長先生からは『パイオニアである事』を学ばせて戴いた。小・中学校に於いては山田先生初め多くの先生方々より『耐える事』そして『赦す事』の大切さ を学ばせて戴いた。
高校に於いては松田担任及び井上校長(現・教育長)より『敬う事』を学ばせて戴いた。
大学に於いては小谷典子教授より『人間としての器の大きさ』と『学ぶ事の大切さ』を学ばせて戴いた。

そして今…我が目の前に三人の『マイメンター(指導者)』が居られる。
川村一郎メンター、関口範彦メンター、そして張本治メンターの御三方である。御三方からは実に多くの事を学ばせて戴いた。
” 信じる事””考える事””聞く事”与える事の尊さ””大きな器を持つに足る人物となる為に必要な事”そして”導く事”等、数え上げればそれこそ枚挙に暇が 無い。お一人お一人から学んだ事は実に多く、”指導者とはかくあるべし”という事の真髄をこの御三方からはしっかりと学ばせて頂いている。又、各々の”モ テ学”をこれは私自身が盗ませて頂いた事の一つである^^;。
お三方はとても魅力溢れる方々でありとてもおモテになられるダンディーな方々である。
年齢も経験も足りぬ私だが私なりに”モテ学”という物を学ばせて戴き今後に活かしたいと思う。指導者に求められる物…それは『ぶれない事』と『柔軟な姿勢』を持つ事であると思う。
自らのしっかりとした意思を持ち、迷う者を堂々と導く為には決して『ぶれない事』が大切だと思う。
そして全ての存在を師とし仰ぎ学ぶ『柔軟な姿勢』を持つ事、自らの正しさを確信しつつそこに胡坐を欠かぬ事。

私がこの御三方より学びし事である。

まだまだ私は浅学菲才な未熟者である、されど未熟者であればこそ多くの事を学び吸収しそれを後世に伝える義務があると思っている。
これからもこの三人のマイメンターを師と仰ぎ多くの事を学ばせて戴きたいと願っている。

2011年4月23日土曜日

俺の屍を超えてゆけ~或いは覚悟の心理学~

大学4年の夏、俺の所へ一人の後輩が訪ねてきた。
”りょうちゃん、俺今から彼女を殺しに行く”と告げて…俺はとりあえず彼を座らせて話を聞いた。
聞けば長く付き合っていた彼女が韓国旅行へ行って帰ってから急に態度を硬化させ始めたとの事。
訝しがった彼は遂に彼女のPCを開きメールを見た、そこには韓国に居る別の男との赤裸々な内容が書かれていた。
我が後輩はとても純朴な人で一途で融通が効かない所があった、それ故同じ頑固者の私とも意気投合したのだが。
私は言った”どうしても奴を殺しに行きたければ俺を先ず殺しそれからその屍を越えて行け。あんな奴の為にお前のこれからの何十年もの人生をふいにはしたくない。そんな惨めなお前を俺は見たくない。だから先ず俺を此処で殺せ”と。
彼は一拍大きく息を吸い込み、それからゆっくりと息を吐き冷静さを取り戻した後、我が元を去っていった。
それから1年後、今度は同じ悲劇を私が経験する事となる。

最初に付き合った彼女がいきなり別れ話を持ちかけてきた。
”これ以上私の事を嫌いになりたくないから別れよう”と言い出したのだ。

11歳差、年の差カップル等5万と居るが我々にとってこのジェネレーションギャップは到底埋まる物ではなかった。最初であった事も有り又、私自身の下らないプライドも手伝ってか私は最初ごねた。

だが、彼女の意思は固く私は不承不承承諾をせざるを得なかった。
そして…別れてから色々と彼女の”悪評”を耳にする事となった。

私と別れる少し前、”別の男”が出来、その男と”駆け落ち”する為、私を騙して”金を取り”そして逃亡する予定だった事
サークル内ではこの二人はトラブルメーカーで随分サークルメンバーも手を焼いており部長が首にした事等だった。

怒髪天を衝くという経験をしたのがこの時が初めてだった、そしてその時初めて後輩の”殺意”が私にも理解出来た。
だが図らずも私のその”殺意の炎”を消してくれたのはその同じ”殺意の炎”を嘗て私より沈下させられた後輩だった。しかも”私と同じ言葉”を吐いて^^;。
私の”殺意の炎”はその時消えうせ以降ずっと後輩とは”無二の親友”である。

私のサングラスに葉巻に香水を付けてという出で立ち、ブラックを好み、異なる国の二つの血を持つ人を”ダブル”と言う癖は全て彼から受け継ぎし物である。彼から貰った彼が書いた言葉の色紙は今も大事に保管されている。あれから既に20年近い歳月が経過している。

今、私が同胞に”真剣”になれるのはあの時の彼の”真剣さ”を見せて貰えたからだと思っている。
そしてあの時、彼に見せた”真剣さ”が今の私を作っているのだと思っている。

”真剣”な思いは必ず”人の心を動かす”、私はそれを身を以て体験しそして相手にも与えてきた。
これからも私は”真剣”に同胞と向き合い、”心の病”を克服していきたいと願っている。

2011年4月20日水曜日

自粛の心理学~或いは常態行動の裏に潜む恐怖の心理学~

震災から一ヶ月経過しそろそろ”自粛ムード”も段々と色褪せさせて行っている様に思える。

正直今の状態を一番安堵してみているのは我々心理職の人間ではないかと思う。
それは何故か?余りにも”自粛ムード”が続くと経済停滞が起こり日本経済が立ち行かなくなる状態にまで陥る危険性を秘めているからである。

まさか?と思われるかもしれないがこれは嘘でも誇張でもなく事実である。

人は”我慢の状態”が長く続くとそれを”常態”つまり”当たり前の事”として受容してしまう傾向にある。
判りやすい例を出すと”DVを受けた子が親となりDVを繰り返す”という定説(実はこれは嘘)がその範疇に有る。
これも”永きに渡る我慢を心が容認してしまう事による悲劇の連鎖”であり”否認”し続けた者はその後DVは起こさない。
人は快楽には幾らでも耐えられるが”苦痛”には余り耐性が無い、それは人間が”恒温動物”である事に起因している。
” 変温動物”の場合周りの環境に自らの”体”が順応出来るが”恒温動物”の場合周りの環境に自分を合わせる事は困難でありそれ故にそれらの環境から”身を守 る術”を身に付けてきた。”身を守る術”を身に付けるという事は即ち”耐性”が”身を守らなくてもよい物よりも弱い”という事を指し示している。そしてこ の”恒温動物”であるという事が”精神”にも大きく影響をしている。又、特に日本人は”我慢を尊ぶ人種”であるがそれは日本が四季に溢れ、”我慢する事” が諸外国と比べ少ないから。例えば南米や北極圏に住む方々の”我慢”と我々日本人の”我慢”は”我慢の歴史”が桁違いである。

灼 熱地獄と極寒地獄の中で生まれてから死ぬまで暮らさねばならぬのである、その”我慢強さ”たるは日本人の比では到底無い。先に述べた通り”恒温動物”であ り周りの温度に自らの体を合わせれない生物であるが故その苦痛は想像を絶する物が有る。故に日本人は諸外国から”我慢強い種族”と思われているが実は諸外 国人の方が遥かに我慢強いのである。閑話休題”自粛ムード”が長く続くとそれらが”常態”となり、”購買欲求”が失せ、”自粛を尊ぶ事こそが正義”と言う 風になる。
そうなると”商品が売れない””商品が売れ残る””値下げをする”デフレスパイラルが起きる”の悪循環となる。

又、 目の前(というかTVの映像で)被災地に住まわれている人の”我慢”を見続けると”自分も我慢しないと申し訳が無い”という感情に人は捉われてしまう。こ れは”同調行動”がなせる業である。それも更に経済停滞の原因となる。”痛みを共有する事”と”自粛する事”は同じではない。
”必要以上の 自粛ムードは震災に遭われた被災者方々にも間接的な打撃を与える”という事を是非御理解願いたい。物が売れなくなり物が余り値下げをしデフレスパイラルと なれば当然雇用状況も悪化し被災者方々の雇用状況にも影響は大きく出る。その時”被災者優遇措置”を取れば又、そこで被災者と非被災者間でいざこざが起こ る。そうなれば世界に日本が誇る”団結心”も失われ”日本が世界を牽引する”という役割も果たせなくなる。
どうか”必要以上の自粛”はくれ ぐれも避けて欲しいと願います。人間楽しい方がいいじゃないですか、私も楽しい方がいいですよ。それは被災地に居られる方々も同じ思いの筈、皆が楽しいと 思える状況を作っていきましょうよ^^V私はこれからも”ハッピー”を届ける人でありたいと願っています、それが心理職の使命と心得ています。

『嫉妬の心理学』~或いは生物心理学から見る生存本能の心理学~

『嫉妬』の根源的原因は人の『認知欲求』が成せる技である事は既述だが実はその中に生物の『生存本能』が無意識に働いている事を唱える者は意外と少ない。

『認知欲求』の裏側にあるのは生物学的な『生存本能』である。
相手が自分より優位に立てばその分自分の身の危険が増える。
それを回避する為に生物学的に働く心の動きが『嫉妬』である。

同じ事がフェロモンにもいえる、鋭い牙も固い鱗も持たぬ『ヒト』が自らの身を守る為には相手を『魅了』し攻撃不能にする以外方法は無い。

故に『ヒト』は危機的状況に陥ると本能的に『フェロモン』が増大し自らの身を守るように出来ている。

今回の震災に於ける風評被害等の二次被害の根源はこのヒトの『生存本能』が成せる業である。

その『生存本能』を満たすことが出来れば『二次被害』は収束の方向へ向かうであろう。

マスコミ各社にはこれ以上の二次的被害を出さぬ為『非被災地方々の身の安全』を広く訴える必要が有るように思われる。

人々の中にある『見えざる不安』が消えれば自然と『風評被害』はなくなり『二次的被害』も防げると考える。

又、政府にはこれ以上国民に『不必要な不安』を与えぬよう情報開示を求める物である。人々の不安の根源の一つは政府による『情報統制』と『情報隠匿』である。
”まだ何か隠している”という”見えざる不安”が”風評被害”をより増長させている事を政府は認識すべきであろう。

”想定外”の心理学~或いは”想定外”は”想定内”の心理学~

”想定外”なんて言葉は本来存在しません。

だって人間は”想定外”の事は”想定”出来ないように脳ができているのですから。
”想定外”と言える事は全て”想定範囲内”の出来事です。

それが”想定外”なのは単なる”想像力の欠如”であり頭が固い証です。
それが真実である事は図らずも今回の地震と原発事故が証明。

されどそこに日本人が気づくために払った代償はあまりにも大きすぎました。

今回の政府の対応に就いて海外メディアがこぞって”対応の甘さ”を批難しているのがその唯一の証拠です。

又、その”想像力の欠如”の原因の一つは日本が”単一民族国家”である事に由来しています。多民族国家の場
合何時他民族が攻めてくるかもしれないという”目の前に”危機がありますが単一民族国家の場合そういう他民族が攻めてくるというような”目の前に危機”はありません。その”危機感の感じ取り方”が今回の大きな要因の一つであると私は考えています。

又、”未知なるエネルギー資源に対する認識の甘さ”も今回の原因の一つです。
まだ日本人が手にするには原子力は余りにも知識や認識が無さ過ぎます。

もう少し知識や経験を海外で積んでから使用するべきであったと私は考えます。
TVなどで専門家が素人に”わかりにくい説明”しかできないのがその一番の証拠。
”理解”していれば”わかりやすい説明”は出来る筈ですからね。

瀬木の兵法の心理学~或いは己を知り己を深く理解すれば万戦危うからずの心理学~

『敵を知り己を知れば百戦危うからず』は名兵法家孫子の弁。
『己を知り己を深く理解すれば万戦危うからず』はヘボ心理学者瀬木の弁。

『敵を知る事』はあらゆる意味に於いてとても大事な事です、それは間違い無い。
されどその『敵』は毎回変わり変わる度に又、『情報収集』が必要となります。

長期戦に於いてはそれでも良いですが短期決戦の場合そのような余裕が有るかどうか…

それよりも先ずは『己を知る』という事。

案外『相手を知る』という事に人は終始し『己』と言う存在を軽視しがちです。

されど大事な事は先ず『自分を深く多角的に知る事』どのような場面においても『揺るがぬ自分』である事。

あらゆる戦いに於いて対人に対する自分の対処の仕方のデータを集める事で仮想敵対策も又出来ると考えます。

更に『己を知る』と言う事は『人を知る』と言う事となり結果『相手を知る』事にも繋がります。自分を深く知
る事で『相手を深く知る』事にも又修練が行き届くようになります。

『相手を知るには先ず自分を知る事』
それが大事なように私には思えます。

2011年4月14日木曜日

非可逆性の心理学~或いは『出来ない』は『出来る』の心理学~

我が元へ来られる多くの方々は最初『出来ない』と思って我が門を叩かれる方がとても多い。
自分自身で『出来ない』と思ってこられている方も居るし、周りから『出来ない』 とレッテリングされ来られる方も居る。

されど皆さん我が元を去る頃には『出来る』人となって威風堂々と門を去っていかれる 。
これは一体如何なる物なのか? 人が『出来ない』と思うメカニズムを紐解けばその答えはおのずと出てくる。

『出来ない』と一口に言ってもその理由は様々である。
”出来ないと決め付けて最初から手を付けないタイプ”
”人からできる筈がないと言わ れ出来ないと思い込んでいるタイプ”
”一度試したけれど失敗しそれ以降出来ないと思っているタイプ”
”自己否定型で何を やっても失敗するが故思うタイプ”等

されど、”表”があれば”裏”がある、”出来ない”が有れば当然”出来る”も又存在 している物である。
だが多くの方は”出来ない”事へは目を向けるが”出来る事”には余り目を向けようと はなさらない。
何故ならそれらは”出来て当たり前”だからである、なればその着想を逆転させ”出来 なくて当たり前”としてみたら?

最初から”出来る”と思って出来なければ人は落ち込むが”出来ない”と思って失敗してもさして落ち込みはしない。

ましてそれが”出来て”しまえば”あれ?できるじゃん”って事になり”出来ない”から”出来る”へ変換する事が出来る。

又、明確に”出来ない”事が判っているならその反対をやれば”出来る”人になる可能性は充分に秘めている。

更 に言えば”出来る脳”にする事で”出来る可能性”は無限に広げる事が出来る。

毎日”出来て当たり前”の事を只、繰り返す、その事で脳は”出来ない脳”から”出来る脳”へと思考が作り変えられる。

更に言えば”出来る事”から順番にこなしていくのも同じ効果が有り”得意分野”から攻めて行き” 出来る脳"を作り上げて行く、その事が苦手意識を軽減させ苦手分野にぶつかっても自らの力で克服出来る人となる。

そうやって私は多くの『出来ない』を『出来る』に変えて来た。
『出来ない』は『出来る』のサインで有る。その事を覚えておいて欲しい。

2011年4月12日火曜日

『陰口の心理学~或いは可視不可視の心理学~』

 『秘密の心理学』でも触れたが陰口という奴も割と表にでやすい。

阪神淡路大震災時メンタルケアのボランティアスタッフとして参加した私は同じ心理学を教えるK氏と出会った。

豪放磊落を絵に描いた様な方で歯に衣を着せぬ豪快な方で有った。
心理学者というより寧ろ近所のおっちゃん的な感じで親しみやすく被災者との距離も恐らく一番近かったと思っている。

ボランティアスタッフとしての仕事が終わってもずっと被災者との交流を持ち今も又今回の被災地へ 足を運ばれて居られる筈である。

『歯に衣着せぬ性格』は裏表が無い変わりに『言葉を選ばない』という短所も有り見方も敵もとても多い方であった。
当時はG 党の一党独裁政権でありそれに対する痛烈な彼の批判はG党支持派からは随分と疎んじられていた。
そんな彼が或るソーシャルネット上で吊し上 げに有っているとの報が届いたのは丁度M党が政権を取る少し前の事。

生憎彼はG党でもM党でもない第三党支持派でありG党派閥からもM党派閥からも疎んじ られていた。
阪神淡路大震災時の当時のG党の批判をネットに挙げたのが原因でG党支持派から槍玉に挙げられた。

しかも事もあろうに敵方は 正々堂々と表で書いている彼に対して裏に潜り痛烈に彼を批判し始めた。
首謀者は”自称外国人女性”又その色香に惑わされし者数名がそれに呼応した。
方々は 氏が”個人に宛てた”メールを裏で”公開”し痛烈に批判、内々で色々と画策をしていたとの事。
だが彼らはその会のメンバーの中に”彼の支持者”が数名潜り 込んで居る事を知らなかった。
しかも表立っては”不仲”を装い意見の対立をし、会で痛烈批判をしていたのだから誰も疑う余地はなかった。

だがそれこそ氏の 狙いであり奴らの浅知恵が成せる業であった、彼らは完全に”間者”を信頼し極秘情報を漏洩した。”間者”はその情報を全て氏へ渡し、氏は着々と”反撃”の 機会を伺っていた。

彼らがやった行いは”個人情報保護法違反””侮辱罪””人権侵害罪”及び”偽証罪”であった。

会の中で氏が交流を絶たないでくれと首謀者の女性へ懇願したというがそのような事実は全く無い。
彼らは法的措置にて氏を糾弾しようとしたが逆に氏の計略により形勢は逆転、立場は逆となった。

恐 らくそうでないとしても氏の助力者は五万と居り氏の無実は証明されるに至り氏を貶めた者には天罰が下った筈。

”天は自ら助く者を助く”という、氏も又、自 らを助く者の一人であったと私は確信している。
”天に吐いた唾は何れ自らの顔に掛かる”という事を彼をハメた方々は身を以て体験された筈である。

”陰口” を叩く者はその”陰口”に正当なる理由が無いが故、”陰”で”悪口”を囁かざるを得ない。
正当なる理由があるならば”陰口”を叩かず表で正々堂々と論争に て論破できる筈である。

私も氏の威風堂々とした振る舞いを見習い氏の様な”正しき人”でありたいと願う。
(まぁそういえるようになるまでにはまだ相当時間が掛かるようだが^^;)。

2011年4月11日月曜日

『傾聴の心理学~或いは藤本食品株式会社 製造部長張本おさむ氏に見る傾聴の極意の心理学~』

去る4/9新神戸で藤本食品株式会社製造部長の張本おさむ氏と酒を酌み交わす幸運に恵まれた。
片道2時間往復4時間という距離を物ともせず和歌山からお越し戴けた事は感涙の極み。

FB のお写真で拝見する氏はとてもシャイで線が細く気弱な印象を受けた、だが、実際にお会いする氏はそれとは真逆w
豪放磊落でとても骨太で芯が強く”己”という物をとてもしっかりと大事に持たれている方であった(されどシャイだが^^;)
今までFBでは数名お会いしているがその中でも”川村マイメンター””関口社長”そして”張本製造部長”は”傾聴のプロ”と呼ぶに相応しいお三方である。
そして”人の上に立ち指導するに相応しい人格”を備えた方々である。

題名にも有る通りおさむ氏は”傾聴の極意”を身に付けた方であられた。

確かに”コーチング資格”はお持ちではあったが”コーチング有資格者”である事と”聞くことの極意を極めた方”は又別物。

先ずは”聞く”それも”単に聞く” だけでなく”相手の一言一句をちゃんと心に留め次の自らの発言の際それを上手く引用しそして相手への自らの言の理解度を増加させる”という技は言葉にすれば簡単だが実際遣ってみるとそれが如何に難しいかはやられてみた事がある方ならば皆お解り戴ける事であろう。

これは中々にして至難の業、こ れを会得されておられる方は私はFBでは上記御三方しかまだ見た事が無い。

そしてこれも又面白い話だが”傾聴のプロ”と称される御三方だがその”傾聴の仕方”はその人それぞれの個性がある。

マイメンター川村氏は相手の話に耳を傾けつつ持論を展開し結果自らのワールドへ引き込むタイプ
関口社長も又相手の話に耳 を傾けつつ相手の興味関心がありそうなネタを見つけそこから持論を展開されるタイプ。
張本氏は兎に角相手の話をしっかりと聞き、相手の話が出尽くした所で 持論を徐々に展開されていくタイプ。

途中、ジョークを交え場を和ませ場の緊張を解き又、真面目な話に持っていく妙は流石”傾聴のプロ”と言う所。

”心の緊張と弛緩”が繰り返される事により常、心は”新鮮な知の喜び”をずっと味わって居る事が出来る。
”もっともっと話を聞きたい”という欲求を奮い立たせどんどん氏の魅力の底なし沼にハマりついに陥落してしまう(笑)

氏はおもてにならないと謙遜されておられたがそれは絶対に嘘。
氏も上記お二方に負けずと劣らぬ”モテ男”は必至。

”話が面白く人の話をしっかりと聞きちゃんとアドバイスも与えてくれる”そんな人がモテナイ筈がない。
しかも今回はお土産を頂戴し酒代までしっかり持っていただけた、此処まで”男気”が有る方がモテナイは嘘ですw

されどマイメンター川村氏、関口社長、そして張本氏も又、”様々な経験” を積まれた結果得た”スキル”だと実感。

机上の空論ではなく”実体験が齎すスキル”程、”身につくスキル”は多分この世には存在しないと氏を見て実感。

あくまで紳士的にされど自らの”意思”をちゃんと持ち、”自らの信じる正しさ”をとことん追求する氏は”男の中の男”。

日本男児此処に在り!大和魂は費えず という事を氏で以て痛感した次第にございます。

私の人生を大きく変えてくれるこの御三方の”傾聴の極意”をこれからも私は色々学ばせて頂きたいと願っている。

最後になりましたが”紀州梅”最高においしゅうございました<(_ _)>謹んでお礼を申し上げます。

2011年4月8日金曜日

復興が齎す新たな悲しみの心理学~或いは常態行動における心理学

義捐金や支援物資及び補給経路の確保や被災者の受け入れ先、再就職先斡旋等被災者方々への物質的支援は今も尚継続中。

被災者方々も支援者に負けじと頑張っておられる御様子。
されどこれからが正念場。

街が段々復興して行き元の状態に戻りつつなると今度は亡くなられた方への思慕の思いが強くなる。

我が提唱せし『常態行動心理学』によれば今までの日常生活において”視界に入るモノ”が急に消えると脳はそれをうまく修正しきれず誤動作を起こす。

お身内を病気や事故や事件で一瞬にして失われた方が急に引き篭もったり体調を崩され後を追うように亡くなられる一番の原因がこの”常態行動に於ける視界情報の変化”にあるという事は意外と心理学学会でも意外と知名度は低い。

それを防ぐ為には元からその存在が無かった場所の風景を多く見せそれを常態化させる事。
つまり”喪失感”を軽減させてあげる事が一番の防止策となる。

今は”生きる事”に終始しておられる為、幸か不幸かそういう物に目が行かないで済むが阪神淡路大震災時でも数年経ってから自殺したりお心をやまれたりというケースが急増した。

メンタリストはそういう部分のケアもしっかりとせねばならないと思っている。

『ソーシャルポジションの心理学~或いは被災者は社会的弱者ではないの心理学』

 ソー シャルポジションは可変的且つ流動的で影響範囲は意外と狭い。

阪神淡路大震災時或るボランティアスタッフが目上の被災者にぞんざいな物言いをしている場面に遭遇しそのスタッフを束ねる方に彼の言動は法的罰則範囲内で ある事を進言。

流石、長は話が解る方で直ぐ彼を呼び被災者にお詫びを言う様指示、 されど讒言を賜りし本人は詫びる所か逆ギレし被災者に噛み付いた。
長は即座に彼をボランティアスタッフから除名した。
彼は悪態を付き即座にその場を後に(その後彼は法的罰則を受けた)

被災者は『自然災害被害者』であり『社会的弱者』に非ず。

自然災害により家屋を乃至はお身内を失い酷く御心を痛めて居られるその上に更に『社会的弱者』としての侮蔑を受ける事は絶対に有ってはならない。

殆どのボランティアスタッフは御心正しき方なれどボランティアスタッフと言えど『人の子』玉石混 交で玉も有れば石ころもいる。
不運だったでは決して済まされない事である。

閑話休題

我々ハンディーキャッパーも時として同じ場面に遭遇する。
ハンディーキャッパーも又『社会的弱者』に非ず、『人』である。

身体欠損者と言う以外何ら変わる所無く蔑みを受ける謂れも無い。
人と同等或いはそれ以上の才と努力により日々を真剣に生きている。

身体欠損者と言うだけで侮蔑や差別発言を受ける言われも無くそう言う輩には法的制裁か鉄拳制裁が待っている事となる(笑)

解りやすく言えばムショ行きか病院送りかw
我の逆鱗に触れし愚人の何名かはそう言う結果を自ら招いている。

『人』である、それ以上でもそれ以下でも無い。 上でも無く下でも無い、真ん中である。
そういう『見た目』で人を侮蔑或いは差別しその結果御心を病まれた方の奪われしプライドと人権を 取り戻し危害を加えし者に鉄拳乃至は社会的制裁を加えるのも又我々の仕事である。

閑話休題

だが稀に逆パターンもある(^_^;)
自らの立場を悪用し傍若無人なる振る舞いをする輩も又。

阪神淡路大震災時メンタリストとして参加せし時、 我は被災者なりと大見得切ってやりたい放題の方が居た。
当然ボランティアスタッフは愚か被災者からも総スカンを食らい結果その場を自ら追われる事となっ た。

対人関係というのはフェアである事が基本。
あらゆる意味に於いてそれを忘れぬ様にしたいものである。

2011年4月5日火曜日

秘密の心理学~或いは自己顕示欲求の認知心理学~

『秘密』という言葉程甘美で危険な響きの言葉は他には無いんじゃないだろうかと思う程『秘密』という言葉は他の言葉にはない独特の響きがある。

職業柄私は多くの方々より『先生にだけお話するんですがね』という話を沢山頂戴する。

我が地元駅である新山口駅に於いて私は『駅学者(易学者に掛けている)』という余り有難くない異名を頂戴している(笑)
それは”物知り”と言う意味ではなく”駅の内情に精通している”という意味であり多くの駅員さんが”此処だけの話なんですがね”と私に話を持ち掛けてくる事に有る^^;。

人は”秘密”を持つとそれを誰かに話したくて話したくて堪らなくなるされど下手な人に話して情報が漏洩すると人間関係がギクシャクし或いは崩壊する怖れも有る為、”この人なら話しても情報漏えいしない”という人に話す。

話される方はそれでスッキリするだろうがそれを言えぬ身は悶々と身悶えするばかりである(笑)
しかも日毎その内容は増えその内容は濃くなっていくので身悶えはさらに続く^^;;。

閑話休題

所謂『秘密結社』とか『地下の秘密組織』とか『クローズドサイト』等の情報が外に漏洩するのは何故だろう?大抵の場合『秘密』とされている物は其の情報の幾つかは必ず漏洩している物である。

それは題名にも有る通り”自己顕示欲求”がその原因(元凶?)の元となっている。
”秘密”を持てるのは”選ばれた人”のみでありそれ以外の人は”知りえない情報”である。

当然その他者が”知りえない情報”には”価値”が有りその”価値有る情報を持つ自分”という者も又、”価値有る人”という風になる。

そしてその”価値有る自分”という物を人に知らしめ自慢し”自分は凄い人だ”という事を認めて欲しい。それ故に人は”秘密”を持つとそれを保持するだけでは満足できなくなり遂に”公開”してしまうという訳なのである。

しかもこれも大変面白いデーターがあるのだがその会の下っ端ではなく”中枢以上”に居る人物にその傾向は強い。

一番嘗て見た中で面白かったのは其の会の”リーダー自身”が情報を漏洩しているケースであった(意味ないじゃん)当然他の仲間は”まさかリーダーが情報を漏洩する筈が無い”と思い込む、その”思い込み”を利用した訳だ。

結果リーダーの情報漏えい自体がバレ会は解散(当然^^;)という事となったと風邪の噂に聞いたのだが。

又、必要以上に”隠しすぎる”とそれが余計”目立ってしまい”情報が漏洩してしまうケースも有る。
嘗て、”厳重に厳重を重ねた情報”が漏洩した事件が有りお上から呼び出され事件解決の糸口を探せと依頼された。
(所謂プロファイリングという奴である、偶々お上に大学の後輩が居てそいつが上に私の事を喋ったのが原因^^;)

情報漏えいの手口から見て明らかに”身内”の犯罪は間違いなかったが当然の事ながら上は”外部からの侵入である痕跡が欲しい”と言ってきた^^;。
しょうが ないので”外部から進入し情報を入手し漏洩した”という結論を出した。(されどそれを手引きした人間が内部に居るという事実だけは決して譲らなかったが ^^;)。

結果事件は内部処理されそれが表ざたになる事は無かったのだが(笑)

”秘密”と言う奴はその特性上必ず”暴露”されるという宿命を帯びている、絶対に”漏れない秘密“等は存在しない。
(もしあるとするならばそれは”秘密”自体に”秘密”にするだけの価値が無いだけの話である^^;)。

”秘密、秘密”と騒いでいるが案外貴方が持っている”秘密”も誰かが漏らしているかも知れませんよ?
或いは貴方自身の行動によってそれが”漏洩”しているかもしれません、ご用心ご用心^^V

2011年4月4日月曜日

無知の心理学~或いは無知が知識人に勝つ為の心理学~

今回の震災で我々が得た事の一つ~それは原発に対する無知さであった。
単位や放射能の影響度など殆ど『無知』に等しくニュースを見る度にふむふむと頷いていた。

だがそれは裏を返せば政府が『原発情報』を敢えて国民に流さなかった結果であるとも言える。
原発地域に住む住人すら初めて聞く話ばかりだというのだから一体お上は何をされておられるのか?

”大丈夫”と連呼する前にその根拠を原発地域住民に判りやすく説明し理解を求めるべきではなかったのか?
”大丈夫”と連呼した結果、全く”大丈夫”ではなかった現実を当時の内閣首脳陣はどう説明なさるのか?(まぁ既に退陣なされている方も居るのでそのままでしょうけれど)。

お年を召した方の中にはどうしても『原子力発電=原子力爆弾』と言う風に結びつく方も居られる。
特に広島・長崎の被爆経験者乃至はお身内に居られた方などはそういう意識が拠り強いように思われる。まぁ辛いご経験をされたのだからそういう風に頭が飛躍されたとしてもやむをえない所も或る。だが根拠の無い不安は更なる不安を増大させそれがお心を支配すると冷静な判断力を失わせる事となる。

そうなると助かる命も助からず自らが命を縮める結果ともなりかねない、其れを回避する為にはちゃんとした正しい知識を頭に入れる事。そして”納得”をして冷静になる事。其れが一番大切である。

閑話休題

過日或る居酒屋で二人の男性の会話を聞いていた、それを聞いていた時思わず噴出してしまった。
一人は原子力発電の専門家(自称)、今一人は全く其の手には携わっていない素人である。

原子力発電の専門家(自称)は偉そうに専門用語やら知識やらをひけらかし回りの女性の注目を浴びていた。
得意満面の絶頂期、今一人の素人がぽつりとこういった『けどさ、なら○○はどうなるの?』と。

すると今まで得意満面に鼻高々だった彼の顔が急に青ざめ目を白黒とさせ急に落ち着きがなくなった。その狼狽振りは素人目にも明らかで回りも彼の動揺が伝わってきていた。

素人が言った”○○”は実は最近の研究で明らかにされた物で原子力発電の専門家(自称)の知識には無い物だった。
だが此処まで知識をひけらかせておいて今更”知りません”とはとても言えない(言いたくない)ので何とか誤魔化そうとしたがこの素人は根が真面目と来た物だから相手の”嘘”や”ごまかし”を一つ一つ潰していった(笑)
(しかもそれは意地悪ではなく彼の根っからの性分なので仕方のない事でもある^^;)。

だが、原子力発電の専門家(自称)はそれにより酷くプライドを傷つけられた。
挙げ句の果ては”素人が知った風な口を聞いてんじゃないよ!”と逆切れしさっさと飲み会を後にしてしまった。

素人の彼は訳が判らない様子だったが日頃から”原子力発電の専門家(自称)”の事を鼻持ちなら無い奴だと思っていた連中は大喜び。その後は大いに会が盛り上がった事を私はちゃんと見ていた^^;。

以上のような事は一体何を意味するのだろうか?
此処で登場するのが『兎と亀』のお話である。

言わずと知れた事だが原子力発電の専門家(自称)は勿論兎、そして素人は亀である。

兎さんは自らが”知識人”だと思っているのでそれ以上の情報を仕入れる事をせずここぞとばかり知識をひけらかす。
一方亀さんは今回の事で如何に自分が無知であったかを痛感し一生懸命勉強をしたその結果最新の知識を得た。

さて、ゴール付近となりうさぎさんは油断をしその隙に(でもないが)亀さんは一気にダッシュ。
慌てた兎さんは足元の石に気づかずすってんころりとコケ其の間にカメさんゴールというのが今回のお話の顛末。

往生際が悪い兎さんは亀さんがズルをしたと主張するも衆人環視の元ではそんなごまかしなど通用する筈も無い。
寧ろ自らの負けを認めず往生際の悪さに今までの兎さんのイメージは急落、一気にその人気を落とす事となる。

『奢れる平家は久しからず』という言葉がある、奢れる者はその自らの奢りにより自らの足元を救われ失脚する。
無知者は自らが無知である事を知っているが故精進する事を忘れずその結果『奢れる者』を凌駕する事となる。

正にソクラテスの『無知の知』である、無知である事を知って奮闘努力をする者は其れを知らぬ者より偉いという話。
知識が身をたすく事は今回の震災で皆が学んだ事だろうされどそれも『奢り』があっては決して活かされぬ物である。

自らが幾ら知識や経験を有していようが決して奢らず高見を目指し精進を怠らない、それこそが真の『賢者』である。
現政権には是非自らが『賢者』ではなく『無知者』であるという意識で事にあたってほしいと願わずには居られない。

2011年4月3日日曜日

『真実』の心理学~或いは真実の多面性の心理学~

今回の震災で一つの『真実』が脆くも崩れたーそう、原発の『安全性』という真実が。

平常時ー国が訴える原発が『安全』であるという事は間違いなく『真実』であったに違いない。
異常時ーされど今回の震災で原発が『安全』であるという神話は崩れ『危険』であるという認識が広く国民に広がった。

今回の震災に於ける原発事故を受けて山口県知事は上関原発着手にストップをかけた、県民を思えば当然の措置。

他にも例を挙げれば幾らでも有る。

戦争時ー敵国の兵士を殺傷する事は正義でありそれは『真実』であった。
現在時ーどのような理由付けをしても人を殺める事は『真実』とはならず法の元に裁かれる。

更に有る人が『あの人はとても良い人』という事と別の人が『あの人はとても悪い人』という事、
これらは全く別の解釈となるが何れもそれは『真実』である。

有る人にとっては利益を与える人でありそれは『良い人』という解釈となるが、有る人にとっては不利益を与える人となる事も有りそれは『悪い人』と言う解釈になる。
又どちらも無い人にとっては『良くも悪くも無い人』と言う解釈もある。

『真実は一つ』既に使い古された言葉であるがこの言葉が間違いで有る事が上記の事で既にお解り戴けたであろう。

時代により状況により人により『真実』は幾つも存在する、普遍的な『真実』と言う物は恐らくこの世には存在しない。

閑話休題

されど多くの人がその『真実の多面性』と言う部分に気づけず『真実は一つ』と思い込んでしまう(摺込まれている)。
故に違う『真実』を突きつけられた時多くの人は『裏切られた』と落胆し其の直後からその人の印象は180℃変化する

同胞がよく私に言う言葉、『私の本当の姿を先生は知らないから、私の本当の姿を知ったらきっと嫌いになります』と。
されどその後その人が言う『真実の私』と言う物を見せられた時、私は微動だにせず何時もと全く態度が変わらない。
寧ろ其の変化を『素晴らしい』とし賞賛し受け入れる、すると同胞は今までと違った反応を得てとても驚き戸惑う。

されど其処で初めて『受け入れられた喜び』を知り『真実の姿を見せても変わらない人が居る』事を知る。
其れがその人の”自信”に繋がりお心を患う人のお心が徐々に回復に向かっていくのである。

私は人の『多面性』を日々追求しそれを研究している、故にどんな『違う自分』を見せられたとしても全く驚きはしない。
寧ろ『新たな一面』を見れる事はこの上ない喜びであり得をした気分になる(同胞には”物好き”と揶揄されるが(笑))

私はどんな”一面”を見せられてもその人のそれが”一部”だと知っているので好意的に取れど否定的には取らない。
その事が”自分を出しても大丈夫”となり自らの多面性に気づいていくのである。

”常態性行動”此処でも何度も出ているので既にこの言葉はご記憶戴けた事と思う。
実は”真実”という物もこの”常態性行動”が大きく関係している。

常、日常的に行われている行為が”真実”となる為、イレギュラーが発生した際それを”真実”とは受け取れず”異常”な物として排除していしまう心の動きが有る。それを認めてしまう事によりお心が乱れる事を心自体が防衛する為。

されどこの”常態性行動”という物も先に述べた”色々な物を見る”事によりその”幅”を広げる事が出来るようになる。
その結果”非日常的場面”に出くわしても心が”異常反応”を示さなくなる、その事が実はとても大事な事なのである。

”危機的状況”に陥ってもそれを”異常”とせず”常態”とする事が出来れば充分”思考”は働き危機回避が可能である。
それは常”危機的状況”という物を”頭の中でイメージング”して体現する事、それにより充分可能な事となる。

今回図らずも日本人全体がこの”危機的状況”という物を否応なしに目の当たりにした為、学習する結果となった。
この経験が次の時代に必ず活かされると思うし活かしていかなければならないと私は思っている。

それが亡くなられた方への一番の供養である事を私は信じて疑わない…。

2011年4月2日土曜日

『殉死の心理学~或いは君死にたもうなかれの心理学~』

数年前、余りに長すぎる闘病生活の末父が亡くなった時、もし母と我が愛方と同胞や生徒方々の支え が無ければ間違いなく私は父の後を殉じて居た。

私が15の年に発病してから20年近く入退院を繰り返 しながらそれでも経営者として家族を従業員を守り続けた父だった。誰が何と言おうが私のとって父は誇りで有り全てであった。

其の父を亡くした喪失感は私が今まで味わった以上の物であり5年以上が過ぎた今も心にぽっかりと空いた穴が完全に埋まる事はない、恐らくこの穴は死ぬまで埋められる事は無いであろう。

阪神淡路大震災時、私は震災でお身内を亡くされた方のメンタルケアへ赴いた。
そして今も又、今回の震災で被災された方のお身内のメンタルケアへ東奔西走している。

俄に信じがたい話だが阪神淡路大震災でお身内をなくされた喪失感から自死をしようと試みる方は未だ後を絶たず。

今私が赴いているのは今回の震災でお身内をなくされ或いは未だ行方不明の方だけでなく阪神淡路大震災時の方も居られる。

先日も後一歩到着が遅れれば自死に至っていたであろう方が居た、必至の説得で何とか思いとどまって戴けたが。故に今も24h体制で臨み殆ど不眠不休の状態が続いている。

それほどまでに”身内の死”という物は時間を超越したものであるのだという事を我が身を以て痛感した次第。
私自身もし愛方の支え無くば父に殉じていたかも知れぬ、それほどまでに人の死(特に身内の死)は人の精神を狂わせる物なのである。

以前此処で『常態性行動』についてはお話させて戴いた事と思う。
実はこの”お身内をなくされた方の自死行動”にも『常態性行動』が大きく関与している。

人間が五感で尤も影響を受けるのは視覚情報である、故に今回の震災で震災地域外の方のメンタルが危ぶまれているのは連日連夜TVなどで放送される悲惨な状況を”目”でもしくは”耳”で受け取るからである。

普段見慣れている物とは違う風景に出会った時、人の心は大きく揺さぶられる。
それが時に感動を呼ぶ時もあれば深い悲しみを生む場合もある。

普段の生活の中で見慣れた風景の中に居る人物(お身内)が居ない事は脳に誤動作を与えるきっかけとなる。

その誤動作がお心の不安定さを増し、その不安からの逃避行動として自死という選択をされる方が居られるのだ。

不安解消の為に自死しその不安を解消しお身内の元へ参りたいと言う欲求が生まれたとしてもそれは不思議な事ではない。されどそれは又新たな別の悲しみを得る事となり非生産的行動である。

それらの方々のメンタルケアをする場合どうするか?それは”常態性行動”の特性を逆利用する遣り方が有る。

なるべく亡くなられた方が居ない場所(一緒に行った事が無い場所)へお連れする事、それが回避策の一つである。

普段見慣れた風景(亡くなられた方が居る風景)に見慣れない物が有ると脳が誤動作を起こす事は前述の通り。
なれば普段見慣れない風景の中に身を置けばそれが新たな”常態性行動”を生み能の誤動作は起こさずに済む。

お身内をなくされた方がその思い出の土地を離れる事は断腸の思いである事は容易に想像に難くない。
されどそのままずっと悲しみを背負いながら生きていく事を亡くなられた方はお望みで有るかをお考え戴きたい。

もしご自分が天に召された側だとして地上でずっと自分の為に悲しみに日々暮れる方を見る事は忍びない筈である。
なればそれを今御自身がやられていて亡くなられたお身内の成仏及び転生の阻害をしている事が正しくない事も判る筈である。

誰しもお身内を失う事は悲しい、されどその悲しみを越えた先に又新たな出会いも待っている事も事実である。

父の死後実に多くの方と出会い其の中には父と瓜二つの方も居た、きっと父とのめぐり合わせのような心持である。

そのような素敵な出会いも運命には用意されている、その運命を『引き寄せる』為に御遺族には強く生きて欲しい。
其のお手伝いの為ならばどんな苦労も厭いませんしどんな苦難にも立ち向かって参りましょう。

私は常、貴方のお心の一番近くにいます、それだけは覚えて置いてくださいね。

2011年3月31日木曜日

危機管理の心理学~或いは想定外は想定内の心理学~

いよいよ原発の廃炉が決定し元通りにするには年単位の時間を要する事を遂に政府が認め公式発表に踏み切った。
それでも尚、”自らの罪”は認めようとせず他者へその”罪”をなすりつけようとする往生際の悪さは流石”寄せ集め党”。
現政府は恐らくG党時代の”遺産”である事を強調なさるだろうが執行部の殆どが”元・G党”である事実はどうなさるか?
今回の原発に関しては建設当初から住民の反対を”安全”という言葉で半ば強引に押し切って建てられた物である。
”今まで何の事故も無く天災による”想定外”の出来事なのだから政府に責任は無い”とは言わせない。
”事故”が起きないのは”当たり前”天災等の”想定外”の事態にも充分対応できる措置を取るべきであった。

今回の政府の公式発表に於いて”想定外”と言う言葉が頻繁に登場し恐らく数年前の”想定内”と同じく流行語大賞を取るであろう事は間違いが無いだろう(甚だ不愉快極まりない話では有るのだが)。

だが、果たして本当に”想定外”であったのだろうか?一心理学者としてはとても”想定外”の出来事だとは思えない。
危機管理の甘さ、それが今回の事故の尤も主だった原因であると私は思う。

其の一つの要因が”単一民族国家”であるという事、これが”多民族国家”の場合何時攻めてくるか何時政権交代するかという”危機感”が常、隣り合わせとなり”危機管理意識”は自ずと高まらざるを得ない。

更に”日米地位協定”に見られるように”何か有ったら米が助けてくれる”という認識の甘さがあった事も事実だろう。
又言うまでもない事だが原発を建てる際に発生する”汚れたお金”も又、全くの無関係ではないであろう。

”人の命”と”利潤”を計りに掛け、”利潤”が勝った結果の惨事、そう捉えられたとしても仕方の無い今回の事故。
諸外国の原発に関する事故等を具に精査していれば”危機管理”の甘さはもう少し改善された筈である。

閑話休題

話 は少しずれるが人間の脳は”叶えられない夢”は見れない事になっている、”夢”として出てくる物は”全て実現可能”な物であるという事。勿論時期や様々な 要因が絡んでの事であり100%ではないけれど”絶対に叶えられない夢”は人間は見る事すら叶わないというのは心理学、脳科学では常識的な解釈である。

”空を飛びたい”と夢を見て飛行機が出来、”もっと速く走りたい”と夢を見て自動車や高速列車が誕生した。
今の携帯電話やその他様々な発明品は全てが”夢の実現”である。

つまり裏を返せば”人間が実現可能な物は全て想定内”であるという事である。
”想像力を逞しくしあらゆる可能性やあらゆる危険性を考える事”それにより”想定外”は”想定内”へと充分変わる。

石頭じゃ無理かもしれないが”やわらか頭”で考えれば充分今回の惨事は”回避可能”な物であった筈である。

”歴史は繰り返す”といわれているがなればその”繰り返す歴史”を止める事も又出来る筈である。
何故なら”繰り返されているならば経験的にそれを理解しているから”である。

このような出来事が二度と”繰り返されない”為に、充分”想定内”の事として頭をフル回転させて戴きたい。
失われた命は二度と元には戻らないのだ、その事の”重さ”を是非現内閣には肝に銘じて戴きたいと願う。

2011年3月30日水曜日

指導者の心理学~或いはリフレミングの心理学~

一応私も肩書き上は”指導者”と言う事になっている、だが私自身”指導者”という自覚は殆ど皆無と言って良い(笑)
同胞からも”先生らしくない先生、されど誰よりも先生らしい”という大変有り難いお墨付きを頂戴している(笑)

知人の武芸者の弁”型を守るは達人の倣い、型に頼るは弱者の倣い”だと。

弱い者ほど”型”に頼り”型”に自分を嵌め其処から一歩も出ようとしない、”型”に守られている限り強くはなれないのに…

私は恐らく心理学者としてもセラピストとしてもあらゆる意味で”型破り”であると自認しているし他認されている(笑)そんな自分が好きだし自分を必要とする多くの友が居る事をとても誇りに思う。

そんな私の元には大変面白い事なのだが”指導者”と呼ばれる方々が何故か多く来訪され”教え”を乞いに来られる。

し かも専門範囲内ならまだしも”全くの専門外”の方も我が門を潜られるのだから潜られる側は溜まった物じゃないw

されど専門範囲内だろうが外であろうが”専 門以外”は皆同じ、”人と人との付き合い方”は万国共通というのが持論。

浅学菲才な未熟者なれど私なりにお分かりする事を精一杯彼ら・彼女らにお教えさせて戴いている。

多くは”習った事をそのまま教え導こうとする事”に大抵の場合無理があるのだが其処に中々目が行かない。
”自分が理解出来た事が何故理解出来ないのか?”多くの”指導者”は其処で迷路に嵌る事となる。
されど”理解”とは”理を解する”と書く、つまり”その人の心の有り方方向性を解する事”が理解である。
その”理解”が表面的な物で”理論や言語のみの理解”であったならばそれを第三者へ教え導く事は難しい。
更に言えば”教えられた事”を”自分の言葉や自分の経験に置き換える努力”をしていたか否かが大きな鍵となる。

その言葉、その理論をそのまま字面通り額面通りに受け取る事は誰にでも出来る、されどそれは応用には難しい。
受けた言葉、学んだ理論を”自らの言葉やの理論”に置き換える事、これは至難の業なれど応用には長けている。

我が門を潜る”指導者”の多くはこの”自らの言葉や経験に置き換える”という事を中々されておられない方が多い。
私は私が学んだ全ての事を”自らの経験や言葉”に必ず変換しそして血肉とするよう心がけている。

勿論全ての事がそうなる訳ではない、されど其の場合でもその人の立場になるべく立って自分ならどう行動を取るかとシミュレートしそしてその人の心をトレーシングし理解をするよう努力を怠らない。

故に我が門を潜る多くの”指導者”にこういわれる。”先生は専門外の我が職業の事を私以上に理解されている”とw
それはその人の職業的知識や経験を”自らの職業的知識や経験”に置き換えて理解しているからである。

自らが知らない職業や知識をそのままの”形”で理解しようとすれば当然其処に”無理”が生じる事は自明の理。
なればその”知らない職業や知識”を”知ってる職業や知識”に変換すれば当然”無理”ではなくなる。

手間は掛かるがその一手間が拠り多くの”理解”を生み”指導者”としての昇華に繋がるという事を理解して欲しい。
誰も最初は”素人”である、其処から様々な知識や経験を経て”玄人”となりやがて”指導者”へとなっていく。

自らが嘗て”素人”でありその時自分がどう学びどう吸収して行ったかを思い出せば出来る事ではないだろうか?
”心”を診続けて20年、伏目の年を越え今私が思う事である。

2011年3月29日火曜日

『風林火山』の心理学~或いは思考性に見る心理学~

武田信玄公の『風林火山』は余りにも有名な戦術の一つとして特にビジネスマンの虎の巻的な感じで後世にも伝えられている。

『速き事風の如く、静かなる事林の如く、侵略する事火の如く、動かざる事山の如し』
迅速に行動し、周りをよく観察し、一気に攻めて、相手の出方を見る、確かにビジネスに於いてこれらは必要な事であるだろう。

されど実はこの『風林火山』をメンタリティーの立場から解説した本という物を私は余り見た事がない。
行動論的な書籍は沢山あるのだが何故か精神論的な教則本と言う物を余りお見かけしない。

私は寧ろこの教訓は『心理学的』にこそ重要ではないか?そんな気がしてならない。
以下私の分析する『心理学的風林火山』を述べてみたいと思う。

『風』…何かを決める時は即決で決め、あれこれと悩まない。一度悩み始めると思考の迷路に嵌り抜け出せなくなるからである。
『林』…『風』の章で即決した事を行う為に『流れ』を読む、幾ら即決しても『流れ』に逆行しては成功を収める事は難しい。
『火』…『流れ』を掴んだらこれはもう『流れ』に沿って一気に突き進むしかない、『流れ』は流動的で直ぐに方向を変えるから。
『山』…事を成したら後はそれをじっくりと腰をすえて『見る』事が大切、成した事によりどう戦況が変わるか?しっかりと見る事。

以上が『心理学的風林火山』の解説である。

ビジネス書に書かれている武将の名言や戦術の多くが『行動論』的書かれ方をしている。
それ自体を否定する物ではないが『行動』を起こす前には必ずそれを起こすに至る『心』の動きが働いているという事。

『行動心理学』は元々、人の動きを見て心の動きを見る学問だが私はこれを敢えて逆に見るようにしている。
演繹法ではなく帰納法的見方を敢えて行い、『心』がこういう風に動いたからこういう風な行動に至ったのだという見方をする。

すると『行動心理学』も結構広い見方が出来るようになり解る事、末来予測も出来るようになる。
出来るビジネスマン、出来る上司とはこれらをちゃんと理解できた物であると私は考えている。

何も事はビジネスマンだけに非ず、人が人と関係を維持していく上でもとても重要な物であると私は考えている。
独り善がりの行動は本人は心地よいかも知れぬが回りからしてみればはた迷惑この上ない。

やはり『戦況を見極める』という事はどんな場面においても必要な物であると私は考える。