2010年10月30日土曜日

我が身既に鉄なり、我が心既に空なり、天魔伏滅

『影の軍団』服部半蔵の名台詞で始まりました今回の記事。
しかし今の私の心境を素直に表しますとそうなります。

一部の方は既にご存知ですが私はスピリチュアルな人でもあります。
まぁ平たく言うと”霊能者”というカテゴリに属する人間です。

此処数日、溶けるような暑さの連続で少し”ボケ気味”になっております(笑)
しかしそれを差し引いても此処数日の”ボケ具合”は常軌を逸しております。

そしてそれは我が恋人にも波及しております。
まぁ一部の方にはご理解戴けるかも知れませんが”反対勢力による妨害工作”という物であります。
(我々は”干渉”と呼んでますが…)。

我々は神との契約によりその力を発揮する事が出来ます。
逆を言えば契約していない神からは常、狙われる対象となります。

我々霊能者は現世に於ける神の力の代行者です。
神は我々霊能者を通して現世に様々な”奇跡”を起こします。

そうして神々の領域拡大を常考えておられる訳です。
ですが領域侵犯と申しましょうか他の神々と領域が接すると当然”折衝”が起きる訳です。

そして尖兵たる我々人間がその”折衝”の一番の被害者となる訳です。

数年前に父を亡くし今はその悲しみから這い上がろうと家族が必死になって頑張っています。
父亡き後の家庭を守り父の遺した会社を守り皆が一丸となって頑張っています。

そんな中私がヘバる訳には参りません。

奴らは”心の隙間”を狙ってきます、そこにピンポイントに攻撃を仕掛けてきます。
ですから題名にあるように”心を空”にすれば奴らの攻撃ポイントがなくなります。

奴らは”心の隙間、心の弱い部分”につけ込んで攻撃を仕掛けてきます。
故に”心を空”にすることにより弱い部分を無くし攻撃をかわす事にしました。 

裸の心で…

フリーセラピストという職に就いて20年目。

勿論常、順風満帆であった訳ではない。
最初の頃は随分と苦悩もしたし失敗も挫折も数え切れないほど繰り返してきた。

同胞に裏切られお金を騙し取られ挙句暴力団に追われる羽目になった事もある。
余りに辛くて止めようかと思った事も一度や二度ではない。

それでも今だ私はこの仕事を続けているしこの仕事は天職だと思っている。
世俗に塗れると”美辞麗句”や”甘言”の渦の中に否応なしに人は巻き込まれてしまう。

その中で人は”有頂天”となり”自分を見失い”そして最終的には”挫折”する事になる。
私もそんな挫折を味わった者の一人である。

甘言に騙され高額商品を買わされたり高額な金を支払わされたりなんて事も多々あった。
理不尽な徴収を受けた事もある、結局裁判を起こしたが今だ全て回収には至っていない。

だがそれでも私はこの仕事が好きだしこの仕事を一生続けていこうと思っている。
それは何故か?

私が”裸の心”で”裸の言葉”を吐ける唯一の公の場が此処だからである。
同胞には一切の美辞麗句や甘言は使わない、というかそれを使ってしまったらこの仕事はお仕舞である。

こちらが”裸の心”で”裸の言葉”で相手にぶつからない限り相手は絶対に心を開いてはくれない。
薄っぺらい美辞麗句や甘言を幾ら並べ立てたとしても”心の琴線”には少しも触れないのだ。

もう一つ私には”裸の心”で居られる場所がある。
それが我が彼女の前である。

私が”裸の心”で”裸の言葉”を言えるようになった陰には彼女の存在がとても大きい。
彼女は私を常、褒めてくれる、だがその言葉に一切の”嘘偽り”は含まれて居ない。

一切の美辞麗句やお世辞を排除して”真実の言葉”で私に語りかけてくれる。
その”真実の言葉”の持つ効力や重みを私は身を以て我が心に受けている。

そして今はその”裸の心”で多くの同胞に接し、多くの同胞から”裸の心”を頂戴している。

世の中には”嘘、偽り、紛らわしい、大げさ”な事があふれている。
せめて私と共に居る時間だけでもそれらの”虚構”から”現実”へむいて欲しいと思う。

私はこれからも”裸の心”で多くの同胞に接していくだろう。
そしていつかこの地上から”甘言”を無くしたいと思っている。

そうすればもっともっと人は”素敵になれる”と思うからだ…。

言わなきゃ判らないという人は大抵言っても判りませんw

私の知り合いに”言ってくれないと私は判りません”と駄々をこねる人がいる。

だが、私は思う”言わないと判らない人は言っても判らないよ”と(勿論本人には言いませんが^^;)。

我が同胞(私は患者を完治という共通目的を求める仲間と位置づけ同胞と呼びます)にしても同じである。勿論最初は誰でも判りませんから説明をします、これは三歳児であろうが老人であろうが同じ。

ですが三度以上私は繰り返しません(勿論一つの事についてですけれど)。
逸れは何故か?自己治癒力を高めるには本人の”治ろうとする意思”が何よりも大切です。

我々専門職はこの”自分自身が治ろうとする力”を如何に引き出すか?が鍵だと思っています。
故に”死ぬ気”で同胞に挑みます、ありとあらゆる方向から様々なアプローチを試みます。

ですがそれも”同胞と同じ方向を向いていなければならない”という大前提があってこそです。
私は右方向へ導こうとしているのに同胞が反対方向へ進まれては何の意味も有りません。

勿論反対方向へ進む事が同胞の為となるならば喜んでその方向へ進ませるでしょう。
しかし大抵の場合同胞自身が苦しむ方向乃至は元の悪い状態に戻ろうとする方向へ進みます。

これは染色体レベルで人間が本来の方向へ進もうとする性質から来ています。
自然治癒力もその一つ、でも時としてその方向が正確じゃない場合が有ります。

その時は専門職たる我々が”強制的方向転換”をしなくてはならなくなります。
それをどう行うのか?そしてそれが”強制的方向転換”である事を如何に悟られないようにするか?
それが腕の見せ所でもあります。

同胞が違った方向へ進んだとき、その道を封じ新たな道を示し其処へ誘導する、それが我々の仕事です。
しかしいきなり目の前に柵を設け、反対側に誘導したのでは同胞はいう事を聞いてくれません。

如何に相手に納得させ今進んでいる方向が自分にとって好ましくない結果を生みこれから指し示す方向が
その人にとって実り多き場所へ出る道であるかを示す事が何より大切なのです。

それには豊富な経験と確かな知識、そして表現力が求められます。
正確に導くにはそれなりの努力が無いと出来ないのです。

故に”言わなきゃ判らない”と駄々をこねるアフォの相手はしたくないのです(笑)

幸せ効果♪

私は一部では”マジシャン”と思われている(笑)

逸れは何故か?瀬木マジック”という言葉のマジックを掛けるからだ。

我が元へは多くの同胞が年間やってくる。

中には”自信喪失症”の人や”対人恐怖症””自己嫌悪症”の人も数多くやってくる。
だがどの人も我が門を去る頃には皆さん”笑顔”で”自信に満ち溢れ”人が大好き”になって去られていく。

これこそが”瀬木マジック”と言われる所以である。

やり方は人それぞれ違うので一概にこれ!と指し示せる物は無い。
只、指し示せる物は無くてもその効果は”マジックを掛けられた人”を見れば一目瞭然。
特にマジック以前を知る人には”本当にこれはマジックだ”としか思えないらしい(笑)

過日もそんなマジックに掛けられた人から一報が届いた。

私はレイキ・ヒーリストとでもある。

ある同胞に過日レイキ・ヒーリングを施した。
氏は窓口業務なのだが所謂”視線恐怖症”で余り正直この仕事は向いていなかった。

上司には常怒られるしお客にも愚痴られるし同僚には馬鹿にされるし…。
つくづく自分はこの仕事向いてないんだと思って居たらしい。

その氏にレイキ・ヒーリングを施した。

すると驚くべき事が起こったと言う。

今まで怒られていた上司から褒められ、同僚からは羨望の眼差しで見られ今まで愚痴って居たお客からはまぁ褒められはしない物の愚痴られることはなくなったという。

私もこの話を聞いた時は正直我が耳を疑った。
だが実際にその人の勤め先の知人に確認を取った所それは間違いないという事だ。

笑顔がとても輝き応対も自信もって行い落ち着いていて風格が出てきたのだとか(笑)

恐らく氏の精神的ストレスがレイキにより無くなったのが一番の原因だと思われる。
元々出来る人だった物が過度の様々なストレスで精神が萎縮していただけだろう。

まぁ幸せ効果付与という言葉は正直気分の悪い物ではない。
この仕事は”施術する人が明るく楽しく生きる術”を与える事が命題と思っている。

その至上命題を達成できた事はセラピストとしてこの上ない喜びである。
これからも多くの方にこの”幸せ効果♪”を施していければと思っている。

まぁその為にも早くこの体のダルさを退けて欲しいのだが^^;
季節は秋だのいうのに日差しは強いは、蝉は啼くわ、害虫は異常発生するわ…^^;

皆様も害虫には注意してくださいね。

思いの強さを形に変えて…

幸い我が居住地域は台風進路予想進路から大きく外れました。
そして降雨を願う地域の方々の願いが届いたのがそちらへ進路がズレました。

やはり此処でも”人の思いの強さ”を見て取れる気がします。
”人の心”を扱う仕事は”人の思いを受取る仕事”でもあると私は認識しています。

”治りたい””社会復帰したい””人間関係を円滑にし彼女と仲直りしたい”そう願う方々の、
”強い思い”こそが奇跡を起こす鍵であるとこの仕事に就いて深く痛感します。
(或いは”来るな”という強い反発の思いも受け止めねばならぬ時も有ります)。

同胞は私のやり方に賛同し賛美を与えてくれます(勿論全ての同胞がそうである訳ではないですが)。
しかし本当の功労者は誰でもなく本人自身です。

本人の”思いの強さ”が”心の病”を克服した、それこそが事実です。
私は彼らの背中をほんの少し支え、ほんの少し後ろから風を送ったに過ぎません。

勿論手を払いのける人も居れば反対方向へ進む人も居ます。
ですがそれも御自身が選択された事、私はその手を押さえたり軌道修正したりはしません。

しかし”行動とは裏腹に心が救いを求めている人”には強引にでも軌道修正を施します。
心と身体のバランスが崩れている人は思っていても違う行動に出る場合も有ります。

本当はこうしたくないのに身体が反応して…と言う風に心で大粒の涙を流す人も居ます。
傍目にはそれは解らないかも知れません、でも専門職ならばそれを察知できます。

それをいち早く察知しその方の”心”が欲する状態にしてあげる、それが私の仕事です。

今日も今からアレルギー体質改善の注射を打ちに掛り付け医の元へ参ります。
台風の予想進路から外れたといっても規模から言って余波は避けられないでしょう。

黒く厚い雲が空を覆いつくしさながら黒龍の腹の如き色を呈しています。
しかし私が健康である事は私のみならず家族や私を必要とする全ての方の幸せにも繋がります。
故に自身の健康管理は慎重の上にも慎重を期し常動ける体でありたいと思います。

人の為に生きるという事…

今日は朝からバタバタとしていてとても多忙を極めた一日でした。

と言うのもやんごとなき事情で”家から出られなかった”からです。
外回りの仕事も有ったのですが全てキャンセル、電話セラピーに切り替えました。

私にとっての優先順位とは”必要性”と”困窮度”の高い順です。
例え順番が違えていても私は上の二つを最優先とします。

今回とても”必要性”の高い”困窮度”の有る仕事が途中から舞い込んで参りました。
私にとってとても大切な人だったので先ずは何を於いても優先せねばという事で優先順位をつけました。

それが幸いしたのか?災いしたのか?それは後になって判る事。
今、困っている人を目の前にして通り過ぎることは出来ないというのが自論です。

その為にほかの人間関係がギクシャクし、最悪崩壊したとしてもそれは止むを得ない事。
私は私の中の正しさでもって仕事をし生活をしているのでそれを曲げるつもりは有りません。

幸い際優先順位を付けた方も快方に向かっているとの報を受け安堵して居る所であります。

閑話休題

そんな中、大学時代の先輩から連絡を受けました。
聞けば今現在先輩は”街づくり大学”の事務方に席を置いておられるとの事。

”街づくり大学”とは私の大学の元・学長が提唱している市民大学の事。
元・学長は今では”街づくり大学”の学長を務めておいでです。
(余談ですが氏は意外と著名人らしくノーベル物理学賞受賞者らしいです^^;)。

恐らく我が先輩も元・学長に引っ張られて事務方に収まったのだと思います。

市民大学ですから受講生は一般市民が対象です。
様々な市民生活に密着する問題を講師の先生を招いて講義をするのが目的との事。

今まで”物づくり”や”市民生活”について様々な講義をなされてきたらしいのですが、
生憎”心理学系”だけは何故か人材が揃わなかったらしく。

其処へ私の名を先輩がどっかから聞いちゃったんでしょうね^^;
『渡りに船』とばかりに電話が掛ってきちゃった訳です。

勿論大学時代お世話になった先輩なんで無碍に断るわけにも参りません。
さりとて即答でお受けする程私も馬鹿じゃない。

取り合えず今日の所は保留と言うことで資料だけ送ってほしいと願い電話を切りました。
幸い、愛方及び身内の賛意を受け、今後の仕事の足がかりにもなればと言う事でお受けする事に。

早ければ来月から講師として市民大学で壇上に上がる事になりそうです。

学生時代は弁論大会や青年の主張など壇上に上がる事は少なく有りませんでした。
しかし社会人となってからはディスカッションのパネラーに選ばれる程度で壇上に上がる機会も激減し
殆ど無縁の生活を送っていました。

それが此処へ来ていきなりの依頼で…いやはやなんとも一体どうなります事でしょうか^^;
又、講義の内容等は追々此処で紹介して参りたいと思います。

やはり…人の為に生きるという運命に私は逆らえないようですねぇ(笑)

人は自分を知る鏡なり…

我が門を潜る人の中に多くある悩みの一つに『自分が判らない』という人が居る。
つまり自分の今の立ち位置が全く解らないという人結構多いのだ。

それも立派な役職に付き、人望も社会的信用もある程度お持ちの方がである。
一見すると『何で?』という風にお思いになる人が多いと思う。

しかし私には彼らの考えて居る事、思って居る事が手に取るように解る。

人は社会的地位が上がり、ある程度の人望を得ると”守り”に入る。
それらを失うまいと”挑戦する事”をしなくなる。

それは何も自分自身の保身の為だけではない。
例えば大会社の社長ともなれば自分の立ち居振る舞いがそのまま会社の信用に直結する。

下手を打てば会社は斜陽し、多くの社員を路頭に迷わせることとなる。
本当に下の事を思う社長ならばそう思ったとしても何ら不思議は無い。

だがそれは逆に自らに大きな精神的負担を抱える事にもなりかねない。
周りに”イエスマン”が増え、自分を映し出す鏡がどれも”同じ表情”なのだから。

自分は本当に日々成長してるのか?それとも退化しているのか?
周囲にある鏡だけではそれらを推し量る事はとても難しい。

そういう人には私は”チャット”に入る事をお勧めしている。
ヤフーチャットなら私の知り合いも沢山居てその中には”聞き上手”な人間も沢山居る。

勿論私のような専門職の者も居て私以上に素晴らしい助言をしてくれる。
そして彼らは皆一様に”御互いの氏素性”を明かさないで居られる。

社長も弁護士も交通整理の人もパートタイマーも皆”同じ目線”で話が出来るのだ。
中にはとんでもない社会的地位のある人も居るが敢えて私はそれを伏せている。
(何せ国を一つ任せられている人なのだから(笑))

その中で日々成長している”自分”という存在を掛け値なしで知る事が出来る。
最初は中々打ち解けられないが徐々に打ち解けていき自分の今の悩みを素直に打ち明け
又打ち明けられた方もそれを素直に受け止め素直な意見を返してくれる。

言うなれば”釣り馬鹿日誌”の”スーさん、ハマちゃん”の関係と似ている。

だが全ての人間がPCを扱えるわけも無い。
ヤフチャが出来ない人だって沢山居る。

ならばそういう人たちは何処で”鏡”を得たらよいのか?

それは”身近に居る人々”である。

つまり家族や近所の人、偶に買物に出かける先の店員さんでもいい。
そういう人たちの”自分に対する接し方”で自分の成長を押し量る事が出来る。

ある面白い話をしよう。

恋愛に悩むYちゃんという娘が居た。

同じ職場の違う階に居る彼に彼女はぞっこんだった。
しかし中々告白できずバイトの終了期限だけが無為に過ぎていく…。

偶々同じ大学の後輩であるという事も手伝い此処は私が一肌脱ぐことに。

とりあえず敵情視察をしなくてはと彼の居る売り場へ足を運んだ。
幸い彼は紳士服売り場に席を置いているので私が行っても無理は無い。

彼の接客の仕方や立ち居振る舞いをある程度観察し彼とは言葉を交わさずそのまま帰宅。
その足で直ぐYちゃんに電話。

デートの取り付けから終了までの全ての指示を出した。

勿論彼女は半信半疑だ、何せ彼の事を私は殆ど知らないのだから。
だがとりあえず彼女は私の言う通り段取りをしそしてデートに臨んだ。

数日後彼女が我が門をダッシュで叩いて飛び込んできた(笑)

”凄い!先生が言った一言一句間違いなく全て彼が言いました。どうして解ったんですか?”と(笑)

答えは至極簡単である。

彼の立ち居振る舞いから彼の性格を察知。
勿論後輩の性格は長年見ている為彼以上に知っている。

その二人を頭の中で立たせシミュレートすれば自ずと出てくる言葉は容易に想像出来る。
それをそのままYちゃんに指示したに過ぎないのだ。

その後何とYちゃんの男性の好みがいきなりシフトし彼女は男性を日本人から外人に(笑)
だが今でもYちゃんの中で私は”マジシャンだ”という事になっている(爆)

このように”自分”を知る為には”他人の自分に対する接し方”を見ればよいのである。
その接し方が変わっていればそれは”自らが変わった”という事と同意義である。

そのやり方で私は過去お子さんを連れてきた母親を治し、彼氏をつれてきた彼女を治した。
何れも問題を抱えてきたのは連れて来られた方ではなく彼ら・彼女らを連れてきた方。

故にその”連れて来られた方”を変える事で”つれてきた方”を変えるという方法を取った。

セラピーのやり方も実に様々なのである。

本気を見せぬ者を診る気なし

今私が診ている人の為西へ東へ走り回る一日でした。
車で5分掛かる道のりを歩きで10分で行って又10分で戻るという事をしました(笑)

途中結構急傾斜の坂があるのですがそれも下の方からダッシュで駆け上りました(笑)
前回其処へ行った時には”まだか?まだか?”と思っていたのですが昨日は直ぐでしたw

やはり一度道を覚えてしまうと”長い”と思う感覚が少し変わるようですね。
(まぁ心理学的にもそういう効果がある事は存じてましたが^^;)。

行きは汗だくだくでしたが帰りは下り坂という事もあり汗が引いていきます。
丁度帰りは夕方で気温も大分落ち秋風が火照った身体を鎮めてくれます。

季節は確実に初秋から中秋へそして晩秋へとその色を変えています。
季節の移ろいを肌で目で心で感じられる事はとても有り難い事だと思います。

しかしその季節の移ろいを肌で目で心で感じられない人が沢山居ます。
心に病を抱えた人はそれらを感じる事が困難な人々であり笑顔を中々作れない人々です。

そういった方々の笑顔を見たい為にこの仕事をずっと続けている、私はそう言っています。

この仕事は共同作業であり私と同胞が共に一つの目的に向かい心を一つにして目的達成へ
向け邁進していかねばなりません。同胞が先行しても私が先行しすぎても失敗します。

歩調を合わせちょっとだけ私が前へ出て誘導しつつ自立して歩けるよう導いていく。
それが私の仕事だと思っています。

しかし…最近の同胞は季節柄もあるかと思いますが”人の話を聞いてない”^^;

まぁ日頃のお仕事のストレスがあるのは解りますよ、この不景気ですもの大変ですよ。
おまけに家に帰っても其処に安らぎが無いという事になればそりゃあ愚痴りたくもなります。

この仕事は”愚痴を聞く”のも仕事の内です。
全ての”心の膿”を出し切って”心を浄化”して”正常な状態に近づけていく”のが仕事です。

そりゃあ色々な愚痴が有りますよ、身近な所から物凄くグローバルな物まで(笑)
相槌を打ち時に助言を求められる時は的を射た助言を与えねばならずそりゃあ至難の業です(爆)

ですが”愚痴を聞く事だけ”が仕事ではありません。
”愚痴を聞きつつ助言をし、それを実行に移させる”事が本来的な私のお仕事です。

勿論私も専門家ですからそれを上手く誘導させる術は心得ています。
ですが中には”自分の感情を吐露する事に収支し人の話は右から左”の人も居ます。
と言うか最近の人はそういう人がとても多いです^^;。

又これも私自身に多少の責任は有るかと思いますが”思考を人に委ねる”人が多いです。
自らがその答を導き出そうとせずその答を私に求める人が多い。

ですが流石にこればかりはお教えする事は出来ません。
それを自発的に気付かせる事それが私の仕事の最も主だった物だからです。
それすら口頭で伝えてしまってはその方の”思考する癖”を付けさせれなくなります。

常、”思考し自らの悩みを自らで解決できるスキルを身に付けさせる”事こそが大事。
故に其処は心を鬼にして又私自身の創意工夫の中でそれに気付いて貰えるよう頑張ります

私自身がそうであるように私は同胞にも”本気”を求めます。
”本気で治そう””本気で変わろう”とする意思を求めます。

幾ら此方が頑張っても”一向に本気を見せない人”は容赦なく切り捨てます。
何故か?そうする事で相手は思いきり焦ります、何とか私を留めさせようとします。
その結果”本気”を見せてくれます、それが私の狙いでも有ります^^;

ですがそれをやってもまだ”本気”を見せない人はマジで切り捨て二度と診る事はしません。

又、”治った気で居る人”が偶に居るのも頭を悩ませるところです。
最近は随分減りましたが昔は結構こういう人が居て困りました。

まだ加療の段階で既に”完治”した気になり以降我が元へ来なくなった人が居ます。
”私は治りました、心が軽くなり前向きになりました、もう大丈夫です、有難う御座いました”
と私の制止も聞かずさっさと我が門を去る人が居ます。

しかしそういう人は大抵程無くして我が門を再度潜る事になります(ほぼ間違いなく)。
ですがその時も私は”切捨て”ます。自らの意思で我が門を去った者に温情は掛けません。

この仕事は慈善事業でも何でもなく”真剣勝負”でやっているのです、お遊びじゃない。
命を削ってやって居る事を軽視し忠告を無視して去る者に温情を掛ける程お人よしには
私はなれません。

解るんですよ、治ってきたら段々我が元へ来たくなくなる人の気持。
それは”自分はもう心疾患じゃない”と思いたいからなんです。
”心疾患”だった頃の辛い自分を思い出したくないその頃の自分に戻りたくないと思います。

でもわが門を潜っている間は嫌でもそれを思い出してしまう、最初に来た時の辛い自分をふと思い出す時がある。そこから逃げたくて其処を直視したくなくて我が門を去る人が居ます。

でもね、それは本来的に間違いなんです。
過去の自分も今の自分もそして未来の自分も全て”自分と言う存在の一部”なんですよ。

我が門を途中で去らず最後までやり遂げた人は一人の例外も無く言います。
”あの辛い経験があったからこそ今の私がある、そしてあの経験をしたからこそ先生に会えた。私はあの辛い経験をした事を今は有難いと思います、だって先生に会えたから…”と。

その時我々はこれも一人の例外もなく二人で号泣し抱締めあいます。
それは苦楽を共にしてきた”戦友”だからこそ共有し会える感情の交換なんです。

そしてそれこそが”真の卒業”であり以降それからは”同胞”としてではなく”友”として新たな交流が始まります。其処から私の仕事のパートナーとなってくれた人も沢山居ます。

加療中は本当に辛いです、苦しいです、先の見えない漠然とした不安を常抱えています。
ちょっと光が見えたらそれを頼りに制止も聞かずどんどんと進みたくなる気持ちも解ります。

でもその光はその人が本当に目指すべき場所じゃないんです。
その人が戴く光はもっと強くもっと明るくもっと暖かでもっと安らぎを得られる物なんです。

手近にある安易な光に惑わされないで欲しい、その人しか得る事のできない”光”を手にして欲しいと思いますしその”光”を得れるよう我々専門家は導いていかねばならないと常思っています。

ってな事を今度講義で話そうかなぁと思ってます(笑)(なげぇ前フリだな)。

ま、マジでこれは講義内容でもあり又私自身の貴重な体験談でありこれを見ている現在加療中の人、
それからこれから受けてみたいと思われる人の参考になればと思い挙げました。

今日は久しぶりに自宅にてデスクワーク。

と言っても講義内容を考えたり次の同胞の治療方針を考えたり御袋から頼まれた仕事をこなしたりと全然休む事は出来ないんですけどね^^;

でもこうして忙しくしている方が自分の性分には合っている気がします。
昨日も同胞の為に右へ左へ走り回る自分を見て”これが本来の自分だ”と思いました。

常誰かの為に頑張れる事はとても素敵な事ですしとても有り難い事だと思っています。
私しか頑張れないのならば私が頑張る、それが私の生きる道だと思います。

素人が口出しをするな!

我が同胞は現在此処数週間で目覚しいほどの進歩を遂げた。
最初の頃の同胞と較べると今の同胞はマジで別人?と思う程威風堂々としてきている。

だが…此処へ来てそれが逆に弊害となりつつあるようだ^^;

詳しい話は個人情報保護法に抵触する恐れがあり又個人を特定する材料ともなるので話せないのだが、
所謂彼氏さんが私の”治療方針”にイチャモンをつけはじめたようだ。

まぁ自分の愛する人が(相手からすれば)何処の馬の骨とも解らぬ輩に自由に操縦されているのだから
面白くないと思うのは当然と言えば当然の事。

私が彼の立場でも恐らく同じように思っただろう。

しかしこれは”遊び”じゃない。子供のおままごとをやっている訳ではないのだ。
んなもん、”好き”だの”愛してる”だのと甘言を言ってる場合ではないという事だ。

早く手を打たねば本当に”鬱”になりかけていた。
一度”鬱”になってしまったらそれを元に戻すのはそう簡単な事じゃない。

”仮性鬱”の時と”真性鬱”の時ではその加療時間や加療方法が全然違ってくるのだ。
未だ今の段階では同胞は”仮性鬱”の段階であり”真性鬱”にはなっていない。

しかしこのまま放置しておけば”真性鬱”となる事は間違いない。
専門家としてそれだけは絶対に避けたい所である。

ところが件の彼氏さんが私のやり方が気に食わないのかどうか知らぬが色々と文句をつけてくる。
未だ同胞も私の詳しい話はしていないようだが私には過去その件で嫌な思い出がある。

以前診ていた女性が私の治療終了後彼氏を振りその結果彼氏に逆恨みされ襲われかけた。
幸い怪我には至らなかったがとても怖い思いをした事は事実である。

それがある種のトラウマとなっていて今だそういう事になると腰が退けてしまう。
だが今回はかなり重篤な人なので此処で腰が退けて居ては完全回復は望めない。

心を強く持って事に当たらねば又同じことの繰り返しである。
という事で私はこれからもその彼氏さんと戦う所存である。

私も専門家の端くれ。

素人に邪魔されてハイソウデスカと引下る訳にはいかない。
一人の人間の命が懸かっている問題を色恋なんぞに邪魔されて溜まるもんですか。

という事で今後共同胞の加療及び加療方針は一切変えず貫き通します。
人一人の命は地球より重いのです、それを彼氏さんにも理解して貰いたいと思います。

まぁ未だ若いし無理だとは思うんですけどねぇ^^;

命を掛ける価値のある者…

ずっと昔の話。


私は同胞の前で手首を切った事があります。
私の”本気”を彼に見せる為に…。彼は一瞬青ざめ、しかし直ぐに次の行動に出ました(つまり止血、彼は救命救急士でした(笑))

幸い傷は浅く命に別状は無くその後彼も我が門を元気に去っていきました。
今は多くの部下を抱える名救命救急士として名を馳せています(実名は敢えて伏せますが)。

本気を出させる為にこちらも本気を見せる、それが私のやり方です。

本気で治そうと思えばそれなりの”覚悟”が要ります、それは精神疾患であれ他の疾患であれ。


ですが人間中々その”覚悟”を出せない、そりゃあ怖いですもの、不安ですもの、当然ですよ。

私は自らを”先達”と位置づけています。

故に”先達”は何事に於いても”先を行かねばならない”という大命題があります。
同胞に”本気”を出させる為には先ずこちらが”本気”である事を示さなくてはなりません。

まぁそれでも先の例はちょっとやりすぎの感はありましたけど^^;
(後で彼にこっぴどく叱られました(笑)そりゃあ命を救う立場が手首きっちゃヤバイっす)。

一緒に死のうと言った事も有ります(これも遥か昔の話)。

実際その当時私もどん底の生活で彼の気持ちとものすごくシンクロしてしまいました。
彼は当時私の一番の理解者でそして大親友でありました。

その彼がまさか私の同胞として門を叩くなど思っても見ませんでした。
親友として一番の理解者として彼がここまでなるまで気付けなかった自分を恥じました。

自分を責めました自分を罵りました自分を殴りました(マジで)。
そして彼と”痛みを共有”したいと思いました、”苦しみを共有”したいと思いました。

当時まだ20代半ばで血気盛んな無分別な頃の話です。
無鉄砲で自分勝手で後先なんぞ何も考えていませんでした(まぁそれは今も同じですがw)

当時彼には”彼をとても愛している人”が居ました。

ですが彼はその”彼をとても愛している人”を守りきれなかった。
その人の死に直面し生きる希望を失いかけていました。

ですが私の一言が当時の彼の気持ちを変えたようです。
私と亡くなった彼女が当時の彼には重なって見えたそうです。

ですが重なった彼女は彼にこういったそうです。
”死んじゃ駄目、貴方は生きて、私の分まで、弱かった私の分まで生きて”と…。

彼はその後ライフセーバーとして多くの人命を救助するスペシャリストとなりました。
そこで劇的な出会いをし今はファミリーを築いています。
(マジで亡くなった彼女に瓜二つの人に出会ったのです、私もマジで驚きました)。

我が同胞は皆”命を掛ける価値のある者”達ばかりです。
逆を言えば”命を掛ける価値の無い者”を同胞に私はしません。

故に彼らを”生かす”事は”自分自身”を生かす事に同じなのです。

これからも私は”自らの身命を賭して”彼らに向き合いたいと思います。
その中で”彼らの中に眠る本気で生きたいと願う気持ち”を引き出したいと思います。

今はその力を”兄”に求めたいですが…。

リラ~ックス、リラ~ックス…

此処数日兄の調子が良いので今日は久しぶりにお休みを頂戴した(兄にも休めと言われた為)。

と言ってもハイ!そうですかと休む訳にも行かずデスクワークの後は外回りを始めた。
生憎の雨模様だったが今は少しでも入院費及び治療費を稼がねばならない。

今までの同胞の所を回ってきた。

そこでまぁ何時もの事と言えば何時もの事なのだが…最近全く連絡を寄越さなくなった同胞の現状が気になり尋ねて見た。我が同胞が連絡をよこさなくなるケースは大体二通に分かれる。

連絡を寄越さなくなる程ヤバくなっているか、怠けているかその二択しかない^^;
今日の同胞は後者の方、尋ねてみたら呑気にTVゲームなんぞに興じてやがった。

まぁそれはそれ回復して来た事の現れであり素直に喜ぶべき事ではある。
が…こちらが課したプログラムまで疎かにされてはこちらとしても穏やかではいられない。

最近定時報告が全く無く私がわざわざ彼の為に作ったセラピープログラムも滞っている。

一時期状況的に厳しい状況に在った事は理解する、寝る暇も無く働き通しではプログラムを実行しようとしてもそりゃ充無理である。少しでも自立したいと言う氏の切なる願いが解らぬ程の頑固者ではないし寧ろ私はそれを促していた方なので在り難いと言えば有難い。

偶の休みくらいゆっくりさせろという彼の意見を尊重し無い訳でもない。
が、生活向きを見る限り我がプログラムを実行できない暮らし向きでもない様子。

そこで話をしながらそっと振って見た
”最近プログラムやってる?”
”あぁ、あれもう必要ないです”
”…”
そのまま私は無言で彼の家を出た、怒りに震え彼を殴る前に彼の前から立ち去りたかった。人が寝ずに考えに考えたプログラムを”あぁ、あれもう必要ないです”の一言で済まされた。

同胞の状況を診るのは彼ではなく私自身である、それを彼は全く理解していない。

確かに今の状況は彼には好転的のように思える、以前より助力者も随分増えた。
彼自身随分強くなったし明るくもなった、確かに彼の言うように”必要ない”かもしれない。

しかし…それを決めるのはそのプログラムを実行させた私であって彼ではない。
事実彼の今の”強さ”は”流動的”であり”固定化”されていない。

私は常、同胞に言っている”治ったと過信して怠けていると効果が固定化されず薄れる”と。それで何度も我が門を繰り返し叩いている人間を私は数多く見ている。

一度失敗し二度目、三度目に来る同胞は以前にも増して悲惨な状況になっている場合が殆どである。そりゃあそうだろう、完治していない傷口をもう一度開くような物なのだ。

悪化することはあってもそれが快方に向かう事は無い。

だが、どうも我が同胞はそれが理解できていない物が数名居る。

今日を限りに私は彼の”全てのプログラム”を停止し、”一切の関与”を終了した。
彼自身が”必要ない”と言い切っている限り私自身の存在も今の彼には不要であろう。

今後、彼からヘルプが来ても私は一切”無視”します。

と、同時に今も私の言いつけをずっと守る同胞にも会えました。

その子は未だ子供ですがとても純粋で素直で一生懸命に私のプログラムをこなしてます。そして治ると信じて一生懸命頑張っています、その甲斐有って出会った頃のその子とは見違える程元気に明るくそして更に素直になっていました。

日々変わっていく自分が解るのだとその子は言ってくれました。
そして今後どこまで自分が変われるのか?それがとても楽しみだとも言ってくれました。

”先生、ずっと傍に居てね”とその子は目を潤ませ子猫が飼い主を見るような目で見ます。私も目を潤ませその子に言います”大丈夫、君が要らんといっても俺は傍に居るよ”と。

その子は両親を亡くしてずっとおばあちゃん子でした。

とても良い子でしたが自らの感情を表に出す事が不得意な子でした。
やはり祖父母に育てて貰っている事を悪いと思っていたのでしょう。

そして段々と感情の起伏の無い子に育っていきました。

日々笑顔が消えていく孫を見かねておばあちゃんが我が門を叩きました。
力ない笑顔のその子を始めて見た時、私はすべてを悟りました。

それから我々の戦いが始まりました。

詳しい内容は省きますがそりゃあ血反吐を吐くような辛い日々でした。
私も辛かったですがそれ以上に辛かったのはこの子です。

でも一切音を上げずずっとこの子は私についてきてくれました。

元から頭の良い子でしたので飲み込みはとても早いほうでした。
私の手法をどんどん吸収しどんどん明るく元気に溌剌とした子になっていきました。

有体の言葉を使えば”普通の子”になっていきました。

これからも私はずっとこの子と向き合いこの子の成長を楽しみにしたいと思います。

イエスは仰いました、”神は自ら助く者を助く”と…つまり頑張っている人を神は決して見捨てないという事です。彼の成長がそれを見事に表していると私は思いました。

私も”自らが自らを律し頑張っている人”をこれからも応援し続けたいと思います。

追伸

実はこれ別ブログの或る方へ向けたメッセージ日記であった。
そして案の定私の”餌”に釣られてのこのことやってきましたよ(笑)
ところが…この御仁或る意味大物というか傍若無人というか、全く意に介しておらぬ様子。餌だけ食って逃げちゃうタイプの魚いるでしょ?あれですよ、あれ^^;
こうなるともう打つ手無しなんですよね、マジで…。私の我慢もそろそろ限界です。

動かざる事山の如し…

武田信玄公『風林火山』の山の章の一節である。

今の私の心境を此処まで適確に表している言葉は無いという程適確に表している。
昨日此処で挙げた同胞の続報、と言っても内容は殆ど変わらない。

こちらのあらゆるアプローチに対して一切の反応を示さない。
日記に足跡は有るでもコメントはない。

恐らくメッセージもメールも読んで居る筈。でも返信は一切無い。

今までの私ならブチ切れてさっさと関係を解消していたでしょう(今でも本当はそうしたい)。
でも此処数日氏の周りの状況は激変し、今は居住地を移され馴れない中での生活である。

周りは知らぬ者ばかり、さぞ不安である事だろうと思う。
その中で心を閉ざしたとて誰が責める事が出来るだろう。

糞旦那のご両親はとても暖かく彼女を迎え入れてくれたと言う。
旦那は糞でも両親はまともだったようだ、それが彼女には幸いしたのだろう。

最後のメールは”力強く生きて行きます”という物だった。
或いはこれが彼女なりの”ラストメール”だったのかもしれない。

それを私が気付かないだけかもしれない。

故に今はあれやこれやと突くのをやめ心静かに今後の動向を見守ろうと思う。
それが専門職として私が彼女にしてやれる唯一の事のような気がする。

何かアプローチがあればその時初めて動けばいい。
今はそんな心境になっています。

情けは人の為ならず(逆説)

『情けは人の為ならず』…本来は人に情けを掛けておけば巡り巡って自分に帰って来るよという意味。


だが、最近はどうも逆説的なケースが多いようだ。

今日、一人の同胞が我が門を去っていった。
理由は”垣根を越えすぎてるから”だそうだ。

私のウリは”シンクロ率の高さ”である。
精神科医や精神神経内科医そしてカウンセラーにはないフレンドリーさ、が最大の武器である。

同胞と同じ目線で、同胞と同じ考えで、同胞と同じ立場になって考える、それが私のモットーである。
今までそれでやってきたし恐らくそのスタンスは一生変わらないと思う。

が…相手によってはそれを”ウザイ”と思う御仁も居られるようだ(今回のように)。

誤解なきように言っておくが最初から”ウザイ”と思われていたのならさっさと退散していた。


嫌われているのを解っていながらその場に未練たらしく留まるなんて事は私の性格上無理である。

駄目なら次!ってのが基本理念なんで(笑)

ですが最初同胞の方から”並々ならぬ決意”を示してくれた。
その決意たるや相当の物でこれほどまでの決意を示してくれた人は過去居なかった。

私は嬉しかった、私の20年近いセラピスト人生が花開いた瞬間だと思った。
私の中ではそういう事に対する感謝の意も込めていた。

故に同胞と100%以上のシンクロ率を持って寝食を忘れ没頭していった。
だが…どうも深入りし過ぎた様だ。

急に疎遠となり、本日突如解任された。

理由は前述の通りである。

私の悪い癖…期待されると期待以上の事をしてしまう。
それが効を奏する場合も有れば災いを起こす場合もある。

今回は後者の方であったようだ^^;。

だが、今回は”命”掛けて居ただけにちょっとダメージはデカい。
暫くは新規を取らずセミナー講師と現時点で抱えている20人近い同胞を優先しようと思う。

それから前へ進んでも遅くはあるまい…。

本音で語る日本人

少し昔の話になるがある大会社の社長さんの酒席に呼ばれたときの事。

酒席の席へ行って周りを見渡し”自分のポジション”を確認しました。

酒席が始まり、思ったとおり、社長の元へ皆がお酌を継ぎに参っておりました。
そろそろ私の番という時、私を社長に合わせた人がしきりに私に酒を注ぎに行けと促しました。

私はその大会社の社長へ向き一言こう言い放ちました。

”本当に旨い酒は手酌で飲むのが一番美味い、まぁ美人のお酌なら未だしもむさくるしい野郎の酌なぞ余計に酒を不味くするだけ、ならば手酌で飲んだ方がまだ美味いでしょう”と一気に酒を社長の前で飲み干しました。

当然回りは凍りつきます、私を紹介した人なんぞはもう顔面蒼白でガクガクブルブルです。


ですが…その社長はやはり私が睨んだ通りの”大物”でした。

豪放磊落と申しましょうか、豪快に笑った後、私に一杯と逆に盃を下さいました。
その酒席で社長自ら盃を頂戴したのは私一人でした。

酒席も酣となり、社長が席を立たれました、用を足しに参られたのです。
私も用足しに出まして、ついでに少し夜風に当たっておりました。

そこへ先ほどの社長が戻られたのです。

私は満月を眺めながら社長に軽く一礼しそして又月を眺めておりました。
軽く微笑んだ社長は私の横に並び黙って月を眺めておられました。

そして一言…”何十年かぶりに美味い酒を味わえたよ、有難う”と…。

今もその社長とは何だかんだといいながら交流が有ります。
社長の紹介で同胞を得た事もありました。

大抵その社長の紹介で来る人は皆さんこうおっしゃいます。

”奴は口は悪いが歯に衣を着せぬ男だ、きっと君の心の琴線にも奴の言葉は響くだろう”と。

人間”本音”で語れば分かり合えるものなのですよ、それが一角の人物ならば…。
私はこれからも”本音”で語り”本気”でぶつかり”本物の笑顔”を得る為に頑張ります。

日本人はイエスマンしか居ないと諸外国には思われている節があります。
今でも日本は米国の51番目の州だと思っている人も少なからず居られます(失礼千万な話ですがw)

私は在日外国人に”日本語”で話しかけます、日本に来るなら日本語ぐらい覚えて来いというのが持論。当然余所へ行けばその国の言語で話します、それが私の中のルールです。

こんな変わった日本人が一人は居ても面白いじゃないですか。
私はこれからも”私色”を貫き通します、それが私なりの”美学”ですから…。

心・美・体

『心・技・体』はスポーツの基本、『心・美・体』は心理学の基本である。

 
つまり心美しからずば体美しからずや、翻り、心美しければ体美しけりである。

私が大学生だった頃の話。

いつも片手にポテチ片手にコーラという見た目にどうみても”美しくない”人が居た。
”美しくない”という表現を使ったのには意味がある、それは後述するとしよう。

我が大学の学部棟にはちょっとした中庭がある。

夏ともなるとカップルの一寸したデートコースとなり仲睦まじいカップルがテーブルに座り、互いの目を見つめ、愛を語り合っている。

そのカップルを只、じぃっとその娘は見ていた、一切の感情を顔に出さず…。
彼女は私の二つ下の後輩であり、私が大学4年の頃に丁度出会った。

お世辞にでもスマートとは言えぬ体型で且つヘビーではないがスモーカーだった。
笑い方がとても個性的で(笑)それが余計に彼女の”奇異さ”を際立たせて居た。

だが…私にはそんな彼女の”心”の中に”美の種”がまだ眠って居る事を知っていた。
丁度講義が被っていて喫煙所で彼女とは度々出会っていた。

時候の挨拶程度から始まり色々な事を彼女は私に話してくれた。
カップルを見るときの彼女は無表情だが私と話をする時の彼女はとても表情豊かだった。


一生懸命話かける彼女は”可愛らしさ”すら覚える程である。

その内に私の中の”御節介心”が騒ぎ出した^^;。

”この娘を綺麗にしてあげたいな…”

私の中の御節介心はどんどん肥大して行き又それと時同じくして彼女の中でも変化が少し見え始めていた。以心伝心とでも言うのだろうか、彼女も私も実は同じ事を考えていた。

最初に口火を切ったのは彼女だった。

”私綺麗になりたい、勿論自分が醜い事は解ってる、けど今より少しでも綺麗になりたい…”彼女の口から初めて出た言葉だった。その言葉には”決意”が充分感じられた。

私はそこで徹底的な”ビューティー・プログラム”を彼女に敢行する事にした。
先ず彼女に課したのは”ミラー・セラピー”と”フォト・セラピー”だった。

自分自身を鏡に映し、それを自分で見る
自分自身を写メで撮り、それを自分で見る

何れも”今の自分”を知る上で欠く事の出来ないセラピーであった。
又、”自分の中に眠る自分”を目覚めさせる事もこのセラピーの大きな目的の一つである。

鏡に映る”私”には動きがあり常一定していない、写真に写る”私”は固定されていて”一瞬”が切り取れられる。何れも”今の自分”を知る上でとても重要且つ変わる自分を知る為にも、
とても重要なプログラムであった。

当時の彼女にとって”醜い自分”を写真に撮り、鏡で見る事は相当な苦痛であり屈辱であったに違いない。しかし”現実を直視”する事と”現実から逃げず未来のなりたい自分”になる為にはどうしても必要な行為だった。

同時に当時管理栄養士だった姉の力を借りて栄養面でも徹底的なダイエットプログラムを組んで貰った。

大学で栄養学をみっちり学んだ姉のプログラムは正に”完璧”という物だった。

同時にメイキャップ・アーティストの友人とスタイリストの友人の力も借りた。
こうして”美女大作戦”は敢行されたのだ。

1ヶ月、3ヶ月、半年、1年…彼女の努力は果てしなく続いた。
あれほど吸っていた煙草も既に止め、ジャンクフードも口にしなくなっていた。

私と喋る以外は殆ど喋らなかった彼女は徐々に人と接触を持てるようになっていった。
少なかった友達もその数を徐々に増やして行き、あの頃の無表情な彼女ではなくなっていた。

彼女にはこのプログラムが成功した暁には果したい”夢”があった。

それは”我が学部きってのイケメンS君とのデート”であった。
勿論最初の頃の彼女では到底それは不可能に近かった。

しかし…私の中では”絶対出来る!嫌、その願いかなえてみせる!”という確信があった。

ダイエットをしてメリハリボディになってくると意外にも”ナイスバディ”である事が解った。八重歯も矯正し歯並びも良くなった。

流石プロの腕は違うなぁと驚いたのはメ-キャップとファッションセンスであった。

大きめバックを常抱え、サンタさんですか?と言わんばかりに前のめりになって下を向き、足を引きずっていた居た彼女の姿は其処にはもう無かった。

姿勢よく歩くととてもセクシーな歩き方の出来る娘である事が解った。
彼女をちら見する男性も徐々に増え始めたのが何よりの証拠である(笑)

メイキャップの方も彼女はもともと線目だったので目を大きく見せるメイクを施してくれた。
色黒だったのでファンデは明るめ、チークも薄く居れ、ルージュは薄く引かせた。
シャドーも流す感じにしすこしグラデーションをつける様にしてくれた、これで目が引き立った。

正に”使用前””使用後”である(笑)

”美しくない人”だった彼女は今や誰の目からみても”美しい人”になっていた。
そしていよいよ告白タ~イムである。

外見は変わっても中身はあの頃のままの”純真可憐な乙女”である。
私も柱の影でそっと彼女の告白を見守り応援しつづけた(余所から見たらストーカーw)

S君は見た目こそポルノのアキヒトだが如何にせん女性経験に乏しく、
そのギャップが逆に女性には不評で見た目のかっこよさからさぞリードが上手い人だと思われ、いざデートに望むと全然駄目で失恋といういつものお決まりコースだった。

彼も又自らの”外見とのギャップ”に悩む者の一人だったのだ。
そして…見事彼女はS君のハートを射止めデートに漕ぎ着けたのだ^^V

その後まぁ色々あって二人は結果別れてしまった。


だがそれは所謂失恋とかいう物ではなく発展的解消とも言うべき物であった。
御互い目指すべき方向が明確化しその目指すべき方向へ進む為別の道を歩んだと言う事だ。

彼女は今、エアロビのインストラクターとして結構忙しく飛び回っている(と風のうわさに聞いた、何せ海外なので^^;)。

彼女の教室には彼女の”醜かった頃の自分の写真”が置いてある(らしいが見た事は無い)。

それはあの頃の自分を忘れないという意味と貴女もこうい風に変われますよ?という宣伝効果も含まれているらしい(意外とちゃっかりしている^^;)。

『心・美・体』が三位一体となった好例である。

貴女も変わって見ませんか?
貴女の中に眠る『もう一人の自分』目覚めさせてみませんか?

私がそのお手伝いをさせて戴きます<(_ _)>

私的ベルソナ論(乃至は自分を演じるという事)

厳しい題名で始まりました当日記ですが内容はいつものようにゆるーい内容でお送りします(笑)

私の元へ訪れる何人かは大抵こういいます。”私ってどういう人間なんですかね?”と…。

其処で私は大抵こういいます。
”私から見たアナタは○○な人でもあり○○な面を持ち、○○な一面を持つ人であります”と…。

すると殆ど例外なく同胞は言います。”それで結局私はその中のどれなんですか?”と。

私は応えます。”それら全てが貴方であり貴方という存在の一部であります”と…。

最近人から”貴方って人が良く解らない”とか”貴方は人によってコロコロ性格が変わる。
人格障害なんじゃない?”とか揶揄する馬鹿者がいる。

私からすれば素人の浅知恵で人を決め付ける事は止めて頂きたいと思う。

鏡に映る自分を先ず見て欲しい、先ず正面、側面、背面、斜めからの角度も見るのもいいでしょう。

その中に映る自分は”一つ”ですか?恐らく全てが”違う自分”である筈です。
角度が違えば体の凹凸も違うし首の傾け方一つで表情も変わります。

しかし言うまでも無くそれら全てが”貴方と言う存在自体”なのです。
心の中でもそれと同じ作用が現れています。

例えば家族、恩師、例えば会社の同僚、そして愛する恋人…全て接し方が同じですか?
もし全ての接し方が同じなら逆に私はその人に”凄い”と言ってあげます、別の意味で(笑)

当然の事ながらそれら全部が違う筈ですし又違わなければなりません。

”キャラチェンジ”が巧い人は世渡り上手です。

つまり”瞬時に自分のソーシャルポジション(社会的立場)を察知し、そのソーシャルポジションに応じたキャラクター(人格)をチェンジ(変化)させる事が出来る”のですから。

私を例にとって更に詳しくご説明申し上げます。

私を知る人の共通認識は”明るい”という物です。
私はこの”明るい”をベースに様々な”キャラチェンジ”を行います。

学生相手にはこの”明るさ”に”軽さ”を最初プラスします、フレンドリーさを増す為です。
年長者には”明るさ”に”礼儀正しさ”をプラスします、”常識人”を印象付けるために。
女性には”明るさ”に”言葉の魔法”をプラスします、”かっこよさ”を印象付ける為に。
男性には”明るさ”に”リーダーシップ”をプラスします、”素直に従わせる”為に。
不届き物には”冷たさ”に”怖さ”をプラスします、”その筋の人”と思わせるために(爆)

このように”明るい”をベースに様々な者をプラスして”あらゆる人格”を作り出します。
(中には”冷たい”のもありましたが^^;)。

その事により”私”というイメージが人によって実に様々に変化します。

ある時私を知る二人の人物が私と言う人物像を語っている場面に出くわしました。
私は面白いので物陰に隠れその話をずっと聞いていました。

一人は同胞で一人は後輩でした、勿論二人とも全く別々の”キャラ作り”で接していました。
結果”二人が言う人物は同姓同名で容姿も似た別人”という結論に達しました(笑)
(馬鹿ですねぇ^^;)。

このように”自分を上手く演じ分ける”事は一つの処世術であります。

ラベリング論という理論が社会心理学の分野にはあります(日本では逸脱行動論)
我が恩師、辻正二先生が提唱されている理論であり社会学の一分野であります。

つまりある人たちが”あの人は○○な人よね”という風な事を言い続けたとします。
言われ続けた人は自分が”○○な人”であると思いこんでしまいます。
これがラベリング論です。

ですがそれがその人に合ってる物ならばそれでよいですが違っていた場合大変な事なり、
最悪”人格剥離”に繋がります。それで我が門を潜った人はかなりの数居ます。

ある時仕事の合間に煙草を吸っていたときの事。

偶々研修で私の仕事場のホテルに来ていた人と話をする機会に恵まれました。
(私はホテルの一室を事務所にしそこに同胞を呼びます、地元の場合は)

彼はずっと音楽を趣味でやっていたが家族や親戚や友人は彼をとても”真面目な人間”と思っていて、
結局彼も”周囲の自分に対するレッテリング”に推されて真面目な営業マンとなった。

しかし当然の事ながら”自分の中では納得が行かない”事が多々出てきていてそれが悩みだった。
私は彼の音楽的才能を彼が音楽が好きだと言う前に見抜きズバリ言い当てた。
そして表現者としての彼の才能と彼の音楽的センスを褒めた。

私の言葉に深い感銘を受けた彼はその後当時の職場を辞し、今は細々と音楽活動を続けている。
収入は激減したが心は何時も晴れやかであり以前よりも明るく前向きにそして活動的となったという。

程無くして伴侶にも恵まれ、今は二人でユニットを組んで全国を回っていると言う。
”レッテリングが災いしその後そのレッテリングから解放された一人の人物の好例”である。

ですから不用意に”あの人は○○な人よね”というのは止めましょう、大変な事になりますよ

自分と言う存在を楽しみましょう、自分と言う存在を思い切り誇示しましょう。
貴方は貴方と言う完全オリジナルであり他の誰でもない存在です。

色々な自分が自分の中に眠って居る事を理解しましょう、そしてそららを表出させましょう。
隠してるなんて勿体無い、知らないなんて勿体無さ過ぎます。

私はアナタの中に眠る”もう一人のアナタ”を目覚めさせて上げます、完全覚醒させます。
そしてもっともっと魅力ある”アナタ”になりましょう、光り輝く存在となりましょう。

それこそが”本当のアナタ”なのですから…。

セルフフォトセラピーの功罪について

此処暫く数名の方にフォトセラピーを実施させて戴いている。
遠方の方数名、リア友若干名である。

そして…何れの方々も目覚しい”進化”を遂げておられる。
始めた頃と較べると”目覚しいほどの覚醒”をされておられるのは誠に嬉しい限りである。

セルフフォトセラピーの効能とは凡そ以下のような物である。

・自身で自身を撮るという行為が自身の中に隠れた”魅力”を自覚するのに適している。
・自身の中にある”もう一人の自分”が目覚める。判断材料が増える為迷いが軽減される。
・表現力が豊かになり、感情表現が増え、それが人間関係をより円滑にする。
・人に見てもらう事(つまり私に見せる事で)と言う意識がアドレナリンの分泌を促し若返る。
・色々と表現方法を考える時間が増える為、他の余計な事を考える時間が減りストレスが減る。
・何より自分が好きになる

ですね。
しかし”光”の部分が増えれば当然”闇”の部分も増えます。

次は”罪”の部分について

・多少自意識過剰気味となり偶に”ハイパー化”という症状が表れる事がある。
 自分以外全てが”カス”に見え女なら女王様、男ならキングみたくなる(笑)(これは稀)

・自分自身のレベルが飛躍的に上がるので今まで何の問題も無く暮らしてきた周りと波長を
 合わせる事が多少苦痛に感じる事もある。自身のレベルアップと同時に回りもレベルを上
 げてくれるとありがたいのだが^^;。

・自身のレベルアップに伴い求める異性のレベルが飛躍的に上がる為カスを掴み難くなるが
 周りに自分のレベルに合う異性が居ないと異性を求め右往左往する結果となる(笑)
 最終的には国外脱出をした者も居る(実話)。

・まぁ当然の結果だが以前よりも飛躍的に綺麗&格好良くなるので異性が寄って来る^^;
最初は戸惑いを感じる程よって来る場合もあるのでそれを捌くのが大変^^;。

とは言いつつも有る一定以上の効果を今の所示しているのでこれはかなり有効な手段であると思って居ます。

夫婦ならお互いがお互いを撮り合い批評しあう事で絆が強まります。
家族ならもっと家族の会話が増え、互いの間の距離が縮まります。
恋人同士なら大切な人の自分しか見せない一瞬が見れるので余計相手を好きになれます。

これから年末へ向けイベント続きの毎日。

”新たな自分”に出会う為フォトセラピーやってみませんか?^^v

週末は何時も雨…

週末しか時間の取れない同胞が居る。

日曜日は基本お休みにしているし月曜日から又忙しくなるので私も出来れば英気を養いたい。

故にお互いの利害がぶつからない日という物を選べば土曜日しかないのだ。
しかし…先週に引き続き、今週も雨。マジで勘弁願いたい。

同胞は今時電車に乗ったことがないという箱入り。故にこちらが向かわねばならない。

相手も自転車での移動故雨が降ると当然視界も悪くなる。
昨夜より少し風邪気味である事も加味し、今回も延期となった。

順調に回復の兆しを見せて居る事だけが唯一の救いか。
さりとて私も来週から又忙しくなる。

来週の土曜日は晴れてくれる事を切に願いたい。

マネジメント心理学

何やら聞き慣れない言葉で戸惑いを覚えられておられる方も居られるであろう。
それもその筈、私の完全造語なのだから聞きなれていなくて当然である(笑)

私は長く亡父の会社で宣伝部部長職を預かり父の会社のマネジメント一切を仕切ってきた。
代が兄へ移譲し経営方針が変わってからは意見の対立が増え、私は職を辞した。

今はフリーセラピスト一本だが当時は宣伝部部長と心理職のいわば掛け持ちであった。
片手落ちと言う言葉は私の尤も嫌いとする言葉であり私にとっては最も屈辱的な言葉である。

基本いい加減で完璧主義などとは縁遠い私だがそれはあくまでプライベートでの話。
仕事として請負った以上は上出来以上の出来を示して一人前と言うのが我が持論。

そしてそれは亡き父の教えでもある、人間に完璧は無い故に常完璧より上を目指せと…。

マネジメントと心理学は一見すると全くの別物のようだが実は結構似ている。
数字も人の心も水物であるという点は同じである、常流動的で変化に富み動きに一定が無い。

又、お金の動きは人の心と連動している。
一つの例を取ってご説明しよう、流行という言葉がある。

例えばファッション、流行を作る人間は買い手となる消費者の心の動きに常敏感である。社会情勢に目を向け人々のトレンドを察知し、心の奥にある”求める物”を形にして行く。

それが合致すれば莫大な金を生み、失敗すれば破産者となる。

まぁ賭け事に似ていなくもないが、賭け事と違うのは精緻なデータを揃えれば揃える分だけリスクが減るという事である。

お金の流れは人々のその時々の心がどの方向に向いているか?に比例する。
その”流れ”を掴めば大不況の波にあってもお金を産み出す事可能なのだ。

私は経営コンサルタントではないがある時期似たような仕事をしていた時期もあった。
偶々縁が有ってお心を診させて頂いた経営者の方に私の素質を見抜かれたのだ。

顧客リストを見させて戴き年齢層、居住地、購入リストから彼らの嗜好性を分析、又ご意見箱を設け、ご意見をくれた方に粗品を進呈を提案。予想的中で更に詳細な情報が集まった。

それを元に商品開発部と連携を組んで次の商品開発のヒントを差し上げた。
その年の売り上げは50%増となったと謝礼を頂戴した。

『相手の立場に立って考える事』

これは何も心理学の世界に限った事ではない。
商売の世界や物を教える世界でもとても大切な所為である。

人間が生きる基本であり、これが上手く行くか行かないか?で人生随分違ってくる。

マネジメントと心理学、一見するととてもかけ離れた存在のように見える。
しかし其処に”人の心”がある限り決してそれらは無関係ではないのだ。

”人の心”を大切にする事は全てに通じると私は思っている。

セラピスト、セラピストと天狗になるなかれ

勿論私自身に自戒の意味を込めて申しております。

過日仕事前の一服とセブンイレブンにて缶コーヒーを飲んでいた時一見すると私より若いかな?と思しきとてもお洒落な紳士にお会いしました。

目が合いましたのでそのまま無視をするのも失礼ですから時候の挨拶を交わしました。

北九州でアパレル関係のお仕事をされておられる40ちょい過ぎの方でしたが流石アパレル関係のお仕事をされておられるだけあってファッションセンスは抜群。

特筆すべきはその洗練された立ち居振る舞いです。

私の職業についても関心が御有りらしく独学で少し勉強された由。

失礼ながら長く専門としていた自分が恥ずかしくなる程豊かな知識をお持ちでした。

社会規範についても私と同じ価値基準をお持ちで意気投合。
又常自身を下げ相手を立てる姿は正にプロフェッショナルだと舌を巻きました。

自らの職業意識に胡座をかくつもりはありませんが改めて勉強になりました。

人と人との縁を大切に… ケータイ投稿記事

フリーセラピストとなって早19年目(2009年執筆時段階)

来年でいよいよ20年目に突入である。

過日此処でも触れさせて戴いたアパレル関係のお仕事をされて居られる紳士に図らずも又お会いした。

嬉しかったのは私の事をご記憶戴けて居た事と当ブログを早速ご覧戴いた事である。

しかも近い内にコメントも下さるらしい。

誠に有り難い限りである。

どんな仕事もそうであるが特にこの仕事は『人と人の縁』をとても大事にしなければと常思う。

お一人お一人の縁を大切にしお一人お一人のお心に寄り添う事が肝であると思う。
その意味に於いて私は本当に恵まれて居ると思う。

今日もそんな素敵な人たちと出会いそして仕事をしていきたいと願って居る。

今日も一日お疲れ様。

己を知り敵を知れば百戦危うからず…

と言っても兵法の話ではなく恋愛ネタの話です(笑)

過日、何時もの様に仕事を終えて愛方を待つ間近くの広場でモクを吸っていた時の事。
とても感じの良さそうなお兄さんと遭遇、時候の挨拶から我が出身大学の1年生だと判明。

学部は異なれど我が後輩に変わりなし、他愛も無い話で盛り上がっておりました。
中で恋愛についての話に移行し、どうも恋愛に対して臆病になっているとの事。

偶々恋愛に対して不幸が続いた為、中々次の恋愛へ移行できなくなっておられました。
ルックス的にもナイスルッキングで性格的にもとても素直で真面目な性格。

モテ要素をとても数多く備えておいでであるにも関わらずその真価を発揮出来ずに居られる。
故に”御節介心”がムクムクと沸き起こり1時間余りお話をさせて戴きました。

つまり彼にとって一番の原因は”思い違い”をしている事でした。
自分に対しても、恋愛に対しても一方方向でしか物事を見れなくなっていたことが一番の原因です。

物事とは須らく”多方面”から見る必要が有ります、一方方向から見ただけでは”本質”は見抜けません。
自らの事についても同じ、ある一つの事に固執してしまえば他の可能性に目が行かなくなります。

氏が正にそうでした、でもそれでは余りに勿体無さ過ぎます。
故に氏の中に眠る可能性を最大限に引き出し又、ちょっとした恋愛テクニックもご伝授差し上げました。

氏にとってはかなり『目から鱗』状態だったらしく曇っていた目の光がみるみる輝いていくのが手に取るように解りました。こういう解りやすい人はとても大好きです(笑)

最後はとても元気で笑顔でその場を退出されました。

某公共広告機構のCMではないですが『他人の事は見えやすい、自分の事は見えにくい』のが世の倣い。私とて例外に非ず、愛方や同胞や友人・知人より色々と教わりながら”今の私”が有る訳です。

”敵を知り己を知れば百戦危うからず”

先ずは相手を知る前に自分自身の事をもっと知りましょう。
そうすればもっともっと可能性は見えてくる筈です。

私はこれからもそういう”見えない自分”という存在を多くの人に説く人でありたいと思います。
そしてその中で私の中にある”まだ見ぬ自分”にも出会えて行ければと思って居ます。

人の心は脆弱でもありとても強固でもある

欲望と理性と言う相反する感情が一つの”器”にある人間の”心”という存在はとても脆弱な物である。

一寸した事でも動揺するし一寸した事でも落ち込むし一寸した事に深く傷ついたりする。

だが人間は又、その脆弱であるが故にとても”強固な存在”でもある。
それは脆弱な者が集まり”絆”を得、そして”強固な存在”となる事が出来るから。

この仕事に就いて20年余りとなるがこの”脆弱性”と”強固な存在”は常私の頭を悩ませている。
そして人はその”脆弱性”の中に眠る”強い意思”を如何に呼び覚ますか?に全てが掛っている。

人は私の事を”強い”と言う、しかし私ほど”脆弱な存在”は無いと自負している。
打たれ弱いし直ぐ落ち込むし直ぐ腹を立てるし直ぐに泣く^^;

偶に同胞からも”子供か!w”と揶揄される事もある始末である(爆)
しかしそれと同時に同胞からは”凄い親近感を覚える”とも又言われている。

彼らと同じ目線で物を見、物を感じ、物を捉える事が出来るというのが私の最大の売りである。
これは私が言った言葉ではなく我が同胞方々の私に対する評価である。

そして一部の方々からは”マジシャン”という異名も頂戴している^^;。
”笑顔の魔法”を掛ける凄腕マジシャンなのだそうだ(爆)

一部の小学生からは何故か”魔法使いのおじちゃん”という言われ方をしている(笑)

昔、魔法使いに憧れRPGの使用キャラを全て”マジシャン”にしていた事が原因だろうか(爆)
今でも思う事がある、”魔法が使えたらどんなに素敵だろう”と…。

ラドクリフ君みたいに杖に乗り、火を出し、物を何かに変える事が出来たらどんなに楽しいだろうかと。

でも、私は思う、人はそれぞれ固有の”魔法”を持っているのではないだろうか?と。
人を元気にする魔法、人を笑顔にする魔法、人を明るくする魔法、人を楽しくする魔法…。

勿論その反対の暗黒魔法たる物も存在するだろう。
人から元気を奪う魔法、人から笑顔を奪う魔法、人から明るさを奪う魔法、人から幸せを奪う魔法…。

我々専門職がもしマジシャンならば多くの人々に”幸を与える魔法”を掛けたいと思う。
その為には常、勉強が必要だし修練も必要、精神力も当然鍛えねばならない。

歴史に名を残すとか何かを記すとかそんな大それたことを考えて居る訳ではない。
誰か一人でいい、私と言う存在が生きていた事を覚えてくれる人が居ればそれで充分である。

フリーセラピストというお仕事…

私の仕事は精神科医でも神経内科医でもカウンセラーでもない、日本では未だ馴染みは薄い仕事である。


海外ではメジャーな仕事で欧米では精神科医よりも社会的地位の高い地域もある程。(ドイツに於けるマエストロと同じ位置づけ)。

それは”心の専門家”であるという何よりの証である。
精神科医や神経内科医やカウンセラーが匙を投げた病気ですら我々は治す。

それが使命であると思うしそれを誇りとして日々を生きている。
彼らが各々やっている事を我々は一手に引き受けている。

又、この仕事は定点的ではなく流動的である為汎用性が極めて高い。
居を構えていない為、何処へでも移動可能である、つまり在宅医療も可能という訳だ。

”居宅介護専門の精神科医”

そういう風に我々の仕事を位置づける人もいる、当たらずとも遠からず。
基本居宅訪問を基本とし、遠方ならホテルの一室を借りてやる事もある。

この仕事に就いてそろそろ二十年が経とうとしている。
10年を一昔とするならば二昔という事となる。

短いようで長い、そして本人的には長いようで意外と短い20年であった。

その間に彼女を作り父が亡くなり兄が大病をし、そして新たな仕事が増えた。
これからも私は私と言う存在の持てる可能性を信じて前進して生きたいと思っている。

そして常同胞の心に寄り添える存在でありたいと願う。
常同胞と歩を同じくして”病”という見えない敵と闘って生きたいと思っている。

ふと偶の休みを得て思った事をつらつらと書いてみた。さぁ!今日から又仕事である。

どんな出会いが待っているか?とても楽しみである。

素人が軽々しく口にするな!

インプリンティングという言葉が精神医学の世界にはある、直訳すれば『擦り込み』という意味である。

有名な話だと1970年代米の某映画のコマの中に某炭酸飲料水メーカーのコマーシャルを何万分の一コマ単位で入れた所、その映画を見終わった後の売り上げがかなり伸びたという報告がなされている。

人間で言う所の”癖”もこのインプリンティングのせいである。

某お笑い芸人が首を傾げるのも最初は業とだった物が繰り返されることで本当の”癖”となってしまった。何度も同じ行為をする事によりその行動や思考が脳に”刷り込まれ”て仕舞う訳である。

我が元にはこの”擦り込み”による被害者が毎年かなりの数やってくる。

小さい頃より親・兄弟・近所や学校仲間から”貴方は○○な人よね”という間違った情報を植えつけられる。例えば線が細くて声が小さい人に”性格的におとなしい人”だとか”クラシックが好きそう”だとか…。

んでそれがそのまんまなら問題は無いんですがそれが違っていた場合最悪”人格剥離”に繋がりかねない。

本当は○○な人なのに周囲から長年△△な人と言われ続けその違和感の中でずっと生活を送ると人は自分という存在が解らなくなる、自分と言う存在が希薄になり、最悪嫌いになる。そうなるとかなり厄介だ。

ある元・自動車メーカーの販売員さんだった人は元々ロックが好きでロッカーになりたかった。
しかし小学校から大学を出るまで親の意向にずっと沿う生き方しか出来ず結果リーマンとなった。

偶々ご縁を頂いてお会いしたのだが私は彼の今の職業が向いて居ない事をすぐに見抜いた。
そして本当は”ロックをやりたいのでは?”という事も直ぐに解った。

それを告げると彼はとても驚いた様子だったが同時にとても安堵しとても喜んで居た。
それは”やっと本当の自分を解ってくれる人と出会えた”という喜びであっただろう。

話に華が咲き、私はロッカーへの道を歩む事を説いた、苦しいけれど充実した日々を送る事を説いた。
その後彼から連絡を貰い、会社を退社、親元から離れ今はアマチュアバンドで頑張っているという。

インディーズでのデビューのイベントに参加するのだという、私はエールを送り彼はそれを受取った。

私のもう一つのブログの方にもこれと似たような被害を受けた人が居る。
その人は昔、重篤なうつ病で精神神経内科に通っておられた。

しかし周囲の友人・知人は皆、口を揃えて”うつ病は贅沢病だ、甘えだ、もっと不幸な人は沢山いる。
もっと強くなりなさい、もっと我慢なさい”と言う…。

私から言わせて貰えば何も知らない素人が余計な事を言うんじゃない!と一喝してやりたい気分である。

故に素人の戯言に耳を傾ける必要はなし、貴方は貴方で居るべきだと説いた。
氏は今、そういう自分のような鬱の人の心を影で支えるボランティアをしている。

同じ事は引きこもりでもあった。

何年も引き篭もって家から出られない少年が居た。
彼が何年も引き篭もっていたのにはそれなりの理由がある。

だが友達や学校の先生はじめ一番理解していなくてはいけない両親ですら彼の”本音”を理解出来ず、
学校へ行け、引き篭もりはお前のワガママだ。そんな事をしていたら社会の落伍者となると彼を責めた。

学校の通学途中彼は陸橋の上から身を投げようとし偶々その時居合わせた私によって未然に防がれた。
私は近くの公演で彼から話を聞きそして激しい憤りを覚えた。

直ぐ彼を家へつれて帰り事情を両親に説明、そして両親を諭し理解を求めた。
ここら辺りは私の独断場である、両親の心を”懐柔”する事など朝飯前だ(笑)

先ず彼の一番の理解者でなくてはならない親が彼の味方にならないと彼は変われないと思った。
故に親を懐柔し彼の側に付かせた。

その後学校へも赴き、教育委員会とのパイプを持っていると嘯き(笑)教員を説得。
虐め撲滅へ尽力してもらうよう進言(半ば脅し)てきた(笑)。

その後暫くして彼は復学、今は社会人として皆と共に忙しい日々を送っている。

兎に角周りの戯言に耳を傾けることを先ず止めて頂きたい。
そして何より回りが自分勝手に無遠慮に傍若無人なる発言をする事を控えて欲しいと思う。

うつも引き篭もりも”贅沢病”に非ず、本当に苦しんでいる人の心を抉る真似だけは勘弁願いたい。

人の本質を知る…

実は諸般の事情により今まで一部”無償”でやっていたセラピーを全部”有償”とする事となった。

別ブログの方にも我が同胞は沢山居るので一応その旨告知させて頂いた。

しかし…いきなり”有償にします、今までの方は即座にお支払い下さい”と言われて払う人は居ませんw
と言う事で”有志の方々のご意思により一律料金にてお願い申し上げます”と一応筋は通したつもり。

ですが…一番私の手間を取らせた方々が口を揃えて”約束が違う”とのたまい始めた^^;。
確かに方々が口々に言われる事には一応の筋は通っているように思える。

が…こちらとしてもずっとボランティアを続けて行く訳には行かない。
ある一定の期間が過ぎれば当然有償となるべき事はある程度予測できていた筈。

それともまさか”一生タダでセラピーを受け続ける”つもりで居られたのだろうか…。
(だとすると恐ろしい勘違いなのだが^^;)。

確かに最初から有償にしなかった私も悪いと言えば悪い。
ご新規の方は全て最初から有償としているしそれで相手にもご納得頂けている。

ですが”人の為となる人となれ”と亡父の座右の銘を私なりに懸命に今まで守ってきたつもり。
私は守銭奴に非ず。金銭的困窮状態にある人からお金を搾り取るような真似はしたく有りません。

我が同業者の中には身内ですらキチンとお金を取る人も居ます。
ですが私は其処まで”鬼”にはなりきれません。

ですが時として”鬼”とならねばならぬ時も在る事を今日、私は知りました。

此方でご新規で同胞となられた方は最初から”お支払いする心積もり”で来られた方々ばかりである。
”一生無料”なんて恐ろしい心得違いをされておられる方は一人も居ませんでした。

あちらのブログの方でも告知後直ぐ御入金頂けた”常識人”も数名居られた。
しかも”一回”乃至は”数回”しか面倒を観て居ない未だ皆私より遥かに年若い方々ばかり…。

そして”ゴネている”のは私と同年代か下手すると上の世代の方々ばかり…^^;
普通これって逆じゃないですかね?

人の本質って奴を知る今回は良い機会となりました。

今後はそういう”厚顔無恥”の輩はどんどん切り捨てる方向で参りたいと思います。
私は守銭奴ではありませんが道化者となるつもりも私は有りません。

このままずっと無償を続ける事は私のプライドが許しませんし有償の方々に対して大変失礼です。
例え一部のセラピーに限ったとしても回数をこなせばかなりの額となります。

中には”幾ら掛っても治したい”っていう人も居ます。
そういう”やる気”を見せて頂ければこちらだって採算度外視でやりますよ。

でもねぇ…ハァ、人間の”醜さ”を改めて垣間見ちゃった感じです。

先駆者で在り続ける事…

歌手の忌野清志郎氏が亡くなられた。

ロックの日本に於けるパイオニアとして国内は元より海外にもその足跡は多大なる影響を持っている

獣は死して皮を残し人は死して名を残す、氏は正にそれを王道で行った人間であると思う。

嘗て我が恩師が我に申された言葉…『○○君はパイオニアだね』。

我が地元はとても封建的な場所にて我より前に普通学級に身体障害者が入学した例は無く、
皆、養護学級や養護学校へ進んでいた。しかし我が恩師はそれを嫌い教育委員会と衝突。

自身も早くに目の光を失い福祉大学へ進学、牧師として多くの正に『迷える子羊』をお救いになられその迷える子羊の中に又、我も居た。

私がパイオニアとなれたのは偏に牧師先生のお陰であり氏の存在無くして今の私を語る事は出来ない。又、氏と同じように小・中・高校そして大学と私を支え続けた多くの方々の尽力無くして今の私は無いと思っている。

『人は生垣、人は城』神君信玄公のお言葉であり我が座右の銘とする所である。
人があるから我有り、又、我ありて人ありと私は思っている。

多くの方々が私の生き方を支持し、又、とても強靭な精神力を持っていると言われる。
確かに生半可な気持ちで出来る仕事に非ず、人の命を預かっているという重責を常背負いながら生きる事は並大抵の事ではないと思う。

だが、それ故の誇りや自信という物がある事も又、事実である。

小学校から大学を出る迄、常、私は”パイオニア”であり続けた。
そして今、仕事面に於いても私は”パイオニア”として働き続けている。

この仕事を日本で検索を掛けても中々ヒットしない。
海外で同じ様に検索を掛ければかなりの確率でヒットするのだが未だ日本では稀である。

それ故訝しがられ不安がられ疑心暗鬼の目で見られる事も暫しである。
だが一度私の仕事ぶりを見られた方は殆どの方が”あぁ”とご納得戴ける。
(それでも未だ訝しがられる人も居るには居るのだが^^;)。

精神科や精神神経内科、カウンセラーでも治せない心の病という物がある。
まぁぶっちゃければ”薬じゃ治せない心の病”という物は実際に存在する。

そういう”投薬治療では治せない心の病”を治すのが我々の仕事だと私は自らの仕事を位置づけているし又、同胞方々にとっても我々は”最後の牙城”である場合が多い。

色々な精神科や精神神経内科やカウンセラーを渡り歩いた結果我が元にたどり着いたというケースがとても多い。我が元がもし駄目ならそれでお仕舞いという方々ばかりである。

勿論物凄い重圧であるし重責である、何せ”此処が駄目なら後は死ぬのみ”なのだから。
オーバーと思われるかもしれないが相手はそんな心積もりで来られているのだから大変。

だが私はその重圧すらも楽しむ、そして同胞と同じ時を過ごし完治という頂目指して共に悩み共に苦しみ共に泣きそして共に笑い抱き合う…。

それが先駆者であり続ける事の意義であると私は思う。

恐らく清四郎氏も少なからず私と似たような感情を抱いておられたのではないだろうか?
先駆者で在り続ける事の苦悩と楽しさを自身の心に同居させながら。

氏の死に際してふとそんな事を思ったので此処で書き綴ってみた。

『治す』のではなく『闘う』のである。

此処数日、異常な程の眠気と倦怠感、そして焦燥感と戦いながら日々生活をしております。


我が元へ来られる方は一名の例外も無くこう仰います。

『先生、私治りますか?治してください』と…。
大抵我が門を潜る方々は精神科や精神神経内科やその他医療機関で匙を投げられた方が多く
我が門を潜る頃には他の精神医療機関には頼る場所が無いという人が多い。

勿論私とて彼らの心の病を治して差し上げたいしその心積もりである。
だが、敢えて私は彼らにこういいます。

『治すのは私ではなく貴方自身、貴方自身が治ろうという意思なくして病は克服できません』と。

私が患者を患者と呼ばず”同胞”と敢えて呼ぶにはそれなりの意味があります。
先に述べた通り、”病気という眼に見えない敵と共に闘い共に勝利する戦友”という位置づけから私は彼らを”同胞”と呼ぶのです。

勿論、尖兵は私、そしてしんがりは彼ら・彼女らです。
私が先導し、雑兵を蹴散らし、ラスボスを押さえ込んで最後の一刺しは彼ら・彼女らの役目。

いわば”あだ討ち”の助っ人のような存在であると私自身はそう自身を位置づけています。

故に『治す』のではなく『闘う』と位置づけています。

本人の”治したい、治るんだ”という強い意思なくして精神疾患を治す事は不可能。
逆を言えばその本人の”治したい、治るんだ”という強い意思の後押しをするのが私の役目。

彼らの後ろに立ち彼らが”病という見えない敵”に堂々と恐れず立ち向かっていけるだけの力を与えるのが我々専門職の仕事だと私は自らを位置づけています。

最近出会った或る同胞を見てふとそんな事が頭に浮かんだので書いて観ました。

天啓とエゴイズム


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何か厳つい題名ですが中身は何時もの様にゆるゆる~でお送り致します<(_ _)>

過日愛方と防府天満宮へお参りに参りました。
此処数週間、新型インフルエンザの関係で新幹線で遠出は避けていた二人。

愛方が此方へ向かう際に使う在来線の中でもマスクマン・マスクレディーが目立つようになり、
又旅行帰りの人も多く乗車している為、マスクは我々にとっても必携アイテムとなっています。

まして新幹線ともなるとその危険度は更に増す訳です。
保菌者が乗車されておられないとも限らない為、今しばらく仕事外での使用は控えています。

と言う事で昨日は天気もよかったので天満宮へお参りに行こうという事となりました。

新山口駅のサポートの駅員さんもやはりマスクをされておられ厳戒態勢下の下いざ防府へ。
既に防府駅は此処数週間幾度もお邪魔しているので勝手知ったる他人の我が家状態(笑)

そのまま、下車し先ずは駅近くのサティにて昼食。

『カフェデュモンド』にて私は鮭のペンネグラタン、愛方はピリ辛ミートドリアを注文。
ハフハフと熱々を美味しく戴きました。

その後天神通りを天満宮へ向けトコトコと歩いていきました。
20数年ぶりに訪れる町並みはすっかりと変わり随分と閑散としておりました。

昔は境内の周りは多くの出店で賑わい日曜ともなると観光客や参拝客で賑わった物。


今でも正月と受験シーズンともなれば結構な人出と言われますが日曜の昨日は人出もなく閑散としておりました。

何となく街の作りが津和野の城下町に似ているなぁと愛方と話しながらアーケードを抜け、途中目ぼしい店を何軒か見つけ後で帰りに寄ろうねという事で取り敢えず天満宮へ…。

着いた先は幾つもの石段の上に鳥居が鎮座ましましてました、その数かなりの高さです。
ですが此処で愛方の機転が働きます。車で先ほどからこちらへ下る人が多いという事は、車で上まで上がれる道があるという事。

ならばその道を行けば境内まで行ける筈というのが愛方の考え。
その考えは見事に的中、ガイドさんに聞けば裏道があり傾斜は急ですが境内まで登れるとの事。

中年の感じの良い男性ガイドさんに付き添われ境内の方まで上がります。
そしてお宮へ参ります、生憎15円(充分ご縁)も45円(始終ご縁)も無かったので10円を投下
参拝の仕方に倣って参拝を無事済ませ御神籤を引きに参りました。

其処でミラクル発生!

今年の初め、博多、天神に有ります警固神社にて御神籤を引きその際出たのが大吉。そして昨日引いたおみくじも又大吉。しかも中身の文言が全く同じ^^;

見ると御神籤番号まで一緒ではないですか(ノ゜⊿゜)ノびっくり!!
偶然の一致とは言えこれには流石に驚きました。

しかも愛方共々大吉で文言は愛方の方が遥かに良い^^V
私の方はやはり”短期は損気”と書かれて居りました(笑)

その後、当日も今日と同じ暑い日でしたのでお茶をしに境内にある喫茶店へ。
色々ありましたがやはりその店オリジナルメニューを頼むのが筋と梅&バニラミックスを。

仄かな梅の酸味と薫り、そしてバニラの甘さが相まってとても美味なる物でした。

その後日記にも有るように境内の鳥居の写真とししおどしを写メに残し又来た道を下ります。

ガイドさんは高知のご出身らしく高知の県民性を熱く語っておられました。
高知県民は情に厚く素直で疑う事を知らぬ、協調性があり助け合いの精神も豊かである。

やはり台風など自然災害が多い街であるが故に互いが互いを助け合わねば生きられぬ場所故の県民の智恵だと申されておいででした。

まこと私が知りうる高知県民は皆暖かで優しく情に厚く、親切でした。坂本竜馬が我が地元へ訪れた事もあるらしくそれが高知弁の一部の流通にもなっているとか。遠く離れた場所と似た方言を使う地域が有ると言うのは何とも不思議な感じを覚えます。

神社を後にした我々は境内の中にある売店へ。
石原裕次郎を髣髴とさせる店主の明るい接客に心解され雷お輿を購入。

そして先程後で寄ろうねと話していた店屋によりました。

ヨーロピアン古雑貨を扱う店は御香の仄かな香り漂うヨーロピアンテイストなお店で、
狭い店内に様々な雑貨がひしめいており異国情緒漂う場所でありました。

玩具屋は昔懐かしいくじ引き屋も兼ねており近所の子供と思しき兄妹が駆け足で入ってきて一生懸命くじ引きをする姿に嘗ての自分の姿を重ね合わせた心持でした。

アーケード街にある家具屋は田舎には似つかわしくない程の(失礼!)豊富な品揃えで、家具マニアな我々の目を充分楽しませてくれました(一日居ても飽きないかも^^;)

その後はプラプラとサティへ戻って買物をしたりお茶をしたりで無事帰宅とあいなりました。

閑話休題

境内で彼女さんにちょっかいを出している彼氏さんとのカップルが居て仲睦まじい姿に微笑ましい感じを覚えておりました。その中で思いを馳せたのが題名にもあるエゴイズムです。

我が同胞の中には所謂恋わずらいで門を叩く人も少なくありません。
又、大学時代恋わずらいで我が所へ助けを求めに来ていた後輩も数多く居りました。

中には彼氏さんに甘える自分に対して自分のエゴじゃないか?と悩む女の子も居ました。でも考えてみると恋愛と言うメディア自体が既にエゴイズムな訳です。

だって、相手が自分の事を好きか嫌いかなんて実際付き合って見なければ解りません。
或いは相手は嫌かもしれないし相手も自分の事を好きかもしれません。

又、最初は余り好きではなくノリで付き合っちゃったとしても後で心の琴線に触れ本気モードになるカップルだって少なく有りません。

見知らぬ相手を好きになる事自体エゴならばそのエゴを貫き通す事も又愛情です。

相手の事は好きだけれど別の女性が彼を好きならその人に彼を託すのも又愛情なんてのは
私に言わせれば単なる自己陶酔です。本気でその人の事が好きでその人を幸せにしたいその人を幸せに出来るのは私しかいないと思えるならば例えそれが略奪愛でも敢行すべき。

私は愛方と出会った時、私しかこの人は幸せに出来ないと確信しました。
それが例えエゴだろうが勘違いだろうが構いはしないと思いました。

その後その思いは確信へと変わりそして現在に至っています。
誰かを不幸にしたり誰かに迷惑が掛らぬ限りエゴイストでいいじゃないですか。

誰かを本気に好きなる、誰かを本気で幸せにしたい、その気持はとても崇高で大切です。
その思いを捻じ伏せたり説き伏せたりしては行けないと私は思います。

天満宮に居たカップルを見てふとそんな事が頭に浮かんだので書いて見ました。

『予言の心理学』

題名は偉く厳しいですが内容は何時もの様にゆるゆる~でお送りいたします(笑)
(第一筆者自身が緩い奴なのに堅苦しい内容なんて書ける筈がありません^^;)。

所謂何も無い所でコケちゃう人とか同じ場所で同じ目に遭う人って結構居ますよね。
そういう人っていうのは結構潜在意識に”失敗する”と擦り込みされている人が多いんです。

失敗を怖がる余り失敗をした場所や境遇に陥ると緊張してしまい”又失敗してしまうんじゃないか”と思ってしまう。実はこれが”失敗の一番の元”だったりします。

潜在意識学的には”失敗するんじゃないか=失敗した方が良い”という風になります。
潜在意識って奴は案外融通が効きませんので^^;

んでそれを回避するには”事前に結果を自分の中で予言しておく”というやり方があります。

例えば同じ場所でこける人ならばそのコケる直前で”自分がコケずにスムーズに通り過ぎた”イメージを先に行動に起こす前に起こします。

勿論これをやったからと言って直ぐにコケないようになる訳じゃありませんが、コケにくくなる事は確かです。

それは所謂脳の”擦り込み作用”を利用するからです。
心理学の専門用語で言う所の”インプリンティング”という奴です。

頭の中で”成功したイメージを繰り返し持つ事”でそれを潜在意識に受け渡す事が出来れば
それを成功に導く事が出来る様になります。

イメージ的には”実際に成功した時の達成感や喜びの感情”が湧きあがってくるようになればほぼ成功だと言って良いでしょう。

実はこれ”依存症患者”にも結構有用な方法なのです。
”依存症”の人は”何かに依存しなければ不安で仕方ない人達”な訳です。

ならば”依存しなくてもしっかりと二本の足で立っているイメージ”をインプリンティングすれば
”依存しなくても良い自分”になる訳です。

当然”依存している自分”は嫌いな訳ですから、”依存していない自分”を想起しそれを繰り返す事はそんなに難しい事ではありません。

そしてその”依存していない自分”を何度も繰り返す事で”依存していない自分”の方が正しい自分という事に脳は認識し段々と”依存している自分”から遠ざかる結果となります。

勿論同時に”依存する方向を変える”と言う方法も取ります、つまり”誘導”ですね。
私の場合酒や過食、そして薬物依存の場合不安を解消する対象を”私”に向けさせます。

不安が首を擡げた時、”私”を想起させ私の方へ導くようにすれば依存対象から遠ざける事が出来る様になります。勿論それをする為には365d24h体制でなければなりませんが…。

それでも”何かに寄る辺”を求める事が出来れば”悪癖を断つ”事は出来る様になります。
そして完全に”悪癖を断つ"事が出来たら今度は”私依存”を徐々に解消していきます。

その方法は私自身が解っているので離すのはそう難しい事じゃありません。
結果的に自立歩行ができる人となれる訳です。

”依存”は怖い病気に非ず、誰にでも起こりうる”心の病”です。
ならばその”心の病”を私と一緒になって”克服”していこうじゃないですか。

私は常此処にいます、貴方の傍に居ます。貴方の心の横に私が居る事を忘れないで…。

『誤解の心理学』

私の所は所謂”看板”を上げて居ない。
所謂”宿無し”故自由自在に何処へでも行ける事をウリにしている為看板を挙げ難いのだ(笑)

一応住所的な物は自宅の住所を使っているが此処で同胞を診る訳には行かない。
同胞も住宅地の一軒屋で診て貰う事には抵抗もあろう^^;

故に基本的には同胞の御自宅や近くのビジネスホテル等を利用させて貰っている。
その方がより”日常生活に近い環境”であるが故”心を開き易い”という利点がある。

まぁその分場所代が掛るのが難と言えば難なのだが…^^;
この場所代をもう少し安価に出来ればもっと低料金で出来るのですが…。

んで看板を上げて居ない利点という物は実はもう一つある。

やはり”精神疾患”という物の社会的認知度は日本に置いてはまだまだ低い。
田舎に行くとまだまだ”あの人の家の息子さんは○○○が可笑しい…”等と揶揄される。

昔と違い精神疾患に対する情報はかなり流布されている筈なのだが田舎ではそれらの情報を得る習慣という物が中々無く又所謂”旧態依然”とした慣習だの因習だのが今だ幅を利かせている。

故に看板を上げずに自宅を訪ねるので友人が訪ねてきたと幾らでもごまかしが聞くのだ。
私も近所の方に聞かれたら”○○君の古い友人ですが何か?”と惚ける事にしている。

同胞のプライバシーを守る事も又、我々の仕事の一つである。
秘匿性の高さというのも又、ウリの一つなのかもしれない。

んで此処からが本題(相変わらずなげぇよ(笑))

我が元にはそれこそ恋バナから人格障害まで様々な悩みを持たれている方がやってくる。
恋バナだって立派な悩みである、それで精神を病むケースも実は少なくないのだ。

悩みに軽重大小は無いと常私は考えている。

同胞は”こんな下らない悩みで先生のお手を煩わせるなんて失礼な奴と御思いでしょうが…”と良く言われるが”そんな事は有りません、悩みに軽重大小は有りません。
どんな小さな悩みでも悩んで居る方からみれば重大な事ですから”と申し上げる事にしている。

んで恋バナの多くがこの”誤解”から来る悩みである事が多い。
何故か我が門を潜る人の多くは”美男美女”が多い^^;私が羨むほどに(笑)

だが、これも不思議な事なのだが”縁に恵まれない”というのだ、甚だ勿体無い話である。
彼ら・彼女ら程のイケメン・イケウーなら即芸能界デビューも出来そうな物だが…。

だが其処には”誤解の心理学”の大きな落とし穴が待っている。
勿論当然の事ながら彼らは幼少期の頃からイメメン・イケウーである。

大人は一様に可愛いだのカッコイイだのと褒めてくれる。
本人達もそれはそれで嬉しい物だと思う。

だが…此処にそれを快く思わない連中が居る、彼らに嫉妬の炎を燃やす連中である。
んで彼ら・彼女らは自らの嫉妬の炎でイケメン・イケウーらを焼き尽くす事となる。

つまり”虐めによる洗脳”である。

”そんなに綺麗じゃないじゃん、ってか寧ろブサイクじゃん”と常言い続けるのだ。
最初は戯言として聞いていた本人も何度も何度も繰り返されれば”もしかして…”と懐疑心を抱くようになる。

ここでも再三紹介している”インプリンティング=擦り込み”の心理を悪利用している訳だ。
そうなると鏡に映る美しき姿にすら”懐疑心”を抱いてしまう事となる。

更に拍車を掛けるのが”思い込みの心理”である。

解り易い例で言うと紀香に男が居ないと誰が信じるだろうか?誰も信じはしないだろう。
それが彼ら・彼女らにも適用される。イケメン・イケウー故に既に”相手が居る”と思い気後れして中々声を掛け難いのだ。

男ならまだしも中々女性の方から声を掛けるのは勇気が居る。
(まぁ一度大阪で逆ナンに遭った私が言う台詞ではないが^^;)
その結果ずっと”独り身”という事になるのだ。

某海外有名SF作家の作品ではないがどんな”絶世の美女”でも火星に行けば”化け物”になる訳だ。

だが此処は地球で日本である。異星人の居る星ではない。美人は美人、イケメンはイケメンである。美人やイケメンが”化け物”扱いされる所以は無い訳だ。

”毒を以て毒を制す”の言葉どおり”洗脳には逆洗脳”である。
SEED療法の登場とあいなる訳だ。

少しずつ少しずつ芽を出していくこのやり方は本人が気付かぬ内に芽を出し花を咲かせる。
しかもそれが”さも自分が種をまき水をやりそして花を咲かせたように”見せるのがコツ。

そうして”自信”を植え付けていけばもう大丈夫!戯言なんぞに耳を傾ける必要はなくなります。事実我が門を去って行った人の幾人かはその美貌をフル活用し劇団員として又はモデルとして活躍している者も居ます。

大切な事は”近くの友人より遠くの他人”であるという事。
近くに居るという気軽さから心許すと場合によっては手酷い裏切りに遭う事もあります。
まぁだからといって全てのケースがそうであると言うつもりは毛頭有りません。

只、”人の話を鵜呑みにしない、自らの立ち位置をしっかりとキープする”事はして欲しいと
切に願います。

『意外性の心理学』

嘗て虐めに苦しむある学生の面倒を診ていた時の事である。

見るからにひ弱そうで性格の弱そうな男の子でまぁ虐めの対象としては正に”最高の獲物”と言う感じがしました。

ですが…私は彼の二の腕に注目しました。
そこで尋ねてみました…『君、剣道か何かやってない?』と…。

え!?っという驚いた表情の彼でしたが”いいえ”とそれからは顔を伏せたままでした。
これは何か有るなと思った私は彼の知り合いを尋ね色々と聞いて見ました。

するとある過去の事件が原因で彼は竹刀を握る事を止めてしまったという事でした。
彼に非はなくその時はどうしようもなかったある事件だったのですが…。

そこで私は一計を案じました。

近所に住んでいる暴力系自由業の方からペット(笑)のドーベルマンを一頭お借りしました。
見た目はとても怖いドーベルマンですが躾がちゃんとなされており絶対人は噛みません。

んで彼の彼女さんにも御協力願いました。
勿論彼を苛めている悪友方々も騙して彼の行動を見れる位置まで誘導しました。
(こいつら超単純で一寸面白い物を見せてやると言うとほいほいついてきた(笑))

学校帰りの通学路にある空き地で彼女さんに悲鳴を上げて貰います。
当然目の前にはあのドーベルマンです^^V

んでそのドーベルマンの近くに捧切れを落しておきます(笑)
既に察しの良い方にはお気づきでしょう、つまりそういう事です^^V

突然の彼女の悲鳴、そして近くに捧切れ…過去の忌まわしい記憶よりも今は目の前で悲鳴を上げている彼女を守る事の方が先決です。

ダッシュで捧切れを取った彼はそのままの体勢でドーベルマンの喉元に閃光一発!

ドーベルマンはもんどりうってそのまま気絶。
それを見ていた虐めっ子も蜂の子を散らしたように逃げ帰りました。
彼女さんも彼氏の意外な”格好良い面”を見て改めて惚れ直しました^^V

その後当然の結果として虐めっ子による虐めはなくなりました。
弱いと思っていた虐められっこが実は剣道の有段者と知ればそりゃあ手は出しませんよ。

その後あんなに弱弱しい感じだった彼は徐々に自分を取り戻して行き学校を出る頃には彼を慕う多くの後輩を従える程のリーダーシップを発揮したそうです。

別の例でも意外性の心理学は応用されます。

図書館の史書を勤めていた某女史。
其処へ毎日通うある男性に恋心を抱いて居りました。

ですが服装も地味でお化粧もせず、自分に自信を見出せずにおりました。
しかし…私は彼女の中に眠る”魔性”に既に気付いて居りました。

時折見せる彼女の目の配り方に”魔性”を感じ取っていた私は彼女の”隠していると思っていた”恋心を彼女自身に暴露。

彼女はすっとんきょうな声を上げそうなのを懸命に堪え眼鏡を必要以上に直しそして下を向き汗をかいておりました。

数日後観念した彼女は彼への思いを私に告白、私に教えを乞いにきました。
先ずはひっつめの髪を解き豊かな黒髪を見せる事から始めました。

メイキャップの仕方については既に以前此処でも触れた通りプロのメイキャップアーチストを友人に持っていて色々とご教授願っていたので彼女の顔の作りからどういうメイクをすれば引き立つかは熟知して居りました。

意外だったのは彼女の隠されていた肢体の美しさでした。
いつもダボっとした野暮ったい服を着ていたのは体の凹凸を誤魔化す為でした。

メイクと同時に服装も変えねばとメイクに合う服装に着替えさせた時彼女の肢体の美しさに気付いたのです。

これは使わない手はありません(笑)

所謂”ボディコン系”の燃えるようなワインレッドで攻め、メイクも少し大人メイクに変更。彼が何時も通る場所で偶然会った振りをする事にしました。

まさか図書館の彼女とは思っても見ない彼氏は一発で彼女の魅力に骨抜きにされます。
その後合コンの席で眼鏡を掛け髪をひっつめて何時も通う図書館の史書のお姉さんである事を暴露。

とても彼は驚いていたようですがその彼女の二面性に更に惹かれた彼はそのまま彼女と付きあう事となり数年後籍を入れました。

最後はある夫婦のお話。

所謂昔気質の夫婦で『夫唱婦随』を絵に描いた様な夫婦でした。
旦那は江戸っ子、意気の良さはぴか一でしたが宵越しの金は持たない、浮気は男の甲斐性という感じの頑固者です。それでも奥さんはずっと”忍の一字”で耐え続けていました。

ある時、遂に無理が祟って奥方様が倒れられました。
まぁ極度の疲労から来る眩暈程度で命に別状は有りません。
だがこの手を使わない手は無いと私は子供達と一計を案じます。

布団で寝ている母親の顔に白い布を掛けその傍らで子供らに号泣させたのです(勿論嘘亡きです(笑))。駆けつけた旦那に子供達は食って掛かり奥方の布団から離れさせようとします(そうしないと近づいたら端に寝ているのがバレバレですから^^;)。

旦那さんはがっくりと肩を落としへなへなと座りこんで子供のように泣きじゃくります。
そのまま号泣し男泣きと申しましょうか子供のように足をバタつかせて泣き通します。

その声に奥方様が気付いて目を覚まします、当然旦那は驚きます。
旦那は生き返ったと勘違いして奥方様を思いきり抱締め今度は嬉涙を流します。

子供達は奥の間で大爆笑ですが当然夫婦の寝室には声は届かないようにしています。
その後旦那はギャンブルも女も止め真面目人間に生まれ変わり仕事に精を出すようになり
直行直帰帰宅し夫婦仲睦まじくなったといいます。

予想外の展開になると人は頭を混乱させられます冷静な判断力を失い目の前にある物に恐れ慄き又は惹かれます。意外性の心理とはこういう人の脳の構造を利用した心理学です。

騙しとは又、一寸違う心理なんですがこの辺りの脳の構造の話をすると神経系の話にまで話が及び中々御理解は難しい部分も出てくると思うので敢えて此処では割愛します。

いずれにしても人は”意外性の部分”に惹かれるのだという事です^^V

2010年10月26日火曜日

パイオニアで在り続ける事…

嘗て我が恩師は私にこう申されました”○○君はパイオニアだね”と…。

嘗て我が霊能の師角田章氏は私にこう申されました”君は神より選ばれし選民である”と…。

正直申し上げて私の中で上記のような意識は”全く”ありません(爆)。

そこまで立派な人間とも思って居りませんし第一こんないい加減な奴を神が御選びになる筈がございません^^;
もしお選びになられたのだとするならばそれこそ”神の過ち”でございましょう(笑)

ですが、”パイオニア精神”だけは常持ち続けて居たいとは思って居ます。
私のセラピー理論は常”オリジナルである”という事を売りにしています。

SEED療法は私独自の理論から導き出された私独自のセラピーのやり方です。
言葉を”種”とし、心に”笑顔の花”を咲かせる理論なんて何処の本にも書いていません(笑)

フォトセラピーや霊気ヒーリング、遠隔霊気ヒーリングは元々ある療法です。
ですが元々へそ曲りの性格なので(笑)それをそのまま使用するなんて事は絶対しません。

フォトセラピーは”セルフフォトセラピー”に、霊気ヒーリングはバリ式エステと諸々をプラスし”快癒”に、遠隔霊気ヒーリングは”遠隔霊気浄化ヒーリング”に、それぞれリメイクしてます。

それぞれの専門家の方々に言わせれば”邪道だ!と怒り心頭はご尤も(笑)
ですがそれぞれをそのまんまやったのでは”オリジナリティ”に欠けます。

私は常、”私にしか出来ない事”を追求しています。
それは嘗て我が恩師が言われた”パイオニア精神”に依拠しています。

以前ある同胞が私がやっている事を調べたけれど何処にも載っていないといわれました。

”当たり前”です(笑)。

恐らく”フリーセラピスト”という職業は未だ日本に於いて社会的認知は受けて居ない筈だからです。だからこそ私がフリーセラピストと言う職業に”社会的認知”を与えたい”のです。

以前ある同胞は言いました”先生のやり方は今までのどの精神科医のやり方とも違う。でもどの精神科医のやり方よりも適切で解り易くそして治る自分が実感できると”…。

それこそが私の目指す”治癒”であり”癒し”であります。

小難しい専門用語だの理論だの、んな物は私に言わせれば”無用の長物”です。
同胞が求めて居る者は”完治”であり”癒し”な訳です、それ以外の物は”一切不要”です。

これからも私は常自身が”パイオニア”である事を念頭にお仕事をさせて戴くつもりです。
その中で多くの方々と出会い”共に歩んでいければ”これに勝る喜びは有りません。

『騙しの心理学』 * 修正

5年以上昔の話、ある金持ちのボンボンが同胞で来ていた時の話です。


嘗ての彼の恩師が突然”神からのお告げ”で宗教家となり彼を”洗脳”しはじめたとの事。彼のお父上様は亡父と親交が深く私の事も幼少の頃から御存知でした。

”先生なら間違った息子の方向性を正してもらえると信じてます”と固く握手をされました。
父の古くからの友人であり私にとっても小さい頃からお世話になった方故こちらとしても採算度外視で何としてもご子息をお救い申し上げねばと思いました…(彼とも古い付き合いです)。

先ずは敵情視察とばかりに彼が”洗脳”された宗教団体の事務所(ってか掘っ立て小屋)へ…。事務局とは名ばかりのバラックで”何処が教祖やねん!”っと言った感じ。

”入信希望”と嘯いてパンフレットやら教義やら色々とお尋ねしました。
(正確には何とか入信させようとあの手この手を使って色々聴きもしない事まで喋ってくれたのですが^^;)。

まぁ”新手の宗教詐欺”だなという事だけは確信を付けたので早々に退散。
勿論書いた住所も名前も全て”嘘”ですから追跡される心配も有りません(爆)

その後彼と会いました。

と言っても只”あそこは宗教詐欺だ!!行くな!”と言っても聞く相手ではない事は自明の理。
故にここでもおなじみの"SEED療法”にて彼を”逆洗脳”する事にしました。

少しずつ少しずつ彼の意識を”宗教団体”から剥離していったのです。
当然あちらさんは彼の変化に気づきます、そして”お前は奴に洗脳されているんだ”と嘯き私から彼を遠ざけようとしました。

勿論相手がそういう行動に出る事は先刻承知。
故に彼にはある”決定的場面”を見て貰う事にしたのです。

宗教家の隠蓑を使って”金をむしり取ろうとする決定的場面”を…。
その宗教家が欲していたのは彼ではなく彼のお父上の”財力”でした。

その”財力を欲しがっている決定的場面”を彼の目の前で見せたのです。
当然彼の中の”恩師のイメージ”は音を立てて崩壊していきます。

その後彼の”洗脳”も徐々に解かれて行き遂には”脱会”という事となりました。
彼が私に一言…”お前は俺を洗脳していたのか?”と…。

私は言いました。”あぁ、敵を騙すには先ず味方からってな。頑固なお前に何を言っても無駄だろ?長年の付き合いがあるお前の事さ。俺が口で何を言っても聞 く耳貸さず位解るさ。だから先ずお前を騙して俺自身敵陣へ潜入し中から崩した。そしてその決定的場面をお前に見せえる事で敵の本性をお前に知って欲しかっ たのさ…傷ついたか”?と…。

彼は暫く黙っていました、そして一言…”あの人は俺が学校で苛められていた時俺を助けてくれた。恩師といっても命の恩人でもあったんだ、だから…”。

”人は変わる、良い方にも悪い方にもな。偶々あの人は道を少し間違えただけだ。これからは全うな道を歩んでくれる事を願うよ。”と…。

その後彼は父の後を継ぎ立派な二代目として今も会社を切り盛りしています。

人はあらゆる方向へ変わります、状況によって人によって時代によって…。
その変わる方向がその人が望む方向ならばそれでいい、我々は何も致しません。

しかし…その人の変わる方向がその人が”望まぬ方向”ならば…我々は全力で以てそれを阻止し彼が”望む方向”へ導く義務があると思って居ます。

彼はその後そういう”間違った方向へ行こうとする青少年”を諌め正しい方向へ導く仕事もボランティアで始めたそうです。

”嘗て自分が間違った方向へ進んで行った時その道を正してくれた人が居た。その人の恩に報いる為にも俺は間違った道へ進みかける青少年を正しい方向へ導いてやりたい、一度間違った道を進みかけた俺だからこそ出来る事だと思う”と…。

知覚存在論と認識論(認知心理学)

さて、本日はある友録様の日記を読んで思った事をネタにして見ました。
物凄く厳しい題名ですが中身はいつものようにゆる~い内容でお送りいたします<(_ _)>

人が人たりえるのは何故だと思います?それは”人がその人を人だと認識するから”であります。

これが”認識論(認知心理学)”です。

人であれ物であれ時間であれ自然であれ”その物が在る事を認める事”で始めてその存在が認められます。

所謂”影が薄い人”と”影が濃い人”という種類分けがありますが、それはこの”認識度”の違いです。

ですが”影が無い人”は居ません、つまり”存在が無い人”は居ない訳です。

時間も同じ、時間を時間と認識しているのは人間だけです、動植物には”時間”という概念はありません。

”存在=名前”ではなく”存在=そこにあるか無いかを認識できるか否か”です。
名も無き花も生き物も”そこにある=存在している(認識できている)”訳です。

”痛み”も同じ、これが知覚存在論です。

”無痛無汗症”という病気があります、痛みを一切感じず汗もかかない病気です、”味覚障害”というのもこれに類します。

”痛みを感じないならいいじゃないか”と思うのは素人の浅知恵、”痛みを感じる事”は実はとても大事な事なのです。

”痛み”を感じるから人は危険回避が出来るのです。”痛み”を感じ次に同じ”痛み”を感じない為に人は回避行動を取ります。

そして”痛み”から”回避”する事が出来るのです。

これが”痛み”を感じなければ”回避する術”がないので”同じ痛み”を繰り返し体はどんどん傷ついていきます。

”汗”も同じ、汗をかく事で肌に潤いを与え刺激から肌を守ります、夏汗をかくのは熱射による肌の乾燥刺激を防ぐ目的があります。

”汗”を掻かねば肌は夏の暑さ、冬の寒さに晒され物凄い刺激を受けます、皮膚がんの原因ともなり大変危険な状態となります。

又”汗をかく事”は体内の温度調整にも関係してきます。

高い外気温に晒された体をクールダウンする為に汗をかきます。
これが出来なければ体内の温度はどんどんと上昇し内臓にも多大なる負担が掛かります。

”体が受ける痛み”だけが痛みに非ず、”心の痛み”も又、同じ”痛み”です。

所謂”不感症”という病気は実は”体の病気”に非ず、”心の病気”である事が大きいのです。

あるショッキングな出来事から”心が感じる事を拒否”した結果、体も感じないようになってしまいます。

嘗て”不感症”に悩む女性を診た事があります。

過去の在る事象が彼女を”不感症”にしてしまいました。
しかし”本当に愛する人”が出来て彼女は”不感症”を治したいと真剣に願うようになり我が門を叩きました。

”タッチセラピー”にて1ヶ月、見事彼女は”不感症”を克服。
”感じない体”は”心が感じる体”となり見事彼氏さんとゴールインされました。

”抱擁療法=タッチセラピー”は只抱締めるだけで”心の鎖”を解放つ方法です。
私の場合これに”レイキ・ヒーリング”も加えるので効果が倍増します。

母親が胎児を抱締めるような感覚…性的快感よりも心的安心感を得る方法です。
心の解放を目的としあらゆる”心の鎖”を解放つ方法です。

勿論老若男女を問いません、事実小さいお子さんから70を過ぎたおじいちゃんまであらゆる人に施し効果を上げてきました。

又、”心の知覚”は生きている実感を増し、生きる希望を見出す方法でもあります。

”愛されている事の実感””必要とされているいる事の実感”を与える事は”存在価値”を”認知”し”生きる喜び”を与えます。

”人が人として存在している事”を知覚する事はそんなに難しい事ではありません。
そして”人が人として存在している事を認める事”はあらゆる犯罪抑止にも繋がります。

嘗て暴走族の頭をしていたM君は私の”知覚療法”で族を引退、
その後運送会社へ務め今は組長の娘と結婚、組を任されています。

子宝にも恵まれ”良きパパ””頼りになる組長”として市民にも愛される人となりました。

弱気を助け強きをくじく姿は本当の意味で”任侠道を貫く男の生き様”を見せてくれます。彼は言います”あの時先生に出会わなかったら俺は”間違った道を行 くやくざもん”に身を窶していただろう。でもあの時会えたから俺は”まっとうな道”を歩む事が出来た。父となり”子供に世間様から後ろ指を指されるような 生方だけはしたくない”と強く
思ったよ”と…。

”人が人たりえる為に何が必要か?”それが解ればもっと人は人として自由に生きる事が出来る。

それを私はこれからも多くの人々に説いていきたいと思って居ます。

現代社会が生んだ社会的病理…

“心の風邪”では片付けられないうつ病をどう乗り越えるか
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=880778&media_id=34

ではなく、時代と言う名の波に呑まれし人間の脆弱性が生んだ悪魔である。

時代と言う枠で括れば戦後の経済危機は今の比ではない。
食うや食わずの人が多数出て餓死者も相当数出ている。

だが当時の人々は”経済復興”へ向け皆が心をひとつにし一致団結した。
団塊の世代の方々頑張りにより今の日本の繁栄があるのだと思う。

”生きるか死ぬか”の瀬戸際にあってそれこそ”鬱”になんざなってらんない時代である。
日々”生きる事”に必死であり、それこそ明日未だ命が有るだろうか?と言う人ばかりだった。

当時の状態と較べると今の日本は未だ救いがある。
経済支援策も有り少なくとも当時の人々よりも経済的な不安定さは無い筈である。

所謂”うつになりやすい人”と”うつになりにくい人”という物がある、それは当然の事だ。
だが、此処で注目すべきは”目に見える鬱”と”目に見え難い鬱”があるという事。

”目に見える鬱”は対処がしやすい、それこそ素人でも治せる物も中には有る。
(事実軽症鬱レベルの治し方は講義で受講生方々に伝授し数多くの完治報告を頂戴している)

だが”目に見えない鬱”は対処の仕方が難しい。
何故か?一番厄介なのは”自分が鬱に掛っている事を本人が自覚していないから”である。

そして”本人が自覚”をする頃には”重傷”になっている場合が殆どでこうなると厄介である。
”軽症鬱”の状態で”自らが鬱である事を認識”させ、完治させていく方法が最良である。

と、同時に”鬱になりにくい強靭な精神力”を培わせる事も又大事である。
”打たれ強く”なれば鬱には掛り難い、事実我が元を完治して去った方はそれ以降鬱になっては居ない。

精神力を強靭にし”鬱になりにくい心”を作るからである。

又、自らが”鬱になりにくい環境を作る事”も又大事である。
”そんなに簡単に環境を変える事が出来る訳無いだろ”という言うなかれ。

広範囲に置ける”環境変化”は無理でも極限られた範囲での”環境変化”は充分可能である
所謂”逃げ場”があるのと”逃げ場が無い”のとでは鬱になりやすいなりにくいで大きく変わる

”心の避難場所”は自らで作り出す、それが私のモットーである。
そのやり方を同胞(患者)方々にお教えし実践していただきそして”精神的強さ”を得て貰う。

”自分が好きになり、自分を大事に出来、自分に余裕”が出来れば鬱には掛らない。
よしんばなったとしても”軽症”で済み、自らの力で”立ち直る"事は充分可能である。

その方法を我々専門職は多くの同胞へ伝授しそして”鬱根絶”へ向け日々頑張っている。

私の担当講義”家庭の中の心理学”でも何れ”鬱”についてお話する事があるだろう。
その際、家庭でも出来る”鬱克服法”について受講生方々に是非試して頂きたい。

”鬱”という魔物を正しく知る事、そして決して恐れない事。
それが”鬱”に勝つ唯一の方法であると私は思う。

これでも元・鬱になった事がある専門家である(笑)
鬱になった者の辛さ・歯痒さ・悲しさはわが事のように感じられる。

だからこそ”鬱になりにくい心”を作る事をおぼえて欲しいと思う。

比較幸福論と恒常的幸福論

判りやすく言えば”私は○○さんより○○の部分で優れている、そんな私は幸せ”これが比較幸福論です。

一方の恒常的幸福論とは”今こうして生かされている事を神に感謝”これが恒常的幸福論です。

人間という物は兎角人と何かを誰かを比べたがります。
そして少しでも前へ少しでも上へ上がりたがる種族です。

鋭い爪も厚い鱗も持たぬ人間が地球上で此処まで進化して来れた最大の理由が此処にある。
何かと自分を較べて上を目指そうとする気持ち、それが”進化”へと繋がっていった…。

しかしそれは既に昔の話。

今の人間は”必要以上に人と自分とを比べたがる”傾向にあります。
その結果自分が人より”上回っていれば”まだ救いは有りますよ。

優越感に浸れますし幸福感を味わう事も出来ます。
しかし…もし”比較対象とした人が自分よりも上だった場合”これはかなり悲惨です。

先ず”相手より下の位置にいる自分”という存在が物凄く小さく見えます。
又、そういう対象の人を比較してしまった自分の愚かさが嫌になります。

しかし…此処で終わってくれればまだ良い方です。

一部の人間は”今の自分がこうなったのは俺よりも上に行ったアイツのせいだ”。
”アイツさえ居なければ俺が上に上がれた。第一俺よりも劣るアイツが上に居るなんて可笑しい”と言う風になっちゃったらもうアウト。

下手をすると”お縄頂戴”という憂き目に遭う事になりかねません。

翻って”恒常的幸福論”は今在る自分という物にとても幸福感を抱く人達です。
”こうして生かしてもらっている事に感謝””三度三度食事が取れる事に感謝”
”毎月決まった額のお給料を戴ける事に感謝”などと決して人と自分を較べません。

人と自分を較べませんから相手が上がったり下がったりに一喜一憂する必要は不要です。
”アイツよりも俺の方が…”なんてマイナス思考に陥る事も犯罪に手を染める事も無し。

比較幸福論のように大きな幸福感は味わえないかも知れないけれど小さな幸福を感じられる心を持つ事は”心の平穏”を持つ意味で実はとても大事な事だったりします。

誰かと自分を比較して幸福感を得るより今在る自分の存在を幸福に思う。
日本中の人がそう思えるようになったら幸せだと思いませんか?

私はこれからもそういう”恒常的幸福論”を説いて行きたいと思って居ます。
”オリジナルで在る事の幸福””自分が自分で在る事の幸福”を…。

2010年10月25日月曜日

『引き篭もりとリフレーミング』

私のセラピストとしての第一号の同胞は何年も重い自律神経失調症に悩まされ家から一歩も出る事の叶わなかった当時27歳の都内在住の女性であった、今からもう20年近い昔である。

正確には当時まだ私は”セラピスト”にはなっていなかった。
彼女と出会い彼女の病を共に治す過程の中で”セラピストになりたい”と強く思い今が有る。

自律神経失調症にも段階があり極軽度の物から彼女のように家から一歩も出れない重篤な物もある。又、単に”自律神経失調症”と括られているがその種類は雑多で適用範囲はとても広い

故にそこいらの”金儲け主義者のお医者様”は何でもかんでも”自律神経失調症”で診断書を作成し山のような薬を出しそして或る程度回復したら完治まで面倒を見ず放り出す。

全てのお医者様がそういう訳では勿論無い、中には患者以上に患者さんの事を思い考えてくれる立派な”医者”も居る。まぁ全ての職業に共通している事だが善人も居れば悪人も居る。

んで私の第一号の同胞もそんな”悪徳医師”に体をボロボロにされた者の一人であった。
”絵に描いたような薄幸娘”で当時の私より7つも年上だったが随分年下に見えた。

んでいつものように(というか此処が起点だが)”御節介心”が首をもたげ面倒を診る事に…。

家から一歩も出れないという事はつまりは”引き篭もり”と状況は同じである。
”引き篭もり”だって好き好んで”引き篭もり”になって居る訳ではない。

んで此処からが”リフレーミング”の話となる。

その前に先ず、”フレーミング”とは何か?をご説明申し上げます。
”フレーム”つまり”枠”ですな。んで”フレーミング”とは”枠に嵌める”事を意味します。

例えば”学校”という枠に、”社会”という枠に、”地域”という枠に嵌める事を”フレーミング”と
呼びます。

んで翻って”リフレーミング”とは”フレーミングしなおす”という事です。

つまり”今あるフレーム(枠)を一度外して新たなフレーム(枠)を嵌めなおす”事を差します。
考えても見て下さい、三角形の物体に四角や丸のフレーム(枠)が嵌ると思いますか?

”物理的に無理”です。

ならばその”フレームを変える事”により”枠に嵌めやすくする、枠に嵌めても問題なくする”
これがリフレーミングです。

先ず、引き篭もりの人に聞きます。

”何故貴方にとって此処が居心地がいいんですか?”と。
すると相手から様々な答えが返ってきます。

”楽だから”とか”苛められないから”だとか”TVもゲームもし放題”だからとか色々…。

そして、次の質問に移ります。

”ならば此処以外の場所が何故嫌なのですか?”と。
すると相手からこれまた様々な答えが帰ってきます。

”人間関係が大変だから”だとか、”虐めに遭うから”だとか”色々面倒だから”だとか…。
中には”コイツしばき倒したろか!”っていう程自分勝手な理由を言う人も居ます。

まぁ、でもそこはそれ。こちらもプロですから”顔”には出しません^^;

んで更に私はこういいます。

”なら自らが居る場所を自らが居心地の良い場所にすればいいじゃないですか”と…。

すると相手は即答します。
”無理だ”と。

そして私は更に畳み掛けます。

”何故無理なのですか?無理だと決め付ける前に貴方は何かその場所を自分の居心地の良い場所にする為の努力をしましたか?”と…。

大抵は此処で相手は黙ります(更に反論してくる人も居ますが最後には言葉に詰まります)

誰だって”居心地の悪い場所”で日々戦っているのです。
職場であれ、学校であれ、社会であれ…。

でも何らかの”折り合い”を付けて又、戦場へ赴き人は闘っている訳ですよ、毎日ね。

つまり”リフレーミング”とはその”折り合いの付け方をどうするか?”って事なんです。

”苛められるのがいやならば苛められない環境を作ればいい”
”やる気が出ないのならばやる気のでる環境を作ればいい”
”人間関係が上手く行かないのであるならば上手く行く環境を作ればいい”だけの話。

”随分簡単に言ってくれるじゃねぇか?ならアンタは出来るのか?”と大抵相手に言われます

”Yes”と私は応えます。そしてそれが出来なければとっくの昔にこの看板を下してますとも。
そして此処からはその人一人一人にあった”環境改善プログラム”を作成します。

これは個々人一人一人全部違いますし、又、その人の成長に応じてプログラムもカスタマイズして行かなくてはいけないので此処で一概にこうですとお示しは出来ません。

ですがその”環境改善プログラム”によって今まで多くの同胞が学校へ社会へ地域へ復帰し
その内の幾人かはその”枠”の中心人物となった物も居ます。

”枠”が窮屈で生き辛いならばその”枠”を一度外し、”自分サイズ”にカスタマイズしましょう。
その術は私が持っています。

そして”引き篭もり”から脱出しましょう。
外の世界の可能性を、外の世界の素晴らしさを感じましょう。

アナタと共に私と一緒にリフレミングしてみませんか?^^v

って事で今日も今から外回りイッテキマース"8-( *゜ー゜)カタカタカタ--..

追伸

我が同胞第一号のその後。

東京からわざわざ新幹線を使って我が元まで当時6時間以上掛けてお礼を言いに来て下さいました。その後結婚され今は幸せな家庭を築かれているそうです。


『誰が為に生きるのか』…。

『僕は生きていていいの?』涙ながらに一生懸命私に訴えかけてきた少年が居た。
既に10数年前の事、家庭にも学校にも居場所が無くどうしようもない時に偶々僕らは出会った。

橋の欄干に足を掛け下へ降りようとしていた彼。
最初は何か物でも落したかと思ったがきちんと揃えられた靴、そして思いつめた表情…。

咄嗟に私は彼に飛びつきそして彼を端の中腹まで引き戻した。
彼の目には涙が一杯浮かべられていた…それで私は全てを悟った。

行きつけの喫茶店へ行きとりあえず話を聞く事にした。

4人家族、彼の実母は彼を生んで直ぐ他界。
当時別の会社に勤務していた彼の父の同僚と再婚、相手はバツ一子持ちでした。

少しでもより給料の高い場所へと彼の父は当時の職を辞し遠距離トラックドライバーに…。
当時はまだ遠距離トラックドライバーは高給取りの時代。

しかし遠距離であるが故に息子の顔を見れるのは年数回程度。
後は元・同僚たる妻に任せきりでした。

元・同僚たる妻は良妻賢母の皮をかぶった正に『鬼畜』でした。
彼の父が家に居る時は彼を猫かわいがりし、彼の父が居ない時はそれこそ塵扱い。

彼も又、妻を亡くして自分達の為に一生懸命働いてくれている父に余計な心配を掛けさせまいと懸命な努力を続けたといいます。

しかし、悪妻の虐めはエスカレートする一方。

飯は食わさない、家の用事は全てやらせ、挙句殴ったり蹴ったりしたら体に証拠が残るので”言葉の暴力”で彼を追い詰めたのです。彼の精神はどんどん衰弱していきました。

そんな時我々は出会ったのです。

私は怒りに胸が奮え、振り上げた拳を下ろすのが精一杯でした。
私も嘗て13年間に及ぶ虐めに耐えかね自殺を企てた事のある人間でした。

彼の悔しさ寂しさ腹立ちは我が事のように判りました。
私は直ぐに手を打ちました、彼のお父様へ急遽連絡を取りどうしても話がしたいと父を説得、
時間を作って貰い会いました。

彼も同席し、彼の今までの家庭での現状を報告、彼にも事の仔細を話させました。
最初は渋っていましたが”今のままでいいのか?”というとなきながら話し始めました。

勿論彼のお父さんも俄には信じられないという風でした。
其処で彼の家の近所に住む人に妻に内緒で聞いてみてくれと頼みました。

夜中から朝方まで寒空の下裸で外へ出された事が何度も有る子でした。
当然近所の人もその光景は見ています、しかし余所の家庭の事だからと口を噤んでました。

即父親は家へ帰り妻に黙って近所の人へ話を聞きに行きました。
私の予測通りの答えが返ってきたそうです…お父さんは愕然としたそうです。

”何も知らなかった…何も。俺は最低最悪の父親だ。息子がこんなにも苦しんでいたのに何も気付いてやれなかったなんて…俺は何て大馬鹿だったんだ”と…。

彼のお父さんは号泣し拳から血が流れるまで壁を殴り続けました。
まるで息子の痛みを自らも感じたいかのように…。

その後即妻とは離婚(当然です)。その後は長距離運転手の職も辞し、庭師に転向。
収入は激減しましたが毎日息子の顔が見れる仕事に就きたいとのお父上様の裁量でした。

彼のメンタル面でのケアは私が担当し、彼のお父さんと私と連携を組んでケアしました。
幸い気付いたのが早かったので彼の心の傷が癒えるのもそう時間は掛りませんでした。

その後彼は見違えるように元気になり今は私と共に一緒に仕事をしています。
元々お父様似でガタイは良い方なので私の警護と私のセラピーテクニックを伝授し、
我が弟子として期待をしています。

『誰が為に生きるのか?』…それは誰の為でもない自分自身の為に生きるのです。
それを今後も私は多くの人に説いていきたいと思って居ます。

『変化の心理学』

世はヒーロー、ヒロイン時代である。

TVの特撮物は言うに及ばずパチンコやお国自慢のヒーローヒロインも今は巷に溢れている。
我が地元にも昔『ぶちエージャー&ぶちジェンヌ』という地元ヒーローヒロインが居た(笑)

地元民には大人気で幼稚園や小学校、県や市のイベントには必ず来ていた。
ぶちエージャーやぶちジェンヌになりたいというちびっ子は沢山居た。

では何故人は其処までヒーロー、ヒロインに憧れるのだろう?
それは彼らが『変身』するからである。

変身前は極普通の少年や少女、或いはひ弱な人間が変身!の掛け声と共に逞しく美しく強いキャラクターに変化する。

その変身後の強さに、美しさに逞しさに人は深い憧れを持つ。
私も嘗て仮面ライダーやウルトラマン、そしてキン肉マンに深い憧れを持った者の一人だ。

しかし…大人になった今、私は彼らに憧れを持つ事は無い。
何故か?自身も”変身”出来る事を知ったからだ。

目には見えないかもしれない、人には判らないかもしれない。
でも私は間違いなく日々、”変身”しそして、”進化”している。

それが『変化の心理学』である。

セルフフォトセラピーやセルフムービーセラピー及びミラーセラピーを私が勧めるのはこの
”自身の変身”を自身で感じて欲しいからだ。

人は必ず1日でどこかが”変化”している。

それは時にその人本人が望むものではないかもしれない。
それは時にその人本人が望むものかもしれない。

本人が望む望まぬに係らず人は必ず”変身”し”変化”している物なのだ。

変わっていく限り人は”なりたい自分”になる事が出来る。
よしんばその人が望まぬ変化をしていたとしてもそれは私が”望む方向”へ変える事が可能。

日々変化し進化して行く過程を見るのはとても楽しく愉快で嬉しい物だ。

貴方も私と共に『変身!』してみませんか?
きっと今までの自分では感じられ無かった事、見れなかった物を感じる事が出来ますよ!

心の避難所~或いは災害心理学~

悪夢の一日を終え、そろそろ就寝の時を迎えた…。
朝の悪夢が嘘のような静かな夜である、この静けさが一生続いてくれる事を切に願いたい。

災害時何より大切なのは”心の避難所”を得ている事、それは冷静な判断をする上で必須だ。
災害時どうしても人は焦り迷い、そして不安に駆られ冷静な判断力を失いがちである。

その結果、普段なら決して取らないような行動を起こしそれが更なる被害を招く結果となる。
それは”心の羅針盤”が災害と言う出来事によって狂わされ冷静な判断力を奪うからである。

そんな時…心の避難所があると人は一呼吸置きそして冷静な判断力を蘇らせられる事となる。
私にとってそれは”一本の電話”であった。

嘗て二度我が地元は未曾有の自然災害に見舞われた。
一度目は台風、そして二度目は今日の集中豪雨。

二度とも甚大な被害を出し、死者・重軽傷者を多く出した。
その中でわれわれが無事で居れたのは”心の避難所”を得ていたからだ。

私の”心の避難所”それは愛方からの一本のライフコールであった。
”大丈夫?”その一言がどれだけ災害時救われたか判らない。

”自分を必要とし自分を心配してくれている人が居る、此処で慌てたり焦ったりしては駄目”
と恐怖に慄き迷い迷走する自分の心を諌めてくれるのには充分な効果がある。

事実裏山が崩れ赤茶けた鉄砲水が押し寄せる中私は完璧に冷静な判断力を失っていた。
その時、愛方からの”ライフコール”を受けたのだ、私には正に”天の助け”であった。

その後冷静な判断力の元、迷う母を諌めそして自体は急転直下今を向かえる事となる。

災害時、わが恩師も災害社会学を納める者として多くの災害地区へ足を運ばれた。
その際やはり”如何に冷静に判断し行動出来たか”で被害は全然違ってくる。

私自身今回の事を通して私自身が又、”心の避難所”となれればと思っている。
明日からは同胞の見舞いが続く、同胞の”心の避難所”として頑張って行きたい。

環境心理学に寄せて…

2009/7/21 山口を記録的な大雨が襲った。

河川は氾濫し道路へ溢れ、土砂は崩れて民家へ流れ出し、木々は根本から倒され道路を塞ぎ、多くの犠牲者を出した。

又、二次災害として断水や停電が相次いで発生、多くの方々の日常生活に多大なるダメージを与えた。給水車も出されたが給水所まで足を運べる人ばかりではない。体の不自由な方やお年寄りなど多くの方々が不便で不安な生活を強いられた。

山口駅駅長の神本氏はこう申された。

『山口始まって以来の豪雨災害ではないでしょうか?私が生まれてからこんな酷い雨は今まで見た事が無い』。

事実、山口線の踏み切りのシグナルまでもが浸かる雨という物を私は山口へ来て30年以上になるが見た事は無い。

我が家の裏手にある裏山から鉄砲水が出たのは今回で二度目である。
しかし前回は未だ護岸工事がされておらずそれでも僅かな水が溢れる程度であった。

当時まだ存命しており事務所に詰めていた父から連絡が在り一旦事務所へ避難。
眠れぬ一夜を明かしたがそれでも土砂による被害は少なく家は護られた。

だが今回は違った。既に数年前護岸工事は済んでいたが次から次へと大量に溢れ出る鉄砲水に押し流されるように土砂が切り崩され、堤防から一部が溢れ出る有様であった。

赤茶けた泥水が次から次へと山から溢れ出る様は恐怖の一語に尽きる。
避難勧告命令が出されたが亡父の遺した家を捨てる訳には行かず又逃げ場所も無い。
恐怖と懸命に戦いながら鉄砲水が収まるのを近隣住民と只管耐え忍んだ。

あの日から既に2週間余りが経過したが未だ我が家の道路は土砂に道を遮られている。
防府やその他の災害地域の復旧作業に市の対応も追われ土砂が取り除かれる予定は今の所無い。我々住民の手により一部は除去され何とか人や車が行き交う程度までは復旧した。

大雨はこの前後数日の間かなりの量が降り地盤がかなり緩んでいた。
雷鳴が轟き我が家の庭にも二度稲光の端が落ちた、それを見た事も生まれて初めての事。
今も避難所暮らしを余儀なくされる被災者方々のお心を思うととても胸が痛む。
防府に住む友人・知人より今回の災害の凄まじさを聞かされる度背筋に寒い物を感じる。

災害発生時キー局のニュースのTOPや新聞で山口の災害が取沙汰される事は稀である。
恐らく鳥インフルエンザ以来ではないかそれほど災害の規模が大きかった事を示している。

総選挙へ向け総理のパフォーマンス来訪についても市民方々より不平不満の声が上がっていた。
今は総選挙へ向けのパフォーマンスより何より住民方々の一日も早い平穏無事な生活を願い激甚災害指定を出して欲しい、その一語に尽きる。

神戸の震災が起きて数年後、偶々来版する予定があり新幹線の車窓から流れる景色の中にブルーシートに被された家々を見るに付け災害の傷跡の生々しさを痛感した覚えがある。

震災が起きた日、丁度受験でセンター試験を受けに行く直前の出来事だったので良く記憶していた。当時未だ其処に友人・知人も数多く居て中々繋がらない電話にやきもきした事をふと思い出した。幸い友人・知人に被害は無く安堵した事を今も鮮明に覚えている。

人間は自然災害に関しては余りにも無力である。
只、時が過ぎるのを待ち、災害が収まる事を天に祈るしか無い。

又、人間は恒温動物と違い周囲の温度変化に体が対応しない変温動物である。
故に寒くなれば服を着込み、暑くなればそれらを脱いで体温を調節しなければならない。

過日、愛方と”所謂冷房病など外気温や気候が人間の心に与える作用“について質問があった。

図らずも今回激甚災害を受け本講義の題材としてもとてもタイムリーであった為、今回はそれをテーマとする事とした。

前述した通り、冷房病や熱射病など人間はとても外気温の変化に弱い。
それはこれも前述した通り人間が変温動物だからである。

自らの意思で体温調節が出来ない為、服を着込んだり脱いだり冷房を当てたり暖房を入れたりして周囲の環境変化に自らが対応していかねばならない。


しかし実際職場や学校に於いて中々自らの意思によって外気温を調節することは難しい。職場で自分だけ寒いからと暖房の温度を上げたり自分だけ暑いからといって冷房の温度を下げると言う訳には行かない。社長やお客など意見を言える立場の人間なら話は別だが…。

それはまた家庭に於いても同じ事。

何でも親子や兄弟間で物が言える家庭ならが問題は無い。だが所謂亭主関白やカカア殿下の家で一人の統率者の元、家族が右へ倣えという所謂縦社会型家庭環境に於いてはそれを行う事は簡単ではない。

又所謂子煩悩な両親ならば子の言うなりというか子に合わせる親も又少なくない。
そうなるとそれが原因で精神を病んでいくケースという物も少なくは無い。

今年は各地で異常気象となり、北海道で異常な冷え込みを記録したり山口や福岡のように大量の雨を降らせたりと温暖な気候だった日本の気候がどうも変化してきているようである。

昔は温暖であった日本、四季折々の風景を愛でる事も出来たが最近は夏からいきなり冬になったり春を通り越して初夏となったりと四季の感覚が少し無くなりつつある。

過日もまだ8月にも為らぬ内に夕刻鈴虫の声を聞いたのには流石に驚いた。
季節の風物詩をその季節じゃない季節に見たり聴いたりすると違和感を覚える。

だがそれが今の日本の現状で在る事もまた事実である。
温帯気候から熱帯、亜熱帯へと段々と日本の気候が変わりつつある。

だが元々温帯気候に育った我々に熱帯、亜熱帯の気候変化に早々体が対応出来る筈も無い。
体の不調はそのまま“心の不調”となって出てくる。

最近我が周りを見渡してみても、自律神経失調症やバーンナウトシンドローム(燃え尽き症候群)、総合失調症を訴える人間が増えてきているように見える。又、所謂出社拒否症や転職組が増えているようにも見える、これも又日本の“気候変化”が大きく関与している。

人間余りに暑すぎたり寒すぎたりすると体力が落ちスタミナが奪われ精神的耐久性が落ちる。集中力を欠き、持続力が低下する為ミスを頻発するようになる。自らの体調変化を環境変化と気付けぬ人はそれを自らの能力低下と見做し、周囲もそのように認識する。
だがそれこそが“気温変化による精神干渉”である訳だ。

人間は暑すぎたり寒すぎたりすると体がそれに対応しきれず不調を訴えそれが心にも少し影響を与える。これが多大なる影響なら気付くのだが“小さな変化”故中々気付かない。

ボクシングに於けるボディーブローと同じで食らっている間は然したるダメージを感じないのだがそれが蓄積されると後々に大きなダメージとなって自らに襲い掛かる。

気候変動に於ける精神的ダメージもそれに同じ。気候変動が精神を衰弱させるという事に気付いていれば対処の仕方もある。心を常真ん中に置く準備も出来るし対策も立てられる。

だが意外とこれに気付けない人が多い為、それが後々大きな精神疾患となって自らに降りかかる。きっと貴方の周りにも最近ちょっとおかしいわよねという人が居る筈である。

それは精神疾患に非ず(まぁそれをずっと放置しておくと精神疾患に移行する場合も…)

気候変動による精神の疲弊であるという事を是非お伝えしてあげて欲しい。
貴方はおかしいんじゃない、おかしいのは地球の方で貴方はまともなのだと…。

それは又、家族も同じ。

疲れて帰って来る夫や子供に是非労いの一言を掛けてあげて欲しい。

“毎日暑い中、お仕事(お勉強)お疲れ様、こう暑いと体だけじゃなく心も疲れちゃうわよねぇ、動物だって参っちゃうんだもの。動物よりも自然対応力の無い人間なら尚更だわ。
でもお盆ももうそろそろ出し心のお疲れもあと少し!もう一寸頑張りましょう!”と。

気候変動による“心の疲弊”を癒すのは“愛する人の労いの一言”です。
自分を愛し自分を必要としてくれる人の一言が何よりの“癒し”となります。

そしてそれが明日への活力となり、気候変動による“心の疲弊”を治す自浄作用の源となります。元々人間には自然治癒力が備わっています、それは心も又同じ事。

気候変動により機能不全を起こしかけている心に“心の潤滑油”をどうか貴方の大切な人に与えてあげて下さい。それが出来るのは貴方だけなのですから…。

真心を君に…或いは認知心理学

別ブログでキリ番を先程踏ませて戴き一寸舞い上がっています<(_ _)>

しかも尤も古い付き合いのあるトコで^^;
氏とはパソコン通信次代からの長い付き合いでリア友でもある。

ご家族とはリアルにはお会いしていないがリアル以上に長くお付き合いを戴いている。
素敵なご家族に囲まれておいでの氏は私の理想系であり最終形態である。

閑話休題

ご本人はとても恐縮されておられるが私は彼と今の奥さんとのなれそめを同胞に偶に話す。
詳しい話はご本人から是非お聞きして欲しいが涙無くして聞けない超感動話である。

中々こんな中身の濃い恋愛話という奴を私は過去余り聞いた事が無い。
御互い辛い経験を経ている二人だからこそ絆は強く愛は海よりも深い。

『心理とは五感を刺激する仕事である』
私が常、意識している事である。

第一印象っていう奴はとても大事でそれが後々の印象にも大きく影響をしてくる。
それに第一印象で印象をつけておかないと後の”信頼”にも繋がらない。

その意味で服装は元より髪型、薫り(香水)、口臭消しなど五感に訴える物全てに注意を払っている。

そして何より忘れてはならない事は『笑顔』である事。

でも”ニヤけ”てたり”へらへら”した笑顔ではなく”笑顔だけど目は真剣”という感じを出すようにしている。

これから同胞と長い間(少なくとも1ヶ月以上は)お付き合いをする事となる。
そうなった時、お互いが心を割って話す環境を作る事はとても大切である。

故に私は大抵会食を取りながら乃至はお茶をしながら話を進める。
これもまた”五感を刺激する事”に繋がるからだ。

意外と知られて居ない事だが”人は美味しい物を食べて居る時心を開きやすく”なる物だ。
何故なら食べる事に神経が集中し、心の警戒を解いてしまうから。

故に事前に相手の趣味・嗜好はリサーチし、それに見合った店を数店舗常頭に入れている。
店選びも重要な要素の一つ、店の選び方で如何に相手を考えているかを計られるから。

大抵店選びで外れた事は無い、私は味は元より接客の完璧な店を選ぶ。
故に大抵同胞は大抵”心も御腹も満たされて”ご帰宅戴く。

常、相手の立場に立つセラピーをする事。
言うは易しだが実際にやってみるとこれが意外と大変である事が解る。

だが、それを私は我が愛方より学び、冒頭の氏を代表とする仲間から学ばせて貰った。
これからも多くの事を多くの人から学びつつ今後の仕事に活かしたいと思う。

黙って只、抱締めてあげる…それだけで充分です。

彼が「うつ」になったら、どうすればいい?

心にも疲れをためこんでいる彼が心配だけど…
今回は、ストレスが原因で恋人が「うつ」になってしまったとき、パートナーとしてどう接すればいいのか、「ストレス」ガイドの大美賀さんにお話をうかがいました。

■言葉で励ます前に、愛する人のためにできること

Q.仕事や人間関係の悩みから「うつ」になる人が多く、「うつ」は誰でもかかる可能性があると聞きました。1人でストレスを抱えてしまいがちな男性に対しての接し方、恋人の悩みを聞くときはどんなことに注意すればいいのでしょうか。

大美賀さん:男性は、女性に比べて感情を口に出すのが苦手な人が多いですね。プライドも手伝ってか、「寂しかった」「つらかった」などの素直な感情をなか なか吐き出せないで、自分の中にためてしまう人が多いのではないでしょうか。したがって、あなたの彼がストレスを抱えているかどうかを、会話から判断する のはなかなか難しいと思います。でも、以下のような言動に気づいてきたら、少し注意深く見守ってください。

・最近、忙しくてなかなか会う時間がなくなった
・無理に明るく振舞ったり笑ったりしているが、急に落ち込んで見えることもある
・黙り込んで会話自体を避けている

 こうした言動が目立ってきたら「最近、疲れたまってない?」とさりげなく聞いてみましょう。それでも頑張り屋でプライドの高い彼は、なかなか自分の状況 を口に出さないと思います。「恋人であるあなたに弱いところは見せたくない」という思いもあるでしょう。だから、無理に話させようとせず、ちょっと様子を 見るようにしてみましょう。

 「頑張って」など、言葉で元気付けるのは逆効果なことも多いのです。それよりも、疲れている彼に心のこもった手料理を作ってあげたり、肩や腰をマッサー ジしてあげたり、あなたが彼に対して「こんなところが好き」と思うところを具体的に出してほめてみましょう。「恋人はいつでも自分の味方をしてくれてい る」と気づくだけでも、生きるエネルギーが湧いてくるものです。

 ……普段の気遣いや、何気ないスキンシップがやっぱり大事なんですね。ストレスが多い忙しい毎日だからこそ、恋人と一緒にいるときはお互いに心と体に気持ちのいい時間を過ごせることが理想かも。

■彼が「うつ病」と診断されたら?

Q.1か月以上落ち込んだ状態が続き、食欲もなく、睡眠不足で辛そうな彼。病院で「うつ病」と診断された場合、彼をサポートするために恋人としてできるのは、具体的にどんなことでしょうか。

大美賀さん:彼が「うつ病」と診断された場合、恋人であるあなたがいちばんの味方になってあげましょう。恋人でも診察に付き添えるかどうかは、まず病院側 に確認し、可能ならできるかぎり一緒に行ってあげるといいでしょう。周りの人の彼への接し方については病気の状態によっても異なりますし、医師からも具体 的な指示があると思います。まずは、それに従って行動することが大切です。

 「うつ」になると自殺願望も出てくることがありますので、とにかく精神的に孤独にさせないことが大切です。ただし、いつも心配そうな目で監視したり、 「薬飲んだの?」「ちゃんと食べてるの?」と行動を管理するようなことを言うと、「オレのせいで迷惑をかけている」「本来ならオレが守らなくちゃならない 恋人に、守られている」と、ますます自分を責めてしまいます。

 とても難しいのですが、言葉で行動を確認するのではなく、彼の行動から判断するようにすることが大切です。一緒にいながら、さりげなく行動を遠くで見守る姿勢を心がけてみてください。

 「うつ」になる人は、日頃から頑張りすぎるために心が疲れきってしまった人が少なくありません。だから、とにかくしばらくの間はゆっくり休ませることで す。外出もせずにダラダラしていても、部屋は片付けず無気力でボーッとしていてもけっして責めずに、そのままの彼を温かい気持ちで受け入れてください。

 ……心が疲れている恋人の一番の味方になる。べったり監視するのではなく、程よい距離を置いて見守るという姿勢がきっと安心感にもつながるんですね。た だ、「うつ」の恋人を心配するあまり、落ち込んで体調を崩す人も多いようです。次のページでは、上手にストレスを解消できる2人の過ごし方について、さら に詳しくお聞きします。

■「うつ」の恋人を心配するあまり、自分が精神的につらくなってしまったら?

Q.パートナーがうつになってしまったことで、それをどう受け止めていいのか悩み、自分自身でも落ち込んだり、精神的に参ってしまう人が多いそうですが……。パートナーが心のトラブルを抱えてしまった場合の心構え、対応の仕方など教えてください。

大美賀さん:「うつ」になった彼の気持ちに添いたいと思うあまり、自分も一緒に落ち込んだほうがいいと勘違いする人もいます。また、「うつ」の彼と毎日接しているうちに、知らず知らずのうちに自分までうつ状態になってしまうこともあるでしょう。

 しかし、「うつ」の相手に同調するのはいちばん危険なことです。意識的に、「相手に巻き込まれてないように気をつけながら温かく見守る」という精神的な距離感を守っていきましょう。

 治療には数年単位という長い期間が必要になることも多いのです。したがって、あなた一人で問題を抱え込まないことも大切です。友だちと会ってうさばらししたり、たまには旅行に出かけたり。このように、あなた自身も適度にストレスを解消する時間を持つことも大切です。

 また、毎日毎日あなた一人で彼のサポートを抱えこまないようにしましょう。彼の家族や友だちとも連携をとり、チームを組んでみんなで彼を支えるような体制をつくることです。

 ……1人で頑張りすぎてしまうことがストレスをためこむことにつながるし、責任を感じてつらくなってしまいそう。意識して気分を変えること、息抜きの時間は誰にでも必要。つらい気持ちを理解してくれる人が周りにいる、それだけでエネルギーになることってありますよね。

■彼をいたわること、自分をいたわること、どちらも忘れないで

大美賀さん:「うつ」というと、仕事のストレスや過労に関連し“働き盛り世代の男性に多いもの”、とイメージする人も多いと思います。

 しかし、実は女性のほうが男性より2倍も多いと言われているのです。その理由には、女性はライフステージの変化が激しいこと、仕事以外にも家事や育児な どこなさなければならない役割が多いこと、社会的弱者であること、常に笑顔で頑張ることを要求されること、などがあげられると思います。

彼のことをいたわるあまり、自分をいたわることを忘れていると、あなた自身も「うつ」になりかねません。「自分のいちばんの応援団は自分」ということを忘れないようにしましょう。

 ……大美賀さん、ありがとうございました!
 自分に課せられた役目をキッチリ果たそうと一生懸命に頑張るのはいいことだけど、心や体の疲れはそのまま放っておかないことですね。

 上手に息抜きすること、大切な人のことを気遣うこと、そしてお互いにとって心地よく感じられる程よい距離を保つこと。自分のことも周囲の人のことも、いたわる気持ちを忘れずに楽しい時間をたくさん共有できたら心も強くなれそうです。

 最後になりましたが、うつ病をはじめとする、心の病気の診断と治療は「精神科」「神経科」「心療内科」で行います。大切な人が、気分が落ち込む、やる気 が起きない、眠れない、食欲がないなどの症状で悩んでいる場合は、病院で専門の医師に相談するようにすすめてみてください。

話をひたすら聞いてあげる、全てを肯定してあげる、彼の存在を必要としてあげる、そして…
誰よりも愛してあげる。それだけで充分です。只、黙って抱締めてあげて頭を撫でてあげる。

彼だって時には泣きたい時もあります、誰かに愚痴りたい時も、甘えたい時だって…。

でも大人になると変に”大人”を意識しすぎて、泣いたり甘えたり愚痴ったりできなくなります。
それが”解離性精神障害”や”人格障害”の温床となったりします。

何度も此処で触れていますが”泣く事”は実はとても大切な行為です。
泣く事で今の自分の気持ちを自分が知る事が出来る、それは前へ進む為にとても大事な事。

私は愛方に思い切り感情を表に出させて上げます。
思い切り甘えさせて泣かせてあげます、そして黙って抱締めてあげる。

それで人って結構元気になる物です。
それでも駄目な時は…我が元へおいで下さい。

お力をお貸しします。

『心』を治せる物は心だけである…。

<精神疾患>血液で判断 たんぱく質データ判定 大阪市大院(毎日新聞 - 08月26日 02:34)
毎日新聞
 大阪市大大学院医学研究科の関山敦生・客員准教授(43)=心身医学、分子病態学=が兵庫医科大と共同で、うつ病や統合失調症などの精神疾患を判定でき る血液中の分子を発見、血液検査に基づく判定法を確立した。問診や行動観察が主流だった精神科診療で、客観的な数値指標を診断に取り入れることができる。 疾患の判定だけではなくストレスの強度や回復程度もわかるという。関山准教授は27日午後、京都市の立命館大学で開かれる日本心理学会で発表する。

 関山准教授によると、ストレスや感染などを受けて、生成し分泌されるたんぱく質「サイトカイン」の血中濃度データの差異を積み上げて分析。データをパ ターン化することで、心身の変調やうつ病、統合失調症などを判定できることが分かった。うつ病や統合失調症について3000人近くのデータから疾患の判定 式を作成。別の400人の診断に用いた結果、うつ病の正診率は95%、統合失調症は96%に達した。

 精神疾患の判定だけではなく、健常者に対するストレスの強度、疲労からの回復スピードも数値化した。80人の男女を対象に、計算作業で精神的ストレス、 エアロバイクなどで身体的ストレスを加える実験を実施。いずれのストレスを受けたか100%判別することに成功し、ストレスの強度を数値で評価できる方法 もつくり出したという。【深尾昭寛】

機械の数値や薬物療法で『心の病』は治らないというのが持論。

私は一切の機械や薬物に頼らず20年近く多くの同胞(患者)と接しそして同胞と共に悩み苦しみもがき泣きながら完治という名の頂を目指してきた。

別の病院で10錠以上の精神薬を飲まされ内蔵がぼろぼろになりかけていた同胞を電話とメールセラピーだけで半年で0錠としその後精神科受診不要となった話は此処でも何度も触れている。

全ての精神科や精神神経内科がそうであるという暴論を述べるつもりは更々ない。
だが逆を言えば機械や薬に頼りきって本当に”同胞を診よう”という意思を感じない医者も居る。

機械は万能ではない、気候や湿度の関係で数値が狂う事もあるのだ。
勿論それは人間でも同じだが、人間は自らで修正が可能だが機械は人の手によって修理されない限りミスは続く。

薬物とて同じ事、その日の体調によっては同報にマイナスに作用する物もある。
又、飲み続けなければ効果が出ない物もありそれらは全て患者の裁量に依拠される。

又、薬物依存となり薬を飲まないと安定しないという風になっても困る。
同時に常、機械の数値に頼らなければいけなくなるというのも私は正直如何な物かと…。

機械や薬物療法も時には大切だがやはり『医は仁術』と言う言葉通り精神性を軽視する現代医学は私にはどうにも合点が行かない(勿論全てのお医者様がそうだというつもりはない)。

『個』を生きよう…

現代は『個』の時代であると言われて既に随分と時が過ぎました。
しかし実際右を見ても左を見ても『個』を自覚している人は一体どの位居られるでしょう?

会社に於いては仕事人、家庭に於いては家庭を築く構成員、yahoo!blogなどブロガーとなっても友録さんとの関係性やら何やらで『個』をアピールする事はとても難しくなっています。

”あの人の友録さんとして恥ずかしくない行動を取らなければ”という思いが本来”自由”である筈のブロガーとしての自分に制約を知らず知らずの内に掛けています。

又、そこまではないにしてもやはり人間何処かで自分を”良く見られたい”という欲求は必ずある筈。
言いたい事、書きたい事、訴えたい事は数あれどそれを飲み込んでいる人を多々みます。

過日もある友録さんとメッセを交換していて中々日記では自分の素直な感情を吐露出来ないというお悩みを頂戴した事があります。

別ブログの方の友人(男性)に至っては幾らアク禁にしてもブログを変えてもストーカーしてくる元恋人(女性)がいる為、素直な感情をオープンに出来ない(彼は既婚者で既に家庭持ちです)。

でも家庭では絶対に言えないから例え少しでも此処で吐き出して行きたいと悩みを語ってくれた人も居ました。

我が同胞の中にもそういう悩みを持って我が門を叩く人も決して少なくありません。
そういう人に勧めているのが『セルフフォトセラピー』です。

携帯カメラで自分を撮りそれを使って自分を変えて行くやり方。
最初は照れや抵抗がありますが”新たな自己表現の場”を見つけたと結構ご好評を頂戴しています。

ある男性は”一人の男”に戻れたととても喜んでおられました。
ある会社の重役で重い職に就き多くの部下や取引先との接待で自分を見失いかけて居られ我が門を叩く事となったのです。

家でも”良き父””良き夫”を演じ続けねばならずそれが彼に大きなストレスを産ませて居ました。
次期社長としての帝王学もしっかりと学ばねばならず毎日胃の痛む思いだったと…。

そんな時知人の紹介で私と出会いそして『セルフフォトセラピー』を勧めさせて戴きました。
彼には誰も入れない書斎がありそこでなら自由自在に写真を撮る事が出来ました。

実は彼、俳優志望だったんです^^;石原裕次郎のような人物に憧れていたのだとか。
だからセラピーの時には思い切り”石原裕次郎”になりきって貰いました(笑)

人間不思議な物で顔が全然似て無くても”その気”になると結構雰囲気が似てくる物なんですね。
セルフフォトセラピーを続けて行く内に彼はどんどん”ボス”になっていきました。

すると会社や家庭で抱えていたストレスも徐々に軽減、
名実共に彼は”ボス”と呼ばれる存在となったのです^^v

今では立派に会社の跡目を継ぎ、社長として威風堂々としています。
その姿は正に往年の”ボス”その物でした。

ある主婦の方は重い病で家で寝たきりのご主人の介護に明け暮れる毎日でした。
主婦であり妻でありお子さんを持つ母でもある彼女。

でもその前に彼女は一人の”女”でありました。
今でこそ介護疲れでやつれてしまいましたが元々は彼女モデルさんです。

そこで数時間だけヘルパーさんに旦那さんの世話をお願いしその間にセラピーを。
思い切り”モデル”になって貰いました^^v

いやぁw久しぶりに”モデル”に戻れた彼女はとても嬉々として居られました。
やつれた顔からは精気が蘇り肌艶も良くなりふさぎがちだった心も前向きに…。

それからは旦那さんの介護もより献身的にやれるようになり今も懸命に頑張っています。

人は誰かに成れる、人は何にでもなれる、そして生まれ変われるのです。
私はそれをこれからも多くの方々に説いていきたいと思って居ます。

『個』を大切にしましょう、『個』を生きましょう。

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『自問自答の心理学』

私の知り合いに”大事な事はクマちゃんに相談しているの”と言う人が居る。
今は教壇に立ち多くの生徒を導く齢50を過ぎた女性の先生である。

彼女は小さい頃より母親から買って貰ったクマのぬいぐるみに向かって”ねぇ?私どうしたらいいと思う?”と問いかけていたという。

物言わぬクマから何時も彼女は答えを貰っていると言う…どういう意味か?
これが『自問自答の心理学』である。

クマの声…それは彼女の心の奥底にある”真実を告げる声”である。
答えは常に自分の心の中にあります、

潜在意識は宇宙意思と繋がり過去現在未来全ての叡智からその人が必要な答えを常教えてくれます。
時に”神”という姿を取って、時に”人の口”を使って、そして時に”くまのぬいぐるみ”を使って…

彼女の”クマのぬいぐるみが出す答え”は彼女自身の潜在意識(深層意識)が導き出した答えなのだ。

幼少の頃、彼女は誰よりも母を愛し、その母から貰ったクマのぬいぐるみをとても大切にしていた。
何度か引越しをしその都度何度捨てて行きなさいと言われてもクマのぬいぐるみだけは捨てなかった。

一度など火事で家が半焼した時も彼女は懸命にクマのぬいぐるみだけは持って出たのだという。
彼女にとってクマはそのまま母のイメージそのままだったのだろう。

彼女はクマへ問いかける事によりその後ろに母の姿を感じ取っていたに違いない。
彼女にとってクマは彼女の母の存在その物であった。

既に母はこの世には無く彼女自身人の親となり孫を持つ年代となった。
しかし彼女のボロボロになったクマのぬいぐるみだけはずっと彼女を見守ってくれている。

我々専門職もそのクマのぬいぐるみに同じ。

答えは、常、その人の中にあります。その答えを導き出しその人が見える形にしてあげる。
それが我々心理職のお仕事である、私はそう思って居ます。

”私はそんな貴女の人形になりたい…”第三舞台の”ビーヒアナウ”という舞台の最後の台詞です。

時の経過と共にその存在を忘れ去られた人形をふと尋ねてきた友人が欲しいと持ち主に迫る。
その時、感じる一瞬の愛おしさ、その人形と遊んだ日々が頭の中に走馬灯のように蘇る…。

友人の頼みを断り友人は去っていく、そして又人形は忘れさられる存在となる…。
でも決して悲しんではならない、その時感じた一瞬の愛おしさ、情熱は本物なのだから…。

私達専門職もこの人形に同じ。

我が門を去っていけば我々の存在は何時か忘れ去られてしまいます。
我々と共に過ごした日々すら時には忘れてしまうかもしれない。

でも我々はそれを悲しんではいけない。

我々が彼ら・彼女らと共に悩み、苦しみ、泣いて、そして笑った日々、それらは確かに有ったのです。
だから私は言います”そんなアナタの人形に私はなりたい”と…。

『プロパガンダと集団心理』

マスゴミを如何に利用するか?最近の選挙戦略はこの一語に尽きます。

マスゴミを巧みに利用し集団心理を操り見事得票数を延ばした民○党。
嘗ての小○○民党政権をふと思い出しました。

氏はマスゴミを使って集団心理を掴み見事プロパガンダを成功させた政治家の一人でした。
彼の選挙戦略はナチスドイツ時代のヒトラー総統を思わせる巧みな選挙戦術でした。

しかし今回の選挙戦は民○党の巧みな選挙戦略というより寧ろ反自○票を獲得したという感がどうも否めない。磐石な支持基盤を持たない所は殆どが民○に票が移動している。

鳩山政権誕生となるか!(まぁ間違いなくなるだろう)。

その時、高齢者や扶養家族、体の不自由な方を切り捨てる政治をすれば国民の熱は直ぐに醒める。化けの皮が剥げない様、又、それが化けの皮ではなく真皮である事を願いたい。

これで終りではなく『勝って兜の緒を締めよ』の言葉通りこれからが始まりである。
一人の日本国民として今後の日本の舵取りはしっかりと見定めていきたいと思っている。

だめんず、だうぃめんずからの脱却

究極のだめんずが政権を握り一国民として益々国の行く末を憂う中、私の周りに目を転じて見ても、
だめんずやだういめんずによって心を傷つけられ汚された方々を今も数多く抱えております。

『だめんず・うぉーかー』の例を出す迄も無くだめんずやだういめんずを引き寄せ易い体質の方という物はあるようで…

んでそのだめんずやだういめんずを遠ざけリアルイケメンやリアルイケウーを引き寄せる方法は無い物か?と良く同胞方々からも御質問を頂戴します。

答えを先に申し上げますと『あります』と申し上げております。

此処でも何度か登場している女性駅員のYさんは嘗て究極の『だめんず・うぉーかー』でした。

しかし我が『快癒』を受けて状況が一変、だめんずを遠ざける体質へと変貌を遂げました。

今は完璧にだめんずから脱却しリアルイケメンを探す毎日を送ってます。

何もだめんずやだういめんずからの脱却は『快癒』だけに非ず。

偶々彼女は『快癒』が合っただけで他にも脱だめんずやだういめんずの方法は幾つもあります。

根本は自分という存在をしっかりと持ち自信を持つ事。

それを得る為の『快癒』は一手段に過ぎません。

だめんずやだういめんずからの脱却方法は幾らも有るのです。

私自身嘗てはだめんず・うぉーかーでしたが今は最高のパートナーに巡り会ってます。

アナタもだめんず・だういめんずから脱却して見ませんか?

そのお手伝いを私がさせて戴きます。

『多面性の心理学』

嘗て『私は私の事を一番良く知ってます。私が知らない私など存在しません』と豪語する方が居ました。

その割に自信が無くて自分が好きでは無いという方でした。

本当に自分を一番ご存知ならば自信満々で居て自分大好きで然るべきなんですが…。

ちょっと調べて見たら重篤な境界型パーソナリティ障害の方でした。

このまま症状が進めば人格剥離に繋がり兼ねないヤバい状態でした。

故に私は多少荒療治でしたが『貴方を一番知らないのは貴方自身だ』と一喝。

先ずはその間違った自信を根本から崩さねばならないと思ったからです。

そしてならば貴方は貴方のこんな部分をご存知でしたか?あんな部分は?と畳み掛けるように相手に充分考える隙を与えぬように矢継ぎ早に問いつめました(下手に時間を与えると屁理屈をこねくり回す方でしたので)。

相手は頭を混乱されその場で頭を抱え込んでしまいました。

可哀想な気もしましたがこれも彼を救う為です。

彼は其処で始めて如何に自分が自分を知らないかを痛感。

其処からが本当のスタートでした。

例えば360度全てに人格が有ると過程して個人が知りうるのはその一部分でしか有りません。

私のような専門職に居る者ですら真裏に見える自分は知る事が出来ないのです。

まして素人で周りは皆年下で部下ばかりという状態では尚更。

歯に衣着せぬ人間なんぞ今は中々見つかりません。

皆自分可愛さに相手の良い部分しか言わず見えてる負の部分は言わない物。

それも確かに処世術では有るんですがそれも時と場合によります。

時には例え嫌われようとも苦言を呈さなくては行けない時も有ります。

本当にその人を好きならば本当にその人を必要とするならば。

私以外の人間は精神科の医師すら美辞麗句しか言わなかったとか(ヤレヤレ)。

私はその方の間違った自信を根底から破壊し“本当の自信“を積ませる為に様々な方法を用いました。

セルフフォトセラピーやSEED療法に霊気ヒーリングやヒプノセラピーに至るあらゆるやり方をです。

その努力の甲斐有ってお互いボロボロになりながら傷つきながら癒やして行き遂に完治させる事に成功。

完治した時はお互い肩を抱き合って泣きました。

私は今までの数々の非礼を詫び彼は私に土下座をして感謝の意を表してくれました。

恐らく彼が人に自ら進んで土下座したのは生まれて初めてではないでしょうか。

それほど迄に嬉しかったんだと思います。

その後彼は人材を一新し美辞麗句しか述べない腰巾着を排除。

彼の腹心は本当に腹心と呼べる人で固められ今は本当の自信に満ち溢れる指導者として日々を忙しくして居ます。

本当の自分をしりまし。まだ見ぬ自分を探しましょう。

そのお手伝いをさして戴きます。

『浮気封じの心理学』

我々は既に交際期間7年目を向かえ、今年の12月で8年目に突入!
その間一度も”浮気”をした事もされた事もありません。

勿論道行く美女を見て”お!”と思う事や道行くイケメンを見て”おぉ!”ってな事位はあります。
ですが所謂一般的に言う所の”浮気”という物に関しては全くの無縁の生活を送っています。

まぁ何処から何処までが”浮気”で何処から何処までが”浮気”ではないか?
その線引きはとても難しいと思います。

私の場合”愛方に内緒で別の異性と会い、性的接触を持った場合”を浮気と認定します。
昔の知り合いとお茶をしたり飯を食べたりって範囲内では浮気とは私は認定しません。

そこまで規制しなくてはいけない程自分に自信がないカップルでもないんで^^;

んじゃあ何故其処まで相手を信じられるのか?大抵の場合それを不思議がられます。
俄には信じがたい話ですが我々はお互いの”浮気封じの法”を知っているからです^^v

”浮気封じの法”…それは”常、自分を磨き、相手にとって自分が尊敬出来る存在で在る事”
その一語に尽きると思います。

浮気とは自分の彼氏・彼女よりも相手の方に魅力を感じた際に起こる現象です。
ならばその浮気相手よりも更に魅力を出せば当然浮気なんざされない訳です。

それで万が一浮気をするような相手なら…それは既に人に非ず、単なる”獣”です。
愛する資格も愛される資格も無い虫けらです、生きる価値すらない…。

我々は常、自分磨きを忘れずどうすればより相手が自分の方向へ向いてくれるか?
それを研究しそして実践しています。一面的なやり方では到底振り向かせることは不可能。

常、多面的に自分を考察し何処かに不備が無いか?常、チェックを怠りません。
ファッションは基より言動や立ち居振る舞い等全ての事に気を配ります。

そして…そこまでやっていれば”自分に対する自信”も当然の事ながら出てきます。
此処までやったんだから浮気なんざ無いだろうという自信が…。

嘗て我が同胞に彼氏の浮気が止まないという悩みを持ってくる女性が居ました。

彼氏に依存し彼氏無しの生活はありえないとし常、彼氏の言いなりとなり彼氏の半ば下僕と成り下がった哀れな女性を…。

私は彼女を見ていてとても腹立たしく思い何とか彼女自身を変えたいと思いました。
彼女は全てを”彼の好み”に合わせ自分が”したい事”を何一つしませんでした。

私は彼女に”それじゃ駄目だ、君が本当にしたいことをしなさい、着たい服を来て、したいメイクをして自由になりなさい。それが彼氏を引き止める唯一の方法だと”…。

半信半疑でしたが彼女の先輩で嘗て彼女の窮地を救った私の言葉を彼女は信じ実行。
するとどうでしょう、彼氏の態度が急変したのです(笑)

自分が望まない事を全てして飄々としている彼女を見て”焦り”を感じ始めたのです。
”ヤバイ、このままじゃ別れられる、もう別の男が居るかも…”彼の妄想はどんどん豊かにw

彼の態度が変わり始めたのはまもなくの事。
急に優しくなり彼女のいう事を聞くようになりそして…二人の立場は逆転しました。

勿論だからといって彼女が以前の彼のような事をする筈も有りません。
時折意地悪はする物の今はとても良好な関係を築いています。

それからも彼女は自らを磨く事を忘れず彼も又自らを磨く事を忘れず…。
今では何処から見ても”ベストカップル”と呼ばれる二人となりました。

もし…愛する人の浮気を本気でやめさせたいなら”本気で変わる事”を考えましょう。
”自分”を生きましょう、そうすればきっと相手は自分に夢中になるはずです^^v

『長所と短所の心理学~或いは認知心理学~』

履歴書を書く時又は何か自己PRをする際必ず聞かれるのが”アナタの長所と短所は何処ですか?”であります。

んでこれを何も考えずにスッ!っと言える人は中々居ません。
う~んと考え込んで時にはとんでもない答えを出す人も居ます^^;

私も嘗てある会社の面接に立会い色々な人を見てきましたが自分の長所と短所をズバリ言える人は中々居ませんでした。

ですが自分の短所と長所をズバリと言える人は大抵採用されていました。

”自分の好きな所”と”嫌いな所”…それを写メに取って送って下さい。
これがセルルフォトセラピーで私がやっている”自己発見法”の一つです。

自分の好きな所と嫌いな所を映像乃至は静止画にして修めるというのは中々にして大変な事です。

文章にすら出来ない物を”形”にしなくてはいけないのですからそりゃあもう大変ですよ^^;。

でもね?それが”自己発見”に大きく繋がりますし”自己発展”にも大きく繋がります。
何とか映像と写メに収めて貰いそれを送って貰います。

中々自分の”自分の好きな所”と”嫌いな所”を映像に収め写メに収めると言う行為は普通しません。それ故に戸惑いや迷いや不安や恐れも有りますがそれを越えた先に有る”まだ見ぬ自分”という存在に寧ろ私は目を向けて欲しいのです。

その”自分の好きな所”それが長所となります。
そして”自分の嫌いな所”それが短所となります。

しかし、此処で一番重要な事、それは”長所も短所となり、短所も長所となりえる”という事。

自分が長所と思っている所が実は自分の短所であり、自分が此処は短所だなって思っている所が実は長所だったり…それが写メや写動画を取ると実に良く判るのです。

認識する物が只、思考だけではなく目や耳で感じ取る事が出来るからです。
考える事は思考する事、自分の短所や長所を考える事は思考する事です。

しかし”映像で見る事”は思考することではなく”認識する事”なのです。
勿論”動画を見て音を聞く事”も又、”認識する事”な訳です。

”思考する事”と”認識する事”は実は同意義ではなく異意義的です。
”考える事”と”理解する事”が同意義ではないというのと同じです。

”思考する自分”と”認識する自分”とでは随分見方も変わってきます。
その結果”まだ見ぬ好きな自分”まだ見ぬ嫌いな自分”が明確に判って来ます。

人間なるべく”好きな自分”は知りたい物ですが”嫌いな自分”は知りたくない物。
誰だってそうです、私だってそうですから^^;

でも”嫌いな自分”を”認識する事”は”嫌いじゃない自分”を作る事、引いては”好きな自分”を作る為に必要ないわばプロセスなのです。マイナスを知れるからプラスを作る事が出来る

そして以外にも”マイナス”だと思って居た事が”プラス”に作用する場合もある。
それが”認知心理学”の面白い所なのです。

我が同胞はこの”自分の長所と短所を映像に撮る”という行為を経て自分の短所と長所を正確に知るに至りどんどん”自分が今まで知らない自分”を知る事が出来て”嫌いな自分”がどんどん減り”好きな自分”がどんどん増えていきました。

その結果”自信”が付き明るくなりそして”心の余裕”が生まれるようになって来ました。
人間面白い物で”心の余裕”が出てくると辛い状況も前向きに考えられるようになります。

その結果、辛い状況を打破する考えや力も沸いて来る訳です。

先ず”自分の好きな自分””自分が嫌いな自分”を知りましょう。
そしてもっともっと”自分”を増やして生きましょう。

そうすればもっともっと”自分を好き”になれますから^^V

繰り返しの心理学~或いは知覚心理学~

私は人間の喜怒哀楽を一つのローテーションとして同胞に表現させるように普段している。
心疾患の場合、心が機能不全を起こしている訳だから先ず”自らが立ち上がる力”を得なくてはならない。

逆を言えば”自らが立ち上がる力”を得る事が出来れば心疾患は飛躍的に回復する。
自浄作用を高めてあげれば自らが立ち上がる力をより得やすくなるからだ。

その手助けをするのが我々専門職であると私は理解している。

全ての同胞に適用される訳ではないがその際力を発揮するのが”セルフフォトセラピー”。
普段の生活の中で自分で自分を撮る行為は中々有る物ではない。

ましてプリクラを毎日撮ってる女子高生でない限り中々そういう機会には恵まれないだろう。
(そしてプリクラは真実を誇張して表現される為セルフフォトセラピーとしては不適切である)。

だがそれを繰り返す事により”前回の自分”との違いを明確に”目”で知覚する事ができる。
勿論明らかな”違い”を感じて貰わねば意味が無いので喜怒哀楽の間を少し置くようにする。

そして”前回との違い”が明らかになってきた所で頃合いを見計らって”同じ事”を繰り返して貰い”前回との違い”を同胞に診てもらう。

その事によって”自らが回復している事”を目で知覚して貰うのだ。

勿論これは大きな”賭け”でありある程度のリスクを背負っている事は間違いない。
こちらが”知覚”している者を同胞も”知覚”してくれるとは限らないからである。

時には”知覚”されない場合も有るし”知覚の度合い”に更に落ち込む者も居る。
(あんなに頑張ったのにこの程度か…と。)

しかしそういう同胞にも勿論”救いの手”は差し伸べられる。
”これは単なる途中経過、これが最終段階じゃない。途中の経過を見て1歩でも半歩でも進んでいる事を知覚して貰えばそれで結構です。前へ進んでいる事を知覚する事が目的ですから”と申し上げる。

すると大抵の場合”そうか、とりあえず前へ進んでいるのだから良いか”と思うようになる。
そうなれば気持が”前向き”となりより”変化”を御自身で感じていただけるようになる。

自分が変われば勿論”周り”も変わってくる。

嘗て面倒を診ていた我が同胞の場合、同胞の変化に伴い周囲の変化も大変著しくなり、
同胞はその両方で自身の変化と進化を感じる事が出来た、これは相乗効果であった。

心疾患の場合大抵”悪癖”が原因となりそれが”繰り返しの心理学”により脳に摺込まれその結果心疾患をより深刻化させる結果となる場合が殆どである。

ならばその”悪癖”を”良癖”に変えればどうなるだろう?後ろ向きの力を前向きの力へと変えていくのだ。さすれば”良い習慣”が刷り込まれどんどん同胞は回復傾向へ向かっていく。

その手助けをしそれを支えそれを補っていくのが我々専門職の仕事であると私は常考えている。今日も又、そういう同胞に一人出会い私はとても嬉しかった。

二人三脚で頑張ればどんな心疾患も治せる、私はそう信じている。
私はこれからも同胞と共に有りながら共に”完治”という山の遥か彼方にある頂点目指して頑張って生きたいと願っている。

ストレスケアはエイジレスの時代へ

働く30代はストレスケアまで頑張らない!

■「就職氷河期世代」現30代キャリアのストレスとは?

30代は、仕事も私生活も共に最も忙しい時期です。しかし、20代の頃と違ってひたすらに自分のキャリアや可能性にチャレンジできる時期ではありません。 既婚者は家族との生活の都合によって、自分自身の夢や目標を諦めなければいけないことも多いでしょう。また、「人生の正午」とも言える「折り返し地点」が 目前に迫り、やってくる「老い」とどう向き合っていくのか、じっくり考えなければならない時期でもあります。2009年現在、30代を生きている人の多く は、いわゆる「就職氷河期世代」の人たちです。日本経済がどん底にあった頃に就職したこの世代は、能力や活気があっても就職先が見つからずに苦労しまし た。やっと就職した会社でも、景気が悪いことから雇用が不安定で、頑張っても成果を実感しにくく「働きがい」を見いだせない不遇の時代が長く続きました。

■ストレスケアまで頑張りすぎていませんか?

そんななか、根気よく就職難を乗り越えてきた人は、本当に頑張り屋さんです。特に、この世代のバリキャリ女性の根性は相当なものです。睡眠時間を削っても 長時間残業をこなし、人材不足によって若い頃から現場リーダーを任されても、頑張ってこなしてしまいます。ただ、困ったことはその「ガンバリズム」を、自 らのストレスケアにも適用しがちな面があることです。たとえば、無駄な時間を過ごすことができず、終業後や休日にもたくさんの予定を入れてしまいます。そ して、エステ、マッサージ、癒し系スポット、旅行など数々の癒し系サービスを「消費」することで、手軽に癒しを得ようとします。しかし、本当の癒しとは、 その人の「生き方」や「働きかけ」が作用してもたらされるもの。消費による癒しでは、その日の疲れは取れたような気がしても、心の奥が感じている慢性的な 疲労感は解消できないのです。では、働く30代(主に女性)は、どのようなストレス・ケアを目指すべきなのでしょうか?

■働く30代女性は根本的なストレスケアを見直すべし

働く30代は、他の世代と少し視点を変えて、ストレスケアに取り組まなければなりません。その主眼はこれ以上頑張りすぎずに、今の「心の叫び」によく耳を 傾けること。目の前のストレス発散を考えるより、もっと視野を拡げて根本的なストレス・ケアに取り組むことが大事です。たとえば、次のようなポイントを参 考にしてみましょう。

・「ノン・アクティブな日」を設けて、「心の叫び」を聞く
心に漠然とした不安を抱えていると、それを忘れるため、やみくもに日常を忙しくしすぎてしまいがちです。今、自分の心は疲れて悲鳴をあげているかもしれま せん。「何かが違う」「このままではいけない」と感じているのかもしれません。その「心の叫び」を捕えるためにも、月に1度は「ノン・アクティブな日」を 作ってみましょう。癒し系スポット訪問だけでなく、ジム通い、スクール、買い物、友人とのランチなどを一切やめて、一人で家で1日ゆっくり過ごすことで す。その際には、「情報断食」をし、テレビやDVD、インターネットなどの「雑音」を一切断つことが大切です。たとえば、部屋の片付けや掃除をしながら静 かに1日を過ごし、ムクムクと頭に浮かんでくる「考え」を捕えてみましょう。そこに、自分が今一番考えなければいけない課題が潜んでいる可能性がありま す。

■「生活」を無視してストレスケアは成り立たない

対外的な活動である「仕事」のストレスを癒すのは、私的な活動の場である「暮らし」の役目です。つまり「暮らし」の部分にもっと目を向け、日々の生活を充 実させていくことこそ、仕事のストレス解消につながるのです。そもそも、仕事一辺倒の生活が「暮らし」を常に圧迫している場合、働き方そのものを考え直し た方がいいかもしれません。

・1日中いても、居心地の良い環境になっていますか?
・自分が本当に好きなもの、見ていて癒されるものに囲まれて暮らしてしますか?
・捨てるべきものを捨て、すっきりした暮らしになっていますか?
・大好きな家族や友だちと触れ合っていますか?
・季節感のある暮らしができていますか?

 以上の点を見直し、もっと「暮らし」の部分を充実させることで、自分自身のクオリティ・オブ・ライフを包括的に高めていきましょう。

■生活も「新陳代謝」をよくすることが大事

 忙しすぎる働く30代は、私生活が「履き溜め」のようになっていることが少なくありません。そのため、人を招くこともできない住まい、足の踏み場もない部屋になっている人も多いものです。

 仕事では対外的な接触が多いため、私生活では「貝」のようになりたいと思う気持ちも分かります。しかし、本来人生をより良く感じるために必要なのは、私生活の充実があってこそ。私生活こそたくさんの人と関わり、常に心地よさを求めて変化させていく必要があります。

 そのために必要なのは、日頃の暮らしをもっとオープンにすること。休日には人を招いて会食やお茶をし、その話題から着想を得て、ますます生活に新しいエッセンスを取り入れようとする心がけです。

 「貝」のように扉を閉じたままでは、今の状況のまま何も変わりません。ぜひ、重い扉を開けて生活の「新陳代謝」をよくしてみましょう。

【ストレスガイド: 大美賀直子】
この記事では30代を中心に書かれているが実際我が元へ来る患者(以下同胞)を見てみると年齢にかなりのばらつきがあるのが判る

地域別に見ると昔は都会の方が圧倒的に多かったが最近は都会近郊に多い気がする。
又、10年前は50代~40代が圧倒的多数だったが此処数年は60代から10代まで実に幅広い。

重い物で解離性精神障害、軽い物で(決して軽くは無いのだが)境界パーソナリティ障害等が目立つ。摂食障害や対人恐怖症、多重人格障害という人も近年増えている気がする。

鬱病というと最近は割と軽く考えがちだが然に非ず。
鬱から様々な余病を併発する事は決して少なくない。

特に最近は複数の精神疾患を複合的に持っている人が増えてきている。
それは偏に人間関係が更にややこしくなって来ている事が理由の一つとして挙げられる。

個人主義が横行し、秘匿性重視の観点から人との関わりを上手くもてない人が増えてきて
人がわからない、強いては自分が判らないという風にもなる。

”人は自分を映す鏡”である。

人と言う鏡に映る自分を見て人は自分という存在の多面性を知る事が出来る。
決して自分の側からは見る事が出来ない自分と言う存在を人は人を通して知る事が出来る。

だが最近はその”鏡”たる人との接触を持つ事がとても困難な時代である。
故に”鏡を持たぬ個人”が増え、余計自分に対する不安が煽られる事となる。

又、所謂”間違った鏡”を手渡され”自分ってこうなんだ”と思いこされるケースも多々ある。
所謂”擦り込み現象”専門用語で言う所の”インプリンティング”である。

そういう人には私はその鏡を叩き壊し、本当の鏡を渡してあげるようにしている。
そして”貴方の本当お姿はこうなんですよ”という事を教えてあげるようにしている。

我が大学の受講生方々もそういう事を知りたいと欲する人が日に日に増えている。
ご近所の若夫婦の指南役であったりとか施設の指南役で有ったりする人が多く、
”自分とは?他人とは何ぞや”という事を常、思いを馳せる職場は地域にお住まいの方々。

そういう方々の良き指針を示すのも又我々専門職の仕事であると心得ている。

何もストレスケアは30代に限った事では無い。
既に全年齢的に広がりを見せている、つまりこれは社会的病理なのである。

貴方の回りにもしストレスを感じている人が居たら一声掛けてあげて欲しい。
それがその人をストレスと言う名の呪縛から解き放つきっかけとなるからである。

勇気を出して声を掛けてあげる、勇気を出して声をあげてみる。
それがストレス地獄からの脱却の糸口となると私は信じている。

『無知の知』

私事にて新神戸まで参りました。そこで私は”無知の知”を知る事が出来ました。

先ずは”日本の伝統美”に触れ、次に”無償の奉仕精神”に触れそして”最新の病理学と神秘学”について御講義を賜りました。

先ずは日本の伝統美について…私は生まれて初めて”本物の刺青”と言う物を拝見しました。

偶々知人に背中に彫り物をされておられる方が居てその方の”彫り物”を生で見る機会を与えられたのです(勿論私の仕事を兼ねてですが)。

近くでしかも実際にこの手に触れて刺青と言う物を感じたのは生まれて始めての事。
彫り物=危ない系のイメージが日本では浸透しているようですがその方は私とご同業者w

故有って彫り物をされておられたのですが正に”日本の伝統美の真髄”を見た感じがして、
やはり”本物の迫力は凄い”というのが正直な印象でした。

そして何より”本物の持つ美しさ”に強く惹かれて行く自分の存在を感じました。

描かれている図柄が何より美しく躍動感があり正に其処に存在しているかのような存在感を示しそれらが人の呼吸と共に蠢く姿は正にそれが”生きている”事を感じさせてくれます。

オーバーな言い方になるかもしれませんが”名画を見たかのような感動”を覚えました。
昔から彫り物には関心がありTVで見たり雑誌でみたりはしていたのですが図らずも生で本物を見れるとは思っても見ずとても貴重な体験をさせて戴きました。

その後、その方と別れ駅へ向かいました。

駅では女性駅員さんのサポートがありこちらも大変丁寧な応対を戴きました。
とても丁寧な対応に感動しお名刺をお渡しした際とても目が輝かれたのを見逃しませんでした。

聞けば親御さんの介護の為、岡山~新神戸間を毎日通勤されておられるとの事。
新幹線でも30分以上の道のりです、路電なら1~2時間は優に掛る距離です。

その距離を通勤するだけでも充分疲れるのにお仕事が終わったら又介護の為家へ直帰です。まだお若い年齢の方とお見受けし遊びたい盛りだろうなとも思います。
しかし自分を育ててくれた親御さんの事を思うと今は我慢の一字と頑張っておられる。

当たり前の事と一言で片付けるのは簡単です、しかし実際それを実行する事は並みの事では有りません。余程の信念とそして何より愛情が無ければ出来ない事です。

その方の笑顔がとても印象的で忘れられませんでした。
氏に幸あれと思わず願いを込めさせて戴きました。

その後乗車、図らずも福岡大学の病理学研究所の主任さんと同席となりました。
豊かな髭を蓄えられた紳士で既にお酒が入り一寸だけご機嫌のご様子。

我が仕事にもご理解を賜りそこで最新の病理学について拝聴賜りました。
驚いた事は病理学と心理学は密接な関係にあるという事。

例えばお聞きした話をそのままお話しすると目隠しをして”これは漆ですよ”といって水を塗る
その逆で”これは水ですよ”と言って漆を塗る、その結果がどうなると思いますか?

漆を塗った手は勿論被れますがその被れ方が水を塗った方よりも軽いというのです。
これには流石の私も驚きました、私も胃薬を風邪薬と偽って投与し風邪を治した治験の話は存じておりましたがまさか漆にもそれが適用されようとは思っても見ませんでした。

病理学とは火災調査官と同じ、火元を見つけ事前に火事を防ぐのと同じように病変から病理を見つけ原因を探り次の病を未然に防ぐ、正に医学界の”縁の下の力持ち”であると痛感。

わざわざ自費を投じて大阪まで有給を取って勉強会へ行かれる姿勢には只々脱帽です。
”何としてでも患者を救いたい、その一念何です”そう語る氏の目の輝きは正に”本物”でした。

そして今の西洋医学は実存主義に傾倒し過ぎていて”目に見えない存在”について軽視しすぎであるとも説かれておいででした。そこから話は神秘学へ進み神秘学については無学に近い私は只、只管主任のお話に耳を傾けるのみでございました^^;。

2時間のご高説を賜り下車、帰宅後爆睡するに至りそして現在に繋がります。

自らの無知は最初から判っておりましたが昨日の数々の出来事を通して如何に自分が”無知“であったか?を痛感すると共にまだまだ私の知らない多くの事をこれからも多くの方々より学ばせて戴きたい、そして常、学べる自分でありたいと思った一日でありました。