2010年10月23日土曜日

校則の心理学~或いは拘束の心理学~

最近の『校則』はその字が『拘束』になっているような気がしてならない。
一昔前の軍国主義国家ならまだしも戦後50年以上が経過した今も尚
学校が生徒を『拘束』している事態に私はとても嘆かわしい物を感じている。
誰だって”縛られたらそれを解きたくなる”のは自明の理である。
拘束を課している先生自体”拘束”されるのは絶対に嫌だろう。
(それがもし好きなら別の職業に就かれる事を私はお勧めする(笑))
今日もそんな話を仕事先の京都で聞いた。
前髪が目を覆ってはならない、リップクリームを塗ってはならない。
マフラーを付けてはならない…アフォか!と思わずツッコミたくなる。
実際に校則を課している教師はそれを守っているか?
前髪が垂れていないか?ノーメイクで出勤してるか?防寒してないか?
恐らく間違いなく答えは『No』である筈だ。
そして彼ら・彼女らは一様にこういう筈だ。
『我々は教師だから校則の及ぶ範囲外で、生徒はその範囲内だ』と…。
・・・馬鹿か?自分達が守れない校則を生徒に課す程愚かな事は無い。
私は私が守れない事を絶対同胞に課したりはしない。
逆を言えば自分が守れる事は何としても同胞には守って貰う。
常、苦楽を共にし同胞と共に上がって生きたいと私は考えている。
数年前の話となるが学校と教育委員会を相手取って勝負に出た事がある
その学校もアフォな校則のお陰で生徒が心を病んでしまったからだ。
私はその生徒の心疾患の原因が無意味な校則のせいであるという事を証明しそれを改善しなければ民放五社の株主としてこの事をマスコミに大きく取り上げて貰い貴方方の地位を貶める覚悟が有ると脅しを掛けた。
相手は勿論反論したが私が”本当に民放五社の株主”という証明を出すと態度は一変した(笑)態度は軟化し校則のレベルを落す約束を取り付けた。
勿論我が同胞たる生徒は大喜び、その他の生徒もとても喜んでくれた。
すると面白い事に自主的に彼ら・彼女らは校則を守り始めたのだ。
『北風と太陽』の話を思い出して欲しい。
一生懸命北風が風を吹きつけても旅人は決してコートを脱がなかった。
しかし太陽が旅人を暖かく包み込むと旅人はコートを簡単に脱いだ。
是と同じことである。
自主性とは”縛り付ける事”で伸ばす物ではない。
自主性とは”自己の尊厳を尊重する事”で自ずと延びていく物だ。
来京を通じ今日はそういう事を深く考える機会に恵まれた。
と言う事で『京都探訪記』は又後日<(_ _)>

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