2010年10月24日日曜日

『間』の心理学~或いは東洋心理学~

一般的に認知されている『心理学』という言葉の持つイメージはユング・フロイトだったり
ロジャースだったりと西洋人が圧倒的に多い。

結果的に心理学もどうしても”西洋的”な思考に偏ってしまいます。

しかし東洋、取り分け日本に於いても児童心理学の権威、河井隼雄先生や、教育心理学の権威、多胡輝氏など名だたる方々が居られる。

そして今回の表題となる『間』という概念も恐らく西洋心理学崇拝者には理解が難しい物であろう。

私は洋の東西を問わず良い物は良い、悪い物は悪いとし良い物は取りいれ、悪い物は排除して行く考えの人である。

~主義だの、~イズムだのという概念は私には残念ながら無い^^;。
敢えて挙げるならば”俺主義、俺イズム”ですかね(笑)

閑話休題

日本人は”間”をとても好む人種であると思う。
例えば日本庭園に於ける”遊び石”なんぞはその典型と言わねば成らない。
所謂”遊び石”は機能性はゼロだがワンポイントを置く事により”庭に統一性”を持たせる大きな役割が有る。

日本家屋に於いても床の間の”遊び”やそこかしこに”機能的ではない空間”という物が沢山有る。
恐らく機能性を重視する西洋人には”ワット?”という世界であろう。

日本人の精神…侘び寂びは中々日本人以外には理解は難しいと思う。
と、同時に日本人の”心”にも同じような物がある。

良く日本語として使う言葉の一つに”行間を読む”という言葉がある。
文字として書かれて居ない作者の”心”を行と行の”間”に読み取れという事である。

これも中々日本人以外の方には中々理解は難しい事だと思う。

そしてこの”間”を読む事は心理学者には尤も必要なスキルである。
全ての同胞が”全ての事”を話してくれるとは限らない。

勿論なるべく”全てを話させる”事も我々には必要なスキルの一つである。
しかしそれには膨大な時間と労力が掛かりそれは術者も被験者も相当大変である。

故に言葉と言葉の間にある”間”を我々は察知する。
その”間”の中に”言外の真意”を読み取る訳である。

言うは易いが行うはこれが中々にして難い。

言葉に相当注視していても一瞬の”間”を見逃してしまう事も有る。
だが、そのほんの一瞬の”間”を見逃してしまったらそれこそ今までの苦労が水の泡。

故に我々専門職に有る人間は同胞の言葉の一言一句、その裏の意味、そしてその間にある”間”をも注意深く観察し、同胞の”心”を読み取っていかねばならない。

全てを理論付け全てを系統立てて考察する西洋心理学との一番の違いが此処にあると私は思っているし他の心理学者と私の一番の違いも私は此処に有ると思っている。

良く同胞が私に言う言葉。

”今まで誰にも私の気持を理解して貰えなかった、時々、本当に私の方がおかしいのかなって思ってました。でも先生は私の”気持”を、”本当の気持ち”をちゃんと理解してくれた。私が今までやってきた事が間違いじゃなかったって教えてくれた。本当に有難う”と…。

同胞は周りから大抵”おかしい、おかしい”と言われ続けた人達である。
でも本当におかしいのは同胞ではなく彼ら・彼女らをおかしくさせた”回り”である。

彼ら・彼女らはそんな”無理解な周囲の犠牲者”である。

ならば私が彼ら・彼女らの”一番の理解者”になればよいだけの話です。
私はこれからも彼ら・彼女らの”一番の理解者”として多くの方と病克服へ向け粉塵努力していく所存であります。

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